直球和館

2025年

2024/02

■夫 大村益次郎 村田孝益の子村田宗太郎・改名する 
1824-1869 45歳没*暗殺

*顔からついたあだ名は「火吹きダルマ」

*生まれつき健康だったが、8人の刺客に襲われる。
病院へ運ばれたが重傷で、診察したオランダ人医師ボードインと緒方惟準はすぐに右足の切断手術をしようとしたが、
大村が役人だったために周囲の役人が許可が無ければ手術させないと言い出し、許可が下りるまでに1ヶ月もかかった。
手術自体は成功したが、すでに敗血症を起こしており術後8日目に死亡した。

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■妻 高樹コトコ 高樹半兵衛の娘
1832-1905 73歳没


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『明治大正名妓物語』1929年

浜の家女将お花←芸者小浜

世の中がドサクサしているうちに、天子様が江戸へ行幸なさいましてね。
私たちは芝口の青柳の前で、天子様をお迎え申し上げたのです。
ところが御車の前に副島種臣さんがいらっしゃって、天神様みたいな装束してるじゃありませんか。
あっちには大久保利通さんがいらっしゃる、こっちには大村益次郎さんがいらっしゃる。
みなさんには御贔屓になりましてね。
私は本当にビックリしました。
大村さんなんか小男で安っぽい顔をしていましたけれども、なかなかお偉いんですってね。
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■大村松二郎 山本藤右衛門の子・養子になる
1851-1879 28歳没




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◆初代子爵 大村寛人 亀山教霖の子・養子になる
1868-1892 24歳没


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◆2代子爵 大村徳敏 毛利元徳公爵の子・養子になる
1876-1923 47歳没


■妻  福原梅子 福原芳山男爵の娘
1879-1956 77歳没


左から 徳敏の妹毛利万子/武者小路公共子爵夫人 徳敏 梅子夫人
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●男子 大村泰敏 1908年生 3代子爵

●女子 大村静子 1902年生 戸田忠孝子爵の前妻・本人死別


左から 梅夫人 泰敏 徳敏 静子
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左から 泰敏 静子 徳敏 梅子夫人



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◆3代子爵 大村泰敏 2代子爵大村徳敏の子
1908年生

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■前妻 松平順子 桑名松平定晴子爵の娘 大村泰敏と離婚・ウォルター・フィニーと再婚
1914年生


■後妻 四条光子 四条隆英男爵の娘
1916年生


●長男 大村和敏 1940年生 4代当主

●長女
●二女


大村益次郎の玄孫・大村泰敏の娘
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◆4代当主 大村和敏 3代子爵大村泰敏の子
1940年生


■前妻 東久邇文子 東久邇宮盛厚王の娘
1946年生・1967年大村和敏と結婚・1969年離婚・1985年名古屋の大地主高木代々吉と再婚

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■後妻 簱節子   簱栄吉の娘
1943年生

◆初代子爵 吉田清成 外務官僚
1845-1891 


アメリカ留学中
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1879年 36歳
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■妻  志村貞子 士族志村智常の娘
1859-1946




●長男 吉田清風 2代当主
●二男 吉田清純 井上清純男爵となる
●男子 吉田清介

●女子 吉田文子 三井武之助と結婚


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万朝報 1898年

<貞子夫人と三宮義胤の不倫>

男爵三宮義胤の女房がドイツ人〔正しくはイギリス人〕なることは誰も知るところなるが、西洋人にして本邦の事情に暗きを幸いとし、これまで我が妹なりなどと称して婦人を屋敷へ引き入るることもしばしばなりしが、ことに驚くべきは彼が故子爵吉田清成の未亡人貞子と密通の一条なりとす。
この密通の成り立ちはこれをつまびらかにせずといえども、吉田家がいまだ白金志田町におりたる頃よりのことなるは確かにて、その後 三宮は貞子に勧めて志田町の屋敷をば1ヶ月100円にてロシア公使に貸与せしめ、芝区三田華族稲葉の控邸を1ヶ月50円にて借りこれに移らしめたるが、この新借家はかなり手広く数室あるうちに2階に1個の秘密室あり。
三宮は月に6,7回は必ずこの秘密室にて未亡人貞子と会合し、会合中は子供はもちろん何人も2階に上がるを許さず、たいてい4,5時間にて辞し去るを例とす。
また月に2回以上は互いに手を携えて明神の開花楼あるいは池上の明保野に到る。
ことに目立つは三宮が大磯の別荘に到れる時にして、その間は信書の往復激しく吉田家への郵便電信の配達夫が出入することも引きも切らずという。
これらは密約的畜妾と言うべきなり。
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万朝報 1898年

男爵三宮義胤が故子爵吉田清成の未亡人貞子と密通しつつあることを掲げたるに、吉田家よりは取り消しを申し来たりしのみならず、事実無根にあらずやと疑いを差し挟みたる人さえありしかば、我輩もいささか不安心に思い種々の方面について再探を試みたるに、全くの事実なることを確かめ得たり。
よってそのうち最も精確なる部分のみを記載し、前日所報の誤りなきことを証せんとす。
貞子は旧幕臣志村知常の長女にして絶世の美人なるが上に、ダンスにおいては日本第一等をもって称せらる。
ゆえに本年すでに42歳なれども何人も目にもようやく28,9にしか見えず、これぞ三宮がその夫人重野(ドイツ人)〔正しくはイギリス人〕の厳重なる監察の目を潜りて密通したるゆえんにして、貞子も生来多情の婦人なるをもって深く三宮に迷いつつあり。
両者が今日のごとく不義の奴隷となりたる起こりを尋ぬるに、三宮はかつて貞子を北白川宮の御用掛に推薦したることあり。
この役目は1週1回の勤務にして妃殿下のお付きなるが、たいてい公使を務めたる人の妻女にして交際のことに通ずる者に限られたり。
貞子のごときはけだし最好の適任者なるべし。
そはともかく両者の交際はこの時より始まりしにて、その実際はいつしか一種の醜交と変じたり。
我輩が再探を試みある確かな手筋より聞き得たるところによれば、
(1)三宮は宮内省に出勤する前にも立ち寄り、帰りがけにも立ち寄り、たいてい日暮れ頃までいることほとんど毎日のごとくなり。
(2)来る時は案内なしに上がり込み、玄関より右へ回り中庭を隔てたる茶座敷様の8畳の離れ室に打ち通り、貞子と密会し家人には茶を運ぶ時のほか一切その室に入るを許さず。
(3)帰る時は貞子は玄関まで送り来たり、互いに無言無挨拶にて別る。
(4)夕方歩行し来る時は、たいてい12時頃までおる。
(5)去年7月ごろ三宮は宮内省に出勤する時、ちょっと吉田家に立ち寄りて貞子と何事をか打ち合せをなしおき、退庁の途中上野の八百善に到りて黒田と偽名し貞子を待ちたるが、貞子は午後の4時頃に三田の家を出て大いに苛立ちて車夫を急がせ八百善に赴き、三宮と会して夜の12時すぎまで同所にありしが、三田の家に帰り着きしは夜の2時頃なりき。
(6)同8月1日貞子は由比ヶ浜の別荘に到る。
このとき葉山の別荘にありたる三宮よりしばしば手紙来る。
(7)同8月23日両殿下西京より御還幸の当日、葉山にありたる三宮は鎌倉に来たりて貞子を訪い、相携えて大船に到り同所にて奉迎帰京したるが、貞子はその翌日鎌倉に帰る。
しかるに東京の自宅に一泊したる形跡なくはすこぶる怪しむべきなり。
(8)三宮もまた葉山に引き返し相変わらずしばしば手紙を寄せ、一両度自ら貞子を訪い来たれり。
(9)同9月7日貞子は東京に帰り同15日までに2度上野の八百善に到りて三宮と会合し、例によって夜の2時頃家に帰る。
(10)同9月20日ごろ志田町なる吉田家の親戚方に婚礼ありて、貞子はこれに招かれ12時頃帰宅せしに、途中寺町の寂しき横町に差しかかりたるとき三宮は歩行しながら来合わせしかば、貞子ただちに俥より降りて三宮に手を引かれ、睦まじく何事かを語らいつつ三田の家に帰り、同夜三宮は珍しく一泊し翌朝8時頃帰り去る。

貞子の妹キヨ(35歳)のごときは、13歳の時三田の南海学校に入り教員某と通じ、14歳のとき孕みて子を産み、清成の甥清孝と通じ、書生と通じ、三州紡績会社の岡田令高に嫁し、姦通のために追い出されしほどなれば、その姉貞子が今日のごとき不始末あるはあえて不思議とするに足らざるなり。
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◆2代 吉田清風 1代清成の子
1879-1937




■妻  山崎八重 官僚山崎直胤の娘
明治24-




●男子 吉田清重 

◆初代子爵 大久保一翁 静岡県知事・東京府知事
1818-1888

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1116


1879年 64歳
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■前妻 鶴子


■後妻 竹村太仁  士族
1827年生


●男子 大久保業  2代当主
●三男 大久保立  3代当主

●女子 大久保ミホ


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◆2代 大久保業 1代一翁の子 
1862-1890


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◆3代 大久保立   2代保業の弟/1代一翁の子
1871-1941

1181(1)



■妻  土岐幾子   子爵土岐頼知の娘
1878年生

1181(2)



●長男 大久保寛一  4代当主
●二男 大久保安威  桂井邦子と結婚
●三男 大久保能忠
●四男 大久保為国

●長女 大久保泰子  広田孝一と結婚
●二女 大久保稲子
●三女 大久保喜久子 松木正直と結婚
●四女 大久保賀代子
●五女 大久保治子
●六女 大久保和子


●大久保泰子 広田孝一と結婚
1182(2)



●大久保稲子
1182(3)



●大久保喜久子 松木正直と結婚
1181(3)



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『木戸幸一日記』内大臣※当時は宗秩寮総裁

1936年10月21日
大久保立子爵と面談。
学習院演習中の暴行事件につき、令息が被害者なる由にて、実状を聴く。

1936年11月6日
荒木寅三郎学習院院長来庁。
暴行事件の報告を聴く。
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◆4代 大久保寛一 3代立の子
1901-1968

1182(1)



■妻  徳川恵子  徳川達孝伯爵の娘
1909年生


●男子 大久保忠昭
●長女 大久保尚子

■東京本邸 麻布区三河台町(現:港区)
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◆初代男爵 西寛二郎 陸軍大将
1846-1912

1879年 35歳
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■妻  川内ミキコ 川内伊三郎の娘
1858年生


●二男 西鯱男 2代男爵
●三男 西鎮男 
●四男 西時雄 
●五男 西精一 川上精一となる
●六男 西勝男 3代男爵


●女子 西愛子 陸軍少将佐治喜一と結婚
●女子 西広子 横浜正金銀行員小島長一と結婚
●女子 西春子 財閥若尾謹之助と結婚


左から 広子 春子 愛子
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立つ左から 愛子の夫佐治喜一郎 時雄 鎮男 精一 勝男
椅子左から 春子 広子 愛子 ミキコ夫人 鯱男
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◆2代 西鯱男 1代貫二郎の子
1884-1941





■妻 鈴木文子  東京府鈴木明治の娘
1889年生


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◆3代 西勝男  2代鯱男の弟
1894-1964


■妻  松平智雅子 島原松平忠威の娘
1902-1987


●長男
●二男
●長女




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※当時の総理大臣の年給は1万2000円

西寛二郎の跡取りの二男鯱男は結婚後、芸者遊びに溺れる。
資産はすべてつぎ込み、軍刀まで質に入れる。
これが軍の知るところとなり、陸軍を休職処分となる。
寛二郎は鯱男を勘当するが、寛二郎死亡後、母ミキコが勘当を解く。
陸軍にも復帰するが、すぐに芸者遊びを始める。
軍は今度無期休職処分にし、鯱男は家を飛び出し行方不明となる。

次に三男鎮男が跡取りになるが、鯱男に負けず劣らずの放蕩で8万円の借金を作る。
屋敷は競売にかけられ、一家は離散する。
最後に跡取りになったのは末息子の勝男。
勝男は真面目に陸軍に勤め、後に陸軍大佐となる。
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◆初代子爵 曽祢荒助 萩藩士宍戸潤平の子・婿養子になる 大臣を歴任
1849-1910 61歳没


■妻  曽祢テル 山口県士族曽祢祥蔵の娘  
1858年生


●長男 曽祢安輔 1880年生 2代子爵
●二男 曽祢寛治 1882年生
伯爵芳川顕正の娘鎌子の婿養子になり芳川寛治伯爵となる・鎌子は運転手と心中
●男子 曽祢豊三 1883年生 銀行家中島宇三郎の娘美喜子と結婚
●男子 曽祢又男 1886年生 牧野勝従の娘光子と結婚
●八男 曽祢駒雄 1906年生
●男子 曽祢冬来 1908年生

●長女 曽祢績子 1884年生 日本銀行重役林養三と結婚
●二女 曽祢敏子 1904年生 東京女学館出身 自殺


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万朝報 1898年

曽祢荒助は芝明舟町 田中豊の妹イネ(17歳)とて一昨年鞆江学校を卒業間際にて退学したる女を、本年3月頃より1ヶ月わずかに10円の約束にて小間使兼妾に雇い入れ、在官中はいつもイネを携えて官邸に宿泊し日曜ごとに自邸に伴い帰るを例とし、片時も離さざるまでに寵愛したるが、多情の曽祢は飽き足らず、秘かに三十間掘〈花三升〉の花香こと浅田テイ(19歳)の色香を愛で、しばしば足を運べりとぞ。
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宮武外骨『スコブル』1917年

「華族社会裏面の暴露」
華族富豪等いわゆる上流社会の者は、精神的にも立派な人間であるかのごとく一般人に対して威張っているが、おそらくあらゆる階級中華族ほど不完全な者はなかろう。
芳川鎌子の情死沙汰とこれに関連した芳川寛治の行動は、今日の華族社会における諸種の欠陥が相合して世間に暴露されたのである。
まず家庭の紊乱が彼ら両人の動機となったのは言うまでもない。
しかし世間では夫寛治の不行跡を言うのみで、鎌子の父芳川顕正・寛治の父曽祢荒助両人の品行が従来しばしば世人の指弾を受けたことを忘れている。
さらに鎌子と寛治は華族仲間の通弊たる門閥結婚によって夫婦となった者、すなわち結婚当初の標準が愛情とか理解とかいうのではなく、地位や財産を主とする不条理の結婚である。
ゆえに彼らは血の無い男女が相結合したにすぎない。
寛治はノメノメと姦婦の介抱に行った上に、
「鎌子はいったん悔悟して死を決したのであるから、幸いにも全快すればその罪を許して何事も水に流してやる」と言ったそうだが、よくもそんな馬鹿な気になれたものだ。
鎌子は悔悟して死を決したのではない。
嫌な夫を見捨て、恋しい男とは天下晴れて添えぬから、いわゆる一蓮托生、あの世で添い遂げようとしたのである。
しかし寛治の本心は伯爵の跡継ぎという地位に眷恋する欲望から言ったことで、今にその汚い根性が失せないのである。
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『明治大正名妓物語』1929年

浜の家女将お花←芸者小浜

曽根荒助さんはずいぶん頑固な方でした。
剣術道場に通った帰りに道具を担いだまんま、お友達と一緒にお茶屋へいらっしゃったものです。
肩をいからせて女を見たら弱くなるってな顔をして、横を向いているぐらいなんでしたがね。
先日曽根さんがいらっしゃった時に、「あなたどうしてこんなに女好きになったんでしょう」って大笑いしたことがありました。
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◆2代子爵 曽祢安輔 初代子爵曽祢荒助の子
1880-1928 48歳没


■妻  菊地マス  陸軍軍医菊池常三郎の娘 
1892年生


●長男 曽祢昌孝  1917年生 3代子爵  
●二男 曽祢寛二郎 1919年生 4代子爵
●三男 曽祢祥三  1922年生
●四男 曽祢慎吉  1924年生

●長女 曽祢初子  1911年生 学習院出身 内科医平松左右一と結婚
●二女 曽祢君子  1913年生 早川文と結婚
●三女 曽祢稲子  1914年生
●四女 曽祢高子  1915年生
●五女 曽祢寿美子 1920年生 医者平松涛の養女になる 平松寿美子
●六女 曽祢恵子  1925年生
●七女 曽祢昭子  1927年生


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※当時の総理大臣の年給は1万2千円

曽祢荒助子爵は長州出身の一代で築いた勲功華族であった。
明治43年に荒助が死亡すると、大黒柱を失った曽祢家に次々と不幸が襲う。

昭和3年に当主安輔(荒助の長男)が死亡したため、その嫡男昌孝11歳が新当主となり、叔父又男(荒助の四男)が後見役となる。
その後又男と芳川伯爵家の婿養子となっていた寛治(荒助の二男)との間に、荒助が遺した骨董類をめぐって争いが起きる。
ちなみに芳川寛治伯爵の妻は大正6年にお抱え運転手と心中して大スキャンダルとなった鎌子である。

まず寛治が曽祢家から骨董類を勝手に芳川家に持ち帰る。
そこで又男が仲間とともに芳川家から骨董類2万1,800円分を盗んで4,200円で売り飛ばす。
ところが盗んだ骨董類は曽祢家から持ち出したものではなく芳川家伝来のものだったため、寛治は又男を警察に訴える。
又男は家宅侵入・窃盗罪などで昭和5年刑務所に入る。
そこで又男の余罪が明るみに出る。
A氏所有の金屏風をB男爵に売り込んでやると嘘の話を持ちかけて金屏風を騙し取った挙句、取り返すために金が必要だとしてさらに700円も騙し取った。
また幼い当主昌孝の実印を勝手に使用してC氏から2,000円の借金をしていた。

寛治は寛治で婿養子として芳川家に与えた損害の穴埋めをするために、曽祢家から荒助の銀の胸像を持ち出して売り飛ばす。
この胸像が店先に並んだことから一件がバレて、
『売り物に出た曽祢子爵の銀胸像』『まざまざ物語る名家の末』などと新聞に書かれてしまう。

又男は自分の母光子と妹敏子と妻仲子4人で曽祢家から分家していた。
曽祢子爵家の現当主昌孝には扶養すべき母や多くの弟妹がおり、出所してきた又男や分家の面倒を見る余裕はなかったからである。
4人はかつて曽祢荒助と光子夫妻に恩のあった真珠王御木本からの援助で細々と暮らしていた。
ところが昭和11年2月、母光子が死亡すると御木本からの援助が打ち切られる。
残った3人は集まった香典で生活していたが時間の問題である。
まず同年5月妻仲子が服毒自殺する。
さらに同年10月妹敏子が首吊り自殺する。
そして又男も同年同月に死亡しているが、死因は明らかでない。
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1936年10月21日
5030(1)

1936年10月29日
5030(2)



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◆3代子爵 曽祢昌孝  2代子爵曽祢安輔の子
1917-1944


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◆4代子爵 曽祢寛二郎 2代子爵曽祢安輔の子
1919年生

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