直球和館

2025年

2025/09

◆初代男爵 高木兼寛 軍医総監 「ビタミンの父」
1849-1920

1000


1191(1)



■妻  瀬脇富子 外務官僚瀬脇寿人の娘
1854-1931

1191(2)



●長男 高木喜寛 2代当主
●二男 高木兼二 神田乃武男爵の娘神田百合子と結婚
●三男 高木舜三 財閥三井高景の娘三井多都雄と結婚

●長女 高木寛子 医者樋口繁次と結婚


後列左から 寛子の夫樋口繁次・兼二・喜寛・舜三 
前列左から 兼二の妻百合子と赤ちゃん文一・喜寛の妻シマ・園子・富子夫人・秀寛・高木兼寛
・樋口一成・寛子・舜三の妻多都雄と赤ちゃん育子
1192(1)



●1929年 高木舜三の娘 19歳
1929-2039(1)



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宮武外骨『地獄耳』1918年

医者樋口繁次の女房になった高木兼寛の娘寛子は、ヒステリーが昂じて発狂して自殺した。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年11月1日
田島長官◆御用掛高木多都雄〔女性〕から「京都の大宮御所を東京へ移転できぬものか」との話がありましたが、
「それは不可能かつ宮殿として理想的なものでもなく問題にならぬ」むね申しておきましたが、
今度はまた「表から良子皇后の御洋服を御注文になるのだが品目を書いてくれとのことでしたが」との話でありましたゆえ、
「むしろ昭和天皇の御思召で和服の問題があり、お金の準備も済んだ」と申しましたところ、和服はあまり賛成でなくむしろ宮中服がいいような口ぶりでありましたから、
「なんと言っても宮中服は戦時服で、男の国民服が無くなった今日おかしい。和服もお用いになり、時には宮中服、時には御洋服という方向へ進みつつある」むねを話しておきました。
高木はなかなか意見を申し上げる人でありますようであります。

1952年3月26日
田島長官◆御用掛高木多都雄〔女性〕が訪ねて参りまして良子皇后の御服装の話がありましたゆえ、従来昭和天皇の和装の御話・宮中服の御話などもしておきました。
高木は宮中服はあまり悪くない意見らしくございますが、従来の経緯を詳細話しておきました。
すなわち現状では宮中服を規則の上でお止めとも申さず、和装も洋装も御自由という事を申しておきました。
和装は100万円を御用意いたしましたが、洋装は一つ80万円もかかるというようなことで、これは御新調の用意はございませぬ。
高木はなかなか意見がありまして、京都御所を宮殿再建に移築するとかいうようなことを申しましたような次第でいろいろ申しておりましたが、海軍大将山本英輔の喜寿に際してという本に、山本が戦時中 高木によって良子皇后に申し上げ、そして昭和天皇にと考えたことが書いてありましたゆえ、今は昭和天皇も政治に御関係なき世で、ああいうことはないようにと高木に申しておきました。
昭和天皇◆山本はとてもダメで、自分が首相になろうというので話にならない。
田島長官◆ああいう神がかりのおかしな人ですが、大将になるまではあんなではありませんでしたでございましょうか。
昭和天皇◆大将になるぐらいの人ではあったらしいが、それもかろうじて大将という程度の者であったようだ。

1952年3月27日
昭和天皇◆田島は高木は考えが足らんというように言ってたが、実は良子は高木と女官長保科武子は信用してる。
それから若いけれども女官道木菊重もいいようだが、女官雪井良子と女官小倉満子はどうもいかんと言う。
私は小倉はさほどには思わぬが、雪井はおしゃべりでどうかと思うが。
いかんと言って辞めた場合に世間に出ていろんなことをおしゃべりするという事も困るから、出すとは言わんが。
田島長官◆高木のことでございますが、考えが足らぬというのではなく、高木は女官ではなく御通訳と御召物の御用掛で、仕事の系統上の責任はなく批評家のような立場で物を言い、若い時から相当進歩した考えの人らしく、そのうえ三井という金持ちの娘〔財閥三井高景の娘〕でありまするゆえ、大宮御所を東京宮殿に移築の意見などもしますような勇敢な所があると存じまするだけで、それならばこそ山本大将の取次などの点はちょっと釘を刺しましたが、そういう点以外は意見もあり見識もありむしろ結構と存じております。
他の女官のことは田島も就任4年近くなりますので耳に入ることなどを総合しまして、雪井はどうも面白くないと存じます。
また小倉もやはり甘く、あまり良くないかと存じますが、昭和天皇から拝命直後以来松平定信は大奥に手をつけて失敗したという仰せを伺っておりますので、容易には手は下しませぬつもりでございます。
将来の女官は相当学識あり、できれば語学もできるというような、ただし宮廷の空気に合うような人が望ましいので、更迭も機運の回った時を待たねばならぬと存じております。
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◆2代 高木喜寛 1代兼寛の子
1874-1953


■妻  有島シマ 作家有島武郎の妹
1884-1989


●長男 高木秀寛 3代当主
●二男 高木兼光 早川美代子と結婚

●長女 高木園子 呉茂一と離婚・田中幾之助と再婚
●二女 高木美代 クボタ久保田瑞穂と結婚


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◆3代 高木秀寛 2代喜寛の子
1906年生


■妻  折田匡子 折田有彦の娘
1914-1993


●長男
●二男
●長女

◆初代男爵 林権助  会津藩士林又一郎の子 外務官僚
1860-1939

1189(1)



■妻  関場コタケ 青森県士族関場忠武の娘
1873年生


●長男 林安    1894年生 2代当主
●二男 林磐人   1899年生
●三男 林不二雄  1902年生

●長女 林芳子   1892年生 外務官僚岡本武三と結婚


●林芳子 外務官僚岡本武三と結婚
1190(1)



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『岡部長景日記』文部大臣※当時は内大臣秘書官長&式部次長

※林権助は1929年宮内省式部官長に就任する

1929年4月19日
宮内次官関屋貞三郎と会見。
式部長官任命の件につき話をなし、「昨日の観桜会での林男爵の態度を見てもあまり感服できず、だいぶ世話が焼けそうであるのみならず、林男爵は夫人が出られぬゆえこの資格も欠き、だいぶ考えものなるのみならず、グロスター公爵の接伴員をなすゆえ、式部長官を兼ねるは配役上不便少なからざるべく、なにはともあれグロスター公爵来朝前に林男爵を式部官長とさるることは不可能にあらざるなきや」との旨を述べ、宮内大臣一木喜徳郎帰京の上は打ち合せ考慮ありたき旨を述べた。

1929年12月26日
昭和天皇帝国議会開院式行幸。
式は定まり通りであるが、林式部官長がしきりに左の方を顧みて、入御を奏してよきやと躊躇されたのは注目を引いて困った。
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◆2代男爵 林安 初代男爵林権助の子
1894年生


左から 不二雄・林安・磐人
1190(2)



■妻  上杉大子 上杉茂憲伯爵の娘 お茶の水女学校出身
1897年生

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●長男 林安之  1922年生
●二男 林安容  1924年生

●長女 林美都子 1927年生

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