直球和館

2025年

2026/01

■父  5代目森村市左衛門 婿養子
■母  森村松子      4代目森村市左衛門の娘


●長男 森村市太郎     6代目森村市左衛門 初代男爵
●二男 森村豊


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◆初代男爵 6代目森村市左衛門 5代目森村市左衛門の子 森村組創業者
1839-1919


■妻  山下キク  東京府平民山下久兵衛の娘
1846年生


●二男 森村開作  1873年生 2代男爵
●三男 森村三樹雄 1889年生 笹山三樹雄となる
伊予吉田銀行頭取法華津孝治の養女法華津トシと結婚
●四男 森村茂樹  1897年生 函館船渠社長川田豊吉の娘川田佑子と結婚

●四女 森村富士  1904年生 日本女子大附属出身 浜半平の子浜徳太郎と結婚


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◆2代男爵 森村開作 初代男爵森村市左衛門の子
1873-1962


■妻  井上梅子  井上勝子爵の娘
1879-1964


●男子 森村市太郎 1906年生

●長女 森村松子  1903年生 学習院出身 婿養子を迎える
●二女 森村由宇子 1908年生 学習院出身 広幡忠朝侯爵の子広幡忠良と結婚


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◆当主 森村義行  松方正義公爵の子松方義行・婿養子になる
1896-1970


■妻  森村松子  2代男爵森村開作の娘
1903年生


●長男 森村衛   1913年生
●二男 森村準次  1930年生

●長女 森村登代子 1925年生 学習院出身
●二女 森村イトコ 1926年生 学習院出身


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■夫  森村豊   5代目森村市左衛門の子
1854-1899


■妻  小畑鹿衛  小畑美稲男爵の娘
1868年生


●三男 森村勇   1897年生 次代当主

●女子 森村玉子  1890年生 学習院出身 長与又郎男爵と結婚
●女子 森村喜美  1892年生 学習院出身 中村覚男爵の子中村謙三が婿養子になる 森村謙三


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■夫  森村勇   森村豊の子
1897-1980


■妻  田所春子  貴族院議員田所美治の娘 学習院出身
1906年生

1923年 田所春子 18歳
8361



●長女 森村綾子  1927年生 学習院出身
●二女 森村輝子  1929年生 東京女学館出身
●三女 森村純子  1931年生

■京都別邸〈祇園閣〉京都市東山区祇園町 3階建て・高さ36メートル 
0013



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◆初代男爵 大倉喜八郎 
1837-1928 90歳没

2358


2362


2360



■妻  持田トク 芸者徳子
1855年生

1916年 中央が大倉喜八郎・その右隣がトク夫人
2357


前列が大倉喜八郎夫妻・後列が大倉喜七郎夫妻
2359



※妾・庶子多数のため代表的な子供のみ


●実子 大倉喜七郎 2代当主
●実子 大倉鶴子  日清豆粕製造社長高島小金治と結婚
●実子 大倉時子  野口粂馬が婿養子になる


★妾  川口タマ

●庶子 大倉文吉


★妾  久保井勇

●庶子 大倉幸二
●庶子 大倉雄二
●庶子 大倉瑛三


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『明治豪商の夫人』明治36年出版

大倉喜八郎氏はそれまでに妻を迎えることは前後3回ばかりもあったけれども、どうも凡物では気に入るはずもなく当時は3度目の妻を追い出しての一人暮らしに、いつしか芸者買いの始まりがそもそも今の夫人と馴れ初むる発端であったとか。
徳子がその当時一方ならぬ御贔屓をしてくれた客というのは世間でよく噂する銅山王とやら。
銅山王も徳子が素敵な美人と性質の非凡なのを愛して、受け出してシャバの人間にしてやろうと思っていると、大倉の大将も徳子を寵愛せられたびたびならず近くの待合料理店などに招き互いに語り合うては楽しんでいると、いつしか銅山王の身請け問題が大倉の耳に入るとたまったものではない。
すぐさま占領してしまおうと思ったものの、銅山王が御寵愛の先口とかで、一応は銅山王に打ち明け、そのうえ占領せねば国際公法の違反ともなるだろうと、右の次第を王に相談すると、かえって徳子の卓見を嘉賞し仲人の労を取られ、ここにめでたく大倉夫婦ができあがったのである。
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宮武外骨『地獄耳』1917年

華族は世襲制度であるから公卿大名はもちろんのこと泥棒将軍西村精一、石コロ男爵大倉喜八郎ら新華族の面々までもが、子々孫々相伝えて皇室の藩屏でござる、カマボコでござるとのさばり返るのはまことにもってウンザリせざるを得ない。
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宮武外骨『地獄耳』大正

大倉発身という奴が贈賄罪で検挙されたことについて、その義父たる大蔵喜八郎が「不都合な者である、家名を汚す者である」と言ったそうだが、官僚結託や石コロの缶詰などで成功した喜八郎が、よくもそんな言をほざけたものである。
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1918年「財界三奸」「富豪三愚息」
5500



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◆2代男爵 大倉喜七郎 初代男爵大倉喜八郎の子
1882-1963 80歳没

2062


フィアットに乗る喜七郎
2361





■妻  溝口久美子 溝口直正伯爵の娘
1889年生

1907年 19歳
20180131(1)


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●男子 大倉喜六郎 3代当主

●女子 大倉正子  目賀田綱美男爵の子目賀田重芳と結婚
●女子 大倉鉄子  実業家浜口喜雄と結婚


1929年
1929-3005



●女子(名前不明)
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1918年「不釣合 美醜の夫婦くらべ」
2006





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<大倉喜七郎&久美子の結婚披露宴の記事>1907年

大倉喜八郎氏令息喜七郎氏はさきに伊藤公爵の媒酌にて溝口伯爵令嬢久美子と結婚せしが、
午後2時より披露のため赤坂葵町の本邸にて園遊会を開きたり。
来賓は名士千余名にして新夫人の知友たる諸家の令嬢令夫人これに加わり、その盛んなることは近時まれに見るものというべく、3時より余興場を開き、4時半 主人夫婦および新郎新婦の挨拶あり、食堂にては末松子爵発声にて大倉家の万歳を唱えたり。

当日お嫁さんの衣装は黒の紋羽二重でしたが、地模様は花菱で上品なものでした。
裾模様は松に紅葉で雲を彩どったのはたいそうよろしく、帯は唐織で柳に橋の模様でしたが、地色が黄色でしたから黒との映りが非常によろしかったそうです。

午後4時半に食堂が開かれましたが、その時にはお嫁さんは衣装をお着替えになって古代紫の振袖でした。
裾模様などはすべて能生の意匠で、すこぶる込み入ったものでした。
帯は綴織で、扇の模様が美しく目立ちましたそうです。
洋々たる奏楽とともに一同食堂にはいりましたが、やがて末松謙澄男爵の発声でシャンパンの杯を挙げつつ新夫婦の万歳を唱えられました。
花嫁のお友達がたくさん見えたから、淑女令夫人がすこぶる多かったので、いっそう目立って美しく見えました。
花嫁さんは極めて平民的で、来賓にビールなどをお酌なさいました。
始終愉快らしく笑顔をもって客にお会いなさいましたから、みな感心してほめていました。
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宮武外骨『地獄耳』1917年

大倉喜八郎の子大倉喜七郎は放蕩者だが、自転車の操縦だけは上手いそうである。
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宮武外骨『地獄耳』1917年

大倉喜七郎の女房久美子は先年役者買いを新聞にすっぱ抜かれ、その後 夫の許可を得ずしてはいかなる男とも面会はできなくなっている。
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◆3代当主 大倉喜六郎 2代男爵大倉喜七郎の子
1910-1989 79歳没


■妻  山本千代子 山本清二伯爵の娘
1914年生 


●長男
●二男
●三男

■神戸本邸 神戸市加納町


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■父  川崎正蔵 呉服商川崎利右衛門の子 造船王
1837-1912


■母  松本スミ 鹿児島県平民松本貞次郎の娘
1840年生


●二女 川崎チカ 1868年生 婿養子を迎え初代男爵とする


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◆初代男爵 川崎芳太郎 川崎正蔵の甥/鬼塚善兵衛の子
1869-1920


■妻  川崎チカ  先代川崎正蔵の娘・イトコ結婚
1868年生


●長男 川崎武之助 1893年生 2代当主
●二男 川崎芳熊  1896年生 3代当主
●三男 川崎金蔵  1900年生 三井鉱山重役崎川茂太郎の娘崎川静代と結婚
●四男 川崎芳虎  1902年生 山内豊静男爵の娘山内信子と結婚
●五男 川崎芳治  1905年生 上田義行の妹上田宣子と結婚

●長女 川崎福子  1898年生 神戸高女出身 フランス文学者成瀬正一と結婚




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1927年『お鯉物語』安藤照子・芸者お鯉・15代目市村羽左衛門と離婚・首相桂太郎の妾


日露戦争勃発、時の内閣は第一次の桂太郎内閣。
元来桂公爵は軍事と政治の他に別段これという道楽の持ち合せがなかった。
「なにか気分転換に役立つものはなかろうか」
当時の元老・大臣らが一様に思い悩んだのがこれであった。
最も心配したのは山県有朋公爵で、世間では厳格そのもののように見なされていたが、山県公爵はあれでなかなか行き届いた粋なお人であった。
お鯉は最初芸者に出た時から山県公爵には一方ならぬ御贔屓を被っている。

その後の桂公爵とお鯉の姿は、10日に一度ぐらい新橋界隈で見かけられた。
たまにお座敷に見えても、多くが山県公爵や井上侯爵と一緒である。
お鯉が顔を出すと、「お鯉、どうかね。よく桂を慰めてやってくれよ」
両人、決まってこうおっしゃる。
時に現れたのが世話好きの大通人平岡凞大尽、いっそお鯉を買い切って置くがよろしいということになった。
買い切りにすると一日のお約束が一つの計算であるから、1カ月170円ぐらいにしかならない。
そのころのお鯉はたいてい1カ月300円以上の収入があったので割に合わない話だった。
そして朝の9時から夜の9時まで瓢屋の平岡大尽の御座敷に詰め切って、ただ座っているのである。
平岡大尽は芸者を集めて毎日毎日飽きもせずに遊んでいるので、お鯉もその中に座らされて1日3円の御祝儀をいただくのである。
1週に1度か10日に1度桂公爵が見えるほかは、毎日ただこうして座っている。
そして夜の9時になると、平岡大尽がお鯉の自宅まで送ってくれる。
決して楽な仕事ではなかった。

こうした退屈な日を送っているところへ、田中屋の女将が川崎芳太郎の上京を知らせてきた。
川崎さんは神戸で造船所を経営している人で、お鯉はかねてから御贔屓を受けていた。
上京の都度、何かしら土産物をお持ちになるほどの御馴染であった。
「女将さん、私はどこへも行かれないんですよ」
「それはよくわかってるんだが、川崎さんはいつもの通りすぐ帰るんだしね。お土産の上布も届いているよ。またいつものように武蔵屋のオモチャでもお子さんにお上げするんだろうから。何もかもわかりきってる私の家だもの、後で知れてもかまわないと思うよ」
お土産のお礼も言い、お返しもせねばならぬ。
お鯉が田中家での川崎さんのお座敷に出かけてから2~3日過ぎてのことである。
お鯉はいつもの通り朝の9時から平岡大尽のお座敷につめていたが、平岡大尽から急にお客をするからその席に出てくれと言われた。
席には松方正義公爵・井上馨侯爵らと共に川崎さんがいた。
平岡大尽は突然例の皮肉な口調で、川崎さんに一太刀浴びせた。
「川崎さん、あなたなかなかお偉いんですね。田中屋の出合は粋なことで。とにかく総理大臣を向こうに回して腕を見せようと言うんですからね」
生来温和な川崎さんはなんとも言い返すことができず、ただ困ったような顔をしている。
耳の悪い松方公爵、「なんだ、なんだ、川崎がどうした」
女将が説明をする。
「ふだんから川崎さんがお鯉さんを贔屓にしていて、今度神戸から出てこられたので田中家へ呼ばれて行ったのだそうです。ところがお鯉さんは桂の御前さんに買い切られているので、それが問題になったらしいのです」
下を向いたままじっと黙っている川崎さんを見て、お鯉は気の毒でたまらない。
女の争いには嫉妬がある、商売敵がある。
瓢屋に買い切られているお鯉が、内緒で田中家に行ったということは、花柳界に覇を争う待合同士には容易ならぬ問題であったろう。
そこへもってきて自分に一言の断りもなくお鯉が川崎さんのお座敷に顔を出したと聞いた平岡大尽が、大通人の面目を潰されたと思ったのであろう。

総理大臣を向こうに回して、その買い切りの芸者を横取りしたように、場所もあろうか元老大臣の居並ぶ席上ですっぱ抜かれた川崎氏は途方に暮れてしまった。
お鯉は川崎さんの定宿木挽町の岡本旅館を訪れた。
「私は覚悟してきました。この上はあなたのお考え次第です。」
「どういうことなんです」
「あまりにお気の毒ですから、私はあなたのお顔を立てたいと存じます。今でも私は芸者なんですから、あなたの御決心次第でどうにでもなります。総理大臣でもただのお客でも、芸者の私から見れば何の違いもありません。もしあなたさえそのお心なら、私をどうか神戸へ連れて行ってください。どうにでも思召のままになりましょう」
「あなたの好意は川崎芳太郎生涯忘れません。大勢の中でとんでもない恥をかかされながら、私は我慢し通しました。今あなたのうれしい心意気を聞いて、本当に感謝しています。私とあなたは数年来親しい友だちつきあいをしてきました。神戸に帰ると家内にも話して聞かせ、家内も喜んで私の上京の都度『これはお鯉さんに』と心を配り、あなたもまた家内に子供にと何かと心づけてくれる。ここで私があなたを連れて帰ったとしても、私は養子の身の上です。あなたは生涯妾ということになります。また私は仕事の関係上、今度の戦争で総理大臣とはいろいろな交渉を持つ者です。どうぞ川崎を男にして置いてください」
分別盛りの38歳、事業の前には忍び難きを忍ぶ男の意気が潜んでいた。

東京を立つ夜、田中家にもお鯉にも迷惑をかけたということで、川崎さんは田中家の女将とお鯉を呼んで小宴を張った。
女将は新橋の丸子時代から泣き上戸で評判の人だけに、手放しで泣き出した。
「くやしい、くししいったらありゃしない。瓢屋は私の家をしくじらせるつもりなんだよ。それにお鯉さんもしくじらせようとするのさ。こうなれば意地でも落籍すところなんだが、それもできないし」
口説いては泣き、泣いては口説く。
その後川崎さんは上京してもお鯉を呼ぶことはなくなった。
しかし帰ってから必ず女将とお鯉に大島の揃いを贈り届けられた。
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◆2代男爵 川崎武之助 初代男爵川崎芳太郎の子
1893-1946


■妻  嵯峨賢子  嵯峨公勝侯爵の娘 学習院出身
1898-1981


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◆3代 川崎芳熊 初代男爵川崎芳太郎の子
1896-1971


■妻  岡部久子 岡部長職子爵の娘
1903年生


●長男 川崎芳久 1926年生
●二男 川崎芳孝 1933年生

●長女 川崎敏子 1928年生 倉敷紡績社長山内信と結婚
●二女 川崎澄子 1931年生 作家久坂葉子


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『岡部長景日記』文部大臣※当時は内大臣秘書官長

※岡部長景は川崎芳熊の妻岡部久子の兄

1929年4月18日
川崎芳熊君が訪ねて来てくれた。
例により黒いが、良い性質の所有者たることは眉字の間にもうかがわれた。
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深川福住町に最初の本邸を建てる

王子の飛鳥山に別邸を建てる

兜町に新本邸を建てる

三田綱町に息子篤二邸を建てる

〈晩香廬〉飛鳥山別邸の敷地に清水建設からプレゼントされた建物
〈誠之堂〉多摩川沿いの瀬田に第一国立銀行からプレゼントされた建物

東京にある渋沢栄一の家は4ヶ所。
深川の元本邸・兜町の新本邸・王子の飛鳥山別邸・三田綱町の息子篤二邸。
金にあかせて立て替えてみたり、改築してみたり、
あっちの家をこっちの家に移築したりしているが、基本の場所はこの4ヶ所である。
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■深川元本邸 福住町 1902年撮影
2044


2012


■兜町新本邸 日本橋 1888年竣工 設計:辰野金吾
2016



■飛鳥山別邸 王子 1901年竣工 1903年撮影 敷地1万坪・建物500坪
2019(1)


2017


2018


■綱町邸 三田 1806年竣工 1909年撮影 設計:清水喜助
2022


2013


2006

食堂
2025

応接室
2004



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◆初代子爵 渋沢栄一 実業家
1840-1931 91歳没




■前妻 尾高千代 尾高勝五郎の娘・イトコ結婚・死別
1841-1882 41歳没




■後妻 伊藤兼子 伊藤八兵衛の娘・芸者・バツイチ
1852–1934




※渋沢栄一は妾・庶子多数で、公表されている実子・庶子だけで10人にのぼる。
そこで渋沢家では実子7人だけに限る「同族会」なる家族会議を月1回開いていた。


●前妻の子 渋沢篤二  廃嫡
●後妻の子 渋沢武之助 福原有信の娘福原美枝と結婚
●後妻の子 渋沢正雄  男爵池田勝吉の娘池田鄰子と結婚
●後妻の子 渋沢秀雄  竹田政智の娘竹田タケコと結婚

●前妻の子 渋沢歌子  男爵穂積陳重と結婚
●前妻の子 渋沢琴子  子爵阪谷芳郎と結婚
●後妻の子 渋沢愛子  銀行家明石照男と結婚

●愛人の子 渋沢フミコ 実業家尾高次郎と結婚
●愛人の子 渋沢テルコ 実業家大川平三郎と結婚
●愛人の子 渋沢重三郎 銀行家長谷川重三郎となる




1918年「財界三奸」
5500





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万朝報 1898年

渋沢栄一は深川福住の自宅に大阪より連れ来たりし田中久尾(28歳)という古き妾あり。
日本橋浜町の別宅には吉原仲の町林家〈小亀〉こと鈴木カメ(24歳)なる妾を畜う。
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宮武外骨『地獄耳』1917年

栄一は芸妓・女優・女義太夫など手当たり次第に犯すのである。
その家訓空しからず、長男篤二は女房を捨てて新橋の芸妓〈玉蝶〉を落籍して浜町に住んでいる。
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宮武外骨『地獄耳』1917年

渋沢栄一が往年あらゆる会社に重役の間を貸していた頃、愚俗共が欺かれてその会社を信用したために損したことも多かったが、渋沢はいつも巧みに逃げてその責任を負わなかった。
当時田尻稲次郎博士が「渋沢は栄一にあらず、栄百の狸ジジイなり」と評したのは痛切であった。
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宮武外骨『スコブル』1917年

「渋沢栄一が倫理講師となる」
論語読みの論語知らずという例えは昔から有名なものであるが、現今においてもこの例えに適応する例はたくさんある。
最近世人の耳目に上ったのは、実業界の大立者たりし男爵渋沢栄一である。
渋沢は去月実業界引退を機として高等商業学校の倫理講師となったのであるが、なにゆえ彼は突如として倫理講師などになったのであるかと言えば、過去の不行跡を覆わんがためにことさら「教育家」という美名の下に残骸を寄せたのである。
彼は壮年の頃から論語を唯一の処世宝典としてこの書を愛読し、かつ後輩にも論語主義を鼓吹してきた者である。
そのために世間では彼をひとかどの論語通であると信じ、彼の今日ある所以はこの論語主義によるものと思っている。
これは大なる謬見であって、彼は決して論語を実践躬行するが如き善人ではなく、いわんや倫理講師たる資格など毛頭ないのである。
彼の乱倫背徳の立証として、その家庭の紊乱・実業界における流毒など、みな彼の非君子たることを表明するものではないか。
しかるに白々しくも自ら進んで教育家の一人となり、しかも神聖なるべき倫理道徳を講ずるが如きは、破廉恥の甚しいものと言わねばならぬ。
これすなわち論語読みの論語知らずの最も醜悪なる実例たるのみならず、現代における悪風潮をますます瀰漫せしむる社会のウイルスである。
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宮武外骨『地獄耳』1918年

渋沢栄一の腰巾着は八十島親徳。
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宮武外骨『震災画報・第3巻』1923年11月5日

今回の大震災について「神様の懲らしめを忘れてはならぬ」とか「腐爛せんとした日本を天帝が大懲罰を与えたのである」とか言った人もあるが、我輩はそれを冷笑に付している。
渋沢栄一が天譴説を唱えたに対し、菊池寛が「天譴ならば渋沢栄一が生存するはずがない」と喝破したのは近来の痛快事であった。
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林田亀太郎『雲梯夜話』大正

私の妻の母である富貴楼の女将お倉が盛大な時に大磯に別荘を持っていた。
ある夏の日渋沢栄一が3~4人の友人と遊びに来て、花合戦を始めた。
そこへ伊藤博文が突然やって来た。
突然のことであるから隠蔽する暇もなかったので、これを発見した伊藤公爵は烈火のごとくに怒り、
「ぬしまでもこんなことをやるのか」と言いも果てず、鉄拳をふるって渋沢男爵を打擲した。
渋沢男爵は平謝りに謝ったが、伊藤公爵の怒りは容易に解けなかったという話を女将から聞いた。
とにかく伊藤公爵は非常に賭け事が嫌いであった。
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渋沢栄一の孫/渋沢秀雄の娘 渋沢華子の証言

先妻の娘二人〔歌子と琴子〕はインテリで格式高い。
おまけにその夫たちは華族である。
いつも彼女たちは仇討ち寸前のような険しい表情をしていた。
無言のまま一瞬じろりと睨む四つの眼が子供の私には恐ろしかった。
栄一を父に持つ彼女たちの過剰なプライドは鉄の裃のように肩にのしかかっているように見えた。

それに比して篤二はいつも笑顔で子供たちに接してくれた。
理由もなくその温かさが伝わってくるような伯父だった。
篤二は本来蒲柳の質で過保護に育ったうえ10歳の時に母に死なれたあと、
厳格な姉の管理下で嫡男のプライドを持たされて育った。
リベラルな彼にとって、父栄一の大きな存在はプレッシャーとなっていた。
篤二はますます家族の重圧から逃れようとするようになった。

篤二の妻敦子は夫の道楽で苦労を背負いすぎて背が縮んでしまったのかと思うほど、
小さな華奢な女性だった。私たち子供にも控え目な優しい伯母だった。
しかし篤二は芸者に惚れてその賢夫人を離婚すると言い出した。
二人の姉たちはお家の一大事と同族会の席上で号泣した。
栄一もこの強い娘たちの手前、芸者を正妻にするのは人倫にもとると篤二の廃嫡を決めた。

そのころ高校生だった私の父秀雄は次兄武之助と異母兄篤二の隠れ家を訪ねた。
当の本人は大きな邸に猟犬を飼い、愛人と何不自由なく趣味人として暮らしている。
秀雄は「廃嫡とは良いもの」と羨ましく思ったと言う。

このあと篤二は写真・狩猟・猟犬など多趣味人となり、狂歌などにも興味を持って行った。
後に彼の義太夫の語りはプロ級にまでなった。
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渋沢栄一の孫/渋沢正雄の娘/鮫島員重男爵夫人 鮫島純子の証言

〔前妻〕千代は惜しくも明治15年病没、栄一は翌年後妻の兼子と結婚しました。
長女歌子はすでに穂積陳重と結婚していましたが、
長男の篤二はまだ母恋しさの残る10歳でした。
姉夫婦が養育を引き受け穂積家で育てられた篤二は栄一の嫡男として大きすぎる期待を背負い、
父親の社会的威光を避けようとする気持ちがあったのかもしれません。
跡継ぎとして不適格だと廃嫡の宣告を受けても、
かえって気楽でなによりといった風情で抵抗なく栄一の意思に従ったと聞いております。
まだ若い息子の敬三に家督を譲った篤二は、写真・狩猟を好み、
義太夫・常磐津・新内は玄人はだし、川柳などもたしなむ文化人であったそうです。

飛鳥山で開かれる園遊会の時など当時珍しい舶来のカメラを首から下げて、
チョロチョロ動き回る私たちをニコニコしながら撮影して
「ヨシッ」と満足げにOKサインを出したりする人の好い穏やかな伯父様という印象がございます。

「長幼序あり」で、先妻組の娘たちには「穂積のおあねえさん」「阪谷のおあねえさん」と呼んで
一目置く風で打ち解けるといった雰囲気ではありませんでしたが、
後妻組のきょうだいは武兄ちゃん・正ちゃん・秀ちゃん・愛ちゃんと、
いつまでも幼い時の呼び名で呼び合い楽しそうでした。
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■夫  渋沢篤二 初代子爵渋沢栄一の子
1872-1932

*嫡男であったが素行不良のため廃嫡される。




■妻  橋本敦子 伯爵橋本実梁の娘
1880-1943




●長男 渋沢敬三 2代子爵
●二男 渋沢信雄 英語学者斉藤秀三郎の娘斉藤敦子と結婚
●三男 渋沢智雄 中村節子と結婚




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渋沢敬三の証言 渋沢栄一の孫・渋沢篤二の子 

私が中学2~3年の時分、私の母はそういうふうになった状態〔夫篤二の廃嫡〕を大変申し訳なく思い、
かつ大きな家に住むのを済まぬとして東京都内の諸所方々を転々と移りながら、一意私たち兄弟三人の成長を見守っておりました。
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■夫  渋沢信雄 渋沢篤二の子
1898-1967




■妻  斉藤敦子 英語学者斉藤秀三郎の娘
1904年生




●長男 渋沢裕
●二男 渋沢彰


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渋沢信雄は学習院から東京大学哲学科に入学、卒業後は渋沢財閥の役員を務めたりしたが、働く必要に迫られなかったため読書三昧の日々を送る。
ドイツに5年行ったが、留学ではなく外遊で、日本と同じ生活を送った。
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渋沢信雄邸 目黒区 1938年竣工 設計:佐藤秀三
2009


2010


1985年 渋沢栄一の玄孫・渋沢裕の娘
19850570


1987年
19870919(1)





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◆2代子爵 渋沢敬三 初代子爵渋沢栄一の孫/渋沢篤二の子
1896-1963


■妻  木内登喜子 政治家木内重四郎の娘
1902-1994


●長男 渋沢雅英 3代当主

●長女 渋沢紀子 実業家佐々木繁弥と結婚
●二女 渋沢黎子 微生物学者服部勉と結婚




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渋沢雅英 1966年

父は渋沢篤二の長男として、明治二十九年八月二十五日、東京深川で生れた。
篤二は渋沢栄一の長男、母敦子は橋本実梁という公卿の娘であった。
当時の写真から見ると、父は丸顔で利口そうな子供であった。
深川の生れだけに、なかなかの江戸っ子で、年を取っても言葉つきや言いまわしに、歯切れのいいべらんめぇ口調が残っていた。

長男の篤二は十歳ぐらいの時に母を失い、年上の姉たちに育てられ、学習院を経て熊本の第五高等学校に入ったが、身体を悪くして中途退学した。
栄一の長男ではあったが、身体も弱く、実業にはあまり興味もなかったとみえて、その方ではとくに名を成さなかったけれど、生れつき多才で趣味の豊かな人だったという。
狂歌をよんだり、義太夫も素人の域を脱していた。
一時、写真に凝って、その作品集を後に『瞬間の累積』と題して父が出版したが、ルポルタージュ写真としては、日本の草分けともいうべきすぐれた感覚と技術をもっていた。
『瞬間の累積』のあとがきの中で、父は篤二について次のように述べている。
「父には、穂積、阪谷、尾高などの重要な親類がありましたが、なかなかこの間に、今の言葉でいうと、父の争奪戦が、ごく明らさまでなしに行なわれておったらしいので、父はそれを嫌ってついに逃避をしてしまいました。明治四十一、二年からは、前からやっていた義太夫にも凝っておりました。写真の方は四十三年まででプッツリ切れて、それ以後のアルバムはありません。そんなわけで、余り実業界で働くことも大してしないで閑居の生活に移ってしまいました」
婦人問題もあったのだろう。
私が物心ついた昭和の始めには、祖父は芝白金に別宅を構えて住み、祖母は父や私たちと一緒に三田綱町の家に住んでいたものである。
そんなことがたたって篤二が廃嫡になるということになった。
今では廃嫡などは問題にもならないが、家族主義の強かった当時はかなりの事件だったようである。
ことに財界でも売り出しの渋沢栄一の家庭の出来事であり、一種の御家騒動めいた扱い方で新聞、雑誌などにもかなり騒がれたという。
「私が中学二、三年の時分、私の母はそういうふうになった状態をたいへん申し訳なく思い、かつ大きな家に住むのを済まぬとして東京都内の諸所方々を転々と移りながら、一意、私たち兄弟三人の成長を見守っておりました。私は中学三年の時に病気をして落第をしたのですが、これは母にとって一つのショックだったと思います。しかしそれがまた逆にいい結果を生んだのかもしれません。大正四年に第二高等学校を受けてみたら幸い入学しました」

動物学に対する興味は中学時代すでにひじょうに旺盛だったようである。
そんなふうだから、高等学校は当然理科を選び、ゆくゆくは大学の理学部に進みたいと考えていた。
ところが祖父栄一がこれに異議を唱えた。
自分の後継者として銀行の仕事をぜひ受持ってほしいというのであった。
栄一は強圧はしなかった。
しかし誠心誠意若い孫に懇請した。
「とても悲しかったよ。悲しくてしょうがなかった。」と父は言った。
自分の一番好きな道、もっとも生甲斐とあこがれを感ずる道に行くことができないのが淋しかった。今の世の中なら父の立場も違っていただろう。
また、もし篤二が健在で、父が普通の意味での三代目だったら、自分の希望を通していたかもしれない。
「命令されたり、動物学はいかんと言われたりしたら僕も反撥したかもしれない。おじいさんはただ頭を下げて頼むと言うのだ。七十いくつの老人で、しかもあれだけの人に頼むと言われるとどうにも抵抗のしようがなかった」
大正五年の九月、父はこうして二高の英法科に入学して、仙台に旅立った。
栄一はこの孫を愛した。
篤二が廃嫡になってからは、特に大切な跡取りであり、将来家の柱石ともなって行くべき大事な孫であった。
公務で忙しい中を暇をみては父を誘って、昼食にビフテキや穴子の天ぷらを食べに行き、若い孫の健啖ぶりを見て喜んだという。
大正十年大学を卒業すると、「他人の飯がくってみたく、祖父にたのんで正金銀行に入れてもらった。
そしてその年の五月、母登喜子と結婚した。
母は木内重四郎の娘であった。父は母の兄と中学時代に同級で、その縁で知り合っていた母を嫁にもらうことになったのだった。
母は岩崎弥太郎の孫に当っていたので、結婚式の写真には、岩崎家の縁故で当時の総理大臣加藤高明夫妻や幣原喜重郎夫妻の顔もみえている。
後年その幣原氏の内閣で父が大蔵大臣を勤めるようになったのも不思議な因縁であった。
新婚間もなく正金銀行のロンドン支店勤務となり、若い妻を伴って三年余りの海外生活を送った。
その間欧州各地を旅行したり、美術、音楽などを組織的に勉強したりした。
その時に得た芸術に対する知識と理解の程度はなかなかのものであった。
本人はもっと海外生活をしたいと思い、特にアメリカで勤務したいと考えていたらしいが、栄一の健康もすぐれなくなったので内地に転任となり、やがて正金を退職して、父祖の業である第一銀行に入った。
以来、第一銀行の常務、副頭取を経て日銀総裁、終戦後は大蔵大臣を勤めた。
病気中、心してずい分辞退したにもかかわらず、亡くなったとき父が役員をしている会社が三十以上もあった。
しかしそれにもかかわらず、実業は父の本意ではなかった。
「私は実業に志してはいなかったので、銀行は大切だとは思いましたが、面白いと思ったことは余りありません。真面目につとめておりましたが、人をおしのけて働こうという意志もありませんでした」

栄一の葬式は個人の葬儀としては未曽有の盛儀であった。
霊柩車の後に喪主である父の車を先頭に、何十台もの自動車がつづいて葬列を作った。
五台目ぐらい後に小学生の私も母と一緒に乗っていたが、飛鳥山から青山斎場まで長い道筋の両側に、たくさんの学校や団体の方がたがびっしりと並んで見送って下さるのを見てすっかり驚いてしまった。
跡取りとして、また喪主として、十月から一ヵ月間、ほとんど不眠不休で働きつづけた父は、昭和六年十二月に糖尿病にかかって、東大の呉内科に入院した。
当時は糖尿病の治療はもっぱら食事療法だったらしい。
いっさいの糖分、デンプンなどを避けて肉や玉子ばかり食べるのだと聞いて、私はむしろ羨しく思ったことを覚えている。

栄一の死はそういう父を解放した。
栄一の代理者としてでなく、独立した人格として、自分できり拓いて行くべき運命が前途に展開していた。


渋沢の家には同族会というものがあった。明治二十四年に始まっていらい毎月一回親類が会合し、父が亡くなった昭和三十八年までにおよそ八百回以上もつづいていた。たとえ親族の集りではあっても、一つのグループの会合がこんなに長つづきした例は珍らしいと思う。
私の母が嫁にきたころはまだ栄一も健在で、月に一度の同族会は、嫁としてはかなり気づまりな行事だった。しかも毎年の正月の会合では、同族会の成立の基盤となっていた「渋沢家家憲」というものの全文を読みあげることになっていて、居ならぶ親族は畳に両手をついて謹聴したという。何という妙なことをこの家はしているのかと若い母は思ったが、嫁の身ではあり、たくさんの親類が大真面目でやっていることだから、しかたなく黙って聞いていたということである。

栄一が亡くなって父の代になってもこの慣習はつづけられ、毎月一回、三田の家で同族会が開かれた。正月に家憲を読む習慣も戦争前までは守られていた。母の言うところによると、父はこれをものすごい早口で息もつかずに読んだそうである。
「もともとお口は早い方だし、それがいかにも面倒だと言わんばかりに、あらん限りの早口でお読みになるんだから、聞いている方は何が何んだかぜんぜんわかりませんでした。でもその方が早く終るから助かったわ。」
いかにも父らしく、また過渡期の日本らしくて面白い光景である。
家憲というのは明治二十四年の制定で、おそらくは栄一の女婿で明治時代の法律学の第一人者であった穂積陳重博士あたりと相談してつくられたものだと思う。
こうした前書につづいて家法と家訓の二巻があり、本家および分家六家の間の財産の分配の方法から、その管理、同族会の式次第から子供の教育にいたるまで、ことこまかに書いてある。高等学校のころ私は母からこのことを聞かされ、栄一の直筆による和綴じの原文を読まされて、不思議な違和感をおぼえた。この家憲の目的とする「家の存続」という観念と、その作者である栄一の雰囲気が一致しなかったからである。あれだけ革命的な人生を送った栄一が、いかに家族主義の時代とはいえ、なぜこんな徳川幕府の亜流みたいなおかしなことをしなければならないのか、私にはまったく説明がつかなかった。

父が栄一の懇望によってやむなく動物学への道を諦らめ、経済学部に進んだことは前に述べた。栄一の末子であり父の叔父に当る渋沢秀雄も、学生時代、文科に行ってフランス文学を専攻したいと考えていた。ところが栄一はこれにも干渉して、文学は趣味ということにし、「家業」を継いでくれ、「わしが頼むから」ということになる。
「父にうまく拝み倒され母に泣きつかれて」秀雄は法科を卒業し実業界に入った。
「私は青年時代から父を尊敬していた。そしてその一生を立派だと思った。……しかしああいう実業家的生活を羨しいと思ったことは、ほとんど一度もなかった。」(渋沢秀雄著『渋沢栄一』)
私の母の兄に木内信胤という人がいる。この人は経済学者として身を立てたいと考えていた。ところが大学を卒業する前、そのことで父(私の祖父)の木内重四郎と大論争になった。祖父は学者をよして実業界に入ってくれと言って、これまた「懇請」した。しばらく対峠 [対峙] していたが、伯父は折れて正金銀行に入った。


昭和七年、篤二が亡くなった。篤二は長く白金三光町で閑居の生活をしていたが、癌のため十月六日亡くなった。
遺骸は直ちに三田に運ばれ、そこで葬儀が行なわれた。
渋沢秀雄氏によれば「万事にゆきとどいた上にユーモラスで粋な人だった。」という。
愛犬家としても相当なもので、当時三田の家にツナマルとヒノマルという二頭の犬がいたが、たしか三光町の祖父が私にくれたものであったと思う。
土佐犬まがいの犬でよく喧嘩をしていたのをおぼろげに覚えている。
明けて昭和八年七月には次女黎子が生れた。
私の二番目の妹である。
双葉女学校を卒業し、東北大学に進み生物学を専攻していたが、同じ研究室の服部勉君と結婚し、今では夫妻揃って同じ研究をしている。
学問に情熱を燃した父のあとを、本当の意味で継いだのは結局この妹だけだった。
父はこの控え目な妹を大へん愛して、東北大学に受験、入学の折などわざわざ自分でついて行ったり、何くれとなく世話をしていた。

あまり学問ばかりやっていて家庭を省みないと、母がそのころ、よく不平を言っていたが、父も気がさしたとみえて昭和十一年の正月には、私たちと一緒に新潟県の赤倉にスキーに行った。
当時、母が小学上級生の私を連れて、夏は北アルプスに山歩きに行き、冬はスキーに熱中していたので、父もやむなくこれに付合ったものと思われる。
服装や道具なども全部買い整えたのだが、すでに少し肥りすぎていたためもあって、一回きりでおしまいになってしまった。
この時私は父のお相伴で、はじめて寝台車というものに乗って、物珍らしく嬉しかったのを覚えている。
銀行でも、「学問ばかりやっている」と非難めいた苦情を言われたそうである。「皆は碁を打ったり、ゴルフをしたりして結構時間を使っているんだから、文句はないじゃないか」と、父はよく言っていた。しかし銀行の側から見れば、必ずしも時間の配分の問題だけでなく、常務取締役兼業務部長というような、銀行の中枢にいる父の生活の重点のおき方に疑問を持ったのだろう。その時としてはそれも無理からぬことであったのかもしれない。父は多少困ってはいたが、しかしこれに影響されるようなことはなかった。

ちょうどそのころ私の母は、親類や友だちの奥さんたちと一緒に小林栄子さんという女流国文学者にきていただいて、毎週「源氏物語」や「枕草紙」などを研究していた。だから父はよく食卓で、延喜式から察せられる平安朝の生活の実体について話してくれた。


「戦争は必ず終るものである。平和が正しい姿であって戦いは異常である。われわれは戦争のすんだ日に備えなくてはならない。」
そういって父は、戦争がかなり苛烈になってからも懸命に学問の仕事をつづけていた。当時父は日銀副総裁として大東亜金融の元締のような地位にあり、仕事はかなり忙しかった。十八年四月には約一ヵ月間中支、北支を視察したり、折から病気がちだった結城総裁の代理を勤めたり、気苦労も多かった。しかしその間にも学問の仕事は決して手から放さなかった。
昭和十八年三月六日に祖母の敦子が亡くなった。春もまだ浅い寒い夜のことだった。急に容態が悪いというので、家族そろって渋谷の祖母の家に出かけた。私が着いた時にはもう間に合わず、父がすでにてきぱきと死後の手配をしていた。祖母は生前いろいろな苦労をしぬいた人だった。そしてあらゆる運命を甘受し、嫁いだ家のため、子孫のためにすべてに耐え、自分を無にして誠実に生きつづけるという高貴な精神を持っていた。古い型の日本婦人の最後の一人であったかもしれない。
祖母は、父が日銀副総裁になったのをたいへんに喜んだということである。
「(母は)大変喜んだらしいのですが、そのことについてはつい素振りにも見せず、私も忙しかったのでノンキに構えておりました。そうして昭和十八年の三月六日に母は亡くなりました。それから暫くたって、母についていた、幾という忠実な女中さんから洩れ聞いたのですが、私が副総裁になった時に、母は、幾に対して本当に声を出して泣いて喜んだそうです。『第一銀行の頭取になるのは親の七光りであるけれども、祖父が死んで十年以上たって、とつぜん日銀に迎えられたことは、たんなる親の七光りではない、これで自分も冥土へ行って、父や祖父にあわす顔がある』と言って泣いていたそうであります。私も思わぬところで――私は自から日銀に行きたいと思ったのでもなく、またそれを得意にも感じておらなかったのですが、後になって、そう言われてみると、知らぬうちに一つだけ孝行をしたと思っております。しかし考えてみると、戦争中であったとはいえ、今はもう少し何か孝養をつくしておけばよかったと思っております。」
父はとりたてて戦争に反対するようなことはなかった。「こんなことをやっていては、やがて国民に嫌気がさして、政府や軍がいくら笛を吹いても踊らなくなってしまうでしょう。」と高校生の私が青臭い議論を吹っかけても、相手になろうとはしなかった。「くだらないことは言うな。」という態度だった。
反対に、私が勤労奉仕に動員され一生けんめいに仕事をしていると、わざわざ見にきたりした。
父は、当時左翼的であると言って弾圧を受けていた多くの文化人を、かげになりひなたになってかばったり助けたりしていた。大内兵衛博士を日銀の顧問にお願いしたのは、もちろん父の発意であった。三田の研究所にも多くの学者がおられた。一高や東大で思想問題で退学させられた経歴の人も多かった。三池騒動で有名になった向坂逸郎先生とは、東大で同級生だった関係もあり、先生が学校を追われて困っておられた時、二千円差し上げたという話は、先生自身の筆で書かれ、死後有名になった。
べつにマルクス主義に傾倒したわけではなかったが、この人びとの学問を惜しむ心と同時に当時の日本の政治の破局的な間違いに対して、憤りを持っていたのだろうと思う。子爵であり日銀総裁であるという父の立場だったから、身の危険を感じないでそういうことができたという面ももちろんあったと思うが、それにしても、そういうことをそれとなく静かに、しかしかなり大胆に取り運んで行くあたりに、父の父らしさもあったように思う。

戦局が悪くなるにつれ、みんながどういうわけか頭を刈って坊主にし、カーキ色の国民服にゲートルという姿で歩きまわるようになった。父は遅くまで背広を着ていたし、たまに国民服を着てもきわめて地味なデザインのものだった。「頭なんか刈っても始まらない。」とあっさり言っていたが、そんなつまらないことでもかなり決心のいる不思議な世の中だった。
昭和十九年の春には、結城総裁辞任のあとを受けて、父は日銀総裁になった。
この大空襲の日、私は前橋にいた。昭和十九年十月、旧制高校在学中に召集を受け、榛名山麓の前橋予備士官学校で六カ月あまり訓練を受けていたのである。宵の口から空襲があり、警報が解除されてからも東京にあたる方角の空がいつまでも真赤に燃えていた。火事は山の手という放送もあり、三田の家はとうぜん焼けたと思った。家族の安否もまったくわからなかった。
まもなく見習士官になって東京に帰ってみると、焼け跡のものすごさは目をおおうばかり、どこを見ても焦土という言葉が文字通り実感された。ところが、とうぜん焼けていると思った三田の家が、不思議とその一角だけ残っていたのはまったく意外で、ほとんど信じがたい気がした。聞けばあの夜、屋根裏に焼夷弾が落ちたが、父をはじめみんなが天井裏にのぼってやっと消し止めたのだということだった。
母と妹たちはそのころ青森県の三本木というところに疎開していた。三田にはそのかわりに、都内各地で焼け出された人びとがたくさん同居していた。親類や友人の家族たち、研究所の人たち、三田の警察の幹部の人たち、附近の部隊に勤めている軍人など、さすがの大きい家も足の踏み場もないありさまだった。誰言うとなくお互いに「渋沢村の住人」などと称し合っていた。その不思議な共同生活に参加した人たちは、戦争末期から戦後にかけて七十人を越えていた。父はその人たちとかなり楽しく、仲良く暮していた。
空襲が激しくなるにつれて国民の心のバランスがこわれ、物資は極端に不足し明日をも知れぬ毎日だったが、夜、灯火管制の暗幕の中で酒を飲みながら同居の人たちと世間話をしたり、学問の話をしている父には、無欲恬淡として人の心に平和を与えるような一種の落着きがあった。
ある日何かの用で、私は長い刀をぶらさげて日銀を訪れた。大きな総裁室に通されて昼食をご馳走になったが、もりもりと食べる私を面白そうに眺めながら、父は昔、祖父栄一にご馳走になったときのことを話し始めた。どこかの牛肉屋に二人で出かけたとき、父が祖父の分までビフテキを食べるので、栄一はその健啖ぶりを半ば驚き半ば喜んで、父の顔をのぞきこんで「よく食べるねー。」と感心したということである。そんな昔話をするほど、父の心は、終戦前夜の日本の雰囲気とは違ったものを持っていた。
やがて終戦の日がきた。すでに限度にきていた日本人の心は、とめどなく乱れていった。日ならずして幣原内閣ができ、父は思いがけなく大蔵大臣になることになった。
組閣本部に呼び出されてその交渉を受けた父は、とうていその任でないからと言って辞退した。すると幣原さんは、「任でないことは私も同じだ。今のこのありさまで自信があるなどというものがどこにいるだろうか? 私も陛下から組閣のご命令を受けたとき、とてもできませんと申し上げたかった。でも陛下のご様子を見ていたら、とてもそれは言えなかった。あなたも一つ陛下のために曲げてこれを引受けてほしい。」
父は断わる言葉がなかった。昔、栄一が大蔵省租税正就任の交渉を受けた時に、自分はその任でないからと言って辞退した。その時大隈重信は「今の世に自信のあるものがあるだろうか。自信のないものが集まって協力し、これから国づくりを始めるのだ。」と言って説得し、栄一もかえす言葉がなく、受諾したという話がある。その時と今とでは何という違いだろうか。父は日銀の新木副総裁と大蔵省の山際次官にご相談してお二人の同意と支持の下に、この困難で報われるところの少ない役目を引受けることになった。
在任はほんの七カ月ばかりであったが、その間に日本の国はかってない大変動を経験することになった。新憲法、財閥解体、農地改革、追放令など、戦後日本の骨格を作った変革の大半は、占領軍命令の形でこの時期に決定された。経済の面でも財産税、新円切換、軍事補償打切りなど、かなり激しい政策がつぎつぎと打ち出され実行された。

衆を頼んで赤旗を立て要求をつきつけるという風習もいち早く始まった。たしか在日韓国人の問題であったかと思うが、父もその被害を受けた。いっぽう占領軍司令部という「悪夢のような」存在があった。ずっと後になってからも、日比谷の総司令部だった第一生命ビルの前を通ると、父は「あのころを思い出してぞっとする。」と言っていた。
「国民の心が戦争の努力に過度に集中された後には、反動として猛烈な分散作用が起るものだ。」
と言って父は、よく戦後の姿の幾つかを説明していた。そしてその一番身近で端的な例が、父自身の家庭であった。
母と妹たちは昭和二十年の暮に、疎開地から三田の家に帰ってきた。戦争前からとかくうまくゆかなかった父と母の関係はますますこじれて、それから一年足らずのうちに母はとうとう家を出て行くという破目となり、家庭生活はその根底からくずれてしまった。妹たちは当時まだ上が十五、下が十二くらいだったと思うが、複雑でやり場のない不幸な生活におちいってしまった。私自身も敗戦のショックからまだ覚めないころで、この事件によってますます虚無的で反抗的な手のつけられない青年になって行った。そして父は、長い間この不幸な事態から起ってくるすべての結果を、黙ってじっと耐えて行かなければならなかったのである。

食糧不足の折でもあり、追放で暇にもなったので、父は戦争中から始めていた畑仕事に精を出した。それは「家庭菜園」などというありきたりのものではなく、本格的な「農業経営」といいたいほどの徹底したやり方で、父自身まっ黒になって働いた。もともと全国の篤農家の方がたとのお付き合いも多く、ご指導も受けて、また種や肥料など特別のものを手に入れることもできたのだと思うが、三千坪ばかりの三田の庭は専門家でも驚くほどの収穫をあげた。
私は復員してから大学に戻ったようなものの、勉強などまったく手につかず、気持の赴くままに勝手気ままにその日を送っていた。占領軍に対する反発もあったものか、日本の古典に興味をもって、よく歌舞伎の芝居や音楽を聞きに行くようになった。ある日、友人と一緒に父の客間で勧進帳のレコードをかけていた。父は、その日も庭の向うで相変らず畑仕事をしていたが、何を思ったのかつかつかと畑を横ぎって家の方にくると、ひどく怒って「みんなが一生けんめい働いているのに、ちゃらちゃらした歌なんかかけるのはけしからん。すぐやめろ。」と私に言った。
私は友人の手前もあって「勧進帳は別にちゃらちゃらなんかしていない。」と反論したが、父は「とにかくやめてくれ」と言って、ぴしゃりと戸を閉めるとまた働きに出て行った。
いま考えると、おかしいような話だが、父が怒ったのを見たそれはごくまれな一つだった。この場合は私の方がもちろん悪かったのだが、父もさすがに当時はいろいろな労苦がいっぺんに重なって、かなりまいっていたのだろうと思う。ナッパ服を着て肥桶をかついだり、鍬をふるったりしている姿には、自分や国の運命の変化の大きさにじっと耐えぬいているような面影があった。
農業のあい間をみては、父はさかんに旅行に出かけた。「貴族院のパスがあるうちに日本中を見て歩くんだ。」などと冗談を言っていたが、戦後二、三年の間に父の足跡は全国津々浦々におよんでいる。

お金がなくなったことは、それまでお金があるとかないとかいう意識を持つ必要がなかったほど裕福だった私たち家族には、かなり重要な変化だった。
父は戦争前から時たま「僕はお金がなくなっても平気だ。」と私に言ったことがあった。私があまりいろいろなものを欲しがるので、たしなめる意味で言ったのかもしれない。しかし、私にはそれが信じられなかった。お金がなくても平気でいられるというような心理は全然考えられなかった。
ところが戦争という予想外の事態のおかげで、現実にお金がなくなってしまった。私は予想通り平気でいられなかったし、結婚問題その他をめぐってその後はずいぶんお金の苦労をすることになった。ところが父は「ニコボツ」(にこにこしながら没落するという意味)と言って、かなり平気な顔をしていた。私は相変らずその真意がわからず、父は地位もあるし一生食うに困ることはないと思っているから、そんなことを言っていられるのだと考えていた。
そういう父の態度に感心したり、同情したりして下さる方があって、そのご厚意のおかげで父の死後、私も多少の遺産を分けてもらうことができた。父の日ごろの考え方から見て、私は父の死後お金を貰えるなどということはほとんど予想していなかった。そこでさてそのお金をどのように使うべきかということを考えた時、急に今まで信じられなかった父の気持がわかるような気がしてきた。また私の中にも父に似た考え方が、いつの間にか育ち始めていたことを感じるようになった。
そんなわけで「ニコボツ」は、個人的には父の心に大した影を投げかけることはなかった。しかし学問という点ではきわめて重大な影響を持つことになった。端的に言って、今までできたことがほとんどできなくなり、昔なら自分でやれた小さなことも、今ではすべてを人に頼まなければならないことになった。

戦後しばらくの間、私は何の目的もなく、まったく無軌道な生活をつづけていた。占領下の東京では見るもの聞くものすべてが癪にさわったし、新円切換え以後はお金もほとんどなくなり、すべてが投げやりでめんどうくさく、虚無的になって、人間の営みには結局何の意味もないとしか思えなかった。夕暮になると、街の灯が恋しく、ふらふらと出かけては大酒を飲んだ。お金がなくなると父の書斎に忍びこんでお金を盗み出したりもした。適当なところでこの世を去る算段をしようなどと、大まじめで考えていた。生れてきたことが心から悔まれた。頼みもしないのになぜ生んでくれたのかと、心の中ではいつも両親に食ってかかっていた。そのくせお金のことそのほかのことで父にはいつも迷惑をかけた。

父もそうした私のことをずいぶん心配していた。しかし、父じしんも私に与えるべき心の余裕と糧をあまりもっていなかった。まだ五十そこそこだったが、それは父の人生でもっとも暗い日々だったのではなかったかと思う。追放とか貧乏とかいうものは苦にしなかったけれど、すさみきった世の中の風は、母のいない家の中に遠慮なく吹きこんでいた。家庭は崩壊し、将来の見通しは全くなかった。

昭和二十三年、私はいまの妻に出会い、結婚しようかと思い始めた。それは自分でも思いがけない考えだった。大学もそっちのけにしてアルバイトをしたり、遊び歩いていた私にとって他人の一生に責任をもつなどということは縁のない話のようだった。父は何も言わなかった。反対もしなかったけれど、とくに積極的に応援するというのでもなかった。
結婚をするためには生活を固めなければならない。私は至急大学を卒業して就職をすることにした。父に頼めばどこかに紹介してくれるかもしれなかったが、父はそういうことを喜ばないことがわかっていたので、友人や先輩の厚意にすがって、自分で或る貿易会社に入ることにした。始めのうちは様子がよくわからなかったが、やがて商売を面白いと思うようになった。会社員として社会との関係もでき、だんだんと気持も落着いてきた。もういいだろうということで昭和二十六年の四月に結婚した。
「俺に頼まないで就職してくれたのはまったく有難い。何よりの親孝行だ。」と父はよく言った。父がそういう気持でいることは知っていたが、私の方はむしろもっと干渉してもらいたいような気もしていた。「そっちはあまり子供孝行じゃありませんね。」というような言葉が口の端まで出かかることがあった。
父と私との関係が一番冷たかったのはそのころだったと思う。物資はまだ不足していたし、占領軍は威張っていて、この国には楽しいこと、ということはなにひとつ望めないかのような索莫たる時代であった。もしあの頃に私たちの家庭生活が曲りなりにも存続していて、家の中だけにでも少しは暖かいものが残っていたならば、私の一生も、また妹たちの運命も変った方向をたどっていたかもしれない。父がそんな気持なら私も父の世話などにはならないといった意地で私は就職した。当時の父はドライで冷たい感じがした。妹たちも形は違っていたが同じようにそれを感じていたと思う。したがって当時のわれわれの心はどちらかと言えば母の側にあった。今にして思えば、父も人に言えない寂寥の中で生きていたのだろうと思う。
私が結婚すると、父はもとの研究所を改造してそこに移った。生活はまだいっこう楽にはならなかったが「ニコボツ」の象徴だった崖下の茅屋から見れば、いくらか昇格したといってよい。私は住宅金融公庫から金を借りて、そのかたわらの空地に十七坪の家を建てて、新婚生活をはじめた。

この年、追放が解除になると父の身辺もいくらかにぎやかになった。いくつかの会社の役員になったり、貯蓄増強中央委員会の委員長を引き受けたり、鉄道会館、文化放送などいくつかの会社とかなり深い関係ができたりした。轟夕起子さんと一緒に「ママの独り言」という映画に出演したのもこのころのことである。たしか貯蓄増強に関する映画だったと思う。

昭和二十七年の春、娘の田鶴子が生れた。父にとっては最初の孫だった。長い間、落莫たる生活をつづけてきた私たち家族もいくらか落着きを取りもどし始めた。
昭和二十九年には私の長男雅明が生れ、翌年には佐々木の家で長女の由美子ができて、孫の数も三人にふえた。雅明という名前は父の命名である。

ロンドンを出発するまえに私は東京の父に電信をうった。フィリッピンに行くようになった事情を説明し、もしできうるならば、妻がフィリッピンにきて、私に会うことができるようにしてもらえたら有難いと頼んだ。妻にはロンドンから何回も手紙を書いて、私の考え方はたびたび伝えてあったし、妻からの返書によると、彼女もそれをかなり理解しているようではあったが、やはり一万マイルを隔てていては、重要な問題になると意志の疎通ははかりにくかった。とくに自分のこれからの人生行路にかんして重大な決意を迫られていたときであったから、東京に帰るまえにたとえ二週間でも妻といっしょに過ごしてよく話し合いたかった。妻にもむろんこの旨を書き送り、また出発前には電信も打った。
ところがロンドンでも、またアメリカに渡ってからも、父からも妻からもぜんぜん返事をうけとることができなかった。私にはそれがいいことなのか悪いことなのかわからなかった。やむなく予定通り、アメリカ経由フィリッピンへの旅をつづけるほかはなかった。

 ジェット機のなかった当時のこととて太平洋の横断は二晩と丸一日かかった。サンフランシスコを夜出発して翌朝ハワイに着き、さらにウェイク島を経由、グワムで二晩目の夜を迎え、三日目の朝、マニラに着くという段取りであった。南太平洋の空は青くてほとんど黒ずんで見え、いかにも南の空を思わせる入道雲が白く輝いて目にしみた。東に向って太陽を追って行くのでなかなか日が暮れず、金色に輝く太平洋の夕暮の中をあきるほど飛んだ。

 グワム島に到着するころようやく日が落ちた。ここは米国海軍の基地であり、飛行場には軍用機が並んでいた。墨を流したように澄みきった南太平洋の夜空はまさしく満天の星で、遠く南の地平線には、生れてはじめて見る南十字星があかるく輝いていた。

 同じころ、東京の三田の家では珍らしく早く帰宅した父が、居間で一人トランプをしていた。戦後父はふと一人トランプをやり始めて以来、病気がかなり悪くなるまで、暇な時にはあきずにくり返していた。あまり使うのでカードがすり切れて汚なくなったので、妹が新しいのを買って贈ったことがあったが、やはり古くて小さいのが使いやすいらしく、同じトランプを使って同じ遊びを何百回、何千回とくり返していた。時にはお客がこられても気のおけない方の場合には、用談中でもトランプの手を休めないこともあった。精神を集中するのにいいということもあるいはあったかもしれないが、私には、やはりそれは戦後の父の生活の中に根ざしていた淋しさ、退屈、挫折感、手持ちぶさたなどの一つの表現であるように思われた。

 戦前は外でどんなに忙しくしていても、帰ってくればすぐ書斎の人となって時間をすごしていた。日曜など私が隣りの部屋でレコードなどかけていても、ぜんぜんおかまいなく調べものをしたり、本を書いたり、学問をつづけて余念がなかったものである。ところが戦後は昔のような研究所もなくなり、まとまった勉強をするための環境がなくなった。昭和二十八年には国際電電の社長に就任し、外での仕事は日を追って忙しくなってゆくのに、うちでは不思議な無聊を持てあましているようにみえた。

 母がいないことも原因のひとつであった。主婦のいない家は、物理的にも殺風景になるものであるが、それ以上に妻に背かれたという事実が、父の心にだんだんと深く沈んでいくおもりのような効果をもたらしていた。

「やっぱりあれから勇気が出なくなったね。ついためらってしまって、一歩を踏み出そうとする押しがなくなった。」

 病気もまだそれほど悪くなかったころ、ときどき父はこんなふうに述懐した。文句を言ったり、母を憎んだり、荒れ狂って道楽をしたりすることはなかったが、それだけに淋しさは深いようだった。

父は心の暖かい人だった。私たちと一緒にいても文句を言ったり、怒ったりすることはめったになく、いつもていねいで節度があり、思いやりも深かった。あらゆる意味で頼りがいのある父だった。それなのにいったいどうして母と別居するようなことになったのか、わかっているようでいながら私にはそれがわからなかった。とくに大事件があったわけでも、大喧嘩をしたわけでもなかった。昭和二十二年に別居するまでに二十数年間をともに暮し、四人の子(私と二人の妹のほか夭折した弟があった。)までつくった仲でありながら、どうしてあんなことになったのか、いろいろな人がこれを疑問にした。

母が悪いのだ、母が我儘なのだと考えた人も少なからずある。表面に現われた形だけをとらえてみれば、戦後一番ひどい時に、夫と子供を残して家を出て行った母が責められる面もあったに違いない。母にしても人間である以上、妻として完壁ではなかったかもしれない。しかしこれは母だけの問題ではなかった。どこまでも二人の問題であり、どちらか一方を責めることはできないと私は考えていた。
別居後も父はべつに婦人問題を起すわけでもなかった。特定の婦人に心を寄せても、決して乱れるということがなく、はた目にはととのいすぎるほどととのっていた。いったいなぜそうなのか? 父は女が嫌いなのか? そんなはずがない。父は本来心の暖かい人だった。いったいどういうことなのか。父の本当の心はどこにあったのか、私はよく迷いよく考えた。
父篤二の廃嫡問題について、穂積、阪谷その他多くの親類はひじょうな心痛だった。若い父を摑えてはいろいろと愚痴をこぼしたり、お説教をしたらしい。彼らにとっては、若い敬三は渋沢家存続の唯一の希望であった。父はよく私に述懐して聞かせた。
「親類のところに行くとその度にいろいろなことを言われたものだ。お互同志の批判や陰口……。誰が何と言っていたとか、こんな噂があったとか、いや、うるさいのなんのって、僕がうっかりあそこでこんなことを言ってましたとか、あの人はこう考えているようですなどと、別のところでしゃべったりしようものなら、蜂の巣をつっついたようなさわぎになると思ったから、僕はそういう話は聞き役にまわるばかりで、自分ではいっさい何も言わないことにした。大人ってのは馬鹿なもんだと思ったよ。」
そういう心を持っていたのでは、たしかに「女に心を移すことなどできなかった。」のかもしれない。常に他人に見守られている中で生きてきて、いつかそれが習い性となってしまった父にとっては、妻を自分だけのものとして、二人だけの生活をつくるというようなことが、そもそも難しかったのではないかと思う。しかし母にとっては、それは我慢することのできない悲しいことであった。
「お父様が何を考えていらっしゃるのか、私にはついぞわかりませんでした。」と母はあるとき述懐した。女学生時分、乙女ごころに嫌いでなかった中学生のころの父とくらべると、大学を出て銀行に入った父は、あまりにも変ってしまっていて、取りつくしまもなかった。そしてその理由は、父が亡くなるまで母にはついに理解することができなかったのである。

父は愛情のない人ではなかった。それは母もよく知っていた。情熱もある。常民の生活文化の探究に情熱をもやし、寸暇を惜しんで勉強し、学者の人たちと深更まで語りつづける父は、たしかに少年のような情熱に燃えていた。父はまた、まわりの人たちに対してもわけへだてなくあふれるような思い遣りをもっていた。父のこまやかな友情に感謝している人は尠くないようである。それが真実であることを母も私も知っている。しかし家庭となるとそれが素直に現われなかった。自分たちだけの部屋をつくるということが、父にはどうしてもできなかった。ところが女である母は、自分たちだけの部屋がなければどうしても生きられなかった。そこに父の人生の悲しみの一つがあった。
「登喜子には長い間、変な運命から気の毒をかけてすまなかったと思っている。離婚という話もたびたびあったし、良胤君(木内良胤氏・母の兄)からそういう意味のお勧めもあったが、離婚は私よりも子供たちのためによくないと考えて同意しなかった。生活の援助はまがりなりにもしてきたが、今となってみればもっと何かしてやるべきだったかもしれない。」

私は会社をやめて自分のリスクで歩きはじめてから、生れて始めて父との間に本当の心のふれ合いをもったような気がした。それまでの私は、父を利用することばかり考えている欲の深い、意地の汚ない子供だった。父の持っているものは何でもほしかった。お金、地位、権力、……父だけがそういうものを持っていて、私が持っていないのをいつも心の底で嫉妬していた。だからいつも父を利用しようとした。そして断わられるとひどく憤慨した。その裏には、馬鹿な戦争をやって日本をこんなにしたのは大人たちだったのだとか、母がいないからこうなるのだとかいった、父の心を刺すような理屈が用意されていた。
こんな息子を父はどうにもしょうがなかったに違いない。しかし父は決して怒らなかった。淋しそうな顔はしても、荒い声を出すようなことはなかった。しかし同時にいっさい妥協しようともしなかった。買収、脅迫、馴合いなどというものは、父には縁がなかった。その潔癖さと自分を投げ出した勇気ある態度が、今になって私にはわかる。そしてそういう父を心から誇りに思う。




翌日、母が訪ねてきた。
父と母は事情があって長年別居していた。
母が家を出て行ったのは戦争の直後、私がまだ22~23の時だった。
それ以来二人が会ったのは、私と妹たちの結婚式の時だけだった。
一度私が頼んで母が病院に見舞いにきたこともあったが、その時はかえって気づまりで話もろくにしないで別れてしまった。
ところがその朝は母がおそるおそる病室に入ってくると、父は「昨夜はとても苦しかったよ。」と子供が母親に甘えるように言った。
母は涙を浮べて、「さぞお苦しかったでしょう。」と父の手を取った。
長年の間にいろいろとしこりを残した二人の関係だったが、最後の再会は何ごともなかったかのように自然に運ばれた。
静かだが万感がこもって感動的な場面だった。
私にとってそれはどんなに嬉しかったかわからない。
母はその時以来、父が世を去るまで徹宵看病をつづけた。

隔世遺伝ということもあるのだろうか、子供の篤二は風貌も性格も父の栄一にあまり似ていなかったが、孫の敬三は、恰幅、顔形、起居ふるまいから字の書き方に至るまでなかなかよく似ていた。栄一の死後「いいお跡取りだ」と多くの人に言われたというが、たしかに血縁でなければ考えられない、いろいろな類似性があったようである。栄一は九十二歳という長命だったから、それによく似ている以上、父もきっと長生きをするだろうという感じを皆がもっていた。たしかに父は丈夫で、ろくに病気をしたこともなかったから、これならきっと相当の長生きは間違いないと、人も思い、本人もなんの気なしにそう考えていた形跡がある。そのことが日ごろ慎重な父にしては意外な不注意を招き、早逝の原因ともなったように思われる。

多くの人は、父をきわめて幸福な人生を送ったと考えているように見える。かなりの資産もあり、若くして銀行の重役となり、長じては日銀総裁、大蔵大臣など、経済人としては一応位人臣をきわめた。だれの目にも羨しいようなキャリアである。しかし実際には、私は父の人生は、人が考えるほど幸福なものではなかったと思う。

「誰も僕をわかってくれない。」と父はときどき言った。「どうも人には僕のことはわからないらしい。」父の立場の特殊性もあって、人は父をとかく特別視してしまって、あまりわかろうと努めない傾向があった。過小評価されたこともあったと思う。若いころは栄一の影があまりにも大きくて、人は父の心の中に何があるのかを、立止って見ようとしない場合が多かった。逆に過大評価されたことも多かったと思う。自分のもっていない地位やお金をもっている父に対して、焼餅半分の過大な要求を突きつけるものもあった。人間はとかく、自分の心の投影だけを他人の中に見ようとするものである。だから大抵の場合、見当はずれのことを相手の中に想像し、要求し、期待する。
もし人がもっと父をわかったらよかったと思う。父の本質と願いをわかる人が多かったら、父のもっていたものを、日本のためにもっともっと使うことができたのに違いない。父の残した仕事の後始末をしていて思うのは、父の死とともに、しばしばその仕事を動かしていた心の力も止ってしまったことである。今まで父から放射されていた心の力によって動いていた人々が、自分からはもう他の人に心の力を与えようとしないのは淋しい。仕事がそれで止ってしまうだけではない。その人たちが結局父をわかっていなかったことになってしまう。

父が亡くなったとき、大宅壮一氏は「最後のエリートが死んでしまった。」と言われた。
「ああいう人はもう出ない。」「かけがえのない人だった。」なぜ人はこういう表現をするのだろうか? もちろん父はきわめて特殊な環境に生れ、特殊な人生のえらび方をした人であったことは間違いない。しかし、父が最後のエリートであっては情けない。新しい日本の、最初のエリートであってほしい。

父の死後、多くの方が父への尽きぬ感謝の言葉を述べて下さった。遺族にとって文字通り身に余る光栄である。しかし私はそういう言葉をうかがう度に、父はこの方々に何を与えたのだろうかと思う。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1952年5月4日
田島道治◆宮内庁長官後任の件、元東宮大夫穂積重遠が外形的適格の条件を具備しておりますが、肝心の所がダメなのと同様、親類関係でありますが元大蔵大臣渋沢敬三など常識あり視野も広く適格者と見られますが、穂積同様宮内庁長官として的確のように見えて不適格と思うむね首相吉田茂に申して参りました。
元大蔵大臣池田成彬も渋沢を相当人物と思い、国のために広い所へ出し人物に仕立てようと、第一銀行から日本銀行へと世話したと存じますが、日本銀行総裁の末頃にはやはり少しメガネと違うと申しておりましたようでございます。
目先も早く2~3歩先を見るような利口ではありますが、正しいことをしっかり意思強くという点はいかがかと存じます。
むしろ現在よりちょっと先を見て機会をつかむ人のようで、新官僚と組んで致しました跡を顧みましても、信を措く人柄とはちょっと思えません。
昭和天皇◆陸軍大臣の阿部信行がそうだ。
陸軍には稀な常識円満な人だが、意思が弱い。
田島長官◆吉田首相が「アメリカ大使に渋沢がよいではないかという話もあるのですがいけませんかなー」と申しましたゆえそのことを申しましたところ、「実は私も幣原内閣の同僚で少し知ってますが、あまり好きではない。外務省の予算を削減するというので大いに争い少し高飛車に出たところ、すぐ全額外務省の通りにしたことがある」との話をしました。
主張すべき事ならどこまでも主張するという所がないように思いまする。
吉田は渋沢栄一の孫ということでアメリカにおいては信用になるという点も考慮しているようでありました。

1953年11月6日
田島長官◆宮内庁長官後任のことをもに付け加えさせていただきまするが、政府側に政府で考えつきそうな人で適任らしく見えて到底ダメな人を注意的に申しました。
名前を挙げまして恐れ入りますが、渋沢敬三でありますが、民俗学とか魚の種類とか学殖も趣味も広く、日銀総裁・大蔵大臣の経験もあり渋沢栄一の孫でもあり、ちょっと批難のないようでありますが、大勢に押される性質でありまして、固き所信を死守するという点がありません。
元大蔵大臣池田成彬氏も彼に嘱目しましてああいう地位へ推輓もいたしましたが、池田氏も晩年実績を見まして「どうも見当ちがったか」と申しておりました。
現に吉田から元日銀総裁新木栄吉の前にアメリカ大使として勧誘されたこともありまするが、大事な時に毅然とできぬ人は宮内庁長官としては困ると存じます。
昭和天皇◆いろいろ学問的なこともあっていい人だがねー、そういう風では困る。
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◆3代 渋沢雅英 2代敬三の子
1925年生


■妻  房子
1929-2017


●長男
●長女 渋沢田鶴子

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