直球和館

2025年

2023/01

■東京本邸 品川区山王 840坪


■「板橋村荘」小田原市 2千坪
2000(1)



■腰越別邸


■「喜寿庵」京都市東山区


■「米寿庵」熱海市


=========================


◆初代伯爵 清浦奎吾 仏職大久保氏の子・婿養子になる 総理大臣
1850-1942

1879年 31歳
0031d







■妻  清浦錬子 士族清浦秀達の娘
1858-1944




●男子 清浦保恒 2代当主
●男子 清浦敬吉 山浦ユキと結婚
●男子 清浦豊秋 又原銀と結婚
●男子 清浦恒通 ツナと結婚
●男子 清浦保直 松本智恵と結婚
●男子 清浦末雄 政治家野村治三郎の娘サダコと結婚


51f07a45.jpg



::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宮武外骨『地獄耳』

清浦奎吾の子は有名な不良少年で、たびたび警視庁の厄介になった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は枢密顧問官

1923年6月13日
※清浦奎吾伯爵の発言

自分の三男豊秋が下野銀行の事に関し新聞に書かれおり。
下野銀行の支店長たる高富覚三と豊秋とは懇意の間柄なり。
実業家八尾新助の子新太郎が銀行より金を借りるため高富と豊秋に熱心に取り入り、豊秋も周旋して銀行より八尾に60万円を貸し渡し豊秋も幾分のコミッションは受けおる模様なり。
只今は高富と他一人のみ起訴されおり豊秋は一度の取り調べさえ受けたる事なきも、銀行より告訴しおるにつき、その方の示談でも出来れば事を荒立てずして済むならんと言いたる趣なるが、これはもとより秘密の事なり。

1923年6月14日
※検事総長鈴木喜三郎の言葉

高畠はいわゆる坊ちゃんなり。
清浦豊秋が主に計画したる事との推測あり。
豊秋も八尾から借り受けたる50万円のうち幾分は使用しおる。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『木戸幸一日記』内大臣※当時は宗秩寮総裁

1934年10月16日
※侍従黒田長敬の発言

天理教顧問岩井尊人氏より東久邇宮殿下と清浦豊秋との関係につき問い合せありしゆえ、東久邇宮家にお尋ねしたりなり。
清浦が仲介して天理教の中山正善管長を東久邇宮稔彦王に拝謁せしむる段取りとなりおるものの由なり。
清浦を中山管長に紹介せしは小橋一太氏にして、最近文部省にて召集したる各派宗教家の会合にて松田源治文相より紹介書を手交せし由なり。
この紹介書の中には「事国益に関する云々」の文句ありと言う。

1934年10月19日
東久邇宮邸に伺候、東久邇宮稔彦王に清浦が天理教管長を紹介せし件につき御注意申し上ぐ。

1936年3月1日(二二六事件直後)
※東久邇宮務官松本の発言

清浦末雄が事件中に酔いて御殿に来り夕食を頂戴したるが、
その際「今回の事件に参加せる将校は東久邇宮稔彦王を非常に崇拝しておりますから、お迎えに来るかもしれません。その際には御優遇にならなければなりません」と話し、当時御殿守衛のために来りおりし特務曹長の所に至り、
「もし白たすきの隊が来たら貴様らは討ってはいけない。まず役所へ知らせて指図を受けろ」と話した。
よって南部外茂起御付官と相談し、武官が戒厳司令部にその話をなしたる結果、戦車2台・兵30名増派せられた。
しかし何事も起こらなかった。

また、安田中佐より御殿気付清浦末雄宛にて、かくのごとき書面を送付越せり。
《清浦宛安田書面》2月29日午後使者にて
●今回の事件の経緯は青年将校自体の決意にありたりとするも、思想的系統が北・西田らの革命的思想に感染し、さらに荒木・真崎らの武士道的道義(彼らはこれを皇道と詐称しておりました)に支配されたために、終局を不幸なる運命に導きました。
これについては神兵隊同志の一員を27日早朝来行動隊の幹部の所に入れて最後の努力を試みておりますが、時期を失しているため効果上がらむようであります。
●精鋭なるもの500名集ってあります。
それは皇族内閣以外の内閣が出来る時に、これを殲滅する姿勢であります。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


=========================


◆2代 清浦保恒 1代奎吾の子
1883-1928




■妻  大森トシコ 士族大森虎雄の娘
1888-1984

トシコ夫人と姑錬子夫人
2000(2)



●男子 清浦保敏 3代当主
●男子 清浦慶二 相場師竹原友三郎の娘エイと結婚
●男子 清浦保正 実業家冨永正太郎の娘敏子と結婚
●男子 清浦保久 早逝

●女子 清浦栄子 松浦素伯爵と結婚 
●女子 清浦婦美 池田政之男爵と結婚
●女子 清浦貞子 青木賢三と結婚


1929年
19290715



=========================


◆3代 清浦保敏 2代保恒の子
1910-1982


■妻  坂内聡子 実業家坂内義雄の娘
1918-


●長男
●長女
●二女

◆初代伯爵 山岡鉄舟 小野高福の子 婿養子になる 剣豪・知事を歴任
1836-1888

*身長6尺2寸(188センチ)体重28貫(105キロ)

*鯨飲馬食が自慢で、饅頭を108個食べたり、ゆで玉子を97個食べたり、7升飲んでも酔わないほど酒に強かった。

*毎日1升の飲酒がたたって、40代後半から胃腸病を患う。

*51歳の時に胃ガンと診断され流動食しか食べられなくなったが、相変わらず飲酒を続け翌年死亡。

1001(1)


1003


1879年 45歳 
0045b


1100


1002



■妻  山岡英子 忍心流槍術山岡静山の娘
1843-1900


●長男 山岡直記 2代当主

●長女 山岡松子
●女子 山岡鈴子 桑名松平定教子爵と結婚
●女子 山岡シマ 榊原昇造と結婚


=========================


◆2代 山岡直記
1865-1927


■前妻 小菅阿元 小菅揆一の娘
1878年生


●男子 山岡鉄雄
●男子 山岡直雄 岡田直雄となる
●女子 山内幹子


■後妻 大沢マサ 大沢基経の娘
1877-1968

●男子 山岡龍雄 3代当主
●男子 山岡駸男
●男子 山岡数男 田多井数男となる


=========================


◆3代 山岡鉄雄
1897-1943


■妻


●長女
●二女

◆初代伯爵 芳川顕正 大臣を歴任
1842-1920 77歳没

1879年 40歳
0040a







■妻  川井サダコ 士族川井久中の娘
1856-1923 67歳没




●実子 芳川シン 出戻り
●実子 芳川セイ 出戻り
●実子 芳川トミ 財閥藤田平太郎男爵と結婚
●庶子 芳川鎌子 婿養子を迎え2代当主とする・心中事件を起こす


●芳川トミ



::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『明治天皇紀』

1890年5月17日
総理大臣山県有朋、内務次官芳川顕正を文部大臣に、特命全権公使陸奥宗光を農商務大臣に任ず。
宗光および顕正を擢任するは、人の多く異数とするところなり。
はじめ有朋、宗光を擢抜せんとし、命じて帰朝せしむ。
けだし有朋、国会の開設に鑑み、宗光が民間諸党に縁因あり、かつ政党の事情に通ずるをもって、これを閣班に列し議員を操縦せしめんとする意に出でしなり。
しかるに宗光帰朝するや内閣組織すでに成り、宗光を奏薦するの余地なし。
宗光喜ばず、或は民間志士と交わり、或は逓信大臣後藤象二郎と結託す。
有朋その長く閣外に止むべからざるを察し、ついに岩村通俊を罷めて宗光をこれに代えんとす。
有朋また顕正と相善し、すなわち榎本武揚を罷め顕正をもってこれに代えんと欲して、並びにこれを奏薦す。
天皇意やや安んじたまわざるところあり。
有朋に告げて曰く「宗光かつて10年のことあり。人となりにわかに信じがたし。顕正もまたすこぶる衆望に乏し。この二人を擢任する深慮せざるべからず」
有朋対えて曰く「宗光の前罪はすでに消滅せり。今日採用するにあらずんば、民間にありてかえりて政府の妨礙をなすべし。むしろこれを擢抜してその才幹を利用するにしかず。もし反覆することあらば臣その責に任じ、あえて宸慮をわずらわすことなかるべし。また顕正の人となり、臣よくこれを知る。いまだこれに内務を託すべからずといえども、もって文部を託するに足れり。臣よくこれを指揮せん」
天皇ようやくこれを聴したまう。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
万朝報 1898年

伯爵芳川顕正は自宅に芸妓上がりの伊藤初子(27歳)という美妾を畜え、頃日相携えて塩原の松風楼に遊べり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


=========================


◆2代 芳川寛治 曽祢荒助子爵の子・婿養子になる
1882-1956




■妻  芳川鎌子 1代顕正の娘・心中事件を起こす
1891-1922 31歳没




●女子 芳川明子 婿養子を迎え3代当主とする


芳川顕正には4人の娘があったが、3人が本妻の子、四女鎌子だけが妾の子であった。
顕正は鎌子を溺愛しており、鎌子に婿養子寛治を迎えた。
二人の間には長女明子が生まれたが、もともと寛治は名だたる放蕩児で、茶屋遊びはひどくなるばかりで妾も囲い始めた。
さらに嫁いだ三人の姉のうち長女と二女が離婚して実家に戻ってきた。
鎌子夫妻が跡継ぎになっていることがおもしろくない姉たちと母親が結託して確執が始まる。
鎌子は楚々とした大和撫子タイプではなく、自信に満ちた美人タイプだった。
鬱陶しい家や夫の放置から鎌子も買物や観劇など外に遊びに出るようになる。
そのたびに同行していたのが運転手の倉持陸助である。
倉持は勉強家で実直な好男子であった。
鎌子は無理矢理倉持に服や靴を買ってやり、お茶や食事に誘うようになった。
精養軒で食事をしていたのを見て夫婦だと思っていた人もいた。
そのうち二人は深い仲になる。
二人の関係は芳川家の知るところとなり、倉持は解雇、鎌子は監禁された。
身分違いは承知している。二人はこの世で結ばれないならば、あの世で結ばれようと思い詰めるようになった。
どうにか屋敷を抜け出した鎌子は倉持と落ちあい、死に場所を求めて千葉に向かった。
二人は線路から列車に飛び込んだ。鎌子は頭を打ち重体、倉持は軽傷だった。
倉持は「奥さん、あなた一人を殺しはしません。私も必ず死にます」と叫んで短刀でノドをついて絶命した。
生き残ってしまった鎌子は夫と離婚して実家からも除籍され、鎌倉にある芳川家の別荘に送られた。
この別荘の運転手を担当したのが出澤佐太郎であった。
罪人のような生活を強いられて孤独に耐え切れなくなった鎌子は出澤と再度駆け落ちする。
世間は二度も運転手と駆け落ちした鎌子に呆れ果てた。
ただし、今回鎌子はもう平民である。結局二人は世間から隠れるように一緒になった。
父顕正が亡くなった際も、連絡もなければ葬儀に参列することも許されなかった。
鎌子はだんだんと生きる希望を失っていった。
心中未遂事件から5年後、鎌子は佐太郎母子のもとで息をひきとった。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宮武外骨『地獄耳』

《華族社会裏面の暴露》
華族富豪等いわゆる上流社会の者は精神的にも立派な人間であるかのごとく一般人に対して威張っているが、おそらくあらゆる階級中華族ほど不完全な者はなかろう。
芳川鎌子の情死沙汰とこれに関連した芳川寛治の行動は、今日の華族社会における諸種の欠陥が相合して世間に暴露されたのである。
まず家庭の紊乱が彼ら両人の動機となったのは言うまでもない。
しかし世間では夫寛治の不行跡を言うのみで、鎌子の父芳川顕正・寛治の父曽祢荒助両人の品行が従来しばしば世人の指弾を受けたことを忘れている。
さらに鎌子と寛治は華族仲間の通弊たる門閥結婚によって夫婦となった者、すなわち結婚当初の標準が愛情とか理解とかいうのではなく、地位や財産を主とする不条理の結婚である。
ゆえに彼らは血の無い男女が相結合したにすぎない。
寛治はノメノメと姦婦の介抱に行った上に、
「鎌子はいったん悔悟して死を決したのであるから、幸いにも全快すればその罪を許して何事も水に流してやる」と言ったそうだが、よくもそんな馬鹿な気になれたものだ。
鎌子は悔悟して死を決したのではない。
嫌な夫を見捨て、恋しい男とは天下晴れて添えぬから、いわゆる一蓮托生、あの世で添い遂げようとしたのである。
しかし寛治の本心は伯爵の跡継ぎという地位に眷恋する欲望から言ったことで、今にその汚い根性が失せないのである。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宮武外骨『地獄耳』

自動車の運転手と情死しそこねた鎌子の亭主芳川寛治はその後 去りもせず鎌子と同棲しているにもあきれるが、近頃はまたまた新橋通いをやっているとはその面に唾してやりたい。

情死騒ぎで女房兼子を離縁した芳川寛治は正五位になったが、芳川顕正の私生児京都富貴楼の娘お房を表面正式の女房とするそうな。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


<寛治の兄弟争い>

※当時の総理大臣の年給は1万2000円

寛治の実家曽祢荒助子爵家は昭和3年に当主安輔(荒助の長男)が死亡したため、その11歳の嫡男昌孝が新当主となり父の弟〈又男〉(荒助の四男)が昌孝の後見役となった。
その後又男と芳川伯爵家の婿養子となっていた寛治(荒助の二男)との間に荒助が遺した骨董類をめぐって争いが起きる。

まず寛治が曽祢家から骨董類を勝手に芳川家に持ち帰る。
そこで又男が仲間とともに芳川家から骨董類2万1800円分を盗んで4200円で売り飛ばす。
ところが盗んだ骨董類は曽祢家から持ち出したものではなく芳川家伝来のものだったため、寛治は又男を警察に訴える。
又男は家宅侵入・窃盗罪などで昭和5年刑務所に入る。

寛治は婿養子として芳川家に与えた損害の穴埋めをするために、曽祢家から荒助の銀の胸像を持ち出して売り飛ばす。
この胸像が店先に並んだことから一件がバレて、『売り物に出た曽祢子爵の銀胸像』『まざまざ物語る名家の末』などと新聞に書かれてしまう。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『木戸幸一日記』内大臣※当時は宗秩寮総裁

1934年7月24日
芳川寛治氏来庁。
破産の問題につき事情を釈明せらる。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


=========================


◆3代 芳川三光 三室戸敬光子爵の子・婿養子になる


■妻  芳川明子 2代寛治の娘


●男子 吉川雅信 4代当主


=========================


◆4代 芳川雅信  3代三光の子
1936年生


■妻  石野惇子  石野基恒子爵の娘
1940年生


●長女
●二女
●三女
●四女

◆佐久間左馬太 陸軍大将・台湾総督
1844-1915 天保15-大正04 71歳没

1879年 37歳
0037a





■妻 横山勘兵衛の娘 鷹子
1848-1900 嘉永01-明治33 52歳没


●俊一 次代当主




◆佐久間俊一
1876- 明治09-


■妻 勝尾通直の娘 正子
1884- 明治17-

1b93d10f.jpg



●美子 賀田以武夫人
●静子 永江晋夫人
●辰雄
●文一
●秀明


3592bd65.jpg


左 美子 賀田以武夫人   右 静子 永江晋夫人

◆初代伯爵 吉井友実 官僚
1828-1891 63歳没

1879年 53歳
0053b





●男子 吉井幸蔵  2代当主
●男子 吉井友武  子爵高島友武となる
●男子 吉井謙治郎
●男子 吉井仲助  広瀬真徴の娘広瀬マサと結婚
●男子 吉井英介  有馬英介となる

●女子 吉井沢子  公爵大山巌と結婚
●女子 吉井久子  侯爵西郷隆盛の子西郷菊次郎と結婚


●吉井友武 子爵高島友武となる
1212(1)



=========================



◆2代 吉井幸蔵 1代友実の子
1856-1927 71歳没

*アメリカ・イギリス・ドイツに留学


■妻  猪飼静子  士族猪飼央の娘
1865年生


●長男 吉井勇   3代当主
●二男 吉井中
●三男 吉井勝稚  子爵高島勝雅となる
●四男 吉井友春
●五男 吉井武蔵
●六男 吉井千代田
●八男 吉井友海

●長女 吉井花子  長田馨と結婚
●三女 吉井百合  伊達徳真と結婚
●四女 吉井桂子  竹迫常栄と結婚


=========================


◆3代 吉井勇 2代幸蔵の子 歌人
1886-1960 74歳没






■前妻 柳原徳子 柳原義光伯爵の娘/柳原白蓮の姪・離婚
1900-1975 75歳没

*勇と徳子は恋愛結婚。華族同士だが徳子の実家はこの結婚に大反対であった。






■後妻 国松孝子 芸者の娘


●前妻の子 吉井滋


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宮武外骨『地獄耳』

吉井幸蔵の子 勇は遊蕩歌人としてデカダン文士の一人である。
吉井勇を伯爵の若様というので大いに歓待して馬鹿な目を見た待合や料理屋がある。
伯爵は伯爵でも吉井家は有名な貧乏華族で、現主人は評判の高利貸し泣かせ、
その長男たる若様の勇も原稿料をあてにして生活しているぐらいだもの。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


吉井勇の前妻徳子は「ダンスホール事件」と呼ばれるスキャンダルを起こす。

1933年ダンスホール「フロリダ」の男性ダンス教師が多くの有閑マダムとの姦通罪で逮捕された。
ダンス教師は女性客を斡旋していたのは柳原義光伯爵の娘で吉井勇伯爵夫人の徳子であると自供した。

歌人でもある吉井勇は若い頃からかなりの放蕩児であった。
結婚しても息子が生まれても生活を改めることがなかったため、当てつけのように徳子も不倫に走ることになる。

斎藤茂吉の妻輝子、近藤廉平男爵の子近藤廉治&樺山愛輔伯爵の娘泰子夫妻など、
徳子の遊び仲間が一斉に検挙された。

そこで徳子は近藤廉治と不倫、妻の泰子もダンス教師と不倫、というダブル不倫も発覚した。
宮内省は世間を騒がせた「不良華族」に厳しい態度で臨み、
近藤廉治&泰子夫妻は華族から除籍されて平民に降下された。
徳子は吉井勇と離婚、吉井は芸者の娘孝子と再婚し京都に住まった。
輝子は斉藤茂吉と長期に渡って別居することになった。

1198


1933年12月22日
5000


8006



::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
徳子のイトコ 宮崎蕗苳の手記 柳原白蓮&宮崎龍介の娘 

母の兄柳原義光の娘さんのうち、徳子さんとは特に親しくしていました。
徳子さんは大正10年、歌人の吉井勇と結婚しました。
当時柳原家は「若い文士との所帯では食べていけない」と、この結婚には大反対でした。
徳子さんは白洲正子さんのお姉さんや斉藤茂吉の奥さん、
当時の著名な文士、菊池寛や久米正雄・里見弴・川口松太郎といった方々とも親しく交流していました。
モボ・モガといった言葉もありましたが、徳子さんはまさに時代の先端を行くモガという感じでした。
顔立ちは母にも似ていました。字も絵も上手でしたし、佐賀錦織の特技があり広く教えていました。

徳子さんは昭和08年離婚して柳原家に戻りますが、家に半ば閉じ込められ自由に歩けないほどでした。
四面楚歌の柳原家にあって、唯一の味方であった母と頻繁に手紙のやり取りをします。
ある日突然よほど慌てていたのでしょう、
下駄の左右違ったものを履いたままタクシーに飛び乗って宮崎家へやってきました。
祖母の鎚子〔白蓮の姑/宮崎滔天の妻〕はとかくの事情を問うことなく、
「よく来たね」と快く迎えました。しばらく私の家に一緒にいました。
母のことを姉さんという意味でしょうか「あんこ」と呼び、
自分のことを「俺様」とわざと乱暴に男言葉を話します。
母はそれをユーモアと受け止めてか特にたしなめることもなく、
「あなたの好きなようにしたらいいわ」ととてもおおらかでした。
我が家ではよく百人一首をしました。
「この札だけは誰にも渡せない」と、徳子さんは茶目っ気たっぷりにいつも狙っていましたね。
そんな気取らないところも魅力の一端でした。

私の母と同じく、自分で台所仕事や掃除ができる人ではありませんでした。
高田馬場に部屋を借りていましたが、朝になると毎日のように宮崎の家に来ていました。
一緒にいるだけで楽しい、明るく活発な女性でしたね。
晩年入院した折も、「家に連れて帰ってよ」と私たち家族を慕って寂しがっていました。
自由な人生をまっとうしたと思います。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


左:柳原白蓮  右:徳子夫人
e2fd2ef8.jpg

このページのトップヘ