皇太子(昭和天皇)の婚約者久邇宮良子女王(香淳皇后)の母久邇宮俔子妃は、本人は色盲ではなかったが色盲遺伝子の保因者であった。
良子女王本人も健常者であるが、保因者である確率は1/2。
もし良子女王が保因者であれば、生まれた皇子が色盲となる確率は1/2。
この医学的事実を前にして、婚約解消派と婚約遂行派とが対立した。
婚約解消派は元老や宮内省で、神聖なる天皇家の血統に不純なる分子が混入するのは畏れ多いとする「純血論」を唱えた。
婚約遂行派は久邇宮家とそれを応援した杉浦重剛や右翼頭山満などで、すでに天皇の内諾を得ている婚約を解消するのは人倫にもとる行為であり〈綸言汗の如し〉国民道徳の鑑となるべき皇室のとるべき道ではないという「人倫論」を唱えた。
この時期「皇太子婚約問題」「皇太子外遊問題」「大正天皇摂政問題」の3つが重なり、この婚約解消事件は「宮中某重大事件」として大問題になった。
<主要人物>
■天皇 大正天皇
■皇后 貞明皇后/九条節子
■皇太子 昭和天皇
■皇太子妃 香淳皇后/久邇宮良子女王
■総理大臣 原敬
■宮内大臣 波多野敬直 1914年04月09日~
■宮内大臣 中村雄次郎 1920年06月18日~
■宮内大臣 牧野伸顕 1921年02月19日~
■杉浦重剛 皇太子御学問所御用掛
■後閑菊野 皇太子妃御学問所御用掛
<主要資料>
■『原敬日記』当時総理大臣
■『牧野伸顕日記』当時宮内大臣
■『倉富勇三郎日記』
■杉浦重剛『致誠日誌』『申酉回瀾録』
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<現代における色盲遺伝の法則>
健常男子×保因無女子=男子全員健常・女子全員保因無
健常男子×保因有女子=男子確率1/2で色盲・女子確率1/2で保因有
色盲男子×保因無女子=男子全員健常・女子全員保因有
色盲男子×保因有女子=男子確率1/2で色盲・女子色盲か保因有のどちらか
健常男子×色盲女子=男子全員色盲・女子全員保因者
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細川護貞は色覚異常→ゆえに母池田博子は保因者→ゆえにその母島津充子も保因者
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細川護貞
私は中学1年の時色弱ということがわかって、家の者から「どう見える、どう見える」としつこく聞かれ、ノイローゼのようになったことがあった。
そこで私は色盲の検査表を丸暗記した。
木や花を色ではなく形を通して覚えた。
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久松定謨伯爵の男子に色覚異常あり→ゆえに妻島津貞子は保因者
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『有馬頼寧日記』伯爵
1921年1月7日
東宮妃殿下の問題について御話があった。
それは先日の話の通り久邇宮家に色盲の血統があり、良子女王にも多少あり、久松家の男子にもその他にも現れているとのことで、大体は御中止に至っているとのこと。
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□健常男子
■色盲男子
○保因無女子
●保因有女子
△不明
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□夫 島津忠義
●側室 山崎寿満子
★山崎寿満子の子 島津忠重 13代当主
★山崎寿満子の子 島津清子 侯爵黒田長成と結婚
★山崎寿満子の子 島津充子 侯爵池田詮政と離婚・伯爵松平直亮と再婚
★山崎寿満子の子 島津常子 山階宮菊麿王妃
★山崎寿満子の子 島津知子 伯爵徳川達孝と結婚
★山崎寿満子の子 島津貞子 伯爵久松定謨と結婚
★山崎寿満子の子 島津俔子 久邇宮邦彦王妃
★山崎寿満子の子 島津正子 公爵徳川家正と結婚
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■夫 島津忠重
○妻 徳大寺実則公爵の娘徳大寺伊楚子
△長男 島津忠秀 近衛文麿公爵の娘近衛昭子と離婚
△二男 島津晃久 松平慶民子爵の娘松平英子と結婚
△三男 島津矩久 柳原博光伯爵の娘柳原行子と結婚
△四男 島津斉徳 柳沢保承伯爵の娘柳沢佐久子の婿養子になるが離婚
●長女 島津経子 島津忠済公爵の子島津久大と結婚
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△妻 島津清子
△夫 黒田長成侯爵
△男子 黒田長礼 閑院宮載仁親王娘閑院宮茂子と結婚
△女子 黒田幸子 長嶺公固と結婚
△女子 黒田良子 子爵高倉永則の子高倉永輝と結婚
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●妻 島津充子
□前夫 池田詮政侯爵・離婚
●女子 池田博子 侯爵細川護立と結婚
△後夫 松平直亮伯爵・再婚
△男子 松平直国 徳川家達公爵の娘徳川繁子と結婚
△女子 松平益子 鍋島直和子爵と結婚
△女子 松平元子 仙石政敬子爵の子を婿養子に迎え松平久武を名乗らせる
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○妻 島津常子
□夫 山階宮菊麿王妃
□男子 山階宮藤麿王 筑波藤麿侯爵となる 毛利高範子爵の娘毛利喜代子と結婚
□男子 山階宮萩麿王 鹿島萩麿伯爵となる 独身
□男子 山階宮茂麿王 葛城茂麿伯爵となる 細川護立侯爵の娘細川敏子と結婚
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○妻 島津知子
□夫 徳川達孝伯爵
□男子 徳川達成 戸田氏秀伯爵の娘戸田元子と結婚
○女子 徳川恵子 大久保寛一子爵と結婚
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●妻 島津貞子
□夫 久松定謨伯爵
●男子 久松定武 小笠原長幹伯爵の娘小笠原春枝と結婚
●男子 久松定孝 前田利同伯爵の娘前田韁子と結婚
△女子 久松宜子 小笠原恒子爵と結婚
△女子 久松基子 久松勝親子爵と結婚
△女子 久松輝子 松平親義子爵と結婚
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●妻 島津俔子
□夫 久邇宮邦彦王
●久邇宮朝融王 伏見宮博恭王の娘伏見宮知子女王と結婚
○久邇宮邦久王 島津忠済公爵の娘島津量子と離婚・松浦靖子爵の娘松浦董子と再婚
●久邇宮邦英王 亀井茲常伯爵の娘亀井保子と結婚
△久邇宮良子女王 香淳皇后
△久邇宮信子女王 三条西公正伯爵と結婚
△久邇宮智子女王 東本願寺大谷光暢伯爵と結婚
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○妻 島津正子
□夫 徳川家正公爵
□男子 徳川家英 独身
○女子 徳川豊子 外交官松平恒雄の子松平一郎/秩父宮勢津子妃の兄と結婚
○女子 徳川敏子 上杉憲章伯爵の子上杉隆憲と結婚
○女子 徳川順子 保科正昭子爵の子保科光正と死別・関根勇吉と再婚
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1909年に出された「陸軍士官候補生諸生徒其他陸軍志願者身体検査規則」では色盲を不合格にするとしており、海軍も同様であった。
1918年01月18日 皇太子&良子女王の婚約内定の報道
1919年06月10日 婚約内定の御沙汰書の報道
1920年春 陸軍軍医草間要が学習院生徒の身体検査で久邇宮邦英王の色盲を発見
さらに兄朝融王と母方の叔父島津忠重にも色盲があることがわかる。
草間は軍医学校長に相談し、陸軍から宮内省にも伝えられた。
1920年05月 山縣有朋の主治医である予備役軍医総監平井政遒の耳に入り、平井が山縣へ報告する。
1920年06月20日 宮内大臣波多野敬直が辞任、中村雄次郎が就任
1920年10月11日 池辺棟三郎侍医頭・宮内庁御用掛保利真直・三浦謹之助が色覚異常遺伝の調査を命じられ意見書を提出する。
1920年11月12日 伏見宮貞愛親王が久邇宮家事務官木村英俊に意見書を提示する。
西園寺公望が久邇宮邦彦王に婚約の辞退を勧告する。
1920年11月18日 杉浦重剛が後閑菊野から色盲問題を知り、意見書を見る。
一方久邇宮家側は眼科医藤田秀太郎に依頼して意見書を作らせる。
「色覚異常は半数の男子にしか遺伝せず、色覚異常の遺伝子を持たない者と結婚し三代経てば色覚異常の遺伝は無くなる。島津忠義の側室寿満子の父が色覚異常であるとしてもその三代目にあたる良子女王は色覚異常の遺伝子を持たない」とする非科学的なものであった。
1920年11月28日 久邇宮邦彦王が貞明皇后に拝謁し書面で婚約遂行を直訴する。
貞明皇后は激怒して不遜であるとして書面を返却する。
1920年12月01日 杉浦は一瀬勇三郎・平石氏人・畑勇吉・島弘尾・川地三郎らと話し合い婚約遂行運動を開始する。
1920年12月03日 杉浦は東宮大夫浜尾新に婚約遂行を訴える。
1920年12月04日 杉浦が辞表を提出。
1920年12月07日 総理大臣原敬が初めて色盲問題を知る。
1920年12月08日 久邇宮邦彦王が山県と松方正義に、皇后に提出した親書の写しと藤田秀太郎の意見書を送る。
1920年12月20日 宮内大臣中村雄次郎が文部省を通じて東大医学部長佐藤三吉・東大医学部教授河本重次郎・東大医学部教授三浦謹之助・東大医学部教授永井潜・東大理学部教授藤井健次郎の5博士に色覚異常遺伝に関する調査を依頼する。
1920年12月21日 5博士が報告書を提出、3博士の意見書と同じ内容だった。
1920年12月30日 杉浦は山縣の政敵である大隈重信相談、大隈は天皇皇后に働きかけると返事するが実際は何もしなかった。
1920年12月24日 大物右翼頭山満が杉浦から色盲問題を知る。
1921年01月24日 来原慶助久邇宮家職員武田健三の話をもとに書いた匿名の怪文書『宮内省の横暴不逞』を政界や新聞社にばら撒く。
1921年02月08日 原首相が閣議で閣僚に色盲問題を明かす。
1921年02月10日 中村宮相が原首相に婚約遂行と自分の宮内大臣辞任を報告、宮内省から発表。
1921年02月14日 山県が枢密院議長の辞表を、松方正義が内大臣の辞表を提出。
1921年02月15日 皇太子の洋行が正式発表
これを知った久邇宮邦彦王は発表前に皇太子に拝謁したいと願い出るが貞明皇后が激怒して僭越であると拝謁を拒否される。
また久邇宮邦彦王は良子女王の大正天皇への拝謁を願い出るが、貞明皇后に拝謁を拒否される。
1921年03月03日 皇太子外遊に出発
1921年03月17日 怪文書を書いた来原慶助が武田健三経由で久邇宮家をゆすり、大金が支払われる。
1921年05月09日 貞明皇后が元宮内大臣波多野敬直に「婚約は内定であるから取り消せないことはない」と発言する。
1921年09月03日 皇太子外遊より帰国
1921年11月25日 大正天皇の摂政に就任
1922年06月09日 宮内大臣牧野伸顕が貞明皇后に婚約遂行を求め、貞明皇后は「涙を飲んで認めるしかない」と了承する。
1922年06月20日 納采の議9月28日・成婚式1923年秋が発表される。
1922年09月01日 関東大震災→成婚式延期
1924年01月26日 成婚式
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明治・大正・昭和の天皇に仕えた 小川金男
この御婚約に至るまでは、当時の宮内大臣波多野敬直が斡旋の労をとった。
当時久邇宮邦彦王は番町の宮内省の官舎に住んでおられ、その隣の元徳大寺公爵邸も宮内省の官舎で、そこに波多野氏が住んでいた。
そういう庭つづきの交際のうちに良子女王が候補に挙がったのである。
波多野氏は皇太子殿下の東宮大夫をしたこともあったので、皇太子殿下としても自然波多野氏の言葉を重んぜられたのであろう。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長
1919年6月19日
※宮内官僚小原駩吉の発言
宮内大臣波多野敬直は天皇陛下にはもちろん皇后陛下にも御信用あり。
皇后陛下にしても隔意なく御話あるは皇后大夫よりもむしろ波多野なるべし。
ゆえに何びとか宮内大臣代りても、この点については波多野に及ぶ者なし。
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良子女王本人も健常者であるが、保因者である確率は1/2。
もし良子女王が保因者であれば、生まれた皇子が色盲となる確率は1/2。
この医学的事実を前にして、婚約解消派と婚約遂行派とが対立した。
婚約解消派は元老や宮内省で、神聖なる天皇家の血統に不純なる分子が混入するのは畏れ多いとする「純血論」を唱えた。
婚約遂行派は久邇宮家とそれを応援した杉浦重剛や右翼頭山満などで、すでに天皇の内諾を得ている婚約を解消するのは人倫にもとる行為であり〈綸言汗の如し〉国民道徳の鑑となるべき皇室のとるべき道ではないという「人倫論」を唱えた。
この時期「皇太子婚約問題」「皇太子外遊問題」「大正天皇摂政問題」の3つが重なり、この婚約解消事件は「宮中某重大事件」として大問題になった。
<主要人物>
■天皇 大正天皇
■皇后 貞明皇后/九条節子
■皇太子 昭和天皇
■皇太子妃 香淳皇后/久邇宮良子女王
■総理大臣 原敬
■宮内大臣 波多野敬直 1914年04月09日~
■宮内大臣 中村雄次郎 1920年06月18日~
■宮内大臣 牧野伸顕 1921年02月19日~
■杉浦重剛 皇太子御学問所御用掛
■後閑菊野 皇太子妃御学問所御用掛
<主要資料>
■『原敬日記』当時総理大臣
■『牧野伸顕日記』当時宮内大臣
■『倉富勇三郎日記』
■杉浦重剛『致誠日誌』『申酉回瀾録』
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<現代における色盲遺伝の法則>
健常男子×保因無女子=男子全員健常・女子全員保因無
健常男子×保因有女子=男子確率1/2で色盲・女子確率1/2で保因有
色盲男子×保因無女子=男子全員健常・女子全員保因有
色盲男子×保因有女子=男子確率1/2で色盲・女子色盲か保因有のどちらか
健常男子×色盲女子=男子全員色盲・女子全員保因者
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細川護貞は色覚異常→ゆえに母池田博子は保因者→ゆえにその母島津充子も保因者
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細川護貞
私は中学1年の時色弱ということがわかって、家の者から「どう見える、どう見える」としつこく聞かれ、ノイローゼのようになったことがあった。
そこで私は色盲の検査表を丸暗記した。
木や花を色ではなく形を通して覚えた。
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久松定謨伯爵の男子に色覚異常あり→ゆえに妻島津貞子は保因者
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『有馬頼寧日記』伯爵
1921年1月7日
東宮妃殿下の問題について御話があった。
それは先日の話の通り久邇宮家に色盲の血統があり、良子女王にも多少あり、久松家の男子にもその他にも現れているとのことで、大体は御中止に至っているとのこと。
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□健常男子
■色盲男子
○保因無女子
●保因有女子
△不明
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□夫 島津忠義
●側室 山崎寿満子
★山崎寿満子の子 島津忠重 13代当主
★山崎寿満子の子 島津清子 侯爵黒田長成と結婚
★山崎寿満子の子 島津充子 侯爵池田詮政と離婚・伯爵松平直亮と再婚
★山崎寿満子の子 島津常子 山階宮菊麿王妃
★山崎寿満子の子 島津知子 伯爵徳川達孝と結婚
★山崎寿満子の子 島津貞子 伯爵久松定謨と結婚
★山崎寿満子の子 島津俔子 久邇宮邦彦王妃
★山崎寿満子の子 島津正子 公爵徳川家正と結婚
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■夫 島津忠重
○妻 徳大寺実則公爵の娘徳大寺伊楚子
△長男 島津忠秀 近衛文麿公爵の娘近衛昭子と離婚
△二男 島津晃久 松平慶民子爵の娘松平英子と結婚
△三男 島津矩久 柳原博光伯爵の娘柳原行子と結婚
△四男 島津斉徳 柳沢保承伯爵の娘柳沢佐久子の婿養子になるが離婚
●長女 島津経子 島津忠済公爵の子島津久大と結婚
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△妻 島津清子
△夫 黒田長成侯爵
△男子 黒田長礼 閑院宮載仁親王娘閑院宮茂子と結婚
△女子 黒田幸子 長嶺公固と結婚
△女子 黒田良子 子爵高倉永則の子高倉永輝と結婚
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●妻 島津充子
□前夫 池田詮政侯爵・離婚
●女子 池田博子 侯爵細川護立と結婚
△後夫 松平直亮伯爵・再婚
△男子 松平直国 徳川家達公爵の娘徳川繁子と結婚
△女子 松平益子 鍋島直和子爵と結婚
△女子 松平元子 仙石政敬子爵の子を婿養子に迎え松平久武を名乗らせる
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○妻 島津常子
□夫 山階宮菊麿王妃
□男子 山階宮藤麿王 筑波藤麿侯爵となる 毛利高範子爵の娘毛利喜代子と結婚
□男子 山階宮萩麿王 鹿島萩麿伯爵となる 独身
□男子 山階宮茂麿王 葛城茂麿伯爵となる 細川護立侯爵の娘細川敏子と結婚
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○妻 島津知子
□夫 徳川達孝伯爵
□男子 徳川達成 戸田氏秀伯爵の娘戸田元子と結婚
○女子 徳川恵子 大久保寛一子爵と結婚
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●妻 島津貞子
□夫 久松定謨伯爵
●男子 久松定武 小笠原長幹伯爵の娘小笠原春枝と結婚
●男子 久松定孝 前田利同伯爵の娘前田韁子と結婚
△女子 久松宜子 小笠原恒子爵と結婚
△女子 久松基子 久松勝親子爵と結婚
△女子 久松輝子 松平親義子爵と結婚
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●妻 島津俔子
□夫 久邇宮邦彦王
●久邇宮朝融王 伏見宮博恭王の娘伏見宮知子女王と結婚
○久邇宮邦久王 島津忠済公爵の娘島津量子と離婚・松浦靖子爵の娘松浦董子と再婚
●久邇宮邦英王 亀井茲常伯爵の娘亀井保子と結婚
△久邇宮良子女王 香淳皇后
△久邇宮信子女王 三条西公正伯爵と結婚
△久邇宮智子女王 東本願寺大谷光暢伯爵と結婚
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○妻 島津正子
□夫 徳川家正公爵
□男子 徳川家英 独身
○女子 徳川豊子 外交官松平恒雄の子松平一郎/秩父宮勢津子妃の兄と結婚
○女子 徳川敏子 上杉憲章伯爵の子上杉隆憲と結婚
○女子 徳川順子 保科正昭子爵の子保科光正と死別・関根勇吉と再婚
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1909年に出された「陸軍士官候補生諸生徒其他陸軍志願者身体検査規則」では色盲を不合格にするとしており、海軍も同様であった。
1918年01月18日 皇太子&良子女王の婚約内定の報道
1919年06月10日 婚約内定の御沙汰書の報道
1920年春 陸軍軍医草間要が学習院生徒の身体検査で久邇宮邦英王の色盲を発見
さらに兄朝融王と母方の叔父島津忠重にも色盲があることがわかる。
草間は軍医学校長に相談し、陸軍から宮内省にも伝えられた。
1920年05月 山縣有朋の主治医である予備役軍医総監平井政遒の耳に入り、平井が山縣へ報告する。
1920年06月20日 宮内大臣波多野敬直が辞任、中村雄次郎が就任
1920年10月11日 池辺棟三郎侍医頭・宮内庁御用掛保利真直・三浦謹之助が色覚異常遺伝の調査を命じられ意見書を提出する。
1920年11月12日 伏見宮貞愛親王が久邇宮家事務官木村英俊に意見書を提示する。
西園寺公望が久邇宮邦彦王に婚約の辞退を勧告する。
1920年11月18日 杉浦重剛が後閑菊野から色盲問題を知り、意見書を見る。
一方久邇宮家側は眼科医藤田秀太郎に依頼して意見書を作らせる。
「色覚異常は半数の男子にしか遺伝せず、色覚異常の遺伝子を持たない者と結婚し三代経てば色覚異常の遺伝は無くなる。島津忠義の側室寿満子の父が色覚異常であるとしてもその三代目にあたる良子女王は色覚異常の遺伝子を持たない」とする非科学的なものであった。
1920年11月28日 久邇宮邦彦王が貞明皇后に拝謁し書面で婚約遂行を直訴する。
貞明皇后は激怒して不遜であるとして書面を返却する。
1920年12月01日 杉浦は一瀬勇三郎・平石氏人・畑勇吉・島弘尾・川地三郎らと話し合い婚約遂行運動を開始する。
1920年12月03日 杉浦は東宮大夫浜尾新に婚約遂行を訴える。
1920年12月04日 杉浦が辞表を提出。
1920年12月07日 総理大臣原敬が初めて色盲問題を知る。
1920年12月08日 久邇宮邦彦王が山県と松方正義に、皇后に提出した親書の写しと藤田秀太郎の意見書を送る。
1920年12月20日 宮内大臣中村雄次郎が文部省を通じて東大医学部長佐藤三吉・東大医学部教授河本重次郎・東大医学部教授三浦謹之助・東大医学部教授永井潜・東大理学部教授藤井健次郎の5博士に色覚異常遺伝に関する調査を依頼する。
1920年12月21日 5博士が報告書を提出、3博士の意見書と同じ内容だった。
1920年12月30日 杉浦は山縣の政敵である大隈重信相談、大隈は天皇皇后に働きかけると返事するが実際は何もしなかった。
1920年12月24日 大物右翼頭山満が杉浦から色盲問題を知る。
1921年01月24日 来原慶助久邇宮家職員武田健三の話をもとに書いた匿名の怪文書『宮内省の横暴不逞』を政界や新聞社にばら撒く。
1921年02月08日 原首相が閣議で閣僚に色盲問題を明かす。
1921年02月10日 中村宮相が原首相に婚約遂行と自分の宮内大臣辞任を報告、宮内省から発表。
1921年02月14日 山県が枢密院議長の辞表を、松方正義が内大臣の辞表を提出。
1921年02月15日 皇太子の洋行が正式発表
これを知った久邇宮邦彦王は発表前に皇太子に拝謁したいと願い出るが貞明皇后が激怒して僭越であると拝謁を拒否される。
また久邇宮邦彦王は良子女王の大正天皇への拝謁を願い出るが、貞明皇后に拝謁を拒否される。
1921年03月03日 皇太子外遊に出発
1921年03月17日 怪文書を書いた来原慶助が武田健三経由で久邇宮家をゆすり、大金が支払われる。
1921年05月09日 貞明皇后が元宮内大臣波多野敬直に「婚約は内定であるから取り消せないことはない」と発言する。
1921年09月03日 皇太子外遊より帰国
1921年11月25日 大正天皇の摂政に就任
1922年06月09日 宮内大臣牧野伸顕が貞明皇后に婚約遂行を求め、貞明皇后は「涙を飲んで認めるしかない」と了承する。
1922年06月20日 納采の議9月28日・成婚式1923年秋が発表される。
1922年09月01日 関東大震災→成婚式延期
1924年01月26日 成婚式
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明治・大正・昭和の天皇に仕えた 小川金男
この御婚約に至るまでは、当時の宮内大臣波多野敬直が斡旋の労をとった。
当時久邇宮邦彦王は番町の宮内省の官舎に住んでおられ、その隣の元徳大寺公爵邸も宮内省の官舎で、そこに波多野氏が住んでいた。
そういう庭つづきの交際のうちに良子女王が候補に挙がったのである。
波多野氏は皇太子殿下の東宮大夫をしたこともあったので、皇太子殿下としても自然波多野氏の言葉を重んぜられたのであろう。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長
1919年6月19日
※宮内官僚小原駩吉の発言
宮内大臣波多野敬直は天皇陛下にはもちろん皇后陛下にも御信用あり。
皇后陛下にしても隔意なく御話あるは皇后大夫よりもむしろ波多野なるべし。
ゆえに何びとか宮内大臣代りても、この点については波多野に及ぶ者なし。
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