◆1900年5月10日 成婚式
◆1901年4月06日 婚約者のいた山内豊景侯爵が禎子女王を押しつけられ結婚する
大正天皇御成婚の翌日、明治天皇は禎子女王に5万円(現在の5億円)を下賜した。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
佐々木高行『かざしの桜』1900年5月11日
今般5万円賜るも、ひっきょう一度御内約の事にてありしゆえならん。
誠に恐れ入りたる次第なり。
伏見宮家令御牧基賢、下賜金の御礼として皇后宮職に出候節、皇后宮大夫香川敬三の申され候は、
禎子女王の御事につき、ことのほか皇后陛下お心にかけされされ「何とぞ早く相応のところへ御縁付相成り候うよう、香川にも心がけくれよ」との御内沙汰なり。
もともと大したる御病症にもあらせられず。
逐日御快方の趣なれば、良き御縁付願い候ことなり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
佐々木高行『かざしの桜』1900年5月11日
天皇陛下は侍従長徳大寺実則に「島津忠重へ縁組はいかがか」と命じた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
しかし島津忠重はまだ学習院中等科に通う13歳で、禎子女王より1歳年下だった。
男性側にとってはあまりにも早婚なので、これも流れた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
明治・大正・昭和の天皇に仕えた 小川金男
そろそろ皇太子〔大正天皇〕の御成婚が近づいていた。
明治陛下はあの御性格から言っても、御自分の気に入った方を皇太子の妃殿下にされたい御意向で、
御自分でもいろいろお考えになっておいでになる模様であったが、ある時伏見宮の姫君をお目に止められてすっかりお気に召してしまった。
それまでは皇后には五摂家のうちからお上がりになるしきたりになっていたのであったが、明治陛下の鶴の一声で、その時はじめて皇族から上がられることになった訳である。
ところがこの御内定に対して当時の橋本軍医総監が異議を唱え、それを明治陛下に言上したのであった。
それは「この御方にはおそらくお子さんがおできにならないでしょう」というのであった。
皇室の御世嗣が絶える、これにはさすがの自信の強い明治陛下も御自分の意志を強行させる訳にはゆかなかった。
ついにこの御内定は取消となってしまった。
そういう訳で大正天皇の皇后には、再び昔のしきたりにかえって九条家から上がられたわけである。
困ったのは伏見宮家である。
貞愛親王・禎子女王御自身の心情はもちろんのこと、宮家としてもなんとなく傷がついた感じである。
それでなるたけ早く姫君は嫁がせた方がよかろうということになり、いろいろと相手の男子を物色されていたのである。
ある時宮中で宴会があって、大勢の華族たちが御陪食にあずかった。
伏見宮殿下は大尉の軍服を着た若い山内侯爵嗣子の姿を目に止められた。
やせぎすではあるが、どこかキリッとしていかにも頼もしい好青年士官である。
そこで伏見宮殿下はさっそく近づいていかれて、「どうだ、君はまだ独身だろう?」とお尋ねになった。
そこで山内大尉が事実を明白にすればよかったのであるが、ついうかうかと「はい、さようでございます」と言ってしまったのである。
「それではどうだね。ワシの娘を嫁にもらってはくれまいか」と直談判を始められた。
それでもなお山内大尉にもう少し勇気があればよかったのであるが、なにぶんにも宮殿下からの直々の御談判である。
若い大尉がすっかりあがってしまったことも想像に難くない。
「はい」と答えてしまって、その自分の言葉の重大さに気がついた時にはもう遅かった。
「それではよろしくお頼みしますよ」伏見宮殿下はようやく心の重荷が下りたといったようにご満足気に笑われた。
おそらく帰途についた山内大尉の気持ちは複雑であり、さすがに若くて元気のある青年士官も意気消沈したことであろうと思われた。
と言うのは、その時山内大尉は確かにまだ独身だったことには違いなかったが、すでに上杉伯爵家の娘上杉重子と婚約が成立していたからである。
若い大尉はその日邸に帰るとすぐ、一家をあげて評議したであろう。
ところが相手がなにぶんにも宮殿下である。
いったん承知してしまったことを覆すということはいかにもできにくい。
一家がどういう結末をつけたかは、その後間もなく山内家と上杉家との婚約が破談になったということが伝わって明白となった。
このことで最も打撃を受けたのは、言うまでもなく上杉伯爵家の娘であったろう。
乙女の純情はみじんに砕かれた。
彼女はその後何事もなかったかのように、小柄なおとなしい高辻宜麿子爵と結婚した。
高辻子爵は公卿華族で、大正時代には東宮侍従をやった人物である。
小柄ないかにも温厚な人物で、家庭では寛大なよき主人であることがうかがえた。
また高辻家は公卿華族としては比較的資産にも恵まれており、それ相応の生活をしていた。
夫人との間には子供もあり、長女は音楽学校に入っていた。
そうした表面だけを見れば、高辻家にはどこにも不満や家庭的な破綻を生じる余地がないように見えた。
夫人は中年以降にもその若き日の美貌と怜悧とがいまだに物を言っている風で、年に似合わず夫人の周囲にはいつも華やいだ雰囲気が漂っていた。
高辻子爵夫人の晩年には、とかく自暴自棄の行動が多かった。
中年を過ぎた高辻夫人の乱行を思い浮かべて、女の業の深さに暗澹とした気持ちを抱いたのであった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
華族の結婚は家族会議・親族会議・一門会議・相談人会などなどの承認を得なければならない。
相談人とは元家来の中から政治家・官僚・学者・実業家・軍人などとして名声を得た者で、たいていの華族家ではこうした相談人に家政の運営を任せていた。
家によって、相談人・顧問・評議員などと呼び方は異なる。
山内侯爵家の場合も、相談人たちが病気を理由に皇太子との婚約を解消された禎子女王を嫁に迎えることに同意しなかった。
しかし皇族には逆らえない。結局山内侯爵家はこの結婚を受け入れた。
1901年、二人の結婚に天皇の勅許が与えられた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
佐々木高行『かざしの桜』1901年7月20日
皇后「今般伏見宮禎子女王と山内侯爵と縁組の義につき、一方ならず尽力これあり候う趣き、大いに安心せり。聖上にも御満足・御安心あそばされ候」
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
●北白川宮能久親王の娘 満子女王 90歳没・実子あり・甘露寺受長伯爵夫人
●北白川宮能久親王の娘 貞子女王 77歳没・実子あり・有馬賴寧伯爵夫人
●久邇宮朝彦親王の娘 純子女王 27歳没・実子あり・織田秀実子爵夫人
●伏見宮貞愛親王の娘 禎子女王 81歳没・実子ナシ・山内豊景侯爵夫人
●一条実輝公爵の娘 経子 71歳没・実子あり
九条良致と婚約解消・大炊御門師前の子を婿養子に迎え一条実孝公爵とする
●岩倉具定公爵の娘 米子 83歳没・水野忠美子爵夫人
●九条道孝公爵の娘 籌子 29歳没・実子ナシ・西本願寺大谷光瑞伯爵夫人
●九条道孝公爵の娘 節子 67歳没・実子あり・大正天皇皇后
●鷹司熙通公爵の娘 房子 31歳没・実子あり・上杉憲章伯爵の前妻
●徳川慶喜公爵の娘 国子 60歳没・実子ナシ・大河内輝耕子爵夫人
●徳川慶喜公爵の娘 経子 57歳没・実子あり・伏見宮博恭王妃
●徳川慶喜公爵の娘 糸子 70歳没・実子あり・四条隆愛侯爵夫人
●毛利元徳公爵の娘 万子 31歳没・実子あり・武者小路公共子爵の前妻
◆1901年4月06日 婚約者のいた山内豊景侯爵が禎子女王を押しつけられ結婚する
大正天皇御成婚の翌日、明治天皇は禎子女王に5万円(現在の5億円)を下賜した。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
佐々木高行『かざしの桜』1900年5月11日
今般5万円賜るも、ひっきょう一度御内約の事にてありしゆえならん。
誠に恐れ入りたる次第なり。
伏見宮家令御牧基賢、下賜金の御礼として皇后宮職に出候節、皇后宮大夫香川敬三の申され候は、
禎子女王の御事につき、ことのほか皇后陛下お心にかけされされ「何とぞ早く相応のところへ御縁付相成り候うよう、香川にも心がけくれよ」との御内沙汰なり。
もともと大したる御病症にもあらせられず。
逐日御快方の趣なれば、良き御縁付願い候ことなり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
佐々木高行『かざしの桜』1900年5月11日
天皇陛下は侍従長徳大寺実則に「島津忠重へ縁組はいかがか」と命じた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
しかし島津忠重はまだ学習院中等科に通う13歳で、禎子女王より1歳年下だった。
男性側にとってはあまりにも早婚なので、これも流れた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
明治・大正・昭和の天皇に仕えた 小川金男
そろそろ皇太子〔大正天皇〕の御成婚が近づいていた。
明治陛下はあの御性格から言っても、御自分の気に入った方を皇太子の妃殿下にされたい御意向で、
御自分でもいろいろお考えになっておいでになる模様であったが、ある時伏見宮の姫君をお目に止められてすっかりお気に召してしまった。
それまでは皇后には五摂家のうちからお上がりになるしきたりになっていたのであったが、明治陛下の鶴の一声で、その時はじめて皇族から上がられることになった訳である。
ところがこの御内定に対して当時の橋本軍医総監が異議を唱え、それを明治陛下に言上したのであった。
それは「この御方にはおそらくお子さんがおできにならないでしょう」というのであった。
皇室の御世嗣が絶える、これにはさすがの自信の強い明治陛下も御自分の意志を強行させる訳にはゆかなかった。
ついにこの御内定は取消となってしまった。
そういう訳で大正天皇の皇后には、再び昔のしきたりにかえって九条家から上がられたわけである。
困ったのは伏見宮家である。
貞愛親王・禎子女王御自身の心情はもちろんのこと、宮家としてもなんとなく傷がついた感じである。
それでなるたけ早く姫君は嫁がせた方がよかろうということになり、いろいろと相手の男子を物色されていたのである。
ある時宮中で宴会があって、大勢の華族たちが御陪食にあずかった。
伏見宮殿下は大尉の軍服を着た若い山内侯爵嗣子の姿を目に止められた。
やせぎすではあるが、どこかキリッとしていかにも頼もしい好青年士官である。
そこで伏見宮殿下はさっそく近づいていかれて、「どうだ、君はまだ独身だろう?」とお尋ねになった。
そこで山内大尉が事実を明白にすればよかったのであるが、ついうかうかと「はい、さようでございます」と言ってしまったのである。
「それではどうだね。ワシの娘を嫁にもらってはくれまいか」と直談判を始められた。
それでもなお山内大尉にもう少し勇気があればよかったのであるが、なにぶんにも宮殿下からの直々の御談判である。
若い大尉がすっかりあがってしまったことも想像に難くない。
「はい」と答えてしまって、その自分の言葉の重大さに気がついた時にはもう遅かった。
「それではよろしくお頼みしますよ」伏見宮殿下はようやく心の重荷が下りたといったようにご満足気に笑われた。
おそらく帰途についた山内大尉の気持ちは複雑であり、さすがに若くて元気のある青年士官も意気消沈したことであろうと思われた。
と言うのは、その時山内大尉は確かにまだ独身だったことには違いなかったが、すでに上杉伯爵家の娘上杉重子と婚約が成立していたからである。
若い大尉はその日邸に帰るとすぐ、一家をあげて評議したであろう。
ところが相手がなにぶんにも宮殿下である。
いったん承知してしまったことを覆すということはいかにもできにくい。
一家がどういう結末をつけたかは、その後間もなく山内家と上杉家との婚約が破談になったということが伝わって明白となった。
このことで最も打撃を受けたのは、言うまでもなく上杉伯爵家の娘であったろう。
乙女の純情はみじんに砕かれた。
彼女はその後何事もなかったかのように、小柄なおとなしい高辻宜麿子爵と結婚した。
高辻子爵は公卿華族で、大正時代には東宮侍従をやった人物である。
小柄ないかにも温厚な人物で、家庭では寛大なよき主人であることがうかがえた。
また高辻家は公卿華族としては比較的資産にも恵まれており、それ相応の生活をしていた。
夫人との間には子供もあり、長女は音楽学校に入っていた。
そうした表面だけを見れば、高辻家にはどこにも不満や家庭的な破綻を生じる余地がないように見えた。
夫人は中年以降にもその若き日の美貌と怜悧とがいまだに物を言っている風で、年に似合わず夫人の周囲にはいつも華やいだ雰囲気が漂っていた。
高辻子爵夫人の晩年には、とかく自暴自棄の行動が多かった。
中年を過ぎた高辻夫人の乱行を思い浮かべて、女の業の深さに暗澹とした気持ちを抱いたのであった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
華族の結婚は家族会議・親族会議・一門会議・相談人会などなどの承認を得なければならない。
相談人とは元家来の中から政治家・官僚・学者・実業家・軍人などとして名声を得た者で、たいていの華族家ではこうした相談人に家政の運営を任せていた。
家によって、相談人・顧問・評議員などと呼び方は異なる。
山内侯爵家の場合も、相談人たちが病気を理由に皇太子との婚約を解消された禎子女王を嫁に迎えることに同意しなかった。
しかし皇族には逆らえない。結局山内侯爵家はこの結婚を受け入れた。
1901年、二人の結婚に天皇の勅許が与えられた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
佐々木高行『かざしの桜』1901年7月20日
皇后「今般伏見宮禎子女王と山内侯爵と縁組の義につき、一方ならず尽力これあり候う趣き、大いに安心せり。聖上にも御満足・御安心あそばされ候」
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
●北白川宮能久親王の娘 満子女王 90歳没・実子あり・甘露寺受長伯爵夫人
●北白川宮能久親王の娘 貞子女王 77歳没・実子あり・有馬賴寧伯爵夫人
●久邇宮朝彦親王の娘 純子女王 27歳没・実子あり・織田秀実子爵夫人
●伏見宮貞愛親王の娘 禎子女王 81歳没・実子ナシ・山内豊景侯爵夫人
●一条実輝公爵の娘 経子 71歳没・実子あり
九条良致と婚約解消・大炊御門師前の子を婿養子に迎え一条実孝公爵とする
●岩倉具定公爵の娘 米子 83歳没・水野忠美子爵夫人
●九条道孝公爵の娘 籌子 29歳没・実子ナシ・西本願寺大谷光瑞伯爵夫人
●九条道孝公爵の娘 節子 67歳没・実子あり・大正天皇皇后
●鷹司熙通公爵の娘 房子 31歳没・実子あり・上杉憲章伯爵の前妻
●徳川慶喜公爵の娘 国子 60歳没・実子ナシ・大河内輝耕子爵夫人
●徳川慶喜公爵の娘 経子 57歳没・実子あり・伏見宮博恭王妃
●徳川慶喜公爵の娘 糸子 70歳没・実子あり・四条隆愛侯爵夫人
●毛利元徳公爵の娘 万子 31歳没・実子あり・武者小路公共子爵の前妻
