直球和館

2026年

2024/01

◆初代子爵 石黒忠悳 平野順作良忠の子・養子になる 軍医総監
1845-1941

1879年 36歳
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1158(1)



■妻  安達久賀 安達助右衛門の娘
1846-1925


●長男 石黒忠篤 2代当主

●長女 石黒孝子 政治学者小野塚喜平次と結婚


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宮武外骨『地獄耳』1918年

十年一日のごとく石黒忠悳は閥族結婚の媒介。
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◆2代 石黒忠篤 1代忠悳の子
1884-1960


■妻  穂積光子  男爵穂積陳重の娘
1888-1965


●二男 石黒孝次郎 3代当主
●三男 石黒光三  前田照子と結婚

●長女 石黒重子  物理学者大幸甫と結婚
●二女 石黒モトコ 日本史学者原敬吾と結婚


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◆3代 石黒孝次郎 2代忠篤の子
1916-1992


■妻  板垣登代子 板垣鳳輔の娘
1917-1966


●長女
●二女
●三女

■東京本邸 赤坂区赤坂台町

■千葉県一宮別邸 


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◆初代子爵 上原勇作 龍岡勇作・養子になる 陸軍大臣
1856-1933

1879年 28歳
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1881~1885年 フランス留学中
1000


1904年
1003


1908年
1002


1104(1)


一宮別邸で
1006



■妻  野津槙子 野津道貫侯爵の娘
1873-1926 

1104(2)


1004


1924年 赤坂本邸で
1005



●長男 上原七之助 2代当主
●二男 上原勇次郎 梶原静子と結婚
●三男 上原勇三郎

●長女 上原愛子  知事大塚惟精と結婚
●二女 上原尚子  大林組社長大林義雄と結婚
●三女 上原静子  医者小沢凱夫と結婚


赤坂本邸で
1001



●上原愛子 知事大塚惟精と結婚
1105(1)



●上原尚子 大林組社長大林義雄と結婚
1105(2)



●上原静子 医学者小沢凱夫と結婚
1105(3)



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◆2代 上原七之助 1代勇作の子
1898-1945


左:上原七之助 右:勇次郎
1105(4)



■妻  中村愛子 満鉄総裁中村是公の娘
1905年生


●長男 上原尚作 3代当主

●二女 上原仲子 経済学者島野卓爾と結婚
●三女 上原育子 堂野前繁と結婚


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◆3代 上原尚作 2代七之助の子 
1926年生


■妻  中島信子 中島信栄の娘
1926年生


●長女




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宮武外骨『スコブル』1918年

「女房には頭の上がらぬ軍人」
上原勇作の女房は野津道貫大将の娘である。
この女房は低能のくせに昔風の虚栄家で、出入商人はもちろん亭主の親類に対しても直接には決して言葉を交わさぬと決めているし、襖や障子の開閉にもいちいち女中の手を煩わすので、上原も弱っているそうだ。
軍閥家の頭が高いのも、こんな閨門に頭を下げている反動であろう。
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『岡部長景日記』文部大臣※当時は内大臣秘書官長

1929年10月8日
元帥および大勲位の方々へ御陪食を賜る。
東郷平八郎元帥・上原勇作元帥・山本権兵衛大勲位の三氏を召さる。
一同着席するや、まず昭和天皇より東郷元帥に対し「元気よいか」との御言葉あり。
東郷元帥は「達者に致しております」とお答えし、山本大将が天候不順の御挨拶を申し上ぐ。
それからゴルフの話が始まり、上原元帥は毎日少なくとも1里は歩くと言われる。
明治初年の欧米留学の話出て、東郷元帥は留学を命ぜられ、浴衣がけにてフランス船に乗り込みたるに、船長は「その風にては困る」と言い洋服を着し、山本大将は腕白者にて兵学校在学当時ケンカばかりしていたため、卒業は2番なりしが留学は1番と3番の人が選ばれ、山本大将は1年遅れしが彼地にてもよくケンカをなしたる由など申し上ぐ。
デザート終わって隣の御間に移らせられ、コーヒーとタバコ出で、みなゆっくりした気分でお話申し上げ、この御室が明治天皇の御学問所であって、御前会議等しばしば催された御部屋だそうで、山本大将は特に思い出深きらしく、日露戦争の際司令官の任命等もこの部屋であったなどの話から当時の懐旧談多く、この任命の後みな控室に下り、
山本大将より野津道貫元帥に「どうか」と問うたところ、
「できるだけやる。勝敗は時の運び、何とも言えぬが」との答え。
黒木為楨大将は「どうかなるだろう」と、黒木式の答えであったと話続々。
山本大将は当時まで大山巌元帥がどう響く人物か見当つかず、はたして偉いのかと思いいたるに、総司令官拝命後海軍大臣官邸に来たから、
「君が出かけては困るではないか」と話したるに、
「いや、難しき人が多いから俺でなくては治まらない」と言われ、なるほどと思うたとのことなど、それからそれと話は出る。
「なにしろ上原のようなのがやかましかったのだろう」などと申し上げると、
上原元帥は「それは多少誤伝がある。風説は信じ難く、正しき情報を握ることは至難にて、現に自分は当時工兵監にてシベリアを経由してロシアに赴き、さらにシベリア鉄道にて帰朝すべしとの命を奉じ、まず情報を得んため長崎に赴きたるに、『シベリア鉄道は旅客を停止し、婦女子はみな本国に送還し、戦備に急なり』とのことなりしが、試しに行ってみようとウラジオに渡りたるに、平時とほとんど異ならず。そのまま乗車して渡欧し、途中水槽に防寒装置も無ければ軍備輸送の準備も一向見当たらず。情報が如何に信に措くに足らざるかこの一事にも知り得る次第なり。それからロシアを見てフランスに行き、帰路は時局切迫のためついにマルセイユよりフランス船にて帰国の途に就くことにしたるが、軍人にては捕まっては大変と思い、幸い台湾坊主にて頭髪皆無なりしため本願寺の僧と称して乗船したるに、シンガポールにて参謀本部より上原元帥宛ての書信あり。しきりに探されたる結果、滑稽を演じたることあり」等昔話あり。
また山本大将が「東郷元帥が艦隊司令長官に拝命の際、参謀長に伊集院五郎を求められたのには、あまり注文が大きいので驚いた」との話に、
寡言の東郷元帥も「それは自分が拝命の際、ロシア第一艦隊撃滅には選りすぐった勢力をもってこれに当らざるべからず。誰でもよしという条件であったから伊集院を求めたのに、あの辺りで(山本大将を指す)聞いてくれず、やっと島村速雄を得たのであった」との話。
その後旅順封鎖中大山総司令官が船で来たので、「バルチック艦隊が来るまでロシア第一艦隊をやっつけるべからず。それにはぜひ速やかに旅順を陥れてもらわねばならぬ」と希望を述べたるに、
大山総司令官は「奉天の兵が南下して来らばどうする」と返問をなしてなかなか聞き入れず。
参謀長をして児玉源太郎参謀長を説かしてたれども、やはり聞かず。
乃木希典をやるからよかろうとのことで、北へ北へと進んで行くのには心配したが、下関から要塞の砲を積み出したのは成功であったとの話。
また時々ウラジオ艦隊が来ても出会わなかったが、バルチック艦隊と出会ったことを聞いた時には安心した。
出会わないと戦うことができぬからと、当年を思い出しての話。
上原元帥は「野津・黒木らは飲友達で陣中でも常に飲み合っており、その度ごとに大山総司令官の批評等をしていたが、作戦計画定まり命令一下するや絶対に服従し、一言の意見も挟まなかった。これ日本軍の強味であって、ロシア軍にては右翼司令官はクロパトキン総司令官に対し援兵を求め、容れられざるや憤然帰国し、逆宣伝をなしてクロパトキンを失脚せしめたるが、かかることをなしては士気は衰え戦争できるものでなく、ロシア軍の各司令官と日本軍の各司令官を比較せば、能力は彼がはるかに優っておったのであるが、精神が我が長所にて、ついに戦勝を見るに至れるなり」と述べらる。
鈴木侍従長は「日進春日受取委員長であったところ、シンガポールにて石炭積込人夫のストライキに逢合し、2日間積込できず困って電報したるに、山本大将からえらく叱られた」と述懐あり。
奈良武官長は東郷元帥に「バルチック艦隊が朝鮮海峡を通過すべしとの予見は敬服の他なし」と話されたるに、
謙遜の東郷元帥は「それは当時北の海は悪く霧の多い時であり、かつ航路長々なるゆえ、遠方より来た艦隊は朝鮮海峡を通過するの他なきこと明らかなり」と答えられた。
「ただ各船の情報来り、それを押さえて時機を待つ間はずいぶん苦しく、出航の命令書を受けながら、電報あるまでは開封を止められ、今日か明日かとその電報の来るのを待っている間は一日千秋の思いであったが、いよいよ電報が来るとただちに作戦をなし徹夜、一睡もせずに計画したることあり」など話は尽きず。
昭和天皇は終始お頷き遊ばされて、老将軍連の話を傾聴あらせられ、至極御満足に拝したり。
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◆初代子爵 河瀬真孝 侍従長
1840-1919

1879年 41歳
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■妻  江川清子/英子 兵学者江川英龍の実娘・木戸孝允侯爵の養女
1855-1911


1872年頃 左:木戸孝允の妻木戸松子30歳 右:清子/英子夫人18歳
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●長男
●二男
●三男 河瀬真  1883年生 2代当主
●女子 河瀬セイ 1882年生 桜井郁二郎と結婚


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◆2代 河瀬真  1代真孝の子
1883-1953


■妻  毛利包子 毛利重輔男爵の娘
1887年生


河瀬真&毛利包子
1167(1)



●長男 河瀬真忠  1910年生 3代当主
●二男 河瀬真俊  1911年生
●三男 河瀬真浩  1913年生
●四男 河瀬小一郎 1918年生 大島陸太郎子爵の娘大島孝子の婿養子になる
●五男 河瀬小五郎 1924年生 

●長女 河瀬晴子  1915年生 学習院出身・海軍大尉井田鉄太郎と結婚
●二女 河瀬弥栄子 1917年生 学習院出身・山九運輸創業者中村精七郎の子中村勇一と結婚
●三女 河瀬孝子  1920年生 学習院出身
●四女 河瀬光子  1923年生 学習院出身


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◆3代 河瀬真忠 2代真の子
1910年生


■妻  キミ
1911年生


左:真俊 右:河瀬真忠
1167(2)

◆初代子爵 米田虎雄 侍従長
1839-1915

1879年 42歳
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1088(1)



■妻


●長女 米田千代 婿養子を迎え2代当主とする


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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

侍従長米田虎雄についてはいろいろな思い出話がございます。
明治天皇が崩御になりましたとき御枕元においでになった嘉仁皇太子〔大正天皇〕が、お水をお上げになるのに勝手がお分り遊ばさないのか物怖じしたようにぐずぐずしておいでになりました。
御様子を拝見していた米田侍従は「殿下」と一言叫ぶと同時にすっくと立ち上がり、後ろから嘉仁皇太子の御手を持って明治天皇の御口に水を差し上げました。
各皇族・各大臣以下並み居る人々が皆ハッとしてこの様子を見ておりました。
また嘉仁皇太子は言上があまり長くなると御退屈で椅子からお立ち上りになるので、それを防ぐために米田侍従が後ろから御上着をしかと押さえておりました。
何をしても誠意から出る頑固さで誰からも好感を持たれ、本当に気概のある痛快な人でした。
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◆2代 米田国臣 細川興勝の子・婿養子になる
1882-1951

1089(1)



■1番目の妻 米田千代 1代虎雄の娘
1891年生

1089(2)



■2番目の妻 正木熊子 陸軍正木勝次郎の娘
1893年生


■3番目の妻 柳沢春子 子爵柳沢徳忠二の娘
1888年生


●男子 米田正武  子爵戸沢正己の娘戸沢董子と結婚
●女子 米田八重子 大久保利謙と結婚


●米田八重子 大久保利謙と結婚
1088(2)


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