直球和館

2025年

2023/02

■東京本邸 東京市麻布区笄町


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■父  山田顕行 萩藩士
1823-1869


■母  熊野鶴子 熊野徳左衛門の娘
1812-1900


●男子 山田公章
●男子 山田顕義 初代伯爵
●男子 山田繁栄 3代伯爵→子は2代伯爵山田久雄


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◆初代伯爵 山田顕義 司法大臣
1844-1892 



1011


パリで
1033(1)


1879年 37歳
0037


1015



■妻  井上龍子 井上馨伯爵の養女
1849年正


●長女 山田梅子 婿養子を迎え3代当主とする


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◆2代 山田久雄 1代顕義の甥/山田繁栄の子
1871-1897


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◆3代 山田繁栄 2代久雄の父/1代顕義の弟
1847-1906


■妻  河上梅子  士族河上繁完の娘
1845-1909


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◆4代 山田英夫 会津藩主松平容保の子・婿養子になる




■前妻 山田梅子 1代顕義の娘・死別
1886-1812


■後妻 柳原宣子 柳原光邦子爵の娘
1887年生


●男子 山田顕貞 5代当主
●男子 山田貞夫 

●女子 山田千代 実業家薩摩治郎八(通称バロン薩摩)と結婚
●女子 山田緑  財閥三井高孟と結婚


●1939年 山田緑 1920年生・159センチ・学習院出身・趣味は料理・スポーツ
0098



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■夫  薩摩治郎八 通称:バロン薩摩(ただし男爵の爵位は持っていない)
1901-1976

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1976年
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■前妻 山田千代  4代山田英夫伯爵の娘・1926年結婚・1949年死別
1907-1949

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1928年
「カンヌで世界各国から集まっている自動車の運転をしている婦人達の美人投票が行われ、
千代夫人が見事同地一番の美人と折紙をつけられた」
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■後妻 真鍋利子  ストリッパー秋月ひとみ・1956年再婚
1931年生


バロン薩摩は木綿王 薩摩治兵衛の孫。
1920年に英オックスフォード大学に留学。
毎月の仕送りは1万円(現在の3千万円)
2年後にフランスに移住してからは10年間で約600億円(現在)を使った。
1929年フランス政府がパリ国際大学都市に留学生の宿泊研修施設を作るよう各国に呼びかけたが、日本政府は日本は関東大震災による資金不足で断ったため、バロン薩摩が2億円(当時)を投じて「日本館」を建設させ、フランス政府からレジオンドヌール勲章が与えられる。
別名「薩摩館」
その後 実家は倒産したが第二次世界大戦中もフランスに留まり、1956年に帰国した時は無一文だった。


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◆5代 山田顕貞  4代英夫の子
1909年生


■妻  鍋島福子  鍋島直庸子爵の娘
1914年生


●長男 
●長女

■東京本邸 神田区駿河台鈴木町

■東京本邸 牛込区市ケ谷土原町

■東京本邸 麹町区下二番町 1,516坪
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2016


2006


■東京本邸 本郷区駒込上富士前町


■大磯別邸


■軽井沢別邸


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◆初代伯爵 加藤高明 尾張藩士服部重文の子加藤総吉・養子になる 総理大臣
1860-1926

2012


2011


1925年
2001



■妻  岩崎春路  財閥岩崎弥太郎男爵の娘
1864-1942





●二男 加藤厚太郎 1895年生 2代伯爵

●長女 加藤悦子  1888年生 岡部長景子爵と結婚


左から 悦子・加藤高明・春路夫人
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左から 厚太郎・春路夫人・加藤高明・悦子の子・悦子
2003



1918年「岩崎家五婚」
191810-52



1918年「加藤高明四天王」
191811-42





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宮武外骨『地獄耳』1917年

加藤高明の女房は岩崎家のお嬢さんで、200万円の持参金つきだから一生女房に頭が上がらぬ方だが、それでも女房に内々で新橋の松日の家松栄・花月の女将お静を寵愛している。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

加藤高明の傲慢は有名なものである。
先年英国大使として赴任の際、何年か会わなかった旧知の某が日本の様子を聞くため、ロンドン大使館に彼を訪うて「何某の近況はいかがですか」と尋ねると、
「当人に問い合せたらよかろう」とけんもほろろの挨拶に、その男は怫然として座を立ったという。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

犬猿の仲→原敬と加藤高明
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宮武外骨『地獄耳』1918年

加藤高明の腰巾着は富田幸次郎。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

総じて山県有朋の寵を得んとするには、詩を作るとか書を書くとかの資格がなくては駄目である。
だから寺内正毅がしきりに書を稽古するのも、後藤新平や仲小路廉や大島健一が漢詩をひねくるのも、ひっきょうは親分の御覚えめでたからんがためであって、杉山茂丸や大岡育造などまでが幼学便覧式の詩を作るのも、みなこの目的からであるそうな。
されば政党の首領としても加藤高明とか原敬とかいう手合いは、詩一つ作るでなし、字一つ書くでなし、この没風流な所がどうしても山県の気に入らぬわけである。
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原田熊雄 西園寺公望の私設秘書 1943年

1927年4月 京都の清風荘で、西園寺元老が「加藤高明は鉄道国有に反対して閣外に出たが、一言も自分の悪口を言ったこともなく、また自分も加藤の悪口は言わなかった」と言った。

1936年秋 米寿の席で、西園寺元老が「今にして思えば、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文あるいは加藤高明、やや落ちるが原敬など、いずれもひとかどの人物だった」と言った。
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近衛文麿公爵 総理大臣

私が一番親しめたのは加藤高明さんであった。
加藤さんの言われることには駆け引きや嘘が全然なかった。
そしてストーブを前にしてでも話されると、滔々として尽くるところを知らずといった感がした。
正義を愛し、不正を憎み、原敬さんとは違った強さを持った人であった。
加藤さんは憲政会の総裁だったが、眼中には憲政会も政友会もなかった。
政友会でも良い人のことは口を極めて褒めたし、憲政会の人でも感心しない人のことは糞味噌に貶された。
これは当たり前のことではあるが、そこが原さんとは違っていた。

大正9年頃私は森恪君や山口義一君などと憲法運用その他の政治問題を研究する会を作った。
それには貴族院・衆議院の各会派の人も入れようということになった。
そして政友会の人も関係するのだから、時の総裁の原さんに一応の諒解だけは得ておこうというので、ある日 原さんを訪ねた。
すると原さん曰く「至極結構なことであるが、衆議院のメンバーだけは政友会だけにして、憲政会の連中は入れないでくれ」という挨拶であった。
私はそれでは困るので、会の趣旨は一党一派に偏するべきものでないゆえんを説いてみたが、原さんはどうしても聞き入れなかった。
その頃は私もまだ若かったから、原さんになど話さなければよかったと後悔した。
そこで森君といろいろ相談してみたが、総裁がそう言う以上は仕方がないと言う。
そかしそれでは会の趣旨が立たぬので最初のメンバーを変更して、憲政会や国民党からはほんの申し訳に1人か2人ずつ入れ、ともかくも政友会からの独占から免れたのであった。
私は原さんという人が、あまりに政党根性が露骨なので驚いた。
しかし原さんも根本においてはやはり国家本位の人だったと思う。
ただ自己の経綸を行うには政党の力が必要であると信じていたらしく、かなり党本位と見える行動があったようだが、やはり国家を第一においていた人で、力の政治家として容易に見ることのできない偉い人だと思っている。
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『岡部長景日記』文部大臣※当時は内大臣秘書官長

※岡部長景は加藤高明の娘婿

1929年6月9日
加藤伯爵家いよいよ本日お引き移りになり、御馳走になった。
日本館の方は比較的よくできたが、西洋館の方は拙だ。
津田技師の技量も疑われる。
ことにシャンデリアは非常に大き過ぎるので、加藤母上はお困りの御様子。
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◆2代伯爵 加藤厚太郎 初代伯爵加藤高明の子
1895-1959


左:姉悦子 右:加藤厚太郎
2009(1)


左から 母春路夫人・加藤厚太郎・姉悦子・富美夫人
2007



■妻  上野富美  宮内省大膳頭上野季三郎の娘 学習院出身
1901-1977


左:富美夫人  右:義姉悦子
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椅子は春路夫人の母岩崎喜勢
左から 厚太郎・悦子の夫岡部長景・春路夫人・悦子・加藤高明
2002


立つ4人左から 富美夫人・加藤厚太郎・悦子の夫岡部長景・悦子
座る5人左から 春路夫人と赤ちゃん昇一郎・春路夫人の母岩崎喜勢・悦子の子岡部長衡・高明
2015



●長男 加藤昇一郎 1921年生 3代当主
●男子 加藤総雄  1931年生
●男子 加藤満雄  1932年生

●女子 加藤春恵子


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◆3代当主 加藤昇一郎 2代伯爵厚太郎の子
1921-1970


■妻  蜷川当子  大学教授蜷川新の娘
1924年生


●長男

◆初代伯爵 勝海舟 海軍卿
1823-1899 75歳没

*身長5尺(156センチ)

*9歳の時に犬に睾丸を噛まれて重傷を負い、70日間寝込んだ。

*勝海舟の健康法は瀉血で、自ら愛用の小刀で後頭部や指を切って血を抜いていた。

*風呂上がりに脳梗塞で死亡。


1860年 サンフランシスコで
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1879 58歳
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1066



■妻  民子 芸者 
1821-1905 84歳没

*最大時4人の妾と同居していた

椅子の羽織の女性が民子夫人
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●実子 勝小鹿   →娘伊代子は2代当主勝精の妻
●実子 勝四郎
●庶子 勝梶梅太郎 アメリカ人女性クララ・ホイットニーと離婚
●庶子 勝義徴

●実子 勝夢子
●実子 勝孝子
●庶子 勝逸子   男爵目賀田種太郎と結婚
●庶子 勝妙子


●勝小鹿 1879年 29歳
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●勝逸子 男爵目賀田種太郎と結婚 1910年
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万朝報 1898年

伯爵勝海舟は古くよりイト(59歳)なる妾を畜えしが、家再興のためイトをその生家に復籍せしめ増田姓を名乗らせることとし、今なお旧のごとく自宅に養い置く。
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★クララ・ホイットニー 梶梅太郎と離婚
1860-1936 76歳没

明治8年、15歳のクララは宣教師の父・母・兄・妹とともに来日する。
明治19年、26歳の時に4歳年下の梅太郎と出来ちゃった結婚。
その後1男5女に恵まれたが、勝海舟の死により援助を失った梅太郎一家は生活に困窮するようになった。
明治33年、クララは14年の結婚生活にピリオドを打ち、6人の子供を連れてアメリカに帰国する。


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◆2代 勝精 将軍徳川慶喜の子・婿養子になる
1888-1932 44歳没

*妾と心中して死亡






■妻  勝伊代子 1代海舟の姪
1888-1922 34歳没




●男子 勝芳孝 3代当主

●女子 勝道子 子爵朽木綱博と結婚
●女子 勝善子 士族筧元貞と結婚
●女子 勝静子 子爵石野基恒と結婚
●女子 勝中子 子爵戸田忠庸の子戸田忠和と結婚
●女子 勝当子 財閥藤田光一男爵と結婚


左から 善子・道子・芳孝・当子・伊代子夫人・静子・中子
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1929年 左:勝善子19歳→士族筧元貞と結婚 右:勝道子21歳→子爵朽木綱博と結婚
1929-4001



●勝道子 子爵朽木綱博と結婚 1927年
1927-2003



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慶喜の息子たちはみな慶喜に似て趣味人で、趣味の範囲が広い。
しかし、慶喜と同じく趣味であろうと女であろうと、対象に凝りすぎ没頭しすぎる傾向があった。
勝海舟の養子となった精も趣味人で、狩猟・投網・ビリヤードなど玄人はだしだったと言われる。
自動ドアの発明などさまざまな発明にも凝った。
また大酒飲みで、毎日ウイスキーを2,3本空けた。

女遊びも好きで、赤坂に毎晩通い続けていた。
妻伊代子と死別すると水野マサを妾として、広尾に家賃57円の邸宅を借りてやる。
精は午後になるとマサの家に行き、朝自宅に帰るという生活を送っていた。
マサは正妻となることを望んでいたが無理なことと、病気がちであったことで人生を悲観し始める。
昭和7年7月10日、二人はカルモチンを飲んで心中する。
枕元には精が書き込んだ電報用紙3枚が残されていた。
勝家は脳溢血と発表して葬式を済ませたが、マスコミが心中であることをつかみスキャンダルとなる。
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水戸徳川圀順

〔勝精は〕とても器用な人で、なんでもできましたね。
運動もうまかったし、玉突きも上手だった。
猟も大好きで、鉄砲がとても上手だった。
玉を当てるのがうまい筋なんだな
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◆3代 勝芳孝 2代勝精の子
1915年生


■妻  坂元和子 坂本英一の娘
1925年生


●長男

◆初代伯爵 児玉源太郎 陸軍大臣・文部大臣・内務大臣 「明治陸軍の三羽烏」の一人
1852-1906 54歳没

*身長159センチ、小柄でこまめに動き回るので「リス」と呼ばれた。

*生まれつき健康で、病気らしい病気をしないまま、
ある朝起きてこないので家族が見に行くと寝室で眠ったまま死んでいた。
心筋梗塞または脳梗塞だと思われる。


1904年児玉源太郎は日露戦争開戦に際して、参謀本部次長という降格人事を引き受ける際、
「山県有朋では困る。ガマ坊(大山巌)とならやれる」という条件を出した。
日清戦争後引退を考えていた大山だったが、引っ張り出されて満州軍総司令官を務める。
大山の妻大山捨松は
「イワオの好きなものは、第一に児玉源太郎さん、第二に私、第三にビーフステーキ」とよく語った。


1879年 29歳
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■妻  岩永松子 岩永秀松の娘
1856年生


●男子 児玉秀雄 2代伯爵
●男子 児玉貞雄 江副廉蔵の娘江副シズコと結婚
●男子 児玉友雄 中村雄次郎男爵の娘中村ミツコと結婚
●男子 児玉常雄 木戸孝正侯爵の娘木戸八重子と結婚
●男子 児玉国雄 中村覚男爵の娘中村節子と結婚
●男子 児玉八郎 山根文策の娘山根寿満子と結婚
●男子 児玉九一 大森鍾一男爵の娘大森幸子と結婚

●女子 児玉芳子 官僚立花俊吉と結婚
●女子 児玉仲子 穂積重遠男爵と結婚
●女子 児玉元子 法学者藤田嗣雄と結婚
●女子 児玉鶴子 木戸幸一侯爵と結婚


※木戸幸一は農商務省に入った1915年に児玉源太郎伯爵の四女児玉鶴子と結婚した。
木戸の妹木戸八重子が鶴子の兄児玉常雄と結婚している縁からだった。


立つ左から 
吉富庄祐
タキコ夫人の弟長谷川鉄雄
沢子の夫児玉秀雄
寺内正毅 
毅雄
寿一
寺内の甥宇田川義三
中谷兵之進 
タキコ夫人の弟長谷川巌

座る左から
沢子
児玉源太郎の娘元子
須恵
寿一の前妻百合
タキコ夫人
児玉源太郎の叔母
沢子の娘児玉貞子
児玉源太郎の娘鶴子/木戸幸一侯爵夫人
児玉源太郎の娘芳子
児玉源太郎の娘仲子/穂積重遠男爵夫人
宇佐川スミコ
川村大佐夫人
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立つ右端の軍服が児玉源太郎 立つ左から4人目の白い軍服が寺内正毅伯爵
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1079(2)



●児玉元子 法学者藤田嗣雄と結婚 1914年
1078(1)



●児玉鶴子 侯爵木戸幸一と結婚 1915年
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『明治大臣の夫人』明治36年出版

<児島源太郎の放蕩>
日清戦争の時であった。
児玉伯爵の当時の痴劇と言ったら、かの伊藤博文公爵が官邸時代もかくやとばかり思うぐらい、夜に至ると馴染芸者を推参させ、かねて手懐けた小使が案内でシッポリ濡れた露尾花、阿呆と鳴く烏に驚かされ寝乱れ姿のしどけなく官邸を出る別嬪を見かけたことが少なくなかった。
この時の小使いという親爺はいまなお児玉の家へ養われてあるそうだが、これは先年の恩義に報いるためとか。
しかしこの話が夫人の耳に入ったならきっとただは済むまいか、とそんじょそこらで噂とりどり。
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宮武外骨『スコブル』1918年

「児玉神社の霊験」
近ごろ江の島にできた児玉神社は台湾泥棒の親分児玉源太郎を祭ったものであるが、その敷地は岩下清蔵の女婿山本三郎の実家たる岩本楼の所有地であったのを、杉山茂丸が買い込んで神社を建てたのである。
元来この神社は向島の杉本の別荘内にあったのだが、先年の洪水で滅茶苦茶になったのでここに移したものである。
寄進した鳥居や手水鉢には杉本や岩下の名が麗々と刻み込んであるが、何でも相場の神様・梅毒の神様とうので近ごろ流行するということである。
なぜ梅毒の神様であるかというと、児玉の死因は病死説・馬蹄銀事件で自殺した説の他に脳梅毒で死んだのだという説があるからだ。
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1927年『お鯉物語』安藤照子・芸者お鯉・15代目市村羽左衛門と離婚・首相桂太郎の妾

児玉源太郎大将は築地の待合〈かしわ家〉にふらりと出かけられては、
「おい、女将。面白く遊ばせてくら。何か愉快なことはないか」
無造作で剽軽でいたずら者の児玉大将の遊びはまた一風変わっている。
引き締まった鋭い顔・鷲のごとくに高い鼻・ランランと人を射る眼光いずれも常人のものではないのであるが、元来が極の小男で、ナリが至ってお粗末である。
鼠色になった白縮緬の兵児帯に、小倉の鼻緒をすがった杣の書生下駄、ヨレヨレの鳥打帽ときては、どう見ても落魄した老壮士である。
児玉大将はそんなことは平気の平左で
芸者をつかまえては、「どこか面白いところへ連れて行け。うまい物を食いに行こう」とおっしゃる。
面白く遊ばせてあげればいい役目の芸者連、いろいろなところへ引き回す。
ある時日本橋の中華亭にごはんを食べに行った。
児玉大将は例のいでたちで、連れもかまわず一人速足でドンドン中華亭の入口にかかったが、遅れた芸者連がやっと追いついた時、児玉大将はしょんぼりとして店から出て来た。
「御前さん、どうしたのです」
「ダメじゃよ。座敷が無いそうじゃよ」
「そんなことはないでしょう」
一同ゾロゾロおしかけると、女優は「どうぞ、こちらへ」と案内する。
「おかしなことがあるものじゃ。一人の入る座敷がなくて、大勢だと座敷があるんじゃからね」
床柱を背負った児玉大将が新橋一流の芸者ばかりを6~7人を相手に笑いながらからかわれるので、中華亭の女中たちは恐縮してしまう。
これに味をしめた芸者たちは、その後この伝で方々を押し回る。
「瓢屋はまだ行ったことがないが、女将は知ってるぞ」と児玉大将がおっしゃる。
みんなは門の外に隠れて、児玉大将だけ一人玄関に差しかかる。
案の定、女中から断られる。
児玉大将は決まり文句を聞かされるやいなや後ろを振り返って、「おい、おい、断られたぞ。みんな来てくれ」
そこで美しい伏兵、ワーッとばかりに飛び込む。
瓢屋では面くらうやら謝るやら。

お国柄のせいでもあるまいが、児玉大将は下帯というものを用いられない。
軍服はもとより洋服の時はそれでもいっこう差し支えないが、和服の時には時々はたの者が迷惑する。
芸者たちと大勢で浅草の大金に鶏を食べに行った時、気の利いた芸者が浅草の仲見世でサルマタを買って、大金へ行ってから児玉大将を無理にお湯に入れて、そのサルマタを用いていただいた。
「これは良いものをくれたね」
児玉大将は破顔一笑。
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◆2代伯爵 児玉秀雄 初代伯爵児玉源太郎の子
1876-1947




■妻  寺内サワコ 寺内正毅伯爵の娘
1881-1966




●女子 児玉貞子 婿養子を迎え3代当主とする


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『横から見た華族物語』昭和7年出版

<児玉秀雄の結婚>

児玉源太郎伯爵は子供の教育には周到な用意を払った。
嫁を探すについても非常な関心をもってこれに当たった。
だが当人の心持にまで立ち入って干渉するような愚はせぬ。
誰でも本人の気に入った者を選ぶがよいが、ただ児玉家は小姑が大勢いるからそれとも折り合いを上手くつける女を探せと言った。
秀雄氏も親父の言葉を承服して親子ともどもその条件に合った女を探したが、いわゆる帯に短しタスキに長しで思うようなのが見当たらない。
寺内正毅伯爵の屋敷に内輪の祝宴が開かれて児玉父子もこれに招かれた。
寺内家には沢子と呼ぶ娘があって、長女ではあるが大勢の兄弟達と義理の母親との間に立って、三方四方に心を配り家庭の円満に努めているので当時評判となっていたが、この沢子が当日のお客の接待に出た。
その姿に目をつけたのが児玉伯爵であった。
寺内家から帰ってから「あの娘はどうか」とさっそく秀雄氏の意見を聞くと、実は秀雄氏も沢子の淑やかな風姿に心を動かしていたのであったから、
「実は私もあれなら理想の嫁だと思っていたところです」というようなことで、それは面白い、期せずして親子とも理想の婦人に邂逅したとはよくよくの巡り合わせだということになって、さっそく先方にも掛け合った上とうとう沢子を秀雄氏の嫁にすることになった。
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1927年『お鯉物語』安藤照子・芸者お鯉・15代目市村羽左衛門と離婚・首相桂太郎の妾

桂太郎公爵は「児玉が行きていてくれたらなあ。しかし児玉には秀雄がある。あれは利口者じゃ。まだ若いが親の子じゃから、大物になるじゃろう」
お鯉は「秀雄さんは冗談をおっしゃる時には本当にお父様と同じ調子で面白い方でございます。芸者の頃、私共に『いつもオヤジが厄介になる。いろいろありがとうよ』などとあの禿げた頭をお下げになるので、私共はおかしくってたまらないのです。口達者な芸者が『児玉さん、そんなに御辞儀をされるとよく光りますよ、まぶしくって堪らないわ』などと申し上げると、『僕も気をつけてなるべく御辞儀しないようにしているのだが、お歴々がそろっているのでうっかりやってしまった』なんて御冗談を言われるんですもの、みなで大笑いしました。」
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◆3代当主 児玉忠康 広幡忠朝侯爵の子・婿養子になる
1898-1990


■妻  児玉貞子 2代伯爵児玉秀雄の娘 
1902年生


●長男
●二男
●三男
●四男

■東京本邸 麹町区永田町
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◆初代伯爵 伊東巳代治 農商大臣
1857-1934 77歳

1879年 24歳
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ロシアで





■妻  恵阿八重 恵宗猛の娘 
1858-1947 


●長男 伊東太郎  2代当主
●二男 伊東二郎  伊東久実子爵の養子になり伊東二郎子爵となる 
相馬順胤子爵の娘相馬沢子と結婚・奥村祐斉の娘奥村昌子と再婚
●三男 伊東三郎  市島ミネと結婚
●四男 伊東四郎  陸軍山梨半造の娘富子と結婚
●五男 伊東五郎  中野慮吉の婿養子になり中野五郎となる
●六男 伊東六郎
●八男 伊東九郎  兄伊東二郎子爵の養子になり伊東九郎子爵となる
●九男 伊東十郎
●11男 伊東重一郎 浜野澄子と結婚

●実子 伊東ミチ  原口徠男爵と結婚
●庶子 伊東喜美  斉藤馨之助と結婚


●伊東二郎 伊東二郎子爵となる 相馬順胤子爵の娘沢子と結婚



●伊東ミチ 原口徠男爵と結婚



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万朝報 1898年

伯爵伊東巳代治は河原崎座の出方にて野幇間を兼ねチラ粂と呼ばれたる梅田浅次郎養女石田アサ(35歳)が、日本橋数寄屋町にて和泉屋千代という芸妓たりし頃より買い馴染みて妾とし、永田町自邸表門の方の家に置き、裏門の方には住吉町の万屋小達の達子こと中山ノブ(26歳)を妾とし置く。
これにもかかわらず巳代治は昨年雇い入れたる小間使いの永野ケイ(18歳)に通じて孕ませしが、これがためにケイは妻妾の妬みを受けた虐待されこの2月急病を発して堕胎す。
その後病気回復を待ちて再び巳代治方に到り、以前のごとく小間使い兼帯の妾となりつつあり。
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宮武外骨『地獄耳』1917年

奥田義人が男爵に叙せられた際 読売新聞記者に「奥田は国家に如何ような勲功があったのか」と尋ねると、「国家のことは知らないが、親分たる伊東巳代治には大なる功労があったものだ。巳代治が女中に孕ませたことは二度や三度ではないのだが、その都度奥田に処分を命ずると、奥田はその親元に対して『子ぐるみ引き取るならば一時金千円もらってやる。月手当を望むならば子供の生存中は毎月30円もらってやる。子供を伊東家に渡して去るならば500円もらってやる』というふうにいわゆる奥田案を提出するので、親元との交渉は造作なく結了する。巳代治はこれを嬉しく感じていたのみでなく、自分が大株主たる東京電燈庇護案を東京市会に通過せしめてくれたため、相場で莫大な利益を占め得られた殊勲もあったので、臨終に取り急いで男爵奏請の運動をしたのだ」と。
当今はこんな筋合いで華族になるのが多いのである。
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宮武外骨『地獄耳』1917年

伊東巳代治は傲岸不遜をもって有名な男であるが、政界における自己の野心を満足させるには新聞記者を懐柔するに限ると思っているのか、自宅に刺を通じて来る訪問記者に対しては先生扱いで誰にでも「先生、どうか椅子に」という風だから、学校出の世間慣れぬ新聞記者はこの丁重なる待遇に感じ入るそうである。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

犬養毅を伊東巳代治に紹介した者は関直彦で、関は巳代治の新聞であった東京日日の記者であった関係から、巳代治とは切っても切れぬ仲である。
そこで巳代治も犬養も刀剣道楽というを利用して、この道楽にかこつけて交際を開かしめたものであるという。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

伊東巳代治の腰巾着は前田蓮山。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

時事新報に『政変物語』を出して、何かの政治記事にはきっと伊東巳代治を引っ張り出して、伊東を大学者の如く大政治家の如く至誠愛国の士のように書いてあるが、これは伊東の睾丸を握っている前田蓮山の筆である。
また『太陽』に連載されている政界の表裏を書いている無名隠士というのも前田蓮山の匿名で、同じく伊東巳代治を書いている。
少々の提灯なら構わぬとしてよいが、あまり激しいので至るところで鼻つまみにされている。
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1927年『お鯉物語』安藤照子・芸者お鯉・15代目市村羽左衛門と離婚・首相桂太郎の妾

伊東巳代治伯爵も一時は飛ぶ鳥を落とす勢いでおられたので、お鯉もよくお目にかかった。
しかしいつも人の御招待のお席で、伊東伯爵自身でお遊びになるようなことはなかった。
もっとも永田町の御邸内には、髪の結い方から着物・帯すべて同じようにそろえた幾人かのお妾がいた。
「伊東の御前さんはおよばれにはお出かけになるが、御自分でみんなを呼んでお遊びになることなぞないんだから、本当に憎らしいよ」
なんとかして伊東さんの御馳走になろうではないかとの相談が、いたずら好きの芸者たちの間に一決した。
お鯉を含む3人の芸者が、伊東さんの芸者赤坂の鹿の子を連れ出して目黒の恵比寿館に陣取った。
その趣向はできるだけ贅沢をして、みんなで遊んで、
「伊東さん、鹿の子さんも商売が忙しいので少し身体の養生をしたいとのことですから、我々も御供して養生をさせていただきました。誠にありがとうございました」と有難がって、恵比寿館の勘定を払わせようというのである。
いよいよ園遊会の当日が来た。
大勢集まった当代のお歴々の並みいる中で伊東伯爵をつかまえて、
「伊東の御前さん、本当にありがとうございました。お蔭で私たちまで平素の疲れが休まりました」
「そんなことは知らぬよ」
「いいえ、ありがとうございました。沢山御礼を申し上げます」という騒ぎ。
しまいには野次馬まで加わって伊東伯爵を祭り上げるので、「そんなことは知らぬよ」では通らなくなって、目的を達したとは大手柄であった。
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『明治天皇紀』

1892年3月19日
天皇曰く、伊藤と松方とは性質相異なり。
伊藤は才智をもって事を処す、その進歩速やかなるも、時に顛躓し退歩することなきを保しがたし。
松方はこれに対し鈍き方なるをもって、その進歩遅々たるといえども、その進むや確実なり。
要するにこれ両人の天性に帰するをもっていかんともすべからず。
伊藤これを知らざるにあらず。
しかも近時松方を譏り、その矢を数えて寛仮せざるの状あり。
松方すこぶるこれを苦となす。
両人の間をしてこのごとくならしめたるは、陸奥が松方の矢を伊藤に告げ、また井上毅・伊東巳代治等が日々内閣の失策、松方の欠点を密かに伊藤に報ずるをもってなり。
伊藤は過日これらの書翰を積み重ねて岩倉具定に示し、その不平を漏らして松方を攻撃せしかば、岩倉も大いに伊藤の大人げなきに驚けることあり。
また憲法論にて井上毅・伊藤巳代治・金子堅太郎3人の意見時に一致せず、松方その決断に悩むものの如し。
松方と伊藤相和し相一致するに至らば可なれども、それ容易に行われがたし。
松方にその意あるも、松方はその方法を過まれり。
もし松方が井上馨と結び、井上馨をして適宜に斡旋せしめば事円滑に行わるべきも、松方は井上馨を好まず、常に山県を撰りてもって伊藤を説かしめんとす。
しかれども伊藤・山県の相善からざること久し。
その傾向近時ますます著しく、相対すれば既に互いに不快の感を生ずと言えり。
ゆえに山県は伊藤との間を周旋しあたわざるなり。
井上毅・伊東巳代治等も今や気大になりて、松方に使役されざるの状あり。
山県の首相たりし時は、井上毅・伊東巳代治も相応に使役せられたりしが、今日はしからざるなりと。
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『原敬日記』総理大臣

1920年12月7日
陸軍大臣田中義一の内話に「山県は枢密院議長を辞して清浦奎吾を議長となし、伊東巳代治を副議長に挙ぐることを伝言せよとは言わざるも、その意味なりしがごとく」と言うにつき、
予は「清浦の適否の問題にあらざれども、この際元老さりてさようの変化を宮中に起こすは国民の感情の上にて得策ならず。予は反対せざるを得ず」と物語りたり。
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『原敬日記』総理大臣

1921年2月25日
法制局長官横田千横田来訪。
「伊東巳代治が大隈重信と組んで陰謀をなしおる様子なり」と言えり。
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『原田熊雄日誌』西園寺公望の私的秘書

1932年1月15日
外務省の連中は「満州の問題は何とかしなければならん。2月11日紀元節を期して新国家を建てると言って出先ではどんどんやっているのに、こっちは相変わらずぐらついている。吉田茂が現地を見て来て何とか引き締めなければらなんとしきりに言っていた。政治家森恪なんかは外務省の谷正之に向かって『伊東巳代治を委員長に、平沼騏一郎を委員にして、出先をコントロールさせるより仕方がないだろう』などと言うが、今 伊東や平沼を担ぎ出されては困る。全然余計な物が出来上がる」と言った。

1932年2月7日
枢密院の空気も満州事変に対する出先機関の専断行為を心配しだした塩梅で、元枢密顧問官伊東巳代治も陸軍の横暴に対していろいろ不満を述べ、「第斧鉞を加えざるを得ない」とまで言っている。
しかしこれまで枢密院がさんざん軍部を煽て上げてきた事実を考えると伊東氏の言葉も矛盾したもので、むしろ従来の枢密院の無責任極まる行動こそ大半の責任を負うべきであると思った。
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『牧野伸顕日記』内大臣

1934年2月13日
湯浅宮相来訪。
伊東巳代治、昇爵運動を開始したること。
鈴木喜三郎より直接湯浅宮相に申込ありたる趣。
動機は金子子爵の例にありとのこと。
彼といいこれといい、呆れたる心事なり。
湯浅宮相は最初より相手にならざる由、心強く感ぜり。
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『原田熊雄日誌』西園寺公望の私的秘書

1935年5月25日
西園寺元老は「だいたい金子堅太郎とか伊東巳代治とかいう連中は憲法制定に直接枢機に参した者ではない。ただ憲法取調にドイツに洋行した時に通訳の任に当たったのは伊東一人の功と言ってもよい。金子のごときはだた英語をよくする者が他にいなかったために参考に英書を調べてもらったぐらいのことで、憲法の制定に本当の意味において働かれた功労者は井上毅で、あるいはフランスのボアソナード、あるいはドイツのグナイストこの三人が主になってやったのである」と言われた。
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◆2代 伊東太郎 初代巳代治の子
1880年生


■妻  西川チカ  印刷業西川忠亮の娘 
1890年生

0248



●男子 伊東治正  3代当主
●男子 伊東治次  神田三和子と結婚

●女子 伊東タチコ 真島タチコとなる
●女子 伊東ミヤコ 菅博太郎と結婚
●女子 伊東善子  徳大寺則麿男爵の子徳大寺三郎と結婚
●女子 伊東淑子  鎬木忠胤と結婚


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◆3代 伊東治正 2代太郎の子
1913年生


■妻  瀬下春  三菱銀行瀬下清の娘
1916年生


●長男
●長女

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