直球和館

2025年

2021/01

◆初代公爵 松方正義 薩摩藩士松方正恭の子 総理大臣
1835-1924 89歳没


■妻  川上満左子 薩摩藩士川上助八郎の娘 
1845-1920 75歳没


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実子は4男1女、庶子も合わせると15男7女の22人。
晩年には子ではなく孫として届け出していた。
明治天皇から子供は何人か聞かれたが思い出せず、
「後日調査の上、御報告申し上げます」と答えたほどであった。
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●長男 松方巌   1862年生 2代公爵
●二男 松方正作  1863年生 財閥岩崎弥之助男爵の娘岩崎繁子と結婚
●三男 松方幸次郎 1865年生 九鬼隆義子爵の娘九鬼好子と結婚
●四男 松方正雄  1868年生 海軍中将河原要一の娘河原マスコと結婚
●五男 松方五郎  1871年生 法学者渋川忠二郎の娘渋川カメコと結婚  
●八男 松方乙彦  1880年生 山本権兵衛伯爵の娘山本トミコと結婚  
●九男 松方正熊  1881年生 生糸商新井領一郎の娘新井美代と結婚→娘ハルはライシャワー夫人
●十男 松方義輔  1883年生 井上勝子爵の娘井上辰子と結婚
●13男 松方虎吉  1890年生 関西財界の重鎮松本重太郎の養子になる 松本虎吉
●14男 松方義行  1896年生 財閥森村開作の娘森村松子の婿養子になる 森村義行
●15男 松方三郎  1899年生 3代当主

●長女 松方千代子 1869年生 工学者武笠清太郎と結婚
●三女 松方広子  1874年生 日本銀行重役川上直之助と結婚
●四女 松方津留子 1878年生 海軍谷村愛之助と結婚
●五女 松方光子  1881年生 西鉄社長実業家松本松蔵と結婚
●六女 松方梅子  1892年生 東京府多額納税者堀越角次郎と結婚
●七女 松方文子  1903年生 医者野坂三枝と結婚


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『明治天皇紀』明治23年5月17日

内閣総理大臣山県有朋、
内務次官芳川顕正を文部大臣に、特命全権公使陸奥宗光を農商務大臣に任ず。
宗光および顕正を擢任するは、人の多く異数とするところなり。
はじめ有朋宗光を擢抜せんとし、命じて帰朝せしむ。
けだし有朋国会の開設に鑑み、宗光が民間諸党に縁因あり、かつ政党の事情に通ずるをもって、これを閣班に列し議員を操縦せしめんとする意に出でしなり。
しかるに宗光帰朝するや内閣組織すでに成り、宗光を奏薦するの余地なし。
宗光喜ばず、或は民間志士と交わり、或は逓信大臣後藤象二郎と結託す。
有朋その長く閣外に止むべからざるを察し、ついに岩村通俊を罷めて宗光をこれに代えんとす。
有朋また顕正と相善し、すなわち榎本武揚を罷め顕正をもってこれに代えんと欲して、並びにこれを奏薦す。
天皇意やや安んじたまわざるところあり。
有朋に告げて曰く、
「宗光かつて10年のことあり。人となりにわかに信じがたし。顕正もまたすこぶる衆望に乏し。この二人を擢任する深慮せざるべからず」
有朋対えて曰く、
「宗光の前罪はすでに消滅せり。今日採用するにあらずんば、民間にありてかえりて政府の妨礙をなすべし。むしろこれを擢抜してその才幹を利用するにしかず。もし反覆することあらば臣その責に任じ、あえて宸慮をわずらわすことなかるべし。また顕正の人となり、臣よくこれを知る。いまだこれに内務を託すべからずといえども、もって文部を託するに足れり。臣よくこれを指揮せん」
天皇ようやくこれを聴したまう。
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『明治天皇紀』明治25年3月19日

天皇曰く、
伊藤博文がはじめ政党組織を提唱するや陸奥宗光は大いにこれを賛し
「共に民間に下り自らその任に当たらん」と言いしが、伊藤がいよいよ辞表を提出するに及びたちまち豹変し、
「伊藤にして政党を組織するも板垣退助の三分の一の勢力をも獲得しがたかるべし」とてその政党組織を困難視し、しきりに嘲弄の口吻を弄せしかば、井上毅これを聞きて大いにその反覆を憤りこれを侍従長に告ぐ。
また去年の議会解散に際しても陸奥ははじめ「解散すべからず」と論じたりしが、12月24日に至りにわかに「今日中に解散せざるべからず」と松方正義に迫りたる由なり。
また陸奥は内閣において機密の議あるごとにこれを他に漏洩し、改進・自由の両党にも気脈を通ずるもののごとし。
大臣等これを斥けんとするもあたわず、内々山県有朋が「陸奥を簡抜したるは失策なりき」と嘆ずと言う。
もっとも伊藤・井上馨は同人の才幹を愛するの風あり。
陸奥もまた才子なるをもって、内閣のことはもちろん松方の失態を列挙してこれを伊藤に報じ、伊藤にして復職するにあらずんば何事も為すべからずとの意を告ぐるを常とせり。
ゆえに陸奥がいよいよ辞表を提出するに至りしは、大臣等の大いに幸とするところなりき。
しかれどもこの間の事情は互いに知りて知らざるがごとく、陸奥も表面意見合わずと言うをもって辞職せりと。

伊藤と松方とは性質相異なり。
伊藤は才智をもって事を処す、その進歩速やかなるも、時に顛躓し退歩することなきを保しがたし。
松方はこれに対し鈍き方なるをもって、その進歩遅々たるといえども、その進むや確実なり。
要するにこれ両人の天性に帰するをもっていかんともすべからず。
伊藤これを知らざるにあらず。しかも近時松方を譏り、その矢を数えて寛仮せざるの状あり。
松方すこぶるこれを苦となす。
両人の間をしてこのごとくならしめたるは、陸奥が松方の矢を伊藤に告げ、また井上毅・伊東巳代治等が日々内閣の失策、松方の欠点を密かに伊藤に報ずるをもってなり。
伊藤は過日これらの書翰を積み重ねて岩倉具定に示し、その不平を漏らして松方を攻撃せしかば、岩倉も大いに伊藤の大人げなきに驚けることあり。
また憲法論にて井上毅・伊藤巳代治・金子堅太郎3人の意見時に一致せず、松方その決断に悩むものの如し。
松方と伊藤相和し相一致するに至らば可なれども、それ容易に行われがたし。
松方にその意あるも、松方はその方法を過まれり。
もし松方が井上馨と結び、井上馨をして適宜に斡旋せしめば事円滑に行わるべきも、松方は井上馨を好まず、常に山県を撰りてもって伊藤を説かしめんとす。
しかれども伊藤・山県の相善からざること久し。
その傾向近時ますます著しく、相対すれば既に互いに不快の感を生ずと言えり。
ゆえに山県は伊藤との間を周旋しあたわざるなり。
井上毅・伊東巳代治等も今や気大になりて、松方に使役されざるの状あり。
山県の首相たりし時は、井上毅・伊東巳代治も相応に使役せられたりしが、今日はしからざるなりと。

伊藤は松方に対し、箇条書をもってその非違と思うところのものを質せり。
松方朕に奏して曰く「伊藤の為すところ、徳川家康が大阪城に詰問せるごとく、強国の弱国に向かい難問を強示するがごときあり。臣すこぶるその処置に苦しめり。
これにおいて朕はたとえ辞職のやむなきに至るも、非違は則ち正ざるべからずと申聞けたり。

後藤象二郎は伊藤博文の政党を組織するを喜ばずして異論を唱うるもののごとし、けだし伊藤はいつにても総理大臣たることを得べく、政権を取るために政党を組織するの要なし。
改進・自由両党が同志をもって組閣し、その主義を実行せんとすることとその事情を異にせり。
これ伊藤の政党を組織せんとする真意を知るに苦しむゆえんなりと言うにあり。
後藤象二郎は伊藤の辞職には反対せるが、その言極めて条理あり、陸奥のごとく反覆の挙動なし。
近時は大いに真面目になりたる風あり。

佐佐木高行聖話を拝承し、奏して曰く、
伊藤の常に我を張り、その跋扈の状実に恐懼に堪えざるところなり。
しかも今日我意を主張する者はひとり伊藤のみに止まらず、はなはだ憂慮に堪えざる景況なり。
この上はこのごとき我を張る者は明治天皇において厳戒して寛仮したまうことなく、万事宸断をもって決定し叡慮して真に国民の間に貫徹せしめば、全国中には誠忠の士・才識の士乏しからざれば自然現出して明治天皇を輔佐し奉るに至らん。
しかれどもこれを急激に望むべからず。
耐忍もって進みたまわば、叡慮を徹底せらるる期のあるべきなり。
伏して乞い願わくは十二分に奮発あらせられんことを。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

1912年7月19日の夜のことであった。
いつもは灯りを消して静寂に溶け合っている宮内省官房の中が、その夜に限って明るく電灯が輝き、騒がしく人々が動き回っている様子であった。
しかし私たちは何があったのだろうと思っただけで、そのまま詰所に帰って寝室で寝てしまった。
翌朝、意外にも明治天皇が御大患であるという。
昨夜宮内省から松方侯爵に通知があって、直ちに自動車で宮内省にゆかれたということを聞いた。
松方正義侯爵の運転手の男から、
その時「国家の重大事だからたとえ人を轢き殺してもかまわない。全速力で宮城へ行ってくれ!」と言ったので、とにかくめくら滅法スピードを出して走り、三田の松方邸からわずか数分で宮内省に着いたと聞いた。
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『岡部長景日記』文部大臣※当時は内大臣秘書官長

1929年2月17日
松方正作を訪い、松方正太郎君逝去のお悔やみを述ぶ。
さすが楽天の正作氏も「弱った、弱った」と繰り返され、まことに同情禁ずるあたわなかった。

1929年7月11日
大蔵大臣井上準之助が「松方正義元老は卵の黄身をたくさん飲まれた」と話して大笑いとなる。
ちょっと信じ得ざる数なりき。

1930年5月17日
妻と上野美術館に松方幸次郎所蔵泰西名画の売立会を見に行った。
セザンヌ・コロー・ラファエリ・クールベ・ミレー等が特に目についたが、その他も悪くない物が多かった。
昨今の不景気にかかわらず相当売約ができていたのは、同情の現であろう。
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1927年『お鯉物語』安藤照子・芸者お鯉・15代目市村羽左衛門と離婚・首相桂太郎の妾

お茶屋や待合で悪戯をしたり芸者をいじめるお客の中に、松本幸次郎氏・田中銀之助氏などがいた。
30前の青年時代、薩摩絣の着物に同じ羽織・小倉の袴といういでたちで、料亭を遊び回る・座敷の障子を破る・ビールの樽を二階に担ぎ上げて座敷中にまき散らす、芸者を打つ・蹴る・抓る・転がす・衣服を破る、箸にも棒にも掛からぬお客様。
こんな連中に途中ででも会おうものなら、それこそ災難である。
お座敷に車を急がせて行く途中、ハタとであったのが松方・田中の連中である。
車の前後はたちまち連中に取り囲まれた。
「コラッ!どこへ行く」
なりがなりであるからまるで無頼漢のように見える。
車の上から手を合わせて謝る。
「今日は勘弁してちょうだい。お座敷の約束に遅れたら叱られるんだから」
「なに、約束?よかよか」と言って無理無体に車から引き下ろし、引っ張り込まれる。
こうしたことがこの連中の遊びであって、叱られて文句を言われて損害を弁償させられるのが遊興費であったらしい。
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◆2代公爵 松方巌 初代公爵松方正義の子
1862-1942 80歳没

*十五銀行倒産の責任を取って爵位を返上する


■妻  長与保子 医者長与専斉の娘/長与称吉男爵の妹 
1872-1957


●長女 松方竹子 1895年生 学習院出身 黒木三次伯爵と結婚


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『横から見た華族物語』昭和7年出版

先年十五銀行がいけなくなった時、社長の松方巌公爵は爵位をも辞退し、その他身についた一切の公職を投げ出して一平民の松方巌となり、どこかの長屋へ今は日陰者の身を運び込んだ。
自分が主宰する銀行があんなことになって、世間様を騒がして何とも申し訳がないという意思を表明したものであるが、実を言うとあれは表面だけのことで、本当の心は旧藩主島津家に対する謝罪のためあのような態度に出たと言った者があった。
十五銀行の騒ぎでは旧大小名華族のほとんど全部が大なり小なり手傷を負うたが、中でも最もひどくやられたのは島津公爵家であった。
当時島津家では十五銀行へ150万円の預金があった。
そのうえに2万近い新株を持っていてその払い込みがざっと145万円、もし島津家がこの新株を払い込まないようだったら、十五銀行の整理案が成り立たぬというのっぴきならぬ辛い立場に置かれた。
何と言っても九州の島津だ、動産不動産合わせて8000万円は下るまいと言われている金持華族だから
それぐらいの金は右から左へ出すだろうと思われたが、有るようで無いのは金、無いようで有るのは借金というやつ、こればかりはどうにもならぬ。
そこで袖ヶ崎のあの屋敷、明治大帝がしばしば行幸あらせられたという由緒の深い3万坪の屋敷のうち6千坪だけを残し、後を全部売りに出してそこから浮かんだ240万円の金で銀行の方のカタをつけたものだ。
いくら島津が財産家でもこれはこたえたに違いない。
そこで松方公爵にすれば旧臣の情誼として主家にそれほどの大穴を開けたからには、何とかして申し訳をせねばならぬ道理、昔ならさしずめ切腹ものだが、今ではそんな古手は流行らない。
それで身につくもの一切を投げ出してこれで御勘弁と出たという。
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作家長与善郎 学者長与専斎の子・2代当主松方巌の妻保子の弟

明治25年の春、良子皇后台臨という女子学習院卒業式に卒業生総代という晴れの役を務めるハメになった17歳の保子に、これこそが嫡男巌の嫁とするにふさわしいと白羽の矢を立てたのが松方公爵夫人であった。
背は四尺八寸あるかなし体重もせいぜい11貫足らずという、その頃の日本ですら小柄の方であった娘が俗に言う山椒の小粒で、十人並みといった容色もその利発そうで自信のある落ち着いた物腰のために、少し分がよく公爵夫人の目には映ったと見える。
もともと保子の両親とも知り合わぬ仲ではなく、どんな家庭かということは改めて調べるまでもなくよくわかっている。
念のため校長の下田歌子女史や主管教員に様子を探ってみても、誰一人口を極めるほどに褒めぬ者はない。
公爵夫人の腹が一目の印象で決まったのは、あるいはおっとりしすぎたお人好しの巌の脇にはこういう才気ばしったやり手が必要だと考えた点もあってのことだったか、ともあれ縁談の交渉はまもなく開始されたのである。

父母は少し釣り合わぬ気持ちもなくはなかったが、兄弥吉に手紙で問い合わせてみたらどうであろう、ちょうど話の主の巌もあっちに行っているということだから、訪ねて会ってみて弥吉の意見を尋ねることにしては、なるほどそれがよかろうと、詳しい手紙をベルリンへ書き送った。
何ヶ月か経って着いた兄の返事は、
「初対面をした印象は甚だ良かった。別に何に優れているといった特徴はなさそうだが、人柄は至極温厚篤実で円満かつ上品であることは確かと思う。こういう人に嫁ぐことができるならば保子としては誠に幸運だと自分は信じ、双手を挙げてこの縁談に賛成する」という旨がしたためられていた。
こうしてめでたく決まった公爵夫妻の華燭の典に先立って、まず弥吉が帰朝しついで巌も帰った。
いよいよ明日は我が生家を去るという前日身内ばかり親子10人の並んだ食卓で、父から弥吉も一つはなむけの言葉を述べてやれと言われ、日本語は上手くしゃべれなくなったからとカイゼル髭の弥吉はドイツ語で祝辞を述べるのだった。

保子の結婚の媒酌を務めたのは大西郷の実弟西郷従道公爵夫妻であり、その披露としての盛大な園遊会も催された。
そしてそれは真に弥吉が太鼓判を捺したところにたがわず、保子自身にとってはこの上ない幸運な良縁であったと言わなければならなかった。
ただその結縁によって長与家と松方公爵家との付き合いが緊密に結ばれ、本腹・妾腹合せて20何人という貧乏人ならぬ金持ちの子沢山の家と繁く行き来するようになった。
嫡男に嫁した保子はそうした腹のまちまちな大勢の弟妹から、「お姉様」「お姉様」と奉られるように持ち上げられはするものの、自分を長男の嫁に見立てた姑は一見大まかなようで細かく頭の働くシッカリ者であり、そんな意味でちょこまかと気を使う必要のなかった嫁入り前とはガラリとうって変わった複雑な大所帯に飛び込んで、誰からも気うけをよくしながら二代目の若奥様としての威容を保つことは楽な業ではなかったに違いない。

松方正義氏は舅としては、この上なく仕え良い鷹揚な温かみのある大人であった。
その人柄の良さを享けていた夫の巌も兄の弥吉が太鼓判を捺した所にたがわず、外交官としてはあまり振るわなかったにしても、誰からも高ぶらない善い方と言われた。
保子が一女竹子を挙げて以来子供を産まなくなったのは、彼が遊ぶためと陰口をきかれたりしたらしい。
それでもそのことに気がとがめてか気の毒なようにおどおどしている顔を見るにつけても、保子ははしたない悋気めいた言葉はおくびにも出さなかった。
両親にこまめに孝養を尽しさえすれば充分に満足し、一にも二にも「お保が」「お保が」と自分を立ててくれる優しい理想の夫を持ちながら愚痴をこぼすとすれば、それこそバチが当たると保子はしみじみ自分に言い聞かすのだった。
むろんそうした彼女の胸の奥には、いずれ何年かの後には公爵夫人になれるという最大の楽しみがぞくぞくするように躍っていたのは言うまでもない。

豪勢と言えば、長兄厳の晩い結婚を待ちかねたように追いかけて挙げられた弟正作の花嫁は、財閥岩崎男爵家の長女繁子であり、それがまた奇しくも延子〔伯爵後藤象二郎の娘・男爵長与称吉の妻〕の姪に当たるという、長与家とも遠縁に当たる間柄であった。
持参金は当時の金額で30万円とかいうことであったが、そんなことが大きく騒がれるにしては松方公爵家そのものが富貴な御大家でありすぎた。
次々に輿入れしてくる新嫁たちは、いずれも名だたる富豪か華族の令嬢で、驚くばかり光煌めくダイアの首飾りや長持幾棹という衣装の豪華さで実家の身分と力とを示し、容色や豊満さでも保子とは比べ物にならなくても、ワガママで人づきあいが悪かったり、品は良くても頭がてんで働かなかったりする。
そこへいくと保子の何よりの持参物は、目から鼻へ抜ける才学機転と痒い所に手が届く機敏な務めぶりである。
とはいえ自分だとて華族や金満家の娘でこそなけれ、氏無くして玉の輿に乗ったわけではもとよりない。
れっきとした高官の誇るべき父を持って名家に生まれたのだ。
いささかたりとも卑屈な風があってはならないと高く自ら持するのだった。
そのため保子は目上の者や社会的地位の高い人々に務めることでは至れり尽せりであったにもかかわらず、ともすれば利口さを鼻の先にぶら下げる高慢ちきで、権高い女とも下の者からは見られるのだった。

松方家の家風としてはたとえ外見と口先だけのものであろうと、人には如才なく務めるということが格別大事なこととされていたので、貧乏人の子沢山ならぬ金持ちの子沢山として世間にも稀にみるこの大家族では、本腹の子供までもが妾腹の子供たちにひけを取るまいとして小心翼々と気を使い、長上の機嫌取りに小賢しく立ち回る様は、あたかも気の利いた給仕か小間使いといった風にさえ見えるのだった。
「久しぶりに大園遊会を催そうではないか」と父に建言したのは、本腹の幸次郎だった。
幸次郎は松方家の息子の中で一人日本実業界での怪物的傑物と言われた変わり種であったが、そういう派手な催しにはもってこいの広大な庭園と豪壮な住居があり、来賓の取り持ち接待は何よりお手の物とする若手の才子が揃っている家族のことである。
むろん大拍手で賛成しない者はいなかった。

松方元老が「乙彦も今日はきつかったろう」と本腹の乙彦をねぎらうと、その背後にヒョコヒョコついて行く乙彦が「慣れぬもんでごわすからなあ」と言っていた。
嘘も甚だしいオッチョコチョイの見本。
乙彦らが最も慣れていて得意とするところは、ただ一つナンセンスな冗談やチャラッポコのお世辞で皆を笑わせながら御機嫌を取り、気の利いた才子だと思われようとすることなのに。
時代が時代であり、ことにこの家のごとく親の威光・藩閥の威光が七光り八光りであり、それを後ろ盾にしておけば、乙彦のように中学も出ずにアメリカに行って、有名人との社交やダンスを身に着けてくれば、懐手をしていても有力者が公爵の機嫌を取り、その交換に利益を得ようと社長にも重役にも取り立ててくれるのである。
そうしたことを要領として立ち回るだけのちょこ才と世間一応の常識とさえあれば、苦学して日本の大学に入ったり何か真の実力を養う勉強にムキになるのは、間抜けた馬鹿だけがすることである。
人間何より大事なことは世俗的な卑近な意味で利口になることであり、反対に最も軽蔑すべき悪いことは馬鹿正直で嘘一つ言えず、目先の実際のことに役に立たないマヌケな変人であることである。
そうした家風の背景には、もともと松方家が学問的素養・実力を重んずる家柄ではなく、したがって子供たちもそうした方面には不得手でまた必要と認めなかった点もある。

光子さんは僕の姉藤子と同級の姿のいい粋な美人で気立ての優しい人だった。
関西のさる金満家に嫁ぎ早くに未亡人となったが、その夫は一種の非凡人でただのボンクラな道楽者とは選を異にしていたが、光子さんにとっては極めて不幸な結婚であった。

法事などのある時 長与弥吉夫婦と保子夫婦がしばしば一緒になるのは当然であったが、保子は腹の中では馬鹿にしきっていながら口先では「お姉様」「お姉様」と延子を持ち上げるのである。
僕は延子も充分に意地が悪いと思い、愚にもつかぬ小言を女中に言ったりすることによく不快を感じるのだったが、意地の悪さでも嘘と虚栄の権化のように利口ぶっている保子の方がもっと念が入っており、延子の方が頭が空っぽなだけまだしも深く憎むに足らないと思うのだった。
僕よりもずっと邪推深くない兄裕吉でさえこんな観察をしていたのである。
「この間俺が松方家へ行くと、幸次郎さんが
『なあ義姉さん、こんなこと言っちゃ失礼じゃが、あんたの家の延子さんな、あれはなかなかの器量良しじゃが、ココはちっとアレなんじゃごわせんか』って頭をコツコツ指してね。幸次郎さん人が悪いから姉さんが良く思っていない人の悪口をすりゃ姉さん嫌に思うはずないし、それがまた貴女は利口だと間接におだてることにもなる。果たして姉さん満足そうにニッと苦笑してるんだ」

権高い姉が初めて僕の家に姿を現したのはむろんある目的があったからのことで、尊大な会釈で妻を遠ざけ彼女の言い出したのは、他ならぬ彼女の一人娘竹子の婿選びの相談であった。
彼女が自分の名折れにように感じている僕の所へそんな重大な相談を持ち込んでくるのは、よくよく選考を重ねて窮した末のことだと思われた。
あわよくば皇族でもと内々高望みを抱いていたらしいが、何事もほどほどにという主義の夫の同意を得なかったのかどうか、華族名鑑という一冊の本を開いた。
保子は子爵以下は問題にならぬとして公爵家から伯爵家までを順々に操って、既におおよそ絞り残ったらしい5~6人の候補者につき、「この方はどんな方?」「じゃ、この方はどう?」といちいち尋ねるのだった。
人数の少ない学習院出で、5~6年上までの先輩と3~4年の下級生までについては僕はたいてい人柄や成績も知っていた。
松方家にはやはり学習院出で相談相手になる義弟は幾人もいる。
しかしその義弟たちも実は見かけほど保子と折り合いが良くなかったのか、とにかく僕を選んで来たのである。
ずさんな選考の挙句、公・侯の中でまだしもと思われる人物は、既婚者か若すぎるか既に話の決まっている者ばかりであった。
余儀なく最低の伯爵家の中で物色した結果、松方家とも旧懇の間である伯爵黒木三次ということに一応話は落ち着いた。
ただ保子から見て黒木の欠点は熱心なクリスチャンであるということで、
「クリスチャン?へーえ、それはちょっと困ったわね」と保子は首を傾げ、僕もとうてい見込みなしと思った。
有名な大将の嫡男である黒木は同年の兄長与裕吉や志賀直哉とも親しく、僕の所へも一度談しに来たことがあり、真面目な良い青年として僕の目に映っていた。
それでどうせこんな昔の政略結婚のような縁談には、彼の方で応ずるはずはないと信じたのだった。
それから約1ヶ月後のこと、偶然虎ノ門の停留所で僕を見つけた黒木は僕を呼び止めて近づくなり
「ねえ、君。僕、変なことになっちゃってね。松方竹子さんと結婚することになったんだよ。ハッハッハ」と自ら高笑いして告げるのだった。
僕は「え?」と言ったなり唖然と黒木の顔を見た。
なんだ貴様はそんな男だったのかと、急に彼を買い被っていたと思う失望と一緒に黒木を軽蔑してしまった。
どう見ても竹子には黒木が本当に心を魅かれる要素があるとは考えられないからであった。

母の家を訪ねると、ちょうどそこに長与延子と保子とが来合せた。
どこかの家の娘の噂に出て、保子は延子に面当てを言った。
「あのお嬢様どんな欠点がおありになるのか、まだ何の御縁談も【おありんならない】とか」
うわべでは白々しく持ち上げられている「お姉様」の延子にとっては一番苦に病んでいる痛い所、すなわち娘美代子がもう25にもなってまだどこからも何の話もかからないことへ触れたのである。
一般に娘の婚期のまだ早かった頃の話であり、これには神経の太い延子も涙ぐまぬばかり顔を赤らめ、厚いヒザをねじっている様が気の毒で居たたまれなかった。
美代子がピアノや英語に打ち込みどうなるかと思っていたところ、待った美代子には思いがけない海路の日よりが訪れたのだった。
取り持ったのは兄裕吉で、彼の友人松岡洋右が太鼓判を捺しての推薦によった斉藤博が、ほとんどノンキなほどの気軽さでOKとばかりに登場したのだった。
彼は学習院高等科の志賀・武者小路・細川護立などの級で、外交官を志願して入学するなり首席となった秀才で人物もしっかりしており、その魅力ある人柄と才智とで後には駐米大使として活躍し国難に殉じた男である。

世界恐慌によって巌が頭取であった銀行で預かっていた皇室の財産の一部までが損失を免れないという瀕死の状態に陥り、それは弟たちの会社がバタバタと倒れるのを免れようとして銀行の金を大きく使い込んだのが原因だったという。
それで巌は頭取としての責任感と自責の念とから、亡父から受け継いだ公爵の爵位を潔く返上しようと悲愴な決意をした。
中でも一種の豪傑で万事桁外れのやり方であった幸次郎の残した傷は厖大であったが、松方コレクションという世界にも誇り得る文化的記念事業が図らずも日本に残るプラスの結果になった。
しかしそのために一平民と成り下がった保子にしてみれば人生の一切が無意味になってしまったわけで、さらに十数年後には敗戦による国体の変革によって彼女の信仰の最後の拠り所までが崩された。

20人を越える松方家の子供の中では随一のやり手であり、また日本人離れしたスケールの大きな生まれつきの役者であり怪傑であった幸次郎は、保子とは犬猿の仲であった。
それが露骨となったのは、幸次郎が事実上の社長であった造船会社が破産に瀕したのを巌が無理しないわけにいかなかったことが原因だった。
皇室の財産を若干預かっていた十五銀行がその大穴のために共倒れする致命傷を受けたことに、頭取としての責任上巌が切腹の思いで公爵を返上したことであった。
保子としてはその決断は表面上の術策で、そういう神妙なところを示せば元勲であった先代の大功に免じその儀に及ばずとお赦しが出ると読んでのことだった。
それが「受け入れたらよかろう」という西園寺さんの鶴の一声でまんまとアテがはずれ、松方家は一平民に没落するハメになった。
その実の最大責任者であった幸次郎はこの善良な長兄に迷惑をかけたことは済まなかったという気持ちは抱いていたのであるが、人間万事嘘の猿知恵で渡れるものと思っているこの兄嫁の性分を芯から嫌っていたので、ざまをみろと言わんばかりに詫びの一言も言わず相変わらず辛辣な皮肉を浴びせるばかりで、保子は怨憎のくやし泣きにむせぶのだった。

姉保子夫妻には跡取りの息子がないので、腹違いの末弟である三郎を養子のように引き取っていた。
まだ5つか6つの三郎がその複雑な家庭の中で保子を養母のように育ち、早く気苦労をなめている姿は僕も見たものであった。
孫ほどに歳の違う異母弟三郎夫婦を一度跡継ぎにしようとしたにもかかわらず、その結婚が気に入らなかったのか、母娘そろって下婢扱いの態度は見るに見かねた。
長与裕吉の後継者で今はその方の大立者となっている三郎の細君の英語は大したもので、なかなかのインテリでもあるが、保子の部屋へ何かの用で来る時は次の間に三つ指をついておどおどと物を言うのに対し、保子は「早くお下がり」と言わんばかりに「そう」と一言鼻先で応えるのみだった。
母親ほどには虚栄の権化というのではなかったが、同じそらぞらしい功言令色でも母親の方は歪められた古風な教養と才気の端とが時折チラリと見えたのに反し、あまりにも民衆を世情から遠ざけられて育った竹子は、これまたその養子夫婦とすら折り合わないばかりか、ほとんど誰とも普通の人づきあいができない泥人形に等しかった。

保子の夫松方巌が重体という電報が届き、すでに高齢であった巌は間もなく没した。
酷暑中の看病疲れに風邪が加わり、衰弱しきった保子は危篤の夫のそばへも動いて行けぬ病状であった。
彼女としては何もかもがあだとなり、最後の命の綱とたのむ夫にまで死なれては生きながらえる空は全くない。
子供の頃は元気で無邪気で可愛かった竹子は、妃殿下の御学友として恥ずかしからぬ高貴な品位を持たせるように育てて変わり種の女となり、夫の黒木の友達の細君たちがみな世故に疎くない才女ぞろいでキャッキャッと笑い興じるのにそこへ竹子が一人入れば水と油で、共通の話題が何一つなく賑やかな一座は急に白けてしまうという風だった。
すべては母親のお仕込みによることなのだが、家庭の味気なさにヤケ気味になった黒木は相当の放蕩児議員となり里見弴の小説にされたりしたが、案外寿命には恵まれず世を去った。
子供の無い彼女は母の保子と未亡人同士、終戦前の恐ろしい東京空襲にまであったのである。

東京は爆撃の的となり、保子はどうにか娘と二人黒崎の大農場内にある別荘に避難した。
今では十五銀行の賠償の一部に提出し、松方家の物ではなくなっていたのだったが、人々が同情し広い洋館の別荘だけを使用してくれと言われた。
そぞろ歩く保子に畑仕事をしている農婦たちは昔ながらに頭を下げるのに、まるで皇太后か老妃殿下かといった「お前たちも御苦労だねえ」と形式だけのねぎらいの言葉をかけるのだった。
大家の家財道具を売ってタケノコ生活を送っていては、ついにその皮もはがれ尽きる。
冷酷なような本音を吐けば、夫の臨終の時に自分も相当の重病で死に水も取れなかったのだから、その後直ちに夫の後を追って世を去っていたらまだしも楽だったのである。
10年以上生き延びたために戦禍に遭ったり悲惨な晩年を送った。
何か嫌なことがあれば全て人が悪いとのみ思い、己はどうかと反省する能力を全く欠いていた保子は、今や生き甲斐のアテを完全に失い無意味となりきった生ける屍を持て余し続けた。
「もうあたしもアコギに生きていたいとは思わないけど、病気で苦しんで死ぬのが嫌なの。それにこの人のことが気になって」と娘竹子を指さして会う人ごとに漏らすのだったが、次第に頭が呆けガスストーブによりかかったなりウトウトと眠りこけ、ちゃんちゃんこが焦げるきな臭さに竹子が驚いて「お母様たいへん!」と揺り起こし慌てて火を消しても当人は別に驚かず、ただ茫洋と「そうかい」と言うばかりなのに竹子の方が驚くというていたらくだった。
ますます頭のおかしくなっていた保子は、昏々と眠ったまま布団からずり落ちるように小さい身体を折り曲げたなりこと切れていた。
まったく老衰のための自然死で、泣く者は一人もなく、むしろ彼女自身のためにもやっと片づいたのは良かったと心中思う者ばかりだった。
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■夫 松方勝彦 松方幸次郎の子松方義三郎・本家松方巌の養子になるが死亡
1904-1936


■妻 吉川幸子 吉川重吉男爵の娘・松方勝彦と死別・作家獅子文六と再婚 学習院出身
1912-2002


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岩田幸子 男爵吉川重吉の娘・松方勝彦と死別・作家獅子文六(本名:岩田豊雄)と再婚

松方巌氏の一女は黒木伯爵に嫁し、正義公爵の二男正作氏の所も長男が早逝し、次の幸次郎氏に4人の男子があり勝彦はその四男であった。
先方の黒木氏と私の義兄原田熊雄とは懇意の仲なので、本家の跡をこの二人に継がせたらという事になったらしい。
結婚前の荷物送りの日の事が思い出される。
新居にタンスの鍵を持って行くために一人で出かけた。
電車を降りるとそこに勝彦が立っていて、
「叔母様方はみんな紋付で来ておられるが、あなたはそれで良いのか」と聞かれた。
私は紫色のお召だった。
普段着という程度なので、そういう事に気のつく勝彦は私に恥をかかせまいと気遣ってくれたらしい。
「ええ、これしかないの」とすまして同行してしまった。
すべて何事かあれば紋付、まだまだ格式を重んじる家であった。

私もまだ若かったし、すべてに格式高い松方家としてはとんだ嫁が飛び込んだものだったらしい。
初めて御両親に会った時万年のお菓子を渡すと、
舅巌から「私の大嫌いな物を持ってきたね~」と言われシュンとしてしまった。
姑保子は取りなすように「本当はお父様の大好物なのよ」と言って下さったが、事実舅はお酒はほとんど飲まず代の甘党であった事がわかり安心した。
あれほど善人そのものであった父が、時の巡り合せというか親が一代で名声を博した家のすべてを返して一介の野人となった時は、どんなにつらい思いであった事か。
姑は舅の母がが女子学習院の卒業式に行ってを見出された才女で、舅のドイツ留学中に結婚話が勧められた。
松方家の大世帯を切り盛りしてきた手腕は並大抵の女にはできる事ではない。
今思えばさぞ気に入らぬ事の多い嫁だったろうが、馬鹿のおかげで本当に可愛がって下さり、嫁と姑という嫌な感じを一度も持った事がなかった。
跡継ぎの嫁として、美術・建築・料理・社交。
その他姑に教わった事はどれだけあったかしれない。

義父幸次郎はその兄巌の謹厳さとおよそ違った磊落な人だった。
小太りで眉毛の下がったにこやかな顔で、「幸子、幸子」と呼んでくれたのも懐かしい。
義母は九鬼子爵の出で、娘時代アメリカに留学し父と同じ船で帰国、結ばれたと聞いたが、6人の子供も留学し、みんな英語が達者なハイカラ気質の一家だった。

その日私は風邪で床にいた。
午後3時頃会社から電話で「御主人が倒れたから来て下さい」と知らせがあった。
事務所の車庫でハシゴに登っていた時脳貧血を起したらしく、後ろに倒れ反対側の棚で後頭部を打ったという事だった。
医務室のベッドに横たわった勝彦はその時はまだ普通に見え、
「風邪なのにわざわざ来なくても良かったのに」と相変わらず私を気遣ってくれる夫だった。
しかし次第に耳からも鼻からも出血がひどくなってきた。
駿河台病院へ運ぶ事になった。
「御臨終ですよ」と言われても、あまりの事に私は涙も出なかった。
結婚3年2ヶ月にして勝彦は帰らぬ人となってしまった。

ある日黒木の義兄に呼ばれて、
「松方家も跡継ぎを決めなければならない。候補者はあるが、あなたの籍があっては困ると言うので里へ帰ってくれないか」と言われた。
候補者の名前は教えて下さらなかったが、
「どなたでも結構です。しかし私は勝彦と結婚した以上、松方の姓を変えるのは嫌です」と言って大泣きに泣いてしまった。
ワラにでもすがりたい気持ちの時、義姉〔竹子〕は私の横を何度も通ったが、ただ冷やかな眼差しで見るだけだった。
こういう次第で離縁ではないのだから、何をもらうわけでもなく本家の籍から離れた。
姑は気の毒がって
「後を継ぐ方にあなたの事は特別の人なのだからとよく頼んであるから」と言って下さった。
しばらくして舅も亡くなり次々と使用人もいなくなり、ついに姑一人になってしまったために私が一緒に住む事になった。
乳母日傘で育った私はそこで初めて家事をした。
何もできない私を姑は「それが当然だ」と許して下さった。
昭和16年太平洋戦争が始まり、3年後の冬にはいよいよ東京も空襲にさらされるようになった。
姑は那須から荷馬車を呼び寄せ、黒木の義姉一家と那須へ疎開して行った。
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◆3代当主 松方三郎 初代公爵松方正義の子
1899-1973


■妻  佐藤星野 実業家佐藤市十郎の娘 聖心女子学院出身
1908-1967


●長男
●二男
●三男
●四男

●長女
●二女
●三女

■東京本邸 芝区三田 1万坪
洋館はコンドル設計、1905年竣工、岩崎弥之助が娘繁子&松方正作への結婚プレゼント
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〈恵露閣〉
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■東京本邸 赤坂区霊南坂町


■松方巌邸 芝区南佐久間町
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■「富岡別荘」横浜市金沢区 400坪


■「鶴陽荘」鎌倉市由比ヶ浜 敷地4,000坪・建物400坪


■「松影荘」神戸市御影 700坪


■「水月荘」熱海市 140坪


■「万歳閣」西那須町別荘
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■「千本松農場」那須 1,650町歩
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◆初代公爵 松方正義 薩摩藩士松方正恭の子 総理大臣
1835-1924 89歳没


■妻  川上満左子 薩摩藩士川上助八郎の娘 
1845-1920 75歳没


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実子は4男1女、庶子も合わせると15男7女の22人。
晩年には子ではなく孫として届け出していた。
明治天皇から子供は何人か聞かれたが思い出せず、
「後日調査の上、御報告申し上げます」と答えたほどであった。
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●長男 松方巌   1862年生 2代公爵
●二男 松方正作  1863年生 財閥岩崎弥之助男爵の娘岩崎繁子と結婚
●三男 松方幸次郎 1865年生 九鬼隆義子爵の娘九鬼好子と結婚
●四男 松方正雄  1868年生 海軍中将河原要一の娘河原マスコと結婚
●五男 松方五郎  1871年生 法学者渋川忠二郎の娘渋川カメコと結婚  
●八男 松方乙彦  1880年生 山本権兵衛伯爵の娘山本トミコと結婚  
●九男 松方正熊  1881年生 生糸商新井領一郎の娘新井美代と結婚→娘ハルはライシャワー夫人
●十男 松方義輔  1883年生 井上勝子爵の娘井上辰子と結婚
●13男 松方虎吉  1890年生 関西財界の重鎮松本重太郎の養子になる 松本虎吉
●14男 松方義行  1896年生 財閥森村開作の娘森村松子の婿養子になる 森村義行
●15男 松方三郎  1899年生 3代当主

●長女 松方千代子 1869年生 工学者武笠清太郎と結婚
●三女 松方広子  1874年生 日本銀行重役川上直之助と結婚
●四女 松方津留子 1878年生 海軍谷村愛之助と結婚
●五女 松方光子  1881年生 西鉄社長実業家松本松蔵と結婚
●六女 松方梅子  1892年生 東京府多額納税者堀越角次郎と結婚
●七女 松方文子  1903年生 医者野坂三枝と結婚


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■夫  松方正作 松方正義の二男
1863-1945


■妻  岩崎繁子 財閥岩崎弥之助男爵の娘
1875-1931


*麻布竹谷町の4千坪の土地を持参金に持ってくる






●長男 松方正太郎 1903年生

●長女 松方増子  1897年生 満鉄総代野村龍太郎の子野村駿吉と結婚
●二女 松方常子  1899年生
薩摩藩士中山尚之介の子中山瑞彦と結婚・三共重役田口一太と再婚


●松方増子



●松方常子



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◆松方幸次郎邸 神戸市山下町
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■夫  松方幸次郎 松方正義の三男
1865-1950




■妻  九鬼好子  九鬼隆義子爵の娘
1869-1943


●長男 松方正彦  1898年生
●二男 松方義彦  1901年生
●三男 松方幸輔  1903年生
●四男 松方義三郎 1904年生 本家の養子になるが死亡 松方勝彦

●長女 松方花子  1900年生 神戸高女出身 同盟通信社重役松本重治と結婚
●二女 松方為子  1909年生


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◆松平正雄邸 大阪市南区天王寺南河堀
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■夫  松方正雄  松方正義の四男 
1868-1942




■妻  河原マスコ 海軍中将河原要一の娘
1880-1911


●実子 松方義雄  1900年生 大日本印刷一族佐久間久子と結婚
●実子 松方鉄雄  1905年生 林信一郎の娘林ミツコと結婚

●庶子 松方三雄  1914年生 白洲文平の娘白州宣子(兄は白洲次郎)と結婚

●実子 松方富子  1903年生 三輪田女学校出身 中上川彦次郎の子中上小六郎と結婚


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◆松方五郎邸 芝区桜川町
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■夫  松方五郎  松方正義の五男
1871-1956




■妻  渋川カメコ 法学者渋川忠二郎の娘
1883-1941




●長男 松方正広 1906年生 日本銀行重役堀越鉄蔵の娘堀越寿子と結婚
●二男 松方正信 1907年生 三島製紙社長中村愛作の娘中村テルコと結婚

●長女 松方清子 1903年生 学習院出身 三重県多額納税者田中治郎左衛門の子田中斉と結婚
●二女 松方徳子 1909年生 学習院出身


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◆松方乙彦邸 麻布区永坂町
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■夫  松方乙彦  松方正義の八男
1880-1952




■妻  山本トミコ 山本権兵衛伯爵の娘
1888-1962 

1905年 山本トミコ
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●長男 松方武  1911年生 
●二男 松方権次 1914年生

●長女 松方米子 1912年生
●二女 松方貞子 1917年生


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■夫  松方正熊 松方正義の九男 
1881-1969




■妻  新井美代 生糸商新井領一郎の娘
1891-1984




●男子 松方真  1920年生

●長女 松方仲子 1913年生
●二女 松方春子 1915年生 エドウィン・ライシャワーと結婚
●三女 松方種子 1918年生
●四女 松方美恵 1922年生
●女子 松方真理 1923年生


1983年 ハル・ライシャワー
19830042


1986年 ハル・ライシャワー
19860004



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■夫 松方義輔 松方正義の十男
1883-1972


■妻 井上辰子 井上勝子爵の娘 学習院出身
1892年生

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■妻  松方梅子  松方正義の六女
1892-1978


■夫  堀越角次郎 東京府多額納税者
1885年生


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◆2代公爵 松方巌 初代公爵松方正義の子
1862-1942 80歳没


*十五銀行倒産の責任を取って爵位を返上する


■妻  長与保子 医者長与専斉の娘/長与称吉男爵の妹 
1872-1957


●長女 松方竹子 1895年生 学習院出身 黒木三次伯爵と結婚


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■夫 松方勝彦 松方幸次郎の子松方義三郎・本家松方巌の養子になるが死亡
1904-1936


■妻 吉川幸子 吉川重吉男爵の娘・松方勝彦と死別・作家獅子文六と再婚 学習院出身
1912-2002


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◆3代当主 松方三郎 初代公爵松方正義の子
1899-1973


■妻    佐藤星野 実業家佐藤市十郎の娘 聖心女子学院出身
1908-1967


●長男
●二男
●三男
●四男

●長女
●二女
●三女

◆初代公爵 松方正義 薩摩藩士松方正恭の子 総理大臣
1835-1924 89歳没


1867年 長崎で
0102


0112


0114


1922年 西那須野別邸〈万歳閣〉で
0107



■妻  川上満左子 薩摩藩士川上助八郎の娘 
1845-1920 75歳没

0200





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実子は4男1女、庶子も合わせると15男7女の22人。
晩年には子ではなく孫として届け出していた。
明治天皇から子供は何人か聞かれたが思い出せず、
「後日調査の上、御報告申し上げます」と答えたほどであった。
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●長男 松方巌   1862年生 2代公爵
●二男 松方正作  1863年生 財閥岩崎弥之助男爵の娘岩崎繁子と結婚
●三男 松方幸次郎 1865年生 九鬼隆義子爵の娘九鬼好子と結婚
●四男 松方正雄  1868年生 海軍中将河原要一の娘河原マスコと結婚
●五男 松方五郎  1871年生 法学者渋川忠二郎の娘渋川カメコと結婚  
●八男 松方乙彦  1880年生 山本権兵衛伯爵の娘山本トミコと結婚  
●九男 松方正熊  1881年生 生糸商新井領一郎の娘新井美代と結婚→娘ハルはライシャワー夫人
●十男 松方義輔  1883年生 井上勝子爵の娘井上辰子と結婚
●13男 松方虎吉  1890年生 関西財界の重鎮松本重太郎の養子になる 松本虎吉
●14男 松方義行  1896年生 財閥森村開作の娘森村松子の婿養子になる 森村義行
●15男 松方三郎  1899年生 3代当主

●長女 松方千代子 1869年生 工学者武笠清太郎と結婚
●三女 松方広子  1874年生 日本銀行重役川上直之助と結婚
●四女 松方津留子 1878年生 海軍谷村愛之助と結婚
●五女 松方光子  1881年生 西鉄社長実業家松本松蔵と結婚
●六女 松方梅子  1892年生 東京府多額納税者堀越角次郎と結婚
●七女 松方文子  1903年生 医者野坂三枝と結婚


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◆2代公爵 松方巌 初代公爵松方正義の子
1862-1942 80歳没

*十五銀行倒産の責任を取って爵位を返上する

1884年 ベルリンで
0300


1891年 ハイデルベルクで
0301




1922年 三田本邸で 左:正義 右:松方巌
2007



■妻  長与保子 医者長与専斉の娘/長与称吉男爵の妹 
1872-1957




●長女 松方竹子 1895年生 学習院出身 黒木三次伯爵と結婚




●松方竹子 黒木三次伯爵と結婚



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■夫 松方勝彦 松方幸次郎の子松方義三郎・本家松方巌の養子になるが死亡
1904-1936


■妻 吉川幸子 吉川重吉男爵の娘・松方勝彦と死別・作家獅子文六と再婚 学習院出身
1912-2002


松方勝彦&幸子夫妻
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◆3代当主 松方三郎 初代公爵松方正義の子
1899-1973


■妻  佐藤星野 実業家佐藤市十郎の娘 聖心女子学院出身
1908-1967


●長男
●二男
●三男
●四男

●長女
●二女
●三女

■東京本邸 豊多摩郡千駄ケ谷町穏田→渋谷区隠田 8千坪
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1890年
2012


2041



■那須別邸 83万坪
2013


2010(1)


2010(2)


2009


舶来品のストーブ
2011(1)



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◆初代公爵 大山巌 陸軍大臣
1842-1916 74歳没

1871年 パリで
2018


1872年
2015


1873年 ジュネーブで
1048(1)


1879年 39歳
0039a


2019


3001


2002





■前妻 吉井沢子    吉井友実伯爵の娘・死別




■後妻 山川咲子/捨松 士族山川重固の娘・日本最初の女子留学生5名の一人
1860-1919 58歳没


1871年 左から 上田悌子・永井繁子・山川捨松・津田梅子・吉益亮子
2003


1872年 シカゴで
左から 永井繁子8歳・上田悌子14歳・吉益亮子14歳・津田梅子6歳・山川捨松11歳
1000


2021


2020


ニューヨークで
2044


1882年 帰国報告のため参内した時 カメラ:丸木利陽
2046


2024


2002(1)


カメラ:小川一真
2048


2031


2025



●前妻の子 大山信子  三島弥太郎子爵と離婚・小説『不如帰』のモデル
●前妻の子 大山芙蓉子 細川一之助男爵と結婚
●前妻の子 大山留子  渡辺千春伯爵と結婚

●後妻の子 大山高   早逝
●後妻の子 大山柏   2代当主
●後妻の子 大山久子  井田磐楠男爵と結婚


1900年 渡辺千春邸で
立つ9人左から 男性・男性・千春・渡辺千秋・渡辺・大山巌・以下略
椅子8人左から 女性・久子・女性・留子と赤ちゃん・捨松夫人・以下略
2032



1904年 左から 捨松夫人・高・大山巌・柏・久子
2033



●大山信子 三島弥太郎子爵と離婚・小説『不如帰』のモデル
2047



●大山留子 渡辺千春伯爵と結婚



10年という長期の留学に際して両親は「捨てたと思って待つのみ」という願いを込めて、本名の咲子を捨松に改名させて御国のために送り出した。
捨松はヴァッサー大学を首席で卒業、アメリカの大学を卒業した日本人女性第一号となる。
生物学・看護学などを修めて帰国するが、日本にはその受け皿がなかった。
悩む捨松に大山巌が求婚する。
大山は先妻をなくして再婚であり、三人も娘があり、18歳も年上で見込みはないと思われた。
しかし捨松の提案でデートを重ねるうちに、フランス留学の経験があり生活は洋風でモダンな大山とアメリカ育ちの捨松は意気投合、翌年に再婚した。
結婚してからも仲睦まじく、捨松は終生大山を「イワーオ」と呼んでいた。
他人に聞かれたくない話は互いにフランス語で会話したという。

1904年児玉源太郎は日露戦争開戦に際して、参謀本部次長という降格人事を引き受ける際、
「山県有朋では困る。ガマ坊(大山巌)とならやれる」という条件を出した。
日清戦争後引退を考えていた大山だったが、引っ張り出されて満州軍総司令官を務める。
妻の捨松夫人は
「イワオの好きなものは、第一に児玉源太郎さん、第二に私、第三にビーフステーキ」とよく語った。


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土方梅子 三島弥太郎子爵の娘・土方久敬伯爵の妻

祖母に「『不如帰』にはお祖母様はとっても意地悪だと書いてあるそうよ」と申しましたら、
「そうだってね。あれは慈恵医大病院長の高木兼寛博士が『大山元帥の長女に良いお嬢さんがいらっしゃるから弥太郎どんのお嫁さんにどうか』と言われたので、健康な方かとお尋ねしたらそうだとおっしゃるから安心して来ていただいたんだよ。そうしたら間もなく肺結核になってしまって」と話しました。
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津田梅子 アメリカの友人あての手紙 1911年

シゲ〔永井繁子・瓜生外吉男爵の妻〕はいつも陽気で忙しくしています。
彼女は夫の地位のおかげで多くの責任を持たされ、たくさんの仕事をこなしています。
彼女はそうした生活のすべてと、高い地位が気に入っています。
彼女には多くの孫がいて、家庭生活は幸せで、かわいそうなステマツよりもはるかに幸せです。
ステマツは家族も病気がちで、彼女自身もあまり丈夫ではありません。
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◆2代 大山柏 1代巌の子
1889-1969 80歳没

*ヨーロッパに留学



2030



■妻  近衛武子 近衛篤麿公爵の娘
1897-1983 86歳没


●長男 大山梓  3代当主
●二男 大山桂
●三男 大山檀

●長女 大山咲子 内田健次と結婚


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◆3代 大山梓  2代柏の子
1916-1992


■妻  浜地智子 浜地秋太郎の娘
1927年生


●長女

■東京邸 港区南青山 6,729坪


■東京邸 港区三田 1,718坪


■軽井沢別邸「離山荘」22万坪
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■葉山別邸「長雲閣」500坪


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◆初代公爵 桂太郎 総理大臣 「明治陸軍の三羽烏」の一人 「ニコポン宰相」
1848-1913 65歳没

*身長158センチ・体重67.5キロ・脳重量1,600グラム

*ニコニコ笑いながら相手の背中をポンと叩き、後は頼んだという態度から「ニコポン首相」のあだ名がついた

*胃ガンと診断され、体重は3ヶ月で15キロも減り、死亡


■1番目の妻 斉藤氏  斉藤次郎右衛門の娘・1870年結婚・のちに離婚



■2番目の妻 小田切氏 小田切仲太郎の娘・1874年木戸孝允の紹介で結婚・のちに離婚



■3番目の妻 野田歌子 野田時習の娘・クリスチャン・死別
1857-1886


■4番目の妻 宍道貞子 宍道恒樹の娘・前妻歌子の兄野田時敏の未亡人・クリスチャン・死別
1890年没


■5番目の妻 不明   死別



■6番目の妻 可那子  名古屋の酌婦〈お花〉27歳年下
1875-1940 65歳没


★妾    安藤照子 芸者〈お鯉〉
1880-1948 68歳没

0139


0136


27歳
0138


0135


0137



●歌子の子 桂与一  1882年生 →子は2代当主桂広太郎
●貞子の子 桂三郎  1887年生 井上三郎侯爵となる
●実子   桂四郎  1893年生 
●実子   桂五郎  1895年生 
●実子   桂新七  1899年生 石部泰蔵の養女石部復子と結婚

●歌子の子 桂蝶子  1880年生 陸軍国光侃と結婚・医者長雄勝馬と再婚
●歌子の子 桂茂子  1883年生 陸軍尾寺勝三と死別・旭石油社長長崎英造と再婚
●貞子の子 桂潔子  1888年生 衆議院議員長島隆二と結婚
●実娘   桂寿満子 1897年生 伊藤文吉男爵と結婚

●庶女   桂輝子  1891年生 官僚天岡直嘉と結婚
●庶女   桂露子/真佐子   学者中村銀作と結婚
●庶女   桂勝子       一時は芸者になり武谷成直と結婚


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『明治大臣の夫人』明治36年出版

桂太郎公爵は妻には縁の薄い男と見える。
最初の夫人はなぜか離縁をなし、その次の夫人は5~6人の子供を遺して帰らぬ旅に行かれ、3度目の夫人は前夫人の兄が未亡人で桂公爵はこの未亡人を迎えて後室とせられたが、これも不運なことには亡くなってしまった。
4度目には素晴らしい美人を貰い受け、いざ安心と思う間もなくまたもや先立って死なれた。
現夫人は前後数えて5回目の妻で、かつて桂公爵が第三師団長に任ぜられ名古屋に赴いた折、最初のほどは真面目くさっていたものの、こればかりは辛抱しきれなかったとみえて花柳の巷に車馬を馳せると、いつしか御目にとまったのが土地に名高い香雪軒の〈お花〉と呼ぶ愛嬌のある娘であったとか。
さてこのお花が身分は何かと調べてみたら桶屋の一人娘、故あって香雪軒に貰われ日々毎日万客の御機嫌を伺うのを常々の勤めとしていた。
立てば芍薬座れば牡丹なんともかとも申しようなき美形、土地の鼻下長連は先を争って香雪軒に乗り込む始末に、肝心の料理はさておきお花の磁石力は毎夜多くの客を満たし思いもよらぬ繁盛を致した。
公爵も美形のお花に接してからは何となく可哀想なヘンテコな気が起こって時々香雪軒に車馬を停めたが、とうとうお花と桂公爵との間に同盟条約が締結され、ついに今日の公爵夫人が出来上がったのである。
そんな訳で10年前のお花が実家は見るも気の毒な侘住まいであったが、今日この頃は打って変った境遇、贅沢三昧に世を送るのは実に幸せなものである。
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万朝報 1898年

越中島機械製造所長沢田仁作はかつて新橋区日吉町の芸妓新津の国屋〆子こと柴田スズ(23)について陸軍大臣桂太郎と激烈なる競争をなし、その結果大金を与えてこれを妾とし、いまなお芸妓稼業をなさしむ。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

元来徳富蘇峰はあまりに欲が深すぎるので、ついに長閥からお払い箱になったのです。
先年『政治家としての桂公』という本を書いた時も、桂太郎公爵未亡人かな子からさんざん金銭を巻き上げてそのヘソクリを空にしたため、ついに後家さんも起り出して桂公爵家には出入りの出来ぬようになっております。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1924年7月2日
※宮内官僚酒巻芳男の発言

黒田清輝病気重体なり。
清輝には正妻なく、妾を正妻と為す事の希望あり。
宮内大臣牧野伸顕より相談ありたるゆえ、
「宗秩寮としては聞き届けらるる事は望まず。先例は二様になりおり。これを許す方の先例は桂太郎の妻可那子は井上馨の養女と為りて結婚を許可されおり、これを聞き届けざる例も最近にあり」との事を告げたるに、
宮内大臣は「これを拒む旨を告げ置くべし」と言いたり。
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『明治大正名妓物語』1929年

浜の家女将お花←芸者小浜

そういう具合で世の中がドサクサしているうちに、天子様が江戸へ行幸なさいましてね。
私たちは芝口の青柳の前で、天子様をお迎え申し上げたのです。
4~5日経つと木挽町の〈酔月〉に呼ばれました。
お座敷へ出て見ると木戸孝允さんがいらっしゃって、木戸さんのそばに小さくなってたのが桂太郎さんでさ。
「俺も木戸と名を変えたがね、この者に桂を継がせたのだ」ってお引き合せ下さいましたが、桂さんは私と同年ですから二十歳ぐらいでしたろう。
馬鹿に可愛い坊ちゃんでね。
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安藤照子 桂太郎の妾・芸者〈お鯉〉
1880-1948 68歳没

14歳で新橋の芸者になり、1899年歌舞伎役者の市村羽左衛門に見初められて結婚するが1902年離婚、新橋に舞い戻る。
山県有朋の紹介で桂太郎の妾となる。
桂と死別後、1918年銀座にカフェー〈ナショナル〉を開くが1923年関東大震災で焼失、赤坂に待合〈鯉住〉を開くが1934年帝人事件に巻き込まれ偽証罪で執行猶予3年の判決を受ける。
頭山満の勧めで1938年仏門に帰依し、目黒羅漢寺の尼僧として生涯を閉じた。
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1927年『お鯉物語』安藤照子・芸者お鯉・15代目市村羽左衛門と離婚・首相桂太郎の妾

日露戦争勃発、時の内閣は第一次の桂太郎内閣。
元来桂公爵は軍事と政治の他に別段これという道楽の持ち合せがなかった。
「なにか気分転換に役立つものはなかろうか」
当時の元老・大臣らが一様に思い悩んだのがこれであった。
最も心配したのは山県有朋公爵で、世間では厳格そのもののように見なされていたが、山県公爵はあれでなかなか行き届いた粋なお人であった。
お鯉は最初芸者に出た時から山県公爵には一方ならぬ御贔屓を被っている。
ある日のこと、山県公爵のお座敷で、浜町の常盤家に召された。
席には山県公爵と桂公爵のみである。
山県公爵は桂公爵にお鯉のことを話される。
「これがお役者さんに嫁に行って出されてきたお鯉だよ。贔屓にして呼んでやれ」
「山県の御前さんはいつでもそうおっしゃるのですが、どうしてもお百姓さんと聞こえるので嫌でございますわ」
「ほう、お役者がお百姓か。面白いな」
桂公爵は愛嬌よく笑って、相槌を打たれた。

それからまもなくのことである。
また常盤家のお越しの山県公爵は女中頭のおきよに
「どうだ、桂にはこれという決まった芸者はないのか」
「ええ、本当にないんです」
「そうか、それでは困るね。なんとかしてみっともなくないのを決めて世話をして置きたいと思うがな。おきよ、おぬしお鯉を世話してやれよ」
由来、常盤家では客に芸者の世話をしないのを一見識としていた。
井上馨公爵が別荘に桂公爵・児玉源太郎伯爵らを招待した。
料理は常盤家、おきよが出張して采配をふるう。
新橋の芸者たちもいる。
お鯉もその席にいた。
宴もたけなわ、おきよは桂公爵の前に陣取る。
「桂の御前さん、あなたは今ロシアを相手に難しい談判をしてらっしゃるんでしょう。それだのに女の一人ぐらいなんです。直談判なさるがいいじゃありませんか」
児玉伯爵もそばから声援する。
「それがよかろう。場所は四畳半では小さくて面白うないぞ。庭の藤棚の下がいい。あそこには鯉がいるからね」

「どうだ。嫌なのかね」
時は白昼、色恋の掛け合いもこう真正面から切り出されると、さすがのお鯉も冗談にして外すわけにもいかない。
「嫌と申すわけではありませんが、あなた方は伊藤博文の御前をはじめとして人をオモチャになさるから嫌です。いくら芸者でも一人前の人間ですからね、生涯のことを考えてくださるんでなければ御免こうむります」
「よし、わかった。面白いことを言うね。それは確かに承知した」
離れの二階の出窓から顛末を眺めていた児玉伯爵は上から大声を浴びせる。
「おい、桂、どうだった。クロパトキンと条約できたか」
「うむ、クロパトキンを生け捕ったよ」
児玉伯爵は桂公爵の談判首尾よく成立したとの報告に満足して、
「さてここまではこの児玉が参謀じゃが、これから先の粋なことは井上侯爵が適任じゃ」
ここで参謀長交替となる。

その後の桂公爵とお鯉の姿は、十日に一度ぐらい新橋界隈で見かけられた。
たまにお座敷に見えても、多くが山県公爵や井上侯爵と一緒である。
お鯉が顔を出すと、「お鯉、どうかね。よく桂を慰めてやってくれよ」
両人、決まってこうおっしゃる。
ある日いくつかのお座敷を回った後、お約束のお座敷に顔を出すと、「お鯉さん、お前さんにそっくりという評判の女が洲崎にいるというので、それを見に行こうと本物が来るのを待ってたところだ」
評判の女は洲崎大八幡の花魁で、お鯉に生き写しというので、わざわざ見に行く物好きが多いという。
「私はこの後に瓢屋の約束があるのですが」
「なに、大急ぎで行ってきたら間に合わないことはないさ」
そこからお客さんを先頭に芸者・幇間、人力車を連ねて洲崎へ飛ばす。
登楼して呼んでみると、一同は物珍しそうに両人を見比べていろいろな評が出る。
そのうち段々時刻が移る。
夜はもう10時を過ぎていた。
瓢屋の二階では井上侯爵が脇息にもたれて清元を聞いていたが、お鯉の姿を見るやいなや「馬鹿ッ!」霹靂の一声、御落雷。
「どこに行ってた。なに、洲崎。洲崎とは何だ。馬鹿ッ!もう桂は帰る時刻になっているのじゃ。早く下の座敷へ行けッ!」
下の座敷に入ると、桂公爵は泰然と座を構えていた。

時に現れたのが世話好きの大通人平岡凞大尽、いっそお鯉を買い切って置くがよろしいということになった。
買い切りにすると一日のお約束が一つの計算であるから、1カ月170円ぐらいにしかならない。
そのころのお鯉はたいてい1カ月300円以上の収入があったので割に合わない話だった。
そして朝の9時から夜の9時まで瓢屋の平岡大尽の御座敷に詰め切って、ただ座っているのである。
平岡大尽は芸者を集めて毎日毎日飽きもせずに遊んでいるので、お鯉もその中に座らされて1日3円の御祝儀をいただくのである。
1週に1度か10日に1度桂公爵が見えるほかは、毎日ただこうして座っている。
そして夜の9時になると、平岡大尽がお鯉の自宅まで送ってくれる。
決して楽な仕事ではなかった。

日露戦争の進行につれて総理大臣たる桂公爵の日夜の繁劇はいうまでもない。
山県有朋公爵などはたいそう心配されて、「桂だって人間である。たまにはノンキに面白く遊びでもしなければ頭も体も続くものではない。そういえばお鯉はどうした。相変わらず芸者をさせてあるのか」との仰せ。
かく承った例の平岡大尽、かようなことは拙者の十八番、どうか私にお任せ下さいとお鯉落籍の役を買って出た。
永田町の官邸に呼ばれたお鯉は、桂公爵から直接身請けの相談を持ちかけられた。
「山県が大変心配してくれる。自分は忙しくて閑がない。お前の方でよかったら、平岡の言うようにしてくれ」

当時桂公爵は永田町の首相官邸に住まっておられた。
お鯉も官舎からあまり遠く離れていない、桂家で買っておいた赤坂榎坂町の家に住まうことになった。
家に付いた道具というものは全然ないので、すべての島はみんなお鯉のとっておきの品物ばかりだった。
この妾宅にはよく伊藤博文公爵・西園寺公望公爵・井上馨侯爵などのお歴々が見えたが、桂公爵は道具を指しては「これもお鯉の持参金じゃ。これも、これも」と説明する。
お客はあきれて、「たいそう持参金のあるお嫁さんじゃのう」と大笑いするのが毎度のことであった。
後日日露講和の条件が国民の気に入らぬというので例の焼打事件が始まり、「ここが桂の妾の家だ。叩き壊してしまえ」と群衆が襲撃を加えたのもこの家。
榎坂のお鯉の宅へ来られた人はたくさんあるが、最も派手で陽気で異彩を放っていたのはやはり伊藤博文公爵であった。
主人の桂公爵が永田町の官舎からブラブラ歩いて来られる。
その影を追うように伊藤公爵が来られる。
そして何かしら密談が交わされる。
また新橋の若い芸者からお鯉のところに電話がかかる。
「伊藤の御前さんが、あなたのところへ行くからおぬし達も来いよとおっしゃいましたが、伺ってもよろしゅうございますか」
伊藤公爵からは何の御沙汰もなくて、突然こうした電話がかかる。
桂公爵は「また大勢でやって来られるのだろう。繁盛でいいね。お茶屋なら儲かるだろう」と笑っておられる。
仕度をしてお客のおいでを待つ。
やがてやって来られる伊藤公爵にはいつでも取り巻きが大勢である。
桂公爵とお鯉が玄関に出迎えると、伊藤公爵はわざと「この家に約束して来たわけでもないのにどうしたのだ」
桂公爵は「そんな匂いがしたからね」
お鯉は「前もってお申込みのないお客様ですから行き届きませんが、まずまずお通りください」ととりなす。
「いや、前もって申し込むと桂という亭主が出るだろうと思ってね。それが気に入らんからな」
玄関先からすぐ冗談である。
それから座敷へ通るまでに、女中共にまで一人一人からかう。
座につかれるとすぎ、「さて、風呂は沸いているかえ」
どこへ行っても同じこと。
いつでも瓢屋あたりにおられる御気分であるのは、他人の真似できぬところである。

精神を使いすぎるためか桂公爵の健康は日に日に衰えて消化不良となり、食事はそのまま戻すようになった。
主治医である軍医平井政遒は、胃ガンではあるまいかと案じた。
正妻のかな子夫人はほとんど官邸にいることはなかった。
いつも病気保養のため伊香保あたりへ行ききりであった。
お鯉を官邸に入れて世話をさせるがよかろうということになって、お鯉は榎坂の家から官邸へ移った。

思い出してもゾッとするのは、日比谷の焼打事件である。
江戸から東京、何百年来築き上げられた都市の安寧秩序はものの見事に踏みにじられ叩き壊されて、満都市民の肝っ玉をでんぐり返らせた。
いきり立った民衆は丸の内諸官省などを片っぱしから襲撃して回ったが、中でも永田町の首相官邸・三田小山の桂公爵邸などは第一に民衆の襲うところとなった。
「お鯉を殺せ」
「お鯉を焼け」
焼き打ちの始まった日比谷の国民大会の日、9月5日に永田町の官邸で桂公爵と慌ただしい別れを告げて榎坂の家に帰ったお鯉は、外部との交渉まったく絶え、真っ暗闇の家の中で梅干に握飯の生活が20日近く続いた9月23日の朝、初めて桂家からお使者が見えた。
「桂公爵からの御言葉です。
長々御厄介であった。よく世話をしてくれた上に、この度は自分の騒ぎの中にまで引き入れられて、迷惑やら心配やらをかけたことは誠に申し訳がない。そしてよく自分に尽くしてくれたことについて厚く礼を言う。自分も講和のことについてこのような騒ぎを起こした以上、身を退いて世の中を鎮めなければならぬ立場になっている。よろしくそこを察して、そなたはそなたで身の振り方をつけてもらいたい。
桂公爵の御言葉は以上でありますから、よくお考えを願いたい。あなたがこれから何か御商売でもなされるように、ここに1万円を持参致しました」
「御言葉はよくわかりました。私が身を退くことは確かに承知致しました。どうぞお帰りになって御安心くださるよう申し上げてください。
ところでお金のことですが、このお金で何かしたら立ちゆくだろうというのはそちらのお考えだけで、私は人中を歩くこともできない身の上です。今はそれどころではないのですから、このお金はお持ち帰りを願いましょう」
使者は「さっそく御承知くださいましてありがとうございます。桂公爵も定めし喜ばれることでありましょう」と、いったん取り出した札束を再び風呂敷に包んで帰っていった。

やっと見つけた麻布の奥の広尾、南部坂の下り際で、家賃は16円、わずか4間きりの家であった。
広尾の家へ引っ越したのは騒がしかった9月も過ぎた10月の初めであった。
こと多かりし明治38年も暮れて、都も平和の正月を迎えた。
2月某日杉山茂丸が広尾の家を訪ねて来た。
奥の3畳間に大男の杉山を迎える。
「かわいそうになあ」
杉山は思わず同情の声を挙げて、その恐ろしい顔を曇らせながら、
「桂公爵は来られないのか」
「ええ、お暇をいただいたのですから」
話は問題の核心に触れる。
「何か寄こしたか」
お鯉は使者が持って来て持って帰った1万円の話を打ち明けた。
語るお鯉より聞いている杉山の方が、大きな目からボロボロと涙を流し、お鯉の背中を叩きながら「よし、よし、わかった。俺が決して悪いようにはせぬ」といきなり懐から200円の金を出して置いて帰った。

杉山はお鯉の家を出た足ですぐ三田の桂公爵邸に回って、桂公爵と対座していた。
「日露戦争の最中からかな子は病気の保養に転地したりして自分の世話ができなかった。そこへお照〔お鯉〕が官舎に来り表立ったりしたために世間から睨まれたのであろうが、かな子の考えでは焼き打ちもお照のあったためだと思っているのだから、いろいろとことが面倒になって困る。結局家が治まらぬという次第なのじゃ」
桂公爵の正妻かな子夫人は人も知る通り、言わば氏なくして玉の輿に乗った幸福な人である。
「わかりました。私から一つ奥さんに申し上げたいことがあります。どうぞこの席へお呼び願いたい」
桂公爵はかな子夫人を招いて「杉山からお前に話があるそうじゃ」
杉山は「日露戦争の終局、最も頭を使われている最中、あなたが御病気で御留守のところへ、山県さんや井上さんが桂の頭を休めてやってくれと騒ぎ立て、お鯉は芸者を辞めてつきそうことになったのです。そうかと言って桂家では金で落籍したものでもない。そこへ折あしくあの騒動です。お鯉はかわしそうにやり玉に挙げられた形で、ずいぶんひどい目にあった上、今でも外を出歩くこともできず、憐れな境遇に陥っています。妾にするしないは別として、お鯉の生涯を見てやるのは当然ではありますまいか」
かねてお鯉におかんむりを曲げてござるかな子夫人も、「まことに気のつかぬことでした。お鯉のことはどうぞよろしくお取り計らいください」

3月お鯉は広尾の隠れ家を出て、杉山の向島の別荘に招かれ、実に半年ぶりに桂公爵にお目見えした。
今度は桂家公認のお部屋様である。
まさか借家にも置けず都合三軒を買い与えられ、お鯉は新築の家に、実母と養母は2軒の家に住まうことになった。
山県公爵が「明治天皇から侍従長徳大寺実則に『桂のお鯉という女はどういう女か、美人か』という御言葉があったそうじゃ。意外なお尋ねに徳大寺も恐れ入って何と申し上げてよいかわからず、冷や汗を流した後、やむなくただ『さようでございましょう』と申し上げて、逃げるように御前を退出したとのことじゃ。焼打事件の時、『お鯉は傾国の妖婦である』などと書いた新聞があったが、いろんな新聞を常にご覧になっていらっしゃるからだろう」と。

日比谷焼打の後杉山茂丸の忠言もあって、正妻かな子夫人が改めてお鯉の立場を認められたことは前に述べた通りであるが、幾歳月を経てもかな子夫人はお鯉に会って下さらない。
お鯉の方からお目にかかりたいとは言えぬ身の上である。
かな子夫人としては面白からず思われたのも無理はない。
時には桂公爵に対して、猛烈な皮肉やら嫌味やらを並べられたと聞いている。
盆と暮れにはかな子夫人から反物などを下し置かれることがある。
こんな場合桂公爵は上機嫌で、「家内もそんなにわからないんじゃないんだからね」と御自慢であり、お鯉にもかな子夫人に好感を持たせるよう努められる。

「13代目守田勘弥の母親は、ワシが東京へ出て来た時分の初恋の女なのだ。ワシが21の歳じゃから、慶応3年のことじゃ。近所に出入りの八百屋があって、そこに15~16になる娘がいた。これが純江戸式のすっきりした絵にあるような美人だった。この八百屋はなかなか裕福で、娘に遊芸などを習わせて、衣服なども飾り立てておった。家内を持つならぜひこの女をもらわねばならぬと考えたのじゃ。そのうち八百屋のオヤジとは懇意になったが、娘とはつい話をすることができなかった。若かったのう。そのうち明治元年になる。ワシは22歳で正月の3日から伏見鳥羽の戦争を命じられたのをはじめ、その年の11月17日に東京に凱旋するまで多事だった。これからが大仕事じゃ。明治2年8月26日横浜からドイツに立つことになったのじゃが、ワシが外国に行っている間によそへ嫁られては大変じゃ。それで思い切ってオヤジにワシの思いを打ち明けた。『ぜひお前の娘をワシの家内にもらいたい。しかしワシは洋行するのだからすぐではない。約束だけ決めておきたい。実はこのことは3年前から考えつめていたことじゃ』と言うたらね、オヤジも驚きおったよ。オヤジはよく飲み込んで承知してくれたよ。『御言葉通り娘はあなたのお帰りまで決してどこへも嫁ることはありません。御無事のお帰りお待ちします』と言ってオヤジは泣きおった。ワシもうれしかったよ。なにしろ3年越しに思い悩んでおったことが、スラスラ運んだのじゃから。まず結納のつもりで100円オヤジに贈った。いよいよ出発の時にはオヤジは娘を連れて横浜まで見送りにきたよ。明治6年10月、帰朝して官途に就く、家庭を作る、それからまた再度の留学ということにしようと船の中で楽しみに考えておったよ。東京へ着くとすぐ八百屋に行ってみたが、その家が見当たらぬじゃないか。八百屋は失敗して家を売り、憐れな生活をしているという。
ようよう尋ねて当ててみると、オヤジは「旦那、まことに申し訳がありませぬ」と言ったきり。
『嫁にやったか』
『いいえ、もっと申し訳のないことを致しました。私が相場に引っかかったばかりに娘をとうとう芸者にしてしまいました』
やれやれ、まず良かった。なに、人の物にさえなっておらなけりゃ良いのじゃ。さっそくオヤジの案内で新橋の芸者屋へ行ったよ。美しい上にまた磨かれて、まるで天女のように思うたね。お貞さんと言うのじゃが、その後も芸者屋にお貞さんを訪ねて行ったが、どうも口が利けない。つまらぬことを言うて嫌われては困ると思うので、なかなか話ができない。ここに意外な問題が突発した。
母から『お前の嫁を決めたいから、さっそく帰省するように』とのことじゃ。
『嫁は自分の好きなのにして下さい』と申し送った。
『それでは相談にこちらから出て行く』というので、
『実はもうこっちで決めてしまった』と折り返した。
郷里の母は女の身元などについて調べたところ、八百屋の娘で芸者だと知れたので、びっくりしてすぐさま上京ということになった。あの時ほど困ったことはない。そして案のごとく母は大反対であった。
「芸者は困る、それだけはやめてくれ」と言う。ワシも負けてはいられない。
「芸者と言ってもはじめから芸者ではありません。芸者にならぬ前から約束してあったので、ただの芸者とは違います」こう言って力んでみたが、こんな言いぐさは世間のノラ息子の決まり文句じゃ。
それを真面目に母に言っていたのだから、今から考えるとおかしくてならぬ。
「八百屋の娘で芸者に売られた女を嫁にしては御先祖に対して相済まぬし、郷里の者に対しても恥かしいから、この儀だけはまかりならぬ」という仰せである。そこでワシは考えた。これは当人のお貞さんを母に見せるのが上分別、一度でも見たらあの器量や様子に感心するに違いない。母はお貞さんを見てなるほどと感心してくれた。それ見たことかと得意でもあったね。
ところが母曰く「なるほど、美人じゃ、お前が欲しがるのも無理はない。しかしあれ以上の者を母が探してやったらよかろう。長州で家柄も身分も上等な、そしてあれ以上の美人だったら申し分あるまい」
早く父を失ってから母一人の手に育てられたワシとしては、それでもとは言えない。ずいぶん切なかったがお貞さんをあきらめて、嫁のことは母に任せることにした。あれ以上の美人というのを探してくれたのが最初の家内さ。それとなくお貞さんの様子を探ると、もうすでに人のものになっていた」

桂公爵の最初の夫人は同郷の野田氏の令嬢野田歌子。
伊藤博文公爵が歌子夫人の談に及ぶと、「わしもずいぶん美人を見たが、歌子夫人ほどの美人はかつて見たことがない」と言われた。
長男与一・長女蝶子・二女茂子の三子が生まれたが、三子とも母君に似て美しい人であった。
歌子夫人は産後に病を得て亡くなり、第二の夫人宍道貞子を迎え、貞子夫人に1男1女ができたが、幾年の後亡くなられて、今のかな子夫人が入られた。

「ワシは今子供を勘当してきたのだ」
お鯉はギョッとした。
「茂子だ。3人の子供を抱えて若後家じゃ。屋敷の中に住まわしているが、尾寺の舅姑も『あまりに若くて気の毒だから、相当のところへ嫁入りさせてくれ』ということになっていたのじゃ。そこで常々茂子に同情しておった長崎英造という男が嫁に欲しいという話になったらしい。ところが順序が悪くてワシの耳には不義をはたらいた形式に聞かされたのじゃ。まだ籍の入っている尾寺家に対しても相済まんわけじゃ。そこでワシとしては勘当するより他に道がないことになった。順序を踏んでくれれば喜んでやるものを、茂子が至らぬからこんなことになるのじゃ。母親には先立たれ、夫には戦死され、3人の子を抱えて今度は父親に勘当される。不憫な奴じゃ」
勘当された茂子未亡人は、その後熱情ある錚々たる実業家長崎氏の迎えられて、人もうらやむ新家庭を作っておられる。

桂公爵は大阪に行かれることが度々であったために、彼の地の花柳界に残した艶聞もなま少なくない。
ある日お鯉は大阪で桂公爵と一緒になって、その日は宝塚に一泊し、翌日箕面へ行く予定であった。
一行の御供にはいつもは見慣れぬきれいな芸者がそろった。
その中に艶子という当時大阪の藤田組に在勤中の桂公爵の令嗣桂与一と深い関係の美人がいた。
桂公爵は艶子に目を止められ、お鯉に向って、「あの芸者はいいね。うむ、実にいいね」とばかり、間さえあれば艶子の噂で持ち切りである。
事情を知っているお鯉はおかしくて仕方がない。
「なかなかいい奴じゃ。東京にもちょっとない」
お熱がだんだんと高くなる。
「さあ、大変、大変」と、女将連や老妓連が騒ぎ出した。
「あなたがどんなにいいいいとお思いになっても、あの娘ばかりはダメですよ」
「なんでダメなんだ」
「あれは若旦那のですよ」
「なんだ、与一のか。ハハハハ」
桂公爵も腹を抱えて笑われた。

大阪には珍しい総理大臣のお顔を直接見られるというので、花外の門前は常に人立ちがする。
幼い女の子を背負った26~27の痩せた小柄な女がいて、これが始終立っている。
お鯉は花外の女将に心当たりを尋ねた。
女は神戸の常盤華壇にいた女中で、先年桂公爵が常盤華壇に泊まって1~2度知り合ったことがあるらしく、後に常盤華壇から桂公爵の子供を宿したという通知があったので、時の兵庫県知事に託して善後の処置を取ってもらい、すでに解決がついているはずであると。
桂公爵に聞いてみると、「うむ、それは知っている。日露戦争の始まる頃知事の手紙で驚いた。そこで女の子なら金で始末してくれ、男の子ならば世話をして育てて置いてくれと返事をしておいた。その後女の子が産まれたというので、日露戦争から露子と名をつけて、金を2千円送っておいた。それで結末がついているはずじゃが」

世話好きの岩下は生母山田キクの嫁入先まで斡旋して話をまとめた。
嫁入先は岩下の配下である高木貞幹という人で、森永製菓の重役であった人である。
人物もよく生活も豊かに保証されているからとのことで、キクも高木氏のところへ嫁すことに決定した。
いかなる事情があったか知らぬが、キクは高木氏と離婚になった。
せっかくの良縁を残念なことであるが、やはり彼女は放浪の女であったのであろう。
別れる時高木氏から相当のものをもらって出たとのことであったが、大正5年肺結核で36歳でこの世を去ってしまった。

明治45年桂公爵は後藤新平・若槻礼次郎を連れて、4度目の欧州漫遊の度に上った。
「おぬしにも長々世話になった。子供まで救い上げてくれての世話は容易でない。ワシはお前のために数年前から少しずつ貯えておいた。それはワシに万一の場合があった際のワシの礼心であった。もっと増やしてやりたい考えであったが、増えないうちに今日の場合になった。もっとも与一がいるからおぬしの生涯のことは心配はないが、まずこれはワシの礼心だと思うてくれ」
一通の書きつけには、公債・その他種々なる株券・銀行預金を合わせて
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
合計6万5千円なり。
右は安藤照子の所有なり。
桂与一殿
太郎
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「もしワシに万一のことがあった時は、この書きつけを与一のところへ持って行けば、与一が悪いようにはせぬから」

明治45年7月6日、桂公爵一行は朝野の盛んな見送りを受けて、新橋を出発した。
新橋駅頭、群がる見送り人の後方に隠れて一人の芸者姿の若い女があった。
それは桂公爵の御落胤で、今は柳橋で芸者をしている女と知れ、翌日の朝刊に大々的に載せられた。
お鯉は抱え主一藤井の春栄姐さんにお座敷をかけてもらった。
「あれは一龍と言うのです。桂さんのお子さんだと申すことですが、人の話では大変よく似申してるそうです。芸は相当できますが、なんとなく内気な娘で、器量も大してよくないし、余り売れないので気の毒な人だと思ってます」
「とにかくそのお子をここへ呼んで私に見せてください」
さっそく電話がかけられて、一龍がお鯉の前に現れた。
なるほど桂公爵によく似ている。
桂公爵を知っている人が見たら、誰でも血縁であることが知れよう。
お鯉は春栄に言った。
「桂公爵のお子に違いありません。私が引き取ってお世話したいと思います」
春栄は大喜びである。
結局2千何百円ということに話がつき、金のないお鯉は借金して落籍を済ませた。
ところが一龍には親類と名乗る人が大勢あった。
おばあさんは小さい待合でも出させてくれと言う。
おじさんは蕎麦屋をやらせてくれと言う。
黙って聞いていたら際限がない。
結局これも1500~1600円の金で埒をあけた。
一龍を産んだ当の母親は現れない。
お鯉は八方手をまわしてやっと探し出した。
神田のある蕎麦屋の家内だったがすこぶる神妙な女で、「私の親が悪くてお邸に再三迷惑をかけて済まぬ」という善良さ。
欲しそうな顔もしなかったこの母親に、お鯉は200~300円の金と包んで渡した。
「ワシの名古屋時代じゃ。日清戦争の時ワシは師団長だった。上京すると山下町の旅館が定宿で、相手はそこの女中じゃ」
その女中にできたのが女の子と聞き、戦勝にちなんで勝子と名づけた。
「当時ワシは最初の家内が子を残して死ぬ、二度目の家内も子を残して死んだ。子供たちは方々の親類に預けていた頃で、日清・日露の戦役はワシの一生中での大事業であった。記念のようにそれぞれ子供ができた。そしてどの子も不運じゃ。おぬしは前に露子を拾い上げてくれた。今度は勝子を引き取ってくれる。もう他に心当たりはないよ。また大きな戦争でもあれば厄介をかけぬとも限らぬが」
柳橋芸者から一足飛びに桂公爵令嬢としてすっかり本物の令嬢にこしらえ直すのは容易な骨折りではなかった。

桂公爵はお鯉と共に、令嗣桂与一が大阪天王寺に新築した屋敷の座敷開きに臨んだ。
しばらく前まで秋田の小坂鉱山にいたが、このほど栄転して大阪に来り、天王寺に新邸を設けた。
まだ30になるやならずの青年実業家としてはなかなかの成功と言わねばならぬ。
知らぬ人は桂公爵の補助もあると考えるだろうが、まったくの独力でやったのである。
学生時代も定額の学費を与えられる以外、他に毫も桂公爵の世話にはならなかったのである。
桂公爵が身長の高くない丸々と太った体格の人であったに似ず、与一氏は背のスラリとした面長の美しい好男子であった。
それは与一氏の母君歌子夫人が絶世の美人であったのを承けたのであろう。
しかし歌子夫人が亡くなり、次の夫人も幾年の後亡くなられて、今のかな子夫人が入られたので、与一氏は生まれた家へ出入することが少なくなり、父君との間は自然疎遠になった。
桂公爵は「親父が相当な位地の進むとどうも倅はろくな奴ができんようじゃが、ワシの口から言うもおかしいが、与一はようできた奴じゃ。ワシは一向かまってやらなかったに」と言った。
与一氏が父の頭脳を継いで明敏聡慧の人であり、母の血統を承けて風采閑雅な貴公子であり、家庭の事情のためによく人情の機微に通ずる人となり、お鯉が赤誠をもって桂公爵はに仕えているのを見て、「自分は幼い時家庭的には非常に不幸であった。しかし親孝行ということはしたいと思っている。しかし実はお父さんがどういうことがお好きであるかさえも分からぬ。食べる物でも何がお好きか知らないのだ。お父さんは何でもできる身の上でありながら、家庭であってさえ始終遠慮をしておられる。あなたは始終お側にいるのだから、どうかできる限りお父さんをお慰めしてください」と言われた。
旻天無情、与一氏は病を得て大正2年桂公爵に先立って行かれた。

大正2年4月7日の夜、日本郵船の加藤正義の招待を受けて芳野家の宴席に列せられたが、突然めまいがして席に堪えられず宴半ばにして帰邸された。
翌日は新政党の関係で浜町の常盤に顔を出して演説をされたが、腹痛でまた中座して帰られた。
その翌日は三田の自邸で支那に行く加藤高明男爵の送別会を開くことになっていたが、腹痛と衰弱でそれもならず、桂公爵が病褥の人となったのは、実にこの日からである。
屋敷からの知らせによれば、病状は項頸筋・背腰大腿の諸筋にリウマチ様の痛みを発し、静かに安臥していれば痛みを覚えないが、わずかでも身体を動かすと激しい疼痛を起すというのである。
その後桂公爵の病状は小康を得て、6月3日かな子夫人同道で葉山の別荘に転地し静養されることになった。
今度は桂公爵の嫡男与一氏が腸内腫瘍症という軽からぬ病気で、桂公爵が葉山へ転地後容態が急変して、かな子夫人は与一氏の看護に東京へ戻られたという知らせを受けた。
「葉山からお電話でございます」という女中の取次に受話器を手にすると、「お照か、おぬしすぐ来いよ」
思いもかけぬ桂公爵自身のお声である。
身支度もそこそこに新橋停車場へ駆けつけ、葉山の別荘の門をくぐって桂公爵の病室に通ってみると、桂公爵は力なく椅子にもたれて、傍らから看護婦が身体を支え、頭をちょっと動かすのも大儀という様子。
発病前まで18貫を越えていた体重は、3カ月の間に4貫減っていた。
「体中に臭い薬を塗られるので、それが鼻について物が食べられぬ。おぬしに何かワシの好きな物をこしらえて食べさせてもらいたいと思うて呼んだのじゃ」
お鯉は夜昼帯も解かずに、桂公爵の食事から身の回りのお世話に没頭して日を暮らした。
病床の桂公爵がお鯉に「勝子の縁談はどうなった」
「はい、あなたが御全快になったら吉日を選んで結納を交わしたいと考えています」
「先方はワシの言うたことを承知したか」
お鯉の懇意な友だちの舞踊家若柳吉登代(中村千世子)の世話で、東大法科を出たばかりの武谷成直と勝子との間に縁談が進行中だったのである。
「ワシの言うたこと」というのは、勝子はお鯉によって救い出されたのだから、勝子をもらう人はお鯉の世話を引き受ける人でなくてはならぬという御注意なのである。
「先方に伝えましたところ承知してくれました。心細ければ勝子ともどもお側にいて、お宅から通ってもよいと申してくれました」

6月16日、与一氏の訃報が葉山の別荘に伝えられた。
「ああ、駄目か。どうしても駄目か」
病躯を押して電話口に出られた桂公爵の口から洩れた数語。
「おぬしに少し聞いてもらうことがある。看護婦を遠ざけてくれ」
お鯉は居ずまいを正した。
「最初の家内は与一・蝶子・茂子の3人を産んで病気になった。母親が患うているので、家内の兄嫁に当る貞子が未亡人じゃったので、看護に来てくれて家事一切の世話をしてくれた。ところが家内の病気は治りそうもない。親類の者は家内が万一の場合には貞子をそのまま後妻に直して子供たちの世話を頼んだ方が良かろうという話が出ておったのじゃ。薄々病人の耳に入ったものと見えて、死ぬ数日前『自分が死んだ後でも決して兄嫁の貞子を娶ってくれるな』言うのじゃ。ワシは死んで行く者に心残りのないように思うたから、気軽にその約束を承知してやった。家内はそのことを繰り返しながら世を去った。その後ワシは死者を欺いた結果になったのじゃ。後妻にした貞子も4年目に死んだ。蝶子はおぬしと同年じゃが、ケガが元で永らくの病人・茂子は未亡人になった上に勘当・与一はワシを残して早死に、悪いことばかりじゃ。そこでおぬしに頼みがある。家内の追善を頼んでもらいたい」
翌日お鯉は葉山から上京、二人の僧を伴い青山の墓地に赴き、丁重な供養を営んで先夫人2人の冥福を祈った。

桂公爵は「ここにいては人が来たりしてうるさくて困る。ワシはこれから箱根にでも行って、おぬしの世話になりたい。箱根の大倉の別荘を借りてもよし、福住の別荘もある」
主治医の軍医平井政遒が診察に見えた時、桂公爵は「お照を連れて箱根に行こうと思うから、君から家内の者に話をして、いいように頼む」と取り成しをお頼みになった。
ところが東京からの返事は、「箱根はあまり遠方で御無理です。鎌倉の岩下さんの別荘にお移りになるよう御支度ができております」ということであった。
「はやりワシの心が分らぬと見える。ワシは遊びに行くのではない。人が来て与一の悔やみを言われるのを聞くのさえ嫌なのじゃ」と憮然として嘆息された。
箱根が遠すぎるのではない、お照を連れてが悪いのであろう。

鎌倉笹目の岩下清周の別荘に移ったのが6月19日、医師と3人の看護婦とお鯉が付き添った。
岩下氏の全盛時代のこととて、別荘はまるで病院と同様の設備ができていた。
桂公爵の女婿長島隆二が鎌倉にお見舞いに来て、お鯉を別室に呼び「安藤さん、突然ですが、今日三田のお母さん(かな子夫人)が来られることになったんですよ」
「そうですか。それでは、あなたからパパさんに申し上げていただきましょう」
「僕は言うのが嫌で」と長島氏はしょげている。
「そんなことおっしゃっては私が困ります」
長島氏はやむなく桂公爵の前に現れる。
「今日お母さんが来られるようです」
「なんだ、急に来るなんて不都合じゃ」
桂公爵はひどく気色ばんでいらっしゃる。
「私は一度出直して、また上がることにいたしましょう」
「おぬしは帰るのか」
うつろな声でこう言われた。
「ワシはもしかすると体の具合で屋敷に帰ることになるかもしれぬ。不幸にしてワシの病気が重態というような場合には、おぬしは人に頼まず自分で子供を連れて屋敷に来い。その時は玄関からやって来るのじゃ。そして奥さんに会いたいと申し出るのじゃ。そうすると奥さんは快くおぬしたちをワシに会わせるであろう。決して心配はない。よいか、よいか」
そのお声が聞き納めになろうとは、お鯉には思い設けなかった。

9月12日に鎌倉を引き上げて帰京に決し、三田の本邸に入られた。
桂公爵の女婿長島隆二氏・伊藤文吉男爵・天岡直嘉氏はお鯉について相談の結果、「安藤としてではなく、パパさんのために2人の子供の世話をしているという関係から、お母様にお願いすることにしよう」ということになった。
10月8日長島氏はお鯉を訪ね、「なんとも申し訳ありません。我々からお母様にいろいろと願ってみましたが許されません。最後に我々は『パパさんの思召しを考えてのことですから』と願ったのです。ところがお母様は『みなさんから見るとパパさんだけが親で、私は親ではないのでしょうから、みなさんの勝手になすって、誰でもお会せになったらよろしい。そのあいだ私はどこぞへ行って、家を外していましょう』と言われた。私共も義理の間ですから、このうえ進んでお願いはできません」
お鯉は「まことにありがとうございました。どうぞよろしくお言伝を願います。いかに公爵の御言葉にせよ強いて私が伺いましては喧嘩腰になるようで、公爵のお顔にもかかわることですから、私は諦めました。私はお目にかかることは断念しましたが、お子たちだけはきっとお会せいたします」
長島氏が辞して帰ると、お鯉は目白の山県公爵邸へ自動車を飛ばした。
山県公爵は「お鯉、えらい心配なことじゃのう」と出てこられた。
「私はお目にかかりたいとは申し上げません。ただ2人のお子たちにはどんなにしてもお会わせ致しとうございます」
「おぬし、本当に自分が会うことは断念したか」
「はい、覚悟いたしております」
じっとお鯉の顔を見守られた山県公爵、「おぬしがその覚悟さえしてくれたら、ワシが後を引き受ける。井上と相談してきっと子供は会わしてやる。安心せい、山県が引き受けたじゃ」
井上馨侯爵は桂家の親戚筆頭である。
かな子夫人は井上侯爵を仮親として嫁いだ人であり、桂公爵の令息三郎氏は井上侯爵の養子という関係もある。
山県公爵・井上侯爵うち揃って三田の桂家を訪問された。
かな子夫人説得のためである。
男勝りのかな子夫人も、さすがに断りかねて聞き届けましたということになった。
「それでは明日にお願いしましょう。昼間では新聞記者の目に立ちますから、夜8時頃がいいでしょう。来る時は表からでは人目について困りますから、庭口から内々でそっと来るようにお申し渡しを願います」と。
勝子は19歳・露子は10歳、二人を呼んでお鯉は言って聞かせた。
「明日はパパ様のお見舞に勝子と露子とお二人で行くのですよ。よくよくお顔を見て覚えてくるのですよ。偉い方たちが大勢おいでになりますから、普段お母さんから教わった通り、お行儀を良くして、決して笑われるようなことがあってはなりません。あなたたちが笑われると、お父様の恥になって、お母さんも笑われますからね」
幼い露子は「お母様はどうして御一緒にいらっしゃないの」
お鯉はハッとしたが、「お母さんはお留守番をします。人がたくさん見えますから。それであなたたちにおかあさんの代理で行っていただくのです。お屋敷にはもう一人お母様がいらっしゃいます。よく気をつけてお目にかからなくてはなりません」

10月10日になった。
お鯉は身支度のできた勝子・露子に、「よくよくパパ様のお顔を拝んで、帰ってからお話を聞かせてください」と言い聞かせて送り出した。
病室の次の間には桂公爵の弟桂二郎夫妻・故与一未亡人・長島隆二夫妻・伊藤文吉夫妻・天岡直嘉夫妻・井上三郎その他が粛然と居並び、桂公爵の枕頭には医師と看護婦が侍していた。
桂二郎夫人はさすがにお歳の功か、つと席を立って「パパ様はもうおわかりにならないから、よくお顔を拝んでお帰りなさい」と2人を病床まで連れて行ってくれた。
2人はおそるおそる御辞儀をしながらお顔を拝んだが、まったく死んだ人のようで生気というものは失せてしまっていた。
2人は御親族の方々に丁寧に敬意を表して引き下がった。
車に乗りかけていると、奥から駆けてきた女中に「しばらくお帰りをお待ちくださいませ」と引き留められた。
2人が上がった時かな子夫人は病室においでいならなかったが、「安藤のところから参った2人が、御挨拶を済ませて帰りました」と聞き、山県公爵・井上侯爵のに約束した以上、2人はかな子夫人みずからの紹介で桂公爵に会わせなければらなぬ、早く2人を呼び返せという厳命が下ったので、女中が追っかけてきたのである。
呼び戻された2人が再び病室に通ってみると、正面に立派な権高い婦人が座っておられるので、丁寧にお辞儀をした。
「安藤のところから来たお子はお前たちかえ?何というお名?」かな子夫人はこう言って、己の誰であるかを相手方に覚らせるという風。
「勝子と申します」「露子と申します」2人はかしこまって答えた。
「ああ、そう。勝子と露子だね。こっちへおいで」
かな子夫人は桂公爵の枕頭に進み寄られ、桂公爵の耳元近く口を寄せて、「安藤のところから、勝子と露子が参りました」と告げた。
すると朝から昏睡を続けておられた桂公爵が、突如大きな目をパッチリと開かれた。
やおら右の手を伸ばして露子のお下げ髪をむんずとつかみ、露子の首を御自分の胸の辺りまで引き寄せた。
つきそいの医師も看護婦も、みな面を覆うて声を飲んだ。

露子は「お母様、パパ様が私のお下げをお引っぱりになりましたの。2度もお顔を拝んだのです。お引っぱりになって痛くて怖かったkれど、パパ様がお側に来いとおっしゃるのだと思って、お胸のところまで行きました。大きな目でじっと私をご覧になって、お笑いになってよ」
勝子は病室の模様を語って最後に、「私の顔をじっとご覧になったかと思うと、私の背後を透かすようにして見つめていらっしゃいました。きっとお母様をお探しになったに違いないわ」
お鯉は丈なす黒髪を根元からプツリと切って、仏壇に供えた。
10月11日三田の本邸から長島家令が来た。
お鯉は長島家令の前に自分の切髪を置いた。
「日陰者の悲しさ、せめてこの黒髪を御棺の中にお入れいただきたい最後の願い、どうぞお計らい句下さいまし」
翌日長島家令から「皆様にお話いたしまして、確かに御棺の中にお入れすることに致しました」という電話があった。
お鯉はこの時34歳であった。

翌月11月にはもう本邸からお鯉のところへ生活費が来なくなった。
桂公爵が逝かれてからふた7日が過ぎた頃、三田の本邸から人が来て、「桂公爵の遺言によって渡すべき財産がある。そして当方へ受け取るべき子供がある。その決まりをつける」と申し込まれた。
桂公爵の遺言によってお鯉に分け与えられた財産について、本邸ではこういう解釈を下したのだそうな。
それはこの財産はお鯉とお鯉に預けられている遺児に遺されたものである、勝子はすぐに結婚するからよいが、露子にはまだ長い春秋がある、今のうちに遺産を分配させて本邸に引き取った方がよいという意見であった。

勝子の方はすでに婚約も整い、桂公爵の忌明を待って嫁入らせることになっている。


本邸の方では捨てて顧みなかった子供を4つの歳から拾い上げ、並々ならぬ苦心をして公爵家の姫君として恥ずかしからぬ人柄になったのは、まったくお鯉の努力の結果であるとして、桂公爵も喜んでおられた。


大正3年2月下旬、三田の本邸からお鯉のところへ、今からすぐ内田山の井上侯爵のお屋敷まで出頭するようにとの仰せである。
井上侯爵は軽い中風を病まれて、2~3の看護婦が傍にお世話申し上げている。
井上侯爵の左右には、益田孝・早川千吉郎・田島信夫いずれも井上侯爵昵懇の偉い方々、末席には珍しや喜楽の女将おきん婆さんが控えている。
これはなかなかお揃いのことと思ったが、喜楽の女将が口を切って、「井上の御前さんがあなたのことを御心配になって、いろいろお取決めをしてくださるんだそうですから、御安心なさい」と言った。
老職どころの田島氏が「このたび桂公爵がお亡くなりになって財産整理が行われた。ついては桂公爵があなたに遺された財産は井上侯爵がお預かりになって、生涯あなたの身の安全を計ってあげたいとの思召である」と口を開く。
お鯉は「まことに恐れ入りましてございます」と丁寧に御礼を申し上げる。
すると井上侯爵は「月々おぬしに200円ずつやるから、自身で取りに来るがよい。病気の時はその由を申し立てて、代人を寄こすかこっちから届けるか、いずれかにするのじゃ。それでよかったら、書きつけが作ってあるから、ここにいる益田・早川などに証人になってもらって、おぬしも判を押すがよい」
田島氏が大判の罫紙4~5枚にしたためてあるものを取り出して読み上げる。
①節操を守ること
②みだりに外出ずべからざること
③桂公爵の遺児を育てるについては、誠心誠意いやしくもぜざること
④子供の教育は自分勝手にせざること、一々相談に来りて御指図を受くべきこと
⑤自分の財産なれば、中途から全部引き渡せなどと言わぬこと。
⑥一身上のことはすべてお任せして、仮にも身儘になさぬこと
以下十数条にわたって綿密苛酷を極めたものであった。

田島氏は書きつけをお鯉の前に出して、「よくお読みになってごらんなさい」と言った。
見てみると終りの方にはすでにこの一座のお歴々の名前が書いてあって、その下にはいちいち書判がしてあるではないか。
田島氏はしびれを切らして口を出した。
「さあ、もうおわかりでしょう。早く井上侯爵にお礼を申し上げて判を押してしまいなさい」
お鯉は「せっかくですが、この箇条書きに判を押すことは勘弁させてもらいます。これはなかなか大変なことのようですから、よく考えてそれからのことにしていただきたいと存じますが」
お鯉の言葉の終わるか終わらないうちに、井上侯爵たちまち大一喝。
「不承知なのか。どこが気に入らぬ。馬鹿ッ!せっかくの親切がわからぬ奴。不届き者め!」
この場合当然現れなくてはならない役者は喜楽の女将である。
「何でもいいからハイと言ってお置きなさいましよ。後のことは後のことでさあね。この場はこの場で。悪いようにはしないからさ」小声で囁く。
「女将さん、私はあなた方と違って井上の御前さんには何のお世話にもなっていないんですよ。どんなことでも御無理ごもっともと承ってさえすれば、何か利益になるような方々とは違いますからね。
私としては一生涯の身の上のことですから、心にもない判を押すようなことはできません。どうぞ私を帰らせてください」
井上侯爵は「言うことのわからぬ奴は帰れッ!」

かくて2~3カ月は夢の間に過ぎた。
自分のものである幾万の財産がありながら、その日その日の生活のために着物を売って行くのだから、なかなか矛盾した話である。
井上侯爵の方ではいろいろ運動が行われる。
益田孝男爵のお妾瀧子さんがお鯉の宅へ訪れる。
「まあまあ理屈は言わずに、早くあのかきつけに判を押して埒をつけた方がよいではありませんか」
お鯉は桂公爵直筆の財産目録6万5千円、その書きつけをもって杉山茂丸のもとを訪れた。
「この間からちょいちょい話に聞いてた。死なれてまもないのに、女一人のことでゴチャゴチャやってるそうじゃが、あきれたものだと思っておったよ」
「私がこの書きつけを持っているから皆さんも御心配なのでしょうから、どうかあなたの御手からこの書きつけを井上侯爵に差し上げてください」
「欲を捨てての決心にはとてもかなわぬ。よし承知した。ワシが井上侯爵のところへ使いに行ってやろう。そして財産を返してきてやる」
「どうぞお願いします。きっぱりと因縁なしにお返ししてくだだい」
杉山氏は井上侯爵にお鯉から預かった財産目録を持参して、お鯉の意志を語った。
井上侯爵は「杉山などを中に入れて怪しからぬ奴じゃ」という腹になった。
杉山氏の方では「オレが間に入ったがどうした」というような具合で、その後しばらくは井上侯爵と杉山氏は睨み合いの状態となってしまった。
杉山氏は「お鯉はお鯉の勝手にさせる」と言う。
こうなると井上侯爵も困られて、杉山氏に謝罪状を送り、改めて談合となった。
「君がもっとも嫌に思う箇条書き、あれは全部撤廃させる。それに桂公爵の書きつけの額は6万5千円であった。井上侯爵の手元にある現在は5万8千円という減額を示している。君の希望としては金の額の問題ではないはず。君さえ承知してくれれば四方八方円満なことになるから承知してくれたまえ」
杉山氏のはからいで箇条書きは撤廃され、増すべきはずの金は減っているが、遺産として5万8千円がお鯉の手に渡されることになった。
ところが白紙無条件でお鯉に渡されるべき約束に、やはり条件が付されていた。
それは遺産のうち2万円は露子に分配しておくという条件である。
そこでお鯉は杉山氏に語り直さねばならなくなる。
「勝子には何もなく露子にばかりお分けになるのは不公平と思います。同じ桂公爵のお子ですから、同じようにお扱い願いたい」
この理屈はなかなか通らなかった。
それは露子に2万円を分配しておいて、その財産ぐるみ桂公爵の弟桂二郎に引き取らせるという相談があったのである。
井上侯爵はようよう納まった問題が再燃しては大変と考え、お鯉の主張を通して勝子を認めることとなり、勝子と露子に各1万円与えて、これは井上侯爵に保管を託し、残金3万8千円がお鯉の手に渡されて、桂公爵の遺産問題はここに解決を見たのである。

勝子はお鯉の主張によって、持参金が1万円増えたのである。
その1万円は勝子の婚礼の支度に用いてもよいはずのものであるが、お鯉は例の意地から自分の財産から公爵令嬢として恥しからぬ支度を調えた。
四季の紋服までそろえて、白無垢の婚礼。
箪笥・長持はもとより手回りの小道具に至るまで、いずれも特別誂えの定紋付である。
御用を承った高島屋が、近来にない御支度あまり見事ゆえ、ぜひ記念の写真も撮り出入りの人々にも見せてとのことで、10畳2間の部屋に飾り立てたほどであった。
5人10人の客に対しても、夏冬の客布団・座布団・蚊帳まで取り揃えた荷物が15荷、1万5千円を費やした。
桂公爵が逝かれた翌年11月、築地精養軒で披露宴が催された。
来賓100余名が列った。
「たいていの御身分の方でもできない婚礼です。桂公爵が御存命であってもこれほどにはなさるまい」と驚き語る者もあった。

勝子の婚礼が済んでまもなく、杉山茂丸がお鯉に向って言う。
「桂公爵の弟桂二郎が露子を息子の妻にしたいと言うのだ。それには一日も早く引き取って、家風に合うように手元で教育したいと言う。ワシも良いように思う。そうしたらどうじゃね」
お鯉にはまた悲しい話がやってきた。
桂公爵没後から始まった露子引き取り問題は、いつまでもいつまでもお鯉につきまとうのである。
「叔父様のところへお嫁に行くのです。勝子姉様もお嫁にいらっしゃったでしょう。今度はあたながいらっしゃるのです」
なだめつすかしつ、やっとのことで承知させた。
お鯉はお嫁入り同様の支度を調え、二郎夫妻をも驚かせたという。
かくて11歳の嫁御寮は、1万円の持参金を携えて、二郎宅に引き取られた。
〔この養女縁組は成立するが、結婚は成立しなかった〕

数奇な運命のお鯉は大正9年、銀座でカフェーナショナルを経営することになった。
その2年後大正11年、露子がカフェーナショナルにお鯉を訪ねてきた。
「お母様、私の本当のお母様はあなたなんですわね。叔父様(桂二郎)に引き取られてからは、ずいぶん長い間あなたは私のお母様でないといろいろ言われました。そしてお前の母親は死んだと、お墓へ連れて行っていただきましたが、私にはお墓の方は私が小さい時に育てられた人だと思います。私中村(夫)へ嫁きましてから、中村にも聞きました。しかし中村もやはり私の母は死んで品川のお墓がそうだと言われます。私はお母様のことを少しも忘れたことはありません。いつもお気の毒で申し訳ないと思っています。私はまだお嫁になったばかりでどうしてよいかわかりませんが、どうかしてお母様のお家をこしらえてお入れ申して、御恩返しを致したいと存じております。どうぞ、露子のお母様だということをおっしゃってください」
お鯉は気を静め、語り出した。
「私はあなたのお尋ねに対して本当のお母様であると言ってあげたいのですが、それは事実と違うのです。皆様がおっしゃるように品川のお墓の山田キクという方があなたの生みのお母様です」
「さようでございましたか。いろいろありがとうございました。御親切な思召は生涯忘れませぬ」
露子はまもなく母となった。
大震災の後お鯉が見舞かたがた露子の家庭を訪れた時、美しい若妻の露子はすっかり母親らしいもの慣れた調子で、「さあ、お祖母様ですよ、御挨拶なさい」とお鯉に紹介するのであった。

桂公爵のニコポンと言えば、知らぬ者はない。
10年以上お鯉のところにいた奉公人も一人として桂公爵の御機嫌が悪いのを見た者はない。
普段の食べ物はもとより調度についても、好き嫌いということがない。
「ワシは何でもよい」と言われる。
お鯉が「あまりお小言もなく御注文のないのは張り合いがありません」と言うと、
「これは困った。小言を言わんとて叱られる」と桂公爵は笑われた。
「ワシは怒ることが嫌いなのだ。世間ではワシのことをお世辞ばかり言う人間のように思うているらしいが、怒ることは自分を不愉快にする、まことにつまらんことじゃ」
桂公爵は晩年日本酒を飲まれず、わずかに葡萄酒の盃を挙ぐるに過ぎなかった。
明治27年日清戦争の時、名古屋の第三師団長として出征し、遼東の各地に転戦した。
その年の12月19日、一夜民家に屯して敵の来襲を待つことがあった。
満洲の冬は寒い。
桂公爵は将卒に酒を与えて士気をを鼓舞し、自分も幕僚と共に盃を重ねていた。
そのうち敵軍の来襲、ソレッとばかり桂公爵に突出した。
ところが今まで焚火と酒とで温めていた身体が急に零下の戸外に出たため、めまいを起して人事不省となり雪中に昏倒した。
部下が抱き起す、軍医が駆けつける、応急手当が届いて回復したのであるが、頭部を雪中に埋めていた結果か、その後時々左半面にマヒを感じて、それがため夜など眠れないことがあるようになった。
桂公爵は深く当時のことを悔恨し、酒を飲んでいたためにかような不覚を取ったのは誠に申し訳ないことである、飲酒は慎むべきものと固く決心して、それから以後は断然酒を飲まなくなったと語られた。
煙草は葉巻を1日に2箱というのだから、ずいぶん喫まれた方である。
くわえている葉巻が尽きると、すぐ次の煙草の口を切っておられるというほどであった。
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■夫  桂与一   初代公爵桂太郎の子
1882-1913 31歳没


■妻  新田テイコ 新田忠純男爵の娘
1887-1956 69歳没


●男子 桂広太郎  1908年生 2代公爵
●男子 桂寿雄   1909年生 野村益三子爵の娘野村美枝子と結婚

●女子 桂友子   1910年生 成蹊女学校出身 三井信託進緯介と結婚


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◆2代公爵 桂広太郎 初代公爵桂太郎の孫・林与一の子
1908-2002


■妻  白根富美子 白根松介男爵の娘 学習院出身
1918年生


●長男
●二男
●長女

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