直球和館

2025年

2025/04

◆初代男爵 園田安賢    北海道庁長官
1850-1924

1879年 31歳
0031a


1005(1)



■妻  篠崎テツ      篠崎彦之丞の娘
1853-1906


●二男 園田実       2代当主
●三男 園田滋 
●四男 園田進       水田進となる

●女子 園田タツコ     小樽市長金子元三郎と結婚13
●女子 園田ユキコ/冨美子 第一ホテル土屋計左右と結婚


●園田ユキコ/園田富美子 第一ホテル土屋計左右と結婚 16歳
7000


1007(2)



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◆2代 園田実 1代安賢の子
1884-1937

1005(2)



■妻  東郷八千代 侯爵東郷平八郎の娘
1891年生

3f25635b


1007(1)



●長男 園田耠一
●二男 園田忠男
●三男 園田信男

■東京本邸 文京区千石


■関宿別邸 千葉県野田市


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■父  鈴木由哲
■妻  小野田キヨ 小野寺慶峰の娘

●長男 鈴木貫太郎 初代男爵
●二男 鈴木孝雄
●三男 鈴木三郎  
●男子 鈴木茂   永田栄次郎の養子になり永田茂となる

●女子 鈴木ケイ  永田廉平と結婚
●女子 鈴木ヨシ  岡本塩太郎と結婚
●女子 鈴木キミ  倉持正次郎と結婚


両親・兄妹と 後列中央が貫太郎
5001(2)



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◆初代男爵 鈴木貫太郎 鈴木由哲の子・総理大臣
1868-1948


■前妻 大沼トヨ  大沼親誠の娘  死別
1880-1912


■後妻 足立タカ  足立元太郎の娘 女官
1883-1971


5001(1)


5006


5000


後妻 足立タカ
5007


鈴木貫太郎&後妻タカ
5004


中央が鈴木貫太郎夫妻
2044



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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従

私が侍従を拝命した時の侍従長は鈴木貫太郎さんでした。
です海軍大将であり、終戦時には首相にもなりました。
昭和天皇陛下が最も信頼なさる忠臣ではなかったかと思います。
昭和11年私が出勤を始めて間もない頃、庶務課長大金益次郎に連れられて侍従長室に行きました。
鈴木さんも二二六事件で襲撃された時の傷が癒え、出勤された日のことです。
特別に侍従の心得などはなさらず、なんともスケールの大きな人物に触れたようで、私は身が引き締まるのを覚えました。

鈴木さんは侍従候所に顔を出されました。
「この度はお手厚いお見舞いを賜りまして、幸い床を離れることを得ました。とりあえずお礼言上に出ました」と前置きして、襲撃の模様を語り出しました。
二二六事件の前に陸軍の青年将校が鈴木さんの元に訪ねてきて国家改造運動を言うので、鈴木さんはイギリス海軍で暴動が起こった時に断固処分をしたのでイギリス海軍が立ち直ったという話を聞かせたそうです。
その青年将校は納得して帰ったといいます。
その青年将校が二二六事件では鈴木さんを襲撃した主犯格だったそうです。
「閣下、御免」と言って命令を下し、下士官がとどめを刺そうとしたのを抑え、敬礼して去って行ったと語られます。
「ところが私は右を下にして寝ていたのです。今度初めて分かったことでありますが、私の心臓は移動性といって万人に一人だと聞かされました。心臓が右に寄っていて、その間を弾丸が抜けて助かりました」
実に淡々と言葉少なに語られていました。
「背中には今も弾丸がとどまっていますが、これは別に差し障りはないのでそのままになっております。脇腹に当った一弾も差し障りがないとのことですが、それが段々と下がって参り、今は睾丸の中にとどまっております
皆、あっけにとられて伺っていました。
「では御前へ出ますので」と鈴木さんは出て行かれました。
それからずいぶん長い間鈴木さんは御前におられました。
やっぱり三つ弾になった点にも触れて、同じ調子で陛下にお話をお聞かせしたに相違なく、一同いよいよ息を飲みました。
おいたわりの御言葉も切実この上なかったに違いありません。
本人がノックして参殿しましたから陛下もビックリされ、鈴木さんの巨体を御覧になった時は「鈴木、よかったね」の一言が出たと拝察します。
陛下と鈴木さんの間には特別に感情の交流があったと、今でも研究者の間でも言われています。
それゆえに終戦に至る難事業を、陛下の意を受けて乗り切ることができたのだと思われます。
鈴木さんが陛下に信頼されていたという事実、このことこそ昭和史を救った最も大きな要因だったと、何度繰り返してもいいのではないかと私は考えています。

敗戦後、鈴木貫太郎首相は素早く総辞職しました。
「戦は負けっぷりは良くなければ」という次第です。
それに対して木戸幸一内府は、
「もっと続けさせようと考えていたのに…」とすれ違いざまに私に話しかけるのです。
全力を尽くした老大将に対し、まったく失礼な言です。
「思い上がっているなあ」と内心許せぬ気がしました。
いよいよ人物の小ささが丸出しです。
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『高松宮日記』

※後妻足立タカは昭和天皇・秩父宮・高松宮の御養育係の一人

1934年1月7日
子供を叱ることは必要だが、それがひねくれさす素になることもあるから注意を要する。
要は叱る人の態度・精神によるし、その人の叱る時以外の態度にもよる。
私の感じでは、女官足立タカとかの態度は適当なものではなかったことを記憶する。
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●長男 鈴木一   父と同じく昭和天皇の侍従となる 酒造業赤須東吾の娘赤須布美と結婚
●女子 鈴木サカエ 陸軍藤江恵輔と結婚
●女子 鈴木ミツコ 農学者足立仁と結婚


●鈴木サカエ 19歳 陸軍藤江恵輔と結婚
8000



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田島道治『日記』宮内庁長官

1950年9月30日
侍従次長鈴木一転任波紋イヤになる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年6月3日
昭和天皇◆侍従次長鈴木一はどうもマメでない。
私は用があれば誰でも呼ぶが、良宮は多少遠慮する。
元侍従次長広幡忠隆でも元侍従次長木下道雄でももっと来たが、鈴木はマメでない。
女官の方との接触も不十分。
しかし勇気はある。
田島長官◆鈴木侍従次長は少し粗暴のように存ぜられます。
周到を欠く点もあると思われます。
そして勇気いうよりも無鉄砲的に断行する勇気があります。

1950年9月11日
昭和天皇◆侍従職の連絡がまずくて三笠さんにアラを見られはせぬかと思い、侍従職の威厳にも関し困ったことが起きた。
(今回の三笠宮御差遣は公務ゆえ、陛下より内廷庁舎にてと仰せありしを、鈴木侍従次長は個人的に御文庫でと言った)
昭和天皇◆内廷庁舎と決めたことゆえ御文庫は何の準備もなく、三笠さんの椅子がなくて三笠さんが持って来るなど不体裁のことであり、アラ探しをしがちな三笠さんゆえ困ったことと思った。
田島長官◆連絡不十分は私としてもお詫びをせねばなりませぬ。
今後はそんなことのないように致します。
昭和天皇◆あれは鈴木の直らぬ性質から出て来るのか、注意をすれば良くなるのか。
田島長官◆長田幹彦小説、木下依頼事件のごときもその欠点ゆえ、鈴木侍従次長の性質によるものかと存じまする。
昭和天皇◆孝ちゃん〔孝宮和子内親王〕の衣装の問題もなんら申出なく、良宮が聞いて初めて言うという訳であった。
そういう風ならば、気の毒でも替ってもらわねばと思う。

1950年9月27日
昭和天皇◆鈴木に「優生学上、福井その他に聞いてくれ」と言ったら、福井一人に聞いて「イトコの良い例もあり悪い例もある」ということを言って来ただけであったが、鈴木はかように少し荒っぽいところがある。
これから東宮ちゃんの配偶・また順ちゃんの時にもやられても困る。
もっと慎重でないと。

1950年9月28日
昭和天皇◆貞明皇后が鈴木のことにお触れになったので、ありのままを申し上げた。
大正皇太后〔貞明皇后〕の人物の見方はどうも私にはわからぬが、鈴木はあの鈴木貫太郎の子だからよかろうとの御話であるが、良い親の子に立派な子の場合も確かにあるが、子供はそれほどでもないということはいくらもある。
それを貫太郎の息子だからとはおかしい御話だ。

1950年10月9日
(侍従次長鈴木一が退官に際し、陛下の服装問題にかれこれ仰せになることを御諌言的に申し上げしこと、高松宮らをよく御抱擁願いたしとの申し出のこと、ゴルフの問題のこと、順宮厚子内親王は浅野長愛へ御降嫁よろしかるべしとのこと申し上げし由承る)
昭和天皇◆鈴木は辞めてよかった。
田島長官◆線が太いので場所によっては大いに使えると思いますが、侍従次長のような気を配る点は不適。
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『入江相政日記』侍従長※当時は侍従

1950年9月27日
鈴木侍従次長から「今度辞めることになった」と聞かされて、非常にびっくりする。
要するにこれは最近の大失政であると思う。
そのことばかりが考えられる。
侍従永積寅彦・侍従山田康彦と鈴木侍従次長の罷免の問題について論じ合う。
宮内官僚三井安弥・宮内官僚鈴木菊男と鈴木次長の問題について語り合う。
鈴木侍従次長は最大の危機だと言っていた。

1950年9月29日
鈴木侍従次長が長く拝謁する。
最後のお別れのつもりであろう。
御服装のことと対皇族のことを申し上げた由。
御文庫へ行く。
鈴木侍従次長の申し上げたことに関連していろいろ仰せがある。
要するに鈴木侍従次長の罷免のことにつき、やはり平然たり得ないものがおありになるのであろう。

1950年10月3日
集まって鈴木侍従次長に挨拶をする。
鈴木侍従次長は泣きながら、去るに及んだ事情を述べられ、すべてを捨てて奉公を励むように話された。

1950年12月31日
今年は秋に鈴木一さんが侍従次長を辞めることになった。
このことには一通りの理由があるにしても、運び方なり何なりに後年に悔をやはり残すことになったのは遺憾であった。
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■夫  鈴木孝雄  鈴木由哲の子 
1869-1964


■妻  立見モト  立見尚文男爵の娘
1884-1971


●長男 鈴木武   坂部淳一の娘坂部栄と結婚

●二男 鈴木英   総理大臣岡田啓介の娘岡田喜美子と結婚
●二女 鈴木千鶴子 政治家始関伊平と結婚
●三女 鈴木夏子  磯村産業小田村嘉穂と結婚
●四女 鈴木八重子 防衛庁肥後大介と結婚


1928年 鈴木孝雄 家族
19280319



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■夫  鈴木三郎 鈴木由哲の子
1876-1947


■妻  木下トネ 法学者木下広次の娘


●長男 鈴木平太
●二男 鈴木敏夫 岡本ヨシの養子になり岡本敏夫となる
●三男 鈴木義雄
●二女 鈴木須磨

◆初代男爵 安場保和 北海道庁長官
1835-1899 

1879年 46歳
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■妻  後藤ツユ 後藤尉左衛門の娘


●女子 安場トモ 婿養子を迎え2代当主とする
●女子 安場カズ 後藤新平伯爵と結婚


●安場カズ 後藤新平伯爵と結婚 1883年
0201(2)



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◆2代 安場末喜 士族下津休也の子・婿養子となる
1858-1930 

■妻  安場トモ 1代保和の娘


●長男 安場保健 
●二男 安場保雄 海軍栃内曽次郎の娘栃内サメと結婚
●三男 安場保定 男爵村田保定となる
●四男 安場保国 井野英一の娘村井小夜と結婚

●長女 安場ワキ 日本郵船富永敏麿と結婚→子は富永惣一
●二女 安場冨美 考古学者清野謙次と結婚
●三女 安場嘉智 法学者平野義太郎と結婚


●安場冨美 考古学者清野謙次と結婚
6018



1963年 安場保和の玄孫・富永惣一の娘
19630002



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◆3代 安場保健 2代末喜の子
1888-1944


■妻  田輝子  田健治郎男爵の娘
1894年生


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25995453



●二男 安場保雅  4代当主

●長女 安場登喜子 
●二女 安場美代子 松岡康毅男爵の子松岡康光と結婚
●三女 安場華子  山九社長中村公三と結婚


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◆4代 安場保雅 3代保健の子
1922年生


◆初代男爵 久保田譲 文部大臣
1847-1936 弘化04-昭和11

1879年 34歳
0034d



■妻  安井ヤエ  安井治兵衛の娘


●長男 久保田敬一 2代当主
●二男 久保田篤二
●三男 久保田信三
●四男 久保田四郎

●長女 久保田良子


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◆2代 久保田敬一 1代譲の子 鉄道官僚
1881-1976 明治14-昭和51

*アメリカに留学


■妻  広井雪 〈港湾工学の父〉広井勇の娘


夫30歳&妻20歳
6008

◆初代男爵 尾崎三良 外務官僚
1842-1918

ロシアで




1879年 39歳
0039b

 

■前妻 バサイア・キャサリン・モリソン イギリス人・離婚
1843年生


■後妻 山沢八重 仏職藤山沢証の娘 
1855-1943


尾崎八重夫人



★妾  藤木道枝 士族藤木行顕の娘 


●前妻の子 尾崎英子/テオドラ 政治家尾崎行雄と結婚
●前妻の子 尾崎政子 イギリス人アルフレッド・ジェームス・ヒューイットと結婚
●前妻の子 尾崎君子 スウェーデン人ヘンリック・オークテルロニーと結婚

●後妻の子 尾崎寿子 政治家小野義一と結婚

●道枝の子 尾崎洵盛 2代当主 
●道枝の子 尾崎盛貞 戸田盛貞となる
●道枝の子 尾崎昌盛 
●道枝の子 尾崎望盛 高田望盛となる 伴田六之助の娘伴田孝子と結婚
●道枝の子 尾崎賀子 倉橋泰昌子爵と結婚
●道枝の子 尾崎繁盛
●道枝の子 尾崎雄盛

●道枝の子 尾崎朝子 豊国銀行斉藤福之助と結婚
●道枝の子 尾崎元子 工学者物部長穂と結婚


●尾崎盛貞 戸田盛貞となる



●尾崎昌盛


●1939年 尾崎昌盛の娘 尾崎良子
1920年生・学習院出身・趣味はピアノ・琴・料理
8151



●尾崎望盛 高田望盛となる 伴田六之助の娘伴田孝子と結婚



●尾崎賀子 倉橋泰昌子爵と結婚



●尾崎寿子 政治家小野義一と結婚





●尾崎朝子 豊国銀行斉藤福之助と結婚





●尾崎繁盛



●尾崎雄盛



●尾崎元子 工学者物部長穂と結婚




●1939年 尾崎元子&物部長穂の娘 物部美穂子 
1913年生・東洋英和女学校出身・趣味は登山
8251


●1939年 尾崎元子&物部長穂の娘 物部美穂子
1918年生・文化学院出身・趣味は文芸・美術・音楽
8252





尾崎はイギリスに留学中、教師のウイリアム・モリソン宅に下宿していた。
その一人娘バサイアと結婚し3人の娘をもうけるが、妻子を残して帰国した。
尾崎はかねてから養母戸田玉井が嫁に決めていた玉井の妹八重と結婚する。
さらに八重に何年も子供ができなかったことから、士族藤木行顕の娘道枝を妾にして妻妾同居となった。
ところが尾崎が妻子を置いて帰国し日本で結婚したことに対して、旧主人である三条実美や外務大臣井上馨から厳しく叱責された。
窮した尾崎は八重と形式上離婚し、バサイアとの結婚の公許を得てロシア公使として出発した。
バサイアをペテルスブルグに呼び寄せ話し合いをしたが、尾崎はバサイアを本妻として日本に連れて帰って八重・道枝と3人で同居するつもりであったから、バサイアはこれを拒絶、ロンドンで父モリソンの立ち合いのもと離婚協議となり、未払いの養育費と手切金550ポンドを渡して別れることになった。
結局帰国した尾崎は再び八重を妻とし道枝を妾として、妻妾同居で暮らした。


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万朝報 1898年

男爵尾崎三良は先妻英国人バサイアを離別し、今は本行寺住職藤山沢証の娘を妻としながら、自邸に同居せる戸田玉井の養女ミチ(40歳)を妾とす。
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尾崎三良の自伝

これにてまず一個の家庭を作り、その収入は政府より俸給1ヶ月150円なり。
すなわち八重に対して「これよりそなた主婦の役目として家政を料理すべし。
その入費はすなわちこれなり」とて、政府より受けたる月給150円をその紙包のまま手渡したる時は、
彼女少し当惑の気味にてシクシク泣きおるから、
「なぜ泣くにや」と詰れば、
「いまだかくのごとき大金を任せられたることなきゆえいかにかはせんと当惑心痛の余りなり」と言う。
よって出入帳簿記入の仕方および月末計算の方法等を教え、かたわら珠算を教えたり。
元暗愚の性にあらざれば1ヶ月も習熟して略々要領を得て、爾来数十年家政はもっぱら彼女に委任して大過なかりし。
明治30年前後に至り、家賃も少々豊かなるに従い、金銭の出納もおいおい複雑になり、女子の手ひとつにては困難に趣きしより、家扶を置きこれに委任することとせり。
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尾崎三良の日記

1902年8月※妾道枝の死について
彼女は良家の娘にして性行温厚貞誠、余に仕えて忠実24年1日のごとく、
男女を産むこと14人、うち夭折するもの5人、健康なる者9人あり。
正室にあらずといえどもその情正室に異なることなし。
余の終焉には介抱させんと期したりしに今ここ悲劇に遭う。
余の不幸これより大なるはなし。
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◆2代 尾崎洵盛  1代三良の子
1880年生




■妻  千家多嘉子 出雲大社千家尊福男爵の娘
1890年生




●長男 尾崎春盛  出羽重芳男爵の娘出羽菊江と結婚
●男子 尾崎福盛

●女子 尾崎華子  千家活麿と結婚
●女子 尾崎龍子
●女子 尾崎京子
●四女 尾崎玉子  千代田組朝吹英一の後妻
●女子 尾崎百合子


1929年 尾崎華子20歳
1929-4002



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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員 

<尾崎洵盛男爵の姉妹どんぶり>

1921年10月20日
宮内官僚酒巻芳男『面白倶楽部』なる雑誌と他の雑誌とを持ち来りてこれを示す。
雑誌には千家尊福の娘にて毛利家に嫁したる国子なる者、寡婦となりたる後その妹多嘉子の夫尾崎洵盛男爵と通じたる事実を詳記したる物なり。
予これを閲したる後、尾崎の品行を調査する事を酒巻に命ず。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長※当時は宗秩寮職員 

1922年2月23日
※倉富&宮内大臣牧野伸顕の会話

牧野◆尾崎洵盛男爵がその妻の姉毛利国子と醜行あることは事実なる様なり。
倉富◆尾崎の妻多嘉子が夫と姉との関係を周旋しおる様な形跡ある事を不思議に思う。
牧野◆聞くところによれば妻は一人にては耐え難きゆえ、姉との関係を喜びおるとの事なり。
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