直球和館

2025年

2014/01

◆14代 蜂須賀茂韶  13代蜂須賀斉裕の子
1846-1918 71歳没





1874年 35歳
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3004





■前妻 蜂須賀斐子 親族蜂須賀隆芳の娘 離婚


■後妻 徳川随子  水戸徳川慶篤の娘
1854-1923 69歳没


イギリスで 茂韶&後妻随子
3010


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●庶子 蜂須賀正韶 15代当主


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◆15代 蜂須賀正韶 14代蜂須賀茂韶の子
1871-1932 61歳没




3001



■妻  徳川筆子  将軍徳川慶喜の娘
1876-1907 31歳没

3002









●男子 蜂須賀正氏  16代当主

●女子 蜂須賀年子  松平康春子爵と結婚離婚・デザイナー
●女子 蜂須賀笛子  松田正之男爵と結婚
●女子 蜂須賀小枝子 佐竹義種子爵と結婚


左から 正氏 随子夫人 年子 茂韶 笛子 正韶 小枝子
3003(1)


左から 正氏 小枝子 笛子
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●蜂須賀年子


1925-1007



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◆16代 蜂須賀正氏 15代蜂須賀正韶の子*1945年爵位返上
1903-1953 50歳没

*北白川宮美年子女王と婚約していたが、破談となった。

*アフリカ探検や女性関係に湯水のごとく金を使い、父正韶が死んだ時には約100万円の負債があることが判明した。




3005(1)


3005(2)



■妻  永峰智恵子 日系アメリカ人 
1909-1996 87歳没


●長女 蜂須賀正子


*正氏の死後、正氏の姉蜂須賀年子と智恵子未亡人と間で財産争いが続く


1982年 右から3人目 蜂須賀智恵子
19820026

■熊本藩 江戸屋敷
1003


■東京本邸 小石川区高田老松町 敷地3万8千坪・建物1,000坪
1015(2)


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■東京別邸 麹町区麹町
1015(3)


■朝鮮農場 2,005町
1017(1)


■熊本山林 1,958町

■熊本農場 1,475町

■1877年 細川侯爵家の御殿女中
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◆11代 細川斉護 宇土藩主細川立之の子・養子になる
1804-1860 55歳没


■妻  浅野益子  広島藩主浅野斉賢の娘
1801-1875


●庶子 細川韶邦  1835年生 12代当主
●庶子 細川護久  1839年生 13代当主
●庶子 細川承昭  1840年生 津軽承昭伯爵となる
●庶子 細川護美  1842年生 長岡護美子爵となる

●実娘 細川勇子/常子 1834年生 福井藩主松平春嶽と結婚


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◆12代 細川韶邦 11代斉護の子
1835-1876 40歳没


■妻  三条峰子  公家三条実万の娘
1837-1895 58歳没


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◆13代 細川護久 12代韶邦の弟/11代斉護の子 最後の藩主
1839-1893 


■妻  鍋島宏子  佐賀藩主鍋島直正の娘
1851-1919 68歳没


●実子 細川護全  1881年生 長岡護美子爵の養子になり長岡護全となる
●実子 細川護晃  1882年生 細川護晃男爵となる
●実子 細川護立  1883年生 15代当主

●庶子 細川護成  1868年生 14代当主

●実娘 細川悦子  1877年生 一条実輝公爵と結婚
●実娘 細川猶子  1879年生 早逝

●庶女 細川嘉寿子 1869年生 細川興生と結婚
●庶女 細川宣子  1871年生 松平直亮伯爵と結婚
●庶女 細川志津子 1872年生 阿蘇惟孝男爵と離婚


宏子が輿入れしてみると護久はすでに側室との間に嫡男護成があったので、
輿入れの責任者であった鍋島側の家臣大隈重信が激怒した。


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寺島雅子 細川護立の娘・寺島宗従伯爵の妻 

父護立は四男でした。
長男は護成といって侯爵家を継いだのですが、生母がお局さんだったのです。 
祖母の宏子が鍋島家からお嫁に来た時、すでにオムツが干してあったそうです。
鍋島からついてきた大隈重信が「すでに赤ちゃんがいるのなら帰る」と言ったのですが、
祖母は「いえ、私は細川家に嫁に来たのです」と言って止めたそうです。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

<細川悦子と久邇宮邦彦王の婚約解消>

1924年9月16日
※東久邇宮聡子妃の発言

久邇宮邦彦王の妃は細川侯爵家より行かるるはずになりおりたるところ、久邇宮家より故障を言われ遂に解約となり、その婦人悦子は一条実輝の妻となれり。
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◆14代 細川護成 13代細川護久の子
1868-1914 45歳没


■妻  戸田孝子  戸田氏共伯爵の娘
1877-1964 87歳没


●長女 細川英子  1902年生 長岡護孝子爵と結婚


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◆15代 細川護立 13代細川護久の子
1883-1970 87歳没


■妻  池田博子  池田詮政侯爵の娘
1889-1967 78歳没


●長男 細川護貞  1912年生 16代当主

●長女 細川敏子  1913年生 学習院出身 葛城茂麿伯爵と死別・中島昭吉と再婚
●二女 細川雅子  1916年生 学習院出身 寺島宗従伯爵と結婚
●三女 細川泰子  1925年生 学習院出身 松井明之男爵の子松井祥之と結婚


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細川護貞 細川護立侯爵の子 

父は貴族院議員を務めたが、生涯政治的なものには関わろうとしなかった。
独特の勘と鋭い目で、人物や品物の本質を見抜いた。
芸術的な物がよくわかった人だった。

父は昔から馬鹿だ馬鹿だというのが口癖の人で、ことに私に対してはしょっちゅうだった。
「これからお謡のお稽古をして参ります」と言うと、
いきなり「馬鹿、しっかりやらんと承知せんぞ」とカミナリが落ちた。
何事か分からないまま立ち尽くしていると、「馬鹿、早く行け!」という調子である。
中学4年で成績が十数番に上がり、ビックリしているうちに5番以内に入ってしまった。
家庭に親父に「馬鹿だ、馬鹿だ」と叱られすっかり自信をなくしていたが、自分が馬鹿でないことを悟ったので、子供は「馬鹿だ、馬鹿だ」と叱るものではないように思う。

母は父と対照的でおとなしく、典型的な昔風の女性だった。
意見とかはまったく持たない人だった。
母から怒られるというのは、父が怒ってそれを取り次いでいるとしか思えなかった。
母は家父長制のもとでの夫唱婦随を見事に演じた人だった。
手先が器用で晩年あらゆる手芸をやり、また鼓・太鼓・三味線もなかなか上手かった。
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寺島雅子 細川護立侯爵の娘・寺島宗従伯爵の妻

父護立は軽井沢の開発者なのです。
大正4年に野沢組から何ヘクタールという広さの土地を買いました。
野沢組は大きい区画でないと土地を譲ってくれなかったのです。
徳川慶久さんと二人で「お前はこっちが良いか、そっちが良いか」と土地を分けて、〈あめりか屋〉に家を建てさせました。
ですから初めのうちは境界線も何もなかったのです。
ですから隣の徳川別邸にはしょっちゅう遊びに行きました。
子供の頃高松宮の喜久子妃と行ったり来たりして、鬼ごっこや隠れんぼをして遊びましたよ。

宮様から少し結婚話があったのですが、私がどうしても宮様は嫌でしてお断りしていたのです。
何となく窮屈そうで嫌でした。
宮家の方は公爵・侯爵の方から順番にお選びになりますから、私どもに話があるのですね。
お嫁に行っていろいろお食事を作ったり、お世話したりするなんて面倒臭いと思っていました。
父が両親も早く亡くなっているし、お前にも務まるだろう」と言って探してくれました(笑)
主人はたった一人で家にいたのです。
お姉様は安田財閥の安田岩次郎さん、妹は三井財閥の三井高大さんとそれぞれ結婚して、お金の心配はありません。
ですから私はお姑様に務めた事はないのです。
初めから気楽でした。
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『岡部長景日記』文部大臣※当時は貴族院議員

1930年12月26日
細川護立君を訪問。
食後自動車で蔵の方へ昇り、細川侯爵家所蔵の古陶器類を拝見する。
いずれも完全な品ばかりで、日本で有数なるコレクションである。
室外に石仏十余点も陳列されてあり、寒くはあったが感嘆の他なかった。
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『高松宮日記』

1934年6月1日
殿様〔細川護立侯爵〕が見送りに来ていてメロンの籠をくれた。
車が発してから見たらソラマメがつめてあったので、知らないでもらって残念なりと悔しがる。
〔高松宮夫妻は細川侯爵にソラマメというあだ名をつけていたので細川侯爵がいたずらをした〕
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

<細川泰子を妻に望む三笠宮崇仁親王>

1953年9月14日
昭和天皇「三笠宮は神がかりと言うか、デタラメで夢見たようなことを言う癖がある。御結婚問題の時も学習院の門で会ったとかいうわけで、細川の娘で松井に嫁している人〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕と結婚したいと言われて、いろいろ調べたが時間が合わない。全く夢見たように門で会ったなどと言われる。自分で思うと何でもそれにくっつけるというか」
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細川護貞 近衛文麿の娘婿

原田熊雄男爵は父とも親しくしておられた。
あるひ原田さんから「君の親父が君の妹の相手を探せと言っているが、どんなのがいいのかね」と言われ、候補者の名を2~3人挙げられた。
「その中の一人を父が望んでいる」と告げると、
原田さんは笑って「あんなものでよければ簡単だ。砂利を拾うようなものだ」と言って、その家の世話をしている老人をすぐに電話で呼び出された。
「来たら隣の室で待っていたまえ。そこなら話も聞こえるから」と言われた。
15分ほど経って老人が現れ、原田さんと大声でやり取りがあった。
私はその一部始終を聞くことができた。
老人は「願ってもないことだ」と喜んで帰った。
原田さんは私に「砂利を拾うほどの努力もいらなかったな!」と喜色満面であった。
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◆16代 細川護貞 15代細川護立の子
1912-2005 93歳没


■前妻 近衛温子  近衛文麿公爵の娘・死別
1918-1940 22歳没


■後妻 松井薫子  松井明之男爵の娘
1925-2006 


●前妻の子 細川護熙 1938年生 17代当主
●前妻の子 細川護輝 1939年生 近衛忠輝となる 三笠宮甯子内親王と結婚

●後妻の子 細川明子 1946年生 茶道家千宗左と結婚


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細川護貞 近衛文麿の娘婿

私は中学1年の時色弱ということがわかって、家の者から「どう見える、どう見える」としつこく聞かれ、ノイローゼのようになったことがあった。
そこで私は色盲の検査表を丸暗記した。
木や花を色ではなく形を通して覚えた。
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野口昭子 近衛文麿公爵の娘・細川温子夫人の姉

銀座で落ち合うこともあったが、そんな時の妹は黒のトーク帽をちょっと斜めにかぶって、赤いスカーフをちょっとのぞかせた黒いコートを見事に着こなしていた。
私よりもオシャレで明朗闊達で、誰からも〈オンちゃん〉と愛されていた。
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寺島雅子 細川護立侯爵の娘・寺島宗従伯爵の妻  

兄の護貞は近衛温子さんとゴルフでミックスを組んでいたのですが、お互い好きになって結婚しました。
兄は真面目で怖かったけれど、〈オンちゃん〉と知り合いになってからはすごく良くなりました。
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細川護貞 近衛文麿の娘婿

近衛文麿さんと父護立は、父の方がかなり先輩だったがお互いかなり親しくしていた。
私も長男の文隆君とは幼なじみで、妹温子とは子供の頃から一緒に遊んだ。
その文隆君がアメリカ留学から一時帰国し、横浜港へ出迎えに行ったら温子も来ていた。
彼女は13歳、私は19歳。その時彼女はいつもと違う印象だった。
「非常に明るくていい子だな」と思い、結婚を意識した。
文隆君が滞在している間一緒に付き合い、交際していくうちに両方で好きになった。

どうしても結婚したいということになり母に話してみると、
「それはダメだろう。もうお相手が決まっていると聞いている」と言う。
しかもそれは宮様だと言うではないか。
「あきらめた方がいい」と母はつれなかったが近衛さんに確かめてみようと思い、
彼女を通じて聞いてもらったら「そんな事はない」と言うので安心したのだった。
その時「ダメだったらどうしようか」と言うと、
彼女は「なに、駆け落ちすればいいよ」と簡単に言う。
そう言って二人で笑った事があったが、本当に明るく積極的な人だった。

明るく現代的な人だけに、突然結核で亡くなった時には非常なショックを受けた。
温子との結婚生活はわずかに4年しかなかった。再婚したのは5年後のこと。
話はずいぶんあったが何しろ多忙で、しかも二人の子供がいて再婚していいか迷っていた。
家内の薫子は遠い親戚筋で、細川家の筆頭家老の家だった。
子供の頃から知っており年はちょうど一回り下で、戦争中でもあり京都でほんの身内だけの式を挙げた。
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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従

私の受けた印象では、陛下の悩みの種は主として陸軍だったようです。
侍従武官長の宇佐美中将が御前に出ている時に、陛下がちょっと激しい調子で御話になるのを耳にしてしまったことがありました。
二二六事件の時の武官長は本庄繁大将で私が3月20日に侍従になって三日間ほどで退官、宇佐美中将が新たに就任したのです。
宇佐美さんが拝謁している時に、「壬申の乱のようなことになる」という意味の事を大声で申されたのが聞こえました。
秩父宮を担ごうとする陸軍の運動があったと仄聞していたので、それに関連することだなと思いました。
秩父宮が多少激しい御性質の方だということは私も心得ていました。
それをまた陸軍の青年将校が担ごうとするのです。
おそらく宇佐美武官長は陛下に対して、秩父宮の意見もいろいろ聞いてほしいと言ったのではないでしょうか。
それで陛下が壬申の乱というような例を持ち出されたのだと思います。
ところが宇佐美武官長は「はあ」とか言って、壬申の乱が何なのかわからない様子でした。

秩父宮のようなお直宮が陛下に会われるのは奥の方になります。
当時秩父宮は陸軍の佐官でしたから、御兄弟として来られるだけで軍事上の奏上はできません。
陸軍では皇族を金枝玉葉の御身分などと言いますが、それも陛下にとってはプライベートな関係だけになります。
朝香宮殿下が陸軍内のことに触れ、叱られて退出されたこともあります。
階級は大将でも軍事参事官で、上奏する立場ではなかったのです。
陛下はそうした公私の別を固くお守りになりました。
陸軍の過激な将校は、この点の認識が足りません。
勝手に思い入れをしていたのです。
高松宮に対しても細川護貞君が懸命にネジを巻いたようですが、高松宮はそれを受け入れず、秩父宮・高松宮両殿下とも、この点ははっきりと身を処せられました。
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『高松宮日記』

1937年4月20日
細川護貞の結婚披露あり華族会館へ行く。
お嫁さんは近衛公爵の次女温子。
はじめは半ば恋愛だったので婚約したのが、お嫁さん少しお転婆すぎるので仲たがいしかけたのを、またそのために大急ぎというわけか式をしてしまった。
まったく花嫁らしくない。
貞ちゃんがうまく続けられればよいがという感じなり。

1940年8月11日
新聞を見ると、細川の温ちゃん〔細川護貞の妻近衛温子〕とうとう逝く。
結婚の御披露で初めて向き合って座ったようなものだったが、貞ちゃんのお嫁さんというのでよそよそしい感じをしなかった。
以来、会ったのは2~3度か。
それでこないだ細川邸へ行った時ももう寝ていて会えなかったのが寂しい気がしたのに、まったく幽明ところを異にすという気持ちがひしひしとする。
またあの顔が見られるのじゃないかと夢のようであり、見られないと思うと細川家ではわがままな奥さんであったかもしれぬが、他人には面白い懐かしい思い出しかない。

1940年9月11日
北白川宮で葛城様の敏様〔細川温子の義妹葛城敏子・葛城茂麿の妻・細川護立侯爵の娘〕に会う。
温ちゃんの最期は意識不明で安らかだったが、一カ月も前に遺言してにぎやかにしてくれとのことで、お通夜もにぎやかだったそうな。
雅ちゃん〔細川雅子・葛城敏子の実妹〕転地しているのだそうなと聞いたら、そんなことはないしノンキにして元気だとのことだった。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1952年10月24日
昭和天皇◆『サンデー毎日』に細川護貞の書いたものが載ってるが。〔『高松宮と東条英機』〕
田島長官◆式部官長松平康昌がいつか細川が何か書くということを申しておりましたようでございます。
昭和天皇◆だいたい近衛文麿の弁護のような気がする。
そして事実相違の点もある。
元内大臣木戸幸一に対抗しているようにも思うが、真相と違うこういう種類のものを世の中で信じて誤解の結果になることは困ったことだと思う。
そうかといって私が反発するとか訂正するとかもちょっとおかしいし、黙っておれば誤解を人に与えるし、ジレンマで真に困る。
例えば海軍大臣嶋田繁太郎の辞職と、陸軍大将朝香宮鳩彦王・陸軍大将東久邇宮稔彦王の拝謁したことと結びつけてあるなどは事実と違う。
この両宮と会ったこととは全然関係ない。
軍政と軍令との関係の問題はすでに決定済であったし、陸海統一の軍令のことは、私は人を得れば結構な案だが陸海ともに自分と違った所から出て喜んで服するというような人が果たしてあるかというような意見を言ったのである。
戦争に至る宣戦布告なども1941年11月5日の御前会議で決めたことであるが、何か突如私が宣戦を布告したとも思えるような所もある。
どうしたものだろうか。
田島長官◆陛下御自身の御回想を残しますことは、陛下百年の後 御真意がわかることかと存じます。
そのことは東宮教育参与小泉信三が喜んで致しますと申しておりましたゆえ、御祝事でも済みましたらお願いしたいと存じます。
高宮太平の『天皇陛下』という本やいろいろな物に出てますことについてお伺いして、真相を記録することであります。
とうてい今すぐ公表はできませんが、残すことは必要と存じます。
昭和天皇◆『木戸日記』は結論だけを突如として書いてあるだけでそれに至る経歴来歴が書いてなくて物足らぬし、『原田日記』は経過ばかり書いてあってその経過がどう着いたか少しもわからぬ。
田島長官◆まさにその通りで、『原田日記』は年表と対比して読む必要があります。

1953年1月27日
昭和天皇◆新聞の広告に細川護貞の『情報天皇に達せず』が出ているが、序文を志賀直哉や武者小路実篤のような人が書いているのはちょっと困る。
田島長官◆細川は近衛文麿に近い人で木戸幸一にはあまり同感でないらしく、木戸が東条英機を支援しました形で、陛下が特に東条内閣を倒すことをされなかったという風な気持ちのものかと存じますが。
昭和天皇◆私は田中義一内閣の時にはっきりやって立憲君主としてはどうかということも考え、東条のやり方についてもどうかと思う点はあっても、私が内閣を主導的にかえるということはせぬの方が良いと思っておった。
海軍はあの時マリアナの大砲などブーゲンビルの方へ持って行って、マリアナは全然空になってたような状況であって、東条内閣が倒れてもできたのは小磯国昭内閣のようなものであったように、次にできるものを考えなければ倒すということはいえぬ事だ。
田島長官◆たとえ何が書いてありましても、陛下があれは事実だ事実でないなどと仰せになる必要はないと存じます。
それよりも後世のために『原田日記』でも『木戸日記』でもこの本でも、誤りや実情を御指摘いただいた記録を宮中に保存することは必要かと存じます。
拝見仰せつけられましたあの御手記の他に、元侍従長大金益次郎が伺ってましたように、東宮教育参与小泉信三も喜んでさせていただきますと申しておりますゆえに、次々出ます記録類を取り上げて、これに関する陛下の御記憶を書き記すことは必要かと存じまする。

1953年1月28日
田島長官◆細川護貞の本は八分通り読みましたが、細川は自分の考えばかりを考える流儀で、よそのことをあまり考えぬ書き方であります。
海軍の人の会合・陸軍中将酒井鎬次・元情報局総裁伊藤述史という人間などの話でありますが、細川としては近衛の弁護で木戸・東条に反感あり、陸軍中将柳川平助内閣案のような動きをしており、テロも賛成のような口ぶりもあります。
式部官長松平康昌は当時内大臣秘書官長でこんな方面に関係ありましたゆえ、この事を話し細川の人物のことなども話し合いましたが、あれは高松宮情報とか言うので評判でありますが、ああいう一方面だけの秘話というような本はたくさんありますそうで、そう御気に遊ぶことはないかと存じます。松平康昌は近衛は後継内閣の時に東条がいいと申しましたと申しておりましたが。
昭和天皇◆私も聞いたよ。
田島長官◆近衛は細川などに決してこういう事は漏らしませぬ。
あの本の上でも高松宮の御言葉は非常に慎重で、細川が東条内閣を倒すというようなことを申しますと、それはいいが後はどうするというような調子であります。
昭和天皇◆そうだよ。高松宮はまずいことを外部には仰せにならぬ。
田島長官◆志賀直哉の序文は『後のためとにかく有益だろう。記憶はあてにならぬゆえ、こんなものがいろいろあって正確なものができる』というような書き方で、全面的にこの本を褒めているわけではありませぬ。
武者小路の方は少し褒め加減で、『局外の者には今まで知られなかった消息が知れて』というような書き方でありますが、『真否は別にいろいろな人物が出てくるので面白い読み物だ』というような意味であります。
いずれにしましても大して御気に遊ばすことはなく、今後も自分の知る一方的なものは出ましょうが構う必要はなく、それより陛下御自身の御記憶を記録することが必要と存じます。
昭和天皇◆今はちょっと忙しいけれど、それはまたやらなければ。
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◆17代 細川護熙 16代細川護貞の子 総理大臣 
1942年生


■妻  上田佳代子 上田正平の娘・大学のゴルフ部の後輩・1971年結婚
1942年生


●長男
●長女
●二女

◆11代 細川斉護 宇土藩主細川立之の子・養子になる
1804-1860 55歳没


■妻  浅野益子  広島藩主浅野斉賢の娘
1801-1875


●庶子 細川韶邦  1835年生 12代当主
●庶子 細川護久  1839年生 13代当主
●庶子 細川承昭  1840年生 津軽承昭伯爵となる
●庶子 細川護美  1842年生 長岡護美子爵となる

●実娘 細川勇子/常子 1834年生 福井藩主松平春嶽と結婚


●細川承昭 津軽承昭伯爵となる



●細川護美 長岡護美子爵となる

モントリオールで
1026(2)



●細川勇子/常子 福井藩主松平春嶽と結婚



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◆12代 細川韶邦 11代細川斉護の子
1835-1876 40歳没


■妻  三条峰子  公家三条実万の娘
1837-1895 58歳没






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◆13代 細川護久 12代細川韶邦の弟/11代細川斉護の子 最後の藩主
1839-1893 


■妻  鍋島宏子  佐賀藩主鍋島直正の娘
1851-1919 68歳没





宏子夫人
1015(1)





●実子 細川護全  1881年生 長岡護美子爵の養子になり長岡護全となる
●実子 細川護晃  1882年生 細川護晃男爵となる
●実子 細川護立  1883年生 15代当主

●庶子 細川護成  1868年生 14代当主

●実娘 細川悦子  1877年生 一条実輝公爵と結婚
●実娘 細川猶子  1879年生 早逝

●庶女 細川嘉寿子 1869年生 細川興生と結婚
●庶女 細川宣子  1871年生 松平直亮伯爵と結婚
●庶女 細川志津子 1872年生 阿蘇惟孝男爵と離婚



左から 猶子・宏子夫人・悦子・護全・護晃・護立
2003


左から 宣子・嘉寿子・志津子


左から 宣子・志津子・嘉寿子
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左から 猶子・悦子


左から 悦子・猶子


左から 護晃・護全・護立



●細川悦子 一条実輝公爵と結婚
2004(1)



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◆14代 細川護成 13代細川護久の子
1868-1914 45歳没






■妻  戸田孝子 戸田氏共伯爵の娘
1877-1964 87歳没




●長女 細川英子 1902年生 長岡護孝子爵と結婚


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◆15代 細川護立 13代細川護久の子
1883-1970 87歳没






■妻  池田博子 池田詮政侯爵の娘
1889-1967 78歳没






●長男 細川護貞 1912年生 16代当主

●長女 細川敏子 1913年生 学習院出身 葛城茂麿伯爵と死別・中島昭吉と再婚
●二女 細川雅子 1916年生 学習院出身 寺島宗従伯爵と結婚
●三女 細川泰子 1925年生 学習院出身 松井明之男爵の子松井祥之と結婚


1923年 左:雅子7歳 右:敏子10歳
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左から 雅子・博子夫人・泰子・護貞・護立・敏子


左から 博子夫人・雅子


1939年
立つ8人左から
細川護貞・南部利英・佐野常光・細川敏子・細川護立・松井綾子夫人・細川利寿・松井明之
中列3人左から
細川雅子・護貞の妻細川温子・敏子の夫葛城茂麿
座る6人左から
護成の妻細川孝子・長岡護孝の義母長岡知久子・長岡護孝・長岡英子夫人・一条悦子・護立の妻細川博子
床は細川泰子
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●女子



●細川敏子 葛城茂麿伯爵と死別・中島昭吉と再婚



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◆16代 細川護貞 15代細川護立の子
1912-2005 93歳没






■前妻 近衛温子 近衛文麿公爵の娘・死別
1918-1940 22歳没




■後妻 松井薫子 松井明之男爵の娘
1925-2006 


●前妻の子 細川護熙 1938年生 17代当主
●前妻の子 細川護輝 1939年生 近衛忠輝となる 三笠宮甯子内親王と結婚

●後妻の子 細川明子 1946年生 茶道家千宗左と結婚


左から 故温子夫人・護熙・護貞・護輝
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◆17代 細川護熙 16代細川護貞の子 総理大臣 
1942年生


■妻  上田佳代子 上田正平の娘・大学のゴルフ部の後輩・1971年結婚
1942年生


●長男
●長女
●二女


1983年の写真 2000年の記事
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1992年
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1993年
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1994年
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1994年
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1994年
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1994年
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1994年
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19940326


1998年
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■東京本邸 豊多摩郡千駄ケ谷町原宿 

■東京本邸 麻布区市兵衛町


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◆13代 池田慶栄 金沢藩主前田斉泰の子
1834-1850 15歳没


■妻  池田聡子/延子/整子 鹿奴藩主池田仲律の娘 
1834-1879 45歳没


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◆14代 池田慶徳 水戸徳川斉昭の子・弟は将軍徳川慶喜
1837-1877 39歳没


■妻  池田寛子/定子/楽子/敬子 鳥取新田藩主池田定保の娘
1842-1872 30歳没


●庶子 池田輝知 15代当主


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◆15代 池田輝知 14代慶徳の子
1861-1890 29歳没


■妻  鍋島幸子 佐賀藩主鍋島直正の娘
1861-1927 66歳没


●二女 池田亨子 婿養子を迎え16代当主とする
●三女 池田厳子 南部利淳伯爵と結婚


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◆16代 池田仲博 将軍徳川慶喜の子徳川博・婿養子になり仲博と改名する
1877-1948 70歳没


■妻  池田亨子 15代輝知の娘 
1884-1923 39歳没



●長男 池田輝理 1896年生
●二男 池田徳真 1904年生 17代当主
●三男 池田博久 1905年生 朽木綱博子爵となる
●四男 池田博正 1911年生 荒尾博正男爵となる

●長女 池田幹子 1902年生 一橋徳川宗敬伯爵と結婚
●二女 池田謙子 1907年生 池田清就子爵と結婚
●三女 池田静子 1908年生 西郷従徳侯爵の子西郷従吾と結婚
●四女 池田温子 1910年生 水野忠款子爵と結婚


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慶喜の息子たちはみな慶喜に似て趣味人で、趣味の範囲が広い。
しかし慶喜と同じく趣味であろうと女であろうと、対象に凝りすぎ没頭しすぎる傾向があった。
仲博は俳句に凝り、自宅に高浜虚子を招いて教えを請うたり、父の徳川慶喜までも巻き込んで句会を開くほどハマっていたが突然やめた。
次に謡を始めたが、妻はもちろん使用人に至るまで謡をやらされた。
また剣道や野球も好きで、仲博が声をかけると「お殿様がお呼びだ」と、邸内の使用人や使用人の子供はもちろん近所の住人まで駆けつけなければならなかった。
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徳川幹子 池田仲博侯爵の娘・一橋徳川宗敬伯爵の妻

父池田仲博はヨーロッパに渡航し、2年間お医者さん・通訳と3人で連れ立って文字通りの殿様旅行をしてきました。
大の外国好きの父はでかける時にはいつも洋装で、和服で出かけたのは謡の時くらいしか見たことがありませんでした。
女物は大正になってからで、女物のお店はもちろんありませんから、私たちはいつも着物でした。
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◆17代 池田徳真 16代仲博の子
1904-1993 89歳没


*戦時中「日の丸アワー放送」を担当


■妻 朽木美智子 朽木綱貞子爵の娘 
1907年生


●長女
●二女
●三女

◆13代 池田慶栄 金沢藩主前田斉泰の子
1834-1850 15歳没


■妻  池田聡子/延子/整子 鹿奴藩主池田仲律の娘 
1834-1879 45歳没




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◆14代 池田慶徳 水戸徳川斉昭の子・弟は将軍徳川慶喜
1837-1877 39歳没




■妻  池田寛子/定子/楽子/敬子 鳥取新田藩主池田定保の娘
1842-1872 30歳没




●庶子 池田輝知 1852年生 15代当主


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◆15代 池田輝知 14代慶徳の子
1861-1890 29歳没

1879年 22歳
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■妻  鍋島幸子 佐賀藩主鍋島直正の娘
1861-1927 66歳没

池田輝知&鍋島幸子
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●二女 池田亨子 1884年生 婿養子を迎え16代当主とする
●三女 池田厳子 1885年生 南部利淳伯爵と結婚


後列左から 幸子夫人 仲博
前列左から 亨子 厳子



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◆16代 池田仲博 将軍徳川慶喜の子徳川博・婿養子になり仲博と改名する
1877-1948 70歳没









■妻  池田亨子 15代輝知の娘 
1884-1923 39歳没



左から 幸子夫人 亨子夫人 仲博 厳子 先代輝知生母/側室野本田浪子
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●長男 池田輝理 1896年生
●二男 池田徳真 1904年生 17代当主
●三男 池田博久 1905年生 朽木綱博子爵となる
●四男 池田博正 1911年生 荒尾博正男爵となる

●長女 池田幹子 1902年生 一橋徳川宗敬伯爵と結婚
●二女 池田謙子 1907年生 池田清就子爵と結婚
●三女 池田静子 1908年生 西郷従徳侯爵の子西郷従吾と結婚
●四女 池田温子 1910年生 水野忠款子爵と結婚


後列6人左から 博久 幹子 仲博 亨子夫人 徳真 謙子
前列4人左から 温子 博正 幸子夫人 静子
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1920年 左から 静子12歳・幹子19歳・温子11歳・謙子14歳
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左から 徳真 温子の夫水野忠款子爵 篠遠喜人



●池田謙子 19歳 池田清就子爵と結婚
3000



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◆17代 池田徳真 16代仲博の子
1904-1993 89歳没


*戦時中「日の丸アワー放送」を担当


■妻  朽木美智子 朽木綱貞子爵の娘 
1907年生








●長女
●二女
●三女

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