直球和館

2025年

2022/01

◆初代侯爵 大久保利通 内務卿・大蔵卿
1830-1878 47歳没*暗殺

*身長175~178センチ・体重65~70キロ

*ニコチン中毒・カフェイン中毒・漬け物好き。

*慢性胃痛・慢性下痢あり。

*頭頂部に円形脱毛症があり、毎日長時間かけて整髪していた。


1868年
2000


1872年 パリで
2508


1872年 ロンドンで
2509


1872年 サンフランシスコで
2026


1872年 ワシントンで
1000



■妻  早崎満寿子 士族早崎七郎右衛門の娘
1840-1878

2001



★妾  杉浦勇   京都の芸者〈おゆう〉


※利通は本妻&実子は本邸に、おゆう&庶子は高輪別邸に住まわせていた。


●実子 大久保彦熊 2代侯爵大久保利和となる
●実子 大久保伸熊 牧野伸顕伯爵となる
●実子 大久保三熊 3代侯爵大久保利武となる
●庶子 大久保達熊 大久保利夫となる
●実子 大久保雄熊 石原雄熊となる
●庶子 大久保駿熊 税所篤一子爵の娘税所サワコと結婚
●庶子 大久保七熊 恩地順之助の娘恩地コキンと結婚
●庶子 大久保利賢 高橋是清子爵の娘高橋和喜子と結婚→子はロッキード事件で逮捕された利春

●実子 大久保芳子 伊集院彦吉男爵と結婚


1891年 左から
小が利賢・大が駿熊・雄熊・男性・利和・芳子・七熊・牧野伸顕・利夫
2028



立つ左から 雄熊・利武・利賢・七熊
椅子左から 牧野伸顕・芳子・利和
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1900年 ウィーンで 左から
利武・伸顕の子伸通・牧野伸顕・伸顕の妻峰子・雄熊
2302



カメラ:丸木利陽
後列6人左から
伸顕の妻峰子・利武・牧野伸顕・利賢・利和・雄熊
前列4人左から
利武の妻栄子・利和の妻尚子・おゆう・伸顕の娘雪子
2009



カメラ:丸木利陽
後列5人左から
利武・牧野伸顕・利和・芳子の夫伊集院彦吉・男性
前列4人左から
芳子・利和の妻尚子・おゆう・利武の妻栄子
2010



1935年
後列5人左から
女性・女性・イトコ山田三次郎・イトコ石原助熊・女性
中列4人左から
伸顕の妻峰子・利武の妻栄子・女性・女性
前列5人左から
利賢・利武・利和・牧野伸顕・芳子
2020



1937年
後列8人左から
女性・女性・女性・女性・利謙・牧野伸通・利賢・イトコ石原助熊
前列9人左から
芳子・伸顕の妻峰子・利和・牧野伸顕・女子・利武・女子・女子・利武の妻栄子
2021



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◆2代侯爵 大久保利和 初代侯爵大久保利通の子
1859-1945 86歳没

留学中 フィラデルフィアで 
1035(1)


1879年 22歳
0022



■妻  重野尚子 重野安居の娘
1875-1918 43歳没

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◆3代侯爵 大久保利武 初代侯爵大久保利通の子
1865-1943 78歳没

*米エール大学・ドイツの大学に留学


1891年 ドイツ留学中
2003


1902年 カメラ:小川一真
2002



■妻  近藤栄子  近藤廉平男爵の娘
1879-1956 77歳没






●長男 大久保利謙 4代当主
●二男 大久保利正 慶光院利敬の娘慶光院治子と結婚
●三男 大久保通忠 山口金太郎の娘山口澄子と結婚


1938年 大久保通忠&山口澄子の結婚式
後列6人左から
男性・男性・利賢・利謙・男性・利正
中列8人左から
女性・女性・女性・女性・女性・利正の妻治子・利謙の妻八重子・利賢の妻和喜子
前列8人左から
栄子夫人・大久保利武・仲人男性・新郎・新婦・仲人女性・山口金太郎・山口の妻
2024



後列5人左から
通忠・通忠の妻澄子・利正の妻治子・利正・利謙
前列4人左から
栄子夫人・利泰・大久保利武・羽原又吉
2022



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◆4代侯爵 大久保利謙 3代侯爵大久保利武の子
1900-1995 95歳没




■妻  米田八重子 米田国臣子爵の娘
1910年生

1088(2)



●長男 大久保利泰 次代当主

●長女 大久保成子


1939年 大人3人左から 父利武・大久保利謙・母栄子
2023



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◆当主 大久保利泰 4代侯爵大久保利謙の子
1934年生




■妻  松平尚子  大給松平悌の娘


●長女

■東京本邸 豊多摩郡戸塚町 4,230坪


■東京本邸 庭園
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■小田原別邸 3千坪
2028(2)


2028(1)



■大磯別邸「磺龍居」4千坪
2002(1)


2002(2)


2000



■軽井沢別邸


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◆初代侯爵 大隈重信 佐賀藩士の大隈信保の子 「佐賀の七賢人」の一人 総理大臣
1838-1922 83歳没

*あだ名は「大風呂敷」・陽気な性格から「百ワット」など

*身長180センチ

*生まれつき健康だったが、61歳の時に爆弾テロにより右足を切断、義足となる。

*晩年は胆石症が持病となり、膀胱炎の診断を受けた翌年に死亡。




■前妻 江副美登 大隈重信と離婚・士族大塚綱領と再婚
1843-1912




■後妻 三枝綾子 幕臣三枝七四郎の娘・柏木貨一郎と離婚・大隈重信と再婚
1850-1923 73歳没

*「大風呂敷」と言われた大隈も綾子夫人には頭が上がらず「うちの番頭」と呼んでいた。
大隈は大学構内に綾子夫人の銅像を建てようとして学生の猛反対にあう。




●前妻の子 大隈熊子 1863年生 婿養子を迎える

●庶女   大隈光子 1884年生 婿養子を迎え2代侯爵とする




1916年「親分子分一覧表」
1001



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『原敬日記』総理大臣※当時は政友会総裁

1914年6月29日
要するに大隈重信は人をそらさずして、しきりにホラを吹くまでのことなり。
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『原敬日記』総理大臣

1920年8月4日
下田歌子などより漏れたる説によれば、大隈重信など節子皇后〔貞明皇后〕に拝謁の際は政府の悪口まで申し上げるらしき様子なるが、思わざる甚しきものなり。

1920年8月10日
下田歌子来訪。
「節子皇后常に仰せには、『世上のこと当局者より聞けば別段のことなきようなれども、いろいろ他の者より言上することあり。その真相を判断するに苦しむ』とのお仰せありとて、例の大隈重信系や官僚系が政界もしくは政府のことにつき云々することを暗示せり。

1920年6月18日
※元老山県有朋の発言

老松方正義が「大正天皇御病気につき摂政を置かるることに決定を要す」と言うに、
自分は「それは重大のことなり。御病気には相違なきも、摂政を置かるることとなるには前もって節子皇后をはじめ皇族方のお考えも承らざるを得ず、また大隈重信のごときしばしば拝謁もなしおるにつき御病はさることにはあらずと言わんもしれず、かくては実に重大なる事件を惹起する恐れあり」とてこれを止めたり。

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『原敬日記』総理大臣

1921年2月9日
下田歌子来訪。
「色盲云々〔某重大事件〕につき『山県の陰謀によりて御変更の企をなしたるものなり』との誤解はなかなか深く入りおれり。皇族方内部にも注入多く、女官等にも入りおるらしく、また薩派はやっきとなって運動せり。山本権兵衛なども固く主張し、また大隈重信にもいろいろ注入しおるらし」と言えり。
山本・大隈は親密の関係にあらざれども山県を排斥する一点においては一致すべき事情なれば、さようのこともあらんかと思わる。

1921年2月25日
法制局長官横田千横田来訪。
「伊東巳代治が大隈重信と組んで陰謀をなしおる様子なり」と言えり。

1921年9月7日
元老松方正義を訪問。
「大正天皇の摂政問題の遺憾ながらやむを得ざること、裕仁皇太子〔昭和天皇〕目下の御人気によるもこの際異論あるべしとも思わざれば、まず元老諸公の議論を固め10月ともならば挙行しかるべし」と提案し、松方もこれに同意す。
また「これらのことに対してあえて異議を言う者ありとせば大隈重信ならん」と言いたるに、
松方は「大隈には自分往訪してその趣旨を告ぐべきつもりなり」と言えり。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣

1922年1月5日
大隈重信、病重しとの電報数通到達す。

1922年1月8日
高橋是清内閣の三土忠造内閣書記官長より、「大隈重信の陞爵につき元老一致賛成。内閣においては特に数うべき功績なきも、維新以来の元勲なるをもってこれを提議する内定なるをもって、宮内省において含み置かれたし」とのことなり。

貴族院議員桂次郎の依頼により貴族院議員鍋島直明が同じく大隈重信の陞爵の件で来る。
山県元老は入江貫一をもって、西園寺元老は桂次郎自身、松方元老は平山成信をもって説きたるに、いずれも同感を表し、内閣もこの議を採用して宮内省に交渉すべきにつきよろしく頼むとの趣旨なり。

万一の場合は頸飾章・位階の詮議にて適当と見込みおりたるに陞爵のことは考えざるところ、多少意外の感を起せり。
元老の賛成も実際の程度、やや疑わしきところもあり。

1922年1月9日
西園寺元老を訪問。
桂次郎と談話の要領を述べらる。
「陞爵に対しては自分としては別に異存なしと答えたり。その旨を松方元老に告ぐるも差し支えなし。しかし公爵・侯爵あたりの身分者につき運動やかましきことは甚だ面白からず。自分も賛成せず聞くだけに止め置く方よかりし」と後悔の意味を述べらる。
要するに西園寺元老の真意は賛成にあらず、その場に臨み多少軽率に同ぜられたるは遺憾なり。

1922年1月10日
松方元老を訪問。
松方元老は「過日平山の来談に対し、『自分は陞爵については進んで可否を言うを好まず。山県元老の意見に任せたし。山県元老の判断するところに異存なし』と述べたるが、実は進んで陞爵を提議する意思なし。大隈侯爵は侯爵後数年ならず、このあいだ特に表賞すべき新奇の事蹟を認むることあたわざるがごとし。ことに公爵は極位なり。慎重に考慮すべきものと考う」云々。
小生は「自分宮内大臣として今回陞爵を申し立つる意思はなかりし」と言いたるに、松方元老も同感の旨を述べらる。
帰京して意外の事実を発見したり。
それは内閣側において既に頸飾章を申し立て、裕仁皇太子〔昭和天皇〕の御裁可済なりしことなり。
陞爵は中途より起こりたる新たなる問題なりしなり。
この点については内閣側の意向は如何なりしか。
あるいは考慮及ばざりしかとも推測す。
こと甚だ紛糾し、一方においてはこの上喪を秘すること困難なるにつき、速やかに発表の必要に迫りおれるにつき、もはや断然の処置をなすの他なく、結局内閣より陞爵の申請を握りつぶすこととして、位勲だけの発表を交渉せり。
内閣も別に異議なくその手続きをなし、もって本件を結了せり。
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岩淵辰雄 近衛文麿のブレーン

近衛内閣の一般の人気は湧くようであった。
五摂家の筆頭である青年貴族の近衛が首相になったということが、何かしら新鮮な感じを国民に与えたのだ。
ことにそれが林銑十郎のような憂鬱な内閣の後だったので、いっそうフレッシュな感じを近衛に対して抱かせた。
ちょうど大正の初頭に大隈重信が早稲田の草廬から起き上がって内閣を組織した時の人気に似て、しかもそれ以上に人心に明るい感じを与えて人気を沸騰させた。
近衛があの弱々しい感じの口調でラジオの放送などすると、政治に無関心な各家庭の女子供まで「近衛さんが演説する」と言って大騒ぎしてラジオにスイッチを入れるという有り様だった。
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『明治大正名妓物語』1929年

浜の家女将お花←芸者小浜

その時分におとめ按摩というのがありましたっけ。
なにしろ飛びぬけた美人で、それで親孝行というんですから、ずいぶん流行ったものでした。
呼ぶと、「今から○○さんへ行って、□□さんに回って、それからお伺いします」と言うんです。
たいてい1カ所で2円ぐらいはもらいましたでしょう。
その格好ったらありませんや。
夏になると透矢帷子を素肌に着て出るというのです。
芸が無いもんですから按摩になったというんですが、この按摩は按摩より按腹の方が本職です。
このおとめ按摩を始終呼んで変な按腹をしてもらったのが、伊藤博文さん・大隈重信さん・井上馨さんてな御連中でした。
いの一番が伊藤さんですから、ずいぶん若い時分からはしっこかったものです。
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宮武外骨『地獄耳』1916年

犬養毅は往年大隈重信第一の子分であったのが今日では犬養と感情を異にし、したがって子分の色彩不鮮明となった。
また関和知・紫安新九郎・小山谷蔵等の如き政界の陣笠で大隈の子分は多くあるが、この程度の子分はいちいち名を挙ぐるの煩に堪えないからすべて省く。
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宮武外骨『地獄耳』1917年

大隈重信は「人間は毎日300目の鰻を食って朝夕2度入浴すれば、125歳まで生き得られあるんである」と言って、それを実行しているそうな。
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宮武外骨『地獄耳』1917年

男が女に翻弄されて恥をかくのは古今を一貫している。
大隈重信も内閣に居座って侯爵になるつもりはなかったのであるが、女房綾子が旧藩主鍋島侯爵の奥方と婦人会なおで一緒になる時 伯爵では侯爵よりも肩身が狭いので、これがくやしいばかりに80の爺さんを口説きおとして、あのようなボロを出させたのである。
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宮武外骨『スコブル』1918年

「あるんであるの心理的研究」
長広舌で有名な大隈重信は、語尾に必ず「あるんである」とつけることに決めていると聞くが、単に「ある」と言ってよいのを「あるんである」と余計に重ねるのは、何かそこに心理的原因がなければならぬはずだ。
東京の長屋住まいなどしておるおかみさん連中の言葉に「どうかヨロシク、どうか」と言うことをよく聞くが、それは口先ばなりで心の底に感謝の意を持っていない軽薄の言である。
また他人の話を聴いて「なるほどなるほど」「いかにもいかにも」と言うなども、口先ばかりで真に感服した表示ではない。
この心理状態から推考すると、大隈の「あるんである」も怪しいことになる。
「国家百年の長計、これ予が高遠の理想であるんである」と言っておるが、実は官職利用で儲けた富を子孫百年に伝えんとする私欲にすぎない。
「政治は予の生命であるんである」と言うといえども、何ら経綸の実現はなく、山県輩の誤託に反抗する勇気もなくて、官僚政治を復活せしめたではないか。
このほか彼が政治上の新意見として多年の間しゃべった事実は千百をもって算するほどあるが、一つとして実行実現されたことはなく、今や天下の人士は「大隈の大風呂敷」と蔑視して、彼の言説を無価値とするに至っている。
されば彼があるんであるとあえて重語をするのは、自己に信念なき軽薄・虚偽・騙瞞の言説を信用せしめんとしたアクセントであると論断せざるを得ない。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

大隈の先妻は佐賀の名族江副家から来たので賢婦人であったが、小姑にいじめられてしばらく里に帰っていた。
仲裁人は入り大隈家に帰るということになり帰ってみると、小間使いとして雇い入れてあった女が大いに寵をほしいままにしているので自ら離縁を宣言して去ったが、その小間使いが今日の綾子夫人である。
綾子夫人は旗本三枝家の娘と言っているが三枝家にも大三枝・小三枝というのがあって、綾子夫人の親元は三枝家でもその端くれの小身微禄で、維新後一家没落して綾子は遊船宿の養女にまでなっていた。
綾子の初めの夫柏木某はどこかの役所の腰弁であったが、相場に失敗して鉄道往生をしたそうだ。
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宮武外骨『スコブル』1917年

「騒動の裏に女あり」
昔からお家騒動の裏面には必ず女が伏在しているものであるが、大正の今日 早稲田大学の騒動にもやはり女が陰になっているとは、今さらながら閨門の勢力の大なるに驚かざるを得ない。
今度の騒動の表面の立役者はむろん高田・天野の両人であるが、その陰に隠れて秘かに彼らを煽動したのは大隈綾子夫人である。
近刊の『日本及日本人』の「早稲田騒動の人々」と題せる記事中にも「西太后のあだ名ある綾子婆さんの出しゃばり、婆さんの親戚筋なる三枝某のワガママ、知恵のないくせに野心の強い劣等な人格の信常の干渉などが因となり果となってこんがらがった騒動」とあった。
綾子は元来官僚的の女で虚栄に憧れること深く、今度の騒動も自分の養子たる信常を早稲田大学の総長にしたいという野心から出たのである。
すなわち高野・天野の両人にケンカをさせ結局喧嘩両成敗として両人を首切り、その後任として大隈家の幇間たる早大法科教授阪本三郎を学長にすえ、おもむろに時機を待って重信に引退させ、その代りとして信常を総長に押し進める考えであった。
さきに綾子の銅像を構内に建てることに反対した少壮教授連を免職にしたのも、むろん綾子の差し金である。

阪本三郎は小学教員あがりで一時は大審院判事であったが、無能な故をもって免職されしばらく浪人でいたのを大隈に救われて県知事になったが、それもつかの間で今は早大法科の教授である。
彼は無能のくせに野心が深く、先年ドイツで博士号をもらったのにはドイツのある売文社に頼んで博士論文を代作してもらったのであった。
恥さらしの男ではないか。
親族法の講義などでその無能を知っている学生らは阪本が学長と聞いて強硬に反対し血を見るまでの騒ぎが起ったので阪本はやむなく辞することになったが、その後釜に擬せられたのが讃岐高松の馬鹿殿様松平頼寿である。
これは調停者の中野武営が旧藩士であるところから引っぱってきたのでもあろうが、これも大隈綾子の魂胆である。

松平頼寿は信常の実家松浦家の縁族であり、また早稲田大学の出身であるという縁故からであるが、これもおっては馬鹿な信常を総長にすえることに便宜であるがためにほかならなかった。
松平頼寿は大の低能児なので帝国大学へはむろん行けず学習院へも入れないので、親族の縁故でやっと早大卒業ということにしてもらったのであるという。
ところがいかに調停者たる中野・渋沢らの推挙だとはいえ、民本主義を唱える学校の学長に田舎の馬鹿殿様をすえるとはけしからぬと息巻く者が多かったのでこれもおジャンになって、結局は当分は学長なしということで姑息のケリはついたらしいが、おっては再騒動が起こるであろうし、綾子婆さんがどんな知恵をしぼってどんな魂胆を巧むか、その大詰めは猫騒動の講談でも聴くつもりでゆるゆる待つのも一興だろう。

早稲田騒動は後藤新平が憲政派の中堅たる大隈党に打撃を与えるつもりで学生を煽動したのは事実で、その事実はあれほどの大騒動を警察が袖手傍観でいたのでも証明されている。
小池国三が学生の騒動費に6千円寄付したのもその筋からの関係からであって、株屋あがりの彼が学生に同情するはずがない。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

犬猿の仲→山県有朋と大隈重信
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宮武外骨『地獄耳』1918年

大隈重信の腰巾着は市島謙吉。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

大隈重信の『大観』もその左右にいる城狐社鼠の連中がこの雑誌を食い物にして、しきりに富豪や成金に御用金を仰せつけるので評判悪しく、『大官僚雑誌』だと言われています。
初号巻頭に主筆五来素川が「来るべき階級戦争」というのを書いたのが大隈侯爵家の大問題となり、「あんな社会主義的なものを書いては危険思想と間違えられる恐れがある」と、大変ドサクサがあったそうです。
将来の公爵夫人を狙っている綾子婆さんまでが出しゃばったので、騒ぎがいっそう大きくなりました。
五来素川もこれくらいは察しがなくては、大隈の御祐筆は務まりますまい。
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■夫  大隈英麿 盛岡藩主南部利剛の子・婿養子になるが離婚
1856-1910

*英麿は旧藩士にだまされ多額の借金を作ってしまい離婚に至る。


■妻  大隈熊子 初代侯爵大隈重信の実娘
1863-1933


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◆2代侯爵 大隈信常 松浦詮伯爵の子・婿養子になる
1871-1947 75歳没


■妻  三枝光子 初代侯爵大隈重信の庶女/三枝守富の養女 
1884-1946


●長男 大隈信幸 1910年生 4代当主

●長女 大隈豊子 1904年生 学習院出身 広沢真吾伯爵と結婚




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宮武外骨『地獄耳』1918年

大隈常信の女房は戸籍面は綾子の兄三枝守富の娘ということになっているが、実は大隈重信が小間使いに夜這いしてこしらえた落し胤という。
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宮武外骨『地獄耳』1917年

ホラ侯爵の愛婿大隈信常は家庭では真面目くさった顔をしていても、毎晩8時頃になると散歩に出ると称して神楽坂に遊びに行くが、11時頃になるとそっと帰るから誰もその事を知らないでいるそうな。
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宮武外骨『地獄耳』1917年
大隈の若殿信常は花柳界で「蛸常」のあだ名がある。
蛸はむやみに吸いつくので、それから取ったのである。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

ロンドンには日本人ばかり相手にする淫売屋カスタムハウス(税関)とあだ名される一団がある。
これはロンドンに来た日本人は是が非でも一度はこの女どもの厄介にならねばならぬので、カスタムハウスと付けたのだ。
大隈家の養子信常は日露戦争が開かれると、早稲田大学から大急ぎで英国留学にやられた。
このとき彼は徴兵の猶予年限も過ぎて検査を受けねばならぬ時であったが、大隈家のためというので高田・天野の取り計いで徴兵逃れに外国に行ったのだ。
信常はまずカスタムハウスを通過せねばならぬというので、前記の淫売婦に引っかかって馬鹿な金銭を使ったものだ。
そしてこの淫売婦に2人の子を産ませたが、彼が日本に帰るというとき多くの養育料を取られたうえ、いつか信常を訪ねて日本に行くという手紙が来た時などはビックリして少なからぬ金銭を送り、それを中止させたそうである。
もっともこの2人の子供は実は信常の子ではなく、他の留学生の奸策から信常をしぼるため女を煽てて狂言を仕組んだものだという。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

大隈信常の腰巾着は浅川保平。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

犬猿の仲→永井柳太郎と大隈信常
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宮武外骨『地獄耳』1918年

早稲田騒動以来犬猿の仲になっている大隈信常と永井柳太郎が、一方は支那漫遊一方は南洋行きで支那で鉢合わせがおもしろかったという。
同じ船同じ汽車に乗っても双方少しも口を利かずにらみ合っているので、大隈随行の横山章などは中に立って弱ったということだ。
大連などで「小大隈きたる」と大きな標題で新聞に出ているので、うぬぼれ強い信常は自分のことかと読んでみると、あにはからんや目の敵にしている永井のことであったので怒髪天を衝いたそうな。
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◆3代 大隈信幸 2代侯爵大隈信常の子
1910-2004 93歳没


■妻  久原馨子 衆議院議員久原房之助の娘 双葉女学校出身 
1916年生


●長女
●二女
●三女

◆初代侯爵 大隈重信 佐賀藩士の大隈信保の子 「佐賀の七賢人」の一人 総理大臣
1838-1922 83歳没

*あだ名は「大風呂敷」・陽気な性格から「百ワット」など

*身長180センチ

*生まれつき健康だったが、61歳の時に爆弾テロにより右足を切断、義足となる。

*晩年は胆石症が持病となり、膀胱炎の診断を受けた翌年に死亡。


カメラ:内田九一
2010


1868年
2011


2040


2008


1889年 暗殺未遂の直後
6007


2009


2024



■前妻 江副美登 大隈重信と離婚・士族大塚綱領と再婚
1843-1912


■後妻 三枝綾子 幕臣三枝七四郎の娘・柏木貨一郎と離婚・大隈重信と再婚
1850-1923 73歳没

*〈大風呂敷〉と言われた大隈も綾子夫人には頭が上がらず「うちの番頭」と呼んでいた。
大隈は大学構内に綾子夫人の銅像を建てようとして学生の猛反対にあう。


2025


2018


2026


6010


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●前妻の子 大隈熊子 1863年生 婿養子を迎える

●庶女   大隈光子 1884年生 婿養子を迎え2代侯爵とする


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■夫  大隈英麿 盛岡藩主南部利剛の子・婿養子になるが離婚
1856-1910

*英麿は旧藩士にだまされ多額の借金を作ってしまい離婚に至る。

アメリカ留学中
1036(1)




1879年 25歳
0025



■妻  大隈熊子 初代侯爵大隈重信の実娘
1863-1933


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◆2代侯爵 大隈信常 松浦詮伯爵の子・婿養子になる
1871-1947 75歳没




■妻  三枝光子 初代侯爵大隈重信の庶女/三枝守富の養女 
1884-1946


●長男 大隈信幸 1910年生 4代当主

●長女 大隈豊子 1904年生 学習院出身 広沢真吾伯爵と結婚


左から
大隈信常と赤ちゃん信幸・熊子・綾子夫人・光子夫人・豊子・重信
2030



左から 光子夫人・信常と赤ちゃん信幸・豊子
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左から 熊子 豊子 光子夫人 重信 綾子夫人 信幸
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●1929年:上 大隈豊子 広沢真吾伯爵と結婚
1929-1005



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◆3代 大隈信幸 2代侯爵大隈信常の子
1910-2004 93歳没


■妻  久原馨子 衆議院議員久原房之助の娘 双葉女学校出身 
1916年生


●長女
●二女
●三女


大隈重信の曾孫・大隈信幸の娘
2352


1989年 大隈信幸
19890120

■東京本邸 麻布区市兵衛町
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◆初代侯爵 西郷隆盛
1828-1877 49歳没

*身長5尺9寸余(179センチ)体重29貫余(108キロ)

*目が大きく「巨眼様」と呼ばれた。

*11歳の時にケンカの仲裁に入って右腕を切られて骨折、ヒジが完全には曲がらなくなった。

*34歳の時沖永良部島に流罪となり、フィラリアに感染して象皮症が持病となった。
睾丸が人の頭ほどに腫れ上がり、以降馬に乗れなくなった。

*晩年はダイエットのためにドイツ人医師ホフマンの指導でひまし油を下剤に使い、狩猟に出かけて運動をした。


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西郷隆盛の死亡診断書

創所は、頭体離断、右大腿部の貫通銃創、右尺骨部旧刀創、陰嚢水腫。
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■1番目の妻 伊集院須賀子 士族伊集院兼善の娘・離婚


■2番目の妻 愛加那/愛子 佐栄志の娘・奄美大島の現地妻


■3番目の妻 岩山糸子 岩山直温の娘・バツイチ・隆盛と再婚
1838-1922 84歳没


●愛加那の子 西郷菊次郎   伯爵吉井友実の娘吉井久子と結婚
●愛加那の子 西郷菊草/菊子 公爵大山巌の弟大山誠之助と結婚

●糸子の子  西郷寅太郎   2代当主
●糸子の子  西郷牛次郎   士族堀藤十郎の娘堀ヒデコと結婚
●糸子の子  西郷酉三


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学習院院長 一戸兵衛

日露戦争後我々武官に対し豊明殿のおいて昼の御陪食を賜ったことがあったが、その時が最も御側近くで龍顔を拝しまた玉音にも接した時であった。
正面には陛下、その御左右には皇族方、それから大山巌元帥・山県有朋元帥、陛下とお向き合いの席には宮内大臣というような席次であった。
たまたま明治の初年、最初の西国御巡幸のみぎりに御話を遊ばされた。
西郷隆盛が供奉長であったこと、その時お乗りになった軍艦龍宮がどういう間違いからか浅瀬に乗り上げてしまったことなどを御話になり、30余年前の御事を偲び給うがのごとく、
「あの時は西郷が怒ってのう」と供奉長西郷隆盛が艦長その他の過失を憤ったことを御話になった。
西郷はその時 恐懼措く所を知らず、一方いたく艦長その他の失態を憤り、刀を抜いて館内にあったスイカを斬り、ようやく胸の怒りを鎮めたということである。
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◆2代 西郷寅太郎 1代隆盛の子
1866-1919 53歳没

*ドイツに留学


■妻  園田信子  実業家園田実徳の娘
1877年生

*信子夫人の浪費により西郷侯爵家は困窮する

●男子 西郷隆輝  3代当主
●男子 西郷吉之助 4代当主
●男子 西郷隆永  大橋田鶴子と結婚
●男子 西郷隆国  波多野隆国子爵となる
●男子 西郷隆明  松村重子と結婚
●男子 西郷隆正  尾道造船社長浜根岸太郎の浜根全子の婿養子になる
●男子 西郷隆徳

●女子 西郷敦子  横浜電鉄緒明太郎と結婚
●女子 西郷勝子
●女子 西郷愛子  吉田道夫の養女になる
●女子 西郷光子  総理大臣幣原喜重郎の子幣原道太郎と結婚


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宮武外骨『地獄耳』1917年

西郷南洲の子は西郷寅次郎といって、陸軍中佐で近衛師団に勤めている。
この人は20年前の日清戦争には陸軍中尉で台湾征伐にも加わった。
当時の友人はみな大佐や少将に立身しているのにいつまでも中佐で昇進の遅いのは、とにかく英雄南洲の子たるを鼻にかけて上官をバカにし常に敬礼を欠いているからである。

この人は南洲とは正反対の痩せて細長い体格で、言語動作も女性的で南洲の風は少しもない。
なんでもその母親にそっくりだということだ。

しかし末弟の牛次郎は南洲そのままで、大兵肥満の大男である。
今は日本郵政会社の書記を務めている。
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※当時の総理大臣の年給は1万2千円

西郷寅太郎の妻信子の浪費癖によって西郷家は傾いた。
信子は競馬に大金を投じたりして贅沢で知られた実業家園田実徳の娘で、信子も万事に派手好みであった。
日銀総裁富田鉄之助の元邸宅を購入する、13人もの女中を雇う、衣裳・芝居・物見に浪費する。
到底軍人の給料で支払える家計ではなかったが、信子の実家園田家の援助で何とか維持していた。
大正06年父園田実徳が亡くなって援助が途絶えると、西郷家はたちまち困窮した。
大正08年寅太郎が死亡した時には、負債は4万円に膨らんでいた。
信子は邸宅を9万円で売却した後、姑隆盛夫人糸子を始め寅太郎の遺児たちも寅太郎の弟牛次郎に押し付けて鹿児島別邸に逃れる。
大正08年侯爵を継いだ嫡男隆輝は心労から精神病となり、翌大正9年に死亡する。
そこで西郷家は、隆輝の弟吉之助を当主にすると同時に信子を除籍するに至った。
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東京朝日新聞

『寅太郎侯が亡くなってから、火の消えたように淋しい西郷家』
信子夫人の室には、遺児の八男四女の夥しい群が団欒の袖も重げに声をのんだ。
西郷隆盛翁の世嗣として、寅太郎侯はあまりにも不遇の裡に死んだ。
父の名を維持せんとする痩我慢と生活に闘う苦悩とに寅太郎侯の健康は尠からず損られて、死に先立つ数ヶ月寅太郎侯の病耳に入るものは生活の苦しい呻きばかりであった。
夫人の生家なる園田実徳氏が存命の折には生活の補いにかなりな情を受けたが、園田氏没後は宏壮な邸をも売払って寅太郎侯には無論大打撃となった。
毎月600円も要という生計費は、寅太郎侯が華族として世襲財産の利子と陸軍大佐の給料とに到底償い得なかった。
活計かさんで邸宅は既に3万余円の抵当にさえ入ったと伝えられた。
邸宅が売物に出た時 寅太郎侯は「私の存命中は、決して他人に渡したくない」と病床に叫んだそうだが、老体の糸子母堂の心苦労を思い遣り令弟午次郎氏のもとに移らしめた。
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雑誌 婦人世界『怨みと憎み号』

『侘住居の侯爵夫人』
「故侯爵西郷寅太郎氏の夫人信子の君は故あって西郷家を出て、今は東京市内の某屋に侘しい独り住まいをしておられます」

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◆3代 西郷隆輝 2代寅太郎の子
1902-1920 18歳没


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◆4代 西郷吉之助 3代隆輝の弟/2代寅太郎の子
1906-1997 91歳没


■前妻 徳川春子 尾張徳川義親侯爵の娘・離婚
1915年生


■後妻 斉藤貞子 斉藤芳次郎の娘
1925年生


●長男
●長女
●二女

◆初代侯爵 西郷隆盛
1828-1877 49歳没

*身長5尺9寸余(179センチ)体重29貫余(108キロ)

*目が大きく「巨眼様」と呼ばれた。

*11歳の時にケンカの仲裁に入って右腕を切られて骨折、ヒジが完全には曲がらなくなった。

*34歳の時沖永良部島に流罪となり、フィラリアに感染して象皮症が持病となった。
睾丸が人の頭ほどに腫れ上がり、以降馬に乗れなくなった。

*晩年はダイエットのためにドイツ人医師ホフマンの指導でひまし油を下剤に使い、狩猟に出かけて運動をした。


■1番目の妻 伊集院須賀子 士族伊集院兼善の娘・離婚


■2番目の妻 愛加那/愛子 佐栄志の娘・奄美大島の現地妻




■3番目の妻 岩山糸子 岩山直温の娘・バツイチ・隆盛と再婚
1838-1922 84歳没



1737





●愛加那の子 西郷菊次郎   伯爵吉井友実の娘吉井久子と結婚
●愛加那の子 西郷菊草/菊子 公爵大山巌の弟大山誠之助と結婚

●糸子の子  西郷寅太郎   2代当主
●糸子の子  西郷牛次郎   士族堀藤十郎の娘堀ヒデコと結婚
●糸子の子  西郷酉三


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■夫  西郷菊次郎 西郷隆盛の子
1861-1928


■妻  吉井久子  伯爵吉井友実の娘


●長男 西郷隆吉
●二男 西郷隆治
●三男 西郷隆秀
●四男 西郷隆泰
●五男 西郷隆清
●六男 西郷準
●七男 西郷潔

●長女 西郷ハナ
●二女 西郷治子
●三女 西郷洲子
●四女 西郷淑子
●五女 西郷泰子
●六女 西郷潔子
●七女 西郷清子


立つ8人左から 
準・寅太郎の子隆永・寅太郎の子隆国・寅太郎の子隆徳・隆治・寅太郎の子隆明・寅太郎の子隆正
座る5人左から
治子・西郷小兵衛の妻マツコ・西郷菊次郎・久子夫人・潔子
1738



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◆2代 西郷寅太郎 1代隆盛の子
1866-1919 53歳没

*ドイツに留学

1735





■妻  園田信子  実業家園田実徳の娘
1877年生

*信子夫人の浪費により西郷侯爵家は困窮する




●男子 西郷隆輝  3代当主
●男子 西郷吉之助 4代当主
●男子 西郷隆永  大橋田鶴子と結婚
●男子 西郷隆国  波多野隆国子爵となる
●男子 西郷隆明  松村重子と結婚
●男子 西郷隆正  尾道造船社長浜根岸太郎の浜根全子の婿養子になる
●男子 西郷隆徳

●女子 西郷敦子  横浜電鉄緒明太郎と結婚
●女子 西郷勝子
●女子 西郷愛子  吉田道夫の養女になる
●女子 西郷光子  総理大臣幣原喜重郎の子幣原道太郎と結婚


●西郷愛子 吉田道夫の養女になる



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◆3代 西郷隆輝 2代寅太郎の子
1902-1920 18歳没




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◆4代 西郷吉之助 3代隆輝の弟/2代寅太郎の子
1906-1997 91歳没



1736



■前妻 徳川春子 尾張徳川義親侯爵の娘・離婚
1915年生


■後妻 斉藤貞子 斉藤芳次郎の娘
1925年生


●長男
●長女
●二女


西郷隆盛の曾孫・西郷吉之助の娘
2353

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