直球和館

2025年

2021/01

◆初代公爵 桂太郎 総理大臣 「明治陸軍の三羽烏」の一人 「ニコポン宰相」
1848-1913 65歳没

*身長158センチ・体重67.5キロ・脳重量1,600グラム

*ニコニコ笑いながら相手の背中をポンと叩き、後は頼んだという態度から「ニコポン首相」のあだ名がついた

*胃ガンと診断され、体重は3ヶ月で15kgも減り、死亡


桂太郎の母喜代子
5851


22歳
1004


ドイツで


1873年 ベルリンで
1048(2)


1879年 34歳
0034b




1895~1898年
1021


1912年
1008


66歳
1002



■1番目の妻 斉藤氏  斉藤次郎右衛門の娘・1870年結婚・のちに離婚



■2番目の妻 小田切氏 小田切仲太郎の娘・1874年木戸孝允の紹介で結婚・のちに離婚



■3番目の妻 野田歌子 野田時習の娘・クリスチャン・死別
1857-1886


■4番目の妻 宍道貞子 宍道恒樹の娘・前妻歌子の兄野田時敏の未亡人・クリスチャン・死別
1890年没


■5番目の妻 不明   死別



■6番目の妻 可那子  名古屋の酌婦〈お花〉27歳年下
1875-1940 65歳没


可那子夫人


可那子夫人



★妾    安藤照子 芸者お鯉
1880-1948 68歳没


●実子 桂与一  1882年生 →子は2代当主桂広太郎
●実子 桂三郎  1887年生 井上三郎侯爵となる
●実子 桂四郎  1893年生 
●実子 桂五郎  1895年生 
●実子 桂新七  1899年生 石部泰蔵の養女石部復子と結婚

●実娘 桂蝶子  1880年生 陸軍国光侃と結婚・医者長雄勝馬と再婚
●実娘 桂茂子  1883年生 陸軍尾寺勝三と死別・旭石油社長長崎英造と再婚
●実娘 桂潔子  1888年生 衆議院議員長島隆二と結婚
●実娘 桂寿満子 1897年生 伊藤文吉男爵と結婚

●庶女 桂輝子  1891年生 官僚天岡直嘉と結婚
●庶女 桂露子/真佐子   学者中村銀作と結婚
●庶女 桂勝子       一時は芸者になり武谷成直と結婚


左から 太郎の妹駒子・寿満子・桂太郎・可那子夫人・新七郎・五郎・三郎
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●桂寿満子 伊藤文吉男爵と結婚

右:桂寿満子
1023




桂寿満子&伊藤文吉男爵
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桂寿満子&伊藤文吉男爵
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■夫  桂与一   初代公爵桂太郎の子
1882-1913 31歳没


■妻  新田テイコ 新田忠純男爵の娘
1887-1956 69歳没


●男子 桂広太郎  1908年生 2代公爵
●男子 桂寿雄   1909年生 野村益三子爵の娘野村美枝子と結婚

●女子 桂友子   1910年生 成蹊女学校出身 三井信託進緯介と結婚


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◆2代公爵 桂広太郎  初代公爵桂太郎の孫・林与一の子
1908-2002


■妻  白根富美子 白根松介男爵の娘 学習院出身
1918年生


●長男
●二男
●長女

■東京本邸 麻布区鳥井坂町

■東京本邸「恩賜館」荏原郡大井町

台所
2000


■東京本邸 麻布区新龍土町

■東京本邸赤坂区表町

■東京本邸 麻布区新龍土町


■夏島別荘 横須賀市夏島町


■小田原別邸「旧・滄浪閣」1893年撮影
0001



■大磯別邸「新・滄浪閣」敷地5,500坪
8059(2)


0006(1)


0006(2)



■金沢別邸 横浜市金沢区


■山口別邸
0008(1)


0005(1)


0004(2)



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◆初代公爵 伊藤博文 総理大臣 「長州五傑」の一人
1841-1909 68歳没


■前妻 入江スミコ 長州藩士入江嘉伝次の娘・野村靖子爵の妹
伊藤博文と離婚・官僚長岡氏と再婚


■後妻 木田梅子  下関の芸者〈小梅〉
1848-1924 76歳没

*妾の梅子が妊娠したので、前妻を捨てて後妻にした。


★妾  裵貞子   韓国人 養女という名の妾 伊藤博文が田山貞子と名付ける 
1870-1952


●庶子   伊藤文吉 1885年生 伊藤文吉男爵となる 桂太郎侯爵の娘桂寿満子と結婚
●庶子   伊藤真一 1890年生 

●後妻の子 伊藤生子 1868年生 外交官西源四郎の前妻・末松謙澄子爵と再婚

●庶女   伊藤朝子 1876年生 外交官西源四郎の後妻
●庶女   伊藤沢子 1899年生 工学者大竹多気の子大竹虎雄と結婚


1909年10月26日暗殺
4005


9501





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『明治天皇紀』

1890年10月11日
天皇伊藤博文の人物を評して曰く、伊藤は才気人に勝れ弁論縦横にして、今日何人も彼を抑制しうる者なし。
岩倉具視・大久保利通・木戸孝允等のごとき人ありて、彼を制御するあたわざることを惜しむ。
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『明治天皇紀』

1890年3月19日
天皇曰く、伊藤と松方とは性質相異なり。
伊藤は才智をもって事を処す、その進歩速やかなるも、時に顛躓し退歩することなきを保しがたし。
松方はこれに対し鈍き方なるをもって、その進歩遅々たるといえども、その進むや確実なり。
要するにこれ両人の天性に帰するをもっていかんともすべからず。
伊藤これを知らざるにあらず。
しかも近時松方を譏り、その矢を数えて寛仮せざるの状あり。
松方すこぶるこれを苦となす。
両人の間をしてこのごとくならしめたるは、陸奥が松方の矢を伊藤に告げ、また井上毅・伊東巳代治等が日々内閣の失策、松方の欠点を密かに伊藤に報ずるをもってなり。
伊藤は過日これらの書翰を積み重ねて岩倉具定に示し、その不平を漏らして松方を攻撃せしかば、岩倉も大いに伊藤の大人げなきに驚けることあり。
また憲法論にて井上毅・伊藤巳代治・金子堅太郎3人の意見時に一致せず、松方その決断に悩むものの如し。
松方と伊藤相和し相一致するに至らば可なれども、それ容易に行われがたし。
松方にその意あるも、松方はその方法を過まれり。
もし松方が井上馨と結び、井上馨をして適宜に斡旋せしめば事円滑に行わるべきも、松方は井上馨を好まず、常に山県を撰りてもって伊藤を説かしめんとす。
しかれども伊藤・山県の相善からざること久し。
その傾向近時ますます著しく、相対すれば既に互いに不快の感を生ずと言えり。
ゆえに山県は伊藤との間を周旋しあたわざるなり。
井上毅・伊東巳代治等も今や気大になりて、松方に使役されざるの状あり。
山県の首相たりし時は、井上毅・伊東巳代治も相応に使役せられたりしが、今日はしからざるなりと。

伊藤は松方に対し、箇条書をもってその非違と思うところのものを質せり。
松方朕に奏して曰く「伊藤の為すところ、徳川家康が大阪城に詰問せるごとく、強国の弱国に向かい難問を強示するがごときあり。臣すこぶるその処置に苦しめり」
これにおいて朕は「たとえ辞職のやむなきに至るも、非違は則ち正ざるべからず」と申聞けたり。

後藤象二郎は伊藤博文の政党を組織するを喜ばずして異論を唱うるもののごとし、けだし伊藤はいつにても総理大臣たることを得べく、政権を取るために政党を組織するの要なし。
改進・自由両党が同志をもって組閣し、その主義を実行せんとすることとその事情を異にせり。
これ伊藤の政党を組織せんとする真意を知るに苦しむゆえんなりと言うにあり。
後藤象二郎は伊藤の辞職には反対せるが、その言極めて条理あり、陸奥のごとく反覆の挙動なし。
近時は大いに真面目になりたる風あり。

品川弥二郎は正直なれども狭量にして忍耐なく、会議中にも憤慨して涕泣するなど事理を弁ぜざることあり。
頃日伊藤が選挙に対する不審を質し干渉の事実を非難せしに、品川は大いに激昂し、伊藤が辞職して政党を組織せんというを聞き、
「君の政党組織は余の関するところにあらざれども、君にしてもし暴激の言論あらば、余は直ぐに予戒令をもって君を処分すべし」と言いしかば、
伊藤艴然として色を作して曰く「内務大臣の職権をもってするも、如何ぞこの伊藤を随意に処分し得んや」と互いに相罵りたりと。

佐々木高行聖話を拝承し、奏して曰く、伊藤の常に我を張り、その跋扈の状実に恐懼に堪えざるところなり。
しかも今日我意を主張する者はひとり伊藤のみに止まらず、はなはだ憂慮に堪えざる景況なり。
この上はこのごとき我を張る者は明治天皇において厳戒して寛仮したまうことなく、万事宸断をもって決定し叡慮して真に国民の間に貫徹せしめば、全国中には誠忠の士・才識の士乏しからざれば自然現出して明治天皇を輔佐し奉るに至らん。
しかれどもこれを急激に望むべからず。
耐忍もって進みたまわば、叡慮を徹底せらるる期のあるべきなり。
伏して乞い願わくは十二分に奮発あらせられんことを。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員

1921年2月23日
※倉富&李垠王付事務官高義敬の会話

高◆先年梅子未亡人より大磯の滄浪閣を李垠王に献上したしとの内意あり。梅子未亡人は東京に移住する希望あり。7~8万円もあればよろしく10万円ならば充分なりとの事なりしが、その後24~25万円との話もあり。梅子未亡人の真意わかりかね、李王家の御典医小山善をして大磯に行きたる時これを問わしめたるに、梅子未亡人は10万円ならば充分なりと言い、末松未亡人〔娘の生子〕大磯に行きおり、これも梅子未亡人と同様の考えなりし由なり。
倉富◆梅子未亡人は李垠王に縁故ある所なるゆえ無代にても献上したき素志にて、家屋はもちろん器具等も一切そのままに献上したしと言いおる様に聞きおれり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員

1921年3月25日
※倉富&李垠王付事務官高義敬の会話

高◆伊藤家所有の大磯別邸を李垠王に譲る事は10万円を出せば充分との事なりしが、近日に至り10万円にては不足なりとの事にて12万円とか15万円とかいう話があり。
倉富◆10万円にて不足とは何人より言い出したる事なりや。梅子未亡人が「大磯に居りては老人にて心細きゆえ東京に移住したし。東京に住居を構える費用としてその入用の金を得たし。10万円ならば充分」との事なりしなり。
高◆初めはそのつもりの様に聞きおりたるも、未亡人は末松の邸内に住居を作り末松未亡人が奉養する事とし、その住居は末松の所有となるにつき建築費も末松より出す事となり、李王家より出す金は未亡人の方には入用なき事となりたる由なり。
妙な事になりたり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員

1921年9月22日
※倉富&李垠王付典医小山善の会話

倉富◆梅子未亡人は既に東京に転居したりや。
小山◆大磯の滄浪閣は朽腐したる所多く雨漏り多きにつき、梅子未亡人は速やかに東京に移住する事を望みおれども、末松家邸内に建築しおる所はいまだ竣成せず。住する所なきゆえいまだ決定せず。
倉富◆差向き末松の家に住してよろしきにあらずや。
小山◆末松の方にても近日謙澄の一周祭を行うゆえ同居しがたしと言い困りおる所なり。
倉富◆只今の話の如く滄浪閣を引き受けらるれば、修繕費を要する事を少なからざるゆえ含みおきくれよ。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1923年10月24日
※李垠王付事務官高義敬の発言

〔関東大震災直後〕大磯の滄浪閣は到底修繕できず。
自分が行って見たる所にてはすぐに倒家を片づけざれば不体裁なり。
李垠王の東京本邸の修繕には9万円を要する物と6万円を要する物との2様の設計あり。
〔資金を滄浪閣に回す事は難しいという意味〕
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『木戸幸一日記』内大臣※当時は宗秩寮総裁

1933年9月5日
※西園寺公望公爵の発言

山本権兵衛伯爵はとかく伊藤博文らのことを悪く批評していたが、ただ一つ伊藤公爵が常に皇室を重んじ、深く崇拝せる点は感服だと称していた。
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木戸幸一侯爵 木戸孝允の孫

伊藤博文と山県有朋はしょっちゅう対抗していた。
同じ長州出身といっても、必ずしも一致してはおりませんでしたね。

伊藤さんという人はあれだけいろいろの活躍をした人だけれど、いわゆる派閥というものを持っていなかった。
その点は実に融通無碍なんだな。とても朗らかな人でね。
そこへいくと山県さんはなかなか陰険で、ガッチリと自分たちの仲間を作る。
これは陸軍が背景にあったからでもあるんでしょうが、いわゆる長州閥のボスは山県さんですよ。
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『明治閨秀美譚』1893年

末松謙澄氏の夫人は名を生子という。
伊藤公爵の娘なり。
つとに西洋的の教育を受け華族女学校を卒業して氏に嫁ぎ、よく英仏の語に通じ舞踏巧みにしてもっとも交際社会に重んぜらる。
西洋風の華美を喜ぶ。かつて氏の県治局長として内務に奉職するや、その帰邸 例に遅るること1時間に及べば、夫人自ら馬車に駕して内務省に行き、氏の用務終わるを待ち相携えて同乗し帰途につく。
当世の一才媛なり。
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万朝報 1898年

公爵伊藤博文の猟色談はあえて珍しからず、世間に知られたる事実もまたはなはだ多しといえども、ここに記する事実のごときはけだし珍中の珍 秘中の秘たるべし。
芝区伊皿子町に田村半助なる男あり。古くより土木請負のために公爵家に出入りる者なるが、その縁故により同人の長女喜勢子はかつて公爵の妾となりて非常の寵を受け、麻布長坂町に壮麗なる邸宅を新築しもらいてそこに住みいたるが、喜勢子はふと病気にかかりてさる1893年にこの世を去りしかば公爵は非常に落胆したれども、その次の妹なるツネコという美人を手に入れ喜勢子のことを打ち忘るるまでに喜びいたるが、このツネコもまた昨年12月に19歳を一期として死去せしかば、公爵はまたまた非常に落胆したれども、なおその次の雪子とて本年16歳なる美人のあるに力を得、前例によって雪子を手に入れんと欲しそのことを半助に語り出でたるに、姉娘の二人まで早逝せしことのなんとなく気がかりなるより今回は容易にお請けせず、本人の雪子もまた深く怖じ恐れて承諾する模様なきより、公爵はいっそうにいらだちて是非ともその望みを達せんと欲し、さる5月16日に執行したる姉二人の追福法会の際には莫大の金品を与えるなど、半助に種々恩を着せたるうえ出入りの者までを使い手を替え人を替えて交渉中なれども、先月あたりまではいまだ話のまとまらざる様子なりしが、元来半助一家は公爵家のために今日の生活を成しいる次第なれば、今頃は早や話のまとまりしやもしれず、これも分かり次第に報道することとせん。
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万朝報 1989年

子爵末松謙澄の夫人生子は公爵伊藤博文の娘なるがため万事についてワガママの振る舞い多く、たまたま謙澄が夜更けて帰ることあれば恐ろしき剣幕にて叱りつくるをもって、さすがの謙澄も大いに閉口し小糠三合の俗戒を思い出して秘かに歎声を発することありとは我輩の聞くところなるが、好きの道はまた格別なりとみえ、いつの頃いかにして手に入れしかは知らざれども、夫人生子の厳重なる監視の目を潜り日本橋区箔屋町の絵草紙屋錦華堂浅井一忠の娘ケイ(23歳)を妾とし、桧物町の春の屋をもって会合の場所とせり。
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『明治大臣の夫人』1903年

今でこそ公爵の令夫人として上流社会に知られておるが、素を洗えば河竹のの流れの身、ようやくほころび初めた二八の春に根引きせられた雛妓あがり、それがあのように出世したのかと思えば夫の牡丹公ばかりが異数の出世とも言われない。
以前勤めの身であった折には高杉晋作なぞが悪強いに雛妓姿のあられもなく一升酒をあおったこともあったが、その後大酒だけは止めたかれど今なおポートワインを嗜んでおるそうである。
ある時夫の伊藤公爵は夫人に向かって、
「あまり酒を飲むのは身体のためによろしくないゆえ少し止めたらよかろう」と忠告した。
すると夫人は笑いながら、
「あなたが煙草をお止めになったら、私も一緒に止めます」と伊藤公爵が煙草好きのところへつけ込んで答えたので、伊藤公爵も自分だけは煙草を喫むが夫人にはいけぬとも言いかね、かえってヤブヘビの失策をなされたということである。
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宮武外骨『地獄耳』1919年

先月下関で木田幾三郎という有名でない男が死んだ。
この木田は伊藤博文の未亡人梅子の実弟で、博文が杉孫七郎方の女中に孕ませた庶子伊藤文吉の養父だが、梅子も文吉も死亡広告に名を出さぬはおろか葬式にも行かなかった。
身分と名聞にとらわれて義理人情をも顧みぬ当世華族の一面がわかると思うとある人が言った。
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『横から見た華族物語』1932年

山県有朋公爵の第一夫人は友子、第二夫人は貞子であったが、友子夫人を迎える前猛烈な恋の奴隷となったことがある。
相手は松陰門下の野村和作の妹で名をスミコと言った。
この娘に山県公爵がぞっこん惚れ込んで、刀にかけても宿の女房にもらい受けずにおくものかと大変な熱度でせっせと足を運ばせたが、この道には案外臆病であった山県公爵はどうしてもそれを打ち明けるだけの勇気がなく、ぐずぐずしているうちに横合いから伊藤博文公爵が飛び出してまんまとスミコを寝取ってしまった。
伊藤公爵は初めからスミコを恋したのではなく山県公爵に鼻を明かせてやろうという悪戯からやったのだから、一旦はスミコと結婚したが間もなくこれを離縁した。
罪なことをしたものである。
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『横から見た華族物語』1932年

伊藤博文公爵を中心とする閨閥の筆頭は末松謙澄子爵であろう。
伊藤公爵の第二女婿に西源四郎という男がある。
彼ははじめ生子と結婚し間もなくベルギーに留学したが、その不在中に末松子爵はイギリスから帰朝しケンブリッジ大学出の秀才ともてはやされた。
当時政府では条約改正の一方便として極端な欧化政策を行い、怪しげなダンスなどをしきりにやって妙齢の淑女と独身の官吏とが公然とふざけることを奨励した。
当時の生子女史は本野・牧野夫人等とともに欧化婦人の急先鋒と称されていただけに、いつの間にか本夫の源四郎氏を捨てて末松子爵と自由結婚を行ったものである。
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秩父宮雍仁親王

伊藤博文とは青山御所で会ったことがあるが、よいお爺さんという感じだった。
瞳の奥が異様に光っていたのが印象深い。
明治維新に活躍した人々は誰でも、眼が次の時代の人々とどこか異なるものがあったようだ。
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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

明治天皇は一言にして言えば、沈着・豪胆とでも申し上げるのでございましょうか、滅多なことにはお驚きにならない。
この明治天皇をお驚かせた事件は、伊藤博文公爵がハルビン駅頭で撃たれたとの突然の上奏でございました。
さすがの明治天皇も「ううん、伊藤が殺されたか」と、ただ一言深いため息をおつきになりました。
そして数日後「日本に連れて来られてから、ただ一人『爺や、爺や』と伊藤ばかりを頼りにしていた朝鮮の坊ちゃん〔李垠王〕はさぞ心細いだろう。かわいそうにね。いわば人質だから、このあいだ東宮さん〔大正天皇〕が来た時『これから仲良く可愛がってあげなさい』と言っておいたけれど」と、おいたわりの御言葉をお漏らしになりました。
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『明治大正名妓物語』1929年

浜の家女将お花←芸者小浜

伊藤さんですか。
こう申しちゃすみませんがね、その時分は一番歳が若くって、一番幅が利かなかったものです。
なに、値打なんかあるもんですか。

その時分におとめ按摩というのがありましたっけ。
なにしろ飛びぬけた美人で、それで親孝行というんですから、ずいぶん流行ったものでした。
呼ぶと、「今から○○さんへ行って、□□さんに回って、それからお伺いします」と言うんです。
たいてい1カ所で2円ぐらいはもらいましたでしょう。
その格好ったらありませんや。
夏になると透矢帷子を素肌に着て出るというのです。
芸が無いもんですから按摩になったというんですが、この按摩は按摩より按腹の方が本職です。
このおとめ按摩を始終呼んで変な按腹をしてもらったのが、伊藤さん・大隈重信さん・井上馨さんてな御連中でした。
いの一番が伊藤さんですから、ずいぶん若い時分からはしっこかったものです。
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1927年『お鯉物語』安藤照子・芸者お鯉・15代目市村羽左衛門と離婚・首相桂太郎の妾

伊藤博文公爵が大阪から連れて来た舞妓あがりの芸者文香というのがあった。
舞妓の時代に伊藤公爵がちょっと世話をしたことから有名になって、ついに伊藤公爵の一字を取って文香と改名して全盛を極めた。
伊藤公爵は文香が17歳の時に東京へ連れられて、大磯の滄浪閣の梅子夫人のもとに置かれた。
この文香なかなかしっかり者で、まだ17~18の子供のくせに大のヤキモチ焼きである。
伊藤公爵は関係した女を片っぱしから忘れてしまうほどの達観ぶりであるから大磯に置いた文香のことなど気にも留めず、例の通り東京で発展しておられるので、文香は身のほども忘れてヤキモチを焼き、人もあろうに梅子夫人に対して昼夜口説き立てるので、梅子夫人も持て余して「それなら東京へ行って自身で申し上げたらよかろう」と、人をつけて伊藤公爵の官舎に送り込まれた。
伊藤公爵も仕方がないから官舎の一室に置き、時々お茶屋へ連れて歩かれたが、時にはお邪魔になることがあるので、夜更けに榎坂のお鯉の門を叩き「おぬしのところへ、今晩文香を泊めておいてくれ」と預けて行かれる。
夜中枕を並べて寝ようとすると、文香の口から粘り強い口調で伊藤公爵に対する恨みつらみのあらん限りを並べる。
これにはお鯉も悩まされた。
伊藤公爵はそんなことは気にも留めない。
冗談半分にお耳に入れても、「ふーん」と笑っておられる。
伊藤公爵がその身分に似ず、お金の無いことは誰も知っている。
恬淡洒脱・君国のことの他は万事に超越して、芸者などは一時のオモチャぐらいにしか思っておられない。
文香を梅子夫人のもとに預けっぱなしにするほどの伊藤公爵である。
常にいろいろな女を連れて大磯へ行かれる。
他の家に泊まって女が一番困るのが朝である。
ことに花柳界の人間はお化粧やら身の回り万端、他家ではどうも思うようにいかない。
しかるに梅子夫人は恐れ入ったもので、すべての物を女中に申しつけて揃えさせ、何一つ不自由にさせない、不足を感ずることは少しもない。
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◆2代 伊藤博邦  井上馨侯爵の甥・井上光遠の子
1870-1931 61歳没


■妻  高島多満子 高島易断高島嘉右衛門の娘 
1881-1927 


●長男 伊藤博精  1899年生 3代公爵
●二男 伊藤博春  1901年生 清水博春男爵となる・自殺
●三男 伊藤博通  1902年生 瀧川儀作の娘瀧川美津と結婚
●六男 伊藤博臣  1912年生 
●七男 伊藤博則  1913年生 林博則となる 伊藤文吉男爵の娘伊藤道子と結婚
●八男 伊藤博経  1917年生 
●九男 伊藤博孝  1921年生 横山昭子と結婚
●十男 伊藤博英  1923年生 岡根英子と結婚

●長女 伊藤琴子  1903年生 早逝
●二女 伊藤愛子  1906年生 聖心女子学院出身 日本郵船重役永富雄吉の子永富謙一と結婚
●三女 伊藤十四子 1918年生 三共ファーマシー社長塩原祥三と結婚→孫は塩原正子


伊藤博文の曾孫
2353


1984年 伊藤博文の曾孫・塩原祥三の娘
19840618



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『横から見た華族物語』昭和7年出版

伊藤博邦公爵は井上勝之助侯爵の実弟で、勇吉〔伊藤家の養子になる前の名前〕時代には放蕩無類の不良少年であったそうだ。
花柳の巷に入り浸って芸妓を身請けして妾にしたこともあれば、情夫となって女の家に入り浸り長火鉢の前に朝風呂丹前をきめ込んだこともある。
勇さんの名は花柳社会の流行語となり、また遊冶郎の代名詞ともなった。
高島嘉右衛門の娘を迎えて正妻に直し式部次長に進んでからは少しは素行も改まったが、いわゆる秦淮の風・鄭衛の音は天性の好物であるから、時としては秘かに自然主義の実行者となり、博邦の名は依然として美人の間に名高かった。
博邦公爵が宮内省に初めて職を奉じた当時栗原広太・桂潜太郎の二人がいて、これに博邦を加え宮内省の三道楽者と言った。
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『木戸幸一日記』内大臣※当時は内大臣秘書官長

1931年10月16日
〔伊藤博邦死亡後の〕財政整理につき、左記の意見を示す。
できうるだけ切り詰めたる予算を決定すること。
■新龍土ならびに興津町所在の土地宅地を速やかに処分し、将来は一層生活の規模を縮小し、相当の余裕を生ぜしむるよう努力すること。
■十五銀行よりの借入金の返済を終わるまで、すなわち本年より昭和10年に至るまでは、左記の方法により伊藤侯爵家より補給を受くること。
●前項の予算決定のうえ、その不足額を借用すること。
●前項の土地邸宅の処分を終わりたるときは、売得金は優先的に借入金の返済に充つること。
●前項の土地邸宅に抵当権等の必要を生じたる場合には、必ず事前に井上侯爵家に協議し承認を得ること。
●万一昭和10年までに土地邸宅の処分を完了しあたわざる時は、その後10カ年賦にて返済すること。
●借入金の存在する間は、予算の作製ならびに経常支出以外の一定金額以上の支出については、井上侯爵家にあらかじめ協議し承諾を得ること。
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『木戸幸一日記』内大臣

1941年4月6日
伊藤文吉男爵来訪。
林家再興のため、伊藤博則君(伊藤博邦公爵の子)と伊藤通子さん(伊藤文吉男爵の娘)を縁組させたしとの相談あり。
賛成し、博則君の真意を聴くことを引き受く。

伊藤博通君、博則君を伴いて来訪。
博則君の真意を聴く。
承諾の旨を知り、伊藤文吉男爵の来訪を求め、即座相談す。
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◆3代公爵 伊藤博精 2代公爵伊藤博邦の子
1899-1962 63歳没


■妻  高橋福子 総理大臣高橋是清の孫/高橋是福の娘
1904-1992 88歳没


●長男 伊藤博雅 1929年生 4代当主

●長女 伊藤邦子 1926年生 西浦昌男と結婚
●二女 伊藤雪子 1928年生 中山輔親侯爵の子中山忠敬と結婚 
●三女 伊藤文子 1932年生 千家尊統男爵の子千家達彦と結婚 
●四女 伊藤典子 1934年生 広瀬和栄と結婚
●五女 伊藤久子 1945年生 伊勢松平定純と結婚


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『岡部長景日記』文部大臣※当時は内大臣秘書官長

1930年2月10日
伊藤博邦公爵の嗣子博清来訪。
至極温雅な貴公子然とした人で良さそうだ。
式部官にでもして、フランス語を練習してもらおうと思う。
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◆4代当主 伊藤博雅 3代公爵伊藤博精の子
1929年生


■妻    谷祥子  谷閑衛子爵の娘
1938-1979


●長女
●二女

◆初代公爵 伊藤博文 総理大臣 「長州五傑」の一人
1841-1909 68歳没


伊藤博文の母琴子
5848


横浜で 撮影:内田九一
2148


1868年
1008


2147


サンフランシスコで
1029(1)


ロンドンで
1020(1)


1879年 40歳
0040


1896年 撮影:丸木利陽
1012


1901年 アメリカへの船上で
2151



■前妻 入江スミコ 長州藩士入江嘉伝次の娘・野村靖子爵の妹
伊藤博文と離婚・官僚長岡氏と再婚


■後妻 木田梅子  下関の芸者〈小梅〉
1848-1924 76歳没

*妾の梅子が妊娠したので、前妻を捨てて後妻にした。

1013


左:娘の生子  右:梅子夫人
1019


1014


1906年 中央の帽子が伊藤博文・その左に座る帽子が梅子夫人
1015


1017


1016


1909年 大人3人左から 伊藤博文・伊藤博邦・梅子夫人
19090001



★妾  裵貞子 養女という名の愛人・韓国人・伊藤博文が田山貞子と名付ける 
1870-1952

5002



●庶子   伊藤文吉 1885年生 伊藤文吉男爵となる 桂太郎侯爵の娘桂寿満子と結婚
●庶子   伊藤真一 1890年生 日高栄三郎の娘日高庸子と結婚 

●後妻の子 伊藤生子 1868年生 外交官西源四郎の前妻・末松謙澄子爵と再婚

●庶女   伊藤朝子 1876年生 外交官西源四郎の後妻
●庶女   伊藤沢子 1899年生 工学者大竹多気の子大竹虎雄と結婚


立つ左から 生子・生子の夫末松謙澄・朝子の夫西源四郎・朝子
座る左から 伊藤博文・梅子夫人
1030



●伊藤文吉 伊藤文吉男爵となる 桂太郎侯爵の娘桂寿満子と結婚
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●伊藤生子&後夫末松謙澄子爵
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1027



●伊藤朝子の夫 西源四郎 1905年 ベルリンで
1021(1)



●伊藤沢子 工学者大竹多気の子大竹虎雄と結婚



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◆2代公爵 伊藤博邦 井上馨侯爵の甥・井上光遠の子
1870-1931 61歳没

1028


1920年 撮影:丸木利陽
1108(3)


1930年
1020(2)



■妻  高島多満子 高島易断高島嘉右衛門の娘 
1881-1927 




●長男 伊藤博精  1899年生 3代公爵
●二男 伊藤博春  1901年生 清水博春男爵となる・自殺
●三男 伊藤博通  1902年生 瀧川儀作の娘瀧川美津と結婚
●六男 伊藤博臣  1912年生 
●七男 伊藤博則  1913年生 林博則となる 伊藤文吉男爵の娘伊藤道子と結婚
●八男 伊藤博経  1917年生 
●九男 伊藤博孝  1921年生 横山昭子と結婚
●十男 伊藤博英  1923年生 岡根英子と結婚

●長女 伊藤琴子  1903年生 早逝
●二女 伊藤愛子  1906年生 聖心女子学院出身 日本郵船重役永富雄吉の子永富謙一と結婚
●三女 伊藤十四子 1918年生 三共ファーマシー社長塩原祥三と結婚→孫は塩原正子


立つ2人左から 伊藤博邦・博文
座る4人左から 多満子夫人・朝子・梅子夫人・生子
1025



椅子5人左から 多満子夫人・山県有朋・梅子夫人・伊藤博文・生子
1029



立つ4人左から 文吉・伊藤博邦・生子の夫末松謙澄・真一
座る4人左から 生子・梅子夫人・博文・多満子夫人
2021



1908年 梅子夫人の還暦祝い
立つ6人左から 真一・伊藤博邦・生子の夫末松謙澄・朝子の夫西源四郎・生子の子末松春彦・文吉
椅子6人左から 朝子・生子・博文・梅子夫人・多満子夫人・朝子の娘西清子
2010



左:伊藤愛子
右:伊藤琴子
1022



●女子(名前不明)



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◆3代公爵 伊藤博精 2代公爵伊藤博邦の子
899-1962 63歳没


■妻  高橋福子 総理大臣高橋是清の孫/高橋是福の娘
1904-1992 88歳没


1920年 ロンドンで
2021


イギリスで



●長男 伊藤博雅 1929年生 4代当主

●長女 伊藤邦子 1926年生 西浦昌男と結婚
●二女 伊藤雪子 1928年生 中山輔親侯爵の子中山忠敬と結婚 
●三女 伊藤文子 1932年生 千家尊統男爵の子千家達彦と結婚 
●四女 伊藤典子 1934年生 広瀬和栄と結婚
●五女 伊藤久子 1945年生 伊勢松平定純と結婚


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◆4代 伊藤博雅 3代公爵伊藤博精の子
1929年生


■妻  谷祥子  谷閑衛子爵の娘
1938-1979


●長女
●二女




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伊藤博文の妾 祇園の芸者 江良加代

時の権力者に次々と愛され、
西園寺公望→木戸孝允→伊藤博文→最後は財閥三井高辰の妾として幸せな生涯を終えた芸者。

木戸孝允の妾であったが、木戸の急死により好色な伊藤博文が手を出した。
しかし伊藤は今までの旦那達のようにお加代に贅沢をさせなかったので、お加代の方からフラれて去られてしまった。
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6005

■東京本邸「旧・椿山荘」小石川区関口町 2万坪 1878年竣工 

洋館
4003

和館
4004

〈芙蓉亭〉
4001


■東京本邸 麹町区五番町

■東京本邸 麴町区富士見町


■「新・椿山荘」千代田区一番町


■大磯別邸「小淘庵」5千坪 1877年竣工 
4009



■京都別邸〈無鄰菴〉京都市左京区南禅寺町 土地2万坪・うち半分が庭園 1896年竣工
0010


0015


0016


0025


■「新々亭」文京区水道 500坪 1902年竣工 
4006


4007


■小田原別邸「古稀庵」1万坪 1907年竣工
4014

〈暁亭〉
4015

〈皆春荘〉
4017

洋館 洋館設計:伊東忠太 1909年竣工
0026

すべての扉にイニシャルY・Aのモチーフ
0028


0022



■麹町五番町〈新椿山荘〉700坪


■山県農場 那須 天然林150町歩・草山600町歩


※山県宅の庭園は、ほとんど山県有朋自身の設計による


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◆初代公爵 山県有朋 山県三郎有稔の子 総理大臣
1838-1922 83歳没

*身長171センチ

*生まれつき健康だったが、青年期にリウマチを患う。

*中年期からは胃腸病に悩まされる。

*健康オタクで海水浴やサウナを実践、最終的には肺炎で死亡。

*40歳前後の段階で、参議・陸軍中将・参謀本部長を合せて月給1,800円にのぼった。
(当時の総理大臣の月給は800円)


■前妻   石川友子  庄屋石川良平の娘
1851-1893 42歳没


■後妻   吉田貞子  芸者〈老松〉 前妻と死別後妾を後妻にする 姉瀧子は男爵益田孝の妾
1873年生


●前妻の子 山県松子  1878年生 船越光之丞男爵と結婚




1918年「山県有朋四天王」
5501


1916年「親分子分一覧表」
1005





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『明治天皇紀』

1890年5月17日
内閣総理大臣山県有朋、内務次官芳川顕正を文部大臣に、特命全権公使陸奥宗光を農商務大臣に任ず。
宗光および顕正を擢任するは、人の多く異数とするところなり。
はじめ有朋宗光を擢抜せんとし、命じて帰朝せしむ。
けだし有朋国会の開設に鑑み、宗光が民間諸党に縁因あり、かつ政党の事情に通ずるをもって、これを閣班に列し議員を操縦せしめんとする意に出でしなり。
しかるに宗光帰朝するや内閣組織すでに成り、宗光を奏薦するの余地なし。
宗光喜ばず、或は民間志士と交わり、或は逓信大臣後藤象二郎と結託す。
有朋その長く閣外に止むべからざるを察し、ついに岩村通俊を罷めて宗光をこれに代えんとす。
有朋また顕正と相善し、すなわち榎本武揚を罷め顕正をもってこれに代えんと欲して、並びにこれを奏薦す。
天皇意やや安んじたまわざるところあり。
有朋に告げて曰く「宗光かつて10年のことあり。人となりにわかに信じがたし。顕正もまたすこぶる衆望に乏し。この二人を擢任する深慮せざるべからず」
有朋対えて曰く「宗光の前罪はすでに消滅せり。今日採用するにあらずんば、民間にありてかえりて政府の妨礙をなすべし。むしろこれを擢抜してその才幹を利用するにしかず。もし反覆することあらば臣その責に任じ、あえて宸慮をわずらわすことなかるべし。また顕正の人となり、臣よくこれを知る。いまだこれに内務を託すべからずといえども、もって文部を託するに足れり。臣よくこれを指揮せん」
天皇ようやくこれを聴したまう。
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『明治天皇紀』

1892年3月19日
天皇曰く、伊藤博文がはじめ政党組織を提唱するや陸奥宗光は大いにこれを賛し、
「共に民間に下り自らその任に当たらん」と言いしが、伊藤がいよいよ辞表を提出するに及びたちまち豹変し、
「伊藤にして政党を組織するも板垣退助の三分の一の勢力をも獲得しがたかるべし」とてその政党組織を困難視し、しきりに嘲弄の口吻を弄せしかば、井上毅これを聞きて大いにその反覆を憤りこれを侍従長に告ぐ。
また去年の議会解散に際しても陸奥ははじめ「解散すべからず」と論じたりしが、
12月24日に至りにわかに「今日中に解散せざるべからず」と松方正義に迫りたる由なり。
また陸奥は内閣において機密の議あるごとにこれを他に漏洩し、改進・自由の両党にも気脈を通ずるもののごとし。
大臣等これを斥けんとするもあたわず、内々山県有朋が「陸奥を簡抜したるは失策なりき」と嘆ずと言う。
もっとも伊藤・井上馨は同人の才幹を愛するの風あり。
陸奥もまた才子なるをもって、内閣のことはもちろん松方の失態を列挙してこれを伊藤に報じ、伊藤にして復職するにあらずんば何事も為すべからずとの意を告ぐるを常とせり。
ゆえに陸奥がいよいよ辞表を提出するに至りしは、大臣等の大いに幸とするところなりき。
しかれどもこの間の事情は互いに知りて知らざるがごとく、陸奥も表面意見合わずと言うをもって辞職せりと。

伊藤と松方とは性質相異なり。
伊藤は才智をもって事を処す、その進歩速やかなるも、時に顛躓し退歩することなきを保しがたし。
松方はこれに対し鈍き方なるをもって、その進歩遅々たるといえども、その進むや確実なり。
要するにこれ両人の天性に帰するをもっていかんともすべからず。
伊藤これを知らざるにあらず。
しかも近時松方を譏り、その矢を数えて寛仮せざるの状あり。松方すこぶるこれを苦となす。
両人の間をしてこのごとくならしめたるは、陸奥が松方の矢を伊藤に告げ、また井上毅・伊東巳代治等が日々内閣の失策、松方の欠点を密かに伊藤に報ずるをもってなり。
伊藤は過日これらの書翰を積み重ねて岩倉具定に示し、その不平を漏らして松方を攻撃せしかば、岩倉も大いに伊藤の大人げなきに驚けることあり。
また憲法論にて井上毅・伊藤巳代治・金子堅太郎3人の意見時に一致せず、松方その決断に悩むものの如し。
松方と伊藤相和し相一致するに至らば可なれども、それ容易に行われがたし。
松方にその意あるも、松方はその方法を過まれり。
もし松方が井上馨と結び、井上馨をして適宜に斡旋せしめば事円滑に行わるべきも、松方は井上馨を好まず、常に山県を撰りてもって伊藤を説かしめんとす。
しかれども伊藤・山県の相善からざること久し。
その傾向近時ますます著しく、相対すれば既に互いに不快の感を生ずと言えり。
ゆえに山県は伊藤との間を周旋しあたわざるなり。
井上毅・伊東巳代治等も今や気大になりて、松方に使役されざるの状あり。
山県の首相たりし時は、井上毅・伊東巳代治も相応に使役せられたりしが、今日はしからざるなりと。
伊藤は松方に対し、箇条書をもってその非違と思うところのものを質せり。
松方朕に奏して曰く「伊藤の為すところ、徳川家康が大阪城に詰問せるごとく、強国の弱国に向かい難問を強示するがごときあり。臣すこぶるその処置に苦しめり」
これにおいて朕は「たとえ辞職のやむなきに至るも、非違は則ち正ざるべからず」と申聞けたり。

後藤象二郎は伊藤博文の政党を組織するを喜ばずして異論を唱うるもののごとし、けだし伊藤はいつにても総理大臣たることを得べく、政権を取るために政党を組織するの要なし。
改進・自由両党が同志をもって組閣し、その主義を実行せんとすることとその事情を異にせり。
これ伊藤の政党を組織せんとする真意を知るに苦しむゆえんなりと言うにあり。
後藤象二郎は伊藤の辞職には反対せるが、その言極めて条理あり、陸奥のごとく反覆の挙動なし。
近時は大いに真面目になりたる風あり。

佐々木高行聖話を拝承し奏して曰く、伊藤の常に我を張り、その跋扈の状実に恐懼に堪えざるところなり。
しかも今日我意を主張する者はひとり伊藤のみに止まらず、はなはだ憂慮に堪えざる景況なり。
この上はこのごとき我を張る者は明治天皇において厳戒して寛仮したまうことなく、万事宸断をもって決定し叡慮して真に国民の間に貫徹せしめば、全国中には誠忠の士・才識の士乏しからざれば自然現出して明治天皇を輔佐し奉るに至らん。
しかれどもこれを急激に望むべからず。
耐忍もって進みたまわば、叡慮を徹底せらるる期のあるべきなり。
伏して乞い願わくは十二分に奮発あらせられんことを。
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万朝報 1898年

益田孝は日本橋区茅場町の別宅に吉田タキ(31歳)なる妾を蓄う。
このタキは新橋板新道にて吉田屋山登といいし芸妓にて、のちその実妹サダに山登の名を譲りて自らは老松と名乗りたるが、18の歳に益田の子を産み落としついに落籍さる。
信世というのがその子なり。
また妹のサダ(28歳)は一時会計監査官中山寛六郎の持ち物となりたれども、ついにその親分なる元帥大将山県有朋に奪われてその妾となり、大将が総理の時には小石川関口水道町に住まわせたるが、征清のはじめには目白台椿山荘の裏門脇に移り住み、その後いつとはなしに本邸に入り込む。
また母のマキは講談師松林伯知を男妾とし、娘二人のお陰にて日本橋上槙町に〈寒菊〉なる待合を開きて豊かに暮らしつつあるが、その亡夫安兵衛は南伝馬町の唐物屋なりしが、日本橋の芸妓歌吉と情死を遂げたり。
タキとサダにはキク(26歳)という妹あり。
キクも姉二人に続いて新橋に現れやはり山登と名乗りいたけれども、今はその母が管理する待合寒菊にありてお客に愛嬌を振りまきおれるが、その旦那は三固商会の番頭にて木村粂市の子分なる松井民次郎なるが、京橋区因幡町眼科専門医ドクトル宮下俊吉も早くよりこの女に関係あるところより、折々寒菊に出かけて旧交を温めつつあり。
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『横から見た華族物語』1932年

山県有朋公爵の第一夫人は友子、第二夫人は貞子であったが、友子夫人を迎える前猛烈な恋の奴隷となったことがある。
相手は松陰門下の野村和作の妹で名をスミコと言った。
この娘に山県公爵がぞっこん惚れ込んで、刀にかけても宿の女房にもらい受けずにおくものかと大変な熱度でせっせと足を運ばせたが、この道には案外臆病であった山県公爵はどうしてもそれを打ち明けるだけの勇気がなく、ぐずぐずしているうちに横合いから伊藤博文公爵が飛び出してまんまとスミコを寝取ってしまった。
伊藤公爵は初めからスミコを恋したのではなく山県公爵に鼻を明かせてやろうという悪戯からやったのだから、一旦はスミコと結婚したが間もなくこれを離縁した。
罪なことをしたものである。
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宮武外骨『スコブル』1917年

「山県有朋も昔は危険思想者」
今は長州閥の巨魁たる元老山県有朋も昔は衣腕に至るの乱暴書生であって、当時における危険思想の人物であったということを『第三帝国』で見た。
その全文左のごとくである。
「山県公の前夫人は下関の郷士石川良平の娘であるが、山県公がこの石川家のお嬢さんに惚れてぜひ宿の妻にと懇望に及んだ時は石川家の親戚一統目を丸くして狂介ごとき乱暴者にどうして可愛い娘がやれるものかとけんもほろろの挨拶であったのを、御熱心の狂介先生 手を変え品を変えての懇望に、石川家でも根負けしてとうとう娘をやることに決めたのだそうだ。
山県公も徳川の天下から見れば危険思想の巨魁・注意人物の筆頭という格であったのだ。
昔のせつない恋を思い出したら、今の無学な刑事巡査どもが政治上の注意人物を追い回して夫婦別れをさせたり、就職口を奪ったりしている弊害だけは改めてやるのが人情というものだ。
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宮武外骨『地獄耳』1917年

山県の女房貞子は新橋の芸妓〈老松〉である
彼女の親は30年前「歌吉心中」とて一時帝都の読売にまでなった日本橋の芸妓歌吉と情死した岡安という商人で、彼女の姉は益田孝の妾で築地御殿の女王である。
同じ姉妹を一人は女房に一人は妾にしても、目白の大御所の御威光は恐ろしい。
益田孝などは山県の前に行っては御前様々々々で、昔の老松今の貞子に頭をピョコつかせている。
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東京朝日新聞 1917年

偶然山県公爵と汽車を同じゅうして東京に帰った若手高等官が語る。
「一木喜徳郎男爵が車中で山県公爵夫人に丁寧に挨拶したよ。それも一度なら不思議もないが、繰り返したから驚いたのさ。公爵夫人と言っても妾じゃないか。一木男爵と言われる人があの態はどうだ。まったく嫌になったよ。ああまでしなければ出世はできんのかね」
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宮武外骨『スコブル』1917年

「日本一の偉い人」
現今日本で政友会の原敬でも国民党の犬養毅でも憲政会の加藤高明でも表面立って盾つくことはできず、寺内正毅も後藤新平も仲小路廉も、さては枢密院の伊東巳代治も金子堅太郎も末松謙澄もみな平身低頭しなけらばならぬのは山県有朋である。
山県は実に日本で一番偉い人であろう。
しかしこの日本で一番偉い山県も、その女房貞子に羽交い締めにされてどんな無理難題でも唯々諾々としているから、貞子こそ日本一の偉い人のように思われるが、その貞子よりも偉いのは貞子のおっ母さんたる講談師松林伯知の女房である。
いくら貞子が公爵夫人と威張ったところが、おっ母さんの前に出てはやはり頭が上がらぬのである。
これでは松林伯知の女房こそ日本一の偉い人であるようだが、元来伯知の女房だから亭主たる伯知には頭が上がらない。
そうして見ると、日本で一番偉い人は松原伯知ということになるではないか。
しかるに伯知は渋沢栄一の贔屓を受けていつも多くの幣帛をもらっているので、渋沢の前へ出ると平蜘蛛の如くである。
そうして見ると、日本で一番偉い人は渋沢栄一だということになるが、渋沢は山県の前へ出ては一文の値打ちもなく、平身低頭で山県を崇拝し奉らねばならぬのである。
そうすると、やっぱり日本で一番偉い人は山県有朋かねー。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

十年一日のごとく山県有朋は〈すり餌〉のような食事。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

近ごろ犬養毅は山県有朋にもてている。
総じて山県の寵を得んとするには、詩を作るとか書を書くとかの資格がなくては駄目である。
だから寺内正毅がしきりに書を稽古するのも、後藤新平や仲小路廉や大島健一が漢詩をひねくるのも、ひっきょうは親分の御覚えめでたからんがためであって、杉山茂丸や大岡育造などまでが幼学便覧式の詩を作るのも、みなこの目的からであるそうな。

されば政党の首領としても加藤高明とか原敬とかいう手合いは、詩一つ作るでなし、字一つ書くでなし、この没風流な所がどうしても山県の気に入らぬわけである。
ところが犬養ばかりはこれに反して、下手ながら字も書くし、詩も作り、山県の趣味に迎合するものがあるので、その御愛顧を蒙ることになったのだそうな。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

内田康哉がロシア大使を止したのは、山県有朋が「内田がレーニンにかぶれて過激派政府を褒めるのはけしからぬ奴だ」と一喝して、外務大臣後藤新平を縮み上がらせたからであるという。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

犬猿の仲→山県有朋と大隈重信
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宮武外骨『地獄耳』1918年

山県有朋の腰巾着は安広伴一郎
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宮武外骨『地獄耳』1918年

曲学阿官の憲法論で山県に飼われている上杉慎吉。
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1927年『お鯉物語』安藤照子・芸者お鯉・15代目市村羽左衛門と離婚・首相桂太郎の妾

明治40年11月、桂太郎公爵の還暦の祝いをすることになった。
先輩の山県公爵はお祝いの品を貞子夫人に命じて、貞子夫人は高島屋に見立てさせて洋風の衝立を選定し、山県公爵もこれを一覧して桂家に持ち込まれた。
衝立は鯉の刺繍がしてある見事な美術品であった。
還暦の祝宴は桂公爵の本邸で催された。
山県公爵もむろん列席された。
桂公爵は山県公爵に「やあ、先日は結構な品をありがとう。鯉がよくできていたまるで生きているようじゃないか」と礼を言われた。
山県公爵は桂公爵と並ぶかな子夫人の顔色を見て、ハッと思われたらしい。
宴果てて目白の屋敷に帰った山県公爵は妙にふさぎ込んで、ため息をついておられる。
「どうも悪いことをした。誠に済まんことをしてしまった」
貞子夫人が「今日桂さんで何か変わったことでもおありになったのですか」と聞くと、
「あの鯉の衝立を贈ったのは悪かった。桂にはお鯉という者があるから、それをワシがイタズラしたように思われては誠に相済まん」
「鯉が出世魚としてめでたいところへ使われることは誰でも知っているし、きっと他からも贈られたに違いない。そんなに気になさることはありますまい」と貞子夫人はしきりに慰めるけれど、果ては「おぬし何か他の品と取り替えてきてくれ。いつまでも残る品じゃからな」
あまりしつこいので、貞子夫人もとうとう腹を立てずにはいられなくなった。
「あなたがそれほどまでに心配されるのは、お鯉さんという者が桂さんのところにいるためなんですか」
「そうじゃ」
「お鯉というのは商売をしていた時の名です。今はお照さんと言うのです。あなたがそれほどまで頭をお使いになって悩まれるのは、あの人が妾であるからでしょう。あなたほどの人がそういう考えを持っておられるなら、私も少し考えねばなりません。いったい私にしろお鯉さんにしろ、もとより同じ女で、普通の人以上に苦労してお尽くししているのです。それでいて少しでも間違いがあれば、世間から目の敵のように悪く言われるのです。その上せっかくお尽くしして上げている相手の方からまで妾と蔑まれるのは、誠に情けないことです。あの衝立は返してもらいましょう。私もお暇をいただきます」
三十六計逃ぐるを上計としたものであろう、外出する用事のあったのを幸い、乗物を命じた。
もうほとぼりも冷めた時分と帰ってみると、驚いたことに貞子夫人の姿が見えない。
行き先は尋ねるまでもない、小石川水道町の貞子夫人の自宅に違いない。
この家ははじめ貞子夫人のために造られたのであるが、その後正夫人が亡くなり、貞子夫人が本邸に移り住むことになったが、水道町の家はそのままになっていたのである。
翌朝山県公爵は電話口にお鯉を呼び出した。
「おぬしのことから言い合いが始まって、お貞は水道町の家へ行ってしもうたよ。夕べも帰らなんだ。おぬしのところへも行くじゃろうが、なにぶん心配を頼みたい」とのことである。
山県公爵が夫人を失われてから20何年、貞子は17~18の時から山県公爵に仕えて、身の回りのお世話に心を砕いている。
山県公爵の羸弱な身体は養生で保っていたようなもので、朝夕の世話は決して容易なものではない。
ほうれん草をすりつぶして目方を計って膳に供すなどいう世間の噂も、嘘ではないらしい。
お鯉は水道町の貞子夫人を訪問した。
貞子夫人にしてみれば自分もお鯉同様、たとえ卑しいところから身を起してもという自尊心がある。
国家のために尽くされる人のために、身も心も捧げて御奉公しているという誇りをもって、ずいぶんつらい窮屈な思いをしてきている。
そこら辺りの成金の妾とは大いに違っているという腹がある。
「私は他のことはどうでもよろしいとします。ただ相手の方に認められないというのが何より嫌なことです。卑しめられてお尽くししても、何にもならぬことです。あなただって同じことです。もう辞めようじゃありませんか」
江戸の商人の相当の家に生まれて、負けじ魂をふんだんに持っている貞子は、ここに至って世の妾という者の全体を代表しての憤慨である。
鼻息の荒いのも無理はない。
気強く見えても女同士、話は愚痴話に落ちてハンカチを目に当てるようなことになり、貞子夫人も素直に目白にお帰りになった。
問題の鯉の衝立は他の品と取り換え、山県邸へ返納ということで一件落着した。

明治41年のある日、山県公爵と貞子夫人・桂公爵とお鯉と4人四方八方の話の末、貞子夫人は「あなた方はいったい私たちを何と思召しておいでになるのでしょう。世間では私たちはあなた方のお傍で栄耀栄華を尽くし、気ままな生活をしているように思われてますが、それは事実とまったく違ったことで、決められた費用で窮屈な生活、八方へ気がねして屋敷の出入にまでいちいち家令の元へ届け出る状態。自由ということがありません。そのうえ手の上げ下ろしにも世間の非難を受ける有様です。それだのに始終『お前たちはなるべく目立たぬようにするがいい』とおっしゃる。私たちは隠れておらねばならぬような悪い事は致したことがございません。これでも国家に尽くしておいでになるあなた方のためにお尽くしして、国家のために尽くしているつもりなのですから、あなた方に国家から勲章をお下げになるなら、私共にも小さいのぐらい下さってもよいぐらいに思っています。妾というものが悪いならば、その悪いものをお置きになる方々が間違っているのではないでしょうか。妾がどうしても悪いもので隠れてでなければ置けないと言うのでしたら、妾はおやめになって、お置きにならない方がいいでしょう。私共女がみなさんのように何でもおしゃべりができるおのなら、議会に出していただきたいと思います。一番先にこの問題を出して解決してもらいたいと考えております」
それ以来両英雄は、少し難しい問題に引っかかると、「お貞とお鯉は三百代言だから、とてもかなわんよ」と嘆声を発する。
少しなにか理屈らしいことを言うと、すぐ「それ、三百代言が始まった」と苦笑されたものである。
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『明治大正名妓物語』1929年

浜の家女将お花←芸者小浜

山県有朋さんは陰気な方でしたがね。
それでも相当に女好きでしたよ。
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木戸幸一侯爵 木戸孝允の孫

伊藤博文と山県有朋はしょっちゅう対抗していた。
同じ長州出身といっても、必ずしも一致してはおりませんでしたね。

伊藤さんという人はあれだけいろいろの活躍をした人だけれど、いわゆる派閥というものを持っていなかった。
その点は実に融通無碍なんだな。
とても朗らかな人でね。
そこへいくと山県さんはなかなか陰険で、ガッチリと自分たちの仲間を作る。
これは陸軍が背景にあったからでもあるんでしょうが、いわゆる長州閥のボスは山県さんですよ。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

元老山県有朋はいつも通常軍服を着ていた。
外套を着ている時には必ずその特別に広い外套の衿を立て、まるで顔を隠すように帽子を目深にかぶり、両手はポケットに突っ込んだまま長い軍刀を引きずるように歩く人であった。
これは宮中でも同じで、うつむきながらほの暗い宮中の廊下を一人歩いて行く様子には、どこか孤独な感じがあった。
他人を圧しつぶすようにしてまっしぐらに軍国主義の中心を走り、功成り名遂げついに権力を握ったものの、なんともいいようのない孤独を感じたものであった。

山県元老は明治天皇にはあまり信任されていなかったように思われる。
信任という言葉には語弊があるが、あまり御好感を持たれていなかったのは事実のように思われる。
伊藤博文公爵が朝鮮総督になって枢密院議長の席を去った時 その後釜に山県元老が座ったのであるが、それまで欠かさず臨御になっていた毎週行われる枢密院の定例会議に明治天皇はあまりお出ましにならなくなった。
もっとも大して御下問になるようなこともなかったのであろうが、伊藤公爵が朝鮮から帰って来て山県元老に代って再び枢密院の議長になると、また欠かさず臨御されるようになったのはどう解釈すべきであろうか。

維新の三傑と言われた西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通が早く世を去った後、山県元老が大きく明治天皇に近づいたわけであるが、あのいかにも利口ぶった顔つきを明治天皇は決して快く御思いにならなかったであろう。
明治天皇は最後まで古い黒の肋骨の軍服を着通されたが、このことだけでも明治天皇と山県元老は人間として異質のものであったと思われるのである。

確かに山県元老は誰にも好かれなかった。
人を威嚇するような態度をよく出すのがその原因であったかもしれない。
山県元老はまたよく葡萄酒を飲んだ。
しかしそれが普通の酒飲みによくある人にも飲ませて喜ぶというではなく、独り酒を飲むといったふうで冗談一つ言わなかった。
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◆2代公爵 山県伊三郎 初代公爵山県有朋の甥・山県有朋の姉の子
1858-1927 68歳没


■妻  加藤隆子  加藤弘之男爵の娘
1867-1931 64歳没


●長男 山県辰吉  1888年生 3代公爵山県有道
●三男 山県三郎  1891年生
●四男 山県吉朗  1893年生 勝津荘太郎の養子になり勝津吉朗となる
●六男 山県五郎  1897年生
●七男 山県七郎  1906年生

●長女 山県清子  1885年生 三井物産重役田中文蔵と結婚
●三女 山県寿美子 1894年生 竹屋春光子爵と結婚


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宮武外骨『地獄耳』1917年

前ドイツ公使船越光之丞の女房になっている山県有朋の前妻の娘は、いま山県公爵家の女王として我が物顔に切り回している芸妓あがりの貞子とそりが合わない。
それから山県の養子伊三郎もその夫婦とも貞子を侮って「あの売女が」という風だから、円満にいかない。
山県有朋の心配は寺内内閣よりもむしろその家庭にあるという。
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宮武外骨『地獄耳』1917年

朝鮮副統監山県伊三郎は少年時代から低能児として歯する者はなかった。
ただ屁を放ってロウソクの火を消すことだけには妙を得ていたので、友達仲間から「伊三公のロウソク屁」と言われていた。
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四竃孝輔『侍従武官日記』海軍中将

1923年2月23日
山県伊三郎公爵、朝鮮総督府に政務総監たりし頃、蘭の大家について蘭画を学び、今日なおその技を研かれつつあり。
蘭画極めてみごとなるものあり。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

山県伊三郎の娘なる竹屋寿美子というのは松平春嶽の孫たる竹屋春光の女房だが、学習院に在学中は学力劣等でとても卒業ができぬため別科という名にして卒業させたものである。
ところがこの御亭主の竹屋春光も春嶽の血筋とはいいながら、学習院時代から有名なおめでたい方であった。
今度貴族院議員に当選したのも山県有朋が左右の者に、「竹屋もああしておいては困る」と慨嘆したのが、さっそく御意に協うようになったのだという。
低能児ぞろいの貴族院議員当選中、竹屋春光と大浦兼武子爵の息子兼一とが際立って目立つ大々的低能児だという。
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◆3代公爵 山県有道 2代公爵山県伊三郎の子 
1888-1945 57歳没


■妻  前田鞭子  前田利同伯爵の娘 学習院出身
1895-1965 70歳没


●長男 山県有信  1918年生 4代公爵

●長女 山県美枝子 1917年生
都築忠春男爵と離婚・岡山電気軌道社長日笠祐太郎の子日笠百勝と再婚
●二女 山県美智子 1923年生 大丸社長北沢敬二郎の子北沢仁と結婚


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『木戸幸一日記』内大臣※当時は文部大臣

1937年10月11日
藤井清子夫人来訪。
都築忠春男爵の夫人離婚云々の件につき、相談を受く。
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◆4代公爵 山県有信 3代公爵山県有道の子
1918-1974 56歳没


■妻  今成睦子 衆議院議員今成留之助の娘
1924年生


●長男
●長女
●二女


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『岡部長景日記』文部大臣※当時は内大臣秘書官長

1930年4月7日
高松宮夫妻の洋行の随員となった山県有信君が、予の含みまでにとて「儀式課長の職は興味をもってこれに当りおることゆえ、自分の将来につき贔屓して次長その他の職を与えらるるより、何年でも課長の職を執らせてもらう方希望に堪えず」と目に涙を浮かべて感に迫って胸襟を吐露されたので、予も思わず頷いた。
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◆初代公爵 山県有朋 山県三郎有稔の子 総理大臣
1838-1922 83歳没

*身長171センチ

*生まれつき健康だったが、青年期にリウマチを患う。

*中年期からは胃腸病に悩まされる。

*健康オタクで海水浴やサウナを実践、最終的には肺炎で死亡。

*40歳前後の段階で、参議・陸軍中将・参謀本部長を合せて月給は1,800円にのぼった。
(当時の総理大臣の月給は800円)


0131


1869年 カメラ:上野彦馬
0100


1869年
0101


1889年 ベルリンで
0115


1904年
0109


1908年 古希庵で
0111


1921年
0112



■前妻 石川友子 庄屋石川良平の娘
1851-1893 42歳没

0127


8063(1)


0200(1)



■後妻 吉田貞子 芸者〈老松〉 前妻と死別後妾を後妻にする 姉吉田タキコは益田孝男爵の妾
1873年生


左:川上貞奴 右:貞子夫人


0200(2)




1009



●前妻の子 山県松子 1878年生 船越光之丞男爵と結婚


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◆2代公爵 山県伊三郎 初代公爵山県有朋の甥・山県有朋の姉の子
1858-1927 68歳没


ベルリンで
1013





■妻  加藤隆子 加藤弘之男爵の娘
1867-1931 64歳没

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●長男 山県辰吉  1888年生 3代公爵山県有道
●三男 山県三郎  1891年生
●四男 山県吉朗  1893年生 勝津荘太郎の養子になり勝津吉朗となる
●六男 山県五郎  1897年生
●七男 山県七郎  1906年生

●長女 山県清子  1885年生 三井物産重役田中文蔵と結婚
●三女 山県寿美子 1894年生 竹屋春光子爵と結婚


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◆3代公爵 山県有道 2代公爵山県伊三郎の子 
1888-1945 57歳没


■妻  前田鞭子  前田利同伯爵の娘 学習院出身
1895-1965 70歳没

1025(1)



●長男 山県有信  1918年生 4代公爵

●長女 山県美枝子 1917年生
都築忠春男爵と離婚・岡山電気軌道社長日笠祐太郎の子日笠百勝と再婚
●二女 山県美智子 1923年生 大丸社長北沢敬二郎の子北沢仁と結婚


●山県美枝子&都築忠春 元夫妻
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●女子(名前不明)
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◆4代公爵 山県有信 3代公爵山県有道の子
1918-1974 56歳没


■妻  今成睦子 衆議院議員今成留之助の娘
1924年生

1014


1015



●長男
●長女
●二女


山県有朋の玄孫・山県有信の娘
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