東京本邸 麻布区元村町(現:港区南麻布または元麻布)
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◆11代 島津忠寛 10代島津忠徹の子
1828-1896
1879年 53歳
■前妻 奥平氏 中津藩主奥平昌高の娘
■後妻 戸田孝子 松本藩主戸田光庸の娘・島津忠寛と結婚・子爵九鬼隆備と再婚
1839年生
●男子 島津忠亮 12代当主
●男子 島津純雄 伯爵大村純雄となる
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◆12代 島津忠亮 11代忠寛の子
1849-1909
1879年 32歳
■妻 島津盛子 島津久宝の娘
1849-1907
●男子 島津忠麿 13代当主
●男子 島津健之助 男爵島津健之助となる
●男子 島津正寛 子爵阿部正寛となる
●女子 島津徳子 島津久中と結婚
=========================
◆13代 島津忠麿 12代忠亮の子
1877-1926
■妻 真田松子 伯爵真田幸民の娘
1878-1943
●長女 島津随子 14代当主島津久範の前妻
●二女 島津文子 公爵九条道秀と離婚
●三女 島津秀子 14代当主島津久範の後妻
●島津文子 公爵九条通秀と離婚
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◆14代 島津久範 公爵島津忠義の子・婿養子になる
1894-1944
■1番目の妻 島津随子 13代忠麿の娘
1900-1921 21歳没
■2番目の妻 島津秀子 13代忠麿の娘/前妻の妹
1905-1928 23歳没
■3番目の妻 高倉久子 子爵高倉永則の娘
1898-2005
右端が久子夫人
●長男 島津忠韶 14代当主
●二男 島津久永 昭和天皇の娘清宮貴子内親王と結婚
●長女 島津貴美子 男爵北河原公海の子北河原公典と結婚
●二女 島津雅子 勧山弘と結婚
●三女 島津敏子 萩原光雄と結婚
●四女 島津幸子 本間聖作と結婚
●島津久永 昭和天皇の娘貴子内親王と結婚
貴子内親王と小林旭
島津久永&貴子内親王
1959年
1960年
1960年 貴子内親王と江利チエミ
1960年
1962年
1983年
1987年
1994年
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
<清宮貴子内親王の縁談>
1953年8月10日
昭和天皇◆今朝良宮のところへ朝融さん〔久邇宮朝融王〕が来て、清ちゃん〔清宮貴子内親王〕を邦明さん〔朝融王の子久邇邦昭〕のところへもらいたいという話があったということだ。
私は結論から言えば断って良いと思うのだが、その断りの理由を何とするか。
大谷の場合との関係もあるから、
〔香淳皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王を子大谷光紹の妻に望んだが皇室側から断った〕
どう言って断ったものかねー。
田島長官◆お答えは昭和皇后と御兄妹の御関係でなるべく角立ちませぬ申し条の方がよろしいと存じまするゆえ、申し上げ方につきては少し考えさせていただきたいと存じます。
明日にでも申し上げたいと存じます。しかし清宮様でございましたらばまだ先のことでございますが、お待ちになりますのでございましょうか。
昭和天皇◆それは待つとのお話だ。
田島長官◆朝融王はいろいろ接触申し上げました節、あまりお子様のことをお考えになったことはありませぬ。御自分のことのみお考えでありまして、今回の御話も邦明様のおためとのお考えではありましょうが、どうも清宮様と御結婚になれば、将来皇室との密接な関係で全て御便利というお考えからではないかと邪推いたされまする。
朝融王がかつてお子様方の御話の出ました時に、秩父宮・高松宮に後継者がないから、養子という制度が皇族はダメならば事実上の養子にしてもらうと良いと仰せになりましたことなどを合わせ考えてみますれば、どうもまた皇室と御縁ができればいろいろ御便利があるとの考えから出たのではないかと邪推いたされます。
久邇家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕は宮家からお頼みになり、経済的な面は〔元日本興行銀行総裁〕河上弘一・〔大協石油社長〕高橋真男でありまするが、邦明さんの御就職・御結婚についてはずいぶん奔走いたしておりましたが、今回のことはそういうところへは御相談はないことかと思われまするが。
田島拝命前に賀陽宮様と孝宮様の時には宗秩寮総裁松平康昌が出まして、
〔賀陽宮邦寿王と孝宮和子内親王との縁談破談〕
先方様はお急ぎであり孝宮様はお急ぎでないという風な申し方を致したと伺いますが。
昭和天皇◆今度は先方は急がぬと言うのだから、その理由はダメだ。
1953年8月11日
田島長官◆昨日の御話は侍従次長稲田周一ともよく相談いたしましたが、やはり御イトコさんのような近親の方はなるべく避ける方針ゆえ、この話は見合せのことというように、後に残りませぬ言い方が一番よろしいと存じまする。
こういうことはいい場合は別でありますが、お断りの場合は早い御返事の方がよろしいと存じますゆえ、明後日那須へお出かけ前すなわち明日中に御返事あるほうがよろしいと存じます。稲田侍従次長に御使を仰せつけられるのがよろしいかと存じます。
稲田ならば意味ははっきりと、そして柔らかに申すことと存じます。
昭和天皇◆そうか。それは早い方が良いが、朝融さんはなんだか宮内官を忌避しておられるようだし、だから昨日も直接良宮の所へ言ってこられたのだが、良宮が明日にでも呼んで良宮から話したらどうか。
田島長官◆昭和皇后の御兄弟の場合、はっきり仰せになりましても、それでも再考というようなことになり、昭和皇后が「ええ」とでも仰せになりますれば後に残るように存じまするし、久邇さんの方で忌避なさいましても、侍従次長が御使に出ますは当然でありまして、田島は稲田をお通しいただいて御返事の方がおよろしきと存じます。
昭和天皇◆久邇さんへの御返事は、法律では許してあるが、優生学上および医学上からはイトコの結婚は避けた方がいいということゆえ、これは見合せしてもらいたい旨で言え。
ことに邦昭さんは御長子であるから良い後継者を一層必要であるからということを言え。
先方がそれでも何か言ったら、大谷も同様の理由でやめたのだと言え。
ただしこれはなるべく言わんで済めばその方良し。
稲田個人の用件のごとくして電話で今日都合を聞け。先方へ行ったら両陛下の御使として右のごとく言え。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1958年4月2日
稲田侍従次長の所で、清宮貴子内親王の御縁談のことなどゆっくり語り合う。
1959年3月19日〔清宮貴子内親王の婚約内定〕
朝早くNHK記者大岡護一君に起こされる。
清宮貴子内親王のことである。
朝日記者伊藤牧夫君からも電話がかかる。
新聞記者や何かに囲まれて島津さんの奥さんの参内が非常に遅れる。
11時前にやっと見えて発表も済む。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1960年3月10日
今日は清宮貴子内親王の御結婚だが、予は別に何の関係もない。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1963年10月27日
風呂から出たところで、次長からテレビのニュースを見てくれとのこと。
清宮貴子内親王の誘拐未遂事件、身代金5千万円とか。
しかしなにごともなくてよかった。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1964年3月9日
東宮御所へ。
東宮様・清宮貴子内親王・鈴木東宮大夫も陪席。
いろいろ御話があったが一番の御注文は、今度の葉山御用邸に東宮御夫妻・孝宮和子内親王夫妻・清宮貴子内親王夫妻がいらっしゃりたいとのこと。
帰って報告。
そのうち奥からも御話があって本決まりになる。
1964年3月14日〔葉山御用邸〕
東宮御夫妻・常陸宮・清宮貴子内親王夫妻も来られる。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従次長
1968年5月24日
昭和皇后、清宮貴子内親王のことを御心配いろいろお尋ね。
1968年6月25日
吹上に行き、清宮貴子内親王のこと申し上げる。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従長
1969年12月9日
宇佐美長官から、清宮貴子内親王のこと、桂宮のこと。
徳川侍従次長から、清宮貴子内親王のこと、東久邇さんのこと。
いい話は一つもなし。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従長
1970年1月14日
徳川侍従次長から清宮貴子内親王とターナとの話を聞く。
1970年7月28日
清宮貴子内親王が東京プリンスホテルの店へお出になる件、先走った話と思う。
那須御用邸の徳川侍従次長に電話、弱っている。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従長
1972年8月16日
昭和陛下に、島津禎久さん〔清宮貴子内親王の子〕の学校のことについて申し上げる。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従長
1974年8月19日
宇佐美長官が、島津久永さん〔清宮貴子内親王の夫〕の海外勤務、シドニーがよからんかとの件。
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◆15代 島津忠韶 14代久範の子
1927年生
■妻 加納芳子 加納芳治の娘
1934年生
●長男
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◆11代 島津忠寛 10代島津忠徹の子
1828-1896
1879年 53歳
■前妻 奥平氏 中津藩主奥平昌高の娘
■後妻 戸田孝子 松本藩主戸田光庸の娘・島津忠寛と結婚・子爵九鬼隆備と再婚
1839年生
●男子 島津忠亮 12代当主
●男子 島津純雄 伯爵大村純雄となる
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◆12代 島津忠亮 11代忠寛の子
1849-1909
1879年 32歳
■妻 島津盛子 島津久宝の娘
1849-1907
●男子 島津忠麿 13代当主
●男子 島津健之助 男爵島津健之助となる
●男子 島津正寛 子爵阿部正寛となる
●女子 島津徳子 島津久中と結婚
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◆13代 島津忠麿 12代忠亮の子
1877-1926
■妻 真田松子 伯爵真田幸民の娘
1878-1943
●長女 島津随子 14代当主島津久範の前妻
●二女 島津文子 公爵九条道秀と離婚
●三女 島津秀子 14代当主島津久範の後妻
●島津文子 公爵九条通秀と離婚
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◆14代 島津久範 公爵島津忠義の子・婿養子になる
1894-1944
■1番目の妻 島津随子 13代忠麿の娘
1900-1921 21歳没
■2番目の妻 島津秀子 13代忠麿の娘/前妻の妹
1905-1928 23歳没
■3番目の妻 高倉久子 子爵高倉永則の娘
1898-2005
右端が久子夫人
●長男 島津忠韶 14代当主
●二男 島津久永 昭和天皇の娘清宮貴子内親王と結婚
●長女 島津貴美子 男爵北河原公海の子北河原公典と結婚
●二女 島津雅子 勧山弘と結婚
●三女 島津敏子 萩原光雄と結婚
●四女 島津幸子 本間聖作と結婚
●島津久永 昭和天皇の娘貴子内親王と結婚
貴子内親王と小林旭
島津久永&貴子内親王
1959年
1960年
1960年 貴子内親王と江利チエミ
1960年
1962年
1983年
1987年
1994年
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
<清宮貴子内親王の縁談>
1953年8月10日
昭和天皇◆今朝良宮のところへ朝融さん〔久邇宮朝融王〕が来て、清ちゃん〔清宮貴子内親王〕を邦明さん〔朝融王の子久邇邦昭〕のところへもらいたいという話があったということだ。
私は結論から言えば断って良いと思うのだが、その断りの理由を何とするか。
大谷の場合との関係もあるから、
〔香淳皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王を子大谷光紹の妻に望んだが皇室側から断った〕
どう言って断ったものかねー。
田島長官◆お答えは昭和皇后と御兄妹の御関係でなるべく角立ちませぬ申し条の方がよろしいと存じまするゆえ、申し上げ方につきては少し考えさせていただきたいと存じます。
明日にでも申し上げたいと存じます。しかし清宮様でございましたらばまだ先のことでございますが、お待ちになりますのでございましょうか。
昭和天皇◆それは待つとのお話だ。
田島長官◆朝融王はいろいろ接触申し上げました節、あまりお子様のことをお考えになったことはありませぬ。御自分のことのみお考えでありまして、今回の御話も邦明様のおためとのお考えではありましょうが、どうも清宮様と御結婚になれば、将来皇室との密接な関係で全て御便利というお考えからではないかと邪推いたされまする。
朝融王がかつてお子様方の御話の出ました時に、秩父宮・高松宮に後継者がないから、養子という制度が皇族はダメならば事実上の養子にしてもらうと良いと仰せになりましたことなどを合わせ考えてみますれば、どうもまた皇室と御縁ができればいろいろ御便利があるとの考えから出たのではないかと邪推いたされます。
久邇家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕は宮家からお頼みになり、経済的な面は〔元日本興行銀行総裁〕河上弘一・〔大協石油社長〕高橋真男でありまするが、邦明さんの御就職・御結婚についてはずいぶん奔走いたしておりましたが、今回のことはそういうところへは御相談はないことかと思われまするが。
田島拝命前に賀陽宮様と孝宮様の時には宗秩寮総裁松平康昌が出まして、
〔賀陽宮邦寿王と孝宮和子内親王との縁談破談〕
先方様はお急ぎであり孝宮様はお急ぎでないという風な申し方を致したと伺いますが。
昭和天皇◆今度は先方は急がぬと言うのだから、その理由はダメだ。
1953年8月11日
田島長官◆昨日の御話は侍従次長稲田周一ともよく相談いたしましたが、やはり御イトコさんのような近親の方はなるべく避ける方針ゆえ、この話は見合せのことというように、後に残りませぬ言い方が一番よろしいと存じまする。
こういうことはいい場合は別でありますが、お断りの場合は早い御返事の方がよろしいと存じますゆえ、明後日那須へお出かけ前すなわち明日中に御返事あるほうがよろしいと存じます。稲田侍従次長に御使を仰せつけられるのがよろしいかと存じます。
稲田ならば意味ははっきりと、そして柔らかに申すことと存じます。
昭和天皇◆そうか。それは早い方が良いが、朝融さんはなんだか宮内官を忌避しておられるようだし、だから昨日も直接良宮の所へ言ってこられたのだが、良宮が明日にでも呼んで良宮から話したらどうか。
田島長官◆昭和皇后の御兄弟の場合、はっきり仰せになりましても、それでも再考というようなことになり、昭和皇后が「ええ」とでも仰せになりますれば後に残るように存じまするし、久邇さんの方で忌避なさいましても、侍従次長が御使に出ますは当然でありまして、田島は稲田をお通しいただいて御返事の方がおよろしきと存じます。
昭和天皇◆久邇さんへの御返事は、法律では許してあるが、優生学上および医学上からはイトコの結婚は避けた方がいいということゆえ、これは見合せしてもらいたい旨で言え。
ことに邦昭さんは御長子であるから良い後継者を一層必要であるからということを言え。
先方がそれでも何か言ったら、大谷も同様の理由でやめたのだと言え。
ただしこれはなるべく言わんで済めばその方良し。
稲田個人の用件のごとくして電話で今日都合を聞け。先方へ行ったら両陛下の御使として右のごとく言え。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1958年4月2日
稲田侍従次長の所で、清宮貴子内親王の御縁談のことなどゆっくり語り合う。
1959年3月19日〔清宮貴子内親王の婚約内定〕
朝早くNHK記者大岡護一君に起こされる。
清宮貴子内親王のことである。
朝日記者伊藤牧夫君からも電話がかかる。
新聞記者や何かに囲まれて島津さんの奥さんの参内が非常に遅れる。
11時前にやっと見えて発表も済む。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1960年3月10日
今日は清宮貴子内親王の御結婚だが、予は別に何の関係もない。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1963年10月27日
風呂から出たところで、次長からテレビのニュースを見てくれとのこと。
清宮貴子内親王の誘拐未遂事件、身代金5千万円とか。
しかしなにごともなくてよかった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1964年3月9日
東宮御所へ。
東宮様・清宮貴子内親王・鈴木東宮大夫も陪席。
いろいろ御話があったが一番の御注文は、今度の葉山御用邸に東宮御夫妻・孝宮和子内親王夫妻・清宮貴子内親王夫妻がいらっしゃりたいとのこと。
帰って報告。
そのうち奥からも御話があって本決まりになる。
1964年3月14日〔葉山御用邸〕
東宮御夫妻・常陸宮・清宮貴子内親王夫妻も来られる。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従次長
1968年5月24日
昭和皇后、清宮貴子内親王のことを御心配いろいろお尋ね。
1968年6月25日
吹上に行き、清宮貴子内親王のこと申し上げる。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従長
1969年12月9日
宇佐美長官から、清宮貴子内親王のこと、桂宮のこと。
徳川侍従次長から、清宮貴子内親王のこと、東久邇さんのこと。
いい話は一つもなし。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従長
1970年1月14日
徳川侍従次長から清宮貴子内親王とターナとの話を聞く。
1970年7月28日
清宮貴子内親王が東京プリンスホテルの店へお出になる件、先走った話と思う。
那須御用邸の徳川侍従次長に電話、弱っている。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従長
1972年8月16日
昭和陛下に、島津禎久さん〔清宮貴子内親王の子〕の学校のことについて申し上げる。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従長
1974年8月19日
宇佐美長官が、島津久永さん〔清宮貴子内親王の夫〕の海外勤務、シドニーがよからんかとの件。
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◆15代 島津忠韶 14代久範の子
1927年生
■妻 加納芳子 加納芳治の娘
1934年生
●長男