直球和館

2025年

2015/07

《有馬頼寧の愛人 福田次恵編》

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<有馬頼寧伯爵の子・作家有馬頼義によるまとめ>

大正13年の夏私達一家は逗子に家を借りていた。突然母が倒れた。
病名は腎盂炎であった。それ以降、母の病は死ぬまで治らなかった。
腎盂炎と言われたが実は腎盂腎炎という病気で、父から淋菌を感染されたのがその原因であった。
しかし恐らく事実は母には語られてはいなかっただろうと思う。

父の母に対する感情は、大正12、3年あたりからガラリと変っている。
福田次恵という一人の女が父の身辺に寄り添うようになった。
これは私が後年博多で聞いた話である。
父はかなり長い期間久留米で足止めをくっていた。
その間に博多で雛妓をしていた女と出会った。
父が身請けする事になり1万円の値がついた。
1万円と言えば、金利で一生食えた時代であった。
雛妓は2年間祇園へ芸道の修業に預けられ、
昭和になってから荻窪に家を建ててもらって妾の生活に入った。
私は父が死んだ時、福田の所へ金を持って行って30年の糟糠を謝しきれいに引き取ってもらった。

福田次恵は荻窪の私達の家から50mも離れていない所に家を建ててもらって住むようになった。
福田の家は私の家から歩いて1分もかからない所にあり、
父は車で帰宅する時そこで降り、車だけを家に帰し深夜玄関の鍵を開けて戻って来た。
最初のうち母は毎夜父が帰るまで起きており両手をついて「お帰りあそばせ」と言っていたが、
昭和10年頃からそれをしなくなった。それだけが母の抵抗なのであった。

その昔長男頼秋・長男静子・二女澄子が幼い頃、父は若く母も元気で一家は幸福であった。
そういう時代を知っている静子は、後年の父と母についてどっちの味方とも言わなかった。
澄子は今でも言う。「お父様がお可哀想だったわ」
澄子に指摘されるまでもなく、母にももちろん欠点はあった。
その一番大きなものは、性格の冷たさであった。
だから澄子には、美しいが冷たく誇り高い母を妻に持って、
父が福田に走った事がなんとなくわかるような気がしたのに違いない。

父の姉禎子は豊後中津の藩主伯爵奥平昌恭に嫁したが、この結婚は失敗であった。
破局の原因は昌恭の酒乱で、禎子は殴る蹴るの乱暴をされて二度と奥平家に戻るまいと決心したが、
女一人で生きていく方法がない。
禎子は月にわずかな手当てを私の父からもらって転々と借家住まいをしていたが、
昭和5,6年頃から我家へ寄食した事がある。
ところが我家に居つくようになって間もなく、禎子は福田と仲良くなってしまった。
芸事とか芝居見物がそのきっかけになっていたのだと思うが、
禎子が福田と遊び歩くようになって、困ったのは父で被害を受けたのは母なのであった。
禎子という人は性格的に有馬家の、と言うよりも父の作り出した秘密主義の家風には合わなかった。
つまり母に対して福田の事を細大もらさず話すようになったのである。
父が禎子にそれだけは止めてくれと言っても、
禎子はわかったのかわからないのか少しも態度を変えようとしなかった。

母が私に、父が母に疎開を勧めるが、福田のことがあるから疎開したくないと漏らすようになった。
父の死後父の日記を読むと、母と福田は同じことを言っていたのだ。
相手を疎開させてしまいたいというのが二人の女の本当の気持であった。
父は福田を戦争から安全なところへやりたかった。そしてできれば自分もそこへ行きたかったのだ。
それにはまず母を疎開させる必要があった。母が疎開を決心する前に、福田の方が先に疎開した。
しかしそれでも母は疎開するとは言わなかった。
自分がどこかへ疎開をしたら、父が福田を呼び戻すのではないかという事を恐れているようであった。
この疎開を機に父が福田と別れる方が良いと私達きょうだいとその夫達は考えた。
しかし父が子供達の進言を入れようとは思われず、この話は実現しなかった。
新しい年に入ってから東京の空襲は本格的になったが、母はどこへも行かないと言った。
「疎開して下さい。空襲のたびに気になって仕方がない」と私は母に言った。
「でも私が疎開をすると、お父様は福田をお呼びになるでしょう」と母は答えた。
そんな押し問答をしているうち、東京のあらかたは灰になってしまった。

父の神経痛はひどかった。
薬を打つまで1時間も2時間も部屋中を転げ回り、爪で畳を掻きむしるような状態であった。
病気が起るというよりモヒが切れると暴れ出すという感じの方が強くなった。
そんな時、私と母は父を押さえつけ、説得し我慢させた。
父は3日ばかりで発作がおさまると、ケロリとして福田のところへ行った。
そして福田の家で発作の前兆が始まったり、薬が欲しくなると母のところへ戻ってきた。
静子と澄子と私と相談して、一度発作の時に福田を呼んで介抱させてみようと言った。
静子はそれもいいだろうと言ったが、澄子は福田を父の家に入れることに反対した。
母に相談すると、母は発作を福田に一度見せたいと言った。
それで次に発作が起こった時、私は福田を呼びに行った。
私たちの真意を父や福田が理解したかどうかわからない。

同じような繰り返しが10年近く続いたのであった。
父は意識を失う前に「福田を呼んでほしい」と静子に言った。
その事についてまた子供達の間で相談がなされた。
父自身が母でなく福田に看取られたいと言ったからであった。
私達には相当な抵抗があった。相談はなかなかまとまらなかった。
結局母に聞いて母がいいと言うならば福田を呼ぼうという事に一決した。
母は「お父様のおっしゃるようにしてください」と答えた。
皮肉な事に福田が来た時、父は意識を失っていた。
父の唇から母の名前はついに一度も呼ばれなかった。
医者が御臨終ですと言った時、母ははじめて自分の部屋を出て父のそばへ行った。
母の姿を見てから福田は黙って静かに去った。
母は父の死に際して一度も泣かなかった。
福田も泣いていなかった。
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芸者舟子(福田次恵)、芸者種千代(木村初江)、
その他いろいろな女性と同時進行が始まる。


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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員

*倉富勇三郎は有馬伯爵家の相談役でもあった
*当時総理大臣の年給は1万2,000円

1921年6月20日
倉富&有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の会話

橋爪◆頼寧の住居を荻窪に建築する事につき同意を求む。
倉富◆頼寧は何事も飽きやすき性質なるゆえ、建築したる後不便なりとてまた市内の住居を希望する懸念あり。
橋爪◆頼寧は「先年は不品行の事ありたるも、今日はこれを悔い教育に尽力して名誉を回復せんと熱心に勉強しおるも、相談人は自分を信用せず。
このごとき事にてはとうてい面白からざるゆえ外国に行かんと思う」と言えり。
倉富◆予は実にこれを信用しおらず。
頼寧の仕事は一つとして永続する事なし。
先年アメリカ行きを主張したるはミドリとの関係より出たる事にて、真に発奮心ありたる訳にはあらず。
同情園の事は一時非常に熱心の様なりしも、今日にてはすでに倦みおる模様なり。
このごとき事にて人の信用を求るも、それは無理なり。

1921年7月18日
※倉富&有馬伯爵家相談役の一人境豊吉の会話

境◆先頃頼寧より家屋建築の相談を受け、建築すべき場所は度々変更したるが、結局只今の所にては荻窪の所有地に建築する事となれり。頼寧の考えにては非常に節約の方針にて、2万5000円ぐらいの費用にて済ますつもりなる様にて、それにては済まざるべしと思う。
青山の現住宅を売り払いたらば6,7万円ぐらいにはなるならん。
これを建築費に充て、その上に2万5000円ばかりを加うる事となしてよろしかるべきや。
倉富◆予もこれまであまり度々考えが変わるゆえ、せっかく荻窪に建築してもいよいよ不便となりという風になりては困るゆえ、先日頼寧に面会してこれを確かめたるところ、その事は大丈夫とのことにつき大体同意しおきたり。
頼寧はごく小規模でよろしと言いおるも、本邸と言う以上は吉凶等の時は100人ぐらいは集まる事も考えおくべからざるべし。
境◆それは大変なり。
今の所にては建坪160~170坪ぐらいにて、1坪の建築費200円ぐらいのつもりなり。
家を建つるだけの費用は多額を要せざれども家具その他に要する金額少なからざるゆえ、青山の家屋売却代の他に2万5000円ぐらいを補助する事を得るものと考え置きよろしかるべきや。
倉富◆荻窪にするならば周囲の外構だけにても多額の費用を要すべし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1923年7月27日
※倉富&有馬頼寧の上司 東京大学農学部教授原熙の会話

原◆頼寧が農科大学助教授の辞表を出したり。
これはよほど前に出したる趣なるも自分が支那に行きおりたるため大学総長が自分の帰るまえ預かり置きたりとの事なり。
倉富◆本人は先年来大学の方は辞したしと言いおる事なるに、無理に引き留めおきても実際勉強もせず、予はやむを得ず大学の方を辞する事は致し方なからんとの答えを為しおきたる訳なり。
原◆頼寧は農政研究所を設けたしと言いおり、その費用は5万円の建築費と設備費1万5000円を要すと言いおり、
「有馬家にては如何なる事ありても自分の希望する費用を支出する気遣いなし」と言いおりたり。
倉富◆農政研究費の談は聞きたるに相違なし。
農事研究費として3000円を要すと言うにつき、4~5年前より年に3000円支出しおれども、すべて他の事に支出し研究には少しも使用せず。
原◆これまで3000円の研究費を支出しおる事などはすこしも話を聞きたる事なし。
「有馬家にては到底自分の希望を容れくるる事は無きにつき、自分は自由行動を取り他より金を借り入れて勝手に事を為す」旨を申し来りたり。
倉富◆しかるか。
実は予も今朝書状を受け取り、その書状には差向きは勝手に金を借り入るること等を申し来りおるが、戸主と成りたる時の理想としては所有地は無償にて小作人に遣す事、屋敷を解放する事、社会事業に金を出す事等を列記し、その言う所は社会主義の如く見ゆるが、一方には金の必要を説き前後矛盾の事多し。
極端に言えば精神病的の様なる所もありと言う。
原◆しかり。
よほど注意せざれば有馬家の運命にも関する事になるならん。
頼寧はしばしば意思の変る事ある人なるにつき、今少し時日が経ちたらば幾分考えの変わる事もあらん。
倉富◆その通りなり。
家屋の事にしても荻窪に建築すと言うにつき、予は必ず後悔するならんと言い、これを差し詰めたるも決して変更せずと言うにつき、その方に決したるところ、まだ建築に着手せざる内に変更して青山に建築する事となれり。
ただし芸妓道楽と同愛会の事は飽き方が遅くて困る。

1923年7月29日
有馬家別邸に行く。
予が原熙に会い頼寧の事を談し、また頼寧が地位も資産も必要なしと言いながら、一方にはその娘を秩父宮に納れんとする望みを有しおる事を談す。
原の話にては頼寧は7,000円ほどの負債ある趣なる事を談し、頼寧がこの如き書状を送りたる近因は負債の始末に困りおる事なるべしとの事に相違なし。
この際若干の金を供ずれば一時は折り合うべきも、事を仰山にする為、この節は久留米の相談人も呼びて協議する方よろしからんという事に一致す。

1923年8月10日
※倉富&有馬伯爵家の職員有馬秀雄の会話

倉富◆自分はこの際相当の多額の金を頼寧に分与せられ、頼寧の希望を満たすと同時に、金銭の価値を知り自覚の心を喚起せしむるがよろしからん。
困難なるには相違なし。
頼寧に対する交渉は予が担当すべし。
伯爵に出金を説く事は有馬秀雄君を煩わしたし。
有馬◆その事は自分が担当すべし。

1923年8月13日
※倉富&有馬伯爵家の職員有馬秀雄の会話

倉富◆この際頼寧に100万円を分与し、本邸との関係を絶ち、100万円は頼寧の随意処分に任す事なり。
これは全体無謀の事なれど、100万円を無益に費消したる事となりたらば、頼寧自身にも幾分か省察して覚る所あるべく世間にて頼寧を誤解しおる人も多少事情を覚知する様になるべし。
この事は意外の事にはあらず。
しかし父頼万の承諾を得がたからんと思いおりたる事なり。
有馬◆頼万には頼寧は不検束にて危険なるゆえ、頼万の財産を保護するためこの処分を為す必要ありと言いたらば承諾せらるるならん。

1923年8月21日
倉富「頼寧の事につきては父頼万も始終苦心せられ相談人らもたいそう困りおり、よりて頼寧の累を絶つためこの際適当の処置を為さる方がよろしからんと思う」と言いたるところ、
頼万「如何なる方法ありや」と言わるるにつき、
倉富「頼寧に金を与えくるるより他に致し方なし」と言いたるに、
頼万「頼寧には金をは与えず。一文にても与うる事はできず」と言わるるゆえ、
倉富「左様の事を言われても原熙の談によれば頼寧は既に負債もありとの事にて、これを償わざる訳にはいかず。頼寧は相続人なるゆえ結局伯爵家の全財産を相続すべき人なれば、この際若干の金を与えらるるは致し方なし」と言いたるに、
頼万「いかほど与うるや」と言われ、
倉富「多額なるが100万円与えられたし」と言いたるに、
頼万はその多きに驚き承諾せられざりしも、夫人そばよりこれを慫慂し、
倉富「結局頼寧の有となるものにて、かくすればこれまでの如く面倒なる事もなくして済むゆえ御気楽になるべく、しかして100万円分与せられても残額はなお2/3以上あり。ともかく処分を為すならば只今が最好時期なり」と述べ、
頼万「よろしく」言われ、
承諾の事項を記したる頼万の書面を取り来れり。
『公正証書額面100万円・青山南町・北町・荻窪の3邸を頼寧に与うる事、その管理処分には頼万は干渉せざる事、頼万家の家政には頼寧は関係せざる事など、頼万の署名捺印あり』

1923年8月26日
※倉富&有馬頼寧伯爵の会話

倉富◆有馬家にとりては重大なる事をもって久留米にある相談人らを上京せしめ、数回協議会を開き、処置方を議定せり。
頼寧◆例えば頼秋が結婚する時、静子が嫁する時なども、分与財産にて支弁する趣意なりや。
倉富◆しかり。
皇族より臣籍に降下し侯爵を授けられる方も、資産として賜るは100万円なり。
100万円にて侯爵家を立てらるる訳につき、貴君も伯爵家を相続するまでは100万円にて万事を弁せらるる事を得るならんとの考えなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1924年2月7日
※有馬伯爵家の職員有馬秀雄の発言

頼寧は100万円の分与につき非常に不平を言い、
誰に対しても「100万円ばかりで自分を追い出したり」と言いおらるる。
頼寧は久留米にては非常に評判悪し。
水平社の某は白山にて演説を為し、
「有馬頼寧は何者ぞ。自分らを食い物にして売名の手段と為し言語道断の者なり」と述べたる趣なり。
篠山神社の神官某は頼寧に非常に憤慨し、
「彼の如き不都合なる者は久留米に足踏みせしめざるがよろし」とまで言いたる趣なり。
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『有馬頼寧日記』

1926年1月4日
「もう恋などと言う年でもないじゃありませんか、子供に対する愛に生きたらどうです」と賀川君に言われた時、そうでなければならないとは思った。
しかし私の偽らぬ告白はいまだ若い若い恋をする心があるのだ。
次恵に対する私の愛は決して汚らしい性欲ではない。かなり純な愛を捧げている。
私はどこまでも自分の思うがままに強く生きていく。
最後がどんなであろうとそんなことなんだ。
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『有馬頼寧日記』

1926年1月10日
午前8時過ぎ京都へ着く。
今朝7時の汽車から停車場へ来て、次恵は待っていたとのこと。
寒いのに気の毒と思って時間を知らせなくてかえって可哀想なことをした。
それでも迎えに来てくれたことは嬉しい。
何度来ても京都は良い。
今までどの女とも一緒に外出などしたこともないのに、次恵とはしきりに出たい気がする。
どうも可愛くて仕方がない。とても別れる気などにはなれない。
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『有馬頼寧日記』

1927年4月28日
午後9時過ぎ帰宅。
自分の家に帰ってなぜこんな気まずい思いをしなければならないのか。
旅行をすると言うて家を空け女の所にいたのだから、気おくれのするはずだ。
妻の他に女があるということは本当に悪いことなのだろうか。
一夫一婦制という習慣に基づく約束、それを道徳と言う。
そうしたものに縛られているべきなのだろうか。
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『有馬頼寧日記』

1927年7月08日
長田屋に立ち寄り、〈年菊〉と〈種千代〉を呼んで6時まで遊ぶ。
種千代という子、可愛らしい。
種千代という女は近頃になく私の心を捕えた。
身丈は5尺にも足らぬ小作りで肉もあり顔が良い。
日本人の多く持つ欠点の、鼻と口に難がない。目つきも良い、髪も長い。
そして利口である。
私はこういう女が好きでたまらぬ。
もう浮気な心は起こすまいと思うけれど、こうしたのにぶつかるとまた心が若んでくる。
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『有馬頼寧日記』

1927年7月9日
次恵、九州に発つ。
停車場に送り銀座に行く。
長田屋に行き初江を呼ぶ。
まだ寝ていたのを起きてくる。
土曜だから多分旦那さんでも来たのであろう。
羨ましいと思う。
衣服といい持物といい、ずいぶん良い物をしているからよほど良い人が付いているのであろう。
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『有馬頼寧日記』

1927年7月11日
午前10時より祥雲において愛子の命日につき御経をあげる。
それから長田屋に行き初江に会い、6時半神田の青年会館に行く。
9時近く青年会館を出て9時過ぎ〈蜂龍〉に行き初江に会う。
女将の話で旦那のある事を聞き落胆する。
何だかたまらなく寂しくなり、いろいろ言ったので本人も泣いていた。
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『有馬頼寧日記』

1927年7月12日
長田屋に行く。
ほとんど日参だ。
初江の顔を見ていると何だか胸が塞がってくるような気がする。
私もまだ恋をする若さがあるかと思うと嬉しい。
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『有馬頼寧日記』

1927年7月13日
産みの父を知らず母は他に嫁いで、その家にいる事を苦にして商売に出た、今まで力強い人を求めていて得られなかった、それが得られたので嬉しいと言っていた。
女難の相があると言われた私の一生は、ついに女難をもって終始している。
これが私の運命なのか。
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『有馬頼寧日記』

1927年7月14日
初江と私の間はこれからどうなって行くのか。
毎日一度は顔を見ねば納まらぬ。
〈龍土町〉〔別の妾宅・庶子もいる〕など全然足は向かぬ。
済まぬと思いながら、〈仲ノ町〉は留守で幸せだ。
〈新潟〉など全然忘れてしまうことができる。
ただCとの関係が初江との関係とこんがらがって、将来何らかの面倒を引き起こすのではあるまいか。
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『有馬頼寧日記』

1927年7月15日
今朝初江から可愛い手紙をもらい、ネクタイをもらう。
可愛い。
彼女の志は本当に嬉しい。
こうした社会に本当の嬉しい意気がある。
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『有馬頼寧日記』

1927年7月16日
Cが待ち遠しがって電話など掛けてくる。
〈肥沼〉に気の毒だ。
それに初江に知れたら、さぞ残念に思うだろう。
可哀想だ。
今日は初江から二度も手紙が来る。
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『有馬頼寧日記』

1927年7月18日
Cと初江から電話が掛かってくる。
少々困る。
が、一生懸命になっていると思えば気の毒にも思う。
どうしたら女というものから遠ざかれるようになるのか。
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『有馬頼寧日記』

1927年7月19日
11時半蜻蛉に行きCと食事をする。
3時より長田屋に行き初江に会う。
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『有馬頼寧日記』

1927年7月21日
明日もまた初江に会う約束をする。
Cには断って。
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『有馬頼寧日記』

1927年7月22日
午後2時長田屋に行き初江に会う。
5時までいる。
初江が私に傾注しているため〈蜂竜〉の方では非常に心配しているらしい。
ただし本人はこの心をどうすることもできぬと言うている。
Cが電話をかけてきたが断る。
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『有馬頼寧日記』

1927年8月6日
初江と今のうちに別れた方がよいと思って話したが、とてもそんな気にはなれぬらしい。
可哀想だからこのままにしておこう。先の事を考えると多少心配だけれど仕方がない。
その時はその時の事にする。
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『有馬頼寧日記』

1927年8月16日
なんだか次恵に会いたくて仕方がない。
早く帰ればよいと思う。
〈民子〉の所へ行かねばならぬとは思うが、泰〔庶子〕の事を思うと足が向かぬ。
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『有馬頼寧日記』

1927年8月20日
次恵は何日帰るともいまだに言うてこぬ。
どうしたのだろうか。
もう四十日にもなるのにノンキな奴だ。
安心してしまうとこれだから困る。
でもまた可愛い。
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『有馬頼寧日記』

1927年10月5日
午後は仲ノ町に寄る。
次恵は怒っていた。
博多に帰ろうかと思ったと言う。
可哀想だとは思うが、私の心はだんだん遠ざかって行く。
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『有馬頼寧日記』

1927年10月16日
午後3時半、長田屋に行く。
初江が清元をさらっていた。
紫の絞りの着物を着ていたのがなんとも言えぬ可愛らしさ。
今日という今日は、もうとても捨てられぬ気持ちがした。
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『有馬頼寧日記』

1935年5月11日
夜、福田のところへ行く。
今日は11年目の記念日なり。
大正13年5月11日のことを思うと遠い昔のように思われる。
それから月日は流れて今年で11年である。
選挙に当選したあの頃が、一番華やかな時代であった。
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『有馬頼寧日記』

1935年5月30日
福田の気持ちはわかっているけれど、実に困ってしまう。
尼さんになるとか、独りきりでいるとか、実行できぬことばかり言う。
いっそ嫌ってくれれば始末がよいと思う。
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『有馬頼寧日記』

1936年2月8日
3時福田のところに行く。
今夜は帰るつもりのところ、泊まりたくなってとうとう泊まる。
福田は喜ぶが、貞子の機嫌がまた悪くて嫌な思いをすることであろう。
この三角関係は将来どういう風に展開することか。
何事も成り行きに任すほかなし。
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『有馬頼寧日記』

1936年9月5日
夕食後福田のところに行って帰ると、裏門のところに貞子待っていて、それから約1時間下庭の森の中で話す。
福田と清算しろと言う。
自分はできぬと断る。
家庭に対しては尽くしているつもり。
これで悪ければ何とでもするがよし。
自分としてはこれ以外できぬ。
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『有馬頼寧日記』

1936年11月2日
今日姉上様〔禎子〕に手紙をあげ、福田との御交際をお断りする。
さだめし御立腹のことと思うが、困るから仕方ない。
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『有馬頼寧日記』

1936年12月12日
世田谷常泉寺の木村初江の七年忌の御墓詣をする。
もう7年も経った。
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『有馬頼寧日記』

1937年1月20日
姉上様はどういう考えでおられるのか、時々福田に余計なことを言われる。
あまり迷惑するようなことを言われるなら御世話はやめる。
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『有馬頼寧日記』

1937年5月1日
貞子がまた変なことを言い、私が不親切だとか、病気が治ったら別居するとか言う。
神経が高くなっているから仕方ないと思う。
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『有馬頼寧日記』

1937年5月11日
今日は満13年の記念日である。
福田との間はもはやどうすることもできぬものとなってしまった。
あるいは自分の余生を誤るかもしれぬが、自分としてはそれで満足なのだ。
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『有馬頼寧日記』

1937年11月15日
Kとの危ない橋を渡るのが、いつまで知れずに続くか。
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『有馬頼寧日記』

1937年11月20日
近頃の私の行動について、福田がなんとなく不安を感じているように思われる。
どうしてこう無思慮なことをして後悔を重ねるのだろう。
赤坂も柳橋もなんとかせねばならぬと思いながら、だんだん深みに落ちて行くような気がする。
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『有馬頼寧日記』

1937年11月28日
貞子とまた少しゴタゴタする。
貞子の希望としては、自分の死ぬ時には福田と別れたということを聞いて死にたいとの話。
さもなくば、その前に自分だけ別になるとの話。
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《有馬頼寧伯爵の愛人 松信緑編》

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『有馬頼寧日記』

1919年補遺
<有馬頼寧自身によるまとめ>

ミドリが奉公に来たのは大正6年の9月であった。
その時は別に注意を引くような事もなかった。
大正7年の2月頃から私の頭にはミドリを忘れる事が出来なくなった。
他の女中達に比べれば顔も美しい姿も良い、しかし非常な美人というでもない。
しかし常に沈んでいる様な考えている様な、クリスチャンの人に有りがちな落ち着いた態度が良く可愛く思われた。
そして単に可愛いと思っていたものが、ついに熱烈な恋となってしまった。
しかし年来女に関しては不品行を数多くした私にとっては、精神的な美しい恋というよりはむしろ内的要求の対象物として私を悩ました。

春から夏にかけ私はしつこく追い回し、また機会あるごとに手紙をやって自分の愛に従わん事を望んだ。
しかし私を恋していない、また信仰という事も手伝って決して私に従うとは言わなかった。
きかれなければきかれぬほど思う心は募るばかりであった。
そのうち頼秋〔頼寧の長男〕がミドリに心を寄せている事が感づかれだした。
ミドリはもちろん意にも介せなかった。
私としては憎らしいというよりは心配であり可哀想であり苦しかった。
頼秋に満足を与えるにはあまりに私が恋しすぎていた。
私とミドリとの間を心配のあまり池尻が長浜に相談し、長浜からミドリの家に話して引き取らせる事とした。
私としては、家の平和のためミドリ自身のため頼秋のため、それが一番良いと思って承諾した。

しかし何事にも自分の望みを達せなくては満足できぬ私の気性として、ミドリに手紙をやり帰ってから他で会合する相談をした。
そして自分の心持を初めて口で充分述べた。
ミドリも私の心持は大体手紙で知っていたし、また熱烈な私の恋を退けるほど冷たくもなかった。
それがためとうとう肉体関係が成り立ってしまった。
その後佐原に帰ってからも毎月一度ぐらいは上京してもらい危ない逢瀬を楽しんだ。
12月頃にはもうまったく離れる事のできぬものとなり、私はミドリのため富も名誉も捨てて一緒になる決心をした。
この時に私達二人にとって最大幸福の時であった。

これより先ミドリの兄春之助氏に面会、ミドリと共にアメリカへ行く許可を両親に求めた。
私達の考えのあまりに乱暴なのに両親もだいぶ苦しまれた様であったけれど、秘密に実行するという条件下に許された。
越えて今年1月私は佐原へ行き、両親の許しの下に初めて公然と佐原に泊まって、ほとんど一睡せぬほどに喜び語り明かした。
その後はたびたび佐原へ行った。またミドリは春頃から横浜の青年会にいた。
それは会うのに都合の良いためと外国行の準備のためであった。
横浜にいた頃は1週に1度東京から行き、1度は東京へ来てもらって会っていた。

その内に父さんが会社に勤める事になって佐原を引き払って東京住まいをされる様になったので、横浜にいるのも変なものだし、洋行もほとんど望みないものとなったので入谷に引っ越した。
それから後は1週に2度入谷の家に行った。
洋行はとても駄目、たとえ行かれたにしたところ到底アメリカで幸福な生活を送れる見込みもなし、両親もあまり好まれぬので中止となり、東京にいて何とか良い工夫をする相談をした。

昨年の秋同情園の子供を荻窪に招んでから社会の注意を引くようになり、9月から信愛中等夜学校を経営するようになってから、世間の私に対する注意は相当濃いものとなった。
その時分から私はミドリとの関係を相当気にするようになった。
仕事のためにミドリに対する愛を幾分そがれた。
別れるという意思はないにしても何とかせねばならぬと思っていた。
本人はもちろん両親も一生日陰者として私に身を捧げてくれる決心をしていた。
しかし良い方法はもちろんなかった。
その方法としては、ミドリが両親と別居し絵や英語の勉強をして独立の基礎を作るというのであったけれど、東京にいて別居も変なものだし、どう考えてみても良い方法はなかった。

そこに突然新しい事が生じてきた。
池尻夫婦が嫁の口を世話すると言ってミドリの家を訪ねて来てミドリの独身生活を非難し、ミドリと私との関係がある様に噂のあるのは私のためにもミドリのためにも不幸だから、ぜひ嫁にやると進めた。
もし聞き入れねば瀧川や稲見に相談に行くと言ったので両親も大変困りかつ私の身を思って心配された。
その結果、私とミドリは相談の上お互いの身の幸福のために別れる相談をした。
私も今まで商売人にも素人にも関係した女が少なくない。
私はそれを大して悪い事だと思っていなかった。
世間から非難を受ける様な事があっても大して驚こうとは思っていなかった。
しかし社会的事業に携わるようになり殊に教育という事に関係するようになってから、自らを顧みての苦しみは日々に加わってきた。
ミドリとの関係を考えると良心の呵責は相当に重かった。

私がミドリに対して取った態度は決して恋人として取るべき態度ではなかった。
すべては年とともに去ってしまった。
1919年の行き過ぎるとともに私の罪は永遠に流れ去ってしまった。
私は捨てられたのだ。いや救われたのだ。
私にとって1919年は良い意味においても悪い意味においても一番幸福な年で、おそらくは一生の内二度とない年だと思う。
その意味においてのみ年の暮れるのを名残惜しく思う。
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松信緑は茨城県出身、同志社女学校を卒業、家族は両親と兄、一家は千葉県佐原市に住んでいた。
ミドリの父と有馬家の職員長浜直哉と親しかった関係から、
大正6年9月長浜の紹介で有馬伯爵家に行儀見習として勤めることになった。
翌大正7年2月頃から頼寧がミドリを見初め積極的に口説くようになる。
当時頼寧は東京大学農学部で講師を務め、2男3女の父であった。
ミドリは拒否し続けていたが、そのうち知らずに頼寧の息子頼春までもがミドリに魅かれるようになる。
ミドリは有馬家から暇を出され両親の元に戻ったが、その後も頼寧に口説かれついに不倫関係となる。
頼寧は両親とともに住むミドリの家に通って泊まるようになる。
しかしミドリが妾になる事を拒み本妻となる事を望んだため、
頼寧は二人でアメリカへ行って暮らそうと計画する。


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『有馬頼寧日記』

1919年1月6日
今日倉富に手紙を書いて外遊の事を計った。
私は父上様にも背き相談人にも背き妻子にも背き有馬家にも背いて自分の理想を実現したいのだ。
そうするのが皆を安全にする唯一の道だと信じているのだ。しかしそれは到底実現できぬ事だ。
さりとて一人苦しんでいるのはあまりに愚の様に思われるから、
私は一人外国へ行ってその苦から逃れたいのだ。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

*倉富勇三郎は有馬伯爵家の相談役でもあった

1919年01月18日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

有馬頼寧が旧雇人ミドリとの関係を絶たず。
ミドリと〈暁鶏館〉その他へ行きたるにあらざるやと思うべき形跡あり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年01月21日
※倉富&有馬頼寧伯爵の会話

倉富◆洋行の希望が実修業の目的より出る事にあらず、他の事情の面倒なるためこれを避ける目的にて洋行を希望するつもりあらば賛成しがたし。
現在の家状にては子供も数人あり、その教育等を貞子夫人に一任するは貞子夫人の責任も軽からざるゆえ貞子夫人の意向も聞き質す必要あり。
頼寧◆妻は正式に相談したる事にはあらざれども、自分の健康さえよろしければ洋行しても異議なき趣を話したる事あり。
倉富◆ともかく今年4月より洋行するという様に急ぐ訳には参らざるゆえ、今少し様子を見たるうえ思い立たれる様に致してはいかが。
頼寧◆農科大学より留学を命じる事になれば宮内省の都合も差し支えなかるべきにつき、そのうちに農科大学の原煕教授らに自分が私費にても洋行の希望を有しおる事を話しおく方よろしからんかとも思う。
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『有馬頼寧日記』

1919年1月21日
倉富氏来訪。
「留学の事はそれの主たる理由が勉強ということなれば異存なきも、その他の事情とあらば賛成しがたし。また4月と言うは時期早きに失するの嫌いあらばもう少し延ばしては如何。また宮内省にてアメリカ留学を好まず」との事なり。
「よりては時期は6~7月頃にても良く、アメリカ留学の事は学校よりの指定としてもらう様なさん」
事を話し賛同を得、4月に行かれぬは残念なるも、絶対に同意されぬという事にはあらざるゆえ辛抱すべし。
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『有馬頼寧日記』

1919年2月6日
佐原に汽車の着いたのは9時に近かった。
今年になって佐原へ来るのは、これで3度目か4度目だ。
7日頃という約束ゆえもし留守であったらどうしようと考えながら着けば、母さんが出て来られミドリさんは留守との事。
待っているとすぐに帰ってきた。
「ほんとに嬉しいわ」という短い言葉がどんなに私の心を喜ばせただろうか。
そして例の様にその夜はほとんど一睡もせぬぐらい翌朝まで語り明かした。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年2月6日
※倉富&有馬頼寧の上司東京帝大農学部教授原煕の会話

原◆頼寧より書状を送り
「洋行の希望あり、相談人も同意し父も承諾しおるにつき自分の意見を聞きたい」旨申し来りたり。
自分は洋行を止むる方よろしかるべしと思えども、すでに話が進みおるよう考えられるにつき、一応君の話を聞きたる上に本人に話さんと思い来りたり。
倉富◆本人に対し大体において反対はいたしおらざるも、本人が辛抱して勤学する事は望みがたく延期の事に話しおいたり。
本人が君に相談したるは、予が留学に反対したるにつき学校より指定してもらいたい希望にて相談したるものならんと思う。
原◆自分は本人の性質も知りおるつもりなり。
本人はとにかく物に動きやすき弊あり。
頼寧と同学の友人がアメリカに在勤する者ある模様につき、その者よりアメリカ行を勧めたる様の事にはあらざるやと思う。
目的を定めて出かければ効能あるも、さもなければ別段の効能なかるべし。
これ以上は自分の考えをもって本人に話すことにいたすべし。
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『有馬頼寧日記』

1919年2月7日
*2月6日は貞子夫人との結婚記念日であったにも関わらずミドリ宅に泊まる。

「今日も泊まっていかない?」と言われて振り切っても帰られず。
2月6日という記念日をとうとう忘れてしまった。
もう私の心は家を離れてこの新しい恋人の中に入ってしまった。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年2月8日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

流行感冒に罹り病院に入りたる女中ついに死去したり。
その手当等の事も頼寧不在のため貞子夫人は困りおり。
ミドリが2月6日頃郷里より横浜に来る事になりおり、
頼寧はこれを周旋して学校に入れる事になりたる様につき、多分そのために横浜に行きたるものなるべし。
ミドリの父が近日東京に来る趣につき人をしてミドリの結婚を勧めしめるつもりなり。
さすればミドリと頼寧との関係につき父の意向もわかる事にならん。
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『有馬頼寧日記』

1919年2月8日
一夜のつもりがだんだん長くなって今日でもう三夜を過ごした。
いつまでいてもキリのない事なので今日は思い切って帰る事にした。
大雪である。
その中を停車場まで送って来て、汽車の出るのを名残惜しそうに見ている私のスウィート、なんと可愛いことだろう。
「やっと安心した」と言う貞子の言葉を聞いた時にはさすがに済まぬと思った。
しかし何と言っても私はミドリを捨てる事はできない。
私の生きている間は何物を犠牲にしても別れる事はできない。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年2月9日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の言葉

頼寧が2月5日より横浜へ行き昨夜10時頃帰りたる。
ミドリの父は永浜と懇意にて、ミドリを雇い入れる時は永浜が周旋したる。
ミドリの父は近日中上京するにつき、永浜をしてミドリの縁談を試みしむべし。
縁談の事はかねて父より依頼しおる趣なり。
さすれば父がミドリと頼寧との関係につき、いかに考えおるや大概わかるならんと思う。
頼寧はミドリの家に宿したる事あり。
この時ミドリは同室に寝たりとの事にて、さすればミドリの両親が知らざる訳なしと思われる。
頼寧は女中ハナに対し頼寧とミドリとの間の書状の取次をなす事を依頼し、ハナは左様なる事は絶対に致しがたしとして怒りを含みて拒絶したるところ、是非承知せよと言いたる由ハナより聞いたり。
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『有馬頼寧日記』

1919年2月12日
*渡米準備として頼寧は他の妾(芸者小鈴/富子)と手を切ろうとする。

新橋の例の人とはいよいよ手を切る決心をなせり。
関係してよりもはや5年の年月を経たり。
商売根性の染み込みたる人の到底真面目なる生活に入るべくもあらず。
贅沢なる習慣・野卑なる行為その他数え来れば、ただ肉欲の目的物として以外なんらの価値あるを覚えず。
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『有馬頼寧日記』

1919年2月17日
講義を終り急いで行く。
いつもながらほんとにスウィートな人なり。
立派な教育を受け相当の家に生まれ両親もちゃんとしている事ゆえ、この様な事にさえならずば立派な人の妻として暮らせるものを、私のために長い未来を捨ててしまったと思えばほんとにほんとに気の毒で仕方がない。
しかし本人は今更そんな事は決して心配するに及ばぬ、一生愛してさえもらう事ができればそれで満足と行っている。
また両親とても少しも悔やんではおられぬとの事だ。
自分のためにこんなにと思うと可哀想でたまらぬ。
さりとて思い諦める事などはとてもとても。
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『有馬頼寧日記』

1919年2月18日
もし外国行が駄目になった時はいったいどうすればよいのかしら。
本人を陰の人とするのがいかにも可哀想なのと、両親や兄さんに済まぬのと貞子に済まぬのを考えれば考えるほどつらくなってくる。
どうしたらよいやら。
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『有馬頼寧日記』

1919年2月20日
*ミドリは渡航準備のため横浜のYWCAの寮に入る。

横浜の寄宿は思うたよりは良いとの事で安心した。
待合などに出入りする事は止めたくもあるし経済上から言っても不利益ゆえ、横浜の山の手に家を借りそこで出会う様にした方が良かろうとの相談をした。
近い内に探しに行ってみようと思う。誰にも秘密に実行せねばならぬのだから骨が折れる。
どうか神様のお助けで無事に遂行する事のできる様にしたいものと思う。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

*貞子夫人は北白川宮能久親王と側室岩波稲子の間の娘

1919年2月22日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

貞子夫人の懐妊中頼寧がミドリに挑みミドリより稲子に相談したる時、稲子は自己が今日の境遇にあるは同様の原因によるにつき、速やかに暇を取りてこの家を去るが得策なりとてミドリを去らしめたる事が原因にて頼寧が稲子を疎外する様になりたる。

※貞子夫人の発言
頼寧が外出して所在不明なる事あるはミドリとの関係なるべし。
ミドリの父が承諾するならば妾として雇い入れたき旨を話したる。
稲子は自分の生母なるが、稲子と頼寧との間円滑ならざるため自分が常に苦心し家内も円満ならず。

頼寧が欧米に遊ぶ希望を貞子夫人に告げ、
夫人「子供も多き事ゆえ3~4年の期限ある事ならぼとにかく無期限に外遊する事は」と言いたるところ、
頼寧「3~4年ならばよろしきや」と言うにつき、
夫人「それぐらいならばよろしからん」と言いたる事あり。
夫人「所在不明の様なる事ありては困る」と言いたるに、
頼寧「芸者小鈴とは既に手を切りたる」と言いたる。
夫人「所在不明のごときありては外部に対して不面目なり。いかがすればよろしきや」と言いたるところ、
頼寧「新橋の待合〈菊月〉に問えば所在はわかる」と言いたる。
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『有馬頼寧日記』

1919年2月26日
午前中講義。
1時頃菊池へ行きたるもなかなか来らず3時になりようやく来る。
今日は夕方帰宅すると言いたるも、
相手が今日はゆっくりできると言うものを帰るのも気の毒と思いつい9時過ぎまでいた。
帰宅したのは10時過ぎであった。
貞子にさんざん叱られた。
少しは家の事も考えてもらいたいと自分の信用も落ちる故、少し真面目になってほしいとの事であった。
何だか日の経るにつれ、だんだん深い深いところに落ちて行くようだ。
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『有馬頼寧日記』

※当時の総理大臣の月給は1,000円

1919年3月1日 
父さん会社の重役になるので金が入用との事。
他ならぬ人の頼みゆえ、自分の出来るだけはしてやりたいと思う。
1,000円くらいなら都合できると答えておいた。
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『有馬頼寧日記』

1919年3月5日
二人にて歩むと往来の人がしきりに注目するのは何のゆえにや。
別に二人ともさして人目を引くほど美しきにもあらず。
さらばおかしく見ゆるにやと思えど、まさかそうとも思えずどうしてもわからず。
しかし相変わらずスウィートな人なり。
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『有馬頼寧日記』

1919年3月11日
結局2,500円の半分ばかりを都合してもらいたいとの話であった。
可愛い人の父さんと思えばどんなにしても尽くさねばならず、またそれが可愛い人の心を少しでも喜ばす事ができると思うと限りない満足を覚える。
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『有馬頼寧日記』

1919年3月14日
富子〔芸者小鈴〕がいろいろやかましく言うから一度会ってくれ、とのおかみさんの頼みにやむなく会う事にした。
私が千葉県へしばしば行くのは千葉にいい人がいあるためだ、それはキリスト教の学校の生徒だ、
少しは違うけれど出鱈目にしてはあまりに当り過ぎている。
そして自分は別れるのは嫌、洋行までは今まで通り会って洋行から帰ったらまた元通り、洋行中は待っているとの事。
私はそれは出来ぬと言った。
しかしなかなか承知せぬ。
もう会わぬつもりだ。
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『有馬頼寧日記』

1919年3月21日
一緒に電車に乗ったり一緒に歩いたり活動に入ったり料理屋へ行ったり、ずいぶん勝手な事をするのに少しも見つからぬとは実に不思議だ。
ミドリさんの言うようにやはり祝福されているのかしら。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年3月26日
※有馬伯爵家の職員有馬秀雄の発言

先日新橋の待合〈増田屋〉に到り、小鈴を召い頼寧と関係を絶ちたるやを問いたるところ、
小鈴「そんなことなし。洋行中は5年でも何年でも待ちおると言いたり。頼寧より小鈴に送りたる書状は小箪笥に一杯あり。いかなる事ありても小鈴を見捨てずという趣意は幾度も書きおりて、今さら頼寧より関係を絶つと言い出す訳にはいかず。頼寧のためには芸妓としてなす事の出来ぬ事までなしたり。頼寧の依頼により若奥様の時計の鎖・櫛・頼寧の時計鎖などを70円ばかりに売却し、その金を頼寧に渡したり。その後また古洋服・外套などを持ち来たり売却を頼まれたるも、これは芸妓として売り払いがたきにつき自分のイトコに頼み売却せんとしたるも売れず」
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年3月26日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の言葉

頼寧近日またまた行先不明の旅行をなしおる。
先日頼寧が行先不明なりし時、急用ある時に困るにつき、今後は左様な事なき様せられたしむね橋爪より貞子夫人に話し置き、貞子夫人よりこの節の旅行についても行先を問われたるも、
頼寧は「3日ぐらいの旅行につき、強いて行先を告げおかざるもよろしくはなきや」と言い、
貞子夫人も「それぐらいの日数ならばよろしからん」と言われたる趣なる。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年3月30日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

貞子夫人が頼寧が先の雇人ミドリと私しミドリとともに横浜その他に宿泊し、1,000円をミドリの父に渡したる事実を探知しおられる。
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『有馬頼寧日記』

1919年4月18日
3年か5年ほど外国へ行きその間ミドリも絵を習い、また日本へ帰りミドリは絵をもって独立する。
ミドリとしても隠れた人となる事は好まぬし私としても好まぬ。
しかし終生外国にいる事は無謀であるから、表面は独立という事にして私が陰からそれを助け、終生私の愛人として暮らすという事を承諾してくれた。
ミドリにとっては気の毒であるけれども、ミドリが承諾してくれれば四方無事に納まるというものだ。
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『有馬頼寧日記』

1919年5月13日
今日になってはミドリはもやは一生を私の愛人として陰の人として送る事を少しも意に介さぬらしい。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年5月21日
※倉富&有馬頼寧の上司東京帝大農学部教授原煕の会話

倉富◆先頃頼寧洋行に関する君の意見は聞きたるも頼寧にはその事を話しおらず。
頼寧は君に面会して賛成せざる理由を問う事を予に嘱したり。
いかなる趣旨にて頼寧に報告いたしおきてよろしきや。
原◆如何様なる理由でも差し支えなし。
倉富◆他日君が面会したる時話が行き違いては面白からざるゆえ、大略君の趣意を定めおきたし。
原◆内地にて研究できるゆえ外遊の必要なし、との趣意を伝えん。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年5月27日
※倉富&有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の会話

橋爪◆頼寧より「荻窪に家屋を新築したし。只今の住居は1万7000円にて買入れ増築もなしおるゆえ、これを売りたらば2万4千~5千円ぐらいにはなるべし。その金にて荻窪に建築する事を得るならんかと考える」旨の話ありたり。
倉富◆頼寧の話は常に変更するゆえ困る。
先日までしきりに洋行の希望を述べ、その事については原煕が賛成せざる理由を問い質す事までも予に依頼せられたるぐらいなり。
最初予は洋行の事を相談せられたる時、貞子夫人の承諾を必要とする旨を話し、頼寧より貞子夫人に話されたるところ、貞子夫人は無期限にては承諾しがたしと言い、頼寧が4~5年の期限にて相談せられ、貞子夫人はこれを承諾せられおるやに伝聞しおれり。
もし頼寧が洋行でもせられる様ならば、貞子夫人をして荻窪に留守せしむる事は到底できざる事なり。
予は洋行を止むるつもりならば、むしろ家屋建築の方を賛成すべし。
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『有馬頼寧日記』

1919年5月30日
本郷に家が見当たって6月には引移れるとのこと。
早くできればよい。
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『有馬頼寧日記』

1919年7月18日

*ミドリの両親は東京へ引越し入谷に住んでいた。
アメリカ行が不可能となったミドリは横浜のYWCAを出て両親と暮すことになった。

上野で自動車を降り、山内を抜け入谷町の家に着く。
両親もいたので二階へあがり、9時半頃まで話した。
付近は長屋に取り囲まれ騒々しいやら不潔やら、またうるさいやら決して長く住む所ではない。
しかし私の行くにはかえって気楽ででもあり、またこのような社会を見る便ともなる。
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『有馬頼寧日記』

1919年7月21日
入谷へ行ったのは5時過ぎであった。
父さん母さんがミドリがおらぬので愛想に出て来られて、きまりが悪い様な気の毒な様な怖い様なまったく変なものだ。
四谷あたりに早く来てくれるとよい。
いかにも遠いので閉口だ。
またいつまでも両親の所にいられては困るけれど、さりとて他に方法も見当たらず困ったものだ。
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『有馬頼寧日記』

1919年7月22日
貞子の美しいのは決して私の贔屓目ばかりではない。
しかし私にとっては貞子が普通以上に美しいということは、楽しみと苦しみとが半々である。
財産のある人がそれによって生活の安定を得る事と、それを失わざらんがために心配する事と同じ事である。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年8月5日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

岩波稲子〔貞子夫人の生母〕が有馬家を去りたいと言いて種々不平を鳴らす。
頼寧が稲子を疎外し貞子夫人に対し、
「北白川家〔貞子夫人の実家〕に関する事は稲子に相談してよろしきも、有馬家に関する事は決して稲子に相談すべからず」と言いおり。
台所の事にてもいかなる些細な事も、稲子だけにて処置する事を許さず。
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『有馬頼寧日記』 

1919年8月16日
取手に着いて停車場で服部のおばさんに会い、連れだって宿屋に入り種々話した。
おばさんの意見は、洋行という事はどちらの家にも不幸だから止めた方がよい、もし両人の決心が変らねば自分がミドリの両親に話してこちらで身を固める事にしたいとの意見。
よって万事任せることにした。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年8月16日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

頼寧がミドリとともに土浦に行き2~3泊し、今日帰京してすぐに千住へ行き、今夜も帰らざるべき。
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『有馬頼寧日記』 

1919年9月6日
ミドリのところへ行った。
両親に相談するよりも、貞子と橋場〔有馬本家〕の方の話を先にしてほしいとのこと。
ずいぶん話し難いけれど、いずれ一度は話さねばならぬと思う。
しかしミドリとの関係は初めから少しも故障なく進んでいるから多分うまく行くことと信ずる。
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『有馬頼寧日記』 

1919年9月9日
今日はミドリの所へ行くはずなりしも、貞子の機嫌悪しきゆえ様子を見ていて、午後書斎でミドリの事について話したところ、燃えている所に油を注いだ様に燃え広がっていかんともする事ができなくなり、
「ミドリを単に肉体的に愛するのならよい」と言う。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年9月13日
※倉富&有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の会話

橋爪◆頼寧は近頃貧民夜学校の事に熱心にて、ミドリとの関係も大分疎遠になりおれり。
夜学校の費用は予算の農事研究費より大分支出せられおる模様なり。
倉富◆それは全体はよろしからざる事なり。
しかれども予は農事研究費は言わば一種の道楽費と考えおるゆえ、夜学校の費用に充てられとてあれこれ言う考えもなし。
夜学校に費用されるまではよろしきも、ミドリの父の住居を設くるにつき費用を要したる趣なるが、その方にも幾ばくかの支出しおれるにはあらずや。
橋爪◆その事は分からざるも、幾分か支出しあるやも計りがたし。
ミドリは妾にては本人が承知せず。本妻となす事もできず、よりてミドリを外国に連れて行き外国にて本妻となす約束をなしおられたる事は事実なる由。
しかるに洋行も止めとなりたるゆえ、ミドリの父より頼寧に、
「いままでの通りにては出入りもできず困るにつき何とか処置さられたし」と頼寧に迫りたる由にて、他に相談もできず一人にて煩悶しおられる模様なり。
倉富◆実に馬鹿げたることなり。
いかなる約束ありても無駄なる事ゆえ、結局金銭を取られる事は覚悟せざるべからず。
いずれ数万円を取られずしては済まざるべし。
ともかくこの事については誰も関係せず、当分一人にて煩悶せしめおく方よろしかるべし。
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『有馬頼寧日記』 

1919年9月26日
貞子との会見も近々その機会を作ろうと思う。
会って話せば女同士でまた理解もあろうと思う。
今となってはただミドリの将来について貞子が親切に考えてくれる事だけを望むに過ぎぬ。
私は今一生の絶頂にあるようだ。
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『有馬頼寧日記』 

*頼寧側の人間からミドリにしきりに結婚話が持ち込まれるのは、頼寧と手を切らせるためとミドリの両親がどう出るかを確かめるためであるが、頼寧はまったく気づいていない。

1919年11月21日
池尻からまた嫁の世話を言って来たとの事。
私の事を知らぬので相変らず世話焼きな事だ。
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『有馬頼寧日記』 

1919年12月1日
ミドリと私との関係はもはや行き詰ってしまった。
何とかしなければならぬ時が来た。
せんだってから考えてはみるけれど、いくら考えたとて良い案もない。
今日はミドリと一日泣いて語った。
私達はあくまでも神に恵まれ神に救われているのだと思う。
私は神の御心に従い美しき生活に入り、ミドリに捧げた愛を広く大きく世の中の気の毒な人々の上に注ぐ様にしようと思う。
肉体の汚れた愛から霊の美しき愛に入る。
私達は幸福である。
顧みれば満1年儚い思いであったけれど、また極めて美しい幸福なものであった。
私はミドリの満足ある結婚と今後におけるミドリの両親との親交とを条件としてこの話を決したいと思う。
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『有馬頼寧日記』 

1919年12月8日
ミドリを訪ねた。
今までと別に変った事はないが、別離という事が間もなく来るのだという事を考えると寂しいような気がする。
私に対する愛の心を抱きながら他人に嫁いで行く人の不幸を思うと、
むしろ自分を忘れてくれたらばと思う。
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『有馬頼寧日記』

1919年12月26日
とうとう最後の日が来た。
夕方ミドリの所へ行った。
父さんと食事を共にした。
父さんは、私がせっかく社会のために力を尽くしているのに、もしもミドリとの事が世間に知れるような事があっては別れてしまう事が私のためであると言われた。
私としては私のためにミドリと別れるという事は嬉しくないが、仕事のためと言われると多少考えないでもない。
私のためと言うより、ミドリのため両親のために別れる事としたのだ。
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『有馬頼寧日記』 

1919年12月27日
顧みればちょうど満1年、私達は祝福された生活をしてきた。
東京の中を自動車で歩いたり処々を旅行したり横浜の街を歩いたり、その他よく考えれば今日までよく世間に知られずにきたと思う。
幸いに子供もできず知っている人は極少数の内輪の人に過ぎず、しかも無事別れる事ができるなんて、私達はよほど神に守られてきたと思う。
今度別れる事になったのもまた神の心だと思う。
私達の事が世間に知れずに済んだという事は、神が私の仕事を嘉されたからだとも考えられぬではない。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1920月1月1日
※倉富&有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の会話

橋爪◆近似頼寧行状を改めミドリとは関係を絶ち、ミドリはすでに他家に嫁し、貞子夫人もこれにて安心と言いおる。
倉富◆それは喜ぶべき事なり。
頼寧に不品行ありては安藤信昭・松田正之等〔頼寧の兄弟〕の取締り出来ざるゆえ、予は頼寧の品行につき非常に苦心しおりたる。
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『有馬頼寧日記』 

1920年1月11日

昨日倉富に会った時それとは言わぬけれど、ミドリの件の片付いた事を喜んでいた。
どうして知ったのか。
将来は再びこのごとき事はせぬと誓っておいた。
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松信田鶴子の証言 ミドリの遠縁 

*ミドリは鬼塚氏と結婚して東京の玉川に住んでいたが、最初の結婚は死別か離別か不幸に終わった。

昭和の初め頃だったと思います。
ミドリさんはお母さんと一緒に佐原に帰ってきていました。
気品のあるきれいな方でとても評判でして、学校の先生からもあなたは親族なのかと聞かれたりしました。
しばらくして潮来にあった呉服屋へ嫁いで行かれました。
再婚されたのです。
でも間もなく亡くなられたと聞いています。
お子さんもいなかったようで、家の方もつぶれてしまったそうです。
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頼寧はその後も多くの妾を作り、特に身請けした博多の芸者舟子/福田次恵は
自宅の目と鼻の先に囲って、頼寧が亡くなるまで30年以上関係を続けた。

■橋場邸 浅草区橋場町(現:台東区橋場)3万坪
1052(2)


■荻窪邸 土地1万5千坪 建物250坪
6004



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◆12代 有馬頼咸 10代有馬頼徳の子 最後の藩主
1828-1881 53歳没


■妻  有栖川宮韶子女王 有栖川宮韶仁親王の娘 
1825-1913 88歳没


●男子 有馬頼匡 13代当主
●五男 有馬頼万 14代当主
●男子 有馬頼之 子爵有馬頼之となる
●男子 有馬頼多 男爵有馬頼多となる

●女子 有馬頼子 小松宮彰仁親王妃
●女子 有馬千代 侯爵久我通久と結婚
●女子 有馬民子 子爵加藤明実と結婚
●女子 有馬納子 侯爵伊達宗陳と結婚


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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員

*倉富勇三郎は有馬伯爵家の相談役でもあった

1921年8月27日
※有馬伯爵家の職員有馬秀雄の発言

有馬豊昌の気の毒な点あり。
妻の道具はすべて美代〔頼咸の側室・頼万の生母〕と頼之が持ち去り、一品もなき趣なり。
有馬家に妹名義の株券ありたるが、有馬豊昌の言うごとき事実ににてありたるものならんかとも思わる。

1921年8月28日

*当時の総理大臣の年給は1万2千円

※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言
当主頼万は妹が有馬豊昌に嫁する時、支度料として1万円を遣す旨の書付を渡し、そのうち2千円にて支度をなし残金8千円は有馬家に預かりあり。
また妹の二子に対し長子には1千円・次子には800円の学資を給する旨の書付を渡しあるが、妹の死去したる時、頼万の生母〔頼咸の側室〕美代と弟頼之が家財を持ち去り、贈与証書もいかがなしたるや不明なるむね有馬豊昌より申し出て、今日にては誰もその事を知る者なく、要するに事実不明なり。
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◆13代 有馬頼匡 12代頼咸の子
1861-1918 57歳没


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有馬頼寧

伯父頼匡は父の前に一度家を継いだのですが、健康を害したため隠居して弟であった父がその跡を襲ったのです。
健康を害したというのは、幼い頃に寒いからといって駕籠の中に火鉢を入れたためにガスの中毒を起こしたのでしょう、頭が悪くなってしまったのだそうです。
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◆14代 有馬頼万 13代頼匡の弟/12代頼咸の子
1864-1927 62歳没


■前妻 岩倉恒子/寛子 岩倉具視の娘・有馬頼万と離婚・子爵森有礼と再婚
1864-1943


■後妻 戸田豊子 子爵戸田忠友の娘
1869-1934 


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『横から見た華族物語』昭和7年出版

頼万氏は思い切り時代離れのした御大名気質で、橋場の本邸の奥深く大勢の召使どもにかしずかれて祝着に存じ奉る式な生活をしていた。
外出ということは滅多にしない。
たまに散歩にでも出るとなると、三太夫や腰元どもが前後左右を取り囲むといった大がかりなもので、当時有馬の殿様のお出ましと言われこの界隈の名物の一つに数えられていた。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年4月13日
※有馬頼寧伯爵の発言

父頼万との間近頃ますます円滑にならざるにつき、自分より何事も直接には相談せず。
父が自分の妻貞子に対しては「貞子」と呼び捨てにせられるも、弟安藤信昭の妻恭子に対しては「恭さん」と言われる。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1924年8月22日
※有馬伯爵家の職員有馬秀雄の発言

豊子夫人が自分と自動車に同乗して小松侯爵家に行きたるところ、頼寧は更に新たなる自動車を買入れこれに乗りて来りおられ、その他どれも立派なる自動車多かりしため、
豊子夫人は「頼寧は立派なる自動車に乗り、自分は汚き車に乗せられたり」とて不平を言いおりたり。
また先日頼万が大阪に行かれたる時は脳の具合悪しく、しきりに癇癪を起し宿の者を打ちたり。
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●前妻の子 有馬頼寧  15代当主
●後妻の子 有馬信昭  子爵安藤信昭となる 閑院宮載仁親王の娘閑院宮恭子女王と結婚
●後妻の子 有馬正之  男爵松田正之となる 侯爵蜂須賀正韶の娘蜂須賀笛子と結婚
●後妻の子 有馬敏四郎

●前妻の子 有馬禎子  伯爵奥平昌恭と結婚・昌恭の酒乱により終生別居
●後妻の子 有馬久米子 男爵稲田昌植と結婚


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作家有馬頼義の証言 有馬頼寧伯爵の子

父の姉禎子は豊後中津の藩主奥平昌恭伯爵に嫁したが、この結婚は失敗であった。
破局の原因は昌恭の酒乱で、禎子は殴る蹴るの乱暴をされて二度と奥平家に戻るまいと決心したが、女一人で生きていく方法がない。
禎子は月にわずかな手当てを私の父からもらって転々と借家住まいをしていたが、昭和5,6年頃から我家へ寄食した事がある。
ところが我家に居つくようになって間もなく、禎子は父の妾と仲良くなってしまった。
禎子が父の妾と遊び歩くようになって、困ったのは父で被害を受けたのは母なのであった。
つまり母に対して妾の事を細大もらさず話すようになったのである。
父が禎子にそれだけは止めてくれと言っても、禎子はわかったのかわからないのか少しも態度を変えようとしなかった。

禎子は死の数年前から高円寺の焼け残った上下三間の小さな借家に住みついていた。
父の巣鴨行き〔戦犯〕が決まったゴタゴタの中で突然訃報が届いたのであった。
当時はまだ薪で死者を焼いていたから、めっぽう長い時間を待たされたのを覚えている。
しかし骨は有馬家の物ではなかった。
離縁をしていない以上奥平家の物のはずであった。
私は禎子の骨壺を抱えて奥平家へ行ったがそんなものは知らないと断られ、仕方なく奥平家の菩提寺へ持って行って住職に預かってもらった。
岩倉具視の孫にあたる奥平伯爵夫人は、陋屋で窮死したのであった。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員

1922年1月19日
※伯爵有馬頼寧の姉 有馬禎子の発言

頼寧の行動不穏当なる。
敏四郎・久米子などは兄弟姉妹の感を有せざりし。
兄弟はみな不平を唱ゆるも、自分だけは不平を言いたる事なし。
「年々有馬家より送り来る小遣いを10年分まとめてもらいたい」と言いたるも、職員が引き受けざるゆえそのままになしたり。
久米子は嫁ぎたるとき持ち行きたる金だけにて済みおるか、その他に遣しあるや。

※倉富の記述

禎子、松山にて製したる羊羹1箱を持ち来れり。
あるいは他よりの到来物なるべきか。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員

1921年3月1日
※有馬頼寧伯爵の弟安藤信昭子爵の発言

父有馬頼万伯爵よりの話に大礼服は有馬家より祝いとして贈るべきにつき、供奉服は父より補助して作らしめ、小礼服は手元にて作る事とするつもりなるゆえ、これを含みおきくれよ。


1921年3月2日
※倉富→有馬伯爵家職員の橋爪慎吾への発言

安藤信昭が侍従補に任ぜられたるところ、頼万の考えにて信昭の大礼服は有馬家より祝いとして贈りたし、供奉服は伯爵の手元より補助せらるべき旨の話を信昭から聞きたり。
予の考えにては、大礼服を贈る以上は小礼服・供奉服も廉なるゆえ、全部を有馬家より贈らるる事と為す方よろしからんと思う。

1921年3月5日

*当時の総理大臣の年給は1万2千円

※倉富&職員橋爪慎吾の会話

橋爪◆先日話ありたる信昭に服を贈る事は、有馬家より祝儀として大礼服および宮内官小礼服を贈るべき旨を頼万に話したるところ、頼万おおいに満足せられたり。
倉富◆その他供奉服の入用あり。供奉服は如何したりや。
橋爪◆頼万が「供奉服だけは自分で作る方よろし」と言われたる。なお頼万より「信昭は服の他にも種々入用の品あるゆえ、有馬家より1,000円ばかり立て替る事にいたしくれよ」との話あり。
倉富◆服代は幾らぐらいなりや。
橋爪◆大礼服・小礼服にて1,100円ばかりなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年1月21日
※有馬頼寧伯爵の発言

松田正之の結婚を蜂須賀〔侯爵家〕よりしきりに申し込みに来る。
松田の未亡人〔松田静子〕の性行が普通ならざるゆえ、
充分に聞き質したる上に決心せられたき旨を蜂須賀に申し向けおきたる。

1919年6月27日
松田正之男爵の発言

自分も寡婦〔松田静子未亡人〕も結婚して異存なきにつき、今日電話にて結納の事等しかるべく取り計いくれたき旨を依頼したるところ、
頼寧は「有馬家にて嫁を貰う訳にあらざるゆえ、正之と寡婦と相談してしかるべく取り計いたらばよろしかるべし」と言えり。
左のごとき返答はすこぶる意外なりしも、ともかく寡婦に対し頼寧の返答とは言わず、
「松田家の結婚なるゆえ第一に寡婦の希望を聞きたし」旨を話したるところ、
寡婦は「このことは万事頼寧に依頼すべき」旨を告げたり。

やむをえず頼寧の返答を言いたるところ、
「しからば結納はこちらにて取り計うことにして差し支えなし。その費用は自分より半分出すにつき、正之より半分を出すべし。先年有馬秀雄〔有馬伯爵家職員〕より正之の住居は有馬家にて設備し生計費も有馬家にて支弁すべき事を申し出ており。かつ自分と正之と別居することは頼寧よりも希望の一条件として申し出ておることにつき、別居と言う以上はその家は有馬家にて設備するが当然なり。よりて家と生計費の事はこの際是非とも有馬家にて引き受けることに相談しおかざるべからず。もし引き受けざるならば自分にも考えあり」と言えり。

自分の考えにては寡婦の希望のごとく有馬家にて引き受けてくれるならば結婚問題を進行してもよろしきも、もしその事が出来ざるならば結納を済まさざるうちに結婚話を止むる方がよろしからん。
しからざれば処置に困ることとなるべし。よりてこの事につき頼寧に相談してくれよ。

1919年6月29日
※有馬頼寧伯爵の発言

結納ぐらいは松田家にて取り計いてよろしからんと思い、その趣旨を電話にて正之に答えたるまでにて、絶対世話せざる趣意にあらず。
自分と蜂須賀との間には既に相当の黙契あり。
正之の生計費を幾分にても寡婦より出さしめんとすれば、寡婦が承諾せざる事は初めより分かりおるにつき、左様の事は少しも考えおらず。
正之には自分の考えは既に話しおきたることあるにつき、左様の誤解をなすべきはずはなきことなり。

1919年8月1日
※倉富&蜂須賀正韶侯爵の会話

蜂須賀◆末広重雄〔京都大学法学部教授〕は宇和島の人にて伊達家に関係あり。末広の話に松田の未亡人は極端なる性行なるように言うとのことにて懸念なきにあらず。種々の話を総合すれば結局未亡人は利欲の念の強き人のようなるがいかが。
倉富◆予はこれまで一回本人に面会したるのみにてこれを批評するは不都合なれども、要するに利欲心の強き人の様なり。本人は実子ある訳にあらず。ただし相当の資産もある模様につき、この上にそれほど金銭を欲する原因は了解しがたし。
蜂須賀◆本人より伊達宗曜男爵に対し嫁の候補者なきやと言いたる由。これは松田正久の親族某の嫁を探すためなる様なり。未亡人が金を蓄えるは、この某に贈与するためならんと思わる。
倉富◆松田正久の存命中いったん実子として入籍しおりたる者を戸籍の誤りなりとて裁判上の手続をなし除籍したるが、その原因は未亡人がその人を嫌いたるためなる様に聞きおれり。かの人の心理状態は何とも判断できがたし。有馬家と未亡人との間は非常に激しき衝突を起こしたることあり。原因は未亡人より某家に対する負債あり、これを返済するため有馬家より出金してくれよとの相談あり。
しかるに負債なき事実明瞭となり有馬家はその請求に応ぜざりし事よりの紛糾にて、結局女の浅薄なる考えと言う他なし。
蜂須賀◆有馬家より持参の5万円と御下賜の3万円とを正之の有となしたらば、ともかく生計を立つることを得るならんとの話をなしおりたることあるも、3万円はもちろん5万円を取り戻すことも容易ならざるべし。頼寧より松田のために邸宅も設けざるべからずとの話ありたるも、自分は左様のことは如何様になりても頓着せず。娘にも出来得るだけその辺の覚悟はなさしめおるつもりなり。
倉富◆有馬家としてもすぐに松田のために建築する様の事は事情できざるべく、もし只今の住居にて間に合わざるならば当分借家でもせざるをえざるべし。
蜂須賀◆それにて結構なり。
倉富◆正之が選定相続をなし、麻布の邸宅は正久存命中より妻の所有となりおり。正之には何も相続すべき財産なし。
蜂須賀◆頼寧が「蜂須賀より持参する金ありてもその金額等は未亡人に明かさず、元資は蜂須賀家に留め置き利子だけを正之に渡してくれる方が好都合なり」との話あり。その事にいたすつもりなり。

1919年9月13日
※倉富&有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の会話

橋爪◆寡婦は正之に対し、
「お前の住居は頼寧が引き受けらるるゆえ、まず家を買いたるうえ結婚することにならざるべからず。家を買い入れるまでは婚期を定むべからず」という趣なり。
倉富◆松田にては住居のことも生計のこともすべて有馬家に一任し寡婦は何も世話をなさずに、家を買うまでは婚期を定めずとはあまりにワガママなる申し分なり。
予は頼寧より充分寡婦に交渉せられ一切干渉がましきことをなさざる様取り決めらるる必要あると思う。
橋爪◆寡婦より正之に対し、
「蜂須賀より持ち来る嫁装はすべて松田家へ運び入れ、入用の分だけ新夫婦の住居に持ち行く様にせよ」と言いたる。
倉富◆言語道断なり。
左様の事をなしたらば品物はすべて寡婦が差し押さえることとなるべし。
左のごとき事を言うならば、なお一切の干渉を途絶しおく必要あり。
橋爪◆正之の持参したる公債証書5万円は既にこれを売却して株券を買入れ、配当金1万5千円は収入とすることとなりおれり。
「正之が寡婦に対する行動よろしければその資産は正之に譲るも、さもなければ他に遣わす」と言いたる。

1919年9月18日
※倉富&蜂須賀正韶侯爵の会話

倉富◆先日橋爪より松田の寡婦より家買入れのこと、嫁装を松田家に運び入れること等の注文をなす趣を聞けり。
蜂須賀◆娘に対しても寡婦の性行が普通ならざるゆえ、何事も軽率に言わず夫婦の間の意思の齟齬せざる様に注意すべきことを訓示しおけり。

1919年10月6日
※倉富&宮内大臣波多野敬直の会話

倉富◆蜂須賀正韶はいかなる事より娘を松田に嫁せしめる事を考えたるや。
なかなか熱心にて予にも会いたいと言い、面会のうえ種々話をなしたり。
波多野◆初めは末広重雄より蜂須賀に話して、蜂須賀もこれを思い立ちたる訳なり。
山本達雄が「松田の寡婦は実に困りたる人なり」と言えり。
倉富◆先頃も松田の婚儀につきちょっと面倒なることありたり。
波多野◆松田の家のことは蜂須賀の方にては、
「家は自分の所にもあるゆえ、そこに住ましめてよろし」と言いおりたるところ、
石井為吉は「家までも蜂須賀の物に住みては、蜂須賀の養子になりたる様になるとて寡婦が承知せざりし」と言えり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員

1920年8月20日

松田正之男爵の発言

先日自分官を辞する時、君〔倉富〕より「官を辞したらば家計に不足を生ずることなきや」と言われ、
その時は「家計には差し支えなし」と妻が言うにつきその旨を答えおきたる所、その後毎月不足を生じ、
妻は「自己の不行届きゆえ実家より補助を受けることとすべし」と言うも、それにては有馬家の面目にも関する事と思い先日有馬家に対し補助の増額を求めおきけり。
これまでは年額600円、今年は妻が出産するゆえそのための費用を請求して400円を補助するむね通知来りおれり。
よりてその他に500円を増して総額1,500円と致したし。
全体有馬家より自分に対する態度についても了解しがたきこと少なからず。
安藤信昭〔兄〕に対しては資産として10万円を分与し家屋代として5万円を与えたるに、自分には資産は5万円にて家屋代は1万円なり。
兄弟の別あるにしてもせめて家屋代は安藤の金額ぐらい与えてもよろしかるべきはずなり。
久米子〔妹〕が結婚するについても持参金3万円を遣わし、なおその後の補助もなしおり。
頼寧は貧児救済とか貧民教育とかに金を費し新聞などもこれを称賛しおれども、弟に高等貧民ありて生活もできずと言うては兄の面目にも関することと思う。
蜂須賀より妻の出産に要する衣類・器具等はすべて遣わしくれたり。
蜂須賀より厚くしてくれるだけ、自分としては有馬家の薄遇に対する不平あり。

※倉富&有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の会話

倉富◆先年頼寧が正之と寡婦との不和を仲裁したる結果、正之が持ち行きたる公債証書5万円のうち2万5千円の利子は寡婦が受け取る事となりたるにつき、有馬家よりその金額だけは補助するが当然なるべし。
しかるに1,250円を補助せず600円を補助する事となしたるは如何なる事情なりしや。
橋爪◆家を買うまでは正之1ヶ月50円の家賃を要したるゆえ、600円以上は家賃と差し引くべくものとして600円と定めたり。
倉富◆それは無理なるべし。
以前は家賃を払いたるにしてもその時は単身なりしが、この節は配偶者もできたるゆえ家賃と差引勘定する訳にはいかず。
今年は正之の希望通り1,500円を補助し、来年よりは1,250円を補助せらるる様取り計いを望む。
橋爪◆自分も持参金5万円の利子に相当するだけは補助せらるるが穏当なりと思う。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員

1921年2月24日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

正之が家を買入れられたる時、1,000円の余金あり。
これにて応接間を作られるはずなりしが、その時は正之は「応接間は強いて作るに及ばず。その金にて電話を買い、その他にも必要なる事あるにつきその方に使いたし」との話あり、これを費消せり。
しかるにこの節に至り舅蜂須賀正韶が松田家に行き、
「空地もあるゆえ応接間の一つぐらいはありたし」と言いたるより、これを作る希望を起したる模様なり。
正之より「有馬家にて500円ばかり貸しもらいたし」との話なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員

1922年9月9日
松田正之男爵の発言

現住居は狭くして不便なり。
既に2人の子を喪い書生を置けば病気に罹り、ともかく面白からざる事多し。
妻は家の門が鬼門に当るとの事を聞き神経を悩ましおるにつき住居を変更したし。
しかるに現住居を売却したるだけの金にては他に家を買入れる事できざるゆえ、有馬家にて家を買いその所有はもとより有馬家の物と為しおきてよろし。
無料にて自分の住居に充つる事にいたしたし。

俸給1,600円・利子3,750円・実家の補助1,250円、計6,600円なり。
無事の時なればこれだけににて間に合わざる事なし。
ただし妻は何も買う事を得ず。気の毒なり。
妻は先頃より神経衰弱にて微熱あり。
小田原の蜂須賀の別邸に妻の妹小枝子が転地しおるにつき、妻もその方に行きおれり。
しかるに鎌倉あたりに移る事にいたしたしと思いおる所なり。
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『有馬頼寧日記』

1919年3月13日
久米様〔久米子〕と先日お支度の事で言い合うてから何となく面白くない。
しかも私が安藤さん〔頼寧の弟〕にのみ厚くして、松田さん〔頼寧のもう一人の弟〕に薄いという事を皆が言うているとの話、また自分達も同等に取扱われるべきであるなど、いろいろ御話があった。
私は兄弟にはかなり尽くしているつもりだのに、そんな事を言われると癪に障ってもう御世話する気にならぬ。
なんぼ私に対して遠慮がないと言うてもあまりひどすぎると思うから。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年3月26日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

久米子の嫁入費用が予算1万円にては不足なる模様にて困りおる。
兄頼寧が久米子に対して必要の物だけ品書を出せと言うゆえ、久米子は多数の物を持ち出して4千円も超過する模様にて、久米子は父伯爵に申し出て予算増額を求めんとすと言いおる。
橋爪はほとんど毎日2,30分久米子に対し自ら節約をなさしめんと思い、その趣意を久米子に説きおる。

1919年4月13日
※有馬頼寧伯爵の発言

自分も自分らを離間する疑いのある人の話ならばその辺の斟酌はなせども、自分の妹久米子が告げるゆえ〔妹が自分にチクってくるから聞き流せない〕久米子は常々両親に不平あり。
何事も久米子の耳に入り、久米子またこれを吹聴する傾ある。

1919年5月19日
※有馬伯爵家の職員有馬秀雄の発言

昨夜頼寧が父頼万邸に行き、まず久米子と話ししかる後頼万に会いたる趣なるが、頼寧の態度が変わりよほど怒りおりたるは、久米子が告げ口をなしたる結果ならんと思う。

1919年5月27日
※倉富&有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の会話

橋爪◆岩波稲子〔貞子夫人の生母〕の所に到り話をなし、
岩波は「頼寧と父頼万とを離間する人あり。これを告げん」と言いおる時に、頼寧が自分を召いに来るためそのままにて止みたり。
倉富◆岩波を告げんと欲する人は久米子のことなるべし。
橋爪◆左様なるべし。

1919年8月5日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

久米子の持参金は公債証書3万円にて証書は有馬家に預り置き、利子を受け取りたる都度これを渡すつもりなりしところ、月々の経費不足なるゆえ毎月渡してくれたきむね久米子より申し来り。
稲田家の相談人堀江が来り、
「稲田の家計はわずかに当主夫婦の生計費に充つるだけにて、新夫婦の方には少しの補助もできず。昌植の収入1ヶ月70円あり。只今の住家は借賃1ヶ月60円にて、夫だけは昌植の実父佐藤昌介が補助することとなりおり。1ヶ月の費用は家賃を含みて200円となし、昌植の収入70円と佐藤家の補助60円にて130円、これに有馬の利子70円加え、残り20円を久米子の小遣いとなすむね話したり」
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『有馬頼寧日記』

1919年2月1日
敏四郎殿今年正月熱海滞在中横尾長子〔栃木県資産家横尾宣弘の娘〕なる人と知られ、帰途自動車の中にて不快となられしを介抱せられしが始まりにて、その後文通され未来における結婚の約束をも結ばれしとの事につき自分の意見を尋ねられる。
自分の考えにては恋をせられし事はむろんなんら咎むべき理なく、ただみだりに文通せらる事はあまりよろしき様にも考えられず、よりて両方に真面目な考えがあり両親が許され、また相当の配偶者たること明らかとなれば自分は反対せずと述べおけり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は帝室会計審査局長官

1919年2月22日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

敏四郎が横尾長子と熱海にて会いその後文通等をなしおるにつき、婚約だけを成し置きたいむね敏四郎より申し出て、なおこれを取り調べたる上よろしければ婚約を致しおきてもよろしからん。

1919年5月3日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

敏四郎関係の婦人は一度敏四郎の所に来り書状の往復もなしおり、良家の娘なるや否なも疑わしきにつき、その身元を探りおる。

1919年6月28日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

敏四郎の事は実に困りたるものなり。
先日より有馬泰秋の子泰明を雇い入れ敏四郎に付けおきたるところ、泰明が頼万邸に来り、
「敏四郎は熱海に行きたし」と言いおるとの話をなしたるにつき、すぐに泰明を敏四郎の寓に返し、
「ほしいままに熱海に行くべからず。行くならばその用事を告げ、頼寧の許可を受けざるべからず」と言わしめたるも、敏四郎は学校より帰りたる後すぐに熱海に出かけその日は帰らず。
その翌日も電信にて滞留する旨を通知し三夜宿泊することとなりたる故、泰明を熱海に遣わしこれを連れ帰らしめたり。
敏四郎かねて結婚を希望しおる横尾長子の兄なる者も立教中学にあり。
その母と娘と兄と熱海に行きおり。
敏四郎の結婚につき柴四朗〔政治家〕夫婦に媒酌を頼みたしとの話あるにつき、その事を相談するため熱海に行きたりとのことなり。
泰明が熱海に行きたるうえ一見したる模様にては、横尾の母と娘が一間におり、敏四郎と娘の兄が別間におりたるようなりと言うもこの事はもとより確かならず。

1919年6月29日

※有馬頼寧伯爵の発言
敏四郎の結婚問題は今年1月敏四郎が熱海に行き同地にて友人の石川・横尾・その母娘等に出会い、石川と横尾の兄妹と敏四郎と同道して帰る時、横尾の娘が車に酔いたるとき敏四郎が介抱したる事が交際の始めにて、その後書状の往復を始め横尾にては母も本人も結婚を諾しおるとの事なり。
敏四郎より婚約を迫るゆえ、
「横尾の親に会いて話を聞きたる上にあらざれば何事もわからず」と言いたるところ、敏四郎はそれだけの事を先方に通ずるには書状にてよろしきことなるに、自身熱海に出かけて数日滞留したる様のことなり。
横尾の母は華族の某家〔鯖江藩主間部詮道の娘間部定子〕より来り、娘の父の姉か妹かも華族の某家に嫁しおり。
横尾は栃木県の資産家にて多額納税者ともなりたることある趣なり。
父は乱費者にて別居しおり、娘のことは一切母が処置することとなりおる趣なり。

1919年7月3日
予は横尾の方にて何を目途として結婚を望むや了解しがたし。
本人が技量あるにあらず有爵者にあらず格別望ましき所なし。

1919年9月13日
※有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の発言

敏四郎の結婚問題につき先方の人と懇意なる柴四朗の妻と面会したるところ、同人よりも結婚を勧め先方の親族も同意なりとのことにつき婚約だけはいたすことに決し、ただし結婚は3~4年後になるべく、婦人もなお在学中なるゆえすぐに結婚することは出来ざるなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員

1921年6月20日
※倉富&職員橋爪慎吾の会話

橋爪◆敏四郎が結婚を内約しおる横尾の家計窮迫し、「娘長子を家に置くはよろしからざるゆえ速に有馬家に引き取りくれたし」旨を申し込む。頼寧はこれを引き取る事は差し支えなき旨の挨拶をなしたる趣にて、自分に相談あり。自分は「それはよろしからず。今日の所にては内定というだけにてまだ結婚の期に達せず。引取りたらば自然接近する事となるべく、当方に引き取る事は不都合なり」と言えり。柴四朗の妻が主として周旋しおるが、この人はなかなかやり手なり。しかるに頼寧が引き取りてもよろしと言いたる事を理由とし、先方より本人の学資・生計費ぐらいは有馬家より支弁せしめんとする模様なり。
倉富◆予の聞く所にては先方の家計はとうてい整理できる見込なき由なり。しかして敏四郎はもはや婚約の娘に熱心ならず。よほど倦気を生じおりたる模様なるゆえ、縁談を止めたらよろしからんと言いおる人ある様なり。

1921年8月28日
※有馬伯爵家の職員有馬泰明の発言

敏四郎の婚約解除の事は頼寧より敏四郎の真意を確かむるべきむね命ぜられたるゆえ、ずいぶん突っ込みて問いたる事あるが、敏四郎は結婚を欲せざる様の口気あるが、その理由を問えば、
「婦人の操に疑ある」様に言われる事あるゆえ、
「それならば早くこれを拒む方になされたらよろしからん」と言いたる事ありたり。

1921年9月3日
※倉富&有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の会話

橋爪◆敏四郎と横尾長子との婚約は、敏四郎も長子を嫌う様になり長子も始めのごとく熱心ならざる模様になりおる。
倉富◆単に相識というだけの関係に止まりおるや。
橋爪◆それ以上の事なし。
柴四朗の妻も、
「この問題は娘の方から書状を送り敏四郎を誘いたるものなり。娘は16歳ぐらいなるに左のごとき性質の者なり」と言いたるぐらいにて、敏四郎も今日にてはこれを悔いおる模様なり。

1921年11月8日
※倉富&有馬伯爵家の相談役の一人仁田原重行子爵の会話

倉富◆敏四郎と長子の婚約を破棄する事を得たるは好都合なり。
長子の母が謝罪すべしと言いおる趣なるが、謝罪すべき事由ありや。
仁田原◆長子は早稲田大学生某と関係ある趣なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1923年10月1日
※有馬頼寧伯爵の発言

敏四郎が先頃北海道に行きたるとき船中にて神戸の鉄商一家と道連れになり、その娘宣子と相識り結婚したいと言い、いずれその談あるべきにつき含みおりくれよ。

1923年11月17日
有馬敏四郎来り、宣子の身元調書を持ち来る。
宣子は敏四郎が今年夏北海道に行きたるとき途中にて出会い、敏四郎と結婚する事を約したるものなる趣にて、調書によれば別に欠点なき様なり。
敏四郎は「君より父頼万の許諾を得てくれよ」と言う。
仁田原より聞きたる所にては、
頼万より「結婚は国学院大学卒業後にあらざれば承諾せられざる」むね申し聞けられおる趣なり。
予は「頼万の趣意は決して無理とは思われず。予より頼万の承諾を求る事は為し難し」と言う。
敏四郎「結婚は卒業後になりてもよろし。婚約だけ為し置きたきにつきその承諾を得てくれよ」と言う。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1924年2月22日
※倉富&有馬伯爵家の職員有馬泰明の会話

倉富◆婚約問題は如何なりたるや。
有馬◆先方の父よりの書状には、
「結婚は卒業後にてもよろしきも、諸方よりの結婚申込を拒絶するため婚約だけは早く結び置きたし」との趣意なり。

1924年11月2日
※倉富&有馬伯爵家の職員有馬泰明の会話

泰明◆敏四郎が先年来私約しおる宣子との結婚に対する君の意見を問う。
倉富◆もちろん適当ならず。
かの如き婦人と結婚する事は果たして宮内省にて承認するや否やも分かり難し。
しかれどもその結婚を拒みたらば、必ず敏四郎は自暴する様の事になる恐れあり。
ゆえに敏四郎が分家して華族籍を脱するまでの決心あり、また宣子の方にてもこれを承知するならば、予は強いて反対せず。
泰明◆敏四郎は宣子を娶る事を許さるるならば、養子となりてもよろしと言いおれり。
また先方も初め適当なる養子を為す考えなりし由なり。

※倉富の記述
有馬泰明、興信所の調査報告数通を示す。
その報告によれば両親本人の性行等別段の不都合なきも、父の出生地および来歴詳ならず。
只今は兵庫県に本籍を有しおれども、その以前は度々転籍したる模様にてどこが出生地なるや詳ならず。
有馬また宣子より敏四郎に送りたる書状数通を示す。
また宣子の母より敏四郎に送りたる書状を見る。
これは結婚は遅れてもよろしきも婚約だけは早く結ぶ事を望む趣意なり。
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◆15代 有馬頼寧 14代頼万の子
1884-1957 72歳没


■妻  北白川宮貞子女王 北白川宮能久親王の娘 
1887-1964 77歳没


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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮官僚

1921年6月15日
※有馬伯爵家の職員有馬秀雄の発言

先日慶応義塾にて頼寧が演説を為し非常に上出来にて、学生などは涙を流して聴きたりとの報告を聞き、その演説の趣旨は「自分は華族に生まれたる事を残念に思う。今日華族や富豪が自動車に乗り諸君に泥を跳ね掛けるなどは実に不都合なり。自動車などはこれを止めざるべからず」と言う如き事なりしに、
頼寧は自動車に乗りて帰りたるゆえ、「やはり華族は華族なり」との笑いを買いたり。
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有馬頼義の妻 有馬千代子の証言

お父様〔舅頼寧〕が亡くなった時は、きれいな女の人がいっぱい来ました。
「ワー、きれいな人」と言ったら、うちの主人が「あれ、親父の子だよ」なんてね。
最後はずっと可愛がっていた二号さんがいて、臨終間近の床でうわごとみたいにその人の名を呼ぶわけです。
そりゃ、ほんとの奥方も大変ですよね。
うちの主人にはお姉様が三人いるんですけど、女はそういうとこキツイですからね、絶対知らん顔してるわけ。
その人家のすぐ近くに住んでたんです。
博多の芸者さんで19になって東京に連れてきて、ずっとお父様が死ぬまで二号さんでした。
ポチャポチャっとしてて、とても可愛い人でした。

うちのお母様〔姑貞子〕はそれは見事な美人でしたが、怖い顔でして、笑っちゃいけませんというような育ち方をしてますから、目はキュッとつり上がって鼻はツンとしていて冷たい感じなんです。
上つ方というのは時代が変わってお手伝いさんが大勢いたのが私一人になっても、昔通りに手を叩いて「ちょっと」と声をかければ、誰かが控えていてすぐに「ハイ」と飛んでいくと思っているわけです。
控えている人がいるいないとかいう問題じゃない。
呼ばれて行くと「それ、取ってちょうだい」自分で取れって言いたくなるけど(笑)
ちょっと手を伸ばせば取れるものでも人を呼ぶんですね。

お母様の面倒もみてこれだけの土地建物を保ったのは、旦那の小説の稼ぎだってことがわからない。
お金というものはそもそも有馬家にあるものだと思ってる。
「でも、普通の月給じゃとてもこれだけの生活はできません」と言っても、
「そんなことありません。有馬家は21万石、大名華族の何番目かの金持ちです」
そんなのはもう昔の話なのに(笑)

お母様はある朝布団の中で大往生でした。
たまたま四つになる上の子に朝お部屋へ行かせたんです。
と言ってもお母様のお部屋には身内といえどもやたらに入ってはいけない。
声をかけて返事がなければ引き下がってこなきゃならないわけ。
息子が帰ってきて「ばばちゃまがお返事がない」って言う。
「そう、じゃまんだおねんねでしょう」
昼過ぎにお手伝いさんが来て「奥様からお声がないんですけど」と言うから、一番上のお姉様に電話してお部屋に行ってもらったら布団の中でそのままだったんです。
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●長男 有馬頼秋 早逝
●二男 有馬頼春 早逝
●三男 有馬頼義 16代当主

●長女 有馬静子 斎藤斉子爵と結婚
●二女 有馬澄子 足利惇氏子爵と結婚
●四女 有馬正子 亀井茲建伯爵と結婚

●庶子 泰


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作家有馬頼義の証言 有馬頼寧伯爵の子

頼春は戦争が始まる頃から結核に冒された。
10年前父が熱海桃山に別荘を建てた時、頼春がちょうど病状を悪化させてそこへ行ったきりになった。
父の口から頼春の名前がまったく出なくなったのはその頃からであった。
戦争が激しくなったとき父は頼春に手紙をやり、
「有馬家の財産はいくばくもないから療養費を節約してほしい」と書いた。
頼春は私にその手紙を見せて泣いたことがある。
「薬代が高いんだ。僕は何も贅沢をしているんじゃない。有馬家の財産が無いといっても、それはお父様がみんな政治につぎ込んでしまったからじゃないか。療養費を節約しろと言うのは、早く死ねと言うことだ」
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『有馬頼寧日記』

1927年10月12日

自分にもという子供〔庶子〕があるが、幸いに小さくあるし家におらぬので、それがために家庭の波瀾を引き起こさぬのは何よりの幸せ、将来の事を思うと多少の懸念がないでもないが、家の人はみな善良だからつまらぬ争いなどはせぬと信じている。
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『有馬頼寧日記』

1921年1月8日
秋さん〔頼秋〕が病気が全快しておらぬというのでまた自宅療養に帰ってきた。
私は初めから秋さんは軍人には適さぬと思っていたが、近頃特にその感がある。
語学と数学が嫌いだから砲兵などとても向かず、またあの優しい気質で軍人になれるかと思う。
しかしまた考えてみれば、それなら何が適するかというとそれも困る。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮官僚

1921年10月18日
※倉富&久邇宮務官栗田直八郎の会話

栗田◆頼寧の二女澄子を久邇宮の二男邦久王の配となさんと欲す。
倉富◆この事は君のみの考えなりや、久邇宮両殿下の望みなりや。
栗田◆両殿下の望みなり。ただし邦久王は成年後は臣籍降下せらる事になるべきにつき、その事は有馬に告げおきくれよ。
倉富◆有馬の意を問うてこれを報ずべし。

1921年10月22日
栗田より依頼したる〔久邇宮邦久王との〕婚約の事を談し、
頼寧「この事は北白川宮成久王からも女子学習院の教師からも聞きたる事あり。長女の婚約いまだ成らざるゆえなるべくは順を追うてと思いおる所なり」
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮官僚

1922年1月08日
※久邇宮務官栗田直八郎の発言

有馬家には姉妹あり。
いずれにてもよろしきも、姉の方を先にする方が都合よろし。
とにかく邦久王の意向を知る事が第一なり。
娘の写真も差し上げてよろしとて姉妹の写真も送られ、邦久王の写真も有馬家に送りあり。
姉の方は17歳にて邦久王と4歳違いにて俗説はこれを嫌う由。
しかし有馬家にて頓著なければ久邇宮家にては姉にてもよろしとの事なり。

1922年7月20日
※倉富&有馬頼寧伯爵の会話

頼寧◆山階宮家別当市来政方より、自分の長女静子を山階芳麿侯爵に嫁せしむるよう女子学習院の某に相談し、某より自分に相談したり。静子は軍人は好まずと言いおるも勧め方によりては承諾せざる事もなかるべく思わるるも、自分らの懸念は山階侯爵の体質なり。君は承知せざるや。
倉富◆詳知はせず。ただ身長は非常に高く肉は少なき方なり。
頼寧◆その通りなり。身長は5尺7寸とかにて体重は13貫何百目という事なり。単に本人が強壮ならずという事だけならばさほど懸念せざるも、父親は肺患なりしとの事なるゆえ懸念しおれり。
倉富◆邦久王よりもよろしからんと思えども、健康の程度がわからざるゆえ充分の調査を必要とすべし。

1922年9月2日
※有馬伯爵家の職員有馬秀雄の発言

頼秋、一日所在不明になりたりとの事なり。
頼秋は学校に帰るとて家を出て、学校に帰らざりしとの事なり。

1922年9月22日
※倉富&有馬伯爵家の相談役の一人仁田原重行子爵の会話

仁田原◆頼秋、中央幼年学校に帰るとて家を出て学校の門まで行きたるも、門に入らずしてどこかに行きたり。
青山本邸の方にては心配したれども所在わからず。
ほどなく帰り来るならんと思いその夜はそのままになしおきたるも、帰り来らざりしゆえ大騒ぎとなり翌日自分を召いに来りたるゆえ、心当りを尋ねたれども所在わからず大いに心配せり。
2日目の夜勝手口に来り小紙片に小書したる物を出し、
「これを父上に上げくれよ」と言いたる趣きにて、頼寧がこれを見たるところ、
『学校へ帰るつもりにて出かけたるもどうしても学校に帰る気にならず、荻窪の別邸に行きたるも留守番に会う事を好まず。その夜は森の中にて明し、翌朝は留守番の目にかからざるうちに一番の電車にて東京に来り、再び荻窪に行き一日を暮してその夜に青山本邸に帰りたる』
その後頼寧より自分に、
「頼秋の養育は自分が大いに誤りたり。君より充分に説諭しくれよ」との事なりしにつき自分より頼秋に話しみたるところ、
頼秋は「学校に行かずとも学問はできる。いかなる学校にも行く事を好まず。文学をもって身を立つるつもり」との事にて、
自分より「伯爵家の長男にて左のごとき誤りたる考えにては不可なる」旨を諭し、父母に心配をかける事の非を説きたるところ、
「爵などは今後20年間ぐらいにはなくなるべく、一時父母に心配をかけても後年事を成せば不孝にはあらず」と言いまったく話にならず。
これにはよほど困りたるものと見え、頼寧は洋行させたき旨を話したり。
よりて自分より「ドイツなどに行けば堕落するだけにて何の効もなし。どこに遣るや」
頼寧は「頼寧は充分に英語を専修せしめイギリスに遣る」希望なる様なり。
倉富◆学校を辞むる事は同意しがたし。
学校の選択は随意なるも、ぜひとも学校には入れざるべからず。
洋行は学力なくして行きても効能なく、有害なる結果を生ずべきにつき同意せず。
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『有馬頼寧日記』

192211月12日
※有馬伯爵家相談役の一人 仁田原重行子爵の発言

静子も決して油断できず。
今夏貞子夫人と共に避暑しおりたるが、その時甘露寺受長の弟甘露寺方房と交際したる事ある由。
帰京後静子より甘露寺に送る郵書を水野〔有馬家の老女〕に命じて投函せしめたるゆえ、
水野は「これを見たるに『先頃の約は都合あり。これを取り消したし』旨を書きある趣にて、婚約でも為しおりたるものならん。そのまま捨てんかとも思いたるも、やはり先方へ届く方よろしと思いこれを投函したり」との談をなせり。
自分は「その様な事は両親に話しおく方がよろしきにあらずや」と言いたるも、水野は承諾せず。
「このごとき事を話すは不利益になるだけにて少しももっともと思われず。これまでにも既にその事例あるにつき、これを話さず」と言えり。

頼秋もなかなか油断ならず。
水野〔有馬家の老女〕が、
「本人ももとより婦人に近づく望みあるが、雇人のほうより求ること多きゆえちょっとも油断しがたく、とかく自分が一緒にいる事は嫌わるる」と言いおりたり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1923年3月26日
※倉富&有馬頼寧伯爵の会話

頼寧◆長女静子は自分より言うはおかしき事ながら、学習院にては評判よろしく、「この如き人こそ皇族の妃なるべき人ならん」との噂ある趣なり。
もし秩父宮の妃となる事を得れば幸の事なり。ともかく君に談しおく方よろしからん。
倉富◆先般話ありたる久邇宮邦久王および山階芳麿侯爵との結婚話は、双方とも健康充分ならざる様なるにつき止めた方がよろしかりし。
頼寧◆只今の話が成立すれば結構なり。妻貞子〔元皇族〕の関係もある事につき、望まれざる事にはあらざるならんと思わるる。


1923年3月31日
※倉富&皇后宮大夫大森鍾一の会話

倉富◆頼寧の夫人は北白川宮家より出でたる人なるが、娘に女子学習院高等科に入りおる者あり。もし秩父宮の妃と為る事を得る様の機会あらば幸なり。明日は女子学習院の卒業式にて君は貞明皇后に供奉して学習院に行くべきにつきこれを見てくれよ。
大森◆実は写真でも見たしとの談は無きにあらず。しかしそれは有馬家の娘のみにあらず。5~6人の写真を見たしと言うことになれり。しかし只今より乗り気になりては困る。

1923年5月5日
※倉富&有馬伯爵家の相談役の一人仁田原重行子爵の会話

仁田原◆静子を入江為守の子為常に配しては如何。
倉富◆静子の事については、予は秘密に聞きおる事あり。他に嫁せしたき希望あり。その方は漠然たる希望にて少しも見込立ちおらず。しかしその希望ある以上は入江の方に約束する事は出来ざるならん。
仁田原◆いずこなりや。
倉富◆〈のぎへん〉なり。〔秩父宮という意味〕

1923年7月29日
有馬家別邸に行く。
予が原熙に会い頼寧の事を談し、また頼寧が地位も資産も必要なしと言いながら、一方にはその娘を秩父宮に納れんとする望みを有しおる事を談す。
原の話にては頼寧は7,000円ほどの負債ある趣なる事を談し、頼寧がこの如き書状を送りたる近因は負債の始末に困りおる事なるべしとの事に相違なし。
この際若干の金を供ずれば一時は折り合うべきも、事を仰山にする為、この節は久留米の相談人も呼びて協議する方よろしからんという事に一致す。

1923年8月26日
※有馬頼寧伯爵の発言

先頃貞明皇后より弟安藤信昭に対し静子澄子の写真を望む旨の御話あり、安藤より姉妹の写真を差し上ぐ。
安藤の推察にては静子よりも澄子の方が思召ある様なりとの事なるが、年齢の関係ならん。
澄子の写真は額に髪がかぶりおり充分に顔容が分からずとの御話にて更に1枚を出せり。
その時「決定もせざる事に写真を幾枚も取りては気の毒なり」との御話ありたる趣なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密院副議長

1924年2月23日
※倉富&宮内官僚渡辺直達の会話

渡辺◆宮内官僚仙石政敬の妻は久邇宮より行きおり、岡山の池田侯爵家にも久邇宮より行きたるゆえ、当主池田宣政は仙石の妻の甥に当る訳なり。仙石より自分に「宣政は22,3歳にて早く結婚せしむる必要あり。頼寧氏の二女澄子をもらいたし」との希望あり。
倉富◆頼寧は長女の縁談決せざる内は二女の縁談を為す事を好まざる様の話なるにつき、多分承諾せられざるならん。

1924年2月26日
※宮内官僚渡辺直達の発言

澄子を池田宣政にもらいたき事は、頼寧に問いたるところ「澄子は既に他に婚約ある」旨をもって断りたる趣なり。

1924年3月2日
頼寧は澄子を秩父宮の妃に為さんと欲しおると同時に、妹がその通りになれば姉静子も権衡上相当の所に嫁さしむる必要ありとて、久邇宮朝融王の婚約が破棄せらるるならば、その跡に静子を嫁せしめたき事を望みおる。
朝融王の婚約解除問題は非常に困難なる事となりおるゆえ、たとえ解除と為りてもその跡に嫁せしむる事は面白からざるならんと思う。

1924年4月10日
※倉富&有馬頼寧伯爵の会話

倉富◆朝融王の婚約解除問題は大変に面倒となり容易に解決すべき模様にあらず。婚約解除を待ち、その方の婚約を図らんとする事は面白からざるべしと思う。
頼寧◆この事については自分も迷いおれり。静子が軍人を好まずと言うにつき、なるべくはその希望を達せしめたしと思いおれり。前年静子が某伯爵家の弟と面会したる事あり。そのご静子をもらいたきむね申し来りたるが、同人は弟にて有爵者と為らざる訳なり。その後 同人は母の実家某家を継ぐ事となる談あり。その家には妻の実家なる島津家より養いたる娘あるが非常なる醜女にて、同人はこれを妻とする事ならば養子には行かずと言い、妻はどこより迎えてもよろしという事になりおり。同人の人物は相当なる人にてその点には異存なきもいまだ決しおらず。また壬生基義伯爵の子基泰にもらいたしとの談ありたるも、これは軍人なるゆえ一応拒絶せり。要するに妹の方が決せざるゆえ姉の方もその権衡に迷いおる次第なり。

1924年11月5日
※皇后宮大夫大森鍾一の発言

近日伝聞したる所にては、有馬家にては他より結婚の申込ありたるもこれを拒絶したりとの事なり。
万一先年聞きたる様の事をあてにして他の申込を拒絶する事ありては所謂当て違いとなるべし。
内議にては決して左様の運びになりおらず。これは有馬家の事のみにあらず。
他にも2~3の噂ありたる所はありたるも、いずれも取り留まりたる事にあらず。
万一左様の事をあてにしておりては気の毒なるゆえ、一応注意す。

1924年12月1日
※倉富&有馬貞子夫人の会話

倉富◆前田家より静子をもらいに来りたるや。
貞子◆生花の師匠なる婦人あり「静子の写真を借りたし。先方はこれを秘しくれよとの事」につきこれを領し、ただ写真を貸したり。これは本年6月頃の事なりしが、間もなく写真を返し来り別に何事もなきにつきそのままの事に思いおりたるところ、近頃に至り先方にて充分の相談を為し、ぜひ静子を娶りたきにつき承諾を請う旨その婦人より申し来りたり。しかるに頼寧は「前田には既に相続人も定まりおり、そこに静子を遣せば静子に欠点ありとの疑いを招くは必定につき断然これを断るべし」との事なりしも、自分はあまりすぐに断るも如何と思い4,5日猶予を置きて単に断る旨をその婦人に告げたるに、その後断る理由を聞きたき旨さらに申し来りたるにつき、やむを得ず「静子と前田とはあまり年齢が違うにつき云々」を告げたり。頼寧は只今の所にては静子は朝融王の妃と為す事を考えおる様なり。また頼寧は「今後皇室を守るべき者は自分らだけになるにつき、なるべく皇室に接近する手段を取りたし。ついては澄子は秩父宮の妃と為す事を望む」と言いおれり。静子の事については自分の妹武子の嫁しおる保科家の妹寧子が岩崎久弥男爵に嫁しおり、その子の嫁として静子を貰いたき模様なるも、岩崎の妻は「岩崎と有馬とは家風も違うゆえ進みて話を為す事も躊躇しおるが、有馬にて承諾するならば必ず喜んで貰うならん」と言いおる由。頼寧は「岩崎と自分らとは主義も立場も異なる」とは言いおるが、また「婚姻と主義とは別の事なり」とも言いおれり。静子はもはや二十歳なるにつき、あまり延ばす事も出来ず。
倉富◆朝融王の事は種々の推測あり。朝融王は今すぐに結婚せらるる訳にはいかざるべく、また朝融王はその性質飽きやすき方の様なる説もあり。方々予はこちらは止めらるる方よろしかるべき旨を談したる事あり。秩父宮は来年5月頃より御洋行の事は内定しおる模様なり。貞明皇后はその前に内定だけはなされたき思召ならんと思わるるが、如何なるべきや。
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『有馬頼寧日記』 

1935年2月20日
内親王を母とせられた御子様方に、今さら澄子を母と呼ばせるにしのびずとの事はもっともと思う。
竹田宮昌子妃の御反対に関しては、自分に対する御憎悪かとも思う。

1935年5月28日
亀井家の方、〔有馬正子の縁談〕話順調に進行。
両方の母付き添いのうえ見合いをすること好都合なるべく、来る2日の日曜ということに大体定まるらし。
この縁談はおそらくまとまるべしと皆考えている。
まとまってくれれば良いと思う。

1935年6月3日
正子、昨夜より貞子より意向を聞きしに承諾せず貞子苦慮。
急に静子を呼び、静子よりよく話してもらう。
その結果承諾することになり一同安心す。

1935年12月17日
京都ホテルに入り、正午瓢亭に行く。
〔白鷹酒造〕辰馬悦蔵氏、喬男氏それに母堂。
悦蔵氏は愛想も良く文学士なれば教養もあり良き人物である。
喬男氏は至極好人物のように見受けられる。
母堂もしっかりしたところあるも優しき人にてよろしく皆印象良し。
ただ容貌のあまり良からぬ点が澄子の気に入るかどうか心配なり。

1935年12月19日
澄子の決心つかず。
関西に行くことは覚悟していたが、本人が気に入らざりしためその決心も鈍り、結局は断りたいとのこと。
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『有馬頼寧日記』 

1936年2月1日
正子のところに寄り、澄子同道帰宅す。
亀井さんの奥さん〔亀井茲常伯爵の妻久子〕の評判悪いとのこと。
女の理知的なのはとかく悪い。

1936年4月1日
澄さん〔澄子〕の縁談につき、足利さんの話あり。
前から目はつけていた。
本人は良いと思うが父子爵が礼遇停止であるから、それがなんとかならねば困る。
わずかな借財なら始末をして隠居してもらい、礼遇停止を解いてもらえば良いと思う。

1936年04月13日

*静子は総理大臣斉藤実の養子斎藤斉子爵の妻
*2.26事件で斉藤実が暗殺された直後

斉藤家の母子の間、うまく行く事を祈る。
静子の力に待つべき事多し。

1936年06月04日
今日は斉藤子爵の百ヶ日である。
斉さんとお母さんの間 円満に行かぬ様で困ったものだ。

1936年06月07日
斉さんとお母さんの間面白からず、困った事だ。
なさぬ仲というものは難しい。
理屈はいくら良くとも、親にはやはり負けているべきである。

1936年6月30日
澄子、足利さんに面会、結果良好。
これでまとまれば大安心である。
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◆16代 有馬頼義 直木賞作家 15代頼寧の子
1918-1980


■妻  前島千代子 芸者
1923-2000


●長男 有馬頼央
●二男 有馬頼英
●長女 有馬美智子


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作家有馬頼義の証言

母から私の縁談が持ち出された。
私はもうその頃今の妻と結婚する意志を固めていたから、もちろん拒否した。
しかし母は承知しなかった。その人は静子の長女の同級生であった。
子爵であるのは分家だからで、本家は大大名の公爵であった。
しかし私のような者に血統書付きのおもちゃが必要であったろうか。
それで私は今の妻の写真を大きく引き伸ばして自分の机の上に飾っておいた。
ある日母はとうとう写真を見つけた。
「この方、好きな人?」
「ええ、そうです」
「どういう方?」
「芸者です」
母の返事はなかった。一時してドアを開いて出て行く母の足音を聞いた。

昭和19年の夏サイパンが陥ちた時、私は今の妻と所帯を持った。
自分の好きな文学書だけをリアカーに積んで家を出た。
私が家を出たとき荻窪に残っていたのは、父と母と女中頭のカネと執事の渋田老人と熊次郎という小使と私の乳母であったモトの6人きりであった。
終戦まで渋田老人はひどく苦労したようであった。
渋田老人はまず、株の遣り繰りと銀行の借金の始末をしなければならなかった。
父は月給のもらえる職業に就いた時期でも、まったく自分の収入を家の経済に入れることをしなかった。
私が渋田老人から家計を引き継いだ時、戦前の金で30万円の借金が残っていた。
渋田老人の第二の苦労は、母もカネもモトも食糧の配給制度というものをまったく理解しなかったことであった。
モトは毎日八百屋や魚屋に電話をかけて品物を持ってくるように言ったが、相手はそういう状態ではなかった。
モトは腹を立てて、「あの魚屋はお邸の恩も忘れてこの頃は電話をかけても持ってこないし、御用聞きにも回ってこない」と言い続けた。
熊次郎が畑をやっていて、麦や芋を作っていたことが当時の家の経済を支えていたと言っていい。
それでもカネは「奥方様にお芋ばっかり差し上げられない」とこぼしていたそうである。

戦犯として巣鴨へ収監されるので、父は私に帰ってきて欲しいと言った。
私は妻と一緒ならばと答えた。
しかし父がいなくなってから、姉とその連れあい達はそろって反対したのであった。
誰も私の妻の人格を認めていなかった。
その雰囲気が逆に私に強い決意をさせた。
私は反対を押し切って強引に本邸へ戻って来た。
私と妻は二階の一番すみの部屋をあてがわれ、生活はすべて別々にした。
澄子夫婦は京都へ帰り、正子夫婦も三鷹の自宅へ戻った。
静子の一家だけは住む所がなくて、二階の一隅に寄食していた。

昭和29年の夏私は直木賞を受賞したが、その頃一つの問題があった。
私と妻の間に子供ができない事であった。
父は家が潰れてもいいと言い、母はそんな事はできないと言った。
養子の話が出て正子の所から一人貰ったら血は繋がるという意見が出たが、澄子と正子の夫が反対した。
芸者であった私の妻の所へ大事な子供はやれないと言うのである。
養子の話がまとまらないまま父が死んだ。

姉達は私と妻に母を任せておけないと考えていた。
京都に住んでいた澄子が上京して母の家に住んだ。
そのうちに澄子は敷地の中に家を持ち、東京と京都と半々に暮らすようになった。
澄子の夫は京都にいたから、私には澄子の行動が不可解であった。
もともとエキセントリックな姉であったが、私は義兄に同情した。
やむを得ず澄子が京都へ帰らなければならない時は、隣に住んでいる静子に頼んでいったようである。しかし静子はあまり問題にしなかった。

一緒に暮らし始めて14年、妻は男の子を生んだ。妻はその時35歳、私は40歳であった。
それ以来母は澄子の目をしのんで、こっそり私の家へ来るようになった。
「もう帰るんですか」と私が言うと、母は「澄さんに叱られるから」と答えた。
しつけについて私は私なりの考えを持っている。
私達はもう特権階級ではないし、頼央は市井の小説書きの息子であるに過ぎない。
「〈央ちゃん〉さえいなかったら、おたた様はもっと長生きなさったでしょうよ」と澄子が言った。
私は頭を殴られたような気がした。
頼央が走って逃げるのを母が走って追いかけた事や、私の子供に対するしつけの悪さを母が気に病んでいた事を差している事がだいたい想像された。

「央ちゃんさえいなかったら」その言葉は私を叩きのめした。
澄子の発言の対象は、頼央ではなく私の妻なのか。
もし仮に私がかつて見合いをした華族の令嬢が私の所へ来ていたら、母はもっと長生きしたと言うのだろうか。
澄子はもとより父も母も、その他の私の周囲の誰もが「そこにある金」で暮らした。
しかし私と私の妻は働く事によって生計を立てた。
連綿と400年に渡って続いた家系の中で、働く事によって食えるようになった最初の人間が私なのであった。
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有馬千代子の証言 作家有馬頼義の妻 

うちの旦那もお母様のことは「おたあ様」って呼んでました。
お姉様たちは「おたた様」お母様はお父様のことを「お上」って呼ぶ。
お父様はお母様を「貞さん」女の姉妹同士では「澄様」とか「静様」と様つけ。
私に対しては「千代子」よ(笑)

一番上のお姉様は斉藤実さんの息子さんと結婚したのですが、戦争の時は四谷の斉藤家も焼けてここの家に来る。
二番目は足利尊氏の子孫の大学教授のところへ嫁いでいたのが、定年になって京都からこっちへ引っ越してくる。
三番目は吉祥寺。
みんな集まってるから大変といえば大変でした。
土地が広くて昔からの植木屋さんがいたので、戦後は花畑を作って私は自転車を練習してそれで花を届けたりしたことがあります。
無我夢中で生活費を稼いでいたんです。

お姉様たちは今日有馬家がこれだけ保っていられるのはあなたのおかげ、本当にありがたいと言ってくれています。
だって旦那が亡くなった時ここの土地をあっさり子供たちに分けて、私はハイ、サヨウナラと他へ行ったって済むことでしょう。
それを一応有馬家の土地として残し、マンションを建てて、それはそれで大変でした。
この頃ではこっちの方が皮肉を言うようになりましたね。
「私は有馬家の嫁ですから土地も一生懸命残しました。でも息子二人はこの先これを売って何に使おうと、私のせいじゃありませんよ」なんてね(笑)

旦那の睡眠薬はもうお終いの頃なんて煙草を喫うようなもので、やたらに飲んでいつもボーッと朦朧としてました。
何回も入院させたんですけどダメでした。
関東中央病院に3ヶ月ほど入院したり四谷の聖和病院やら東邦医大やら病院荒しをやったんですけど、
どうしてもやめさせられなかった。
病院はダメとわかると二度と引き受けてくれないです。
最後の言いぐさは「ああいうものは自分で治すものですから」

うちの旦那はよそで死んじゃったでしょう。
旦那が危篤だと知らせがあったので、中学生と高校生だった子供二人をやったんですけど、小指を立ててコレ〔愛人〕が病室に入れてくれなかったと帰って来たんです。
そしてとうとうダメになりました。
そのうちに有馬の三人のお姉様が「やっぱり有馬家の人間だから、引き取ってお葬式を出してほしい」とおっしゃるので、
「じゃ申し訳ないけど有馬家の風習でないやり方でよかったらやります。小説家というのは自分でなった仕事ですから、小説家としてのやり方でやらせてもらいます」と啖呵を切ったんです。
有馬家に嫁に来て20何年ぶりに反撃したわけ(笑)
それでもいいからと言うので、お酒もどんどん出して賑やかにやりました。
昔のお殿様は「お参りさせてあげる」という意識ですから、お茶とお菓子ぐらいです。
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2000


2001


2002

◆12代 有馬頼咸 10代有馬頼徳の子 最後の藩主
1828-1881 53歳没



1879年 58歳の書き入れあり
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■妻  有栖川宮韶子女王 有栖川宮韶仁親王の娘 
1825-1913 88歳没


●男子 有馬頼匡 13代当主
●五男 有馬頼万 14代当主
●男子 有馬頼之 子爵有馬頼之となる
●男子 有馬頼多 男爵有馬頼多となる

●女子 有馬頼子 小松宮彰仁親王妃
●女子 有馬千代 侯爵久我通久と結婚
●女子 有馬民子 子爵加藤明実と結婚
●女子 有馬納子 侯爵伊達宗陳と結婚


●有馬頼子 小松宮彰仁親王妃
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1879年 29歳
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◆13代 有馬頼匡 12代頼咸の子
1861-1918 57歳没


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◆14代 有馬頼万 13代頼匡の弟/12代頼咸の子
1864-1927 62歳没

1879年 17歳
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■前妻 岩倉恒子/寛子 岩倉具視の娘・有馬頼万と離婚・子爵森有礼と再婚
1864-1943




■後妻 戸田豊子 子爵戸田忠友の娘
1869-1934 




●男子 有馬頼寧  15代当主
●男子 有馬信昭  子爵安藤信昭となる
●男子 有馬正之  男爵松田正之となる
●男子 有馬敏四郎

●女子 有馬禎子  伯爵奥平昌恭と結婚・昌恭の酒乱により終生別居
●女子 有馬久米子 男爵稲田昌植と結婚


●有馬信昭 子爵安藤信昭となる
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●有馬正之 男爵松田正之となる
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●有馬禎子 伯爵奥平昌恭と結婚・昌恭の酒乱により終生別居
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●有馬久米子 男爵稲田昌植と結婚
1052(1)



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◆15代 有馬頼寧 14代頼万の子
1884-1957 72歳没

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■妻  北白川宮貞子女王 北白川宮能久親王の娘 
1887-1964 77歳没







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●長男 有馬頼秋 早逝
●二男 有馬頼春 早逝
●三男 有馬頼義 16代当主

●長女 有馬静子 子爵斎藤斉と結婚
●二女 有馬澄子 子爵足利惇氏と結婚
●四女 有馬正子 伯爵亀井茲建と結婚

●庶子 泰


手前の男子は頼義
後ろ6人左から 頼春 澄子 有馬頼寧 貞子夫人 静子 正子
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大人5人左から 澄子 頼春 頼義 正子 静子
椅子 有馬頼寧夫妻
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立つ左から 頼春 頼義 正子の夫亀井玆建 静子の夫斎藤斉
座る左から 子供 正子 貞子夫人 有馬頼寧 静子 澄子
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椅子 有馬頼寧夫妻
立つ左から 千代子夫人 正子 澄子 静子 静子の娘百子 頼義
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●有馬静子 子爵斎藤斉と結婚

1916年『君嫁ぐ日』
「今秋おめでたの有馬静子様。才色兼備のお姫様として若い人の憧れの的であった有馬頼寧氏の令嬢静子様が、今秋いよいよ華燭の典をあげらるることになりました」
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◆16代 有馬頼義 15代頼寧の子 直木賞作家
1918-1980

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■妻  前島千代子 芸者
1923-2000

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●長男 有馬頼央
●二男 有馬頼英
●長女 有馬美智子


立つ 頼央
座る左から 千代子夫人 美智子 有馬頼義 貞子夫人
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