直球和館

2025年

2031/01

<明治時代>

侍従 東園基愛
侍従 姉小路有良
侍従 片岡利和
侍従 沢宜元
侍従 日野西資博
侍従 慈光寺仲敏
侍従 綾小路家政
侍従 日根野要吉郎

侍医 岡玄卿
侍医 西郷吉義
侍医 桂秀馬
侍医 相磯慥
侍医 三浦省軒
侍医 加藤照麿
侍医 柏村貞一
侍医 鈴木金之助
薬剤師 山田薫
薬剤師 福山又一

東宮大夫 中山孝麿
東宮大夫 村本雅美
東宮侍従 本多正復
東宮侍従 有馬純文
東宮侍従 高辻宣麿
東宮武官 名和長憲
東宮職  山崎角次郎
東宮職  鈴木重光

内親王御用掛 秋山四郎
内親王御用掛  赤松長祥
内親王御養育掛 西三条実義
内親王御養育掛 野村靖


<昭和時代の女官>

※昭和天皇は典侍・掌侍・命婦の区別を廃止し、女官の局制度を取り止めて通勤制にする。

女官の定員 10名
女嬬の定員 12名
 
女官長 竹屋志計子
女官  伊地知ミキ
女官  万里小路袖子 政治家猪野毛利栄と結婚
女官  北村民枝   銀行家と結婚
女官  津軽理喜子  細川行真子爵の子細川行雄が婿養子になるが離婚
女官  油小路裳子  実業家植村寅と結婚
女官  山岡淑子
女官  小倉満子

御用掛 高木多津雄  通訳




権典侍 万里小路袖子 政治家猪野毛利栄と結婚
0011



::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

万里小路袖子は大正皇后〔貞明皇后〕にいたが、昭和になってから昭和皇后〔香淳皇后〕にお仕えしていたが、後に政治家猪野毛利栄と結婚した。

竹屋津根子〈山桃の局〉は老年のため辞めたが、その妹は現在昭和皇后〔香淳皇后〕の女官長である。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

<大正時代の女官>

※大正天皇の死去により貞明皇后の女官は皇太后の女官となったが、構成・定員に変更はなかった。

典侍  2名
権典侍 9名
掌侍  2名
権掌侍 10名
命婦  2名
権命婦 10名
女嬬  16名
権女嬬 18名

典侍  万里小路幸子 浜荻の局 英照皇太后・昭憲皇太后・貞明皇后に仕える

権典侍 清水谷英子  紅梅の局・皇太后宮女官長
権典侍 万里小路袖子 政治家猪野毛利栄と結婚
権典侍 正親町鍾子  松風の局
権典侍 千草梁子   海棠の局
権典侍 竹屋津根子  山桃の局
権掌侍 東坊城敏子  白百合の局
権典侍 大原慶子
権典侍 山口正子   藤袴の局 西五辻正子・山口豊男子爵と結婚死別
権典侍 穂穙英子   呉竹の局
権典侍 高松千歳子  撫子の局

掌侍  吉見光子   桂の局

命婦  富田算子   桜の局
命婦  梨木止女子  椿の局・実業家坂東と結婚
命婦  三善千代子  蕗の局・御祐筆・貞明皇后の学習院同級生・フランス語も堪能
命婦  堀川武子   菊の局
命婦  藤島愛子

権命婦 吉田愛子   薫の局

御用掛 山中貞子   通訳

万里小路良枝
北村ソデ
生源寺正子

坂野ススコ
加賀美繁子 内親王御用掛
野村親子  内親王御用掛
小川直子  内親王御用掛
赤松コマコ 内親王御用掛
杉浦チカコ 内親王御用掛
迎照子   内親王御用掛
桑山菊子  内親王御用掛


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『徳富蘆花日記』

1917年12月29日〔大正天皇の女官烏丸花子退職〕
烏丸花子〈初花の局〉が宮中を出たと新聞にある。
お妾の一人なんめり。
お節さん〔貞明皇后〕のイビリ出しだ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

大正に入ってから女官に任官した三人の娘は、いずれ劣らぬ美しい娘であった。
三人の娘は権典侍清水谷英子・権典侍大原慶子・権典侍東坊城敏子であった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』

1927年10月6日
敏子〔東条坊敏子〕が女官を辞めたと新聞に出ている。
とうとう快癒に手間取るというのかしら。
気の毒と言うより私が悲しい気がする。
運命は彼女を幸福づけなかった。
彼女の身辺にも恵まなかった。
二人の妹は如何に。
弟は如何に。
女官の中で私が好きだった敏子。
先には土御門〔土御門賀寿子〕が辞めた。
これは元気が良すぎたのだが、こうして私が好きだった人は一般的ではない。
それはそうだろう。
目のよるところへ玉だもの。
健全ならざる私には健全なる人が近づけられるはずがない。
今残っている慶子〔大原慶子〕果たして健全なるや。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

※土御門賀寿子は学習院を卒業後女官となり、〈八重菊の局〉という名前で宮中に仕えた。
30歳の時に25歳の大膳部の料理人木村英吉と恋愛関係となった。
職場恋愛が許される場所ではなかったので、二人は宮中を辞職して結婚した。

大正になってからのことであるが、ある日 私は権典侍千草梁子〈海棠の局〉の御供をして沼津の御別邸に出張を命ぜられたことがあった。
そのとき御別邸にいた権掌侍土御門賀寿子〈八重菊の局〉も一緒に東京へ帰ることがわかった。
三人は汽車に乗って座席に座ることになったが、普段なら女官は向かい合って腰かけていろいろ話し合いながら東京に着くということになるのだが、その時には八重菊の局は海棠の局と離れるようにして座って、黙り込んで陰鬱そうにうつむいていた。
それから私も初めて自分が沼津に出張を命ぜられた理由を知ったのであった。
つまり海棠の局は八重菊の局を東京に連れて帰るために出張したのであり、私はその御供を命ぜられたのであった。
八重菊の局はその美しい源氏名に反して、女官としてはまれにみる不器量な女であった。
自然誰も八重の局を問題にする者はなかった。
だからその女が沼津御別邸で大膳食の膳手と、しかも宮内省で美男の中の美男と言われていた青年と関係があろうなぞとは全く思いもよらないことであった。
このことは当時の新聞の三面記事をにぎわしたもので、記憶の良い人なら今でも覚えているに違いない。
八重菊の局は局部屋を下がったが、二人は強い愛情で結ばれていたとみえて、その後まもなく結婚し、やがて二人の子供が産まれた。
恐らく今でもどこかに幸福に暮らしているに違いない。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

大正の中頃には三善千代子〈蕗の局〉が御祐筆を務めていた。
この人は大正皇后〔貞明皇后〕と学習院時代に同級で、フランス語なども達者で、そのため特に宮中に召されたのだと聞いた。

書の非常に上手であった正親町鍾子の源氏名は〈松風の局〉

千草梁子〈海棠の局〉は1929年頃退官して、実業家と結婚した。

竹屋津根子〈山桃の局〉は老年のため辞めたが、その妹は現在〔香淳皇后〕の女官長である。

山口正子は西五辻子爵の娘で明治時代は権掌侍であったが、家の事情から山口子爵と結婚して二児をあげ、大正時代に未亡人となってから再び女官となり、その時は権典侍になった。
ところが帝大の学生になっていた子息がアカの関係から警察に検挙されるという事件が持ち上がったので、辞表を出して自邸に下がった。
その時には新聞に出るということがわかっていたので、その新聞が出る前に辞めなければならぬということから、わずか30分ほどの時間で荷物をまとめて慌てて下っていった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子 明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉

三善千代子〈蕗の局〉は大正皇后様の御学友ということでお上がりになった方で、字をきれいに書く人でした。

千種任子〈花松の局〉の姪御さんの千草梁子〈海棠の局〉は手荒くってね。
そそっかしくて、時計ばっかり壊してござる。
お金持ちに片づかれましたけどね。

穂穙英子〈呉竹の局〉は私と二つ違いで、小さい時は遊びに行ったり、向こうさんから見えたりしました。
あそこは山本子爵の分家ですもんね。
明治陛下の崩御ちょっと前にお出になって、御用あまりなさらんうちに崩御になったもんで、長いこと一人でおいでになった。
それで大正皇后様の方にお人さんが欲しいゆうて召されたんですけど、御病気があるために御側の御用ができないで陰の御用ばかりしてござった。

昔は独身でなくちゃ女官にはなれなかった。
だから山口正子〈藤袴の局〉は明治陛下の時 一度お下がりになって、
大正皇后様が「かわいそうだから呼んでやれ」っておっしゃいまして、途中からまた召し出されたんです。
特別です。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::



<大正時代の女官>

※大正天皇の死去により貞明皇后の女官は皇太后の女官となったが、構成・定員に変更はなかった。

典侍  2名
権典侍 9名
掌侍  2名
権掌侍 10名
命婦  2名
権命婦 10名
女嬬  16名
権女嬬 18名

典侍  万里小路幸子 浜荻の局 英照皇太后・昭憲皇太后・貞明皇后に仕える

権典侍 清水谷英子  紅梅の局・皇太后宮女官長
権典侍 万里小路袖子 政治家猪野毛利栄と結婚
権典侍 正親町鍾子  松風の局
権典侍 千草梁子   海棠の局
権典侍 竹屋津根子  山桃の局
権掌侍 東坊城敏子  白百合の局
権典侍 大原慶子
権典侍 山口正子   藤袴の局 西五辻正子・山口豊男子爵と結婚死別
権典侍 穂穙英子   呉竹の局
権典侍 高松千歳子  撫子の局

掌侍  吉見光子   桂の局

権掌侍 東坊城敏子〈白百合の局〉実業家細川力蔵と結婚
権掌侍 土御門賀寿子〈八重菊の局〉

命婦  富田算子   桜の局
命婦  梨木止女子  椿の局・実業家坂東と結婚
命婦  三善千代子  蕗の局・御祐筆・貞明皇后の学習院同級生・フランス語も堪能
命婦  堀川武子   菊の局
命婦  藤島愛子

権命婦 吉田愛子   薫の局

御用掛 山中貞子   通訳

万里小路良枝
北村ソデ
生源寺正子

坂野ススコ
加賀美繁子 内親王御用掛
野村親子  内親王御用掛
小川直子  内親王御用掛
赤松コマコ 内親王御用掛
杉浦チカコ 内親王御用掛
迎照子   内親王御用掛
桑山菊子  内親王御用掛





権典侍 高松千歳子〈撫子の局〉
36b80f6b


権掌侍 東坊城敏子〈白百合の局〉実業家細川力蔵と結婚 
7cb2d092


権掌侍 土御門賀寿子〈八重菊の局〉
24d47969

<明治時代の女官>

※あだ名は明治天皇がつけたもの

典侍  万里小路幸子 浜荻の局  英照皇太后・昭憲皇太后・貞明皇后に仕える
典侍  高倉寿子   新樹の局  女官長・高倉永胤の娘
典侍  室町清子   紅梅の局  室町公績の娘
典侍  壬生広子   玉椿の局  
典侍  広橋静子
典侍  高野房子

権典侍 姉小路良子  藤袴の局  副女官長・姉小路公前の娘
権典侍 柳原愛子   早蕨の局  大正天皇の生母・柳原光愛の娘・あだ名「ちゃぼ」
→大正天皇を産んだことで典侍に出世〈二位の局〉となる
権典侍 園祥子    小菊の局  4人の内親王の生母・園基祥の娘
権典侍 西洞院成子
権典侍 植松務子   夕顔の局  植松雅言の娘・梅溪通治と結婚
権典侍 千種任子   花松の局  千種有任の娘
権典侍 葉室光子   梅の局   葉室長順の娘
権典侍 橋本夏子   小桜の局  橋本実麗の養女 
権典侍 小倉文子   緋桜の局  小倉輔季の娘
権典侍 今園文子   白萩の局  あだ名「丁稚」今園国映の娘・子爵家の竹内茂と結婚
権典侍 持明院治子  卯花の局  持明院基政の娘・若王子遠文と結婚 
権典侍 中御門斎子

掌侍  平松好子
掌侍  石山文子/石山輝子 杜若の局 石山基文の娘・大伴義正と結婚
掌侍  樹下範子   樗の局   樹下成節の娘
掌侍  小池道子   柳の局   あだ名「くくり猿」士族
掌侍  竹屋津根子  若竹の局  竹屋光昭の娘
掌侍  清水谷秋子  山吹の局  清水谷公正の娘
掌侍  壬生広子   玉椿の局  壬生輔世の娘

権掌侍 薮嘉根子   紅葉の局  あだ名「お杉」藪実万の娘
権掌侍 津守好子   若菜の局  あだ名「大阪」津守国美の娘
権掌侍 吉田鈺子   撫子の局  あだ名「弁天」と「ほおずき」吉田良義の娘
権掌侍 吉田瀧子   糸桜の局  吉田良義の娘
権掌侍 吉見光子   梅の局
権掌侍 粟田口綾子  昼顔の局  あだ名「お丸」粟田口定孝の娘
権掌侍 日野西薫子  山茶花の局 あだ名「にゃん」日野西光善の娘・煙草王村井吉兵衛と結婚
権掌侍 久世三千子  桜木の局  あだ名「雀」久世通章の娘・女官山川操の子山川黙と結婚
権掌侍 税所敦子   楓の局   林篤国の娘・税所篤之の妻
権掌侍 唐橋貞子   芙蓉の局  唐橋在光の娘
権掌侍 唐橋娩子   朝顔の局  唐橋在光の娘
権掌侍 錦織隆子   若松の局  錦織久隆の娘
権掌侍 西定子
権掌侍 六角章子   菖蒲の局  六角博通の娘
権掌侍 慈光寺演子  尾花の局  慈光寺有仲の娘・寺職由良義寛と結婚・寺職杉生慶厳と再婚
権掌侍 松木経子   早苗の局  松木宗有の娘
権掌侍 万里小路国子 白菊の局
権掌侍 小倉輔子

命婦  梨木持子   清水の局  梨木祐持の娘
命婦  西西子    菅の局   西師応の娘・昭憲皇太后が入内する時に一条家からついてきた女官
命婦  三上文子   桐の局   三上景の娘
命婦  堀川武子   菊の局   堀川宣弘の娘
命婦  鴨脚頼子         鴨脚光陳の娘
命婦  鴨脚朝子
命婦  鳥居大路信子
命婦  松室𤣹子
命婦  藤島正子/藤島朝子    楸の局・藤島広徳の娘
命婦  北大路梶子

権命婦 鳥居大路応子 梶の局   鳥居大路道平の娘
権命婦 吉田艶子   萩の局   吉田良祥の娘
権命婦 吉田愛子   薫の局   士族吉田良栄の娘
権命婦 生源寺政子  榊の局   生源寺業親の娘
権命婦 生源寺伊佐雄 梢の局   生源寺平格の娘
権命婦 岡本保子
権命婦 中東成子/中東明子    葵の局・中東時副の娘
権命婦 下田歌子         本名平尾鉐・下田猛雄と結婚
権命婦 平田三枝   蔦の局   士族平田職明の娘
権命婦 樹下定江   松の局   樹下茂国の娘
権命婦 樹下巻子   槙の局   あだ名「おかめ」
権命婦 大東登代子  薄の局   あだ名「青目玉」
権命婦 藤島竹子   竹の局   あだ名「うど」
権命婦 鴨脚鎮子   荻の局   あだ名「猿」
権命婦 羽倉豊子         士族羽倉信平の娘
権命婦 山口益子         士族
権命婦 山口兼子         士族山口定厚の娘
権命婦 土山松子         士族土山武資の娘
権命婦 伊東澄子         士族
権命婦 赤塚菊子         士族赤塚輯の娘
権命婦 関根照子         士族関根和義の娘
権命婦 勢多威子         士族
権命婦 松室恒子         松室重吉の娘
権命婦 幸徳井延子  槙の局   幸徳井保源の娘

梨木房枝   忍の局


《御用のある日だけ参内する女官》

権掌侍 北島以登子        フランス語と英語の御通弁
権掌侍 山川操          フランス語の御通弁・士族山川重固の娘
権掌侍 香川志保子  呉竹の局  英語の御通弁・皇后大夫香川敬三の娘


※1872年5月5日に女官の大改革が行われる。
当時女官は128人いたが、権力を握っていた典侍広幡静子と典侍高野房子を含む36人の女官が処分される。
さらに天皇付と皇后付の二種類に分かれていた女官を統一して、すべて皇后の配下に置いた。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

明治陛下はなかなかお茶目さんなところもおありになって、明治皇后様の「天狗さん」を始めとして、女官にいちいちあだ名をおつけになりました。
小さい身体を二つ折りにしてチョコチョコと歩いていた柳の局〔小池道子〕の「くくり猿」などは第一の傑作で、今でも私の目前に浮かんでくるようでございます。
女官中で一番の美貌の持ち主だった撫子の局〔吉田鈺子〕を「弁天」またの名を「ほおずき」ともおつけになりました。
撫子の局は一本気な性格で、明治陛下の仰せでも得心のできぬうちは、
「それはどういうわけでございますか」とばかりにカンカンに怒って真っ赤になるところから。
山茶花の局〔日野西薫子〕の「にゃん」は、物の言い方が甘えたようで猫を思わせるところから。
白萩の局〔今園文子〕の「丁稚」などに至っては、どうしてそんな言葉を御存知かと不思議に思いました。
この人は明治天皇にあまりお気に入らず、自分の都合もあってしばらくで退官しました。
私の「雀」は無口がお気に入ったというのですから、世話親の柳原愛子より世話子の私の方が大きいので、雀は子供の方が大きく見えるところからでございましょうか。
目が少しくぼんでギロリとしていた薄の局〔大東登代子〕は「青目玉」
竹の局〔藤島竹子〕の「うど」は、色白の大柄ですがちょっと人の良すぎるような感じがあったからでしょう。

明治陛下は御愛犬〈花ちゃん〉を時々は御庭に散歩に出しておやりになります。
綱なしで犬と一緒に駆けるのですから、若い人でなければ駄目なのです。
私の他は白萩の局〔今園文子〕・昼顔の局〔粟田口綾子〕・山茶花の局〔日野西薫子〕・荻の局〔鴨脚鎮子〕・槙の局〔樹下巻子〕を召されるのでしたが、どういうわけか槙の局だけは嫌って、
明治陛下は「犬でも〈おかめ〉は嫌いと見えるね」などと御冗談をおっしゃっていました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
吉井友実『日記』宮内大臣

1871年8月1日
数百年の女権、ただ一日に打ち消し、愉快極まりなし。

1872年5月5日
明治皇后の御奮発はいっそう盛んなものが拝せられた。
明治皇后は後宮のことは自分御一手をもって処理遊ばされるとの御意気込みをもって、典侍以下女官36人を罷免したもうたのである。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
宮内大臣吉井友実から岩倉具視への手紙

12典侍はじめ36人御減少、後宮は明治皇后御一手にあいなり候。
かの禁中の女房と申す様なる一塊あり候ては、朝廷永年の御煩と始終存じ上げおり候ところ、この節百年の害をお除き実に恐悦安心つかまつり候。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『明治天皇紀』

1872年4月24日
両典侍ともに先朝以来の女房なるをもって、その権勢みずから後宮を圧し、皇后の懿旨といえども行われざること往々あり、かつ女房の習、先例・旧格をのみ墨守してあえて移らず、固陋の甚だしき、ややもすれば聖徳を防ぐることなきにあらず。
禁中奉仕の女房に内女房・皇后女房の別ありて、天皇に属する者と皇后に属する者との葛藤絶えざりしが、この際この区別も撤廃し、すべてこれを皇后主宰の下にあらしめ給う。
後宮の権力、初めて皇后の掌中に帰する。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『牧野伸顕日記』

1921年3月14日
鎌倉に行き、柳原愛子に面会。
●女官は伯爵以下の家に限る古代よりの慣例ありと言う。
ゆえに公爵家・侯爵家より選ぶことはかなわぬ事なり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

また女官になるのは華族の内でも中位の華族の娘で、上位の華族からなった例はない。
典侍から権掌侍までは堂上華族の娘から上がることになっているが、掌侍から典侍に昇官することは絶対にない。
命婦・権命婦は寺社の娘から上がる。
女嬬・権女嬬は京都の下賀茂の士族の娘が上った。
雑仕は京都の八瀬村も出身で、俗に赤前垂と呼ばれ、丸髷に桃色の麻の布を腰に巻いている。

まるで宮中を我が家のようにしている人、それが昭憲皇太后大夫香川敬三さんだった。
やかまし屋の香川さんは、反面人情に厚いところもあって、馬車を使っても使いっぱなしにするようなことはなく、いつも酒肴料を支給した。
無邪気なところもあったので、下の者から怖がられながらも好かれていた人であった。
ことに女官からは「お父さん、お父さん」と親しまれて、非常に大事にされていた。
当時香川さんの娘〔香川志保子〕がやはり御用掛として勤めていたが、女官はこの娘さんに対しても「お嬢さん」と呼んでいた。
それが50のお婆さんになってもやはりそう呼んで大切にしていたのである。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

柳原愛子は〈早蕨の局〉という源氏名をいただいた。
この人はいかにも大宮人といった感じを持っていた人で、小柄な細面の淑やかな人であった。
園祥子は〈小菊の局〉という源氏名をいただいていたが、私が知った頃には顔にホクロの多いお婆さんであった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

俸給は普通の官吏並みで、典侍は勅任官と同じ、権典侍以下権掌侍までは奏任官並みの150円。
権典侍には別に御化粧料として、御納戸金の中から150円をいただいていたそうです。
盆暮のボーナスは官吏として出るものは十五銀行手形で、別に御納戸から出る現金の方は段紙に白赤の水引が二本かけてありました。
白赤の水引というのは白赤ではなく、青光りする昔の口紅を使ったもので、一見黒のように見えます。
御所ではこれ以外の水引は使用されませんでした。
双方合わせると900円ばかり。
衣装費は相当入用でしたが、お下がり品もいろいろいただきますし、物質的には相当恵まれておりました。

掌侍・権掌侍は明治皇后様のお身の回りの御世話。
命婦・権命婦は表の人と奥の人との間を連絡するのが主な役目で、原則として御部屋の内には入れません。
掌侍・権掌侍は両陛下の御用以外は、東宮両殿下に御茶・御菓子くらいを差し上げる程度で、その他は皇族方でもみな命婦・権命婦が御接待申し上げることいなっておりました。
士族出身は命婦以上には昇級しません。

権典侍は俗な言葉で言えばお妾さんです。
陛下のお身の回りの御世話がその仕事。
お遊びの時はともかくとして、権典侍は公の場所には一切出られないことになっておりました。
陛下が御内儀においでになる時は交代で一人は終始御側に詰めています。
宿直も交代で、その当時御寝台のそばで休むのは小倉文子・園祥子の二人きりでした。

権典侍ではありましたが姉小路良子だけは仕事が別で、いわば副女官長とでも言いますか、女官長高倉寿子の差し支える時には事務的な仕事をいっさい承っておられました。
この人は昔 跡見女学校の舎監などもやったなかなかのしっかり者で物知りでもございましたから、忘れた字などをよく聞きに行ったものでございます。
「私を字引と間違えては困りますよ」などと言いながらも、すぐ教えて下さいました。

そこへ行くと柳原愛子はちょっと中途半端な存在でした。
両典侍と言って高倉寿子とと共に第一位に名を連ねてなかなかの勢力家ではありましたが、若い時は権典侍でしたし、13歳のとき英照皇太后の女官として上がられたのですから、御所内で育ったような人で世間のことは何もわかりませんから、すべては老女〈ふき〉が一任されておりましたようです。
〈ふき〉は若い時から長年勤めておりましたので、東宮様〔大正天皇〕御誕生の時の有り様などよく聞かせてくれました。
「御産所においでになってからもひどいヒステリーで手のつけようがなく、侍女たちはもとより看護婦さえみなお暇を取りましたので、私一人で寝る間もなく御世話申し上げました。御誕生も大変重く、東宮様は仮死状態でお生まれ遊ばしましたが、よくまあ御二方とも只今のように御元気におなり遊ばして」と涙ながらに述懐しておりましたものです。

あるとき私が父との面会を終わって応接室に出て参りますと、通りかかった花松の局〔千種任子〕が、
「いまのは〔あなたの〕〈おでいさん〉〔お父様〕でしょう。ずいぶんおつむ〔頭〕が白くなりましたな」と言われるので、
「おでいさんはあの岩倉静子さん〔久世通章の離婚した前妻〕などをお貰いになったので御不幸だったのですよ。この私さえ貰っておおきになれば、この通り丈夫で御幸福だったのです」
「それはどういう御話でございますか」
「実はね京都の華族会館でお見合いをしたのです。あの時分は黒い髪のフサフサとした鼻の高い好男子でしたよ」
「思召に入りましたの。大変光栄でございますわ。でも今の典侍さんは日本一のお婿様〔千種任子は明治天皇の側室〕でございますもの」
「だけど、おでいさんの方が美男でした」
二人は声をあげて大笑いいたしました。
双方ともこんなに歳を取った人たちの思い出話もまた面白いと思いました。
私は後添いの子でございますが、やはり父に向っては言いにくく、ついにこの話はいたしませんでした。
花松の局〔千種任子〕も髪の毛が薄くなって人目につきますぐらいになって、当時まだお小さかった皇孫様方〔大正天皇の子供たち〕がおいでになりました時、
「花松の頭には毛が少ないから、お人形を作る人に植えてもらったら」と本気で仰せられたので、みなの話の種になっておりました。

世の中に雷が好きな人もないでしょうが、女官の内には雷が大変嫌いで半病人のようになる人もあり、ことにひどかったのは松の局〔樹下定江〕
少しでも鳴り出すと日頃の勝ち気はどこへやら、真っ青になって脳貧血を起す癖さえありました。

1959年に皇太子〔平成天皇〕の御成婚が挙げられましたので、その影響でいろいろな雑誌などに皇室のことを扱っているのをたくさん見かけました。
記事として掲げるものならデタラメではなく本当のことを書いてほしいと思います。
わからなければ書かない方がよろしいのではございますまいか。
美しい才媛だと書かれた柳の局〔小池道子〕はさぞかし草葉の陰で目を白黒させているでしょう。
御歌のために出た人ですから才女ではあったのでしょうが、誰がどこから見たらお美しかったのか。

夏の夕刻 私が詰所で凄まじい勢いの夕立を眺めておりますと、今まで両脇に並んでいた先輩二人がパッと立ち上がると御杉戸の外に姿を隠しました。
他には障子屏風の囲った中で、柳の局〔小池道子〕が御歌のお写しをしているのと二人だけになりました。
すると力強い衣ずれの音がして、明治陛下が詰所のそばまでおいでになりました。
私には初めての経験でした。
私がただ低く頭を下げておりますと、
「おい、掌侍はみなツンボか。柳は何をしている。頭のしつけが悪いから、こんな小僧一人にして」と御立腹の御様子ですが、私は何のことやらさっぱりわかりません。
お後ろから駆けておいでになった明治皇后様が何かとおとりなし下さいまして、明治陛下も御座所にお帰りになりました。
やっと頭を上げますと、逃げ出した人たちは詰所に帰って来ておりました。
なにか日頃から柳の局について思召に入らぬふしがあったらしいと承りました。
たいていのことは誠に御寛大な明治陛下でございましたので、初めてあんな御様子を拝し本当にどうなることかと驚いてしまったのでございます。

あるとき小さな橇に箱を載せて大切そうにそろそろと引いている食堂の子供に出会いましたので、
「それなあに?」と聞きますと、
「柳の局〔小池道子〕が御注文のあんこうでございます。気味の悪い物でございます。ご覧遊ばせ」と言いながら蓋をあけて見せてくれました。
「こんなもの、どう遊ばすのかしら?」
「今夜のお酒の時、あんこう鍋にするのだそうでございます」
「まあイヤだ。気味の悪いお魚だこと」
難しい顔をした女官の半面にこんなこともございました。

1913年3月3日の御節句に沼津の大火がありました。
〔1912年7月30日明治天皇死亡・喪中の1913年3月昭憲皇太后 沼津御用邸に避寒〕
手のつけようもなく火はどんどん進んで、沼津駅までが総なめになりました。
罹災した人たちは沼津御用邸の前から静浦方面にひっきりなしに走ります。
一方かねて病気で須磨の御別邸に御静養中だった有栖川宮威仁親王が御重体というので、明治皇后〔昭憲皇太后〕からの御見舞の御使を承った柳の局〔小池道子〕が東京を出発して、夕刻には沼津御用邸に到着することになっていました。
明治天皇は柳の局をあまりお気にいらないようでしたが、柳の局は元有栖川宮家の老女だったのでこの御使にはうってつけなのでございました。
当時有栖川宮慰子妃は葉山に御滞在で、威仁親王御病気というのに近寄ろうとも遊ばさないので、その御仲裁に意味もあったと伺いました。
御用の済んだ柳の局は沼津御用邸に向かいましたが、沼津駅も焼け落ち電信電話とも普通です。
やむを得ず一つ手前の三島駅まで職員が迎えに参りましたが、数時間かかって人力車で沼津御用邸に着いたのは夜中の12時近くでした。
日頃は力の及ばぬことにまで私が私がと頑張る柳の局も、この時ばかりはさすがに泣かんばかりにして到着を喜んでいました。
一段落した私たちが夕食をいただきましたのは午前1時でございました。

新年の勅題で全国各地から奉った和歌は、華族・士族・有勲者・有位者と区別して御歌所で綴じます。
その他一般人の者は都道府県別にしてまとめ御覧願うために上って参りますが、さすがに御歌好きの明治皇后様でもいちいち御覧になるのは大変ですから、柳の局〔小池道子〕が目ぼしいものを選んでから御覧いただきました。
柳の局としても一時に目を通すのは大変です。
行李に入ったまま橇に乗せて、幾日か〈お弓の間〉に置いてありました。
ところが若菜の局〔津守好子〕が〈お弓の間〉をすぐ空けて欲しいと言い出しました。
双方の機嫌の良い時なら何の問題もないのですが、お酒が入ると気の荒くなる柳の局は、
「ああ、お邪魔でございますか。これだって御用でやっているのですよ。しかし除けよとおっしゃるならいつでも除けます」
「ええ、みなきれいに除けて下さい」とだんだん声が大きくなるので、明治陛下の御耳にでもと私たちも気が気ではありません。
「お手伝い致しますから」と早くおさめようと思いますが、
「まだまだ私だってこんなものに皆様の御手は借りません」と大変な剣幕で橇を引きますが、小柄の上もう年配で足元もいささか危ないのですから何としても動きません。
あっけに取られて見ていた私もおかしくて仕方がなく、ついには逃げ出しました。

大勢の中にはいろいろな性格の人もありますが、若菜の局〔津守好子〕は相当の変わり者で、あの時分働き盛りだと見ておりましたが、今から思えば更年期かなにかでああもヒステリックであったのかもしれません。
何事にも極端な性質で、人の言葉を真っ直ぐに受けられず、人を苦しめ自分も苦しんでいるといった気の毒な人でした。
神経痛と大食家の肥満とで起居がだいぶ不自由らしく見えましたので、時には見かねてそっと手伝ってあげたりもしました。
ある時など暗い食堂の縁側に一人突っ立って、
「こん畜生!どうするか覚えていろ」とあられもない言葉に何事かと透かして見ますと、痛む自分の足を力まかせにパタパタと叩いています。
これは誰かが自分を怨んで憑いているのだからそれを追い出すのだと言っていたそうで、若かった私たちには誠に不思議な世界でした。

昭憲皇太后様の殯宮詰は昼夜とも一時間ごとに交代することになっておりましたが、ある夜ちょうど相番になって一緒に詰所で休息しておりました若菜の局〔津守好子〕が、突然蒼白な顔になって脂汗まで浮かべて大変苦しそうに見受けましたので、
「どうかなさいましたか。お苦しければ私が二回出てもよろしゅうございますから、しばらくお局でお休みになりませんか」と言ったのですが、元来なかなかの強情張りで人の言葉を受け付けないひとですから、
「いいえ、大丈夫です」と言ったきりでした。
しかし、とうとう崩れるように前に倒れてしまわれました。
胃潰瘍でなかなかの重体、九死に一生を得て快復してからは、人が違ったかと思うくらいおとなしく、思いやりのある優しい性格に変わりました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子 明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉

私の大伯母様は梨木持子って言うんですけどね、〈清水の局〉という明治陛下の教育係でした。
高野房子さんと清水の局とが御教育申し上げて、明治陛下の一番怖いおばあさん〔年配の女官〕だったそうです。
何か御行儀悪いことを遊ばすと、「あの清水を呼びます、清水が参ります」と申し上げると、
「ああもう、そこを早う片づけ」って仰せになったぐらいでした。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

このページのトップヘ