直球和館

2025年

2014/02

◆29代 佐竹義睦 28代佐竹義厚の子
1839-1857


■妻  山内悦子 高知藩主山内豊資の娘
1840-1916




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◆30代 佐竹義堯 中村藩主相馬益胤の子・婿養子になる 最後の藩主
1825-1884

1879年 56歳
0056b





■1番目の妻 佐竹多喜子 久保田新田藩主佐竹義純の娘
1827-1849


■2番目の妻 藤堂増銘子 久居藩主藤堂高聴の娘 
1859年没


■3番目の妻 青山氏   丹波篠山藩主青山忠良の娘


●男子 佐竹義生 33代当主

●女子 佐竹雅子 男爵佐竹義脩と結婚
●女子 佐竹鐶子 子爵佐竹義理と結婚


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◆32代 30代佐竹義堯が再度


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◆33代 佐竹義生 32代義堯の子
1867-1915

1879年 14歳
0014b





■妻  徳大寺作子 公爵徳大寺実則の娘 
1872-1937




●男子 佐竹義春 34代当主
●男子 佐竹義通 子爵佐竹義通となる
●男子 佐竹義勝 子爵佐竹義勝となる

●長女 佐竹涼子
●二女 佐竹静子 松坂屋伊藤次郎左衛門と結婚


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◆34代 佐竹義春 33代佐竹義生の子
1890-1944


■妻  九条兼子 公爵九条道実の娘
1894-1964






●長男 佐竹義栄 35代当主

●長女 佐竹則子 子爵鍋島直紹と結婚
●二女 佐竹照子 侯爵花山院親忠と結婚
●三女 佐竹美子 鈴木崇と結婚
●女子 佐竹亮子 川原良太と結婚


●佐竹則子 子爵鍋島直紹と結婚



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尾張徳川義親侯爵の日記 徳川義親は困窮した多くの華族家の財産整理を手助けした 

※佐竹義春は徳川義親の財政立て直し案を受け入れなかった。

侯爵も夫人もこれほど馬鹿とは思わなかった。
家の没落もまたやむを得ないことだろう。
華族はみなこうして没落してゆく。
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◆35代 佐竹義栄 34代義春の子
1914-1983


■妻  徳川百合子 尾張徳川義親侯爵の娘 
1917年生


●長男 佐竹義忠 早逝
●長女 佐竹朋子


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『木戸幸一日記』内大臣※当時は文部大臣

<佐竹義栄の縁談>

1937年4月2日
関屋氏来庁。
久邇宮多嘉王姫宮恭仁子女王を佐竹義春侯爵の嗣子佐竹義栄へとの話あり。
考慮を約す。
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◆36代 佐竹孝  35代義栄の甥/伯爵大給義龍の子
1947年生


■妻  鈴木明紀子
1950年生


●長男
●二男

◆12代 山内豊資  11代山内豊興の弟
1794-1872 77歳没


■妻  池田豊子  岡山藩主池田斉政の娘
1779-1841 61歳没


●男子 山内豊熙  13代当主
●男子 山内豊惇  14代当主
●男子 山内豊範  16代当主

●女子 山内貞子  米沢藩主上杉斉憲と結婚
●女子 山内悦子  秋田藩主佐竹義睦と結婚
●女子 山内嘉年子 侯爵徳大寺実則と結婚


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◆13代 山内豊熙    12代豊資の子
1815-1848 33歳没


■妻  島津祝子/候子 薩摩藩主島津斉興の娘 
1815-1880 65歳没


●女子 山内鍈子 庄内藩主酒井忠発の子酒井忠恕と結婚
●女子 山内鏸子 臼杵藩主稲葉観通と結婚
●女子 山内綱子 広島藩主浅野長勲と結婚


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◆14代 山内豊惇 13代山内豊熙の弟
1824-1848 文政07-嘉永01 23歳没


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◆15代 山内容堂/山内豊信 山内豊著の子・養子になる
1827-1872 44歳没


■妻  烏丸正子  公家烏丸光政の娘
1833-1868 35歳没


●二男 山内豊尹  子爵山内豊尹となる

●長女 山内光子  北白川宮能久親王と離婚
●三女 山内八重子 東伏見宮依仁親王と妻離婚・子爵秋元興朝と結婚


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◆16代 山内豊範 14代豊惇の弟 最後の藩主
1846-1886 40歳没


■前妻 毛利喜久子/俊子 毛利信順の娘 
1844-1899 55歳没


■後妻 上杉栄子 米沢藩主上杉斉憲の娘・結婚3回
人吉藩主相良為知→伯爵飛鳥井雅望→侯爵山内豊範
1848-1886 38歳没


●長男 山内豊景 17代当主
●男子 山内豊静 男爵山内豊静となる→子は18代当主山内豊秋
●男子 山内豊中 政治家木内重四郎の娘木内草子と結婚

●女子 山内寿子 子爵大関増輝と結婚


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◆17代 山内豊景 16代山内豊範の子
1875-1957 81歳没●子供ナシ

*フランスに留学

*山内豊景侯爵は上杉茂憲伯爵の娘重子と婚約していたが、
伏見宮貞愛親王から大正天皇との婚約が解消となった娘禎子女王を押し付けられて繁子との婚約を解消、
重子は高辻宜麿子爵と結婚する。


■妻  伏見宮禎子女王 伏見宮貞愛親王の娘
1885-1966 81歳没

*大正天皇が皇太子時代に皇太子妃として婚約発表されたが、
肺病の疑いありとの理由で婚約は取消となった。


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『横から見た華族物語』昭和7年出版

豊景侯爵に抱えられて家史編纂所の主任をしていた沼田頼輔という人が、先年紋章学で文学博士の学位を授けられた。
彼が紋章学の研究に没頭した動機というのが、ある時 豊景侯爵から高知藩はなぜ今の定紋を用いているかと尋ねられたが、それに答えることができなかったので深く恥じ入り、それから発奮したのであるから、豊景侯爵としては沼田氏に対して多少は何とかせねばならぬ筋合いのものであった。
そこで家職の者から豊景侯爵に報告した。
無論お褒めの言葉とともに、金一封ぐらいの賞賜は当然あるべきはずと期待してのことである。
ところが御本尊はその報告を受けても、「ふふん」と言ったきりで何も言わなかった。
その場のみでなく後日沼田氏が豊景侯爵に面会しても、このことについては良かったとも何とも一言の言葉もなかったので、家史編纂所の人々もあきれたという話がある。
豊景侯爵にすれば1000万円以上の丸持華族の主人公として、召し抱えの者の慶事に対して一封の賞金や祝賀会の費用ぐらいを惜しんだわけではあるまいが、これなども要するに彼等に通有性な周囲に対する冷やかさがそうさせたまでのことである。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

<伏見宮禎子女王を押しつけられた山内豊景侯爵>

そろそろ皇太子〔大正天皇〕の御成婚が近づいていた。
明治陛下はあの御性格から言っても、御自分の気に入った方を皇太子の妃殿下にされたい御意向で、御自分でもいろいろお考えになっておいでになる模様であったが、ある時伏見宮の姫君をお目に止められてすっかりお気に召してしまった。
それまでは皇后には五摂家のうちからお上がりになるしきたりになっていたのであったが、明治陛下の鶴の一声で、その時はじめて皇族から上がられることになった訳である。
ところがこの御内定に対して当時の橋本軍医総監が異議を唱え、それを明治陛下に言上したのであった。
それは「この御方にはおそらくお子さんがおできにならないでしょう」というのであった。
皇室の御世嗣が絶える、これにはさすがの自信の強い明治陛下も御自分の意志を強行させる訳にはゆかなかった。
ついにこの御内定は取消となってしまった。
そういう訳で大正天皇の皇后には、再び昔のしきたりにかえって九条家から上がられたわけである。

困ったのは伏見宮家である。貞愛親王・禎子女王御自身の心情はもちろんのこと、宮家としてもなんとなく傷がついた感じである。
それでなるたけ早く姫君は嫁がせた方がよかろうということになり、いろいろと相手の男子を物色されていたのである。
あるとき宮中で宴会があって、大勢の華族たちが御陪食にあずかった。
伏見宮殿下は大尉の軍服を着た若い山内侯爵嗣子の姿を目に止められた。
やせぎすではあるが、どこかキリッとしていかにも頼もしい好青年士官である。
そこで伏見宮殿下はさっそく近づいていかれて、
「どうだ、君はまだ独身だろう?」とお尋ねになった。
そこで山内大尉が事実を明白にすればよかったのであるが、
ついウカウカと「はい、さようでございます」と言ってしまったのである。
「それではどうだね。ワシの娘を嫁にもらってはくれまいか」と直談判を始められた。
それでもなお山内大尉にもう少し勇気があればよかったのであるが、なにぶんにも宮殿下からの直々の御談判である。
若い大尉がすっかりあがってしまったことも想像に難くない。
「はい」と答えてしまって、その自分の言葉の重大さに気がついた時にはもう遅かった。
「それではよろしくお頼みしますよ」
伏見宮殿下はようやく心の重荷が下りたといったようにご満足気に笑われた。
おそらく帰途についた山内大尉の気持ちは複雑であり、さすがに若くて元気のある青年士官も意気消沈したことであろうと思われた。
と言うのは、その時山内大尉は確かにまだ独身だったことには違いなかったが、すでに上杉伯爵家の娘と婚約が成立していたからである。
若い大尉はその日邸に帰るとすぐ、一家をあげて評議したであろう。
ところが相手がなにぶんにも宮殿下である。
いったん承知してしまったことを覆すということはいかにもできにくい。
一家がどういう結末をつけたかは、そのご間もなく山内家と上杉家との婚約が破談になったということが伝わって明白となった。
このことで最も打撃を受けたのは、言うまでもなく上杉伯爵家の娘であったろう。
乙女の純情はみじんに砕かれた。
彼女はその後何事もなかったかのように、小柄なおとなしい高辻子爵と結婚した。

高辻子爵夫人の晩年には、とかく自暴自棄の行動が多かった。
高辻子爵は公卿華族で、大正時代には東宮侍従をやった人物である。
小柄ないかにも温厚な人物で、家庭では寛大なよき主人であることがうかがえた。
また高辻家は公卿華族としては比較的資産にも恵まれており、それ相応の生活をしていた。
夫人との間には子供もあり、長女は音楽学校に入っていた。
そうした表面だけを見れば、高辻家にはどこにも不満や家庭的な破綻を生じる余地がないように見えた。
夫人は中年以降にもその若き日の美貌と怜悧とがいまだに物を言っている風で、年に似合わず夫人の周囲にはいつも華やいだ雰囲気が漂っていた。
中年を過ぎた高辻夫人の乱行を思い浮かべて、女の業の深さに暗澹とした気持ちを抱いたのであった。
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◆18代 山内豊秋 17代豊景の甥/男爵山内豊静の子
1912-2003 91歳没


■妻  黒田光子 侯爵黒田長礼の娘
1921-1980 59歳没


●長男
●二男
●長女
●二女
●三女


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山内豊秋

財産税の噂が聞こえてきたのは1946年10月のことでした。
オヤジが家督をとっていた上 自分はずっと戦地を歴戦して復員したばかり、さてこれからどう家を立て直そうかという矢先に降ってわいたような難問。
70になっていた父はもう気力を失ったか、財産税のことはお前がやれと言う。
家のことは何も知らないから弱った。
山内家の財産がどれだけかと言われてもおいそれとわかるものではない。
家令に助けてもらいながら、どういうものがあるかを調べるところから始めました。
評価は1947年2月だから家を叩き売ったりしてなんとか課税を低くできないかと思ったが、1946年11月から押さえられていて逃げようがなかった。
昔は華族の家は財産三分法と言って、キャッシュ・債券類・土地。
事業のようなことはやってはいけないと言われていた。
しかし戦争が終わってみるとキャッシュなどほとんどない。
戦時債券や満鉄の株など紙切れ同然になった。
十五銀行の預金も凍結したままだった。
結局、どこの家も物納をやったんです。
物納がどんなに馬鹿馬鹿しいかわかっていたが、当時はそれしか方法はなかった。
土地にしろ骨董にしろ、売ろうにも売れない。
経済力のある人がいないのだから当然だが、本当に惜しい物をいろいろ手放してしまった。
延納の担保として差し出した物で持ちこたえられなくて手放した物の中に、雪舟の『天の橋立』の絵があった。
今でも大変くやしい思いがある。
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◆12代 山内豊資  11代山内豊興の弟
1794-1872 77歳没


■妻  池田豊子  岡山藩主池田斉政の娘
1779-1841 61歳没


●男子 山内豊熙  13代当主
●男子 山内豊惇  14代当主
●男子 山内豊範  16代当主

●女子 山内貞子  米沢藩主上杉斉憲と結婚
●女子 山内悦子  秋田藩主佐竹義睦と結婚
●女子 山内嘉年子 侯爵徳大寺実則と結婚


●山内悦子 秋田藩主佐竹義睦と結婚



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◆13代 山内豊熙    12代豊資の子
1815-1848 33歳没


■妻  島津祝子/候子 薩摩藩主島津斉興の娘 
1815-1880 65歳没


●女子 山内鍈子 庄内藩主酒井忠発の子酒井忠恕と結婚
●女子 山内鏸子 臼杵藩主稲葉観通と結婚
●女子 山内綱子 広島藩主浅野長勲と結婚


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◆14代 山内豊惇 13代山内豊熙の弟
1824-1848 23歳没


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◆15代 山内容堂/山内豊信 山内豊著の子・養子になる
1827-1872 44歳没

1867年 京都二条城で
8004(3)


1022 (2)



■妻  烏丸正子  公家烏丸光政の娘
1833-1868 35歳没


●二男 山内豊尹  子爵山内豊尹となる

●長女 山内光子  北白川宮能久親王と離婚
●三女 山内八重子 東伏見宮依仁親王と妻離婚・子爵秋元興朝と結婚


●山内豊尹 子爵山内豊尹となる
0015b



●山内光子 北白川宮能久親王と離婚 1879年 22歳
9100



●山内八重子 東伏見宮依仁親王と離婚・子爵秋元興朝と再婚



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◆16代 山内豊範 14代豊惇の弟 最後の藩主
1846-1886 40歳没

0035g







■前妻 毛利喜久子/俊子 毛利信順の娘 
1844-1899 55歳没


■後妻 上杉栄子 米沢藩主上杉斉憲の娘・結婚3回
人吉藩主相良為知→伯爵飛鳥井雅望→侯爵山内豊範
1848-1886 38歳没






●長男 山内豊景 17代当主
●男子 山内豊静 男爵山内豊静となる→子は18代当主山内豊秋
●男子 山内豊中 政治家木内重四郎の娘木内草子と結婚

●女子 山内寿子 子爵大関増輝と結婚


※両親が同年に続いて亡くなったため、
父の姉悦子/秋田藩主佐竹義睦夫人が幼い子女の親代わりを務めた。

左から 寿子 伯母悦子/佐竹義睦夫人 豊中 豊景 豊静
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●山内豊中 政治家木内重四郎の娘木内草子と結婚
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●山内寿子 子爵大関増輝と結婚



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◆17代 山内豊景 16代豊範の子
1875-1957 81歳没

*フランスに留学

*山内豊景侯爵は上杉茂憲伯爵の娘重子と婚約していたが、
伏見宮貞愛親王から大正天皇との婚約が解消となった娘禎子女王を押し付けられて繁子との婚約を解消、
重子は高辻宜麿子爵と結婚する。


■妻  伏見宮禎子女王 伏見宮貞愛親王の娘
1885-1966 81歳没

*大正天皇が皇太子時代に皇太子妃として婚約発表されたが、
肺病の疑いありとの理由で婚約は取消となった。







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左が禎子夫人 右が寿子 侍女たちと
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薙刀をする禎子夫人
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お座敷遊びをする禎子夫人
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◆18代 山内豊秋 17代豊景の甥/男爵山内豊静の子
1912-2003 91歳没


■妻  黒田光子 侯爵黒田長礼の娘
1921-1980 59歳没


豊秋と継母禎子


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1993年
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●長男
●二男
●長女
●二女
●三女

東京本邸 東京都芝区白金三光町(現:港区白金または港区白金台)
8027(1)


8027(2)


1046(2)



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◆7代 伊達宗紀 6代伊達村寿の子
1792-1889 97歳没


■妻  鍋島観子 佐賀藩主鍋島治茂の娘
1799-1870


●三男 伊達宗徳 9代当主
●五男 伊達主馬 島原藩主松平忠淳となる

●七女 伊達正子 島原藩主松平忠精と結婚
●八女 伊達節子 飯野藩主保科正益と結婚


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◆8代 伊達宗城    7代宗紀の甥/幕臣山口直勝の子・養子になる
1818-1892 74歳没


■妻  鍋島益子    佐賀藩主鍋島斉直の娘
1808-1866


●長男 伊達保麿    伯爵真田幸民となる
●二男 伊達宗敦    男爵伊達宗敦となる
●四男 伊達昌邁    伯爵奥平昌邁となる
●五男 伊達信広    子爵瀧脇信広となる
●六男 伊達忠良    子爵牧野忠良となる
●七男 伊達宗倫    男爵伊達宗倫となる
●九男 伊達宗曜    男爵伊達宗曜となる
●十男 伊達広城    子爵蒔田広城となる

●二女 伊達初子    伯爵柳原前光と結婚
●三女 伊達敏子    松根城臣と結婚
●四女 伊達理子    伊能英次郎と結婚
●六女 伊達照子/熙子 山形藩主水野忠弘と死別・三井財閥三井高弘男爵と再婚
●七女 伊達順子    桑折城方と結婚
●九女 伊達幾子    志賀平四郎と離婚・桜田栄次郎と再婚
●12女 伊達泰子    坂田九郎と結婚


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◆9代 伊達宗徳  8代宗城のイトコ/7代宗紀の子
1830-1906 76歳没


■前妻 毛利孝子  萩藩主毛利斉元の娘
1829-1853


■後妻 佐竹佳子  秋田藩主佐竹義厚の娘
1837-1868


●長男 伊達宗陳  10代当主
●二男 伊達康虎  子爵本多康虎となる
●三男 伊達紀隆  子爵北条氏恭の娘北条智子と結婚→子は11代当主伊達宗彰
●四男 伊達武四郎 伯爵松浦詮の娘松浦冏子と結婚
●五男 伊達剛吉郎 土居剛吉郎となる
●六男 伊達長徳  子爵丹羽長徳となる
●七男 伊達直徳  子爵一柳直徳となる
●九男 伊達芳徳  伯爵二荒芳徳となる
●十男 伊達十郎  男爵前島弥の娘前島鉄子と結婚

●二女 伊達富子  島津久光の子と婚約・相手死亡・北白川宮能久親王と結婚


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宮武外骨『地獄耳』

去年死んだ土井通夫の後は〈剛吉郎〉という伊予宇和島の伊達家から来た侯爵の息子が継いでいるが、剛吉郎は有名な低能児でその女房もまた亭主に負けぬおめでたい方である。
も一つ先代が妾に産ませた娘は大の痴呆で、廃人同様であるとはよくできたものだ。
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島津忠重公爵

富子妃殿下は伊達家の出で、かつては私の父の弟に内約のあった方であったが、正式に決定する前にその叔父が亡くなったので、一応久光の養女として北白川宮家に嫁せられた方である。
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◆10代 伊達宗陳 9代伊達宗徳の子
1860-1923 63歳没


■前妻 有馬納子 久留米藩主有馬頼咸の娘
1868-1896


■後妻 徳川孝子 和歌山徳川茂承侯爵の娘
1874-1960


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万朝報 1898年

伊達宗陳は侯爵伊達宗徳の嫡男なるが、北品川の自邸に大塚テイ(23歳)なる妾を蓄う。
テイは神田旭町の大工与助の長女にて類いまれなる美人なるより、かつて歌舞伎座見物の際 宗陳氏に見初められついに妾となる。
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◆11代 伊達宗彰 10代宗陳の甥/紀隆の子
1905-1969


■妻  松平美智子 福井松平慶民子爵の娘
1912-1972


●長男
●二男
●長女
●二女

◆7代 伊達宗紀 6代伊達村寿の子
1792-1889 97歳没

1879年 91歳
0091



■妻  鍋島観子 佐賀藩主鍋島治茂の娘
1799-1870


●三男 伊達宗徳 9代当主
●五男 伊達忠淳 島原藩主松平忠淳となる

●七女 伊達正子 島原藩主松平忠精と結婚
●八女 伊達節子 飯野藩主保科正益と結婚


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◆8代 伊達宗城 7代宗紀の甥/幕臣山口直勝の子・養子になる
1818-1892 74歳没

中央
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1879年 63歳
0063b



■妻  鍋島益子    佐賀藩主鍋島斉直の娘
1808-1866


●長男 伊達幸民    伯爵伊達幸民となる
●二男 伊達宗敦    男爵伊達宗敦となる
●四男 伊達昌邁    伯爵奥平昌邁となる
●五男 伊達信広    子爵滝脇信広となる
●六男 伊達忠良    子爵牧野忠良となる
●七男 伊達宗倫    男爵伊達宗倫となる
●九男 伊達宗曜    男爵伊達宗曜となる
●十男 伊達広城    子爵蒔田広城となる

●二女 伊達初子    伯爵柳原前光と結婚
●三女 伊達敏子    松根城臣と結婚
●四女 伊達理子    伊能英次郎と結婚
●六女 伊達照子/熙子 山形藩主水野忠弘と死別・三井財閥三井高弘男爵と再婚
●七女 伊達順子    桑折城方と結婚
●九女 伊達幾子    志賀平四郎と離婚・桜田栄次郎と再婚
●12女 伊達泰子    坂田九郎と結婚


●伊達幸民 伯爵伊達幸民となる 1879年 31歳
0031h



●伊達宗敦 男爵伊達宗敦となる 1879年 29歳
0029l



●伊達昌邁 伯爵奥平昌邁となる



●伊達忠良 子爵牧野忠良となる 忠良と娘福子
1166(1)



●伊達宗曜 男爵伊達宗曜となる



●伊達初子 伯爵柳原前光と結婚



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◆9代 伊達宗徳 8代宗城のイトコ/7代宗紀の子
1830-1906 76歳没

1879年 51歳
0051e





■前妻 毛利孝子 萩藩主毛利斉元の娘
1829-1853


■後妻 佐竹佳子 秋田藩主佐竹義厚の娘
1837-1868




●長男 伊達宗陳  10代当主
●二男 伊達康虎  子爵本多康虎となる
●三男 伊達紀隆  子爵北条氏恭娘北条智子と結婚→子は11代当主伊達宗彰
●四男 伊達武四郎 伯爵松浦詮の娘松浦冏子と結婚
●五男 伊達剛吉郎 土居剛吉郎となる
●六男 伊達長徳  子爵丹羽長徳となる
●七男 伊達直徳  子爵一柳直徳となる
●九男 伊達芳徳  伯爵二荒芳徳となる
●十男 伊達十郎  男爵前島弥の娘前島鉄子と結婚

●二女 伊達富子  島津久光の子と婚約・相手死亡・北白川宮能久親王と結婚


左から 宗陳 宗陳の前妻納子 宗敦 節子 宗城 初子 宗紀 康虎の妻幸子 宗徳 康虎 幸民
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●伊達誠一 子爵丹羽長徳となる



●伊達芳徳 伯爵二荒芳徳となる



●伊達富子 島津久光の子と婚約・相手死亡・北白川宮能久親王と結婚
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◆10代 伊達宗陳 9代宗徳の子
1860-1923 63歳没

1879年 21歳
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■前妻 有馬納子 久留米藩主有馬頼咸の娘
1868-1896




■後妻 徳川孝子 和歌山徳川茂承侯爵の娘
1874-1960








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◆11代 伊達宗彰 10代伊達宗陳の甥/伊達紀隆の子
1905-1969

1046(1)



■妻  松平美智子 福井松平慶民子爵の娘
1912-1972


●長男
●二男
●長女
●二女

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