直球和館

2025年

2023/02

■東京本邸 北区西ヶ原 1万坪


■大磯別邸「聴漁荘」
2219(1)


2219(2)


2219(3)

足洗い場
2220(2)

シャワー
2220(1)



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◆初代伯爵 陸奥宗光 外務大臣・農商大臣
1844-1897 53歳没

*肺結核で死亡


■前妻 吹田蓮子 大阪の芸者〈お米〉・死別
1846-1872


■後妻 金田亮子 東京の芸者〈小鈴〉 
1856-1900 43歳没


●前妻の子 陸奥広吉 2代伯爵
●前妻の子 陸奥潤吉 財閥古河潤吉男爵となる

●後妻の子 陸奥清子 未婚
●愛人の子 陸奥冬子 未婚




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『明治天皇紀』

1890年5月17日
内閣総理大臣山県有朋、内務次官芳川顕正を文部大臣に、特命全権公使陸奥宗光を農商務大臣に任ず。
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明治天皇紀 明治23年5月17日

内閣総理大臣山県有朋、内務次官芳川顕正を文部大臣に、特命全権公使陸奥宗光を農商務大臣に任ず。
陸奥および芳川を擢任するは、人の多く異数とするところなり。
山県はじめ陸奥を擢抜せんとし、命じて帰朝せしむ。
けだし山県国会の開設に鑑み、陸奥が民間諸党に縁因あり、かつ政党の事情に通ずるをもって、これを閣班に列し議員を操縦せしめんとする意に出でしなり。
しかるに陸奥帰朝するや内閣組織すでに成り、陸奥を奏薦するの余地なし。
陸奥喜ばず、或は民間志士と交わり、或は逓信大臣後藤象二郎と結託す。
山県その長く閣外に止むべからざるを察し、ついに岩村通俊を罷めて陸奥をこれに代えんとす。
山県また芳川と相善し、すなわち榎本武揚を罷め芳川をもってこれに代えんと欲して、並びにこれを奏薦す。
天皇意やや安んじたまわざるところあり。
山県に告げて曰く「陸奥かつて10年のことあり。人となりにわかに信じがたし。芳川もまたすこぶる衆望に乏し。この二人を擢任する深慮せざるべからず」
山県対えて曰く「陸奥の前罪はすでに消滅せり。今日採用するにあらずんば、民間にありてかえりて政府の妨礙をなすべし。むしろこれを擢抜してその才幹を利用するにしかず。もし反覆することあらば臣その責に任じ、あえて宸慮をわずらわすことなかるべし。また芳川の人となり、臣よくこれを知る。いまだこれに内務を託すべからずといえども、もって文部を託するに足れり。臣よくこれを指揮せん」
天皇ようやくこれを聴したまう。
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『明治天皇紀』

1892年3月19日
天皇曰く、伊藤博文がはじめ政党組織を提唱するや陸奥宗光は大いにこれを賛し、
「共に民間に下り自らその任に当たらん」と言いしが、伊藤がいよいよ辞表を提出するに及びたちまち豹変し、
「伊藤にして政党を組織するも板垣退助の三分の一の勢力をも獲得しがたかるべし」とてその政党組織を困難視し、しきりに嘲弄の口吻を弄せしかば、井上毅これを聞きて大いにその反覆を憤りこれを侍従長に告ぐ。
また去年の議会解散に際しても、
陸奥ははじめ「解散すべからず」と論じたりしが、
12月24日に至りにわかに「今日中に解散せざるべからず」と松方正義に迫りたる由なり。
また陸奥は内閣において機密の議あるごとにこれを他に漏洩し、改進・自由の両党にも気脈を通ずるもののごとし。
大臣等これを斥けんとするもあたわず、
内々山県有朋が「陸奥を簡抜したるは失策なりき」と嘆ずと言う。

もっとも伊藤・井上馨は同人の才幹を愛するの風あり。
陸奥もまた才子なるをもって、内閣のことはもちろん松方の失態を列挙してこれを伊藤に報じ、伊藤にして復職するにあらずんば何事も為すべからずとの意を告ぐるを常とせり。
ゆえに陸奥がいよいよ辞表を提出するに至りしは、大臣等の大いに幸とするところなりき。
しかれどもこの間の事情は互いに知りて知らざるがごとく、陸奥も表面意見合わずと言うをもって辞職せりと。
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宮武外骨『地獄耳』1917年

文芸倶楽部に吉原の記事を書くので有名な江沢春霞という男がある。
彼は吉原の牛太郎上りで、今はなじみの花魁を女房にして芝の神明で芸者屋をやっている。
この春霞は陸奥宗光伯爵が芸者に生ませた落胤だそうで、容貌から口の利き方まで宗光伯爵にそっくりだということだ。
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『明治大臣の夫人』明治36年出版

昔を洗えば大阪新町の花柳界で少しは顔の売れた粋者の果て、その色香に迷い込み日毎に通うお客の中から手練の腕によりをかけ見事生け捕ったはカミソリ大臣、ここにめでたく泥足を洗う身となり昨日に変わった丸髷姿、果たせるかな腹を痛めた二人のせがれ、いずれも立身出世し第二の陸奥ができるとの世評は四方八方。
ところが才子多病美人薄命の諺が的中して、悲しいかな夫人には産後の病気でとうとう亡くなられてしまった。

昨日までは手活の花として寵愛して措かなかった恋女房も狂風に散ってしまった後は、持って生まれた色情の炎なかなかに消ゆべくもなくここに召し出された再度の夫人、しかしこれも同じく粋界の出身、その頃板垣伯爵が愛妾であった小清とともに新橋の双美と謳われたほどの優物。
もっとも元来が道楽者の陸奥伯爵、先夫人が芸妓で次もまた芸妓であるときたはこの間の消息あに真面目なるを得べけんや。
陸奥伯爵が有名なる女好きであったことは誰もまた知っていたことだが、不思議なのは惚れた弱みか、また夫人の腕前が優っていたのか、外へ出てはずいぶん馬鹿もした代り家にいる時は鴛鴦も羨むほどの厚い伉儷、こればかりは陸奥伯爵の性行中特筆大書すべき異例である。

陸奥伯爵は何を申すも人情にはごく冷淡酷薄で、眼中には絶えて一滴の涙をも持たぬ性質であった。
この冷情な陸奥伯爵がある時都筑馨六男爵を評して、
「人も馨六のように軽薄では仕方がない。今少し人情を斟酌するようでなくては」
そばに沈黙していた夫人は陸奥伯爵の顔を見つめたかと思うと、
そう仰せられるあなたはどうです。藪を突いて蛇を出すとはこんなことでございませぬか」
と言われた陸奥伯爵、再び何の言葉もなかったとか。
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◆2代伯爵 陸奥広吉 初代伯爵陸奥宗光の子
1869-1942


■妻  陸奥磯子 イギリス人エセル・パッシングハム
1868-1930

*エセルは広吉がイギリスに留学していた時の下宿先の娘。
父宗光に結婚を反対され、父の死後やっと結婚できた。
出会いから17年後、広吉は37歳、エセルは38歳になっていた。


●長男 陸奥イアン陽之助 3代当主


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◆3代伯爵 陸奥イアン陽之助 2代伯爵陸奥広吉の子
1907-2002 95歳没

*インタナシヨナル映画株式会社を創立


■1番目の妻 イギリス人 1929年イギリス留学中に結婚・のちに離婚


■2番目の妻 矢野美和子 三井物産ロンドン支店長矢野謹二の娘と見合結婚・のちに離婚
父日本人×母オーストラリア人ハーフ=クォーター
1919-1998 


■3番目の妻 本田寿賀  NHKアナウンサー・死別


■4番目の妻 松田祥子  28歳年下の編集者


●長男 陸奥宗広

◆初代伯爵 陸奥宗光 外務大臣・農商大臣
1844-1897 53歳没

*ヨーロッパに留学

*肺結核で死亡

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1871年 ドイツで
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1884~1886年 パリで
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■前妻 吹田蓮子 大阪の芸者〈お米〉・死別
1846-1872


■後妻 金田亮子 東京の芸者〈小鈴〉 
1856-1900 43歳没


1874~1875年 カメラ:内田九一
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1888年
1888



●前妻の子 陸奥広吉 2代当主
●前妻の子 陸奥潤吉 財閥古河潤吉男爵となる

●後妻の子 陸奥清子 未婚
●愛人の子 陸奥冬子 未婚


1895~1896年 カメラ:小川一真
左から 亮子夫人・陸奥宗光・広吉
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◆2代 陸奥広吉 1代宗光の子
1869-1942

*英ケンブリッジ大学に留学




■妻  陸奥磯子 イギリス人エセル・パッシングハム
1868-1930

*エセルは広吉が留学していた時の下宿先の娘。
父宗光に結婚を反対され、父の死後やっと結婚できた。
出会いから17年後、広吉は37歳、エセルは38歳になっていた。


1907年頃 ロンドンで
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●長男 陸奥イアン陽之助 3代当主


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◆3代 イアン陽之助 2代広吉の子
1907-2002 95歳没

*イギリスに留学

*インタナシヨナル映画株式会社を創立

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■1番目の妻 イギリス人 1929年イギリス留学中に結婚・のちに離婚


■2番目の妻 矢野美和子 三井物産ロンドン支店長矢野謹二の娘と見合結婚・のちに離婚
父日本人×母オーストラリア人ハーフ=クォーター
1919-1998 

■3番目の妻 本田寿賀  NHKアナウンサー・死別


■4番目の妻 松田祥子  28歳年下の編集者


●長男 陸奥宗広

■高輪亀ヶ岡本邸 4万坪の敷地に西洋館があった。


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◆初代伯爵 後藤象二郎 「土佐三伯」の一人 大臣を歴任
1938-1897 59歳没

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カメラ:上野彦馬
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カメラ:内田九一
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■前妻 寺田磯子 士族寺田左右馬の娘 


■後妻 雪子   芸者〈小仲〉
1847-1918 71歳没

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●男子 後藤猛太郎 2代伯爵
●男子 後藤六弥

●女子 後藤早苗  財閥岩崎弥之助男爵と結婚
●女子 後藤小苗  政治家大江卓と結婚
●女子 後藤五十子 士族成富公三郎と結婚
●女子 後藤延子  長与称吉男爵と結婚
●女子 後藤木末  技師若山鉉吉と結婚


●後藤早苗  財閥岩崎弥之助男爵と結婚



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明治天皇紀 明治23年5月17日

内閣総理大臣山県有朋、内務次官芳川顕正を文部大臣に、特命全権公使陸奥宗光を農商務大臣に任ず。
陸奥および芳川を擢任するは、人の多く異数とするところなり。
山県はじめ陸奥を擢抜せんとし、命じて帰朝せしむ。
けだし山県国会の開設に鑑み、陸奥が民間諸党に縁因あり、かつ政党の事情に通ずるをもって、これを閣班に列し議員を操縦せしめんとする意に出でしなり。
しかるに陸奥帰朝するや内閣組織すでに成り、陸奥を奏薦するの余地なし。
陸奥喜ばず、或は民間志士と交わり、或は逓信大臣後藤象二郎と結託す。
山県その長く閣外に止むべからざるを察し、ついに岩村通俊を罷めて陸奥をこれに代えんとす。
山県また芳川と相善し、すなわち榎本武揚を罷め芳川をもってこれに代えんと欲して、並びにこれを奏薦す。
天皇意やや安んじたまわざるところあり。
山県に告げて曰く「陸奥かつて10年のことあり。人となりにわかに信じがたし。芳川もまたすこぶる衆望に乏し。この二人を擢任する深慮せざるべからず」
山県対えて曰く「陸奥の前罪はすでに消滅せり。今日採用するにあらずんば、民間にありてかえりて政府の妨礙をなすべし。むしろこれを擢抜してその才幹を利用するにしかず。もし反覆することあらば臣その責に任じ、あえて宸慮をわずらわすことなかるべし。また芳川の人となり、臣よくこれを知る。いまだこれに内務を託すべからずといえども、もって文部を託するに足れり。臣よくこれを指揮せん」
天皇ようやくこれを聴したまう。
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明治天皇紀 明治25年3月19日

後藤象二郎は伊藤博文の政党を組織するを喜ばずして異論を唱うるもののごとし、けだし伊藤はいつにても総理大臣たることを得べく、政権を取るために政党を組織するの要なし。
改進・自由両党が同志をもって組閣し、その主義を実行せんとすることとその事情を異にせり。
これ伊藤の政党を組織せんとする真意を知るに苦しむゆえんなりと言うにあり。
後藤象二郎は伊藤の辞職には反対せるが、その言極めて条理あり、陸奥宗光のごとく反覆の挙動なし。
近時は大いに真面目になりたる風あり。
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延子の義弟・作家 長与善郎

僕は延子が時たま高輪の実家に行くたびに、一緒についていくことを楽しみとした。
そのにはちょうどいい遊び相手である延子とはまた腹の違う二人のお転婆娘がいたり、延子の兄が僕をロバに乗せて遊ばせてくれるからでもあったが、とうてい都会の中とは思えぬ自然の山野のように、ちょこまかと箱庭式に手を入れて造ってないのも気に入った。
明治天皇を迎えたことがあるという洋館は平屋であったが、外国建築家の手に成ったものらしく純然たる19世紀西洋貴族の家の観があり、華麗なシャンデリアの垂れ下がった客間の一隅に置かれている
直径1mは優にあると見える横文字入りの大地球儀は格別僕を喜ばせるものであった。
広い日本座敷が大きな池の上に浮御堂のように突き出ているのもいいと感心したが、少しイタズラ癖のあったらしい磊落な後藤伯爵は、ひいきの五代目菊五郎や柳橋の芸妓たちを呼び集め、わざと室内が丸見えになるように雨戸障子をことごとく開け放っておおっぴらに花札を引き、邸内を巡回する警護の巡査を弱らせて興じた。
日本人には珍しく立派な体格の後藤伯爵が大臣ではあったとはいえそんな豪華な贅沢ができたのは、
京都の芸妓であった伯爵夫人の実の娘が高知藩の大財閥岩崎家の夫人であった関係もあった。
この伯爵夫人がまた、その昔夫を殺害に来た近藤勇を女だてらに身をもって匿い救ったという女傑で、押し出しも堂々とした才女であった。
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『明治大臣の夫人』明治36年出版

後藤伯爵の未亡人がその昔を洗ってみれば、三本木某楼の芸妓で容姿端麗・才気侠慧・艶名久しく教坊に冠たりとでも評したいぐらいなかなかの美人であった。
当時芸名は小仲と言って後藤伯爵が久しき間のおなじみ、後藤伯爵のために身請けされ改めて正室となった今の伯爵夫人すなわちこれである。

後藤伯爵は豪放大胆な男であったにも似合わず地震を恐れること一通りでなく、通常人が覚られないごく些少の微震でも後藤伯爵は顔色を変えて屋外に飛び出すという始末、いつも家人の笑いを受けるのである。
右の訳で後藤伯爵の寝室は平屋に造り建て、決して二階建ての家には休まなかった。
ある時天にわかに曇り雷鳴しきりに今にも洪雨をもよおしたので、夫人は一室に閉じこもり線香を立てて例のクワバラクラバラをやっていると、後藤伯爵はその部屋に入って、
「何だ雷が怖って、意気地のない奴だ。そんなことで俺の妻になれるかい」と叱り飛ばした。

やがて4~5日経つとほんの小さい地震が申し訳みたように動くと、後藤伯爵とたちまち寝巻のまま床を出て裸足で庭に逃げ出したが、その狼狽加減さと言ったらお話しようもなかった。
後藤伯爵は足を洗い元の部屋へ帰ってきた時、夫人はかねての仇ここぞと思って、
「あなた、これしきな地震は下女たりとも驚きません。まして当代の偉人とも言われる御身が裸足で駆け出すとは何のことでしょう。そんな弱虫で私の夫になれますか」と一本打ち込んだので、さすがの後藤伯爵も苦笑いしながら、
「俺もきっとそう来るだろうと思っていた」とは、この幕なかなかの大出来であった。
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大隈重信侯爵

後藤象二郎も自分一個の財政上から甚だしく困難した。
借金で外国人からも内国人からも訴えられるという始末で、後藤に不似合いな大規模な石炭鉱なんかに手をだしたからますます傷を大きくした。
窮迫もはや免るるに道なく放っておけば借金のために切腹でもしなければならぬ仕誼となった。
福沢諭吉は後藤と友人であったから、
「このまま放っておけば後藤は死ぬる。三菱の弥之助は後藤の娘の婿である。これを救うには三菱に奮発してもらわんといかぬ」と言う。
そこでたびたび岩崎弥太郎に談判したが、三菱は後藤とも板垣とも大衝突をしていたし、それまでの後藤らがだいぶ運動費やら何やらでせびっていたとみえて、弥太郎一向に受け付けぬのみか大いに怒って親類づきあいもせぬと言う。
弥之助も義父の窮迫を見るにしのびずたびたび兄を説得したが弥太郎それでも承知せぬ。
そこで我輩が仲介に立つと弥太郎しぶしぶ少し出すから、もっとうんと出せと我輩大いに力んで見せた。
それでも弥太郎かれこれ言うから、後藤の持っていた高島の鉱山を100万円で買ってやれという訳で、
これで後藤の負債を消却して整理をつけ20~30万の生活費としての余裕をも残した。
この福沢の熱心な救済策によって、一敗地に塗れていた後藤はようやく救われて蘇生したんである。
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万朝報 1898年

政治家大江卓(後藤小苗の夫)は浜町1丁目の待合〈弥生〉こと百瀬ミツの養女トク(19歳)をことのほかに寵愛し、本年1月に男児を生ませて修吉と名づけたるが、その実は清本延寿太夫の胤なりと評判なり。
また大江は日本橋区新柳町堺屋トミの抱え千代子(19歳)をも愛して、ほとんど妾同様に世話をなしおれるが、これを知るや知らずや法制局長官梅謙次郎も千代子に大熱心にて、自分が長官の椅子よりすべり落ちるも知らずに通いおるという笑止。
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1927年『お鯉物語』安藤照子・芸者お鯉・15代目市村羽左衛門と離婚・首相桂太郎の妾

後藤象二郎伯爵の愛妾に柳橋芸者の〈小みね〉というのがあった。
恐ろしい美人だが、顔が馬鹿に長いところから、馬の小みねというあだ名をつけられていた。
この人はなかなか容態家で、髪を洗うにも女中が左右に付き添っていなければならぬという手数のかかる人。
一時は後藤伯爵の寵をもっぱらにしていたが、後藤伯爵が明治座の茶屋花屋の娘と関係ができたのに憤慨して、強いて暇をもらって木挽町に巴家という待合を出した。
かなり繁盛したものである。
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◆2代伯爵 後藤猛太郎 初代伯爵後藤象二郎の子
1863-1913 50歳没

*日活の前身である『日本活動フィルム会社』を創立

*放蕩により廃嫡される。




■妻  大湊ヨイコ 大湊惣太郎の娘 
1870年生


●男子 後藤保弥太 3代伯爵
●男子 後藤良輔
●男子 後藤三郎
●男子 後藤紫郎  川添紫郎となる

●女子 後藤ナオコ 雨宮良孝と結婚
●女子 後藤孝子  伊勢重と結婚


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◆3代伯爵 後藤保弥太 2代伯爵後藤猛太郎の子
1896年生

*放蕩で借金を膨らませる。


■前妻 花岡貞子  花岡出来輔の娘・離婚
1902年生 


■後妻 京都の名家出身でバツイチの幸子・離婚


●男子 後藤省三  4代伯爵


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◆4代伯爵 後藤省三 3代伯爵後藤保弥太の子
1923年生

*2代伯爵後藤猛太郎の頃から経済的に困窮し、爵位を返上する


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※当時の総理大臣の年給は1万2千円

後藤象二郎は放蕩を重ねる2代猛太郎を勘当した。
象二郎志望の前年に勘当を解かれた猛太郎は日本活動フィルム会社を経営したりするが、放蕩は止まず、亡くなった時には4人の愛人と28万円の借金を遺した。

3代保弥太はアメリカの大学を卒業後帰国、新橋の花柳界で「後藤の若様」と呼ばれ、父親に負けぬ放蕩をした。
象二郎の娘早苗が財閥岩崎弥之助男爵に嫁いでいた関係から、岩崎財閥は保弥太に25万円を援助したが、保弥太はこれを半年で使い切ってしまう。

前妻貞子は保弥太に愛想をつかして、書生と一緒になって家を出て行く。
保弥太は財産目当てで京都の名家のバツイチの幸子と再婚するが、保弥太の浪費のために幸子はピアノを処分するなど嫁入り道具がどんどん金に消えていった。
そこで幸子もジャズバンドの外国人男性と一緒になって家を出て行く。

保弥太は一攫千金を求めてフィリピン・満州などを流転、昭和12年に死亡する。
4代省三は爵位を返上した。
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東京本邸 麻布区材木町(現:港区六本木)
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■父 広沢真臣
1834-1871*暗殺

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■妻


●男子 広沢金次郎 初代伯爵
●女子 広沢万寿子


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◆初代伯爵 広沢金次郎 父広沢真臣の功により伯爵を授かる 外務官僚
1871-1928 




■前妻   山尾千代子 子爵山尾庸三の娘
1876-1904


■後妻   山尾亀子  山尾庸三子爵の娘/前妻の妹
1883年生




●前妻の子 広沢真吾  2代当主
●後妻の子 広沢鋼四郎 大島重義の娘加寿子と結婚
●後妻の子 広沢信雄  扶桑産業社長伊藤与三郎の娘伊藤文子と結婚
●後妻の子 広沢大八郎

●前妻の子 広沢寿子  日本研磨砥石社長渡辺利二郎と結婚
●前妻の子 広沢温子  三井物産大野敬佶と結婚
●前妻の子 広沢直子  総理大臣池田勇人と結婚
●後妻の子 広沢富士子 官僚玉置善雄と結婚




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●広沢寿子  日本研磨砥石社長渡辺利二郎と結婚





●広沢温子  三井物産大野敬佶と結婚





左:広沢富士子→官僚玉置善雄と結婚
右:広沢直子 →総理大臣池田勇人と結婚
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◆2代 広沢真吾 1代金次郎の子
1898年生




■妻  大隈豊子 侯爵大隈信常の娘
1904年生

1929年 広沢真吾&大隈豊子
1929-1005



●男子 広沢真信 3代当主

●女子 広沢純子 三菱重工赤津誠章と結婚
●女子 広沢元子 子爵岡崎泰光の子岡崎国光と結婚
●女子 広沢昭子 日本郵船社長白仁武の子白仁正武と結婚


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◆3代  広沢真信 2代真吾の子
1932年生


■妻  毛利妙子 公爵毛利元道の娘

◆初代伯爵 板垣退助 土佐藩士乾正成の子・改姓する 「土佐三伯」の一人 内務大臣
1837-1919 82歳没

*退助は一代華族論を主張していたため、子孫は遺志に従い爵位を返上した

*44歳の時に暗殺者に襲われ、右胸を短刀で一突きされた。
武術に覚えのある板垣はさらに襲いかかってくる相手を右肘で払い、左手で相手の腹を突いた。
この時笑いながら「吾死するとも自由は死せん」と言ったことから、「板垣死すとも自由は死せず」という台詞が広まった。

*肺炎で死亡。




■1番目の妻 林氏   林益之丞政護の妹


■2番目の妻 中山氏  中山弥平治秀雅の娘


■3番目の妻 小谷鈴子 小谷善五郎の娘
1840-1885


■4番目の妻 荒木絹子 荒木伊三次の娘・長崎の酌婦・妾を本妻にする
1859-1938

*板垣は複数の妾を自宅に置いて妻妾同居していたが、廃娼論の高まりにより3番目の妻の死後は他の妾たちに暇を出し絹子を正妻にした。




●実子 板垣鉾太郎   1868年生 2代当主
●実子 板垣孫三郎   1885年生 
●実子 板垣正実    1889年生 
●実子 板垣六一    1897年生 乾六一となる

●庶子 板垣正一    1868年生 乾正士となる

●実娘 板垣軍子    1864年生 政治家宮地茂春と結婚
●実娘 板垣猿子/婉子 1872年生 安川甚一と結婚・写真家小川一真と再婚
●実娘 板垣兵子    1860年生 片岡熊之助と結婚
●実娘 板垣千代子   1893年生 学習院出身 財閥浅野泰治郎と結婚
●実娘 板垣良子    1895年生 学習院出身 哲学者小山鞆絵と結婚



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宮武外骨『地獄耳』1917年

板垣退助が自由党を組織して人気を博すると、各地に自由堂・自由軒・自由亭などという屋号ができ、果ては子供の名にも自由太郎・自由三郎などとつけたが、板垣は死なず自由が死んでしまったのでみなが嫌になって、屋号は廃めになったけれど、人名は容易く改められないので、変な名前をつけてくれたものだと親を怨んでいる者が多いそうな。
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宮武外骨『スコブル』1917年

「男性化したる女性」
板垣絹子はあまり有名ではないが、亭主の退助が女性化すると同様男性化している。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

十年一日のごとく板垣退助は財産差押を食う。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

板垣退助の腰巾着は奥野市次郎。
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◆2代 板垣鉾太郎 初代伯爵板垣退助の子
1868-1942


■前妻 井上寛子 井上式之の娘・離婚
1875年生


■後妻 松本節子 醸造家松本丑太郎の娘
1881-1946


●二男 板垣守正 1900年生 2代当主
●三男 板垣正貫 1903年生 3代当主


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◆2代 板垣守正 初代伯爵板垣退助の子
1900-1951


■妻  福士桃子 福士進の娘
1911年生


●実子 板垣正明  

●庶子 板垣正  1926年生 陽明社社長尾崎旦の養子になる 尾崎正

●庶女 板垣拓子 1935年生 


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◆3代 板垣正貫 初代伯爵板垣退助の子
1903-1942


■妻  土井晶子 満鉄重役土井芳輔の娘
1917年生


●長男 
●二男  

●長女

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