《有馬頼寧の愛人 福田次恵編》
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<有馬頼寧伯爵の子・作家有馬頼義によるまとめ>
大正13年の夏私達一家は逗子に家を借りていた。突然母が倒れた。
病名は腎盂炎であった。それ以降、母の病は死ぬまで治らなかった。
腎盂炎と言われたが実は腎盂腎炎という病気で、父から淋菌を感染されたのがその原因であった。
しかし恐らく事実は母には語られてはいなかっただろうと思う。
父の母に対する感情は、大正12、3年あたりからガラリと変っている。
福田次恵という一人の女が父の身辺に寄り添うようになった。
これは私が後年博多で聞いた話である。
父はかなり長い期間久留米で足止めをくっていた。
その間に博多で雛妓をしていた女と出会った。
父が身請けする事になり1万円の値がついた。
1万円と言えば、金利で一生食えた時代であった。
雛妓は2年間祇園へ芸道の修業に預けられ、
昭和になってから荻窪に家を建ててもらって妾の生活に入った。
私は父が死んだ時、福田の所へ金を持って行って30年の糟糠を謝しきれいに引き取ってもらった。
福田次恵は荻窪の私達の家から50mも離れていない所に家を建ててもらって住むようになった。
福田の家は私の家から歩いて1分もかからない所にあり、
父は車で帰宅する時そこで降り、車だけを家に帰し深夜玄関の鍵を開けて戻って来た。
最初のうち母は毎夜父が帰るまで起きており両手をついて「お帰りあそばせ」と言っていたが、
昭和10年頃からそれをしなくなった。それだけが母の抵抗なのであった。
その昔長男頼秋・長男静子・二女澄子が幼い頃、父は若く母も元気で一家は幸福であった。
そういう時代を知っている静子は、後年の父と母についてどっちの味方とも言わなかった。
澄子は今でも言う。「お父様がお可哀想だったわ」
澄子に指摘されるまでもなく、母にももちろん欠点はあった。
その一番大きなものは、性格の冷たさであった。
だから澄子には、美しいが冷たく誇り高い母を妻に持って、
父が福田に走った事がなんとなくわかるような気がしたのに違いない。
父の姉禎子は豊後中津の藩主伯爵奥平昌恭に嫁したが、この結婚は失敗であった。
破局の原因は昌恭の酒乱で、禎子は殴る蹴るの乱暴をされて二度と奥平家に戻るまいと決心したが、
女一人で生きていく方法がない。
禎子は月にわずかな手当てを私の父からもらって転々と借家住まいをしていたが、
昭和5,6年頃から我家へ寄食した事がある。
ところが我家に居つくようになって間もなく、禎子は福田と仲良くなってしまった。
芸事とか芝居見物がそのきっかけになっていたのだと思うが、
禎子が福田と遊び歩くようになって、困ったのは父で被害を受けたのは母なのであった。
禎子という人は性格的に有馬家の、と言うよりも父の作り出した秘密主義の家風には合わなかった。
つまり母に対して福田の事を細大もらさず話すようになったのである。
父が禎子にそれだけは止めてくれと言っても、
禎子はわかったのかわからないのか少しも態度を変えようとしなかった。
母が私に、父が母に疎開を勧めるが、福田のことがあるから疎開したくないと漏らすようになった。
父の死後父の日記を読むと、母と福田は同じことを言っていたのだ。
相手を疎開させてしまいたいというのが二人の女の本当の気持であった。
父は福田を戦争から安全なところへやりたかった。そしてできれば自分もそこへ行きたかったのだ。
それにはまず母を疎開させる必要があった。母が疎開を決心する前に、福田の方が先に疎開した。
しかしそれでも母は疎開するとは言わなかった。
自分がどこかへ疎開をしたら、父が福田を呼び戻すのではないかという事を恐れているようであった。
この疎開を機に父が福田と別れる方が良いと私達きょうだいとその夫達は考えた。
しかし父が子供達の進言を入れようとは思われず、この話は実現しなかった。
新しい年に入ってから東京の空襲は本格的になったが、母はどこへも行かないと言った。
「疎開して下さい。空襲のたびに気になって仕方がない」と私は母に言った。
「でも私が疎開をすると、お父様は福田をお呼びになるでしょう」と母は答えた。
そんな押し問答をしているうち、東京のあらかたは灰になってしまった。
父の神経痛はひどかった。
薬を打つまで1時間も2時間も部屋中を転げ回り、爪で畳を掻きむしるような状態であった。
病気が起るというよりモヒが切れると暴れ出すという感じの方が強くなった。
そんな時、私と母は父を押さえつけ、説得し我慢させた。
父は3日ばかりで発作がおさまると、ケロリとして福田のところへ行った。
そして福田の家で発作の前兆が始まったり、薬が欲しくなると母のところへ戻ってきた。
静子と澄子と私と相談して、一度発作の時に福田を呼んで介抱させてみようと言った。
静子はそれもいいだろうと言ったが、澄子は福田を父の家に入れることに反対した。
母に相談すると、母は発作を福田に一度見せたいと言った。
それで次に発作が起こった時、私は福田を呼びに行った。
私たちの真意を父や福田が理解したかどうかわからない。
同じような繰り返しが10年近く続いたのであった。
父は意識を失う前に「福田を呼んでほしい」と静子に言った。
その事についてまた子供達の間で相談がなされた。
父自身が母でなく福田に看取られたいと言ったからであった。
私達には相当な抵抗があった。相談はなかなかまとまらなかった。
結局母に聞いて母がいいと言うならば福田を呼ぼうという事に一決した。
母は「お父様のおっしゃるようにしてください」と答えた。
皮肉な事に福田が来た時、父は意識を失っていた。
父の唇から母の名前はついに一度も呼ばれなかった。
医者が御臨終ですと言った時、母ははじめて自分の部屋を出て父のそばへ行った。
母の姿を見てから福田は黙って静かに去った。
母は父の死に際して一度も泣かなかった。
福田も泣いていなかった。
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芸者舟子(福田次恵)、芸者種千代(木村初江)、
その他いろいろな女性と同時進行が始まる。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員
*倉富勇三郎は有馬伯爵家の相談役でもあった
*当時総理大臣の年給は1万2,000円
1921年6月20日
倉富&有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の会話
橋爪◆頼寧の住居を荻窪に建築する事につき同意を求む。
倉富◆頼寧は何事も飽きやすき性質なるゆえ、建築したる後不便なりとてまた市内の住居を希望する懸念あり。
橋爪◆頼寧は「先年は不品行の事ありたるも、今日はこれを悔い教育に尽力して名誉を回復せんと熱心に勉強しおるも、相談人は自分を信用せず。
このごとき事にてはとうてい面白からざるゆえ外国に行かんと思う」と言えり。
倉富◆予は実にこれを信用しおらず。
頼寧の仕事は一つとして永続する事なし。
先年アメリカ行きを主張したるはミドリとの関係より出たる事にて、真に発奮心ありたる訳にはあらず。
同情園の事は一時非常に熱心の様なりしも、今日にてはすでに倦みおる模様なり。
このごとき事にて人の信用を求るも、それは無理なり。
1921年7月18日
※倉富&有馬伯爵家相談役の一人境豊吉の会話
境◆先頃頼寧より家屋建築の相談を受け、建築すべき場所は度々変更したるが、結局只今の所にては荻窪の所有地に建築する事となれり。頼寧の考えにては非常に節約の方針にて、2万5000円ぐらいの費用にて済ますつもりなる様にて、それにては済まざるべしと思う。
青山の現住宅を売り払いたらば6,7万円ぐらいにはなるならん。
これを建築費に充て、その上に2万5000円ばかりを加うる事となしてよろしかるべきや。
倉富◆予もこれまであまり度々考えが変わるゆえ、せっかく荻窪に建築してもいよいよ不便となりという風になりては困るゆえ、先日頼寧に面会してこれを確かめたるところ、その事は大丈夫とのことにつき大体同意しおきたり。
頼寧はごく小規模でよろしと言いおるも、本邸と言う以上は吉凶等の時は100人ぐらいは集まる事も考えおくべからざるべし。
境◆それは大変なり。
今の所にては建坪160~170坪ぐらいにて、1坪の建築費200円ぐらいのつもりなり。
家を建つるだけの費用は多額を要せざれども家具その他に要する金額少なからざるゆえ、青山の家屋売却代の他に2万5000円ぐらいを補助する事を得るものと考え置きよろしかるべきや。
倉富◆荻窪にするならば周囲の外構だけにても多額の費用を要すべし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官
1923年7月27日
※倉富&有馬頼寧の上司 東京大学農学部教授原熙の会話
原◆頼寧が農科大学助教授の辞表を出したり。
これはよほど前に出したる趣なるも自分が支那に行きおりたるため大学総長が自分の帰るまえ預かり置きたりとの事なり。
倉富◆本人は先年来大学の方は辞したしと言いおる事なるに、無理に引き留めおきても実際勉強もせず、予はやむを得ず大学の方を辞する事は致し方なからんとの答えを為しおきたる訳なり。
原◆頼寧は農政研究所を設けたしと言いおり、その費用は5万円の建築費と設備費1万5000円を要すと言いおり、
「有馬家にては如何なる事ありても自分の希望する費用を支出する気遣いなし」と言いおりたり。
倉富◆農政研究費の談は聞きたるに相違なし。
農事研究費として3000円を要すと言うにつき、4~5年前より年に3000円支出しおれども、すべて他の事に支出し研究には少しも使用せず。
原◆これまで3000円の研究費を支出しおる事などはすこしも話を聞きたる事なし。
「有馬家にては到底自分の希望を容れくるる事は無きにつき、自分は自由行動を取り他より金を借り入れて勝手に事を為す」旨を申し来りたり。
倉富◆しかるか。
実は予も今朝書状を受け取り、その書状には差向きは勝手に金を借り入るること等を申し来りおるが、戸主と成りたる時の理想としては所有地は無償にて小作人に遣す事、屋敷を解放する事、社会事業に金を出す事等を列記し、その言う所は社会主義の如く見ゆるが、一方には金の必要を説き前後矛盾の事多し。
極端に言えば精神病的の様なる所もありと言う。
原◆しかり。
よほど注意せざれば有馬家の運命にも関する事になるならん。
頼寧はしばしば意思の変る事ある人なるにつき、今少し時日が経ちたらば幾分考えの変わる事もあらん。
倉富◆その通りなり。
家屋の事にしても荻窪に建築すと言うにつき、予は必ず後悔するならんと言い、これを差し詰めたるも決して変更せずと言うにつき、その方に決したるところ、まだ建築に着手せざる内に変更して青山に建築する事となれり。
ただし芸妓道楽と同愛会の事は飽き方が遅くて困る。
1923年7月29日
有馬家別邸に行く。
予が原熙に会い頼寧の事を談し、また頼寧が地位も資産も必要なしと言いながら、一方にはその娘を秩父宮に納れんとする望みを有しおる事を談す。
原の話にては頼寧は7,000円ほどの負債ある趣なる事を談し、頼寧がこの如き書状を送りたる近因は負債の始末に困りおる事なるべしとの事に相違なし。
この際若干の金を供ずれば一時は折り合うべきも、事を仰山にする為、この節は久留米の相談人も呼びて協議する方よろしからんという事に一致す。
1923年8月10日
※倉富&有馬伯爵家の職員有馬秀雄の会話
倉富◆自分はこの際相当の多額の金を頼寧に分与せられ、頼寧の希望を満たすと同時に、金銭の価値を知り自覚の心を喚起せしむるがよろしからん。
困難なるには相違なし。
頼寧に対する交渉は予が担当すべし。
伯爵に出金を説く事は有馬秀雄君を煩わしたし。
有馬◆その事は自分が担当すべし。
1923年8月13日
※倉富&有馬伯爵家の職員有馬秀雄の会話
倉富◆この際頼寧に100万円を分与し、本邸との関係を絶ち、100万円は頼寧の随意処分に任す事なり。
これは全体無謀の事なれど、100万円を無益に費消したる事となりたらば、頼寧自身にも幾分か省察して覚る所あるべく世間にて頼寧を誤解しおる人も多少事情を覚知する様になるべし。
この事は意外の事にはあらず。
しかし父頼万の承諾を得がたからんと思いおりたる事なり。
有馬◆頼万には頼寧は不検束にて危険なるゆえ、頼万の財産を保護するためこの処分を為す必要ありと言いたらば承諾せらるるならん。
1923年8月21日
倉富「頼寧の事につきては父頼万も始終苦心せられ相談人らもたいそう困りおり、よりて頼寧の累を絶つためこの際適当の処置を為さる方がよろしからんと思う」と言いたるところ、
頼万「如何なる方法ありや」と言わるるにつき、
倉富「頼寧に金を与えくるるより他に致し方なし」と言いたるに、
頼万「頼寧には金をは与えず。一文にても与うる事はできず」と言わるるゆえ、
倉富「左様の事を言われても原熙の談によれば頼寧は既に負債もありとの事にて、これを償わざる訳にはいかず。頼寧は相続人なるゆえ結局伯爵家の全財産を相続すべき人なれば、この際若干の金を与えらるるは致し方なし」と言いたるに、
頼万「いかほど与うるや」と言われ、
倉富「多額なるが100万円与えられたし」と言いたるに、
頼万はその多きに驚き承諾せられざりしも、夫人そばよりこれを慫慂し、
倉富「結局頼寧の有となるものにて、かくすればこれまでの如く面倒なる事もなくして済むゆえ御気楽になるべく、しかして100万円分与せられても残額はなお2/3以上あり。ともかく処分を為すならば只今が最好時期なり」と述べ、
頼万「よろしく」言われ、
承諾の事項を記したる頼万の書面を取り来れり。
『公正証書額面100万円・青山南町・北町・荻窪の3邸を頼寧に与うる事、その管理処分には頼万は干渉せざる事、頼万家の家政には頼寧は関係せざる事など、頼万の署名捺印あり』
1923年8月26日
※倉富&有馬頼寧伯爵の会話
倉富◆有馬家にとりては重大なる事をもって久留米にある相談人らを上京せしめ、数回協議会を開き、処置方を議定せり。
頼寧◆例えば頼秋が結婚する時、静子が嫁する時なども、分与財産にて支弁する趣意なりや。
倉富◆しかり。
皇族より臣籍に降下し侯爵を授けられる方も、資産として賜るは100万円なり。
100万円にて侯爵家を立てらるる訳につき、貴君も伯爵家を相続するまでは100万円にて万事を弁せらるる事を得るならんとの考えなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官
1924年2月7日
※有馬伯爵家の職員有馬秀雄の発言
頼寧は100万円の分与につき非常に不平を言い、
誰に対しても「100万円ばかりで自分を追い出したり」と言いおらるる。
頼寧は久留米にては非常に評判悪し。
水平社の某は白山にて演説を為し、
「有馬頼寧は何者ぞ。自分らを食い物にして売名の手段と為し言語道断の者なり」と述べたる趣なり。
篠山神社の神官某は頼寧に非常に憤慨し、
「彼の如き不都合なる者は久留米に足踏みせしめざるがよろし」とまで言いたる趣なり。
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『有馬頼寧日記』
1926年1月4日
「もう恋などと言う年でもないじゃありませんか、子供に対する愛に生きたらどうです」と賀川君に言われた時、そうでなければならないとは思った。
しかし私の偽らぬ告白はいまだ若い若い恋をする心があるのだ。
次恵に対する私の愛は決して汚らしい性欲ではない。かなり純な愛を捧げている。
私はどこまでも自分の思うがままに強く生きていく。
最後がどんなであろうとそんなことなんだ。
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『有馬頼寧日記』
1926年1月10日
午前8時過ぎ京都へ着く。
今朝7時の汽車から停車場へ来て、次恵は待っていたとのこと。
寒いのに気の毒と思って時間を知らせなくてかえって可哀想なことをした。
それでも迎えに来てくれたことは嬉しい。
何度来ても京都は良い。
今までどの女とも一緒に外出などしたこともないのに、次恵とはしきりに出たい気がする。
どうも可愛くて仕方がない。とても別れる気などにはなれない。
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『有馬頼寧日記』
1927年4月28日
午後9時過ぎ帰宅。
自分の家に帰ってなぜこんな気まずい思いをしなければならないのか。
旅行をすると言うて家を空け女の所にいたのだから、気おくれのするはずだ。
妻の他に女があるということは本当に悪いことなのだろうか。
一夫一婦制という習慣に基づく約束、それを道徳と言う。
そうしたものに縛られているべきなのだろうか。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月08日
長田屋に立ち寄り、〈年菊〉と〈種千代〉を呼んで6時まで遊ぶ。
種千代という子、可愛らしい。
種千代という女は近頃になく私の心を捕えた。
身丈は5尺にも足らぬ小作りで肉もあり顔が良い。
日本人の多く持つ欠点の、鼻と口に難がない。目つきも良い、髪も長い。
そして利口である。
私はこういう女が好きでたまらぬ。
もう浮気な心は起こすまいと思うけれど、こうしたのにぶつかるとまた心が若んでくる。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月9日
次恵、九州に発つ。
停車場に送り銀座に行く。
長田屋に行き初江を呼ぶ。
まだ寝ていたのを起きてくる。
土曜だから多分旦那さんでも来たのであろう。
羨ましいと思う。
衣服といい持物といい、ずいぶん良い物をしているからよほど良い人が付いているのであろう。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月11日
午前10時より祥雲において愛子の命日につき御経をあげる。
それから長田屋に行き初江に会い、6時半神田の青年会館に行く。
9時近く青年会館を出て9時過ぎ〈蜂龍〉に行き初江に会う。
女将の話で旦那のある事を聞き落胆する。
何だかたまらなく寂しくなり、いろいろ言ったので本人も泣いていた。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月12日
長田屋に行く。
ほとんど日参だ。
初江の顔を見ていると何だか胸が塞がってくるような気がする。
私もまだ恋をする若さがあるかと思うと嬉しい。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月13日
産みの父を知らず母は他に嫁いで、その家にいる事を苦にして商売に出た、今まで力強い人を求めていて得られなかった、それが得られたので嬉しいと言っていた。
女難の相があると言われた私の一生は、ついに女難をもって終始している。
これが私の運命なのか。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月14日
初江と私の間はこれからどうなって行くのか。
毎日一度は顔を見ねば納まらぬ。
〈龍土町〉〔別の妾宅・庶子もいる〕など全然足は向かぬ。
済まぬと思いながら、〈仲ノ町〉は留守で幸せだ。
〈新潟〉など全然忘れてしまうことができる。
ただCとの関係が初江との関係とこんがらがって、将来何らかの面倒を引き起こすのではあるまいか。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月15日
今朝初江から可愛い手紙をもらい、ネクタイをもらう。
可愛い。
彼女の志は本当に嬉しい。
こうした社会に本当の嬉しい意気がある。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月16日
Cが待ち遠しがって電話など掛けてくる。
〈肥沼〉に気の毒だ。
それに初江に知れたら、さぞ残念に思うだろう。
可哀想だ。
今日は初江から二度も手紙が来る。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月18日
Cと初江から電話が掛かってくる。
少々困る。
が、一生懸命になっていると思えば気の毒にも思う。
どうしたら女というものから遠ざかれるようになるのか。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月19日
11時半蜻蛉に行きCと食事をする。
3時より長田屋に行き初江に会う。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月21日
明日もまた初江に会う約束をする。
Cには断って。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月22日
午後2時長田屋に行き初江に会う。
5時までいる。
初江が私に傾注しているため〈蜂竜〉の方では非常に心配しているらしい。
ただし本人はこの心をどうすることもできぬと言うている。
Cが電話をかけてきたが断る。
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『有馬頼寧日記』
1927年8月6日
初江と今のうちに別れた方がよいと思って話したが、とてもそんな気にはなれぬらしい。
可哀想だからこのままにしておこう。先の事を考えると多少心配だけれど仕方がない。
その時はその時の事にする。
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『有馬頼寧日記』
1927年8月16日
なんだか次恵に会いたくて仕方がない。
早く帰ればよいと思う。
〈民子〉の所へ行かねばならぬとは思うが、泰〔庶子〕の事を思うと足が向かぬ。
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『有馬頼寧日記』
1927年8月20日
次恵は何日帰るともいまだに言うてこぬ。
どうしたのだろうか。
もう四十日にもなるのにノンキな奴だ。
安心してしまうとこれだから困る。
でもまた可愛い。
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『有馬頼寧日記』
1927年10月5日
午後は仲ノ町に寄る。
次恵は怒っていた。
博多に帰ろうかと思ったと言う。
可哀想だとは思うが、私の心はだんだん遠ざかって行く。
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『有馬頼寧日記』
1927年10月16日
午後3時半、長田屋に行く。
初江が清元をさらっていた。
紫の絞りの着物を着ていたのがなんとも言えぬ可愛らしさ。
今日という今日は、もうとても捨てられぬ気持ちがした。
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『有馬頼寧日記』
1935年5月11日
夜、福田のところへ行く。
今日は11年目の記念日なり。
大正13年5月11日のことを思うと遠い昔のように思われる。
それから月日は流れて今年で11年である。
選挙に当選したあの頃が、一番華やかな時代であった。
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『有馬頼寧日記』
1935年5月30日
福田の気持ちはわかっているけれど、実に困ってしまう。
尼さんになるとか、独りきりでいるとか、実行できぬことばかり言う。
いっそ嫌ってくれれば始末がよいと思う。
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『有馬頼寧日記』
1936年2月8日
3時福田のところに行く。
今夜は帰るつもりのところ、泊まりたくなってとうとう泊まる。
福田は喜ぶが、貞子の機嫌がまた悪くて嫌な思いをすることであろう。
この三角関係は将来どういう風に展開することか。
何事も成り行きに任すほかなし。
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『有馬頼寧日記』
1936年9月5日
夕食後福田のところに行って帰ると、裏門のところに貞子待っていて、それから約1時間下庭の森の中で話す。
福田と清算しろと言う。
自分はできぬと断る。
家庭に対しては尽くしているつもり。
これで悪ければ何とでもするがよし。
自分としてはこれ以外できぬ。
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『有馬頼寧日記』
1936年11月2日
今日姉上様〔禎子〕に手紙をあげ、福田との御交際をお断りする。
さだめし御立腹のことと思うが、困るから仕方ない。
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『有馬頼寧日記』
1936年12月12日
世田谷常泉寺の木村初江の七年忌の御墓詣をする。
もう7年も経った。
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『有馬頼寧日記』
1937年1月20日
姉上様はどういう考えでおられるのか、時々福田に余計なことを言われる。
あまり迷惑するようなことを言われるなら御世話はやめる。
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『有馬頼寧日記』
1937年5月1日
貞子がまた変なことを言い、私が不親切だとか、病気が治ったら別居するとか言う。
神経が高くなっているから仕方ないと思う。
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『有馬頼寧日記』
1937年5月11日
今日は満13年の記念日である。
福田との間はもはやどうすることもできぬものとなってしまった。
あるいは自分の余生を誤るかもしれぬが、自分としてはそれで満足なのだ。
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『有馬頼寧日記』
1937年11月15日
Kとの危ない橋を渡るのが、いつまで知れずに続くか。
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『有馬頼寧日記』
1937年11月20日
近頃の私の行動について、福田がなんとなく不安を感じているように思われる。
どうしてこう無思慮なことをして後悔を重ねるのだろう。
赤坂も柳橋もなんとかせねばならぬと思いながら、だんだん深みに落ちて行くような気がする。
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『有馬頼寧日記』
1937年11月28日
貞子とまた少しゴタゴタする。
貞子の希望としては、自分の死ぬ時には福田と別れたということを聞いて死にたいとの話。
さもなくば、その前に自分だけ別になるとの話。
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<有馬頼寧伯爵の子・作家有馬頼義によるまとめ>
大正13年の夏私達一家は逗子に家を借りていた。突然母が倒れた。
病名は腎盂炎であった。それ以降、母の病は死ぬまで治らなかった。
腎盂炎と言われたが実は腎盂腎炎という病気で、父から淋菌を感染されたのがその原因であった。
しかし恐らく事実は母には語られてはいなかっただろうと思う。
父の母に対する感情は、大正12、3年あたりからガラリと変っている。
福田次恵という一人の女が父の身辺に寄り添うようになった。
これは私が後年博多で聞いた話である。
父はかなり長い期間久留米で足止めをくっていた。
その間に博多で雛妓をしていた女と出会った。
父が身請けする事になり1万円の値がついた。
1万円と言えば、金利で一生食えた時代であった。
雛妓は2年間祇園へ芸道の修業に預けられ、
昭和になってから荻窪に家を建ててもらって妾の生活に入った。
私は父が死んだ時、福田の所へ金を持って行って30年の糟糠を謝しきれいに引き取ってもらった。
福田次恵は荻窪の私達の家から50mも離れていない所に家を建ててもらって住むようになった。
福田の家は私の家から歩いて1分もかからない所にあり、
父は車で帰宅する時そこで降り、車だけを家に帰し深夜玄関の鍵を開けて戻って来た。
最初のうち母は毎夜父が帰るまで起きており両手をついて「お帰りあそばせ」と言っていたが、
昭和10年頃からそれをしなくなった。それだけが母の抵抗なのであった。
その昔長男頼秋・長男静子・二女澄子が幼い頃、父は若く母も元気で一家は幸福であった。
そういう時代を知っている静子は、後年の父と母についてどっちの味方とも言わなかった。
澄子は今でも言う。「お父様がお可哀想だったわ」
澄子に指摘されるまでもなく、母にももちろん欠点はあった。
その一番大きなものは、性格の冷たさであった。
だから澄子には、美しいが冷たく誇り高い母を妻に持って、
父が福田に走った事がなんとなくわかるような気がしたのに違いない。
父の姉禎子は豊後中津の藩主伯爵奥平昌恭に嫁したが、この結婚は失敗であった。
破局の原因は昌恭の酒乱で、禎子は殴る蹴るの乱暴をされて二度と奥平家に戻るまいと決心したが、
女一人で生きていく方法がない。
禎子は月にわずかな手当てを私の父からもらって転々と借家住まいをしていたが、
昭和5,6年頃から我家へ寄食した事がある。
ところが我家に居つくようになって間もなく、禎子は福田と仲良くなってしまった。
芸事とか芝居見物がそのきっかけになっていたのだと思うが、
禎子が福田と遊び歩くようになって、困ったのは父で被害を受けたのは母なのであった。
禎子という人は性格的に有馬家の、と言うよりも父の作り出した秘密主義の家風には合わなかった。
つまり母に対して福田の事を細大もらさず話すようになったのである。
父が禎子にそれだけは止めてくれと言っても、
禎子はわかったのかわからないのか少しも態度を変えようとしなかった。
母が私に、父が母に疎開を勧めるが、福田のことがあるから疎開したくないと漏らすようになった。
父の死後父の日記を読むと、母と福田は同じことを言っていたのだ。
相手を疎開させてしまいたいというのが二人の女の本当の気持であった。
父は福田を戦争から安全なところへやりたかった。そしてできれば自分もそこへ行きたかったのだ。
それにはまず母を疎開させる必要があった。母が疎開を決心する前に、福田の方が先に疎開した。
しかしそれでも母は疎開するとは言わなかった。
自分がどこかへ疎開をしたら、父が福田を呼び戻すのではないかという事を恐れているようであった。
この疎開を機に父が福田と別れる方が良いと私達きょうだいとその夫達は考えた。
しかし父が子供達の進言を入れようとは思われず、この話は実現しなかった。
新しい年に入ってから東京の空襲は本格的になったが、母はどこへも行かないと言った。
「疎開して下さい。空襲のたびに気になって仕方がない」と私は母に言った。
「でも私が疎開をすると、お父様は福田をお呼びになるでしょう」と母は答えた。
そんな押し問答をしているうち、東京のあらかたは灰になってしまった。
父の神経痛はひどかった。
薬を打つまで1時間も2時間も部屋中を転げ回り、爪で畳を掻きむしるような状態であった。
病気が起るというよりモヒが切れると暴れ出すという感じの方が強くなった。
そんな時、私と母は父を押さえつけ、説得し我慢させた。
父は3日ばかりで発作がおさまると、ケロリとして福田のところへ行った。
そして福田の家で発作の前兆が始まったり、薬が欲しくなると母のところへ戻ってきた。
静子と澄子と私と相談して、一度発作の時に福田を呼んで介抱させてみようと言った。
静子はそれもいいだろうと言ったが、澄子は福田を父の家に入れることに反対した。
母に相談すると、母は発作を福田に一度見せたいと言った。
それで次に発作が起こった時、私は福田を呼びに行った。
私たちの真意を父や福田が理解したかどうかわからない。
同じような繰り返しが10年近く続いたのであった。
父は意識を失う前に「福田を呼んでほしい」と静子に言った。
その事についてまた子供達の間で相談がなされた。
父自身が母でなく福田に看取られたいと言ったからであった。
私達には相当な抵抗があった。相談はなかなかまとまらなかった。
結局母に聞いて母がいいと言うならば福田を呼ぼうという事に一決した。
母は「お父様のおっしゃるようにしてください」と答えた。
皮肉な事に福田が来た時、父は意識を失っていた。
父の唇から母の名前はついに一度も呼ばれなかった。
医者が御臨終ですと言った時、母ははじめて自分の部屋を出て父のそばへ行った。
母の姿を見てから福田は黙って静かに去った。
母は父の死に際して一度も泣かなかった。
福田も泣いていなかった。
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芸者舟子(福田次恵)、芸者種千代(木村初江)、
その他いろいろな女性と同時進行が始まる。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員
*倉富勇三郎は有馬伯爵家の相談役でもあった
*当時総理大臣の年給は1万2,000円
1921年6月20日
倉富&有馬伯爵家の職員橋爪慎吾の会話
橋爪◆頼寧の住居を荻窪に建築する事につき同意を求む。
倉富◆頼寧は何事も飽きやすき性質なるゆえ、建築したる後不便なりとてまた市内の住居を希望する懸念あり。
橋爪◆頼寧は「先年は不品行の事ありたるも、今日はこれを悔い教育に尽力して名誉を回復せんと熱心に勉強しおるも、相談人は自分を信用せず。
このごとき事にてはとうてい面白からざるゆえ外国に行かんと思う」と言えり。
倉富◆予は実にこれを信用しおらず。
頼寧の仕事は一つとして永続する事なし。
先年アメリカ行きを主張したるはミドリとの関係より出たる事にて、真に発奮心ありたる訳にはあらず。
同情園の事は一時非常に熱心の様なりしも、今日にてはすでに倦みおる模様なり。
このごとき事にて人の信用を求るも、それは無理なり。
1921年7月18日
※倉富&有馬伯爵家相談役の一人境豊吉の会話
境◆先頃頼寧より家屋建築の相談を受け、建築すべき場所は度々変更したるが、結局只今の所にては荻窪の所有地に建築する事となれり。頼寧の考えにては非常に節約の方針にて、2万5000円ぐらいの費用にて済ますつもりなる様にて、それにては済まざるべしと思う。
青山の現住宅を売り払いたらば6,7万円ぐらいにはなるならん。
これを建築費に充て、その上に2万5000円ばかりを加うる事となしてよろしかるべきや。
倉富◆予もこれまであまり度々考えが変わるゆえ、せっかく荻窪に建築してもいよいよ不便となりという風になりては困るゆえ、先日頼寧に面会してこれを確かめたるところ、その事は大丈夫とのことにつき大体同意しおきたり。
頼寧はごく小規模でよろしと言いおるも、本邸と言う以上は吉凶等の時は100人ぐらいは集まる事も考えおくべからざるべし。
境◆それは大変なり。
今の所にては建坪160~170坪ぐらいにて、1坪の建築費200円ぐらいのつもりなり。
家を建つるだけの費用は多額を要せざれども家具その他に要する金額少なからざるゆえ、青山の家屋売却代の他に2万5000円ぐらいを補助する事を得るものと考え置きよろしかるべきや。
倉富◆荻窪にするならば周囲の外構だけにても多額の費用を要すべし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官
1923年7月27日
※倉富&有馬頼寧の上司 東京大学農学部教授原熙の会話
原◆頼寧が農科大学助教授の辞表を出したり。
これはよほど前に出したる趣なるも自分が支那に行きおりたるため大学総長が自分の帰るまえ預かり置きたりとの事なり。
倉富◆本人は先年来大学の方は辞したしと言いおる事なるに、無理に引き留めおきても実際勉強もせず、予はやむを得ず大学の方を辞する事は致し方なからんとの答えを為しおきたる訳なり。
原◆頼寧は農政研究所を設けたしと言いおり、その費用は5万円の建築費と設備費1万5000円を要すと言いおり、
「有馬家にては如何なる事ありても自分の希望する費用を支出する気遣いなし」と言いおりたり。
倉富◆農政研究費の談は聞きたるに相違なし。
農事研究費として3000円を要すと言うにつき、4~5年前より年に3000円支出しおれども、すべて他の事に支出し研究には少しも使用せず。
原◆これまで3000円の研究費を支出しおる事などはすこしも話を聞きたる事なし。
「有馬家にては到底自分の希望を容れくるる事は無きにつき、自分は自由行動を取り他より金を借り入れて勝手に事を為す」旨を申し来りたり。
倉富◆しかるか。
実は予も今朝書状を受け取り、その書状には差向きは勝手に金を借り入るること等を申し来りおるが、戸主と成りたる時の理想としては所有地は無償にて小作人に遣す事、屋敷を解放する事、社会事業に金を出す事等を列記し、その言う所は社会主義の如く見ゆるが、一方には金の必要を説き前後矛盾の事多し。
極端に言えば精神病的の様なる所もありと言う。
原◆しかり。
よほど注意せざれば有馬家の運命にも関する事になるならん。
頼寧はしばしば意思の変る事ある人なるにつき、今少し時日が経ちたらば幾分考えの変わる事もあらん。
倉富◆その通りなり。
家屋の事にしても荻窪に建築すと言うにつき、予は必ず後悔するならんと言い、これを差し詰めたるも決して変更せずと言うにつき、その方に決したるところ、まだ建築に着手せざる内に変更して青山に建築する事となれり。
ただし芸妓道楽と同愛会の事は飽き方が遅くて困る。
1923年7月29日
有馬家別邸に行く。
予が原熙に会い頼寧の事を談し、また頼寧が地位も資産も必要なしと言いながら、一方にはその娘を秩父宮に納れんとする望みを有しおる事を談す。
原の話にては頼寧は7,000円ほどの負債ある趣なる事を談し、頼寧がこの如き書状を送りたる近因は負債の始末に困りおる事なるべしとの事に相違なし。
この際若干の金を供ずれば一時は折り合うべきも、事を仰山にする為、この節は久留米の相談人も呼びて協議する方よろしからんという事に一致す。
1923年8月10日
※倉富&有馬伯爵家の職員有馬秀雄の会話
倉富◆自分はこの際相当の多額の金を頼寧に分与せられ、頼寧の希望を満たすと同時に、金銭の価値を知り自覚の心を喚起せしむるがよろしからん。
困難なるには相違なし。
頼寧に対する交渉は予が担当すべし。
伯爵に出金を説く事は有馬秀雄君を煩わしたし。
有馬◆その事は自分が担当すべし。
1923年8月13日
※倉富&有馬伯爵家の職員有馬秀雄の会話
倉富◆この際頼寧に100万円を分与し、本邸との関係を絶ち、100万円は頼寧の随意処分に任す事なり。
これは全体無謀の事なれど、100万円を無益に費消したる事となりたらば、頼寧自身にも幾分か省察して覚る所あるべく世間にて頼寧を誤解しおる人も多少事情を覚知する様になるべし。
この事は意外の事にはあらず。
しかし父頼万の承諾を得がたからんと思いおりたる事なり。
有馬◆頼万には頼寧は不検束にて危険なるゆえ、頼万の財産を保護するためこの処分を為す必要ありと言いたらば承諾せらるるならん。
1923年8月21日
倉富「頼寧の事につきては父頼万も始終苦心せられ相談人らもたいそう困りおり、よりて頼寧の累を絶つためこの際適当の処置を為さる方がよろしからんと思う」と言いたるところ、
頼万「如何なる方法ありや」と言わるるにつき、
倉富「頼寧に金を与えくるるより他に致し方なし」と言いたるに、
頼万「頼寧には金をは与えず。一文にても与うる事はできず」と言わるるゆえ、
倉富「左様の事を言われても原熙の談によれば頼寧は既に負債もありとの事にて、これを償わざる訳にはいかず。頼寧は相続人なるゆえ結局伯爵家の全財産を相続すべき人なれば、この際若干の金を与えらるるは致し方なし」と言いたるに、
頼万「いかほど与うるや」と言われ、
倉富「多額なるが100万円与えられたし」と言いたるに、
頼万はその多きに驚き承諾せられざりしも、夫人そばよりこれを慫慂し、
倉富「結局頼寧の有となるものにて、かくすればこれまでの如く面倒なる事もなくして済むゆえ御気楽になるべく、しかして100万円分与せられても残額はなお2/3以上あり。ともかく処分を為すならば只今が最好時期なり」と述べ、
頼万「よろしく」言われ、
承諾の事項を記したる頼万の書面を取り来れり。
『公正証書額面100万円・青山南町・北町・荻窪の3邸を頼寧に与うる事、その管理処分には頼万は干渉せざる事、頼万家の家政には頼寧は関係せざる事など、頼万の署名捺印あり』
1923年8月26日
※倉富&有馬頼寧伯爵の会話
倉富◆有馬家にとりては重大なる事をもって久留米にある相談人らを上京せしめ、数回協議会を開き、処置方を議定せり。
頼寧◆例えば頼秋が結婚する時、静子が嫁する時なども、分与財産にて支弁する趣意なりや。
倉富◆しかり。
皇族より臣籍に降下し侯爵を授けられる方も、資産として賜るは100万円なり。
100万円にて侯爵家を立てらるる訳につき、貴君も伯爵家を相続するまでは100万円にて万事を弁せらるる事を得るならんとの考えなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官
1924年2月7日
※有馬伯爵家の職員有馬秀雄の発言
頼寧は100万円の分与につき非常に不平を言い、
誰に対しても「100万円ばかりで自分を追い出したり」と言いおらるる。
頼寧は久留米にては非常に評判悪し。
水平社の某は白山にて演説を為し、
「有馬頼寧は何者ぞ。自分らを食い物にして売名の手段と為し言語道断の者なり」と述べたる趣なり。
篠山神社の神官某は頼寧に非常に憤慨し、
「彼の如き不都合なる者は久留米に足踏みせしめざるがよろし」とまで言いたる趣なり。
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『有馬頼寧日記』
1926年1月4日
「もう恋などと言う年でもないじゃありませんか、子供に対する愛に生きたらどうです」と賀川君に言われた時、そうでなければならないとは思った。
しかし私の偽らぬ告白はいまだ若い若い恋をする心があるのだ。
次恵に対する私の愛は決して汚らしい性欲ではない。かなり純な愛を捧げている。
私はどこまでも自分の思うがままに強く生きていく。
最後がどんなであろうとそんなことなんだ。
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『有馬頼寧日記』
1926年1月10日
午前8時過ぎ京都へ着く。
今朝7時の汽車から停車場へ来て、次恵は待っていたとのこと。
寒いのに気の毒と思って時間を知らせなくてかえって可哀想なことをした。
それでも迎えに来てくれたことは嬉しい。
何度来ても京都は良い。
今までどの女とも一緒に外出などしたこともないのに、次恵とはしきりに出たい気がする。
どうも可愛くて仕方がない。とても別れる気などにはなれない。
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『有馬頼寧日記』
1927年4月28日
午後9時過ぎ帰宅。
自分の家に帰ってなぜこんな気まずい思いをしなければならないのか。
旅行をすると言うて家を空け女の所にいたのだから、気おくれのするはずだ。
妻の他に女があるということは本当に悪いことなのだろうか。
一夫一婦制という習慣に基づく約束、それを道徳と言う。
そうしたものに縛られているべきなのだろうか。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月08日
長田屋に立ち寄り、〈年菊〉と〈種千代〉を呼んで6時まで遊ぶ。
種千代という子、可愛らしい。
種千代という女は近頃になく私の心を捕えた。
身丈は5尺にも足らぬ小作りで肉もあり顔が良い。
日本人の多く持つ欠点の、鼻と口に難がない。目つきも良い、髪も長い。
そして利口である。
私はこういう女が好きでたまらぬ。
もう浮気な心は起こすまいと思うけれど、こうしたのにぶつかるとまた心が若んでくる。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月9日
次恵、九州に発つ。
停車場に送り銀座に行く。
長田屋に行き初江を呼ぶ。
まだ寝ていたのを起きてくる。
土曜だから多分旦那さんでも来たのであろう。
羨ましいと思う。
衣服といい持物といい、ずいぶん良い物をしているからよほど良い人が付いているのであろう。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月11日
午前10時より祥雲において愛子の命日につき御経をあげる。
それから長田屋に行き初江に会い、6時半神田の青年会館に行く。
9時近く青年会館を出て9時過ぎ〈蜂龍〉に行き初江に会う。
女将の話で旦那のある事を聞き落胆する。
何だかたまらなく寂しくなり、いろいろ言ったので本人も泣いていた。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月12日
長田屋に行く。
ほとんど日参だ。
初江の顔を見ていると何だか胸が塞がってくるような気がする。
私もまだ恋をする若さがあるかと思うと嬉しい。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月13日
産みの父を知らず母は他に嫁いで、その家にいる事を苦にして商売に出た、今まで力強い人を求めていて得られなかった、それが得られたので嬉しいと言っていた。
女難の相があると言われた私の一生は、ついに女難をもって終始している。
これが私の運命なのか。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月14日
初江と私の間はこれからどうなって行くのか。
毎日一度は顔を見ねば納まらぬ。
〈龍土町〉〔別の妾宅・庶子もいる〕など全然足は向かぬ。
済まぬと思いながら、〈仲ノ町〉は留守で幸せだ。
〈新潟〉など全然忘れてしまうことができる。
ただCとの関係が初江との関係とこんがらがって、将来何らかの面倒を引き起こすのではあるまいか。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月15日
今朝初江から可愛い手紙をもらい、ネクタイをもらう。
可愛い。
彼女の志は本当に嬉しい。
こうした社会に本当の嬉しい意気がある。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月16日
Cが待ち遠しがって電話など掛けてくる。
〈肥沼〉に気の毒だ。
それに初江に知れたら、さぞ残念に思うだろう。
可哀想だ。
今日は初江から二度も手紙が来る。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月18日
Cと初江から電話が掛かってくる。
少々困る。
が、一生懸命になっていると思えば気の毒にも思う。
どうしたら女というものから遠ざかれるようになるのか。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月19日
11時半蜻蛉に行きCと食事をする。
3時より長田屋に行き初江に会う。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月21日
明日もまた初江に会う約束をする。
Cには断って。
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『有馬頼寧日記』
1927年7月22日
午後2時長田屋に行き初江に会う。
5時までいる。
初江が私に傾注しているため〈蜂竜〉の方では非常に心配しているらしい。
ただし本人はこの心をどうすることもできぬと言うている。
Cが電話をかけてきたが断る。
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『有馬頼寧日記』
1927年8月6日
初江と今のうちに別れた方がよいと思って話したが、とてもそんな気にはなれぬらしい。
可哀想だからこのままにしておこう。先の事を考えると多少心配だけれど仕方がない。
その時はその時の事にする。
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『有馬頼寧日記』
1927年8月16日
なんだか次恵に会いたくて仕方がない。
早く帰ればよいと思う。
〈民子〉の所へ行かねばならぬとは思うが、泰〔庶子〕の事を思うと足が向かぬ。
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『有馬頼寧日記』
1927年8月20日
次恵は何日帰るともいまだに言うてこぬ。
どうしたのだろうか。
もう四十日にもなるのにノンキな奴だ。
安心してしまうとこれだから困る。
でもまた可愛い。
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『有馬頼寧日記』
1927年10月5日
午後は仲ノ町に寄る。
次恵は怒っていた。
博多に帰ろうかと思ったと言う。
可哀想だとは思うが、私の心はだんだん遠ざかって行く。
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『有馬頼寧日記』
1927年10月16日
午後3時半、長田屋に行く。
初江が清元をさらっていた。
紫の絞りの着物を着ていたのがなんとも言えぬ可愛らしさ。
今日という今日は、もうとても捨てられぬ気持ちがした。
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『有馬頼寧日記』
1935年5月11日
夜、福田のところへ行く。
今日は11年目の記念日なり。
大正13年5月11日のことを思うと遠い昔のように思われる。
それから月日は流れて今年で11年である。
選挙に当選したあの頃が、一番華やかな時代であった。
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『有馬頼寧日記』
1935年5月30日
福田の気持ちはわかっているけれど、実に困ってしまう。
尼さんになるとか、独りきりでいるとか、実行できぬことばかり言う。
いっそ嫌ってくれれば始末がよいと思う。
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『有馬頼寧日記』
1936年2月8日
3時福田のところに行く。
今夜は帰るつもりのところ、泊まりたくなってとうとう泊まる。
福田は喜ぶが、貞子の機嫌がまた悪くて嫌な思いをすることであろう。
この三角関係は将来どういう風に展開することか。
何事も成り行きに任すほかなし。
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『有馬頼寧日記』
1936年9月5日
夕食後福田のところに行って帰ると、裏門のところに貞子待っていて、それから約1時間下庭の森の中で話す。
福田と清算しろと言う。
自分はできぬと断る。
家庭に対しては尽くしているつもり。
これで悪ければ何とでもするがよし。
自分としてはこれ以外できぬ。
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『有馬頼寧日記』
1936年11月2日
今日姉上様〔禎子〕に手紙をあげ、福田との御交際をお断りする。
さだめし御立腹のことと思うが、困るから仕方ない。
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『有馬頼寧日記』
1936年12月12日
世田谷常泉寺の木村初江の七年忌の御墓詣をする。
もう7年も経った。
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『有馬頼寧日記』
1937年1月20日
姉上様はどういう考えでおられるのか、時々福田に余計なことを言われる。
あまり迷惑するようなことを言われるなら御世話はやめる。
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『有馬頼寧日記』
1937年5月1日
貞子がまた変なことを言い、私が不親切だとか、病気が治ったら別居するとか言う。
神経が高くなっているから仕方ないと思う。
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『有馬頼寧日記』
1937年5月11日
今日は満13年の記念日である。
福田との間はもはやどうすることもできぬものとなってしまった。
あるいは自分の余生を誤るかもしれぬが、自分としてはそれで満足なのだ。
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『有馬頼寧日記』
1937年11月15日
Kとの危ない橋を渡るのが、いつまで知れずに続くか。
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『有馬頼寧日記』
1937年11月20日
近頃の私の行動について、福田がなんとなく不安を感じているように思われる。
どうしてこう無思慮なことをして後悔を重ねるのだろう。
赤坂も柳橋もなんとかせねばならぬと思いながら、だんだん深みに落ちて行くような気がする。
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『有馬頼寧日記』
1937年11月28日
貞子とまた少しゴタゴタする。
貞子の希望としては、自分の死ぬ時には福田と別れたということを聞いて死にたいとの話。
さもなくば、その前に自分だけ別になるとの話。
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