直球和館

2025年

2026/01

■京都別邸〈祇園閣〉京都市東山区祇園町 3階建て・高さ36メートル 
0013



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◆初代男爵 大倉喜八郎 実家は農家→商家
1837-1928 90歳没

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2362


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■妻  持田トク 芸者徳子
1855年生

1916年 中央が大倉喜八郎・その右隣がトク夫人
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前列が大倉喜八郎夫妻・後列が大倉喜七郎夫妻
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※妾・庶子多数のため代表的な子供のみ


●実子 大倉喜七郎 2代当主
●実子 大倉鶴子  日清豆粕製造社長高島小金治と結婚
●実子 大倉時子  野口粂馬が婿養子になる


★妾  川口タマ
●庶子 大倉文吉


★妾  久保井勇
●庶子 大倉幸二
●庶子 大倉雄二
●庶子 大倉瑛三


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『明治豪商の夫人』明治36年出版

大倉喜八郎氏はそれまでに妻を迎えることは前後3回ばかりもあったけれども、どうも凡物では気に入るはずもなく当時は3度目の妻を追い出しての一人暮らしに、いつしか芸者買いの始まりがそもそも今の夫人と馴れ初むる発端であったとか。
徳子がその当時一方ならぬ御贔屓をしてくれた客というのは世間でよく噂する銅山王とやら。
銅山王も徳子が素敵な美人と性質の非凡なのを愛して、受け出してシャバの人間にしてやろうと思っていると、大倉の大将も徳子を寵愛せられたびたびならず近くの待合料理店などに招き互いに語り合うては楽しんでいると、いつしか銅山王の身請け問題が大倉の耳に入るとたまったものではない。
すぐさま占領してしまおうと思ったものの、銅山王が御寵愛の先口とかで、一応は銅山王に打ち明け、そのうえ占領せねば国際公法の違反ともなるだろうと、右の次第を王に相談すると、かえって徳子の卓見を嘉賞し仲人の労を取られ、ここにめでたく大倉夫婦ができあがったのである。
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宮武外骨『地獄耳』

華族は世襲制度であるから公卿大名はもちろんのこと泥棒将軍西村精一、石コロ男爵大倉喜八郎ら新華族の面々までもが、子々孫々相伝えて皇室の藩屏でござる、カマボコでござるとのさばり返るのはまことにもってウンザリせざるを得ない。
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◆2代 大倉喜七郎 1代喜八郎の子
1882-1963 80歳没

*英ケンブリッジ大学に留学

2062


フィアットに乗る喜七郎
2361





■妻  溝口久美子 溝口直正伯爵の娘
1889年生

1907年 19歳
20180131(1)


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●男子 大倉喜六郎 3代当主

●女子 大倉正子  目賀田綱美男爵の子目賀田重芳と結婚
●女子 大倉鉄子  実業家浜口喜雄と結婚


1929年
1929-3005



●女子(名前不明)
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宮武外骨『地獄耳』

大倉喜八郎の子 喜七郎は放蕩者だが、自転車の操縦だけは上手いそうである。
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<大倉喜七郎&久美子の結婚披露宴の記事>1907年

大倉喜八郎氏令息喜七郎氏はさきに伊藤公爵の媒酌にて溝口伯爵令嬢久美子と結婚せしが、
午後2時より披露のため赤坂葵町の本邸にて園遊会を開きたり。
来賓は名士千余名にして新夫人の知友たる諸家の令嬢令夫人これに加わり、その盛んなることは近時まれに見るものというべく、3時より余興場を開き、4時半 主人夫婦および新郎新婦の挨拶あり、食堂にては末松子爵発声にて大倉家の万歳を唱えたり。

当日お嫁さんの衣装は黒の紋羽二重でしたが、地模様は花菱で上品なものでした。
裾模様は松に紅葉で雲を彩どったのはたいそうよろしく、帯は唐織で柳に橋の模様でしたが、地色が黄色でしたから黒との映りが非常によろしかったそうです。

午後4時半に食堂が開かれましたが、その時にはお嫁さんは衣装をお着替えになって古代紫の振袖でした。
裾模様などはすべて能生の意匠で、すこぶる込み入ったものでした。
帯は綴織で、扇の模様が美しく目立ちましたそうです。
洋々たる奏楽とともに一同食堂にはいりましたが、やがて末松謙澄男爵の発声でシャンパンの杯を挙げつつ新夫婦の万歳を唱えられました。
花嫁のお友達がたくさん見えたから、淑女令夫人がすこぶる多かったので、いっそう目立って美しく見えました。
花嫁さんは極めて平民的で、来賓にビールなどをお酌なさいました。
始終愉快らしく笑顔をもって客にお会いなさいましたから、みな感心してほめていました。
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宮武外骨『地獄耳』

大倉喜七郎の女房久美子は先年役者買いを新聞にすっぱ抜かれ、その後 夫の許可を得ずしてはいかなる男とも面会はできなくなっている。
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◆3代 大倉喜六郎 2代喜七郎の子
1910-1989 79歳没


■妻  山本千代子 山本清二伯爵の娘
1914年生 


●長男
●二男
●三男

■父  川崎正蔵 造船王
1837-1912


■母  松本スミ 松本貞次郎の娘


●二女 川崎チカ 婿養子を迎え初代男爵とする


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◆初代男爵 川崎芳太郎 川崎正蔵の甥/鬼塚善兵衛の子
1869-1920


■妻  川崎チカ  先代当主川崎正蔵の娘・イトコ結婚



●長男 川崎武之助 2代当主
●二男 川崎芳熊  3代当主
●三男 川崎金蔵  三井鉱山崎川茂太郎の娘崎川静代と結婚
●四男 川崎芳虎  男爵山内豊静の娘山内信子と結婚
●五男 川崎芳治

●長女 川崎福子  成瀬正一と結婚


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◆2代 川崎武之助 1代芳太郎の子
1893-1946


■妻  嵯峨賢子  侯爵嵯峨公勝の娘
1898-1981


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◆3代 川崎芳熊 2代武之助の弟/1代芳太郎の子
1896-1971


■妻  岡部久子 子爵岡部長職の娘
1903年生


●長男 川崎芳久
●二男 川崎芳孝

●長女 川崎敏子 山内信と結婚
●二女 川崎澄子

深川福住町に最初の本邸を建てる

王子の飛鳥山に別邸を建てる

兜町に新本邸を建てる

三田綱町に息子篤二邸を建てる

〈晩香廬〉飛鳥山別邸の敷地に清水建設からプレゼントされた建物
〈誠之堂〉多摩川沿いの瀬田に第一国立銀行からプレゼントされた建物

東京にある渋沢栄一の家は4ヶ所。
深川の元本邸・兜町の新本邸・王子の飛鳥山別邸・三田綱町の息子篤二邸。
金にあかせて立て替えてみたり、改築してみたり、
あっちの家をこっちの家に移築したりしているが、基本の場所はこの4ヶ所である。
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■深川元本邸 福住町 1902年撮影
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2012


■兜町新本邸 日本橋 1888年竣工 設計:辰野金吾
2016



■飛鳥山別邸 王子 1901年竣工 1903年撮影 敷地1万坪・建物500坪
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■綱町邸 三田 1806年竣工 1909年撮影 設計:清水喜助
2022


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2006

食堂
2025

応接室
2004



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◆初代子爵 渋沢栄一 実業家
1840-1931 91歳没


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万朝報 1898年

渋沢栄一は深川福住の自宅に大阪より連れ来たりし田中久尾(28歳)という古き妾あり。
日本橋浜町の別宅には吉原仲の町林家〈小亀〉こと鈴木カメ(24歳)なる妾を畜う。
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■前妻 尾高千代 尾高勝五郎の娘・イトコ結婚・死別
1841-1882 41歳没


■後妻 伊藤兼子 伊藤八兵衛の娘・芸者・バツイチ
1852–1934


※渋沢栄一は妾・庶子多数で、公表されている実子・庶子だけで10人にのぼる。
そこで渋沢家では実子7人だけに限る「同族会」なる家族会議を月1回開いていた。


●前妻の子 渋沢篤二  廃嫡
●後妻の子 渋沢武之助 福原有信の娘福原美枝と結婚
●後妻の子 渋沢正雄  男爵池田勝吉の娘池田鄰子と結婚
●後妻の子 渋沢秀雄  竹田政智の娘竹田タケコと結婚

●前妻の子 渋沢歌子  男爵穂積陳重と結婚
●前妻の子 渋沢琴子  子爵阪谷芳郎と結婚
●後妻の子 渋沢愛子  銀行家明石照男と結婚

●愛人の子 渋沢フミコ 実業家尾高次郎と結婚
●愛人の子 渋沢テルコ 実業家大川平三郎と結婚
●愛人の子 渋沢重三郎 銀行家長谷川重三郎となる


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渋沢栄一の孫/渋沢秀雄の娘 渋沢華子の証言

先妻の娘二人〔歌子と琴子〕はインテリで格式高い。
おまけにその夫たちは華族である。
いつも彼女たちは仇討ち寸前のような険しい表情をしていた。
無言のまま一瞬じろりと睨む四つの眼が子供の私には恐ろしかった。
栄一を父に持つ彼女たちの過剰なプライドは鉄の裃のように肩にのしかかっているように見えた。

それに比して篤二はいつも笑顔で子供たちに接してくれた。
理由もなくその温かさが伝わってくるような伯父だった。
篤二は本来蒲柳の質で過保護に育ったうえ10歳の時に母に死なれたあと、
厳格な姉の管理下で嫡男のプライドを持たされて育った。
リベラルな彼にとって、父栄一の大きな存在はプレッシャーとなっていた。
篤二はますます家族の重圧から逃れようとするようになった。

篤二の妻敦子は夫の道楽で苦労を背負いすぎて背が縮んでしまったのかと思うほど、
小さな華奢な女性だった。私たち子供にも控え目な優しい伯母だった。
しかし篤二は芸者に惚れてその賢夫人を離婚すると言い出した。
二人の姉たちはお家の一大事と同族会の席上で号泣した。
栄一もこの強い娘たちの手前、芸者を正妻にするのは人倫にもとると篤二の廃嫡を決めた。

そのころ高校生だった私の父秀雄は次兄武之助と異母兄篤二の隠れ家を訪ねた。
当の本人は大きな邸に猟犬を飼い、愛人と何不自由なく趣味人として暮らしている。
秀雄は「廃嫡とは良いもの」と羨ましく思ったと言う。

このあと篤二は写真・狩猟・猟犬など多趣味人となり、狂歌などにも興味を持って行った。
後に彼の義太夫の語りはプロ級にまでなった。
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渋沢栄一の孫/渋沢正雄の娘/鮫島員重男爵夫人 鮫島純子の証言

〔前妻〕千代は惜しくも明治15年病没、栄一は翌年後妻の兼子と結婚しました。
長女歌子はすでに穂積陳重と結婚していましたが、
長男の篤二はまだ母恋しさの残る10歳でした。
姉夫婦が養育を引き受け穂積家で育てられた篤二は栄一の嫡男として大きすぎる期待を背負い、
父親の社会的威光を避けようとする気持ちがあったのかもしれません。
跡継ぎとして不適格だと廃嫡の宣告を受けても、
かえって気楽でなによりといった風情で抵抗なく栄一の意思に従ったと聞いております。
まだ若い息子の敬三に家督を譲った篤二は、写真・狩猟を好み、
義太夫・常磐津・新内は玄人はだし、川柳などもたしなむ文化人であったそうです。

飛鳥山で開かれる園遊会の時など当時珍しい舶来のカメラを首から下げて、
チョロチョロ動き回る私たちをニコニコしながら撮影して
「ヨシッ」と満足げにOKサインを出したりする人の好い穏やかな伯父様という印象がございます。

「長幼序あり」で、先妻組の娘たちには「穂積のおあねえさん」「阪谷のおあねえさん」と呼んで
一目置く風で打ち解けるといった雰囲気ではありませんでしたが、
後妻組のきょうだいは武兄ちゃん・正ちゃん・秀ちゃん・愛ちゃんと、
いつまでも幼い時の呼び名で呼び合い楽しそうでした。
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■夫  渋沢篤二 1代栄一の子
1872-1932

*嫡男であったが素行不良のため廃嫡される。


■妻  橋本敦子 伯爵橋本実梁の娘
1880-1943


●長男 渋沢敬三 2代当主
●二男 渋沢信雄 英語学者斉藤秀三郎の娘斉藤敦子と結婚
●三男 渋沢智雄 中村節子と結婚


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渋沢敬三の証言 渋沢栄一の孫・渋沢篤二の子 

私が中学2~3年の時分、私の母はそういうふうになった状態〔夫篤二の廃嫡〕を大変申し訳なく思い、
かつ大きな家に住むのを済まぬとして東京都内の諸所方々を転々と移りながら、一意私たち兄弟三人の成長を見守っておりました。
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■夫  渋沢信雄 渋沢篤二の子
1898-1967


■妻  斉藤敦子 英語学者斉藤秀三郎の娘
1904年生


●長男 渋沢裕
●二男 渋沢彰


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渋沢信雄は学習院から東京大学哲学科に入学、卒業後は渋沢財閥の役員を務めたりしたが、働く必要に迫られなかったため読書三昧の日々を送る。
ドイツに5年行ったが、留学ではなく外遊で、日本と同じ生活を送った。
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渋沢信雄邸 目黒区 1938年竣工 設計:佐藤秀三
2009


2010


1985年 渋沢栄一の玄孫・渋沢裕の娘
19850570


1987年
19870919(1)



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◆2代 渋沢敬三 1代栄一の孫/渋沢篤二の子
1896-1963


■妻  木内登喜子 政治家木内重四郎の娘
1902-1994


●長男 渋沢雅英 3代当主

●長女 渋沢紀子 実業家佐々木繁弥と結婚
●二女 渋沢黎子 微生物学者服部勉と結婚


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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1952年5月4日
田島道治◆宮内庁長官後任の件、元東宮大夫穂積重遠が外形的適格の条件を具備しておりますが、肝心の所がダメなのと同様、親類関係でありますが元大蔵大臣渋沢敬三など常識あり視野も広く適格者と見られますが、穂積同様宮内庁長官として的確のように見えて不適格と思うむね首相吉田茂に申して参りました。
元大蔵大臣池田成彬も渋沢を相当人物と思い、国のために広い所へ出し人物に仕立てようと、第一銀行から日本銀行へと世話したと存じますが、日本銀行総裁の末頃にはやはり少しメガネと違うと申しておりましたようでございます。
目先も早く2~3歩先を見るような利口ではありますが、正しいことをしっかり意思強くという点はいかがかと存じます。
むしろ現在よりちょっと先を見て機会をつかむ人のようで、新官僚と組んで致しました跡を顧みましても、信を措く人柄とはちょっと思えません。
昭和天皇◆陸軍大臣の阿部信行がそうだ。
陸軍には稀な常識円満な人だが、意思が弱い。
田島長官◆吉田首相が「アメリカ大使に渋沢がよいではないかという話もあるのですがいけませんかなー」と申しましたゆえそのことを申しましたところ、「実は私も幣原内閣の同僚で少し知ってますが、あまり好きではない。外務省の予算を削減するというので大いに争い少し高飛車に出たところ、すぐ全額外務省の通りにしたことがある」との話をしました。
主張すべき事ならどこまでも主張するという所がないように思いまする。
吉田は渋沢栄一の孫ということでアメリカにおいては信用になるという点も考慮しているようでありました。

1953年11月6日
田島長官◆宮内庁長官後任のことをもに付け加えさせていただきまするが、政府側に政府で考えつきそうな人で適任らしく見えて到底ダメな人を注意的に申しました。
名前を挙げまして恐れ入りますが、渋沢敬三でありますが、民俗学とか魚の種類とか学殖も趣味も広く、日銀総裁・大蔵大臣の経験もあり渋沢栄一の孫でもあり、ちょっと批難のないようでありますが、大勢に押される性質でありまして、固き所信を死守するという点がありません。
元大蔵大臣池田成彬氏も彼に嘱目しましてああいう地位へ推輓もいたしましたが、池田氏も晩年実績を見まして「どうも見当ちがったか」と申しておりました。
現に吉田から元日銀総裁新木栄吉の前にアメリカ大使として勧誘されたこともありまするが、大事な時に毅然とできぬ人は宮内庁長官としては困ると存じます。
昭和天皇◆いろいろ学問的なこともあっていい人だがねー、そういう風では困る。
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◆3代 渋沢雅英 2代敬三の子
1925年生


■妻  房子
1929-2017


●長男
●長女 渋沢田鶴子

◆初代子爵 渋沢栄一 実業家
1840-1931 91歳没


1867年 パリで
2052


1868年 パリで
2053


2059


1900年
2055



■前妻 尾高千代 尾高勝五郎の娘・イトコ結婚・死別
1841-1882 41歳没

1873年頃
2032



■後妻 伊藤兼子 伊藤八兵衛の娘・芸者・バツイチ
1852–1934

0304






2033


1902年


1912年
2056




2051



※渋沢栄一は妾・庶子多数で、公表されている実子・庶子だけで10人にのぼる。
そこで渋沢家では実子7人だけに限る「同族会」なる家族会議を月1回開いていた。


●前妻の子 渋沢篤二  廃嫡
●後妻の子 渋沢武之助 福原有信の娘福原美枝と結婚
●後妻の子 渋沢正雄  男爵池田勝吉の娘池田鄰子と結婚
●後妻の子 渋沢秀雄  竹田政智の娘竹田タケコと結婚

●前妻の子 渋沢歌子  男爵穂積陳重と結婚
●前妻の子 渋沢琴子  子爵阪谷芳郎と結婚
●後妻の子 渋沢愛子  銀行家明石照男と結婚

●愛人の子 渋沢フミコ 実業家尾高次郎と結婚
●愛人の子 渋沢テルコ 実業家大川平三郎と結婚
●愛人の子 渋沢重三郎 銀行家長谷川重三郎となる


1901年 王子邸完成記念
4列目5人左から
篤二の妻敦子・歌子・渋沢栄一・兼子夫人・琴子
3列目6人左から
歌子の夫穂積陳重・穂積孝子・篤二・愛子・琴子の夫阪谷芳郎・阪谷敏子
2列目7人左から
穂積重遠・阪谷和子・穂積光子・穂積晴子・信雄・阪谷八重子・穂積律之助
1列目7人左から
阪谷俊作・敬三・穂積真六郎・阪谷希一・武之助・秀雄・穂積貞三
2048



1885年頃 左から 歌子・女中・琴子・篤二・歌子の夫穂積陳重
2044(1)



左:歌子 中:歌子の夫穂積陳重 右:琴子 カメラ:鈴木真一
1108(1)



左から 秀雄・正雄・武之助
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●渋沢秀雄 竹田政智の娘竹田タケコと結婚
8001


渋沢秀雄の娘(名前不明)
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●渋沢歌子 男爵穂積陳重と結婚 1894年
2045


歌子と父渋沢栄一
2046



●渋沢琴子 子爵阪谷芳郎と結婚



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■夫  渋沢篤二 1代栄一の子
1872-1932

*嫡男であったが素行不良のため廃嫡される。

2035(1)



■妻  橋本敦子 伯爵橋本実梁の娘
1880-1943

2036


2035(2)



●長男 渋沢敬三 2代当主
●二男 渋沢信雄 英語学者斉藤秀三郎の娘斉藤敦子と結婚
●三男 渋沢智雄 中村節子と結婚


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◆2代 渋沢敬三 1代栄一の孫/渋沢篤二の子
1896-1963


1915年
2037


1935年
2038



■妻  木内登喜子 政治家木内重四郎の娘
1902-1994


1821年
2041


1951年
2043



●長男 渋沢雅英 3代当主

●長女 渋沢紀子 実業家佐々木繁弥と結婚
●二女 渋沢黎子 微生物学者服部勉と結婚


1942年 左から 渋沢敬三・黎子・雅英・紀子・登喜子夫人
2040



1948年 左から 雅英・黎子・紀子・渋沢敬三
2042



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◆3代 渋沢雅英 2代敬三の子
1925年生


■妻  房子
1929-2017


●長男
●長女 渋沢田鶴子


2351

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