直球和館

2025年

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◆1924年01月26日 成婚式




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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1924年3月1日
※倉富&宮内官僚西園寺八郎の会話

西園寺◆久邇宮俔子妃はあまりに母たる事の威光を振るわるるきらいあり。
他の妃殿下方が避けおらるる時でも、自分だけは皇太子妃のそばにおらるる事あり。
また久邇宮家の親族も皇太子を親族扱いする傾あり。
先日沼津に御一泊なされたる時、徳川頼貞伯爵夫妻〔為子夫人は俔子妃の妹〕が今夜伺いたしと申込たり。
心安だちて夜中に伺うと言うはあるまじき事なり。

倉富◆竹田宮昌子妃は時々意地悪き事をなさるる事あり。

西園寺◆その通りなり。
先日も皇太子妃〔香淳皇后〕に対し、「東伏見宮周子妃があまり度々参殿せらるるは御困りなるべきにつき、皇太子妃より母久邇宮俔子妃に書状を送りその事を通知し、俔子妃より周子妃に話してあまり度々参殿せらず様になされたらばよろしからん」と言われ、
皇太子妃はその言に従いすでに俔子妃に送る書状を作られたるが、女官長がこれを聞き「それはよろしからず」と言うて止めたる趣なり。
周子妃が皇太子妃の補導を為さる事は貞明皇后も御承知の事にて、宮内大臣より周子妃に申し上げその事に為りおりたるに、昌子妃がそばよりこれを妨げらるるは実に怪しからん事なり。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年2月7日
昭和天皇◆大正天皇御脳および良宮色盲のことなどは嘘ではない。
色盲の点はメンデルの分離の法則があるゆえそのむね答弁すればよく、実際東宮ちゃん〔平成天皇〕・常陸さん〔常陸宮〕も初等科入学以来ずいぶん注意しているが何事もない。
田島長官◆万一色盲におなりでも、電車の旗ふりを遊ばす訳でなし、そんなことは議会の問題にならぬと思いますし、なっても何でもありません。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年9月3日
田島長官◆御自分のイヤなこと嫌いなことをむしろ進んで遊ばす陛下の御修養は、やはり杉浦重剛の倫理の教えによりますこと大きいのでございましょうか。
昭和天皇◆杉浦を右翼の人のように思うが、イギリスで化学を学んだ人で非常に視野が広かった。
あるいは宗教家・哲学者は攻撃するだろうが、杉浦は「常識的に真理は一つである。釈迦も孔子もキリストも方法が違うだけで帰一するところは一つだ」と言ってた。
非常に視野の広い、包容的な考えは私にも影響があったかとも思う。
それともう一つは、私は生物学と同程度に興味があったのは歴史で、ことに箕作元八の西洋歴史は私に非常に役立った。

1951年9月29日
昭和天皇◆東宮ちゃん〔平成天皇〕はいつ外国へ行くのか知らぬが、その時までには妃殿下はきっぱり決めたいと思う。
東宮ちゃんはシンプソン夫人みたような問題は決して起こさぬと確信してるが、老婆心で洋行する前にはぜひともはっきり決めた方がよいと思う。
メアリー皇太后のような方でも私に良宮のことを聞かれた。
決まっていて、そしてゴタゴタしたでしょう。
それの返事に困ったことがある。
私のこの経験からも、はっきり返事のできるようにして行く方がよい。
それから社会の実情が変化して、私はおもう様の御意思というので突然波多野が言って来て、別に私の意思もなく決まり、その後も結婚まで別に会見するでもなしであったが、近ごろは孝ちゃん〔孝宮和子内親王〕でも順ちゃん〔順宮厚子内親王〕でも婚約後往復をしてる。
これらの変化を考えると、事情に即したことをせねばならず、今一つそう早く結婚することもどうかと思う。
例えば二十歳というようなことは、そして婚約のあまり長いのもどうかと思う。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1923年1月20日
※倉富&宮内官僚徳川頼倫の会話

徳川◆良子女王の教育掛後閑菊野もよろしからざるやの評あり。

倉富◆あまりに良子女王の事を宣伝するにはあらざるや。
近来良子女王の事が新聞に出ずる事が余り多き様なり。
潮干狩りに行かれたるとき写真などを出したる事は、貞明皇后の御意には合わざりし事ならんと思わる。

徳川◆自分の方の年老いたる女なども大分驚きおりたる様なりしなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1923年7月13日
※宮内官僚酒巻芳男の発言

久邇宮邦彦王は目下北海道を旅行中なるが、清棲家教伯爵は叔父に当る人なるゆえ、その死を聞かれたらば邦彦王殿下はすぐに帰京せらるるが当然の事に思う。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1923年11月9日
※倉富&宮内官僚西園寺八郎の会話

御婚儀延期の事も皇太子に言上する前に新聞に出らるより、殿下は婚儀を延ばす事は予は承知しおらずと言われ、東宮太夫珍田捨巳は殿下は延期の思召なしとて困りおりたるゆえ、予より殿下に謁し、「数万の死者あり、数百万の罹災者ある央に御婚儀を行わせらるるは穏当ならざるゆえ、珍田を召してその旨を御申し聞けなさるる方よろしからん」と言上したる結果、かの運びとなりたるものにて、殿下はたいそう善事を為したるように御考えなされおる様なり。

倉富◆かの事は実に結構なりしが、遺憾は御婚儀を延期せられたるも、その時すぐに挙行の期を予定せられたる事なり。
予定せられたるため、せっかくの思召が形式のみとなりたる感あり。
西園寺◆その通りなり。
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◆1922年06月09日 宮内大臣牧野伸顕が貞明皇后に婚約遂行を求め、貞明皇后は「涙を飲んで認めるしかない」と了承する。
◆1922年06月20日 納采の議9月28日・成婚式1923年秋が発表される。
◆1922年09月01日 関東大震災→成婚式延期




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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1922年2月10日
倉富&宮内次官関屋貞三郎の会話

関屋◆久邇宮邦彦王は久邇宮事務官木村英俊に信用なく、久邇宮事務官栗田直八郎も同様信用なく、邦彦王殿下は良子女王の事につき非常に焦慮せられおる。

倉富◆栗田のことは意外なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1922年2月13日
※倉富&宮内官僚松平慶民の会話

松平◆久邇宮邦彦王は久邇宮事務官栗田直八郎を信ぜられざる趣。

倉富◆はじめ宮内大臣が承知せざるに関わらず邦彦王より強いて栗田を宮務監督とせられたる関係より考うれば、今急に不信用となりたりとは考え難し。
しかれば栗田に代りて宮務監督になる人が良子女王の事につき反対意見を有すれば、はじめより信用せられず。
たとえ賛成意見を有しおりても、これを遂行する技量なければ栗田と同様の事となるべし。
いずれにしても非常に困難なる事なり。
良子女王の事に関しては西園寺公望は初めよりよほど強硬なる反対意見を有し、山県有朋亡き今日にては西園寺が全責任を負う事となり、いっそう意見を変え難かるべし。
遂行しても差支なき事実の証明せられざる以上は賛成し難しと言いおるとの事ならん。

松平◆西園寺の意見を変えしむるには他の医者をして新たなる意見書でも作らしむるよりほか方法なかるべし。

倉富◆それは出来がたかるべし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1922年2月26日
※久邇宮邦彦王の発言

久邇宮事務官木村英俊口ばかりにて技量に称わず、まったく無能なり。
久邇宮事務官栗田直八郎も耄碌して様に達せず。
しかれども一時に二人を替えては良子女王の結婚問題に関する事ならんとの疑を招くべきにつき、この際は木村のみを替え栗田は時機を見て替うる事にいたしたし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1922年3月31日
※倉富&宮内次官関屋貞三郎の会話

倉富◆久邇宮家にては武田は免職せられたるも、今日にてもやはり宮家に出入りし、先ごろ久邇宮朝融王御病気の時も栗田直八郎と同伴して佐世保に行きたりとの事なり。

関屋◆その通りなるべし。
武田は多年久邇宮家に奉仕したる者なるゆえ情誼上しからざるを得ざるべし。
邦彦王は「栗田は先年は相当に用立ちたるも、この節は耄碌して用に立たず」と言われたり。
また「昨年の事は言語道断にて、宮内大臣よりは何事も言わずして、自分が九州より帰る時わざわざ木村英俊を国府津まで遣して婚約辞退の事を説かしめたり。辻に不都合なる事なり。もし宮内大臣が誠意を披歴して直接に懇談したるならば、自分の考えも如何になりおりたるやもわからず」と言われおりたり。

倉富◆宮内大臣より直接談を為さざりしは、御婚約の事は既に御内定には相成りおり、天皇皇后両陛下の思召については別に伺い定る事を得る場合にあらず。
思召を伺わずして宮内大臣より邦彦王にその事を説く訳にはいかず。

関屋◆邦彦王の只今の唯一の希望は御結婚なるに、つい何事においても宮内省の意に従い決して反対せらるる如き事なかるべし
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1922年9月6日
※久邇宮事務官国分三亥の発言

良子女王の御洋行問題あり。
久邇宮邦彦王はともかく事が決定したる後に申し上ぐる事が御嫌いにて、圧迫する様に考えらるる模様なるにつき、全く内談にて宮内省議に上りおりたる訳にはあらざるも、少数者の間に御洋行の内談ある旨を申し上げたるところ、邦彦王殿下は「それはよろしき事ならん。洋行する事に決すれば自分が連れ行く事にすべし。御結婚はしかとは定まらざるべきも当局者は大概いつ頃のつもりに致す考えなるや、これを問いくれよ」との御話ありたり。
今日宮内大臣牧野伸顕に良子女王御洋行の事を話したるところ、牧野宮相は「自分はその事に賛成しおらず。君より邦彦王に申し上げたるは時機を誤りたり」との事なりし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1922年9月17日
※倉富&久邇宮事務官国分三亥の会話

国分◆久邇宮邦彦王は「宮内省の者はこれまで良子女王がたびたび貞明皇后に拝謁しおる事実を知らずして左様の事を言いおるにはあらざるべきや」と言われたるゆえ、
「宮内大臣・宮内次官はまさかこれを知らざる訳にはあらざるべく、重大問題起りたる以来拝謁も中絶の有様になりおるゆえこれを復活せんとの希望ならんと思う」と言いたるに、
邦彦王殿下は「宮内省にても大臣・次官とも更迭し以前の事実をしらずして左様の事を言いおるやも計られざるゆえ一応これを確かめみるげき」旨を申されたるにつき、
今朝事務次官関屋貞三郎訪いその話を為したるところ、関屋は「もとより以前拝謁ありたる事実はこれを知りおれり。中絶以降の復活を希望しおるところなり」と言えり。
良子女王は邦彦王または俔子妃と共に貞明皇后に謁せられたる事もあり、一人にて謁せられたる事もありたるが、一人にて謁せられたる時は最も皇后陛下の御機嫌よろしく、三笠宮がそばにあらせらたるに対し、「これはあなたの姉さんなり」と言われ、腕輪を取り出し、「これは昭憲皇太后より賜りたる物なるが、これを贈る」と言いて賜りたるほどなりし由。

倉富◆その時はもちろん問題の起らざりし時なるゆえ、事情が異なるべし。

国分◆今日にてもなお多少わだかまりがあるにはあらざるべきや。

倉富◆邦彦王の御態度についても幾分の御考えはあることならんと思う。

国分◆直接に書面を差し上げられたる事などはよろしからざりしならん。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1922年10月7日
※久邇宮事務官国分三亥の発言

昨日俔子妃および良子女王、天皇皇后に拝謁せられ、皇后陛下は1時間も御話あり。
俔子妃は極めて無口にて平常何とも言われず、一昨日牧野宮相はわざわざ久邇宮家に来り妃殿下に注意せられたる模様なり。
昨日は多少話されたることならんと思う。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1922年11月7日
※倉富&宮内官僚小原駩吉の会話

小原◆久邇宮邦彦王にては何事も控え目になさるべき必要あるに関わらず、実際左様に行かざるは困りたるものなり。

倉富◆その事については牧野宮相も常に懸念しおるにつき、邦彦王殿下にも注意しおるならん。

小原◆先日武田健三が来訪したるにつき、「今後は何事も一切宮内大臣を信頼し、自身には手を出されざる様になされざるべからず。しかるに実際その通りになりおらざるは遺憾なり」との話を為したる。
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◆1921年01月24日 来原慶助久邇宮家職員武田健三の話をもとに書いた匿名の怪文書『宮内省の横暴不逞』を政界や新聞社にばら撒く。
◆1921年02月08日 原首相が閣議で閣僚に色盲問題を明かす。
◆1921年02月10日 中村宮相が原首相に婚約遂行と自分の宮内大臣辞任を報告、宮内省から発表。
◆1921年02月14日 山県が枢密院議長の辞表を、松方正義が内大臣の辞表を提出。
◆1921年02月15日 皇太子の洋行が正式発表
これを知った久邇宮邦彦王は発表前に皇太子に拝謁したいと願い出るが貞明皇后が激怒して僭越であると拝謁を拒否される。
また久邇宮邦彦王は良子女王の大正天皇への拝謁を願い出るが、貞明皇后に拝謁を拒否される。
◆1921年03月03日 皇太子外遊に出発
◆1921年03月17日 怪文書を書いた来原慶助が武田健三経由で久邇宮家をゆすり、大金が支払われる。
◆1921年05月09日 貞明皇后が元宮内大臣波多野敬直に「婚約は内定であるから取り消せないことはない」と発言する。
◆1921年09月03日 皇太子外遊より帰国
◆1921年11月25日 皇太子、大正天皇の摂政に就任




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明治・大正・昭和の天皇に仕えた 小川金男

そのころ久邇宮俔子妃殿下が良子女王を連れて皇后陛下に御機嫌奉伺の参内をしたいと御都合をお伺いしたが、その都度御都合が悪いと仰せられていつまでも延期になるので、その電話を取り次ぐ女官たちが間に挟まって困っていたのを私は今でも覚えている。

あるとき侍医寮に行ったところ、そこでも色盲問題が話題になっていて、某氏が久邇宮邦彦王に伺候して御解消をお勧めしたところ、「いったん御婚約が発表になった以上、皇室から御取消になるならともかく、久邇宮家の方から解消を願い出るのは穏当でない」と断られたということだった。

私ども仕人仲間でもいったいこの結末はどうなるのであろうかと心配していたわけであるが、その後どういう経緯を経たのかこの問題はついに落着して御成婚の儀が執り行されたのであった。
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『原敬日記』総理大臣

1921年1月5日
山県有朋を訪問。
山県色盲云々の問題に関して詳細に物語り、
「過日製鉄所長官白仁武が杉浦重剛の門人なりとて宮内大臣中村雄次郎と内談したる様子にて来訪にて、白仁は予らと同意見ならんと思い内話したるに案外にも反対論にて、杉浦に会見せられたしと言う。杉浦の意見にては色盲にても差し支えなし、綸言汗の如し、今さら変更を要せずという議論の由なれば、面会したりとて何の益もなしと考え拒絶したり。また杉山茂丸などの手紙によれば、皇朝百何十に御代の中にはこのことありしやも知れずと言うも、これは議論にならざるべし。このことにつき頭山満ら何か不穏のことをなすと言うにつき、過日陸軍大臣田中義一をもって注意したり」と言うにつき、
予は「杉浦らに医師の答申書を示せば氷解せんと思いたるに、今の話にては意外千万なり。警察側にはさっそく注意し置きたり」と言いたるに、
山県は「過日男爵松岡均平の言うことも聞きたるが、それらのためか久邇宮邦彦王より御辞退申し出らるる様子なれば、このことはなんと言う者ありも御中止御変更の他なし。ただし久邇宮良子女王に対しては十分の御同情なかるべからず」と言うにつき、
予も同感を表せり。
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『有馬頼寧日記』伯爵

1921年1月7日
北白川成久王殿下が永様〔永久王〕を連れてお見えになった。
先日の問題、東宮妃殿下の問題について御話があった。
それは先日の話の通り久邇宮家に色盲の血統があり、良子女王にも多少あり、久松家の男子にもその他にも現れているとのことで、大体は御中止に至っているとのこと。
ただ久邇宮邦彦王殿下が御辞退にならぬのだそうだ。
山県有朋公爵が長州系をもってこれを代えんとするの意思があるというのだそうだ。
しかしそれはあまりうがち過ぎてはいないだろうか。
ともかく今日では大体中止という事に決まっているとのこと。
朝香宮・北白川宮両殿下の御意見のように、この事は皇后陛下と皇太子殿下の自由意思に御任せするというのが最も現代的である。
恐らくはその説が少なくも将来に日本国民となるべき人々の共鳴を得られるだろう。
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『原敬日記』総理大臣

1921年1月24日
久邇宮良子女王皇太子妃に御内定のところ、色盲云々にて変更の議あるは山県ら不忠の所為なりとの印刷物、予らおよび上院議員らに無名にて送付し来れり。
たぶん久邇宮家関係者の所為とは思わるるも、かくのごときことにては世間の注目するところとなり、甚だ妙ならざる次第につき、警視総監岡喜七郎より中村宮相に注意せしむることとなしたり。

1921年1月26日
中村宮相を訪問せしに伺候不在につき宮内次官石原健三と会見。
予より「久邇宮良子女王色盲につき云々に関し印刷物を配布する者あり、速やかにいずれとも御決定なくしては行政上困却」の旨を告げたるに、
石原次官は「宮内省にてもいろいろ詮議中なり」と言う。
枢密院副議長清浦圭吾は「このことに関し山県より『枢密院に御下問のうえ御決定ありては如何』と内々申し越しあり。枢密院にては面倒のことにて困難なれども、嫌疑を受けざる人を委員として調査せしむべし。中村宮相は左様の裁可を仰ぐに伺候せしや」と言いたるに、
石原次官は「然らず。侍従長らと相談に過ぎず」と言えり。
予は「大体において中村宮相より裁可を仰ぎ決定して可なるべき事柄なれども、かく世上の問題となりたる上は鄭重なる御取扱は必要なるべきにより、枢密院に御諮問のうえ御決定ある方よろしからん。とにかく速やかにいずれとも御決定なくしては国論を惹起すべし」と注意したるに、
石原次官は「中村宮相も本日午後には帰京につき、御談示の次第は内話すべし」と言えり。
この会見において初めて色盲の遺伝につき調査せし報告書写しを石原次官より落手せり。
1920年12月21日付にて、東京大学医学部教授佐藤三吉・河本重次郎・三浦勤之助・永井潜・東京大学理学部教授藤井健次郎が命を奉じて調査したる報告書なり。
この問題の起こりたるはいつ頃なるや不明なるも、昨年はじめ頃よりなりとも聞く。

1921年2月2日
皇太子妃に御内定の久邇宮良子女王の色盲云々に関し、久邇宮家より出たりと思わるる運動いかにも激烈にて、ことに杉浦重剛が頭山満らに漏らし浪人どもの利用するところとなり、各種の印刷物を配布せられ、しかしてこの問題は果たして如何に解決せらるるものなるや。
予は最初御内定ありし当時も通知には接せず、また色盲の関係にて御内定変更の議あるもこれを山県有朋・西園寺公望らより内聞せしことの他いまだかつて宮中の筋より協議を受けたることなし。
ゆえにこれを如何にせよとの意見を述べたることなく、また意見を徴せられたることなし。
国論まったくその方向に迷う情況にて行政上捨て置き難きことと考え中村宮相に会見し、
「本問題を長く未定の間に置かるるは皇室の御為にもよろしからず、また行政上においても如何にも憂慮に堪えざる次第なれば、いずれとも速やかに決定ありたし」と懇談したり。
中村宮相は如何にも困難せし様子にて「実は枢密院副議長清浦圭吾に枢密院に御諮問のことを相談せしも清浦は全会一致の望みなしとてこれを躊躇し、また自分も御諮問とあれば御変更の勅裁を求めて御諮問となることにて累の天皇陛下に及ぶを恐る。また平田東助に相談せしに平田は急速に解決せざるを可とする口気にて決せず」とてその立場困難にあることを縷述せしにより、
予は深くその内情を察したるも、「国論をこのままに置くことは沸騰限りなき有り様にて、しかも御変更を可とする元老らの説に賛同するの声なく、いたずらに変更を不可としてその論者を不忠不義の者と排斥する声高く、政府はいずれに決定するものと見て可なるや甚だ迷惑の次第につき、予はその内情はお察しするも要するに誰か責任を取って決定するの他なかるべし」と諷示せしに、
中村宮相は「その責任は自分の取るべきものにて、元老の説その他はみな参考に相談せしに過ぎず、本日西園寺公爵にも意見を聞くはずなれば、その上にて自分責任をもって決定すべし」と言いたれば、
予は「なるべく速やかにいずれとも決定することは、国家はもちろん皇室の御為なり」と注意したり。

1921年2月3日
岡崎邦輔の内話に、衆議院議長奥繁三郎のもとに政友会より岡崎邦輔・憲政会より下岡忠治・国民党より古島一雄を招き、久邇宮良子女王色盲云々の問題につき議場の問題とならざるようありたしと相談せしに、
下岡は「古島氏よりこれを聞き、心配につき平田東助・清浦圭吾を問うてその意見を尋ねしが、その後平田の言うところにては山県も変更なきことになりたれば、御内定通り決行せらるべしと安心の旨」物語りたるにより、
岡崎は「自分の聞くところにてはさようにもあらざるがごとし」と言い、結局奥議長より原首相に相談することになりしとのこと。
下岡は「要するに形勢の非なるを見て山県は依然御変更を主張するも、平田東助らは中間に立って変更なきことに取り計うものにあらざるか。果たして然りとせば皇室に色盲系を入るることを不可とするも、この論はいたずらに西園寺・奥ら表面の議論に止まることとならざるや。馬鹿馬鹿しきことに思う」と言うことなりしにより、予はこれを陸軍大臣田中義一に内話し、田中陸相は山県の秘書入江貫一を山県に送りてその実否を質したるに、山県は決してその主張を変じたるものにあらざることを申し越しあり。
田中陸相、山県の書面をも予に内示したり。
なにかこの間に平田らの小策ありと思う。
岡崎の内話は、単に古島が色盲云々にて議場の問題となるを恐るるにより、なんとか処置を要せずやと言いたる由に過ぎず。

岡崎より聞きたる通り、果たして奥議長 三派代表相談の結果なりとて予より中村宮相に「御内定通り変更なきよう申し入れくれよ」と言うことにつき、
予は「このことはまったく宮中の御内儀のことにて、しかも極めて皇室の重大事なるにより、予は奥議長の意思なりとてこれを取り次ぎて中村宮相に申し入るること如何かと思う。直接中村宮相に内談せらるる方可ならん」と返事したり。
後に聞けば奥議長は中村宮相に会見せし由なり。

1921年2月4日
西園寺公望を訪問。
久邇宮良子女王色盲の問題につき内話せしに、西園寺の言うところは以下のごとし。
最初久邇宮良子女王を皇太子妃に御内定の相談ありし時、宮内大臣波多野敬直に「御病気御血統のことを十分に取り調べたるや」と念を押したり。
今の皇后御決定前に伏見宮禎子女王のことあり。
御内定ののち御健康上のことにて御変更の議起り、伏見宮貞愛親王より御辞退ありたり。
波多野宮相は「なんら御欠点なし」と言いたるが、図らずも今回の問題を生じたり。
御変更の議起り相談の場にては山県有朋・松方正義・平田東助・中村雄次郎同席にて、山県・平田・中村は久邇宮邦彦王より御辞退あるように致すべしと言うにつき、
西園寺は「久邇宮邦彦王は一癖ある方なり。万一御同意なき時は如何にするや」と反問せしに、
山県・平田・中村は「それは大丈夫なり、また伏見宮貞愛親王より御話もあるべしと思うにつき間違いなからん」と言うにつき、
西園寺は「伏見宮貞愛親王は久邇宮邦彦王を説得せらるるほどのお力なかるべし」と言いたるも、彼らは容易のことに考えいたるらし。
果たして伏見宮貞愛親王は先だってこの任を断られたり。
松方は沈黙して何事も言わざりしと言う。
京都にて久邇宮邦彦王が西園寺を訪問せられこの問題につき内談ありしにより、自分は「皇室の御為として御辞退あるをもって適当ならん」と御返事をなし、当時邦彦王はさように申し出られそうなりしなり。
昨日中村宮相来訪にて「かくなりたる上は中村自身の責任をもって御内定通り御決行のことに決定してこの問題を解決し、しかして宮内大臣を辞すべし」と言うにつき、
西園寺は「その決定も辞職もこれを翻さしむることは自分のなし得べきことにあらざれども、自分万世一系の皇統にいやしくも御病系を混じて可なりと言うこちとには同意を表すこと不可能なり」と断ってこれを賛成せざりしなり。
だたし中村の決心を申し来りたるは決して中村一己の意見にあらざるべしと推察せしにより、これを推問せしに果たして平田の入れ知恵なること明らかになれり。
また平田は至急に面会を求め来れり。
たぶんこのことならん。
(平田はたぶん中村に「君だけ責任を取って遂行と決定せば可なり」と言って中村を犠牲に供せしならん。小策もここに至って極まれりと思う)

予は下岡忠治が平田東助より内聞せりとて、山県らしきりに御変更論を主張しながら、今は遂行にても可なりと言うこととなりし旨聞き及びたる次第を物語り、また入江貫一を山県に申し送りたる次第をも告げ、「要するにかくのごときため体あるものにあらず。御思召は論ずる限りにあらざれども、不純分子皇統に入りて可なりとは臣子の分として言い得べきことにあらず。然るに久邇宮邦彦王の運動・薩州人の運動甚だし、内務大臣床次竹二郎まで平田および中村宮相に変更不可を説き回りたりと言うにつき、予は厳に床次内相を戒飭したること」告げたるに、西園寺同感なり。
「皇室の将来を考うるに久邇宮邦彦王外戚をもって何かに干渉なすを保すべからず。しかしてまたここに薩派が後押しをなすようなことありては皇室国家のために由々しき大事を生ぜんも知るべからず。杞憂に過ぎたることながら如何にも心配の次第なり」と物語りたるに、西園寺極めて同感にて、「杞憂に過ぎざればそれまでなれども痛心の至りなり。御内定変更しては如何」と言うにつき、
予は「山県系がさよう表裏反覆誠意なくしては到底無効ならん」と共に嘆息したり。

1921年2月7日
松本剛吉来訪。
山県よりの伝言なりとて「押川方義ら数名山県に御内定御変更不可として書を送りて論議したり。よりて入江貫一を押川に送りて山県の執れる趣旨を説明することになりし」と言う。
余計のことと思う。
押川からは予にも来書あり。
「平田東助を訪問す」と言うにつき、平田は万事の張本人なれば、
予は「なるべく速やかに本件をいずれとも決定をなすことを国家のために必要なり」と伝言せしめたり。

1921年2月8日
閣議。
皇太子殿下の御発程は3月3日に決定。
予より皇太子妃に御内定の久邇宮良子女王色盲云々につきいろいろの物議を生じおるにつき、問題の真相ならびに今日までの経過顛末を閣僚に内話したり。

中村宮相はいかにも窮地に立ちたるものの由にて「元老らは御変更を主張してやまず、しかして一面には平田ら内々そのことなきを言うが如き情勢なること」を物語り、今夜平田を訪問して決定する考えなることを物語れり。
要するに本件は御変更とも否とも決定せずして荏苒今日に至れるがゆえに世間の騒ぎも大仰になり、中村ら窮地に陥りたるものなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年2月8日

※倉富&宮内大臣中村雄次郎&宮内次官石原健三

中村◆学習院長一戸兵衛は学習院の用務にて来りたるかと思いたるに、知人より御結婚問題につき聞きたる事ありとてその事を報ずるために来りたるなり。
「『解約は元老等の陰謀にて、皇太子の御外遊も御成婚を延ばす手段に他ならず』左様の事を言い触らしおり。『皇太子の御外遊は是非とも御見合せを願い、もしそれが行われざれば御出発の際自動車の通路に横臥しこれを妨げんとの事も協議しおり』」

倉富◆予はたとえ多数が解約に反対するも必ず解約せざるべからざるものと信じたるゆえ、初めは枢密院に諮詢せらるる事には反対したれども、事ここに至り宮内大臣として解約の手段を執る事あたわざる事となりたる以上は、枢密院に諮詢せらるる事を奏請し枢密院の決定に従い処置するより他方法なかるべし。

中村◆しからばその事に決すべし。

倉富◆枢密院の決議はいずれになるや逆賭しがたし。
諮詢せらるる上はいずれになりてもその通りに決行する決心なかるべからず。
枢密院にて解約に決したりとて、世間の反対は鎮まる訳にあらず。
その時は反対ありてもすぐ決行する決心なかるべからず。

中村◆大事を起すやも計り難きも、やむを得ずこれを決行するより他なし。

倉富◆枢密院にて反対に決したら如何にするや。

中村◆自分は官を辞して後任者の処置に任すべし。
自分官を辞したる上はこれまでの始末を発表して自分の所信を明らかにすべし。

石原◆カルテを徴し「色盲は精神ならびに視力に関係なき」事を確かめざれば、後日において無責任のそしりを免れざるべし。

中村◆精神等に異常なきも、自分はこれを皇統に入るる事に反対なり。

倉富◆枢密院諮詢の奏請の結果は予期しがたきにつき、あらかじめ皇族にもこれを言上しかつ元老にも通知し置く必要あり。
(中村より陸軍大臣田中義一が中村へ送りたる書状を示す。
書状は『枢密院にでも諮詢して解決すべく、うやむやに処置しては三元老〔山県・松方・西園寺〕の信用は地に落ち、今後政治上はもちろん皇室の事にも容喙できざる様なるべき事』を告げたるものにて、解約断行を勧めたるものなり)

石原◆中村宮相が色盲の事を公表し自己の立場を明らかにする事となれば、瑕疵ある妃を納むる事を公表する事となり穏当ならざるべき。

※倉富の記述

結局中村は官を辞するまでにて、始末を公表せざる方しかるべしとの事となり、
またその手段も枢密院への諮詢を奏請せず、単に大事を引き起す恐れありとの事と決し、まずこれを元老に謀り、その上にて皇族の承諾を求め、しかるうえ貞明皇后に申し上ぐる事と決して散会せり。
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『原敬日記』総理大臣

1921年2月9日
珍田捨巳来訪。
皇太子御旅程につき内談ありたり。
「皇太子御洋行につきて元老との相談は山県も松方も西園寺に一任ということにて西園寺のみに相談せしが、その際例の色盲問題につき『御内定通り御変更なきこと然るべき』意味の内話を試みたるに、西園寺は断固としてその不可を主張したり」とて珍田は意外らしき口気にて内話したり。

下田歌子来訪。
「色盲云々につき『山県の陰謀によりて御変更の企をなしたるものなり』との誤解はなかなか深く入りおれり。皇族方内部にも注入多く、女官等にも入りおるらしく、また薩派はやっきとなって運動せり。山本権兵衛なども固く主張し、また大隈重信にもいろいろ注入しおるらし」と言えり。
山本・大隈は親密の関係にあらざれども山県を排斥する一点においては一致すべき事情なれば、さようのこともあらんかと思わる。

1921年2月10日
時事新報記者前田又吉の内話によれば「平田東助を訪問せしとき偶然に犬養毅に出会いたるに、平田は『犬養来訪のことは絶対に秘しくれよ』と懇嘱せし趣。その辺なにか魂胆あらん」と言う。
多分例の色盲問題のためらならん。
国民党の古島一雄が杉浦重剛の門人にて議員内にてもしきりにこの問題を持ち回り、御内定御変更の不可を唱えおることなれば、犬養が平田に吹き込みたるにあらずやと疑わるる節もあるなり。

内務省警保局長川村竹治・警視総監岡喜七郎来訪。
「中村宮相より内聞せしに『御内定通り御遂行』と言うにつき、目下人心動揺の場合これを発表して人心を鎮厭すべきや」と言うにつき、
予は「そのことはこれまで政府の関与せざることにつき、政府において公表等なすべきものにあらず」と戒めたり。

中村宮相来訪。
「皇太子妃御内定御変更のこと枢密院に御諮問となすには、聖上に伺いてその聖旨によらざるべからず。然る時は類を聖上に及ぼす恐れあり。ゆえにこのまま御遂行のことに決定して自分辞職せんとする決意なり。元老らにも訪問その意を述べたり」と言うにつき、
予は「何事ににても聖旨を伺うことあれども責任は当局において取るべき次第なれば、累の聖上に及ぶものとも信ぜざれども、その決心なればそれまでなり」と言いたり。
中村の考えにては久邇宮邦彦王より御辞退あることと信じいたるに、そのことなきは本件につき久邇宮邦彦王より松方に御下問ありたるに、杉浦の意見お尋ねありたしと言うにつき、杉浦に御下問ありたるところ、絶対に御辞退を不可となしたるものの由にて、それより久邇宮邦彦王御態度一変したる趣なりと内話せり。
しかしたこのまま御遂行のこと政府より公表しくれよと言うにつき、
予はそれは不可なり。このことまったく宮中のことにて、公表の必要あれば宮内大臣の談とか宮内次官の談とかいう体裁にて宮内省より発表の他なしと言いたるに、
中村宮相は押川方義らより意見申し出て面会も求めおると聞けば、彼らに返答として公表されたしと言う。
予は押川らに返事すべきも明日の紀元節に明治神宮で国民大会を開くのと大騒ぎをなしおれば、これを鎮厭するには宮内省より今夜中に公表せらるるの他に方法なからんと注意し、
その通りになすべしと言えり。
ただし中村は宮内大臣辞任のことをも公表すべしと言うにつき、
予はそれは無用のことなり。君の進退は公表せざるべからざる理由なしと注意したり。
ひっきょう形勢の非なるを見て、中村を犠牲にして一時をしのがんとする平田らの小策の結果なり。
中村の心情同情に堪えざるものあるなり。

内務省警保局長川村竹治・警視総監岡喜七郎来訪につき、中村宮相の内話の次第を告げたるに、
中村宮相が川村に「ぜひ御内定の遂行ならびに宮内大臣辞任のことを公表しくれよ」と言うにつき、川村はついに新聞記者に漏らせりと言うにつき、予その不都合を責めたるに、なにぶん中村宮相の切なる依頼につきやむを得ず公表したりと弁解せり。
だたし宮内省より今夜公表したる趣なり。
明日の騒擾を恐れ、彼ら多少狼狽せしもののごとし。

押川らを招きたるに、彼ら不在。
遅くも可なりと言い送りたるにもついに来らず。
彼ら口にこそ皇室の御為なりなど道徳論をなすも、その実は誰かの扇動にていたずらに騒擾を願うの他なきことは今さら言うもなきことなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年02月10日

※倉富の記述
内務省よりの報告にて明日の紀元節を期し、玄洋社・黒龍会・城南荘・労働者・社会主義者・学生等が明治神宮に集まりて、大正天皇の御不例の回復・皇太子の御婚儀御遂行・皇太子の御洋行御止めを祈願する計画あり。
また良子女王に色盲の御系統ある事は眼科医保利真直が第一に言い出したる事なるをもって、内田良平の子分が保利を殺す計画ある事を報じ来る趣なり。

※午前10時 倉富&宮内次官石原健三の会話

石原◆御結婚問題につき明日は如何なる騒擾を見るやも計り難きにつき、今すぐに宮内大臣中村雄次郎が辞表を出したる事を発表し、かつ皇太子御帰朝後御成婚ある事を公表して人心を鎮定する方よろしかるべき旨、宮内官僚二荒芳徳より注意せり。

倉富◆中村宮相はなお熱海より帰らざるべし。
中村宮相が帰るまでは待つ方よろしからん。
かつ御成婚の事は今日これを発表するは早計なるべし。

石原◆御成婚の事は今日これを公表する事は出来ざるべし。

※午前11時 倉富&宮内官僚小原駩吉の会話

小原◆中村宮相がいよいよ辞する事になりたる由なるが、後は如何にする事になるや。

倉富◆中村宮相今日にても解約を可なりと信じおるも、四囲の事情これを断行しがたきにつき、責を負うて辞する訳なるべし。

小原◆しからば元老等はもちろん責任者にて、少なくとも内大臣松方正義は職にあることあたわざるべし。
今後元老は何事もできざる事となるべし。

倉富◆予もその通りに思う。
宮内大臣は元老に相談に行きたる訳なるべく、元老が宮内大臣の意見に賛成すれば元老に及ぼす結果は当然知り得べき事なるゆえ、なんとか決心するならんと思う。

小原◆現大臣が辞めても後任大臣は如何に処置するや。

倉富◆現大臣が解約を断行する事を得ずして辞むる以上は、後任者も多分同様なるべし。

小原◆後任大臣の処置としては、久邇宮邦彦王より辞退せられ大正天皇より辞退に及ばずとの勅旨を下さるる様にしては如何。

倉富◆邦彦王より辞退あれば宮内大臣は意見を定めて奏請する必要あるべきも、宮内省より邦彦王の事態を願いこれに対して辞退に及ばざる旨の勅旨を奏請する事は一層責任を加うる様に思わる。

※午後2時 倉富&宮内官僚仙石政敬の会話

倉富◆中村宮相は小田原〔山県有朋〕・熱海〔松方正義〕に相談に行きたるならん。
明日の騒擾が懸念なるゆえ早く宮内大臣辞職の事を発表したしとの話あるも、宮内大臣の不在中に発表する訳にはいかざるべし。
予は久邇宮家宮務監督栗田直八郎に対して明瞭に〔婚約解消の〕意見を述べおきたるにつき、解約できざる事となれば宮内官として留まる訳にはいかず。
これを辞するつもりなり。

仙石◆自分も久邇宮の属官にはしかと所信を述べおきたるゆえ、当然官を辞するつもりなり。
ただ時期はいつが可なるや。

倉富◆宮内大臣の免官が発表せられたる後がよろしからんと思いおれり。

仙石◆その時期は通知しくれよ。

※午後3時 倉富&宮内官僚小原駩吉の会話

小原◆二荒芳徳の知人にて労資協調会の役員たる某来り。
「明日は必ず騒擾あるならん。これを緩和するには御婚約は変更なき旨を公表する必要あり」と言いおれり。
中村宮相はただいま熱海より帰り来り、これより君を呼びて相談する事となるべし。
騒擾が起りたる後にては何の効もなし。

倉富◆宮内大臣の辞職は発表できざる事もあらざるべきも、御婚約については皇族の御意向も解約の方なること分かりおるゆえ、一応中村宮相より事情を言上し承認を得たる上にあらざれば発表する訳にいかざるべし。
明日は不穏の行動あるべしと言うも、如何なる事なるやも明らかならず。
仮にその情が分かりおるとするも、何事も多衆の運動の為に動かるる様になりては非常なる弊害を醸すべし。
騒擾の方は政府にて防御する工夫ある事ならんと思う。

※倉富の記述

宮内次官石原健三に内務省警保局長川村竹治が来り、石原これに面す。
石原が「川村が物情不穏たる有様にて御婚約問題につき何とか発表せざればこれを緩和する途なし」と言いたる事を報ず。
よりてさらに協議し、予は「宮内省よりこれを発表する訳にはいかず。内務省より伝聞の旨をもって発表したらよろしかるべし。かつその発表は宮内大臣の辞職に止め御婚約の事には及ばざる様にしたし」と言いたるも、
石原が川村に話したるうえ辞職の事のみにては効なかるべしと言う趣なるゆえ、やむを得ず政府の人より大竹貫一らに御婚約は変更なき事を話してもよろしかるべしという事に決せり。

中村◆山県を小田原に訪いたる。
自分より「皇太子の御婚約の事は当初久邇宮より辞退せらるる事を希望したるに辞退せられざる事となりたるをもって、このうえ解約を遂行せんとすれば宮内大臣は天皇陛下に奏請し思召により解約せざるべからず。しかるに思召により解約する事は皇室の御信義にも関する事なりとの意見あるのみならず、世上に不穏の行動を為す者を生ずる様にては恐れ多き事ゆえ解約を奏請する事は躊躇しおる所なり。よりて御婚約は変更なき事に致したき」旨を述べたるところ、
山県は黙然たりしが少時の後「致し方なかるべし。君の進退に関する事はあらざるならん」と言いたるゆえ、
自分は「進退に関すべし」と答えおきたり。

それより松方正義を熱海に訪い山県に話したる趣旨を告げたるところ、
松方は「しかれば皇太子御洋行の事も決定し御婚約の事も決定したるゆえ、宮内大臣も安心なるべし」と言えり。
自分はこの言を聞き意外の事に思いたれども、何事も言わずして別れたり。
元老の考えは左の如きものなるや。
予は実に驚きたり。

※午後5時 倉富の記述

結局中村が総理大臣原敬を訪いて自ら辞職の決心を為したる事および御婚約は変更なき事を告げ、石原は閑院宮載仁親王に伺候し同様の事を言上して御承認を願う事に決したる趣にて、中村は既に出て行きおりたり。
宮内次官石原健三も閑院宮に行きたるゆえ予も家に帰りたり。

※午後8時 倉富の記述

宮内省より電話にて「今日午後6時頃宮内省担当の新聞記者に対し、中村宮相は辞職の決心を為したる事、御婚約については世上種々の風説ある趣なるも変更なき旨を発表したる事」を報ず。

※午後10時 倉富の記述

中村宮相より電話にて「宮内官僚石原健三より閑院宮載仁親王に先刻評議の模様を言上したるところ、親王殿下『左の如き事情ならばやむを得ざる事につき言上の通りにてよろしかるべし』と言われたる由。一方内務省にては『新聞記者に対し御婚約変更なきこと及び自分の辞職の事を新聞に掲載して差支なき』旨を申し聞けたる趣なり。ついてはなるべく速やかにこの事を伏見宮貞愛親王に言上する必要あり。よりて御苦労ながら銚子まで行きくれる事はできざるや」と言う。
予明日行くべき事を答え、かつ伏見宮に予が行く事を電信にて通知しおくべき事を告ぐ。
1921年2月11日
下田歌子来訪。
「色盲問題につき『山県の陰謀なり』とて山県を排斥すること、意外に各方面に深く注入しあるに驚きたり。一例を言えば朝香宮允子妃殿下すらそのお話ある次第なり。しかしてかくまでになりたるは杉浦ら一派男子の運動のみならず、婦人にありては後関菊野という人その宣伝を努めたるは大いに力ありしがごとし」と言えり。
要するに山県ひさしく権勢をもっぱらにせしため、至る所に反感を醸したるはこの問題の最大原因なるがごとし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年02月11日

※倉富&伏見宮貞愛親王の会話

倉富◆昨年中村宮相より良子女王の事に関して言上した事ある趣なるが、その時は中村宮相は久邇宮邦彦王より御婚約御辞退あることを願いおりたるなり。
しかるに邦彦王は御辞退なく、宮内省にては絶対にこの事を秘しおりたるも、ついに世上に漏れ種々に揣摩憶測を為し流言も行われたり。
初めは流言に止りたるが、その後に至りては文書をもって種々の事を告ぐる者あるに到り、予期の如く御婚約を解かんとすれば、宮内大臣はその旨を上奏し思召によりてこれを解かざるべからず。
しかるに辞退によらず皇室より婚約を解かるる事は御信義にも関すとの意見あるのみならず、御解約の為この事につき物議を起す様にてはなおさら恐れ多き事につき、中村宮相はついに御婚約は御変更なく自己は職を辞するの決意を為せり。
しかるにこの事については各殿下に言上し、御承認を得たる上にあらざれば為し難き事なるをもってその手続きを為さんとする際、昨日10日に至り物情は一層険悪となり、今日の紀元節を期し不穏の行動を取る計画を為しおる事の風評あり。
現に昨日は文書数十万枚を配布し、その他にも不穏の文書を配布せんとする者あり、警察にてこれを差し止めたる趣なり。
左の如き形勢となりたるため、政府より宮内省に対しなんとか人心を緩和する手段を取りくれたし旨の交渉を受く。
宮内省にてはやむを得ず中村宮相が辞職の決意を為したる事を政府に伝え、政府よりこれを扇動者に伝えてこれを鎮静せしめんとしたるも、政府にてはその効なかるべしと言い、ついに御婚約の事に言及するのやむを得ざる事情となりたるをもって、まず閑院宮載仁親王にこの事情を言上したるに、殿下もその事情ならばやむを得ずとの御言葉ありたる趣。
よりて親王殿下に言上する前なりしも、やむを得ず昨夜政府の人を経て御婚約は変更なき事、宮内大臣は辞職の決心を為したる事を漏らしたり。
右の次第にて順序を失したるも、親王殿下の御承認を願うため中村宮相は今日倉富を遣したる儀につき、よろしく御聴入を願う。

伏見宮◆よく了解せり。
左の如き事情ならばやむを得ざる事なり。
言うても益なき事ならが、予が邦彦王ならば、この事は躊躇なく御辞退申し上ぐるなり。
少しにても欠点ある者を妃として差し上げて、如何にして心に安んずる事を得るや。
御辞退申し上げてこそ心が安まる訳にはあらずや。
意外の結果になりたるものなり。

倉富◆宮内省にては充分に秘密を守り、倉富の本務はこの如き事に関ぜざるため初めは少しもこの如き問題ある事を知らず。
昨年末宗秩寮総裁代理を命ぜられたる時に至り初めてこの問題を聞きたるぐらいなるに関わらず、一方にては早くより世間に流布してついに今日の如き事となれり。
もしこの事が秘密になりおりたらば、その処置が解約になるも変更なき事になるも内緒の事にて相済み何事もなく済みたるべきも、残念の事になりたり。
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『原敬日記』総理大臣

1921年2月12日
閣議。
色盲問題は一段落を告げたる姿なるも、今度は皇太子殿下御洋行も色盲に関連したる山県らの陰謀なりとて、またまた騒ぎおる者あり。
このまま捨て置くこと甚だ不都合にて如何なる珍事を生ぜんも知れざるに、宮内省にては狼狽せしものにやなんら御決定の発表なく、軍艦派遣の予算すら議会に提出することあたわざる次第なるにより、内閣書記官長を中村宮相のもとに送りて、速やかに公文を内閣に送り越すべく、また御洋行のことを公表すべき旨促したり。

予と田中陸相との相談の結果、山県を訪問して色盲騒ぎの真相を詳細に内話せしめ、また皇太子殿下御洋行御差止の議を唱うる者あるも、これは絶対に御遂行の他なし。
また山県が辞任辞爵の説あるも、その不可なることを切言せしめ、文部大臣中橋徳五郎のごときも更迭するがごときありては内閣は持続することあたわざる次第を告げしめたり。

松本剛吉来訪。
山県の伝言なりとて、予が宮中問題につき始終一貫したることを謝し来れり。
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『高松宮日記』

※高松宮は江田島の海軍兵学校在学中

2月12日
新聞に宮内大臣中村雄次郎辞職云々と。
久邇宮良子女王に関すとか。
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『原敬日記』総理大臣

1921年2月13日
田中陸相来訪。
「1月17日中村宮相が山県を訪問せし時『久邇宮邦彦王より御辞退なき由』を山県に告げたるにより、『枢密院に御諮問の上決定せられて然るべし』と注意せり。中村宮相は枢密院に御諮問のとなれば聖旨を伺わざるを得ず、このことを著しく苦慮しおりたり。1月31日平田東助が山県を訪問して『この問題はにわかに決定せらるるごときことを避け、徐々に解決せらること然るべし』と言いたる」と。
(かくて平田が下岡忠治に「山県も御遂行の内意なり」と告げたるもののごとし)
「2月9日中村宮相が山県を訪問して『この問題速やかに解決なければ皇室に累の及ぶこともあらん形勢にて、衆議院議長奥よりも内談あり、政府においても解決を望むにつき、自分は責任をもって御遂行と決定し、しかして同時に辞職することとなせり』と山県に告げたる趣なる」と言う。
山県は皇室および国家のため痛嘆しおれりと物語りたり。
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『高松宮日記』

※高松宮は江田島の海軍兵学校在学中

2月13日
新聞は某重大事件に賑わう。
予も知らざるも、良子女王との御破談か。
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『原敬日記』総理大臣

1921年2月14日
宮中ならび皇族方の御内情あまりに世間に漏洩し甚だ喜ばしからざるにつき、厳重取締ありたき旨、警保局長をもって宮内省に申し込み、警戒を促したり。

1921年2月16日
田中陸相の内話に「元老集会の模様は松方も隠退を言うにつき、山県はこれを止めざりしなり。
また宮内大臣の後任につき、松方は『平山成信または一木喜徳郎如何』と言いたるも、
山県は『このことについては発言権なし』とて相談を断りたるが、
西園寺は沈黙して何も言わず、松方去りて後 西園寺は山県に『責任を取ると言わるるが、責任とは何の責任か』と問いたるにつき、山県は『輔導の責任なり』と言い、西園寺その意を諒せしもののごとくなりき様子なり」と物語りたり。

横田法制局長官来訪。
「小泉策太郎が押川・佃信夫ら浪人組が山県を政界より葬らんとて久邇宮邦彦王を担ぎ回ることに賛助せんとする意向につき、その不可なることを告げ、山県を葬ること何の必要なしと説き、また入江貫一に政界の真相を告げ、政府の苦心も山県に諒解せしむるように篤と話置きたり」と言えり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年02月16日
※倉富&宮内官僚酒巻芳男の会話

酒巻◆先刻宗秩寮総裁井上勝之助より電報来り、面談したき事あるゆえ興津に来りくれる様申し来れり。
察する井上の辞職の事なるべし。
御婚約に関する大体の事は承知しおるも、なお知らざる事あり。
井上より問わるべきにつき、一通り話しくれよ。

倉富◆この問題は最初学習院の眼科医が心配して陸軍軍医総監平井政遒に話し、平井が山県有朋に話したる事より始まりたる事の様に聞きおれり。

酒巻◆学習院の眼科医は陸軍軍医村上其一という人なる由なり。

倉富◆それより宮内省にて保利に医案を作らしめたる事、宮内大臣がこれを伏見宮貞愛親王に示したる事、貞愛親王が進んで邦彦王に辞退を勧告せられたる事、邦彦王は辞退を拒まれたる事より、中村宮相が辞職の決意を為し、予が貞愛親王に伺候するに至る。

※山階宮家宮務監督市来政方の発言

山階宮武彦王の妃として賀陽宮佐紀子女王を納るる事を大臣・次官に謀りたるところ、しばらく延ばしおくべしと言われ、その事わからざりし。

※宮内官僚小原駩吉の発言

山階宮家宮務監督市来政方は賀陽宮佐紀子女王を山階宮武彦王の妃にもらわんと思い、宮内大臣・宮内次官に相談したるところ、大臣・次官とも少し都合あるゆえその話はしばらく延ばしおくべき旨を告げ、その事情は話さざりし由なり。
宮内次官は良子女王の婚約を解きたる上は良子女王を武彦王の妃と為さんと欲するため市来に左の如く話したる訳なるも、その理由を告げざりしゆえ市来は佐紀子女王を皇太子妃と為すの計画と思いたる。
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『原敬日記』総理大臣

1921年2月17日
牧野伸顕来訪。
「松方よりぜひ宮内大臣たらんことを承諾せよとの内談を受け、ついに承諾せざるを得ざるやと思わる。それには政府と十分の諒解を必要とす」との懇談あり。
牧野の言うところにては「宮内大臣後任は各元老より松方に一任しあり、松方は平山成信を挙げたるも承諾せず、平田東助は松方を訪うて牧野を推挙したり、松方は牧野の承諾を得ざれば如何ともなすべきようなしとて切に依頼あり、同郷元老のことなればこれを察せざるを得ず、自分の考えにては薩長以外の者を挙ぐるを得策とすと説きたるもその人なし、誰か適任者なきや」と言うにつき、
予は「別に心当たりなし。元来宮内大臣の更迭には波多野・中村の更迭の節も何びとよりも一応の相談もなし。君は友人として内談のことなるが、君の薩長以外の人ということも至当のように思わるるも、とにかくこの儀は君と元老との直談に一任したきものなり」と言って予の意見を加えざりき。
ただし「君が就任するもずいぶん困難なるべきは御察に余り、すこぶる同情に堪えざる旨」を述べ置きたり。
牧野は「たぶん承諾就任せざるを得ざるべし」と言いおれり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年02月17日

※倉富&東久邇宮家事務官金井四郎の会話

金井◆久邇宮邦彦王が「色盲の事は自分は疾くこれを知りおり、当時の宮内大臣波多野敬直もこれを知りおりて婚約できたる事につき今更これを辞退する理由なし」と言われたる。
宮内大臣が色盲の事実を知りおりたならば邦彦王が辞退せられざるももっともなり。

倉富◆その事は誤りにて、波多野宮相がこの事を聞き邦彦王にこれを詰り、邦彦王は「波多野はこれを知らざりし」と言明せられたる。

※倉富の記述
唯一の懸念は前宮内大臣中村雄次郎より皇后宮大夫大森鍾一を経て皇后陛下に言上しおる趣意は、中村は微力にて御婚約を解くことを得ずと言うにとどまり、御婚約は確定してこれを動かさずとまでは言上しおらざる模様なり。
しかれば後日なおこれを解くことを得る余地なきにあらず。
しかし皇后陛下からこれを解く思召あらば、〔新宮内大臣候補者の〕平山威信は必ず窮地に陥るべし。

1921年02月18日
※宗秩寮総裁井上勝之助の発言

御婚約問題は昨年9月ごろ宮内官僚仙石政敬よりこれを聞き、中村宮相の処置は適当と思いたり。
しかるに自分は病気のため引き籠り、かかる重要時期に出勤せず。
中村宮相が責を負うて辞職する場合に安んじて職に在る訳にはいかざるゆえ職を辞する。

1921年02月19日

12時前総務課より電話にて、宮内大臣の更迭あり、牧野伸顕が宮内大臣となりたる事を報ず。

※倉富&前宮内大臣中村雄次郎の会話

予、中村が今日宮内大臣の職を免ぜられたる事につき挨拶し、中村、在職中の援助につき謝を述ぶ。

中村◆全体この節の事は自分一人の責任にて他に及ぶべき訳なしと思うも、各自思うところありて辞表を出したるにつきこれを交す旨を牧野に伝えおけり。

倉富◆就職以来苦心の事のみ多かりしも、本心を曲げて在職するよりも所信に従うて退く方心安かるべし。

中村◆しかり。
自分は責任を引きて辞職はするも今日にても職務上過失ありたりとは考えおらず。

倉富◆予もその通りなり。
先日の考えは誤りにて前非を悔ゆる様の考えならば他が許さざるも自らが許す事を得るも、しからざるゆえ職を辞する考えとなる。
先日総理大臣原敬は君に対し「世論やかましきにつき、宮内省にて速やかに決定することを望む。その決定はいずれになりてもよろし」と言いたる趣、これはもっともなる事と思いいたるに、本月10日に至りては内務省警保局長よりしきりに決定を促し、しかもその決定は御婚約変更なき様に決する旨申し来り。
宮内大臣・宮内次官・予と協議しおる時、警保局長が幾度か来りて発表を促したるはあまりに狼狽したる様に思う。

中村◆自分も政府の方針なりと思いいたるに、11日に警保局長に会いたるとき局長は「原首相より叱られたり」と言いおれり。
局長しばしば宮内省に来り、御婚約の事・宮内大臣辞職の発表を急ぎたるは局長の考えなりしと思わる。
局長が宮内省に行き、「この如く話を決め来りたり」という風に原首相に報告したる様に思わる。

倉富◆10日の夜、君は原首相に面会したるにあらずや。

中村◆面会せり。
その時は「大臣辞職の事等はいずれにてもよろし。御婚約変更なき事はぜひ宮内省より発表せられたし」と言えり。
しかし警保局長が言うほどには言わざりし。
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『原敬日記』総理大臣

1921年2月21日
皇太子妃に御内定の久邇宮良子女王の件一段落となりたるに、今度は皇太子殿下御洋行中に御内定御変更せんと山県らの陰謀に出たりとて御出発御中止の運動をなす者あり。
世間なかなか騒然たるも、御洋行に関してはあくまでその企を防止すること必要なりと考え、その措置を取りつつあり。
然るにこのことに関し頭山満・内田良平一派は依然として騒ぎ回りおりたるに、その派の一人小美田利義来訪、「彼ら同志が松方を訪うて御渡航御中止ありたき旨申し入れたるに、松方は『政府より申し越しあらば御中止も可ならん』と返事せりとて、予に迫らんとする者あり」ということなるが、
これもっての他のことにて、政府は宮中の思召を遂行するがために手続をなすものなれば、この趣旨を申諭したり。
同様の意見につき小泉策太郎同伴にて五百木良蔵・佃信夫来訪、切に御洋行御中止を論ずるにつき、予は「今日において絶対不可能なることならびに天子の孝道は庶人の孝道とは異なり、皇祖皇宗に封せられて将来国家統治の必要上御洋行は孝の大なるものなることならびに本件は色盲云々とは毫も関係なきこと」を内諭したれば、両人もややその趣旨を了解せしがごとし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年02月21日

※倉富&新宮内大臣牧野伸顕の会話

牧野◆この節の事は困りたる事になりたり。
しかし婚約を変更するを可とするも不可とするも各理由あり。
現今の如き時勢にあらざれば容易く解決できる事なるも、何事に関わらず多衆にて騒ぎ立つるにつき困る。

倉富◆しかり。
この節の事も秘密にさえなりおりたらば、いずれになりても容易く解決できたるべきも、世間に広まりたるため困難になりたる。

牧野◆この節の事は意見の相違なるゆえ、さほど頓着する必要なかるべし。

倉富◆もとより意見の相違なり。
しかし予が辞表を出したるは、予はこの事につき初めより解約を可とするの意見なりしなり。
しかるに解約せられざる事に決したる以上は予の意見は将来の皇太子妃たる方に対し不敬となり、ひいては皇太子にも不敬となるよう考えるにつき、このまま宮内省に奉職するは適当ならずと思う訳なり。

牧野◆この節の事は公表すべき事にあらずと思う。

倉富◆もとより公表すべき事にあらずと思う。
前宮内大臣中村雄次郎も辞職の理由は公表しがたき訳なるべし。

※宮内官僚小原駩吉の発言

牧野宮相は資望経歴にて十分なるも、処事の才に乏し。
補佐その人を得ざればこと功を挙げ難し。
しかし宮内次官石原健三をして留任せしめては、まもなくまた行き詰るべし。
ゆえに我々の仲間にて談し合いたるところにては、このさい君を煩わして宮内次官たらしむることが衆望の一致するところなり。
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『原敬日記』総理大臣

1921年2月22日
山県より辞表送り来る。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年02月24日
※倉富&宮内官僚小原駩吉の会話

小原◆山県有朋公爵・松方正義侯爵・西園寺公望公爵とも東宮太夫浜尾新男爵の不適任なることを知り、山県の如きは小人事を誤るとまで言い、松方も浜尾ぐらい不適任なるものなしと言いながら、これを罷むる事できざるは如何なる訳なるべきや。
解し難し。

倉富◆予もこの事は理由を知るに苦しみおる所なり。
重大なる事なれば躊躇する事もあるべきも、一大夫の罷免ぐらいの事なるに三人にてこれを断行することあたわざるは実に不思議なり。

小原◆西園寺八郎は父西園寺公望に対し、浜尾新を罷むる事を迫り、これを実行せざれば何事を為しても効能なく、皇太子御洋行ありても、還啓後以前浜尾が大夫たる様にては何の効もなし。
この事を実行せざる様ならば自分は辞職する他なしと言いたるところ、公望はこの事は平田東助が引き受けおるゆえ平田が処置するならんと言いたる趣なり。

1921年02月25日
※久邇宮事務官木村英俊の発言

昨年来良子女王の事につき他の宮付職員と意見を異にしたるためずいぶん困る事多く、
宮内官僚仙石政敬よりも「他に転任する事の周旋もできざる事はなかるべし」との話もありたれども、自分はその時は御婚約は必ず解除せらるるものと信じおり、御婚約が解除せらるれば邦彦王はじめ良子女王方の御境遇は察せられるにつき、仙石に対し「御婚約が変更なき事ならばすぐに転任する事を望むも、御解約になる事ならばその後の始末は自分の責任と思うにつき今しばらくは如何に苦しきもこのままに勤務すべし」と言いおきたり。
しかるに事は意外の結果となりたるにつき、何とか他に転ずる事の配慮を請う。

木村、久邇宮家宮務監督栗田直八郎はじめ属官等の考えの誤りおる事を話し、その例として「皇太子にカフスボタンを献上する事になりおる」と言うにつき、
「邦彦王よりの献上なりや」を問いたるところ、
「良子女王よりの献上」と言うにつき、
「それは不可なり。献上せらるるならば邦彦王よりの献上ならば可なるべきも、良子女王よりの献上にては断じてよろしからず」とてその理由を説明し属官らはこれを了解したる模様なりしなり。
栗田を訪いこの事を談したるところ、意外にも栗田は「良子女王よりの献上にてよろし」と言うにつき大いに議論し、
「自分は如何なる事ありても同意しがたし。宮務監督が職権にて取計を為すならば致し方なし」と言うて別れたり。
新聞に良子女王が3月1日に葉山に伺候せられ、皇太子に奉別し貴重品を贈られる旨を記載しおりたるも、栗田より漏らしたるものならんと思わる。
以前は新聞記者には自分の他は面会せざる事に定めおりたるも、近来は誰でも勝手に面会するようになりたり。
先日の新聞に良子女王の作文を掲載したるも、後閑菊野の為したる事と思いたり。
今日この如き事を為すはよろしからずと思えども致し方なし。
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『牧野伸顕日記』※当時は宮内大臣

1921年2月25日

前宮内大臣中村雄次郎
「色盲云々のことは全然取り消したる姿にて、色盲説の起こりたる以前の状態に復したるものなるにつき、御内約は依然存立しなんら故障なく御進行になるべきものとの了解なり」

皇后宮大夫大森鍾一
「宮内大臣引責したるも、御内約進行のことについてはいまだなんら御決定のなきものとの見込云々、ゆえに色盲の問題は残るにつきなんとかこの点にて詮議の上決定を要すべし云々」
牧野伸顕
「中止説は撤回せられらるにつき、前後の事情も顧み、御婚儀のことはもはや事実上最後の決定を告げたるものと認め、さらに議するの余地なし云々」
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年02月28日
※倉富&宮内官僚小原駩吉

小原◆先日西園寺八郎が山県有朋を訪いたる時、山県の口気にてはこの節の事は薩州の者が長州の勢力を殺く為に計画したるものの様に感じおる様に思われたり。
よりて八郎は「この節は父西園寺公望は薩州にも薩州にも偏せず中立の態度を持ち、他日薩長の争い起りたる時その調停を為す方よろしからんと思うと言いおりたり」と言う。

倉富◆予もこの節の事は山本権兵衛伯爵・大迫尚敏子爵らがだいぶ運動したる様に聞きおれり。

小原◆八郎の話にては松方正義は平生の優柔に似ず、この節宮内大臣に牧野伸顕を推薦したる時は極めて判然として、松方が八郎に嘱し公望に牧野を推薦する事を通知せしめたる時も極めて確乎として、相談にあらず通報の形式を取りたる趣にて、八郎も不思議に思いたりと言いおりたり。

倉富◆松方も山県・西園寺と同様婚約解除の意見なりしも、その程度は初めよりもよほど違いおりたる様なり。

小原◆久邇宮邦彦王は何とかせられざれば、このままにては済まざるべし。

倉富◆前宮内大臣中村雄次郎が引き継ぎをしたる時の演述書にも、婚約の事については貞明皇后は懸念しおりたるとの御詞ありたる様に記載しおれり。
もし貞明皇后の思召が解約にある様な事ならば新宮内大臣はたちまち行き詰まるべし。

小原◆新宮内大臣が就任するについては、もちろん御婚約はこれを遂行するつもりにて就職したるものならん。

倉富◆それはその通りならん。
しかれども政治問題と異なり御気に合わざる事ならば何とも致し方なし。
根本が未決にては何事も手を着けがたかるべし。

※倉富の記述

良子女王が葉山にて皇太子に会見せられカフスボタンを贈らるる計画なる趣を話したるに、小原も非常に驚きたり。
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『原敬日記』総理大臣

1921年3月3日
皇太子殿下御洋行のため御出発。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年03月04日
※倉富&宮内次官石原健三の会話

石原◆宮内大臣その他に配りたる印刷物のうち最後のもの最も激烈にて、山県が大正天皇の聡明を蔽い天皇は言語不能の事なきもこれを不能と言いなしおるとか言う如き趣意に書き、また貞明皇后には山県の姪に当る女官を付けて皇后の聡明を蔽いおり、大臣大将某が皇后に言上する事あらんとしたる時これを遮りて言上する事を得ざしめたりと言う如き事を書きおれり。
山県の事は逆賊という如き文字を用いおりたり。
大臣大将某と言うは誰を指すや解し難し。
ただいま大臣大将なるは加藤友三郎なるが加藤にはあらず。
あるいは八代六郎男爵を指したるものならんか。
八代は前に海軍大臣たりし事あり。
八代は非常に熱する人にて、皇太子の御洋行に非常なる反対にて、一時は自己の財産を売り払い極端なる運動を為すとの聞あり。

倉富◆良子女王に付きおる後閑菊野という女はしきりに女王の事を話す模様にて、新聞に書きおるが困りたる人なり。

石原◆後閑のみならず、すべて困り者ばかりなり。

1921年03月05日

※倉富&新宮内大臣牧野伸顕の会話

牧野◆良子女王に色盲の遺伝ある事は如何にしても発表しがたき事なるが、そのため内務大臣床次竹二郎は非常なる窮境に陥り弾劾もせらるる事となりおれり。
しかれどもこれを公表すれば良子女王の身体の欠点を現す事となるゆえ、これを公表する訳にはいかざるべし。

倉富◆この事は絶対に公表しがたし。
世間にては既にこれを知りおる者も少なからざるべきも、官府よりこれを公表すれば、これを証明する事となるゆえ、如何に苦しきもこれを発表する事を得ず。

牧野◆一般にはこれを公表する事を得ざるも、地方官にだけは通知するも差支えなかるべきや。すでに外交官には大略ながらこれを通知しおれり。

倉富◆地方官に通知する事は妨なき事なるが、地方官は通知を受けてもその内容を話す訳にはいかずとすれば、やはり同様にはあらざるや。

牧野◆地方官中にも事実を知らざる者あり。
またこれを聞きても疑いおる者もあらん。
ゆえに内務大臣よりこれを通知すれば、地方官だけは安心して他に対する事を得べし。

倉富◆この事につき予が最も懸念するは、先日内務省および宮内省より発表したるは良子女王の事につき種々の風説ある趣なるも何ら御変更なしとの事に過ぎず。
元来良子女王は皇太子妃に御内定ありたりというだけにて、いまだ御婚約というほどに成りおらず。
先日来の事は大正天皇に奏上しおらずは、もちろん貞明皇后にも言上しおらずとの事なり。
しかれば今日は御内定というだけに止まり御確定という訳にあらず。
この根元が定まらざれば地方官に通知するにもよほど困難なるべし。

牧野◆理論はその通りなり。
しかれども事情より言えば、このまま御遂行あるより他致し方なかるべし。

倉富◆貞明皇后にも言上しおらずとすれば、中間に起りたる紛紜が無くなるだけにて、初め御内定になりたる時と同様の状況にあるものと見るの他なかるべし。

牧野◆その通りなり。
しかし貞明皇后は多少御承知あらせらるるに相違なし。
今後さらに変更を思い立てば先頃より以上の物議を醸すはもちろんなるにつき、事情より言えば他に考うる事なかるべし。

※倉富&宮内官僚小原駩吉の会話

小原◆前々宮内大臣波多野敬直が内大臣となる様の話は聞かざるや。

倉富◆何も聞きたる事なし。

小原◆もし波多野が内大臣となれば、天皇皇后の御親任厚きにつき牧野宮相は何事もできざるべし。

倉富◆内大臣は宮内大臣が推薦するより他なかるべし。
牧野が波多野を推薦するとは思われず。
良子女王御婚約を遂行する事は牧野の一大難事なり。
万一貞明皇后に御異議あらば、牧野は進退ともにできざる事となるべし。
この場合皇后に説く為には波多野が一番便利なるゆえ、牧野が波多野を奨めるとすれがこの理由より他に考え様なし。
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『原敬日記』総理大臣

1921年3月6日
静岡県知事関屋貞三郎来往。
宮内次官に就任せよとの相談を受けたりとて予に相談につき、
予は「知事よりずいぶん骨の折るることならんも、承諾尽力して可なり」と返答せり。
「新宮内大臣牧野伸顕とは特別の関係あるや」と尋ねたるに、
関屋は「深き関係なし。ただ往年鹿児島県に奉職せしため薩人に知り合い多く、今回もある薩人によりて内交渉を受けたるわけなり」と言えり。
薩人例の通薩派を集むるもののごとし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年3月9日

※宮内官僚小原駩吉の発言

新宮内次官関屋貞三郎はおとなしき人物にて格別癖もなきようなるにつき、まずよろしかるべし。
関屋は才気縦横の人にあらず。
牧野の宮内大臣に関屋の宮内次官にては、二人に任せおきたらばなにごとも運ばざるべし。
よりてめいめいより関屋を鞭撻してことを執らしむることは必要なるべし。

※宮内官僚南部光臣の発言

新宮内次官関屋貞三郎の人物は知らざれども、党派心はなかるべし。

1921年03月11日
※倉富&宮内大臣牧野伸顕の会話

牧野◆御婚約問題についてはいずれも皇室の御為を思いたるより出でたる事にて、ただその意見が異なりたるに過ぎず。
ゆえに自分はこの事について責任を負うて辞任すると言う人ありてもこれを承知せざるつもりなり。
今後摂政問題その他種々なる重大問題あり。
これまで出合いたる事なきほどの大切なる時節が来るならんと思うに、こう人物が乏しくしては如何にも心細き事なるゆえ、ぜひ留任を希望する次第なり。
久邇宮付事務官木村英俊が婚約の事につき、強硬なる意見を吐きたるため久邇宮家に勤続しがたしとの事なるが、これもそのままにおくことはできざるや。

倉富◆昨年11月伏見宮貞愛親王より木村を召され、良子女王御眼に関する医案を示し、これを熟覧せよとの御申し聞きあり。
木村がこれを見たる後 伏見宮殿下より「このことにつき近日中に予が邦彦王に面談するゆえ、その旨を伝えおくべき」旨を命ぜられたる趣なり。
その頃は邦彦王は九州御旅行中につき、木村は他に聞く人なき汽車中にて言上する方しかるべしと考え、国府津まで出迎え汽車中にて貞愛親王の言を言上し、「もはやかくなる上は速やかに御辞退なさる方よろしかるべき」旨を言上したりとの事なり。
しかるにその後 宮務監督栗田直八郎と属官武部・分部との間に挟まれ、邦彦王よりも格別御用も命ぜられず、よほど困りおる趣につき木村は到底このまま勤続せしむる事はできがたきものと考える。

1921年03月12日
※倉富&宮内官僚小原駩吉の会話

倉富◆昨日牧野宮相より留任を勧められ、留任する旨を答えたり。
牧野宮相の話にては、この問題については何人も辞職を諾せざるつもりなり。
この方針は予らの如き下僚の為に定めたるものにあらず。
山県有朋・松方正義をして留任せしむる為に定めたるならんと思う。

小原◆多分その通りならん。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年03月19日

※久邇宮事務官木村英俊の発言

昨日久邇宮事務官栗田直八郎より自分に対し、
「大変なる事ができしたり」と言いすこぶる狼狽しおるゆえ、
「何事なりや」と言いたるところ、
昨日来原慶助が久邇宮家に来り、武田健三を訪いたるところ武田があらざるため分部に面会し、声高にて武田が約に違いたる事を罵りたるにつき、その事情を問いたるところ、来原が先日鉄筆版の書類を配布したる事につき武田に対し3万余円の出金を求め、武田は1万5千円を出金すべき事を約し、その約を履行せざるため、来原はその不都合を詰りたるものなりとの事なり。
しかるに武田は一両日所在をくらまし昨夜帰宅したるゆえ、栗田より辞職せしむる事を話し、今朝辞表を出さしむべきはずのところ、今朝また家にあらずまだ辞表を出す運びとならず。

※倉富の記述

牧野宮相、今朝久邇宮事務官栗田直八郎来り、来原が久邇宮家に来り武田を罵りたる事を話したりとの旨を告ぐ。
その趣旨は木村から予に話したるところと異なる事なし。
牧野、来原が武田に送りたる書状2通および分部に送りたる書状1通を予に交し、
「これを見置きくれ。かつこの書状を警視総監または警保局長に示し、来原が重ねて久邇宮家に到り暴行を為す様の事なき様注意を促しおきくれたし。自分は来原が今日必ず何らかの事を為すならんと思う」

※倉富&警視総監岡喜七郎の会話

岡◆先刻宮内官僚酒巻芳男より聞きたる事は困りたる事なり。
来原は実に始末につかぬ男なり。
よりてこれを鎮むるには武田をして3千円なり5千円なり出金せしむる事はできざるべきや。
内務大臣床次竹二郎にも話しみたるところ、これも幾ばくか金を渡して鎮むる他致し方なからんと言えり。

倉富◆それはよほど考えものなり。
一度金を渡せば幾度も強請る事となるべし。
ことに金を出せば、こちらに弱点ある事を示す様の訳なり。

岡◆久邇宮よりの出金と言うべからざるはもちろん、宮内省よりの出金という訳にもいかず。
武田一己よりの出金と言うの他なし。

倉富◆3千円はおろか千円にても武田より出金すると思う者はなかるべく、金の出所は他にありと思うは当然なり。
幾度も繰り返す様の事となるべきにつき、予は良策とは思わず。

岡◆懸念の点は至極同感なり。
しかれども他に工夫なし。

※倉富&牧野宮相の会話

倉富◆岡より武田をして金を出さしむる必要あるべく、この事については内務大臣にも相談したるところ、床次内相も他に工夫なしと言いたる趣なり。
予の考えにては一たび金を出せば幾度もこれを要求して際限なかるべく、かつこれを出せばこちらに弱点ある事を自認する様のきらいあり。
来原らの目的は金を得るにあるにつき、これを得ざれば如何なる乱暴を為すやも計り難く、岡らの考えも無理からぬ事なれども、予は金は出さざる方よろしからんと思う。

牧野◆しかり。
如何様なる事ありても金は出し難し。
床次内相らは当座の事を考うるものなるべけれど、久邇宮家に累を及ぼす様の事ありては大変なるゆえその事に同意しがたし。

1921年03月20日
※宮内官僚大谷正男の発言

牧野宮相は久邇宮事務官栗田直八郎の話を聞き、来原が無名の書を配布したる事は武田一人が関係し、他には一人も関係したる者なしとの事を信ずる旨栗田に告げたる趣なるも、内心にては幾分の疑いあり。
しかれども牧野宮相自らその事実を探索するは栗田を疑う様のきらいあるにつき、君より久邇宮事務官木村英俊に対しそれとなく事実を問い見らるる事はできざるや。
また内務大臣・警視総監が武田に対し若干の金を与うる必要あるべしと言いたる事は、早く久邇宮邦彦王に言上しおく方よろしからんと思う。
この二事が牧野宮相より君に相談せよと命ぜられたる事なり。

※久邇宮事務官栗田直八郎の発言

先日武田健三の事につき取り調べを命ぜられたる事もありたるところ、突然意外なる事できし自分の監督不行き届きにて恐縮に堪えず。
武田に対してはこの如き事できしたる以上はその責任を負い速やかに辞職すべき旨を申し付け、その後はこれに面会もせず。
委細の事は分らざるも、武田の親族友人らが心配し武田のために金策をなし、来原の意を緩和する事の計画を為しおるゆえ、今後重ねて来原が乱暴を為す様の事なからんと思う。
来原の事には武田の他決して他に関係したる者なし。

倉富◆昨日警視総監岡喜七郎より床次内相と相談の上、武田の名義にて3千円または5千円ぐらいを来原に渡す様にしたしとの申し出ありたるに、牧野宮相の意にてこれに応ぜざる事となれり。
ぜんたい武田が1万5千円の約束を為したるは如何なるつもりなりしなるべきや。
来原の要求も過大にて、武田の約束も過多なり。
また分部も幾分事情を知りおるにはあらざるべきや。
来原が分部に送りたる書状に〈S〉の符丁あり。
事情を知らざる者には解しがたきことなり。

栗田◆来原が初め武田に対し10万円を求めたる趣なり。
来原の書状には3万余円要求しおり、武田は1万5千円を約しおるにつき、左の如く言いたるなり。

※倉富&久邇宮事務官木村英俊の会話

倉富◆武田の件は武田の他関係したる者なしとの事にて予もこれを信じ、他に関係者なき事を願いおるも、実は警視総監・内務大臣らの考えにては幾分か来原に金を遣わしてこれを緩和する方よろしからんとの事なりしも、宮内省にてはこれに反対する事に決したり。
もし武田の他にも関係しおる者ある様の事ならば、一概に出金を拒み事を荒立つる様になりては不都合につき、君が何か気づきたる事なきやを問う為に来宅を求めたる次第なり。

木村◆先頃栗田よりこれを見たりやとて来原の書面の事を話したり。
その時自分はまだこれを見ずと言いたり。その時来原の書類を4~5通1個の封筒に入れて栗田に送り来り。
封筒の裏には発送者の氏名を記しあるをみたり。
自分は何人より送り来る物なるかを見んと思いたるも、距離ありたるためこれを認める事を得ず。
しかして栗田はにわかにこれを隠したるためついにこれを見ることを得ざりしなり。
武田が免官せられたるゆえ、武田に同情する様に見せかけて内情を探りみんと思いおる所なり。

倉富◆分部に対する来原の書状に〈S〉と書きおれり。
分部が全く事情を知らざる者ならば左の如き符丁が分かるはずなし。
また武田が1万5千円という多額の約束を為すべきはずなく、武田がこの約束を為すにはこの金を出し得る見込ありたる事ならんと思わるるゆえ、予は多少疑いを抱きおる訳なり。

木村◆自分もその辺については同様の疑いあり。
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『原敬日記』総理大臣

1921年3月27日
陸軍大臣田中義一より来書。
「推察通り大隈重信より山県有朋に種々の方法によって接近を求め来れり。最近枢密顧問官一木喜徳郎が山県に『宮中事件に関し経過の概要を大隈に通知せられては如何』と申し込み、山県は可なりと一応は考えたるも、利用する手段なりきと気づきこれを謝絶せり」と言う。大隈方面よりの依頼か貴族院方面よりの画策か不明なれども、一木は山県の謝絶のため大いに失望せり」と言うことなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年03月28日

※久邇宮事務官木村英俊の報告

武田◆この節の事は恐れ入りたり。

木村◆事実の真相を聞きたし。
事実を知らざれば久邇宮家の利益また君の利益を図りても、かえって不利益の結果を生ずる事もあるも計り難し。

武田◆来原とは先年より懇意の間柄なるゆえ度々往来して打ち合せを為したり。
しかるに事の決定したる後に至り来原より金を請求するにつき、これを拒まんと思いたれども結局やむを得ず金を遣すことを約したり。

木村◆その後いかなる状況になりおるや。

武田◆円満に運びおる。
この事についてはこれ以上問いくるるな。

木村◆ぜんたい如何様なる事になるや。

栗田◆牧野某〔宮内大臣牧野伸顕とは別人〕が心配しおるにつき、必ず都合良く決定するならん。

木村◆牧野某とは何人なりや。

栗田◆多年久邇宮家に出入し邦彦王も近づけらるる人にて、自分が牧野の長男の嫁に久邇宮付事務官角田敬三郎の娘を媒酌したる関係あり。
牧野は自分にも懇意なる者なり。

木村◆来原が乱暴を為したるため久邇宮家の空気は必ず変化してよろしき方に向かう事ならんと思いおりたるところ、案外にも以前より悪しくなり。

倉富◆空気が悪しくなりたりとて、武田は既に去りたれば、誰がかような事を言うや。

木村◆武田の免官を遺憾としおる様なり。
「木村が今少しとりなせば免官にならずとも済たる事なり。来原には金さえ遣せば何事もなかりしことなり」とて不平を言いおるなり。

倉富◆栗田の所に来原が配布したる書類5~6通を同封にて送りたる者あり。
その発送人の氏名は栗田が封筒を隠したるため木村はこれを認むる事を得ざりし。
今日木村より聞く所にては、武田が度々来原に面会して協議したる事実は武田もこれを認めたるも、その他の人がこれに関係したる事を認むべき事実なし。
武田の話にては来原との関係は円満に解決する模様との事なり。
栗田は牧野某が心配しおるにつき必ず無事に解決するならんと言いおれり。
牧野と栗田との関係を問いたるに、年来の懇意にて久邇宮邦彦王も牧野某を信ぜられおる模様なり。
木村はまた久邇宮家の空気は一変するならんと思いおりたるも、案外に悪化したりと言い、久邇宮家より武部に対し年金でも給せらるべき模様もありと言えり。
武田は元来宮内省の職員にて宮に付属したるに過ぎず。
宮内省より恩給を受くる上に年金を給せらるる様の事ありては穏当ならずと思う。

仙石◆先日邦彦王に謁し、なるべく速やかに武田を郊外に出し京都にても住居せしめらるる方よろしかるべき旨を言上したるに、両三日ぐらいは他に遣しがたしと言われ、武田に充分御同情ある様に思われたり。

牧野◆邦彦王には内務大臣がこの如き意見を抱きおり、事態容易ならざる事を言上しおく方よろしからんと思う。
ついては来原の性行等は警視庁にては調査できおるべきにつきその調書を取り寄せおきくれたし。
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『原敬日記』総理大臣

1921年3月28日
下田歌子来訪。
「皇后陛下には皇太子妃殿下の色盲云々の御心配あるの他、皇太子妃殿下が皇族より出られるることなれば、将来の御折合についても御心配のように拝察したり」と言えり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921月03月31日

※倉富&牧野宮相の会話

倉富◆牧野某は栗田等と懇意にて、この節も牧野某が武田のために金を出しおる趣なり。
その額は確かならざれども5千円とか言う事なり。

牧野◆しからば栗田も武田の事に関しおるとの事なりや。

倉富◆しかるにはあらず。

※宮内官僚仙石政敬の発言

友人より「良子女王の事について初めは山縣の所為は言語道断と思いおりたるが、近日に至り事実を聞きその誠忠に感じおる」旨の話をなしたり。
この頃に至りだいぶ左様の話を聞く様になりたり。
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『原敬日記』総理大臣

1921年4月4日
山県有朋を訪問。
「色盲問題については宮中より何らの相談を受けたるにもあらざれば如何ともなすことあたわざれども、国論沸騰を傍観することあたわざれるにより、1月26日宮内省に赴き宮内次官石原健三に面会、速やかに決定を望む旨を告げ、ちょうど枢密院副議長清浦圭吾も来会して、枢密院に御諮問のこと内々閣下より申し送られたりしと言うにつき、予は速やかにその手段を取るも可ならんと言い置きたるに、爾来何の音沙汰もなく国論はいたずらに沸騰する情況ゆえ、2月2日中村宮相に国論帰一のためいずれかに決定を要すと告げたる顛末を述べて、なぜかくまで未決のままに置きたるや実に解すべからざるとて、清浦・平田東助らの行為を間接に非難したるに、山県自身知らざりしこともありて、万般の了解を促し得たることもありたり。
山県は「内務の連中狼狽して、御内定御変更なきことならびに宮内大臣の辞職を発表したること」を非難し、甚だしきは「内務大臣床次竹二郎は薩人なれば」とて、あたかも長州閥を拝するがゆえに発表をなしたるようにまで言うにつき、
「警保局長らを叱責したることもあれども、内務方面の困難は色盲問題を未決のまま久しく置かるることにて、政府如何方針を取るを可とするや迷わざるを得ざりしはこの最大原因なりし」と言いたれば、山県もこれは了解せしがごとくなりき。
また山県は「2月11日下岡忠治来訪、『色盲問題は御内定御変更なしと本日の新聞に見え落着せしがごとしといえども、この変更論は不都合なり』と言うにつき、自分は『否らず。我々は如何にするも皇統に不純分の入るを賛成することあたわず』とて大いにその誤れることを言って痛く排斥したり」と言う。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年04月04日
※倉富&宮内官僚南部光臣の会話

倉富◆前々宮内大臣波多野敬直を内大臣に推薦する事は多少形跡ある様に思わる。
もしこれありとすれば、牧野が良子女王の結婚を遂行するにつきその援助を藉る為これを推薦するものならんと思わる。
貞明皇后の思召が幾分にても成婚を好ませられざる様の事ありとすれば、牧野宮相は非常なる窮境に陥るべし。

南部◆もし左様な事情ありとすれば、良子女王はいわゆる押しかけ嫁入となる訳にて苦心多かるべく、万一にも遺伝でもありたれば久邇宮邦彦王は何となさるべきや。

1921年04月08日
※倉富&警視総監岡喜七郎の会話

岡◆先日話したる事は都合良く解決せり。
武田健三と来原の関係なり。

倉富◆武田より来原に金を遣したるならん。

岡◆しかり。
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『原敬日記』総理大臣

1921年4月9日
宮内大臣牧野伸顕来訪。
山県はじめ元老ら辞表始末につき相談あり。
予はかつて主張せし通り「天皇陛下の御立場よりしても御聴許がたくあいなり、また色盲云々は決して不忠の考えより出たるものにあらず。ゆえに却下ありて然るべし」と言いたるに、
牧野は「内大臣〔松方正義〕枢密院議長〔山県有朋〕の職は老衰と言うにあればこれは可ならん。元老としてはあくまでも皇室のために尽さざるべからず。これは別物なり」と言うにつき、
予は「元老自身さように解するや否やはともかく、内大臣も枢密院議長も表面はいずれにても今回の事件につき引責ということは明瞭のことゆえ、その引責を認めらるることは不可能なるべく、ことに枢密院議長としては今回のことに何ら関係なく、むしろ元老として干渉せりという方なれば、その一部を許さるるということは条理立たず」とて反覆却下あいなること適当なりと主張せしも、牧野宮相決するに至らず。
これは例の牧野の不決断のためか、または他に理由あるか判然せざれども、牧野はいかにも躊躇決せず、牧野の談中「再び山県らより色盲論起きるかも知れず」と心配する様子につき、
予は「その辺は憶測の限りにあらざれども、宮内省より持ち出さざれば起こりそうにもなく、また再発せしならばその時のことなり」と言いたるに、牧野はこれを恐るるようにも見えたり。
また「平田・清浦に相談せしも、両人ともに元老たることはそのままにて、内大臣・枢密院議長は辞せらるるが可ならんと言いたり」と言うも、予は彼らの言は公明ならずと思えり。
また牧野「宮内省中にある色盲論者 井上勝之助・倉富勇三郎等が辞表を出したるも、みな悪意なき者につきこれを却下し、そのことは久邇宮邦彦王にも親しく言上せしに、久邇宮邦彦王は『それはその通り取り計いくれずしては困る』と言いたり」と言うにつき、
予は「その通りの意義をもって元老にも適用すべきにあらずや」と注意せり。
「また責を引いて枢密院議長を辞するようのことありて元老としては依然これまで通りなりということは事実に行わるべき問題にあらず。ゆえに内大臣も枢密院議長もこの際はその辞表を却下ありて、他日改めて老衰云々の申し立てならばその時はその時の詮議に譲るべし。いずれにしても天皇陛下は御病気なり、皇太子殿下は御不在なり。しかして皇太子殿下御帰朝後は摂政問題も起らんとする今日において、さようなことはでき得べきにあらず」と繰り返し注意したり。
遂に牧野は決するところなく、近日西園寺公望上京と言うにつき、その意見も聞くべしとて去れり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年04月11日

※倉富&宮内官僚仙石政敬の会話

仙石◆岡を訪い、武田より金を来原に渡し、来原も志士をもって自ら任じおる者につき、後日さらに恐喝する様の事はなからんと思いおるが、来原の下には壮士体の者もいるにつき確かに安心という見込ある訳にあらず。

倉富◆武田が渡したる金額は分からざるや。

仙石◆5千円なり。

倉富◆その金の出所は分からざるや。

仙石◆その事については自分の方より岡らに話しおいたり。
牧野某という者が久邇宮家と懇意なりしため、この金も牧野某が出しおる様なり。
しかしその後いずこから牧野某に償いあるや否なは分からずと言い置いたり。

※宮内次官石原健三の発言

宮内大臣中村雄次郎が辞職する時、中村は皇后陛下に直接には拝謁しおらざるようなり。
皇后宮大夫大森鍾一を経て「中村は非力にて御内約を解くことあたわざる」旨を言上したるように聞きおれり。

1921年04月12日
※東久邇宮事務官金井四郎の発言

この件に関し島津より多額の金を出したるは事実なる様なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年04月14日
※宮内官僚小原駩吉の発言

先日自分は牧野宮相に「皇太子の御成婚はあまり延引すればまた妨害が起るやも計られざるゆえ、相当の時期にこれを挙行せらるる方よろしかるべく、東宮大夫浜尾新は御成婚を急がざる意見にてこれを罷むる方よろしかるべし」と言いたるも、
牧野宮相は「浜尾は熟知の人なるが、なかなか執拗な人にて困る」と言いたるのみ。
宮内次官関屋貞三郎が浜尾にその意見を問い来るべしと言うにつき、浜尾を訪いて話したるに、
浜尾は「御結婚は東宮御所の建築できたる上にあらざれば御挙行できがたし。高輪の仮殿を修繕して御結婚をなさる様の事はもちろんできがたし。また御結婚の遅くなるは生理上にもよろしき事なり」と言いたる由にて、まるで話にならずと言いおりたり。
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『原敬日記』総理大臣

1921年4月15日
山県有朋の秘書入江貫一来訪。
山県よりの伝言として「過日牧野宮相に自分の進退につき尋ねたるに、何ら考慮しおらずということにて甚だ心もとなき次第なり。如何と言うことなりし」と言うにつき、
予は「牧野宮相と内談したるも、牧野決心に至らざりしがゆえにさような返答をせしならん。その意味申し送らえたし」と命じたり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年04月15日
※倉富&宮内官僚仙石政敬の会話

仙石◆昨日久邇宮家に行き、武田健三の事も聞き来りたり。
ただいまは京都に赴きおるが2~3日内には帰り来りやはり久邇宮の官舎にいる模様にて、急に邸外に移らしむる模様なし。
自分は職員に「なるべく早く邸外に移らしむる必要あること、たとえ邦彦王の御意あるとも当分再び採用する様の事は不可なること等」を話したり。

倉富◆牧野某より出したる金を償いあるや否やは分からざるや。

仙石◆それはもちろん償いあるべし。
あるいは初めより久邇宮より出だし、牧野某が出したりと言うは久邇宮事務官栗田直八郎らの策なるかとも思わるる。

1921年04月18日
※倉富&侍従武官村木雅美の発言

村木◆先日師団長会議ありたるが、師団長の多数は良子女王の事はやはり薩長の関係なりとのみ思いおりたるが如し。
何とか真相を明らかにする工夫はなきものなるべきや。
倉富◆その事は言いたき所なれどもこれを言う訳にもいかず。
実に苦しき所なり。
御内約が解除せられざる事となりたる以上はこれを説明する事はできざるなり。
しかるに近日は山県有朋の心情を了解する人も出て来る様なり。

村木◆世間には公にできざるまでも、宮内省には事実を明らかにするだけの書類でも残し置く事はできざるや。

倉富◆その事は書類をもって明らかにする事となりおれり。
前宮内大臣中村雄次郎が現宮内大臣牧野伸顕に事務の引継を為す時、その始末を書して示しこれを保存する事となりおる様なり。
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『原敬日記』総理大臣

1921年4月19日
牧野宮相と会見。
先だって牧野が山県より辞任につき御処置督促の内話ありと言うにつき、
予は山県にも松方にも過日内話通り御沙汰を賜り辞表却下然るべきむね申談したるに、
牧野はしばらく待ちくれよと言うにつき、
予はもとより急ぐことにもあらざれば追って相談して差し支えなしと申し置きたり。
ここに西園寺より返事あり、元老等の進退問題については予と同感なる旨ならびにこのことは国事の重大なるものにつき、政府の意見に聴従すべきものなることを申し来れり。

1921年4月24日
陸軍大臣田中義一来訪。
「先日大隈重信参内の節『山県の今日の境遇に同情すとて山県の主張の不当ならざること、およびその辞職ならびに栄典を辞することは御採納あるべき筋にあらざること』を言上したり。
(彼ら山県と接近を図り、成らざりしによりこの小策を弄したりと見ゆ)
このことは最初憲政会の策士ら大隈に説きたるも承諾せざりしにより、大隈細君の最も信頼する頼母木桂吉をして細君に説かしめ、細君より大隈に勧めてさような小策を弄せるなり」と言う。
これを聞きたるにより田中は山県に注入しおくこと必要なりと思考し、昨日山県を訪問せしに、ちょうど入れ違いに枢密院顧問官一木喜徳郎帰りたるが、山県に内話せしに、山県は「先刻一木よりそのことを聞きたり。しかして大隈参内後の話には『果たして陛下は御諒解ありしや否やは疑わし』と言いたる」由なり。

1921年4月29日
平田東助来訪。
「なぜに色盲云々にて御内定取消や否やを決せず荏苒日を送り、ついに国論の沸騰を招くに至りたるや」とてこれを非難し、暗に平田の処置を咎めたるに、平田はあたかも他人のことを言うようなる態度にて、
「然り。その決定遅延は遺憾なりし」とか「宮内大臣中村雄次郎は辞するにも及ばざりしこと」など言いたるは例の平田流儀とも思わる。
平田は宮中御用掛にて今は山県の目代とも言うべき有り様なるにより、予は天皇陛下の御病気につき憂慮の次第を物語り、
「近年御親署の数非常の多数に上り如何にも恐懼に堪えざる次第なれば、なんとか工夫ありたし。先般侍従長正親町実正にも内話せしが、かくのごときことは宮中よりの発議にあらざれば不可なり」と注意したるに平田も極めて同感を表せり。

1921年5月4日
宮内大臣牧野伸顕と会見。
山県有朋・松方正義の辞表却下のことにつき内談せしに、牧野は過日の話し合い通り西園寺公望に相談したしと言えり。
これも長引くことは得策ならざれども致し方なし。
予は過日陸軍大臣田中義一より聞き込みたる、大隈重信が山県の進退につき天皇陛下に内奏したるを物語りたるに、牧野はまったく承知しおらざりしなり。

1921年5月7日
西園寺公望を訪問。
山県ら引責辞任の件につき牧野と内談の次第を物語たるに、西園寺は極めて同感にて
「すでに先頃松方・山県と会見せし時も、山県はしきりに責任を云々するにより、何の責任かと推問せしぐらいにて、引責など言うべきことにあらず。また病気と称したりしとて真の病気にもあらず。しかしてかくのごとき問題は政事に深く関係を有するにつき、政府当局者の意向を意として取り計らざるを得ざることなり」と言うにつき、
「牧野他意あるや否やは知らざれども必ず相談に来るべく、その相談の上にて決する様子なり。このことは長引く時は物議を生ずる恐れあり」と言いたるに、西園寺は明朝牧野来訪のはずなりと言えり。
また「新宮内大臣選任については山県も自分も松方に委任せしが、牧野任命には山県にも自分にも西園寺八郎をもって通告し来るに過ぎず」と言えり。
さらに「皇室のことにつき元老ら手を引き、しかして摂政論にても起らば実に容易ならざる政局の混乱を来すべきにつき、元老ら君側を去ることは絶対に不可なり」という点については、西園寺極めて同感なり。

1921年5月10日
西園寺公望を訪問。
牧野訪問せし由にて、山県・松方の進退問題につき、西園寺の意見を聞くにつき、かねて予と内談の通り「辞職の却下あいなるべきこと、およびなるべく早く決定然るべし」と言いたるも、牧野これを承諾したり。
ただし牧野は山県・松方の辞表聴許あいなりたき内意なりしがごとし。
さりながら西園寺の意見に対しては「その通り決行すべき」むね明言せりと言えり。

1921年5月11日
牧野宮相と会見。
山県・松方の進退につき西園寺の意見も聞きたりとて「政府においての都合もあるべきことにつき、両元老の辞表は却下のことに御沙汰あいなることに致したし」と言う。
牧野は色盲問題の再燃を恐れ「山県は依然その主張をなしおると言うにつき、再びこの問題を起こして物議を招きては困ることにつき、西園寺にも相談せしに、西園寺は依然として『皇室にかくのごとき御系統を害することは臣民として賛意を表し難し』と言うにありて当惑なり」と言う。
予は「その問題再燃せばなんとか処する方法もあらん。これはその時の問題としてしばらく成り行きを見て可ならん」と言い置きたり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年05月19日
※倉富&宮内官僚仙石政敬の会話

倉富◆武田健三は相変わらず久邇宮家に出入しおる趣なり。

仙石◆この事につき、久邇宮邦彦王の考えは誠に浅はかなり。

倉富◆邦彦王よりこの件につき尽力したる者に紋付カフスを贈られたりとの事なるが、事実ならば面白からざる事なり。

仙石◆まさか左様の事はなかるべし。
もし彼らの労を慰められたるものとすれば、かの時の運動も邦彦王の指図にて出てたる事となるゆえ不都合なり。

倉富◆前後の事情より察すれば必無とも思われざる様なり。

仙石◆誰に贈られたりとの事なりや。

倉富◆城南荘の連中なりとの事なり。

仙石◆昨年天皇皇后葉山避寒中、良子女王をして貞明皇后の御機嫌を伺わしめられんとしたる事あり。
皇后宮大夫を経て御都合を伺いたるところ、御都合により今しばらく見合せられたしとの答なり。
その後さらに自分より伺いたるところなお同様の答なり。
その後さらに大夫に「如何なる御都合なるべきや」を問いたるところ、大夫は「時期のよろしき時御報せすべし。それまでは御待ちなされたし」とのことなりしなり。

倉富◆皇后には先頃物議を醸したる原因の他に。なお他にも御考えあるにはあらざるやと思う事あり。

仙石◆しかり。
何か聞きたることあるべし。

倉富◆予が前宮内大臣中村雄次郎に対し「皇后の思召は如何」と問いたる時、中村は「何も伺いたる事なし」と言い、予より「しからば君の推測は如何」と言いたるに、「格別御好みにあらせられざる様に拝察す。『気難しき舅にては困るならん』と言う様なる御口気なりし」ことを漏らしたる事あり。

仙石◆自分も同様の事を聞きたる事あり。
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『原敬日記』総理大臣

1921年5月20日
牧野宮相と内談。
牧野は色盲論の再燃を恐れ「なんとか御沙汰にても取り計うの他なかるべし」との過日の内話を繰り返すにつき、
予は「御成婚は後にて、摂政問題は先なり。ゆえにすでに摂政とならるる以上は皇太子殿下の思召も主として考慮せざるを得ず、その思召に従うは当然のことなり」と言いたるに、
牧野もそれならば解決に好都合なりと言えり。
牧野は御内定通り御遂行の論らしく、各元老等は不適格論を棄てざるに当惑しおるもののごとし。
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『牧野伸顕日記』※当時は宮内大臣

1921年5月9日

※元宮内大臣波多野敬直子爵の発言

葉山より御帰りの後、皇后様へ拝謁の時御婚儀の事に談及し、久邇宮邦彦王より直書を御手許に進呈なされたる事につき御話あり。
「あれは大夫をもって御返しすることに取り計らいたるが、ああいう風にては他日皇太子様が御困りなさる事もあるべし。久邇宮様が御自分が勝ったという御態度ではよろしからず、皇太子様が〔ヨーロッパへ〕御立前に御告別のため御対顔なされたいと言うこともあった。いまだ表向きの発表・御約束にもなっておらぬのに穏やかでないと思う。いまだ真の御内約であるから御取消になれぬわけでもない云々」と仰せられたにつき、
自分は「御婚儀の件は前宮内大臣中村雄次郎男爵より御変更あらせられずと発表したるにつき、勅許もあっての後のことと存ずるがゆえに、いまさら御変更の余地はあるまいと思います」と申し上げたるに、
皇后様は「御勅許のありたる次第ではない。中村宮内大臣から電話で葉山へ報告の形で中村が発表したるを通知してきたまでの事である」と御話あり。
自分は「御勅許はなかったとしても、中村がかの時御変更あらせられずと発表した以上、今日これを御止めになるようの事はよろしからず。そうなれば今度は国民は陛下に直接その御処理の不当を訴うるようになり、はなはだ憂慮すべきことになります。とにかく御婚儀のことについては、いずれ宮内大臣牧野伸顕より相当の時機に申出致すべきにつき、それまでは何も御話のない方がよろしかるべし」と申し上げたるところ、
皇后様は「さようか」と仰せられたる由。

西園寺公望と会談。
御婚儀については色盲の義についてはどれほどの害があるか、それほど恐るべきものでないかも知れぬ。
仮に多少害があるとしても、もし害がありとするも、御中止になる時は、その結果非常の動揺を来し、皇室に対して道徳問題等のため、より以上の悪影響ありとすれば、やむを得ず多少の欠点あるも御断行なさるよう御親裁を仰ぐ他なかるべしと西園寺公の談あり。

1921年5月14日

※伏見宮貞愛親王は娘禎子女王が大正天皇と婚約内定したが、結核の疑いありとして伏見宮から辞退したことがある

伏見宮貞愛親王伺候。
御婚儀のことにつき、伏見宮殿下は「父宮〔久邇宮邦彦王〕の御辞退は当然のことなり。神様の御血統に不純分子の混入ははなはだよろしからず云々」の趣旨にて御話あり。
小生は「今春の騒ぎの後、宮内大臣が御変更あらせられずとの旨を発表し、自ら責を引きたる上はいまさら再び同様の事を繰り返すことはより以上の害を引き起こすことに必然成行くべきにつき、さらに御詮議は考え物なるべし」との意味を申し上げたるに、
殿下は「何分にもかの事は洩れたるため意外の粉状を呈し困ったものなり」と仰せらる。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年05月26日
※倉富&宮内官僚仙石政敬の会話

仙石◆良子女王の事は今後円満に進行するや否や懸念なきあたわず。
東伏見宮事務官より三笠宮別当田内三吉に話したりとかいう趣意は、「久邇宮邦彦王より辞退せられ、天皇より辞退に及ばずとの思召でも出ずる様にならざれば、この事の結末着き難し」と言いたる由なり。
しかし自分はこの事は容易にできる事にあらず。
邦彦王より辞退なされ事態に及ばずとの思召が確かなれば邦彦王の御体面は立派なる事になれども、その思召が確かならざる時に辞退せられ御聴許にでもなる様の事あれば意外の事となるべし。

倉富◆近頃に至り新聞に前宮内大臣中村雄次郎の辞職の事情・山縣有朋の心事等をそろそろ掲載する事になりおる様なり。

仙石◆新宮内大臣牧野伸顕はこの事につき大奥の事情困難なる事は承知しおるべきや。

倉富◆予の見るところにては案外楽観しおる様なり。
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『原敬日記』総理大臣

1921年5月31日
天皇陛下御病気の御近況につき、山県とともに嘆息談をなし、皇太子殿下御帰朝の上は速やかに摂政の御必要あるべきことを物語たり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年05月31日

※東久邇宮事務官金井四郎の発言

フランスの稔彦王より書状にて「良子女王の事は元老も宮内当局もこれを止むる事に決心しおりながら、民衆運動のため議を変更したる事情わからざる」旨申し越れたり。

※倉富の記述

稔彦王より金井に送られたる書状を一覧せり。
「良子女王の事については、これまで皇室の事につき民衆運動を為したる事例なかりしに、この節の事はその運動のため前議を翻するに到りたるは如何なる事情なるや解し難く、邦彦王は良子女王の御内定ありたる以来急に御態度が変りその考えも以前と異なり、自分らに対しても親密ならざる様に考えられる。御内定変更の事は朝香宮鳩彦王の他すべて変更に同意なりし由。邦彦王が邦彦王ならびに良子女王を犠牲として辞退せられたらば、皇室はいよいよ安泰にしてこの事に対する民衆運動も起らずして済たるべく、邦彦王が伏見宮貞愛親王の意見に聴従せられざりしは実に遺憾千万なり」

1921年06月03日

※倉富&宮内官僚仙石政敬&宮内官僚南部光臣

倉富◆前々宮内大臣波多野敬直は貞明皇后に信ぜられおるも、良子女王の事については皇后の思召と波多野の考えとは異なりおるならん。
波多野は御内定の通り遂行する事を望むべく、皇后はしからざるべし。

南部◆大奥にてはなお確定との考えにあらざる模様なり。
久邇宮邦彦王は良子女王を伴いて参内する事を望みおられ催促に類する事ありたる模様なるも、御内儀よりは沙汰あるまで御待ちなさるる様との事にて、今にその沙汰なき趣なり。

仙石◆牧野宮相より「久邇宮事務官木村英俊の事については自分も何とかする必要ありと思いおりたるところ、杉浦重剛の門人が来り木村を誹謗し、『彼の如き人を久邇宮家に付けおきてはよろしからざるゆえ、罷免すべし』との趣意を述べたり。これは久邇宮家よりの運動にて来りたるものなるべし。この如き運動ある際に木村を転任せしめては、運動の為に転任せしめたる様になるゆえ、木村は苦しかるべきも今しばらく辛抱せしむる様に致したし」との事を話され、至極もっともなる事ゆえこれに同意せり。

※倉富&宮内官僚仙石政敬&久邇宮事務官木村英俊

仙石◆牧野宮相は良子女王の事は楽観しおる模様なるも、三笠宮別当田内三吉の話にては大奥にてはなお確定したるものとなりおらざる様なり。
よりて自分は「田内は毎々大奥に行く機会あるゆえ、かく感じおるとて牧野宮相に話しおいたらば参考になるべし」と言い、田内も「自分の考えを話しおくべし」と言いおりたり。

木村◆田内三吉が良子女王の事につき非常に懸念しおり、このままにては済み難かるべしと考えおる趣を聞きたる。
田内は「大奥にてはこのままにて確定しおるものとはなりおらざる様なり。ゆえに久邇宮邦彦王より御辞退なされ天皇よりそれには及ばずとの御沙汰でもある様にならざれば済み難しと思う」と言う。

倉富◆邦彦王より辞退せられ、天皇よりそれに及ばずとの御沙汰ある事ならば、邦彦王は喜んで辞退せらるべし。
昨年この問題の起りたる頃にも久邇宮家の為に運動する人はこの意見を抱き勧めたる人もありたり。
しかれどもそれには及ばずとの御沙汰ある事を予期する事できる場合にあらざれば邦彦王も辞退せられざるゆえなかなか難事なり。

木村◆昨年もその話ありたるも、邦彦王にて承知せられざりしとの事なり。
それは杉浦重剛が御止め申し上げたるため辞退せられざる事となりたりとの事なり。

倉富◆その頃は久邇宮は天皇の思召如何に関わらず辞退せらるる都合になりおりたるところ、杉浦が「元来この事は天皇より御沙汰ありたるものにつき、邦彦王より進んで辞退せらるべきものにあらず」とて止めたりとの事なり。
その後に至りても邦彦王にては御上より辞退に及ばずとの御沙汰ある事が予期せらるるならばもちろん辞退せらるるべし。
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『原敬日記』総理大臣

1921年6月6日
内閣の前途につき「予は皇太子殿下御帰朝までは万難を排して責任上留まるべし。また畏れ多きことながら天皇陛下の御容態とうてい御全快なし。ゆえに御帰朝後は摂政となられざるを得ざることはほとんど疑うの余地なし。かくのごとき決定に至るまでいかなることありとも、国家のため皇室のため政変を起こすことを得ず。しかして摂政となられたる時は時機を見て一同辞職して政局面を一新せらるることを奏上すべし」との趣旨を説示したり。

1921年6月7日
山県有朋を訪問。
「久邇宮に参上して恩命を拝したることを述べ『先だって流布の書類中には久邇宮邦彦王ならでは知らざることあり』など言って多少諷示せり」と言えり。
また「伏見宮に参上の際も、伏見宮貞愛親王は『過日のことは遺憾なりし』との仰せもあり、再びこの事情を繰り返し置きたり」と言えり。
また山県は「宮内大臣牧野伸顕は薩人に担がるることなきや」と言うにつき、
予は「牧野は担ぐ者ありたりとて、容易に実現せしむるほど敏捷な人にあらずや」と言って共々一笑したり。
その他いろいろ薩人の行動を心配しおるもののごとし。

1921年6月15日
牧野宮相に会見。
山県が久邇宮に拝謁したることにつき、久邇宮邦彦王は「山県はその主張は抂ざりしも、多少先般よりは緩和の様子ありし」と言われし由。
如何のものにや疑わし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年06月21日

※山之内一次の発言

牧野宮相は新宮内次官関屋貞三郎を以前から知っており、宮内次官に推薦したのは牧野宮相の弟大久保利武である。

※倉富&宮内官僚小原駩吉の会話

倉富◆ある方面にては牧野宮相は今年中に皇太子の御結婚を済ますつもりに致しおると言いおれり。
あまり急なる様なり。
小原◆今年中にはできざるべし。
先頃自分より牧野に対し「御結婚はいつ頃に為すつもりなりや。前々大臣波多野は何となく来年春頃に為す様に思わるる語気を漏らしたる事あり。前大臣中村は初めより解約の詮議ありし時なりしゆえ一度も御結婚の時期につき話したる事なし。東宮大夫浜尾新は非常なる晩婚の主張者なり。自分の考えにてはなるべく来年春頃には遂行せらるる方人心を安んずるため利益なるべく、もしそのつもりならば今より委員でも設けて準備に取り掛るにあらざれば間に合ざるべし。もし来年春に遂行する事できざるならば、婚期を定めて公にする必要あるべし」と言いたるに、
牧野宮相は「ただいますぐに着手する運びに到らず」と言い、
宮内次官関屋貞三郎は「一応浜尾の考えを聞き見るべし」と言い、その後浜尾に会いたるところ、「浜尾は全然反対の意見にて取り付く術もなく。言質を取らるる恐れあるゆえ浜尾の話のみを聞き来りたり」と言いおりたり。
また皇后宮大夫大森鍾一の考えを問いたるところ、「到底来年春などに遂行せらるる事とは思われず」と言いたり。
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『牧野伸顕日記』※当時は宮内大臣

1921年7月5日
山県有朋公爵訪問。
山県公爵は「御婚儀の事については自分の意見は変わらざるも、本件については喪やは何ら容碌せざるつもりなり」と。
今後の態度を明らかにせられたるものと了解せり。
自分が御婚儀問題につき忠節を尽くしたき考えにて一心になしたる事も種々誤解され、陰謀とか陛下を押し込め奉るなどけしからぬことを言われたり。
この度のことは一層の大事なれば、いなかなる捏造説を伝うるも難計につき、最も細密の注意をもって当たること肝要なるべし云々。
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『原敬日記』総理大臣

1921年7月7日
山県有朋を訪問。
「実は内大臣松方正義も侍従長正親町実正も頼りにならず。もっぱら宮内大臣牧野伸顕の措置に待たざるべからず。然るに牧野は摂政云々に言及せず、いかが考えおるにやとすこぶる頼り少なき」ように言い、「君は親友の間柄につきそのへん注入の道もあらん」と言うにつき、
予は「牧野とは親しきも、牧野容易に予の言を聴く者にあらず。しかしこのことについては数回心配談を聞けり。ゆえに憂慮しおるに相違なし。ゆえに閣下の内意をまず聞きて牧野に相談せんと思いたる次第なり」と言えり。
山県は色盲問題に談及し「牧野が辞表を出したる宮内官らはみな誠意国家皇室を思うより出たることにつきこのまま辞表却下に取り計うべしと久邇宮邦彦王に言上、その承認を得たりと言うは如何にも不可解のことなり。なにも久邇宮邦彦王に言上の必要なかるべし」とて御内定変更問題を言うにつき、
与は「今日となりては天皇陛下の聖断と言うよりも、摂政ともなられなば先もって皇太子殿下の思召を承り、また皇后陛下の御沙汰等を承けて決定すること適当の処置ならずやと思う」と言いたるに、山県これには別に何事もいわざるも「当初枢密院に諮問あらばいずれに決するも適当の処置なりしに、そのこと無きは悔しきことなり」と言う。
予も同感を表し「遺憾の次第なり」と言いたり。

1921年7月10日
松本剛吉来訪。
「先般台湾総督田健治郎不在中 田健治郎の別荘に久邇宮御夫妻 良子女王同伴にて赴かれ、松本に政事上にもいろいろ奔走の由なればそれらを聞きたきにつき来訪せよとのことなりしが、御帰館後松本御礼に参上御玄関ににて帰りしに、久邇宮家からよくよく御使ありて賜物などもあり意外のことなりしが、田健治郎は後継内閣の首相たるべしとの新聞記事によりこのことありしものにて、すなわち良子女王のための運動なりしがごとし。またこの春色盲問題の騒がしきころ久邇宮家事務官(たぶん武田か)が田健治郎を訪問して色盲問題に関する種々の書類を差し出したるも、田健治郎は自分に関係なきこととして体よく挨拶し置きたることあり」と言えり。
良子女王が御内定通り東宮妃となると否とは、一に聖慮に待たざるを得ざることなるに、久邇宮邦彦王おいて各方面に運動らしきことをなすは如何にも苦々しきことなり。
また「久邇宮邦彦王より良子女王を葉山にて拝謁させんことを願いたるも、厳寒中なればとて皇后陛下御許なく、今日に至るも御召なきにより、久邇宮邦彦王にては非常に神経を痛めおる由なり」と言えり。
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『牧野伸顕日記』※当時は宮内大臣

1921年7月20日
宗秩寮千石政敬子爵、皇后宮日光御滞在中、久邇宮良子女王陛下御機嫌伺に伺候したしとの御希望出るにおいては、いかが心得るべきかとのことにこれあり。
結局今春のいきががりは皇后様よりなんら御沙汰あるべしとのことなるにつき、その意味をもって一応は内諭しおくべし。
それ以上のことは、大臣において取り計らうべしと内示しおき。
もっともこの問題はいずれ皇太子殿下御帰朝も迫りおるにつき、御対面の問題も起こるべきにつき、
とくと考慮を加えあらかじめ用意を要すべし。
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『原敬日記』総理大臣

1921年7月31日
山県有朋を訪問。
予は「色盲問題はなんら決定したることあるにあらず。ゆえにこれが解決は他日必要ならんが、皇太子殿下摂政とならるるものとせばその上にて裁断を仰ぐべく、また皇后陛下の思召を承りて解決すること至当の順序なりと思い、そのことは西園寺にも牧野にも内話せり」と言いたるに、
山県は「皇后陛下の思召は如何」と言うにつき、
予は「判然承知せざれども、御賛成にはこれなきようなりと拝察す」と言いたるに、
山県も「然らんと思う。皇太子殿下御近眼なればあれこれ左様に思召さるるならん」と言えり。

1921年8月3日
牧野宮相と会見。
「去1919年久邇宮良子女王を皇太子妃に御内定の時、はじめに内閣に通知せり」とて当時の書類を示せり。
予記憶せず。
同席にありたる外務大臣内田康哉も記憶せず。
ただし「宮内省より通知せりと言うことならば取り調ぶべし。ただしこのまま御遂行と否とは別問題なり」と言い置きたり。
また余計のことながら「過日台湾総督田健治郎留守中 田健治郎の別荘に久邇宮御夫妻と良子女王同伴にて赴かれたり。人の噂に田内閣の評判あるにより運動のためなりと言えり」と言いたるに、
牧野は「それは疑わしき説なり」と言うにつき、
予は強いて争わず「久邇宮邦彦王の運動らしき評判あるに、この上にも注意ありたきものなり」と言い置きたるが、牧野は久邇宮家を弁護しおれり。
例の通り薩長の関係にてもあらんか。
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『牧野伸顕日記』※当時は宮内大臣

1921年8月6日
※久邇宮事務官木村英俊の発言

久邇宮両殿下・良子女王殿下、日光御機嫌伺の件についてはとくと宮内大臣心配の趣も申し上げたるに御了解あり。
両殿下は月末に日光へ伺候、良子女王陛下は御沙汰を待って伺候すべしとの御諚ありたる由。
ついては皇太子殿下御帰朝後といえども、久邇宮家より角立ちたる御申出等はよろずなかるべしと。
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『原敬日記』総理大臣

1921年8月31日
西園寺公望を訪問。
「色盲云々は今日に至るも決定したるものにあらざれば、これは摂政となられたる上にて聖断を仰ぐ他なかるべく牧野に勧告したること」を内話したるに、
西園寺は「色盲問題は医師の診断書および前宮内大臣中村雄次郎より皇后陛下に言上したりと言うにつき、これらの始末は如何にするや。牧野は相当考慮なかるべからざることと思う」と言えり。
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『牧野伸顕日記』※当時は宮内大臣

1921年9月6日
※皇太子〔昭和天皇〕の発言

久邇宮〔邦彦王〕とは自分意見の違う事あり。
自分の妻の父君に渉せらるるにつき、他日意見の合わぬ事もありて困る場合を生ずべし。
しかしそういう時は公使の区別を立て処置すれば差支なかるべし。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年09月14日
※倉富&宮内官僚小原駩吉の会話

小原◆久邇宮家は財政支えべからざる模様なるが、職員などは良子女王の御結婚をもって唯一の救済策と考え何事を置きても達成せしめんと考えおる様なり。

倉富◆久邇宮邦彦王はなるべく良子女王と皇太子を接近せしめんとなされおる様なるが、貞明皇后の思召は如何あるべきや。
一方が迫ればますます面白く思召されざるは普通なり。
久邇宮家の事を処置するには先決問題として大奥の方を確かむる必要あるべし。

小原◆しかり。
この事はなるべく急にする必要あるが、その運びに至らず。
今日にても既に遅れおると思う。

倉富◆邦彦王も財政の乏しき事などは頓着するに及ばずとの意を明言せらるる由。
牧野某より武田が5千円を借りて来原に渡し落着したる由なるが、この5千円も牧野某が負担するものにはあらざるべく、久邇宮家より支出せられたるか今後支出せらるるものならん。

1921年10月11日
※倉富&東久邇宮事務官金井四郎の会話

金井◆先日良子女王の事につき反対運動が始まりおらざるやと言いたるは、中山孝麿の未亡人美千代が元侍医鈴木愛之助を訪い良子女王の近状を問いたるところ、鈴木は「女王の参内は延ばされたるままにて今日までも参内なきゆえ、山県有朋などがさらに反対運動を為しおるにはあらざるべきや」と言いたりとの事なり。

倉富◆今日山県さらに反対運動を為すとは思われず。

1921年10月20日
※宮内官僚南部光臣の発言

牧野宮相に「皇族の婚姻は勅許を受けざるべからず。ゆえに摂政を置かるる前に勅許を受け置かるる方よろしかるべし」と進言し、関屋次官も同意見なり。
牧野宮相は「御結婚についても困難問題あり。摂政問題にさらに別の困難問題を加うるは便ならず」
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『牧野伸顕日記』※当時は宮内大臣

1921年11月2日
清浦奎吾「皇太子妃の冊立は摂政前に決定の方よろしかるべく」
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年11月24日
午前宮内次官関屋貞三郎より「〔皇太子を大正天皇の摂政とする事について〕皇族会議を開かるる時臣下の中より天皇陛下の御平癒を祈り奉る旨、陳述する必要あるべき趣平沼騏一郎より申し出たるにつき、内大臣松方正義がこれを述ぶべしとの事なり。よりて松方の演述すべき案文を作りくれよ」と言う。
予、これを諾し、すぐにその案文を作りこれを関屋に交し、関屋より松方に交し、松方も異存なきゆえ、松方がその案文の通り演述する事の一項を加え、皇族会議の議事次第書を改作し、かつ松方の演述すべき案文を浄写して、これを松方に交さしむ。
午後9時ごろ宮内官僚酒巻芳男よりの電話にて、「伏見宮博恭王・久邇宮邦彦王・朝香宮鳩彦王ら異議を唱え、『松方が意見を述ぶるならば、会議の初めに述ぶるならばともかく、会議の終らんとする時述ぶれば松方の意見にて事件が決定する様のきらいあり。この如き事にては松方を皇族に準じて待遇するものなりとの説も出てたる趣にて、その旨を宮内大臣に伝うべし』と言われたる」由にて、予、実に意外の事なる旨を告ぐ。

1921年11月25日
牧野宮相は今朝松方正義を訪い、松方が意見を述ぶる事は皇族に反対あるにつき、これを止むる事を相談し、松方もこれを諾したる由なり。
牧野は「皇族の心理は常識にては判断し難し」と言えり。
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◆1920年春
陸軍軍医草間要が学習院生徒の身体検査で久邇宮兄朝融王と邦英王の色盲を発見、さらに母方の叔父島津忠重にも色盲があることがわかり、生母である側室山崎寿満子が色盲保因者であるとわかる。
草間は軍医学校長に相談し、陸軍から宮内省にも伝えられた。
◆1920年05月
山縣有朋の主治医である予備役軍医総監平井政遒の耳に入り、平井が山縣へ報告する。
◆1920年06月20日
宮内大臣波多野敬直が辞任、中村雄次郎が就任
◆1920年10月11日
池辺棟三郎侍医頭・宮内庁御用掛保利真直・三浦謹之助が色覚異常遺伝の調査を命じられ意見書を提出する。
◆1920年11月12日
伏見宮貞愛親王が久邇宮家事務官木村英俊に意見書を提示する。
西園寺公望が久邇宮邦彦王に婚約の辞退を勧告する。
◆1920年11月18日
杉浦重剛が後閑菊野から色盲問題を知り、意見書を見る。
一方久邇宮家側は眼科医藤田秀太郎に依頼して意見書を作らせる。
「色覚異常は半数の男子にしか遺伝せず、色覚異常の遺伝子を持たない者と結婚し三代経てば色覚異常の遺伝は無くなる。島津忠義の側室寿満子の父が色覚異常であるとしてもその三代目にあたる良子女王は色覚異常の遺伝子を持たない」とする非科学的なものであった。
◆1920年11月28日
久邇宮邦彦王が貞明皇后に拝謁し書面で婚約遂行を直訴する。
貞明皇后は激怒して不遜であるとして書面を返却する。
◆1920年12月01日
杉浦は一瀬勇三郎・平石氏人・畑勇吉・島弘尾・川地三郎らと話し合い婚約遂行運動を開始する。
◆1920年12月03日
杉浦は東宮大夫浜尾新に婚約遂行を訴えるが断られる
◆1920年12月04日
杉浦が皇太子御学問所御用掛の辞表を提出。
◆1920年12月07日
総理大臣原敬が初めて色盲問題を知る。
◆1920年12月08日
久邇宮邦彦王が山県と松方正義に、皇后に提出した親書の写しと藤田秀太郎の意見書を送る。
◆1920年12月20日
宮内大臣中村雄次郎が文部省を通じて東大医学部長佐藤三吉・東大医学部教授河本重次郎・東大医学部教授三浦謹之助・東大医学部教授永井潜・東大理学部教授藤井健次郎の5博士に色覚異常遺伝に関する調査を依頼する。
◆1920年12月21日
5博士が報告書を提出、3博士の意見書と同じ内容だった。
◆1920年12月30日
杉浦は山縣の政敵である大隈重信相談、大隈は天皇皇后に働きかけると返事するが実際は何もしなかった。
◆1920年12月24日
大物右翼頭山満が杉浦から色盲問題を知る。


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『原敬日記』総理大臣

1920年6月15日
陸軍大臣田中義一来訪。
山県有朋より伝言なりとて「宮内大臣波多野敬直辞職し中村雄次郎を後任となすことにつき顛末を詳報するはずなり」と言う。
また「中村の宮内大臣に挙げられたるは彼にとりて突然のことにて一時驚きたり。中村に持ち行く前に皇后宮大夫大森鍾一に内談せしも辞退せり」とのことなり。
予はこれに対し「なんら異議なし。ただし中村は軍人ならざりしならばさらに妙なりし」と言い置けり。
波多野に対し山県の内々攻撃は久しきことにて、ことに皇族会議の際 不行届きのこともありたれども、要するに平田東助を宮中に入れたる時よりすでに企画せしことにて、ひっきょう宮中を全部山県系となすの考えに出たること言うまでもなきことなり。

1920年6月18日
山県有朋来訪。
「波多野なにぶんにも事務運ばず、また過日皇族会議におけるがごとき失態もたびたびありたるにより、松方正義・西園寺公望にも協議し賛同を得て、自分より辞職を勧告し更迭に決せり」とてその事情を内話す。
波多野を去りて中村に代えたる如くは、松方に代えるに平田東助をもってするの伏線にあらざるか。
世間にはその噂あり。

1920年6月19日
波多野、予の推察通り山県よりの勧告によりて辞表を差し出したるものなり。
山県上京し、自ら西園寺・松方を往訪相談し、それより波多野を呼び寄せ、辞職すべき旨を勧告せしものの由にて、波多野は老齢にもありとてすぐに同意して辞表を出したるなり。
枢密顧問官に任ずべき旨山県より同時に内談ありたる由にて、
「しかしこの任命は自分はお断りするつもりなり」と言えり。
予は「就任してもよろしきにあらずや」と言いたるに、波多野は山県の処置に不平ありしようにて、
「いまさら枢密院に入るも妙ならず」とて辞退せり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1920年6月20日〔波多野、宮内大臣辞職〕
※波多野敬直の発言

皇后陛下は涙を流して「辞職せざるを得ざりしや」と言われたり。
後には「汝の性質としてはやむを得ざりしならん」と言われたり。
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『原敬日記』総理大臣

1920年8月23日
山県伊三郎氏来訪。
「過日老父〔山県有朋〕に面会せしに、『脅迫状を送りたる者あり。自分に関することは意とするに足らざれども、文中聖上に関することあり。実に油断ならぬにつき原首相に告げよ』との伝言なりし」旨を言うにつき、
(その実これを警視庁に送りて取り調べさせるのみならず、新聞紙にも登載せられてかえって世間の好奇心を促進せり)
予は「すでに警視庁において捜査に着手中なり。いかにも憂慮すべきことなり」と返答したり。

1920年9月22日
西園寺公望訪問。

原◆下田歌子のにはいろいろの世評あるも聞くべきこと多かりし。突如として御信用の役人更迭するは上の御思召にも妙ならざることなどは至極もっとものことと聞き取りたり。
ここよりすれば宮内大臣波多野敬直のごとき山県有朋の思慮足らざるように思う。

西園寺◆同感なり。
大森鍾一が皇后宮大夫となりし時にも面倒起こりたることあり。
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杉浦重剛『申酉回瀾録』

1920年10月13日
杉浦先生辞し去らんとするに臨み、一言良子女王陛下のことに及びたるに、山県有朋公爵曰く「色盲のことがあるので困っている」と。
山県の話があまりに唐突なので、その意を解することができずに帰り来れり。
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杉浦重剛『致誠日誌』

1920年10月21日
久邇宮邸に参邸。
後閑菊野氏と談ずるところあり。

1920年10月22日
東宮侍従長入江為守を訪う。
種々談ずるところあり。

1920年10月24日
東宮大夫浜尾新を訪う。
大いに談ずるところあり。

1920年10月25日
小笠原長正氏と談ず。
頭山満氏を訪う。
談ずるところあり。

1920年10月26日
浜尾氏より電話あり。
東郷平八郎氏を訪う。
談ずるところあり。
小笠原氏と電話す。
浜尾氏に電話す。

1920年11月18日
久邇宮職員分部資吉と後閑氏と大いに談ずるところあり。

1920年11月20日
秘密書類を手写す。
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杉浦重剛『申酉回瀾録』

かかる意見書なにかあるべき。
取るに足らぬことなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1920年11月24日
※倉富&東久邇宮付事務官金井四郎の会話

金井◆良子女王の事につき難しき問題起りおるにあらずや。

倉富◆予、聞かず。

金井◆只今の問題は初めより分かりおる事にて今更云々すべき事にあらざるべし。

倉富◆かの問題は今更変更する事を得るものにあらずと思う。
ただし問題の出所が根強き模様なるゆえ困るべし。

金井◆陸軍部内にはよほど議論ある模様なり。
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杉浦重剛『致誠日誌』

1920年11月30日
杉山茂丸来訪。
外交上の問題に関し大いに自説を述べらる。
参考とすべし。

1920年12月3日
浜尾氏を訪う。
大いに談ずるところあり。
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『原敬日記』総理大臣

1920年12月7日
西園寺公望を訪問。
「困ったことには皇太子殿下の皇妃と内定ありし久邇宮良子女王は色盲の御欠点ありということにて、かくのごとき御病疾あるを皇紀となすことは不可能につき、御変更あいならざるを得ざることとなり、このことについてもいろいろ相談中なり」との物語りあり。

陸軍大臣田中義一の内話に、「山県に会見せしに、皇太子殿下御洋行のこと、久邇宮良子女王色盲病にあらせらるることなどを物語りたる」由なるも、西園寺に聞くところに同じ。

1920年12月8日
山県有朋を訪問。
久邇宮良子女王色盲云々に関しては西園寺に内聞せし通り、
「学理上争うべからざることにつき、京都にて西園寺より久邇宮邦彦王に御辞退ありて然るべしと御忠告をなしたるも、邦彦王にはお聞き入れなかりし由にて、先だって皇后陛下に拝謁ありし後、邦彦王が『後にて御内覧願う』と言って差し置かれたる書面は御内定通り御決行を願わるるものなりし趣なるが、このあいだ久邇宮別当栗田直八郎中将という者来訪、このことにつき『綸言汗の如し』とて御内定通り決行を望む談話につき、
自分は『不忠の臣たるは避けたしと今日まで心がけ来れり。天皇陛下は御承知なくて御内定ありしも、今日明瞭となりたる以上はこのまま御決行あいなるべき筋合いにあらざるべし』と拒絶したり」と言えり。
山県「とにかく近来なにもかも皇后陛下に申し上ぐるようになり、かくては将来意外の弊を生ぜずとも限らず、甚だ憂慮しおれり」と。

1920年12月11日
山県有朋を訪問。
「久邇宮良子女王色盲につき御内定の皇太子妃たること、久邇宮家より御辞退ありて然るべき旨当局より内申せしに、久邇宮邦彦王は御不同意にて自分に書面を送られ、『医師の言うところにては色盲にあらず色弱ということなれば差し支えなし。自分より御辞退は不可能なり。かつ〈綸言汗の如く〉国民は変更のことを聞けば如何なる感を起さんも知れずと』申し越されたるにより、昨日親しく参上、その不可を陳述せり。国民この病気あることを知らば邦彦王の御考えとは正反対に、このまま御遂行の方がかえって異論あらん」と言うにつき、
予は「その通りなり。これが知れたる以上にはこのまま御遂行不可能なることもちろんなり」
山県は「なにぶん万世一系の御血統にかくのごときことありては、我々はいかにしても賛成できぬことなり」と繰り返したり。

1920年12月14日
松方正義を訪問。
皇太子妃に内定しあり久邇宮良子女王色盲の御病気ありて先頃より問題となりおる件については、
松方は御取消の他なきことを断言したり。
予は「御病症ありとせば御取消は無論のことなり」と言い置けり。

1920年12月17日
文部大臣中橋徳五郎の内話に「中村宮相より久邇宮良子女王色盲云々につき診断の内交渉あり。さっそく佐藤医科大学長に内談し、5名の専門博士をして診断せしむることに取り計いたり」と言えり。

陸軍大臣田中義一の内話に「久邇宮俔子妃は島津公爵家より入られたる関係より、松方の意見も少々鈍りたる事情あり。また薩長軋轢の結果なりと言う者あるにつき、診断を待つこととなれる由なりと言えり。

1920年12月18日
男爵松岡均平急用ありとて、新橋より横浜まで同車。
久邇宮邦彦王とはドイツ留学中極めてお親しきこととて、「この度召されて例の色盲云々につき邦彦王より御内話につき、松岡の進言にて宮内省にとくと診断を望む旨取り計らわれたるに、いよいよ医師の診断ということになり、原首相より指令せらるると聞き山県の意を迎えるような者指名ありては困るとの御趣意につき、至急原首相と内談しくれよとお頼みあり、如何」というにつき、
それは間違いなりとて、予は中村宮相および中橋文相の内話の次第を告げたり。
なお邦彦王には非常の誤解ありて、さきごろ皇室令改正の際 邦彦王の御異論につき山県はこれを含み邦彦王に不利を計る者なりとの誤解ある由。
松岡の内話にて知れたるにより、予は「それは非常の誤解なり。余実際を知れるにつき、これを説示し、なお邦彦王の御挙動は穏当ならず、皇后陛下に意見書を出され、山県に書面を出され、御付武官栗田が山県に行き綸言汗のごとしとの論鋒にて論弁したるごときなおさら面白からず、予の考えによればいやしくも御病症の欠点ありとせば万世一系の皇統の上において絶対にこれを取消さざるを得ず。皇族としては一家の私事と混同せられこのことに思い至らずして何やら運動らしきことをなさるるは元老等不快をも醸し、また皇室の御為も考えられざるようにあいなることにつき、国民これを聞きても非難するならん。ゆえに宮中の御調査に一任せられて沈黙せらるること穏当と思う。ことにすでに医師の診断となりたる上は、その決定にお任せあること然るべし」と注意せしに、
松岡も同感にて「それがもっとも適当につき、その趣旨は申し上げ置きたり」と言えり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1920年12月23日〔倉富が宮内省宗秩寮総裁代理となった初日〕

※倉富&宮内官僚石原健三の会話

石原◆種々の難事あり。
宮内大臣中村雄次郎より「久邇宮の宮務監督に栗田直八郎を採用する事は宗秩寮の反対ある」旨を言上したところ、
「宗秩寮の意見と言うも総裁は引き籠り中にて宗秩寮の意見はなきはずなり」と言われたり。
良子女王の事も栗田より「果たして真の原因あらばやむを得ざる事なるも、単に医師の見込みというだけには不十分なる」旨の意見書を出しおれり。

倉富◆良子女王につき何か話ある事は聞きおれども、その詳細を聞かず。
不妊症とでもいうことなるや。

石原◆しからず。色盲の懸念なり。

倉富◆その事ならば医師の診断にてすぐに分かるべき事にはあらずや。

石原◆本人に色盲ありというにあらず。色盲の系統にてその子孫に遺伝する懸念ありということにて、通説には遺伝すること確実なり。

1920年12月24日
※宮内官僚石原健三の発言

色盲問題は医者より平井政遒〔陸軍軍医〕に告げ、平井より山県有朋に告げたる。
山県より伏見宮に告げ、伏見宮より久邇宮に告げ、久邇宮は九州行前書面に書したる。

1920年12月25日
宮内官僚石原健三、医案・久邇宮の内奏書・元老に送りたる書を示す。
予これを持ち帰りこれを閲す。

1920年12月27日

※倉富&宮内官僚石原健三の会話

石原◆松岡均平がドイツ留学中の懇意なるべし。
非常に親密なる趣にて、大臣より松岡をして久邇宮に説かしめ、最終の医案を示したる結果、ついに断念せられ自らこれを辞する事となりたる模様なり。
しかるに久邇宮より元来双方の合意なるにつき一方よりこれを解くは不合理なるべしとの話あり。
大臣は合意には相違なきも媒酌によりて決しおるゆえこれを解くにも媒酌によるが当然なるべく、媒酌は即ち大臣なるゆえ大臣が申込みあるが相当なるべしとの答えをなしたる趣にて、この事も了解を得たる模様なり。
よりて只今は先方の申し込みを待つ順序となりおる所なり。

倉富◆それは好都合なり。
それになりても善後は困難なるべきも、その困難は大体ほどの困難にあらず。
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『原敬日記』総理大臣

1920年12月28日
陸軍大臣田中義一の内話に「久邇宮良子女王色盲につき皇太子妃御内定変更あるべき件に関し、皇太子付の杉浦重剛その御変更に反対し、山県が他に考えあってこの議をなす者なりとして攻撃をなし、これを頭山満らに漏らし、頭山がその親近者に流布したる結果、彼ら一派山県攻撃を企つる由。杉山茂丸 山県に内話したるにより、そのことを予に内話し置けよと伝言なり」と言う。
予これに対し「さっそく警察側には注意をすべし。しかしすでに医科大学責任者の答申もあって診断明瞭したりという以上には、宮内省よりこれを杉浦らに内示するを可とす。まさか杉浦らもこれを知らばそれにても差し支えなしとの立論もできざるべし」と注意したり。
この問題についていろいろ誤解もある様子なり。
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