直球和館

2025年

2015/02

東京本邸 麻布区元村町(現:港区南麻布または元麻布)
1045(3)



=========================


◆11代 島津忠寛 10代島津忠徹の子
1828-1896

1879年 53歳
0053g



■前妻 奥平氏  中津藩主奥平昌高の娘


■後妻 戸田孝子 松本藩主戸田光庸の娘・島津忠寛と結婚・子爵九鬼隆備と再婚
1839年生


●男子 島津忠亮 12代当主
●男子 島津純雄 伯爵大村純雄となる


=========================


◆12代 島津忠亮 11代忠寛の子
1849-1909

1879年 32歳
0032m



■妻  島津盛子  島津久宝の娘
1849-1907


●男子 島津忠麿  13代当主
●男子 島津健之助 男爵島津健之助となる
●男子 島津正寛  子爵阿部正寛となる

●女子 島津徳子  島津久中と結婚


=========================


◆13代 島津忠麿 12代忠亮の子
1877-1926




■妻  真田松子 伯爵真田幸民の娘
1878-1943




●長女 島津随子 14代当主島津久範の前妻
●二女 島津文子 公爵九条道秀と離婚
●三女 島津秀子 14代当主島津久範の後妻


●島津文子 公爵九条通秀と離婚


9195(2)



=========================


◆14代 島津久範 公爵島津忠義の子・婿養子になる
1894-1944




■1番目の妻 島津随子 13代忠麿の娘
1900-1921 21歳没



9195(1)



■2番目の妻 島津秀子 13代忠麿の娘/前妻の妹
1905-1928 23歳没

1045(2)



■3番目の妻 高倉久子 子爵高倉永則の娘
1898-2005

右端が久子夫人
abd0f441.jpg





●長男 島津忠韶  14代当主
●二男 島津久永  昭和天皇の娘清宮貴子内親王と結婚

●長女 島津貴美子 男爵北河原公海の子北河原公典と結婚
●二女 島津雅子  勧山弘と結婚
●三女 島津敏子  萩原光雄と結婚
●四女 島津幸子  本間聖作と結婚




●島津久永 昭和天皇の娘貴子内親王と結婚


貴子内親王と小林旭
51bcc495


島津久永&貴子内親王
7a37a5f9


1959年
8582


1960年
3605-1


5481


8583


1960年 貴子内親王と江利チエミ
8fa4b577


1960年
8581


1962年
46a5571f


2059


1983年
19830441


1987年
19870653


1994年
19940518



::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
田島道治『拝謁記』宮内庁長官

<清宮貴子内親王の縁談>

1953年8月10日
昭和天皇◆今朝良宮のところへ朝融さん〔久邇宮朝融王〕が来て、清ちゃん〔清宮貴子内親王〕を邦明さん〔朝融王の子久邇邦昭〕のところへもらいたいという話があったということだ。
私は結論から言えば断って良いと思うのだが、その断りの理由を何とするか。
大谷の場合との関係もあるから、
〔香淳皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王を子大谷光紹の妻に望んだが皇室側から断った〕
どう言って断ったものかねー。
田島長官◆お答えは昭和皇后と御兄妹の御関係でなるべく角立ちませぬ申し条の方がよろしいと存じまするゆえ、申し上げ方につきては少し考えさせていただきたいと存じます。
明日にでも申し上げたいと存じます。しかし清宮様でございましたらばまだ先のことでございますが、お待ちになりますのでございましょうか。
昭和天皇◆それは待つとのお話だ。
田島長官◆朝融王はいろいろ接触申し上げました節、あまりお子様のことをお考えになったことはありませぬ。御自分のことのみお考えでありまして、今回の御話も邦明様のおためとのお考えではありましょうが、どうも清宮様と御結婚になれば、将来皇室との密接な関係で全て御便利というお考えからではないかと邪推いたされまする。
朝融王がかつてお子様方の御話の出ました時に、秩父宮・高松宮に後継者がないから、養子という制度が皇族はダメならば事実上の養子にしてもらうと良いと仰せになりましたことなどを合わせ考えてみますれば、どうもまた皇室と御縁ができればいろいろ御便利があるとの考えから出たのではないかと邪推いたされます。
久邇家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕は宮家からお頼みになり、経済的な面は〔元日本興行銀行総裁〕河上弘一・〔大協石油社長〕高橋真男でありまするが、邦明さんの御就職・御結婚についてはずいぶん奔走いたしておりましたが、今回のことはそういうところへは御相談はないことかと思われまするが。
田島拝命前に賀陽宮様と孝宮様の時には宗秩寮総裁松平康昌が出まして、
〔賀陽宮邦寿王と孝宮和子内親王との縁談破談〕
先方様はお急ぎであり孝宮様はお急ぎでないという風な申し方を致したと伺いますが。
昭和天皇◆今度は先方は急がぬと言うのだから、その理由はダメだ。

1953年8月11日
田島長官◆昨日の御話は侍従次長稲田周一ともよく相談いたしましたが、やはり御イトコさんのような近親の方はなるべく避ける方針ゆえ、この話は見合せのことというように、後に残りませぬ言い方が一番よろしいと存じまする。
こういうことはいい場合は別でありますが、お断りの場合は早い御返事の方がよろしいと存じますゆえ、明後日那須へお出かけ前すなわち明日中に御返事あるほうがよろしいと存じます。稲田侍従次長に御使を仰せつけられるのがよろしいかと存じます。
稲田ならば意味ははっきりと、そして柔らかに申すことと存じます。
昭和天皇◆そうか。それは早い方が良いが、朝融さんはなんだか宮内官を忌避しておられるようだし、だから昨日も直接良宮の所へ言ってこられたのだが、良宮が明日にでも呼んで良宮から話したらどうか。
田島長官◆昭和皇后の御兄弟の場合、はっきり仰せになりましても、それでも再考というようなことになり、昭和皇后が「ええ」とでも仰せになりますれば後に残るように存じまするし、久邇さんの方で忌避なさいましても、侍従次長が御使に出ますは当然でありまして、田島は稲田をお通しいただいて御返事の方がおよろしきと存じます。
昭和天皇◆久邇さんへの御返事は、法律では許してあるが、優生学上および医学上からはイトコの結婚は避けた方がいいということゆえ、これは見合せしてもらいたい旨で言え。
ことに邦昭さんは御長子であるから良い後継者を一層必要であるからということを言え。
先方がそれでも何か言ったら、大谷も同様の理由でやめたのだと言え。
ただしこれはなるべく言わんで済めばその方良し。
稲田個人の用件のごとくして電話で今日都合を聞け。先方へ行ったら両陛下の御使として右のごとく言え。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従

1958年4月2日
稲田侍従次長の所で、清宮貴子内親王の御縁談のことなどゆっくり語り合う。

1959年3月19日〔清宮貴子内親王の婚約内定〕
朝早くNHK記者大岡護一君に起こされる。
清宮貴子内親王のことである。
朝日記者伊藤牧夫君からも電話がかかる。
新聞記者や何かに囲まれて島津さんの奥さんの参内が非常に遅れる。
11時前にやっと見えて発表も済む。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従

1960年3月10日
今日は清宮貴子内親王の御結婚だが、予は別に何の関係もない。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従

1963年10月27日
風呂から出たところで、次長からテレビのニュースを見てくれとのこと。
清宮貴子内親王の誘拐未遂事件、身代金5千万円とか。
しかしなにごともなくてよかった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従

1964年3月9日
東宮御所へ。
東宮様・清宮貴子内親王・鈴木東宮大夫も陪席。
いろいろ御話があったが一番の御注文は、今度の葉山御用邸に東宮御夫妻・孝宮和子内親王夫妻・清宮貴子内親王夫妻がいらっしゃりたいとのこと。
帰って報告。
そのうち奥からも御話があって本決まりになる。

1964年3月14日〔葉山御用邸〕
東宮御夫妻・常陸宮・清宮貴子内親王夫妻も来られる。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従次長

1968年5月24日
昭和皇后、清宮貴子内親王のことを御心配いろいろお尋ね。

1968年6月25日
吹上に行き、清宮貴子内親王のこと申し上げる。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従長

1969年12月9日
宇佐美長官から、清宮貴子内親王のこと、桂宮のこと。
徳川侍従次長から、清宮貴子内親王のこと、東久邇さんのこと。
いい話は一つもなし。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従長

1970年1月14日
徳川侍従次長から清宮貴子内親王とターナとの話を聞く。

1970年7月28日
清宮貴子内親王が東京プリンスホテルの店へお出になる件、先走った話と思う。
那須御用邸の徳川侍従次長に電話、弱っている。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従長

1972年8月16日
昭和陛下に、島津禎久さん〔清宮貴子内親王の子〕の学校のことについて申し上げる。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従長

1974年8月19日
宇佐美長官が、島津久永さん〔清宮貴子内親王の夫〕の海外勤務、シドニーがよからんかとの件。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


=========================


◆15代 島津忠韶 14代久範の子
1927年生


■妻  加納芳子 加納芳治の娘
1934年生


●長男

東京本邸 本郷区西片町(現:文京区西片)大地主
1024(2)


1024(1)



=========================


◆14代 阿部正桓 浅野懋昭の子・婿養子になる 最後の藩主
1851-1914 62歳没

1879年 30歳
0030c







■前妻 阿部寿子 11代阿部正弘の娘・死別
1850-1884 34歳没


■後妻 鍋島篤子 子爵鍋島直紀の娘
1867-1941 74歳没




●長男 阿部正直 15代当主
●二男 阿部忠正 伯爵酒井忠正となる

●長女 阿部貞子 伯爵小笠原長幹と結婚


●阿部忠正 伯爵酒井忠正となる
ccfd0f07



●阿部貞子 伯爵小笠原長幹と結婚



=========================


◆15代 阿部正直 14代正桓の子
1891-1966 74歳没




■妻  阿部直子 子爵阿部正功の娘
1897-1982 85歳没




日光別邸で
左から 女中 直子夫人 正直 10代正寧の娘豊子 篤子夫人 酒井忠正 女中
1c724a75.jpg


大森別邸 温室前で
左から 篤子夫人 正直 貞子 直子夫人
fa0d9903.jpg



●長男 阿部正道 16代当主
●三男 阿部正昭 男爵浅野正昭となる

●長女 阿部和子 子爵松平乗文と結婚
●二女 阿部興子 結城普と結婚


=========================


◆16代 阿部正道  15代正直の子
1917-2011 94歳没


■妻  徳川伊津子 一橋徳川宗敬伯爵の娘
1922年生


●長男
●二男
●三男
●長女
●二女

◆34代 井伊直弼  33代井伊直亮の子
1815-1860 45歳没*暗殺

*身長162cm、背は高くなで肩、面長で額が広く、眉は太く鼻は高い。

*36歳の時、言語障害と歩行障害を発症する。脚気と脾腎虚弱と診断され投薬で治る。


■妻  松平昌子  亀山藩主松平信豪の娘
1834-1885 51歳没


●庶子 井伊直憲  35代当主
●庶子 井伊直安  子爵井伊直安となる

●庶子 井伊千代子 伯爵松平頼聡と結婚
●庶子 井伊待子  子爵青山幸宜と結婚


●井伊直安 子爵井伊直安となる
1092(1)



●井伊千代子 伯爵松平頼聡と結婚



=========================


◆35代 井伊直憲 34代直弼の子
1848-1904 55歳没

*アメリカ・イギリス・フランスに外遊



1879年 33歳
0033d





■前妻 有栖川宮宜子女王 有栖川宮幟仁親王の娘 
1851-1895 44歳没

27ff0dd2.jpg



■後妻 鍋島常子     蓮池藩主鍋島直紀の娘
1870-1932 62歳没


●男子 井伊直忠 36代当主


=========================


◆36代 井伊直忠 35代直憲の子
1881-1947 65歳没




■妻帯せず


★側室 斉藤ふく 元日本赤十字社の看護婦
1882-1946 64歳没


●ふくの子 井伊直愛 双子 37代当主
●ふくの子 井伊直弘 双子 子爵戸沢正弘となる


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
井伊直弘

私の父〔井伊直忠〕は、要するに直弼が暗殺され井伊家は国賊だという扱いをうけていたわけで、本来なら侯爵になるところを伯爵という格下げみたいな形になっていたわけでしょう。
だから父は世間に出て行くことを嫌って、能に打ち込んでいたのではないかと思うんです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


=========================


◆37代 井伊直愛 36代直忠の子 
1910-1993 83歳没


■妻  尚文子  侯爵尚昌の娘
1917-2004 87歳没


文子夫人 1996年
19966012



●長男
●二男
●長女

東京本邸 芝区田町 (現:港区 芝または三田)

4a22b96a.jpg



=========================


◆6代 柳沢保申 5代柳沢保興の子
1846-1893 47歳没



1879年 35歳
0035h



■妻  一条明子 公家一条忠香の娘 
1846-1902 56歳没


●男子 柳沢保承 8々代当主
●男子 柳沢信保 士族武田信保となる
●男子 柳沢保篤 中島五郎の娘中島千代子と結婚

●女子 柳沢秀子 婿養子を迎え7代当主とする
●女子 柳沢悦子 医師朝倉文三と結婚
●女子 柳沢菅子 士族遠山景久と結婚
●女子 柳沢武子 財閥岩崎豊弥と結婚


奥左から  悦子・尚子夫人の母鍋島栄子・露子
手前左から 柳沢保恵・菅子・柳沢保承・武子・邁・保承の妻尚子夫人
bd6bfcb7.jpg



●柳沢武子 財閥岩崎豊弥と結婚



=========================


◆7代 柳沢保恵 黒川藩主柳沢光昭の子・婿養子になる
1870-1936 66歳没

*ドイツ・オースリア・ベルギーの各大学に留学




■妻  柳沢秀子 6代保申の娘
1880-1904 24歳没


●男子 柳沢邁  早逝
●女子 柳沢露子 外務官僚岡本季正と結婚


左から 邁・露子・柳沢保恵
02215bfe.jpg


左から 保承の妻尚子夫人・露子・柳沢保恵
267ec0f6.jpg



::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
先代保申は女子ばかりが続いたので分家から保恵を婿養子に迎えたが、2年後妾に男子保承が生まれてしまう。
自分の息子に後を継がせたい保申は保恵を分家して何か爵位を与え、保承を当主にするべく運動したがかなわぬまま死去した。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


=========================


◆8代 柳沢保承 6代保申の子
1888-1960 72歳没


■妻  鍋島尚子 侯爵鍋島直大の娘 
1894-1973 79歳没




●女子 柳沢昭子  子爵京極高光と結婚
●女子 柳沢豊子  伯爵伏見博英と結婚
●女子 柳沢佐久子 婿養子を迎えて9代当主とする


=========================


◆9代 柳沢斉徳 公爵島津忠重の子・婿養子になるが離婚
1919-1968


■妻  柳沢佐久子 8代保承の娘 
1923年生


●長男

柳川別邸 福岡県柳川市
50b16dbf.jpg


2df5839b.jpg



=========================


◆21代 立花鑑寛 立花寿俶の子・養子になる
1829-1909 80歳没


■妻  徳川純子 田安徳川斉匡の娘
1824-1906 82歳没


●長男 立花鑑良
●二男 立花寛治 22代当主
●三男 立花寛正
●四男 立花寛篤 子爵柳沢徳忠の娘柳沢貴子と結婚

●女子 立花敏子 立花守雄と結婚
●女子 立花清子 男爵細川興生と結婚
●女子 立花春子 男爵西高辻信稚と結婚


=========================


◆22代 立花寛治
1855-1929 74歳没

1879年 24歳
0024g


1102(1)





■1番目の妻 青山鈎子 八幡藩主青山幸哉の娘・立花寛治と離婚・亀田藩主岩城隆邦と再婚
1862年生


■2番目の妻 山内邦子 新田藩主山内豊福の娘
1862-1897 35歳没




■3番目の妻 酒井鍈子 酒井忠惇男爵の娘
1872-1946 74歳没


●長男 立花鑑徳 23代当主

●長女 立花理子 立花種政と死別・その弟子爵立花種忠と再婚
●二女 立花綱子 子爵山内豊英と結婚


●立花理子 立花種政と死別・その弟子爵立花種忠子と再婚



=========================


◆23代 立花鑑徳
1884-1957 73歳没

5002





■妻  徳川艶子 田安徳川達孝伯爵の娘
1891-1968 77歳没


●長女 立花文子 婿養子を迎え24代当主とする





鍈子夫人と艶子夫人




左から 鑑徳 鍈子夫人 寛治 艶子夫人 綱子 栄子 貞子 敏子
1d180b39.jpg


立つ左から 艶子夫人 寛正夫人千代子 鑑徳 春子 文子
座る左から 立花寛正 理子 貞子 寛治 敏子 鍈子夫人
20600bca.jpg



::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
立花文子

母艶子は三田の徳川様という家風で育ちましたから、日常の身の回り一切をまわりの世話に負うという生まれつきのお姫様でした。
もともと丈夫な身体でなかったせいもあり、普段の日課といっても特別なことは何もありませんでした。
朝起きて午前中にお風呂に入り髪をきちんと結って、この時にぬくみのある物は脱いで新しく着替えるのです。
後は父の簡単な身の回りの世話をするぐらいで、食事を作ることなどありませんでした。
趣味といえば和歌をよくしていました。

「うちの庭にはどうして草が生えないのだろう」と不思議に思っていました。
「よその家に行くと草が生えているのに、うちは草が生えないようになっているのだろうか」と。
恥かしいことですが、その理由を知ったのはずいぶん大きくなってからでした。
いつも草取り作業をする人たちがいて、私たちが庭を散策しようとすると奥詰という立花家の役人が庭に走り、道筋の作業を中断させるのです。
作業する姿を見せないようにして、別の場所の草取りをさせていたそうです。
子供にはそんなカラクリは見えるはずもありませんでした。

大叔母や叔母たちは別棟に住んでいらして、同じ敷地内に住んでいても一日に何度も会うというわけはありませんでした。
たまに庭を散歩される叔母様とすれ違う際は、子供の私から会釈します。
するとあちら様も軽く会釈して立ち去るという風でした。
とても近しく声をかけたり、走り寄って甘えたりしたことは記憶にありません。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


=========================


◆24代 立花和雄 男爵島村速雄の子・婿養子になる
1907-1994


■妻  立花文子 23代鑑徳の娘
1910-2010








5003






186f232b.jpg


5000



●長男
●二男
●三男
●長女
●二女
●三女

このページのトップヘ