直球和館

2025年

2030/01

◆1900年5月10日 成婚式

◆1901年4月06日 婚約者のいた山内豊景侯爵が禎子女王を押しつけられ結婚する


大正天皇御成婚の翌日、明治天皇は禎子女王に5万円(現在の5億円)を下賜した。


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佐々木高行『かざしの桜』1900年5月11日

今般5万円賜るも、ひっきょう一度御内約の事にてありしゆえならん。
誠に恐れ入りたる次第なり。
伏見宮家令御牧基賢、下賜金の御礼として皇后宮職に出候節、皇后宮大夫香川敬三の申され候は、
禎子女王の御事につき、ことのほか皇后陛下お心にかけされされ「何とぞ早く相応のところへ御縁付相成り候うよう、香川にも心がけくれよ」との御内沙汰なり。
もともと大したる御病症にもあらせられず。
逐日御快方の趣なれば、良き御縁付願い候ことなり。
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佐々木高行『かざしの桜』1900年5月11日

天皇陛下は侍従長徳大寺実則に「島津忠重へ縁組はいかがか」と命じた。
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しかし島津忠重はまだ学習院中等科に通う13歳で、禎子女王より1歳年下だった。
男性側にとってはあまりにも早婚なので、これも流れた。


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明治・大正・昭和の天皇に仕えた 小川金男

そろそろ皇太子〔大正天皇〕の御成婚が近づいていた。
明治陛下はあの御性格から言っても、御自分の気に入った方を皇太子の妃殿下にされたい御意向で、
御自分でもいろいろお考えになっておいでになる模様であったが、ある時伏見宮の姫君をお目に止められてすっかりお気に召してしまった。
それまでは皇后には五摂家のうちからお上がりになるしきたりになっていたのであったが、明治陛下の鶴の一声で、その時はじめて皇族から上がられることになった訳である。
ところがこの御内定に対して当時の橋本軍医総監が異議を唱え、それを明治陛下に言上したのであった。
それは「この御方にはおそらくお子さんがおできにならないでしょう」というのであった。
皇室の御世嗣が絶える、これにはさすがの自信の強い明治陛下も御自分の意志を強行させる訳にはゆかなかった。
ついにこの御内定は取消となってしまった。
そういう訳で大正天皇の皇后には、再び昔のしきたりにかえって九条家から上がられたわけである。

困ったのは伏見宮家である。
貞愛親王・禎子女王御自身の心情はもちろんのこと、宮家としてもなんとなく傷がついた感じである。
それでなるたけ早く姫君は嫁がせた方がよかろうということになり、いろいろと相手の男子を物色されていたのである。
ある時宮中で宴会があって、大勢の華族たちが御陪食にあずかった。
伏見宮殿下は大尉の軍服を着た若い山内侯爵嗣子の姿を目に止められた。
やせぎすではあるが、どこかキリッとしていかにも頼もしい好青年士官である。
そこで伏見宮殿下はさっそく近づいていかれて、「どうだ、君はまだ独身だろう?」とお尋ねになった。
そこで山内大尉が事実を明白にすればよかったのであるが、ついうかうかと「はい、さようでございます」と言ってしまったのである。
「それではどうだね。ワシの娘を嫁にもらってはくれまいか」と直談判を始められた。
それでもなお山内大尉にもう少し勇気があればよかったのであるが、なにぶんにも宮殿下からの直々の御談判である。
若い大尉がすっかりあがってしまったことも想像に難くない。
「はい」と答えてしまって、その自分の言葉の重大さに気がついた時にはもう遅かった。
「それではよろしくお頼みしますよ」伏見宮殿下はようやく心の重荷が下りたといったようにご満足気に笑われた。
おそらく帰途についた山内大尉の気持ちは複雑であり、さすがに若くて元気のある青年士官も意気消沈したことであろうと思われた。
と言うのは、その時山内大尉は確かにまだ独身だったことには違いなかったが、すでに上杉伯爵家の娘上杉重子と婚約が成立していたからである。
若い大尉はその日邸に帰るとすぐ、一家をあげて評議したであろう。
ところが相手がなにぶんにも宮殿下である。
いったん承知してしまったことを覆すということはいかにもできにくい。
一家がどういう結末をつけたかは、その後間もなく山内家と上杉家との婚約が破談になったということが伝わって明白となった。
このことで最も打撃を受けたのは、言うまでもなく上杉伯爵家の娘であったろう。
乙女の純情はみじんに砕かれた。
彼女はその後何事もなかったかのように、小柄なおとなしい高辻宜麿子爵と結婚した。

高辻子爵は公卿華族で、大正時代には東宮侍従をやった人物である。
小柄ないかにも温厚な人物で、家庭では寛大なよき主人であることがうかがえた。
また高辻家は公卿華族としては比較的資産にも恵まれており、それ相応の生活をしていた。
夫人との間には子供もあり、長女は音楽学校に入っていた。
そうした表面だけを見れば、高辻家にはどこにも不満や家庭的な破綻を生じる余地がないように見えた。
夫人は中年以降にもその若き日の美貌と怜悧とがいまだに物を言っている風で、年に似合わず夫人の周囲にはいつも華やいだ雰囲気が漂っていた。
高辻子爵夫人の晩年には、とかく自暴自棄の行動が多かった。
中年を過ぎた高辻夫人の乱行を思い浮かべて、女の業の深さに暗澹とした気持ちを抱いたのであった。
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華族の結婚は家族会議・親族会議・一門会議・相談人会などなどの承認を得なければならない。
相談人とは元家来の中から政治家・官僚・学者・実業家・軍人などとして名声を得た者で、たいていの華族家ではこうした相談人に家政の運営を任せていた。
家によって、相談人・顧問・評議員などと呼び方は異なる。

山内侯爵家の場合も、相談人たちが病気を理由に皇太子との婚約を解消された禎子女王を嫁に迎えることに同意しなかった。
しかし皇族には逆らえない。結局山内侯爵家はこの結婚を受け入れた。
1901年、二人の結婚に天皇の勅許が与えられた。


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佐々木高行『かざしの桜』1901年7月20日

皇后「今般伏見宮禎子女王と山内侯爵と縁組の義につき、一方ならず尽力これあり候う趣き、大いに安心せり。聖上にも御満足・御安心あそばされ候」
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●北白川宮能久親王の娘 満子女王 90歳没・実子あり・甘露寺受長伯爵夫人 
●北白川宮能久親王の娘 貞子女王 77歳没・実子あり・有馬賴寧伯爵夫人
●久邇宮朝彦親王の娘  純子女王 27歳没・実子あり・織田秀実子爵夫人
●伏見宮貞愛親王の娘  禎子女王 81歳没・実子ナシ・山内豊景侯爵夫人
●一条実輝公爵の娘   経子   71歳没・実子あり
九条良致と婚約解消・大炊御門師前の子を婿養子に迎え一条実孝公爵とする
●岩倉具定公爵の娘   米子   83歳没・水野忠美子爵夫人
●九条道孝公爵の娘   籌子   29歳没・実子ナシ・西本願寺大谷光瑞伯爵夫人
●九条道孝公爵の娘   節子   67歳没・実子あり・大正天皇皇后
●鷹司熙通公爵の娘   房子   31歳没・実子あり・上杉憲章伯爵の前妻
●徳川慶喜公爵の娘   国子   60歳没・実子ナシ・大河内輝耕子爵夫人
●徳川慶喜公爵の娘   経子   57歳没・実子あり・伏見宮博恭王妃
●徳川慶喜公爵の娘   糸子   70歳没・実子あり・四条隆愛侯爵夫人
●毛利元徳公爵の娘   万子   31歳没・実子あり・武者小路公共子爵の前妻

◆1899年3月 伏見宮禎子女王に肺病のおそれありとして婚約解消となる。

◆1899年8月21日 九条節子、皇太子妃に内定

◆1900年2月11日 婚約発表

◆1900年5月10日 成婚式


皇太子のお妃選びは振り出しに戻るが、婚約発表から6年も経っていたので、かつてのお妃候補の中にはすでに結婚している者もいた。

●北白川宮能久親王の娘 満子女王 
●北白川宮能久親王の娘 貞子女王 
●久邇宮朝彦親王の娘  純子女王  
●一条実輝公爵の娘   経子   
●岩倉具定公爵の娘   米子   
●九条道孝公爵の娘   籌子   結婚済
●九条道孝公爵の娘   節子   
●鷹司熙通公爵の娘   房子   
●徳川慶喜公爵の娘   国子   
●徳川慶喜公爵の娘   経子   結婚済
●徳川慶喜公爵の娘   糸子   
●毛利元徳公爵の娘   万子   


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佐々木高行『かざしの桜』1899年1月

※下田歌子の発言

久邇宮純子女王はとても御上に難しきことならん。
なにぶん久邇宮との御間柄は御事情あり、お聞き届けはあるまじくと考えられ候。
一条経子はよろしからず、残るは徳川か。
しかるに見栄えこれ無し。
禎子女王の他には先以って申し上げ候御方はこれ無し。
もっとも徳川国子は身体丈夫、生質もよろしく、発明なれば、見栄えはともかくしかるべしか。
願わくば、禎子女王御方しかるべし。
ただただ御病体うんぬんには閉口。
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佐々木高行『かざしの桜』1899年1月21日

土方「華族女学校長へも相談し、久邇宮純子女王はいかがと尋ねたるに、何も申し上げ候御義はこれ無しと。一条経子はいかがかと、一条は教育一同においてもしかるべからずとの答えありたる」
佐々木「久邇宮純子女王は御病症もあらせられず候らえども、いかにも御体裁よろしからず太子妃には御不相応かと。そのなか徳川慶喜の娘国子は生質はいたってよろしく、発明の趣き、下田らよりも承り。しかし至って丈低く、甚だお見立て無しとのことなり。今日高貴の御方には御体質の上等はとても得がたし。なにぶん御体裁と申し、他年の皇后と仰ぎ奉るには禎子女王の他には見込みなし」
土方「御同感なり。なるべく臣下より皇族の方願わしきことなり。なお徳川の娘はいまだ見申さず候間、その辺も心配致すべきか」
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佐々木高行 『かざしの桜』1899年2月25日

佐々木「妃の御儀は如何に運び候や。早く御取極の義願い候なり」
土方「さりとて他の御方にはと申し候ても御相応あらせられず、実に困却なり」
佐々木「実に恐れ入り候。他の御方にはなにぶん御不十分なり。未来の御国母にあらせられ候えば、第一御生質よろしくなくてはあいならず、また御容体もあまり醜くても不都合なり。それこれよりするに他の御方々はよほどゼロなり。おそれながら皇太子殿下の御天質は天皇陛下とは御違いあらせられ、ずいぶん御才子にあらせられ候えば、妃御方別して御大事と存じ奉り候」
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皇后宮大夫香川敬三が昭憲皇太后后に提出した言上書 4月上旬

他の御人のことにつき、昨日も宮内大臣田中光顕・宮内次官川口武定・侍従長徳大寺実則・東宮監督大山巌・下田歌子ら集会いたし内評あり候。
敬三も出席申し来り、評議の場所へ臨み申し候。
例これ通り、他摂家・清華等の娘種々評議あり候。
いまだ決定奏上と申すところには参り申されず候ども、たぶん九条の方と存じ候。
ここに一つ困り候ことは、ベルツ申すことに「九条節子の母は妾なる由。妾の子を妃とするは如何や」とのこと申しおり候。
しかしベルツは外国人のことゆえ、評議の参考に内々申し出候ことにござ候。
右につき野間幾子〔九条節子の生母〕を正妻に致し候方しかるべしとの評議まず一決致し候。
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佐々木高行『かざしの桜』

※下田歌子の発言

過日皇太子妃の御儀につき宮内大臣田中光顕・侍従長徳大寺実則・皇后宮大夫香川敬三・東宮監督大山巌ら列席にて、華族女学校の成績等より人となり尋ねられ候間、相変わらず伏見宮禎子女王第一番にあらせられ候旨、相答候ところ、侍医局長岡玄卿申され候ところには、なにぶん御病症あらせられ候云々と。
それより他々のことも申し出候。
ただいまのところにては九条節子は体質よろしきにつき、その辺にあいなり申すべきか」
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佐々木高行『かざしの桜』1899年4月8日

土方「皇太子妃殿下の儀、伏見宮禎子女王第一等とかねがね御相談も致し候ところ、なにぶん肺の御病疾あらせられ、皇太子殿下へ御配迎はしかるべからず。もっとも両三年も相立候わば如何、今日のところにてはまずもって御病症顕然と橋本綱常・ベルツより申し出候間、致し方なく御止めとあいなり候。前宮内大臣の関係より、過日伏見宮貞愛親王へ御断に参上致し候。まことに恐れ入り、お気の毒なるのみならず、甚だ遺憾なり」
佐々木「禎子女王の御事は御同様甚だ遺憾なり。然れども顕然の御病症と申さるることなれば致し方なし。然らばそのあとは如何か」
土方「徳川慶喜娘国子は人物よろしき趣きにつき、先日大山巌らと学校へ模様を見に行きたり。なにぶん体格至少にていかがかと考えたれども、人物よろしき趣きにつき、なお体質を検査致せさせ方、
これは禎子女王より一層悪しきと申すことにて致し方なく取り消したり。久邇宮純子女王は天皇に思召しあらせられ難しい。北白川宮女王は御体質よろしからず。一条経子は人柄よろしからず。華族女学校にて各教師も見込みなしと言う。鷹司房子は弱体にてすでに当御殿にも参殿せぬくらい。毛利万子はよろしき趣きなれども、薩長二藩閥うんぬんにて人心に関しおる時に向来の皇后宮まで長とか薩とかにてはしかるべからず。九条節子は体質は丈夫にて悪心はこれ無し。もやは致し方なく、まずもって七分通り節子と申すことに相成りおり候」
佐々木「御内話の通りにてはまことに恐れ入り候次第なり。禎子女王なれば天然と未来の皇后宮に御備りのように伺い奉り候。節子は向来のところ如何かと懸念す」
土方「御同案なれども、さしむき前件の通りにつき致し方なし」
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徳大寺実則から香川敬三への手紙 1899年5月10日

過日御内話つかまつり候 九条節子写真、御回接収候。
噂よりはよろしく一見つかまつり候。
久邇宮純子女王の分御入手候わば、御回し願い入り候。
一条経子の写真一枚御回、先日の方と比較候ところ、先日の方が姿勢・容儀とも写り方よろしき候間、今日の方は返上つかまつり候。
もっともやむを得ざる時の候補者と致し、容易に上覧に供せざるよう御注意下されてごもっともと存じ候。
精々後回しに致すべく候。
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佐々木高行『かざしの桜』1899年8月9日

※下田歌子の発言

皇太子妃御決定の御模様に奉伺候えども、何方よりも通知なく、たぶん御拝承と存じ候。
なにかとその筋より御下問受け候義なれば、何方より御内定の義は漏らされ候と存じ候ところ、その筋よりは何のこともこれなし。
過日ふと九条の野間幾子来り「このたび云々につきこれより学校へ御通学はやめ、御家庭教育に致し候間、担当致しくれたし」とのことにて初めて拝承せり。
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『明治天皇紀』1899年8月18日

東宮輔導有栖川宮威仁親王「医師たちの意見を聞いたが、皇太子の結婚は来年春としたら如何」
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『明治天皇紀』1899年8月21日

九条道孝の第四女節子を皇太子嘉仁親王の妃に内定あらせらる。
よりて侍従長徳大寺実則公爵をして道孝の邸に臨みその旨を伝えしめたまう。
道孝参内、恩命を奉承す。
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佐々木高行『かざしの桜』1899年8月22日

※徳大寺実則から佐々木高行への手紙

公爵九条道孝四女節子
今般東宮御息所に御治定のむね御内意を仰せ出され候間、言上方御取り計いありたく申し入れ候なり。
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佐々木高行『かざしの桜』1899年8月22日

伏見宮にては禎子女王皇太子殿下の御息所に御内定と申すことにて、何事も同女王には御手厚くあれど、邦芳王にはすこぶる冷淡なる御模様なり。
伏見宮貞愛親王の御息所は有栖川宮威仁親王の御妹君利子女王にあらせられ候ところ、御神経の御病症にて久しく御閉居、同御息所の御誕生邦芳王は御同症にて御閉居なるに、その御取扱よろしからずとの御感触は有栖川殿中にてよほど御不快の趣にてあり。
禎子女王は御妾腹にあらせられ、その辺には言うべからざる御儀ありと漏れ聞くなり。
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佐々木高行『かざしの桜』1899年8月22日

※佐々木の娘貞子&軍医橋本綱常との会話

橋本「まずもって御体質は中等にて下等にはこれなし」
貞子「然らば恐れながら天皇陛下の思召にて御息所に御取立遊ばされ候との御事なれば、御受はできずと申すほどに候や」
橋本「もし思召にて御沙汰出候節は、御受のできざることなき候。なにぶん侍医局長岡玄卿において御難しきと申し立て候以上は、強いて申し出候ことはでき申さず」

※佐々木の記述

岡玄卿は御大層に申し立てたる由なり。
侍医局長にてかくのごとく申し立て候ことなれば致し方なし。
これには何か子細はあるまじきかと邪推す。
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佐々木高行『かざしの桜』1899年8月29日

※佐々木&東宮侍医片山芳林の会話

片山◆橋本綱常はベルツを信用厚く、何一つベルツの考えを聞かざれば不安心の様子。有栖川宮威仁親王も西洋お好みの由でことのほかベルツ御信用なれば、ベルツの言はまことに行われ申し候。
佐々木◆ベルツは名医なるや。
片山◆本国にても名医と申すにはこれなくもうされ候。
佐々木◆侍医中にても不平の人ある様子なり。
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佐々木高行『かざしの桜』1899年8月31日

※土方久元の発言

節子は体質の丈夫と申す一点にて落札にあいなり。
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佐々木高行『かざしの桜』1899年9月2日

※かつてのお妃候補の一人伏見宮経子妃〔徳川経子〕の発言

昔時はとにかく今は外国の御交際あり。
外国は各国中の皇族より御縁組にあいなり候趣なれば、これまでの通り五摂家にても臣下よりは皇族の御方よろしきように考えられ候。
私なども今日のところは恐れ入りおる候ことなり。
まして皇太子殿下の御息所なれば。

九条節子は華族学校中の御挙動からして人品令徳において御息所として不十分。
山階宮御息所九条範子はおよろしき方なれども、西本願寺に嫁いだ九条籌子はおよろしくない。
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佐々木高行『かざしの桜』1899年9月8日

※中山慶子の発言〔明治天皇の生母〕

九条家も範子さんが未嫁の時はいろいろと運動し、皇太子殿下の御息所との望みありたる模様なれども、節子さんにてはとても叶わざるとて格別運動もせざると察せられ候。
望外の感ありしならん。
この度の義はすべて御表にての取り計いと存じられ候。
ただ丈夫と申すのみにても御繁生と申すことも受け合いはできず。
緋桜さん〔明治天皇の側室小倉文子〕のごとき丈夫にても、御繁生はなし。
皇太子殿下にもまだお祝いを申し上げないように言われている。
しかし皇太子が私に「橋本綱常から何か聞いていないか」としきりにお尋ねになるので困っている。
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佐々木高行『かざしの桜』1899年9月11日

※佐々木の娘繁子&宮内大臣田中光顕の会話

田中◆私もいろいろと心配多く、ことに今般皇太子御息所の御儀につき攻撃甚しく候。禎子女王なればこのごとき攻撃もあるまじきなれども、御病症とのこととてなにぶん致し方なし。
繁子◆皇太子は節子とまだ会っていないのか。
田中◆いまだなし。今日お目見えは遊ばされざる方然るべし。

※佐々木の記述

御器量悪しきとの意のごとし。
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佐々木高行『かざしの桜』1899年12月30日

※元伏見宮家別当清岡公張の発言

伊藤博文などは最初から禎子女王に不同意にてありしと察せられ候。
その次第は別当在職中のある時、伊藤は「伏見宮禎子女王を皇太子妃との御模様を薄々拝承す。然るに伏見宮御息所は御精神病にてまた若君も御同様なり、至極御大事なり」と言う。
私は「禎子女王は御妾腹にて若君は御本腹なれば御血統には何もなく、伏見家にはさような御病症は御一人もあらせられず」と答えて言った。
伊藤は「それでも御家内にあらせられ候ては如何。十分注意致すべし」と変な口気にてありし。
すでにその頃より異議ありたりと見ゆ。
さよう御大事のことなるに例の軽忽に奏聞致し申さずや。
伊藤は御信用も厚きことなるに、これまで軽率に奏聞せることもありしを承知せり。
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『明治天皇紀』1900年2月11日

九条道孝の第四女節子を皇太子の妃と為すをもって侍従岩倉具定公爵を勅使として葉山御用邸に遣し、勅書を避寒中の皇太子に伝えしめ給う。
皇太子即日東宮大夫中山孝麿を納采使として道孝の第に遣し、節子を妃と為す事の勅許を得たるをもって結婚成約の事を宣べしめ、道孝これを節子に伝えさらに節子と共に中山に面して令旨を奉ずべき旨を答う。
この日宮内省告示を発して皇太子結婚成約の事を公示。
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佐々木高行『かざしの桜』1900年2月14日

※伊藤博文の発言

皇太子殿下とにかく御軽率の御天質にて、何事もしみじみ遊ばされ候御事なく、これには困る。
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佐々木高行『かざしの桜』1900年2月15日

※伊藤博文の発言

皇太子殿下御病症あらせられ、かつ御天質なにぶん御軽忽にあらせられ候。
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佐々木高行『かざしの桜』1900年3月10日

※伊藤博文の発言

皇太子殿下は天皇陛下と大御反対なり。
これまで種々心配せるもなにぶん思うごとくできず致し方なし。
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佐々木高行『かざしの桜』1900年4月26日

今般の九条家よりの御事は西本願寺にて十分運動せる由。
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◆1889年 大正天皇9歳の時に「立太子の礼」が行われ、正式に皇太子となる。
◆1891年 大正天皇11歳の時に明治天皇は大正天皇のお妃選びを始めるように命じる。
◆1893年 候補者の中から伏見宮禎子女王が選ばれ、婚約内定が決まる。
◆1899年 伏見宮禎子女王に肺病のおそれありとして婚約解消となる。


1891年明治天皇は11歳になった大正天皇のお妃選びを始めるように命じる。
明治天皇の第一希望は皇族の娘であった。


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『明治天皇紀』1899年3月22日

そもそも皇太子妃選定の事はつとに叡慮を労し給うところにして、まずこれを皇族中に求め、もし得るあたわざるば則ち旧摂家中に求め、なお得るあたわずばこれを旧清華家中に求め、しかしてなお得るあたわずば自余の公侯爵の間に求るの方針を定め、1891年頃初めて内旨を侍従長徳大寺実則に下し、月中数回日を定めて皇族および公爵の女児の適する年齢の者を高輪御殿に会し、昌子内親王・房子内親王の遊嬉の侶伴たらしめ、御養育主任佐々木高行伯爵をしてこれらの女児の容姿性行を審察せしめ給う。
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佐々木高行『かざしの桜』

1891年4月3日の神武天皇祭に、以下の姫君・令嬢たちを赤坂離宮に召され、両宮〔昌子内親王&房子内親王〕の御相手として摘草の遊びを催されて、茶菓の御饗応があった。
他日皇太子殿下の妃に備われるはいず方ならん。
後年の記念とす。
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この日赤坂離宮に招かれた女子は10人であった。

※女子の年齢は満年齢

●北白川宮能久親王の娘 満子女王 5歳
●北白川宮能久親王の娘 貞子女王 3歳
●伏見宮貞愛親王の娘  禎子女王 5歳
●岩倉具定公爵の娘   米子   5歳
●九条道孝公爵の娘   籌子   8歳
●九条道孝公爵の娘   節子   6歳
●徳川慶喜公爵の娘   国子   9歳
●徳川慶喜公爵の娘   経子   8歳
●徳川慶喜公爵の娘   糸子   7歳
●毛利元徳公爵の娘   万子   7歳

1891年4月10日には高輪御殿に、伏見宮禎子女王・北白川満子女王・北白川貞子女王が再度招かれた。
佐々木高行夫妻、
明治天皇の生母で大正天皇を養育している中山慶子、
華族女学校校長下田歌子らが参加して、
女児たちを観察した。このような機会は何度か繰り返された。

この10人に以下の3人を加えた13人がお妃候補となった。

●久邇宮朝彦親王の娘  純子女王 7歳 
●一条実輝公爵の娘   経子   5歳
●鷹司熙通公爵の娘   房子   3歳

1893年3月21日、明治天皇に拝謁した佐々木高行は皇太子妃選定について下問される。


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『明治天皇紀』1899年3月22日

高行、その妻貞子および娘加賀美繁子らと共に久しきに渉りてこれを見るに、禎子女王一人群を抜き、華族女学校学監下田歌子また甚だこれを推奨す。
時に久元宮内大臣たり、親しくこの事を奏し、内旨を得る所あり。
次いで天皇皇后、親王の第に臨みて親しく女王を見給う。
これ実に1896年12月なり。
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『明治天皇紀』1893年5月31日

この月、天皇、貞愛親王第一女禎子女王をもって、皇太子の妃たらしむるの思し召しあらせられ、宮内大臣子爵土方久元をしてこれを親王に致さしめ給う。
親王聖旨を感戴し、応うるに謹みて拝領するの旨をもってす。
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本妻の子伏見宮貞愛親王と側室の子小松宮彰仁親王は仲が悪かったので喜ばなかった。
小松宮は姪の久邇宮篶子女王を養女として皇太子妃を狙ったりもした。


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『明治天皇紀』1899年3月22日

小松宮彰仁親王、伏見宮貞愛親王と相よからず。
さきに禎子女王が皇太子妃に擬せらるるや、心中この婚約を喜ばず、事情を知る者みな顰す。
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ところが婚約内定から6年後、医師たちは禎子女王に肺病の疑いありとし、皇統継続を考えれば皇太子妃とするのは問題だと判断した。


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『明治天皇紀』1899年3月22日

今年1月に至りて皇太子妃決定のことしきりに議に上る。
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佐々木高行『かざしの桜』1899年1月21日

伏見宮禎子女王御相当と申す義は先年自分より王に奉聞せるが、その後宮内大臣土方久元申し上げ、あらあら御決定あいなりおり候ところ、禎子女王肺病の御模様と申すことにて、橋本綱常・池田謙斎その他侍医ども拝診の上いろいろ議論もありたる由。
しかるに方今のところ侍医局長岡玄卿は御病症顕然に伺い奉り候につき、御結婚はしかるべからずと申出。
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1899年1月25日 婚約問題について宮中会議が開かれる
参加者は
前宮内大臣 土方久元
宮内大臣  田中光顕
宮内次官  川口武定 
侍従長   徳大寺実則
皇后宮大夫 香川敬三
東宮監督  大山巌

1899年2月6日 婚約問題について再度宮中会議が開かれる
参加者は
前宮内大臣 土方久元
宮内大臣  田中光顕
宮内次官  川口武定 
侍従長   徳大寺実則
皇后宮大夫 香川敬三


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『明治天皇紀』1899年3月22日
1899年1月に至りて皇太子妃決定の事しきりに議に上り、2月6日この事を初めて宮中に会議す。
徳大寺・土方および宮内大臣田中光顕・皇后宮大夫香川敬三子爵・宮内次官川口武定男爵ら5人議に預かる。
時に議あり。
禎子女王は一昨年盲腸炎を患い爾来全癒せりといえども、宮中顧問官陸軍軍医橋本綱常・侍医局長岡玄卿・東京帝大医学大学雇教師ドクトル・ベルツら上る所の容体書に、右胸部に水泡音聞こえ、その健康なお憂慮すべきものあり。
皇統継続の上より果たして如何と。
しかして禎子女王頃日の健康たるや、諸医みななお望みを絶ちたるにあらず、両三年の後を待ちてその適否を決すべしと為すも、岡一人肺疾あり、皇太子と同症なりとして、これを嫌うこと甚し。
天皇既に衆説に聴きて事を決したまえりと言えども、宸衷なお慊焉たるものあり。
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侍従長 徳大寺実則 日記

右胸において水疱音あり、右背上にも濁音ありと。
失望〃〃。
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佐々木高行『かざしの桜』1899年2月25日

佐々木「妃の御儀は如何に運び候や。早く御取極の義願い候なり」
土方「過日橋本綱常・池田謙斎・岡玄卿・ベルツ拝診せり。しかるに格別はあらせられず候えども、両御肺に御申分あらせられ候て、今より2~3年間伺申さずては御受合できざる旨申出候次第にて、御取極と申し上げ候ことは難しく、さりとて他の御方にはと申し候ても御相応あらせられず、実に困却なり。
このうえ御評議あらせられ候て、なんとか御取極あいならざりてはなるまじくと心配中なり」
佐々木「実に恐れ入り候。禎子女王殿下御病症との御事にては他にては如何か。御考えもこれあるや」
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『明治天皇紀』1899年3月22日

伯爵土方久元を内使として(姫路の)第十師団伏見宮貞愛親王の寓居に遣わし、親王の第一女禎子女王をもって皇太子の妃と成すの内約を解かしめたまう。
これにおいてこの日土方にこの命あり、しかれども宸意惻然、貞子女王を竹田宮恒久王〔北白川宮能久親王〕に許嫁せしめんとし、土方の意としてこの事をも併せて貞愛親王に伝えしめ給う。
土方すなわち3月28日姫路に向かい、旨を貞愛親王に伝う。
貞愛親王命を奉ず。
しかるに恒久王許嫁の事たる、北白川能久親王の寡妃富子のこれを小松宮彰仁親王〔伏見宮貞愛親王は本妻の子・小松宮彰仁親王と北白川能久親王は側室の子〕に謀るに及び、彰仁親王は近親の婚姻は忌まざるべからずと為し、異論を挟みしをもって遂に成らず。
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皇后宮大夫香川敬三が昭憲皇太后后に提出した言上書 4月上旬

土方久元姫路より昨夕帰京いたし候。
伏見宮女王御縁談御内約破談の義、土方より同宮へ申し入れ候ところ、格別の苦情も無く、相済み候趣申し出候う間、言上つかまつり候。
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佐々木高行『かざしの桜』1899年4月5日

※伏見宮別当真木長義の発言〔佐々木の息子と真木の娘が夫妻〕

伏見宮禎子女王御事につきこれまで大いに御心配かけ候ところ、土方伯爵 伏見宮へ参殿にて御病症の故をもって御断にあいなり候。
いかにも恐れ入り候次第、御関係ありたることなれば内々お話す。
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貞愛親王は異議を申し立てることもなく、婚約解消を受け入れた。
竹田宮恒久王&禎子女王にの縁談については、例の伏見宮を憎む小松宮彰仁親王が「近親の婚姻は忌まざるべからず」と横槍を入れたので流れた。
北白川能久親王と伏見宮貞愛親王は兄弟であり、恒久王と禎子女王はイトコということになるが、能久親王と貞愛親王は異母兄弟であるので、問題とはならないはずであった。

<主要人物>

■天皇  →明治天皇
■皇后  →昭憲皇太后/一条美子
■皇太子 →大正天皇
■皇太子妃→貞明皇后/九条節子

■宮内大臣 土方久元 1887年09月16日~
■宮内大臣 田中光顕 1898年02月09日~


<主要資料>

■『明治天皇紀』  宮内省が編集した明治天皇の伝記
■『かざしの桜』  昌子内親王・房子内親王の御養育係を務めた佐々木高行侯爵の日記
■『徳大寺実則日記』明治天皇の侍従長徳大寺実則




大正天皇の婚約解消事件は『明治天皇紀』にまとめられている。

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『明治天皇紀』1899年3月22日

<大正天皇のお妃選び>

そもそも皇太子妃選定の事はつとに叡慮を労し給うところにして、まずこれを皇族中に求め、もし得るあたわざるば則ち旧摂家中に求め、なお得るあたわずばこれを旧清華家中に求め、しかしてなお得るあたわずば自余の公侯爵の間に求るの方針を定め、1891年頃初めて内旨を侍従長徳大寺実則に下し、月中数回日を定めて皇族および公爵の女児の適する年齢の者を高輪御殿に会し、昌子内親王・房子内親王の遊嬉の侶伴たらしめ、御養育主任佐々木高行伯爵をしてこれらの女児の容姿性行を審察せしめ給う。

<大正天皇&禎子女王の婚約内定>

高行、その妻貞子および娘加賀美繁子らと共に久しきに渉りてこれを見るに、禎子女王一人群を抜き、華族女学校学監下田歌子また甚だこれを推奨す。
時に久元宮内大臣たり、親しくこの事を奏し、内旨を得る所あり。

1893年5月、この月、天皇、貞愛親王第一女禎子女王をもって、皇太子の妃たらしむるの思し召しあらせられ、宮内大臣子爵土方久元をしてこれを親王に致さしめ給う。
親王聖旨を感戴し、応うるに謹みて拝領するの旨をもってす。

次いで天皇皇后、親王の第に臨みて親しく女王を見給う。
これ実に1896年12月なり。

<禎子女王の健康問題>
1899年1月に至りて皇太子妃決定の事しきりに議に上り、2月6日この事を初めて宮中に会議す。
徳大寺・土方および宮内大臣田中光顕・皇后宮大夫香川敬三子爵・宮内次官川口武定男爵ら5人議に預かる。
時に議あり。
禎子女王は一昨年盲腸炎を患い爾来全癒せりといえども、宮中顧問官陸軍軍医橋本綱常男爵・侍医局長岡玄卿・東京帝大医学大学雇教師ドクトル・ベルツら上る所の容体書に、右胸部に水泡音聞こえ、その健康なお憂慮すべきものあり。
皇統継続の上より果たして如何と。

<竹田宮恒久王と禎子女王の縁談>

※竹田宮恒久王は北白川能久親王の子・竹田宮を創設

これにおいてこの日土方にこの命あり、しかれども宸意惻然、貞子女王を竹田宮恒久王に許嫁せしめんとし、土方の意としてこの事をも併せて貞愛親王に伝えしめ給う。
土方すなわち姫路に向かい、旨を貞愛親王に伝う。
貞愛親王命を奉ず。
しかるに恒久王許嫁の事たる、北白川能久親王の寡妃富子のこれを小松宮彰仁親王に謀るに及び、彰仁親王は近親の婚姻は忌まざるべからずと為し、異論を挟みしをもって遂に成らず。
あるいは曰く、彰仁親王、貞愛親王と相良からず。
往に禎子女王が皇太子妃に擬せらるるや、心中この婚約を喜ばず、情を知る者みな苦顰すと。
しかして禎子女王頃日の健康たるや、諸医みななお望みを絶ちたるにあらず、両三年の後を待ちてその適否を決すべしと為すも、岡一人肺疾あり、皇太子と同症なりとして、これを嫌うこと甚し。

<大正天皇&禎子女王の婚約解消>

土方久元伯爵を内使として第十師団長伏見宮貞愛親王の寓居に遣し、禎子女王をもって皇太子の妃と為すの内約を解かしめ給う。

<その後の禎子女王>

天皇既に衆説に聴きて事を決したまえりと言えども、宸衷なお慊焉たるものあり。
後年皇太子妃定まり第二皇子雍仁親王生まれて後、岡玄卿 天威に咫尺し皇統の万歳を賀し奉るの次をもって奏して曰く、もし曩に内約を履みて禎子女王を冊立したまはんか、恐らくは今日の慶なかりしならんと。
天皇これを遮りて宣はく、禎子嫁して歳余、なお身むこと無きも、安んぞこれを禎子一人の事に帰するを得んや。汝の言うところ甚だ不稽なりと。
天顔すこぶる喜びたまわざるの色あり。
けだし岡かくの如く奏上せしは、禎子女王が1901年山内豊景侯爵に帰嫁し、1年余を経るも、いまだ身むこと無きをもってなり。
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1891年明治天皇は11歳になった大正天皇のお妃選びを始めるように命じた。

候補者は皇族・公爵の娘たちから選ばれた。

1893年候補者の中から伏見宮禎子女王が選ばれ、婚約内定が決まった。

婚約から6年後の1899年伏見宮禎子女王に肺病のおそれありとして婚約解消となる。

明治天皇は伏見宮禎子女王を竹田宮恒久王の妃にしようとしたが、小松宮彰仁親王の反対で成立しなかった。

1899年九条節子が大正天皇の妃に決まり、結婚。

1901年婚約者のいた山内豊景侯爵が禎子女王を押しつけられ結婚する。

1902年頃節子妃はすでに2人目の皇子を産んでいたが、禎子女王には子供が生まれていなかった。
そこで禎子女王に反対した医者が明治天皇に「やっぱり禎子女王はやめておいて良かったですね」と言ったら、
明治天皇は「禎子女王がまだ子供を産めないと決まったわけでもないし、もし生まれなくても禎子女王だけの責任でもない」と不機嫌に答えた。

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