◆秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)123代大正天皇の二男
1902-1953 50歳没

*イギリスに留学


■妻 松平勢津子 外務官僚松平恒雄の娘/会津藩主松平容保の孫
1909-1995 85歳没

*米フレンドスクール卒業


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宮内官僚関屋貞三郎から久邇宮邦彦王への手紙

1920年9月5日
秩父宮御好配の件は後日言上致しますが、その後 別に大した進展も見ず、節子皇后〔貞明皇后〕の思召は、皇室に限らず広く華族伯爵級にてもよろしかろうとの事に承り、範囲広くされますことも選択の自由も大きくなるとのことが論旨と思われます。
ことに御洋行の問題が起こり、御年齢もむしろ若い方が良いと存じあげます。
然るに今日具体的になってまいりましたものは致し方なく、のち皇族中より御選定せられずと決定したのではありませず、ただし範囲を広く伯爵級までに及ぼさんことが論旨より窺い知ることができます。
また御年齢などのことを考慮いたします時には、伏見宮女王〔伏見宮敦子女王・伏見宮知子女王〕殿下については思召しなきものと拝察するのが適当と信じております。
まちがっても双子であるという点で節子皇后がどのように考えておられるかは、いまだ拝察する機会を得ておりません。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1921年6月3日
※倉富&皇子傅育官長松浦寅三郎&宮内官僚仙石政敬子爵の会話

松浦◆秩父宮も来年は御成年につき立派なる輔導者をつけて徳量を成就せらしめられたし。
いかがしたらばよろしからん。
仙石◆御成年後は裕仁皇太子との区別を明らかにする事を自覚せらるる事が必要なるべし。
倉富◆この事は極めて大切なり。
これまでがあまり御待遇が広大すぎる様に思わるるゆえ御気には入らざるも充分に抑える必要ありと思う。
節子皇后は特に秩父宮をお愛し遊ばさるる様なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1922年2月22日
秩父宮はずいぶんワガママを仰せられる趣にて、その原因も先日松平慶民子爵より話を聞きたる事あるが、初の傅育官丸尾錦作が厳格を主としたるため秩父宮はいじけなされたり。
次の傅育官長三好愛吉はこれに懲りて放任したるため、秩父宮は放縦になられたり。
しかして三好はこれを矯むるに及ばずして死去し、現傅育官長松浦寅三郎はこれを矯むるだけの力なしとの事。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1923年1月10日
※宮内官僚西園寺八郎公爵の発言

秩父宮に随いてスキーを為すため旅行し、初めて殿下の性行を見聞したるが殿下はよほど難物なり。
何事も一通りできるが、御高慢にて人を侮らるる風あり。
殿下の行動には野卑なる事も少ならず。
その原因を探りたるに年少の少尉などと一緒に御暮しなさるゆえ、自然にその感化ある様なり。
殿下は才気あるも、充分に研究なさるる熱心はなし。
これも殿下の短所なり。

1923年8月9日
※宮内官僚小原駩吉男爵の発言

秩父宮・高松宮に随従し岐阜県に御供したるが、なるほど秩父宮にはよほど大切なる場合なり。
御行動においても野卑なる事を特に為さる事もあるが、第一に御直しなさる必要あるは御言葉なり。
ほとんど巻舌にてべらんめえ調の御言葉が出る事あり。
これは若い士官等の風に感染なされたるものならん。
御性質は弱き者をいじめなさる傾あり。
これに反し高松宮は人に対する御思遣りも深く何事も研究心強く、秩父宮が無理になさざるとはよほど異なる所あり。
スカールを為さるを拝見したるに、秩父宮は教師の言も聞かずして無理をもって漕がんとなされ、高松宮は充分に会得したる後に漕がるる様の差あるを見たり。

1923年3月26日
※倉富&有馬頼寧伯爵の会話

頼寧◆長女静子は自分より言うはおかしき事ながら、学習院にては評判よろしく「この如き人こそ皇族の妃なるべき人ならん」との噂ある趣なり。もし秩父宮の妃となる事を得れば幸の事なり。ともかく君に談しおく方よろしからん。
倉富◆先般話ありたる久邇宮邦久王および山階芳麿侯爵との結婚話は、双方とも健康充分ならざる様なるにつき止めた方がよろしかりし。
頼寧◆只今の話が成立すれば結構なり。妻貞子〔元皇族〕の関係もある事につき、望まれざる事にはあらざるならんと思わるる。

1923年3月31日
※倉富&皇后宮大夫大森鍾一の会話

倉富◆頼寧の夫人は北白川宮家より出でたる人なるが、娘に女子学習院高等科に入りおる者あり。もし秩父宮の妃と為る事を得る様の機会あらば幸なり。明日は女子学習院の卒業式にて君は節子皇后に供奉して学習院に行くべきにつきこれを見てくれよ。
大森◆実は写真でも見たしとの談は無きにあらず。しかしそれは有馬家の娘のみにあらず。5~6人の写真を見たしと言うことになれり。しかし只今より乗り気になりては困る。

1923年5月5日
※倉富&相談役仁田原重行子爵の会話

仁田原◆静子を入江為守の子為常に配しては如何。
倉富◆静子の事については、予は秘密に聞きおる事あり。他に嫁せしたき希望あり。その方は漠然たる希望にて少しも見込立ちおらず。しかしその希望ある以上は入江の方に約束する事は出来ざるならん。
仁田原◆いずこなりや。
倉富◆〈のぎへん〉なり。〔秩父宮という意味〕

1923年8月26日
※有馬頼寧伯爵の発言

先頃節子皇后より弟安藤信昭に対し静子・澄子の写真を望む旨の御話あり、安藤より姉妹の写真を差し上ぐ。
安藤の推察にては静子よりも澄子の方が思召ある様なりとの事なるが、年齢の関係ならん。
澄子の写真は額に髪がかぶりおり充分に顔容が分からずとの御話にて更に1枚を出せり。
その時「決定もせざる事に写真を幾枚も取りては気の毒なり」との御話ありたる趣なり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1924年2月26日
※宮内官僚渡辺直達の発言

有馬澄子を池田宣政にもらいたき事は、頼寧に問いたるところ「澄子は既に他に婚約ある」旨をもって断りたる趣なり。

1924年3月2日
頼寧は澄子を秩父宮の妃に為さんと欲しおると同時に、妹がその通りになれば姉静子も権衡上相当の所に嫁さしむる必要ありとて、久邇宮朝融王の婚約が破棄せらるるならば、その跡に静子を嫁せしめたき事を望みおる。
朝融王の婚約解除問題は非常に困難なる事となりおるゆえ、たとえ解除と為りてもその跡に嫁せしむる事は面白からざるならんと思う。

1924年4月10日
※倉富&有馬頼寧伯爵の会話

倉富◆朝融王の婚約解除問題は大変に面倒となり容易に解決すべき模様にあらず。婚約解除を待ち、その方の婚約を図らんとする事は面白からざるべしと思う。
頼寧◆この事については自分も迷いおれり。要するに妹の方が決せざるゆえ姉の方もその権衡に迷いおる次第なり。

1924年9月5日
※倉富&宗秩寮総裁徳川頼倫侯爵の会話

倉富◆秩父宮の結婚の事は如何なりおるや。
徳川◆自分はやはり皇族の方がよろしからんとの考えにて閑院宮華子女王を持ち出したり。こちらは容姿もよろしく智徳ともに備わりおる様なり。宮内大臣も至極よろしからんとて調査すべき事を命じたり。また伏見宮の敦子女王・知子女王の事も申し出しある由なるが、こちらは双子という事が難しかるべしと思う。先日賀陽宮好子妃に京都あたりにて双子の事に関する感想如何を問いみたるに、「17~18歳頃までは他より注意するも、それ以上になれば格別噂せず」と言われおりたり。

1924年11月5日
※皇后宮大夫大森鍾一の発言

近日伝聞したる所にては、有馬家にては他より結婚の申込ありたるもこれを拒絶したりとの事なり。
万一先年聞きたる様の事をアテにして、他の申込を拒絶する事ありては当て違いとなるべし。
内議にては決して左様の運びになりおらず。
これは有馬家の事のみにあらず。
他にも2~3の噂ありたる所はありたるも、いずれも取り留まりたる事にあらず。
万一左様の事をアテにしておりては気の毒なるゆえ、一応注意す。

1924年12月1日
※倉富&有馬貞子夫人の会話

貞子◆頼寧は只今の所にては静子は朝融王の妃と為す事を考えおる様なり。
また頼寧は「今後皇室を守るべき者は自分らだけになるにつき、なるべく皇室に接近する手段を取りたし。
ついては澄子は秩父宮の妃と為す事を望む」と言いおれり。
静子はもはや二十歳なるにつき、あまり延ばす事も出来ず。
倉富◆朝融王の事は種々の推測あり。
朝融王は今すぐに結婚せらるる訳にはいかざるべく、また朝融王はその性質飽きやすき方の様なる説もあり。
方々予はこちらは止めらるる方よろしかるべき旨を談したる事あり。
秩父宮は来年5月頃より御洋行の事は内定しおる模様なり。
節子皇后はその前に内定だけはなされたき思召ならんと思わるるが、如何なるべきや。
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『高松宮日記』

1921年5月13日
今日の『国民新聞』に、秩父宮の妃に一条の娘さんがおなりになると出ていた。

1926年1月4日
甘露寺のお嬢さんが二人〔甘露寺績子・甘露寺寿子〕手伝いに来る。
これも候補者なり。
〔秩父宮のお妃候補〕
姉さんの方より妹の方がニコニコしていて愛嬌がある。
顔もおとなしい。
しまいに姉の方も悪くないと思った。

1927年3月1日
宗秩寮総裁仙石政敬談として秩父宮御渡英中止の記事として出たのがとても不出来だったので、皇子御殿へ行ってみたらやっぱりお気に入っていなかった。

1927年9月10日
今朝、内親王御出産。
ああ、嫌になっちまう。
男子はできぬかな。
また秩父宮の妃殿下面倒なりか。
〔秩父宮のお妃選びが難しくなるということ〕

1927年9月27日
節子皇太后〔貞明皇后〕より秩父宮妃の候補としてお考えの者の話承りたれば、竹田宮へ行ってお話しておく。

1927年10月5日
秩父宮の御新邸は表町御殿だそうな。
なにも御殿名をつけなくてもよかりそうなもの。
私の方は御免蒙ります。

1928年1月5日
一木喜徳郎宮内大臣来談。
秩父宮の妃殿下のことなり。
これでスラスラとゆくことだろう。

1928年1月14日
大宮御所へ。
秩父宮妃のことで御満足のようだった。

1928年1月21日
夜は秩父宮へ泊まる。
もうじきお嫁さんが来たらやめる。
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『岡部長景日記』文部大臣※当時は内大臣秘書官長

1929年4月18日
原田熊雄君の招待で住友別邸に赴いた。
秩父宮・東久邇宮をお招き申し上げる。
秩父宮は日本服を召されておくつろぎ遊ばされ、日本間にて錦水の料理、御給仕は近衛文麿・細川護立夫人・高木喜寛夫人・原田熊雄夫人。
そのうち鳥の蒸煮が出た。
秩父宮が「骨がうまい」と言い出され、東久邇宮以下一同不安を感じつつ噛むとなるほどまずくない。
これは不思議と誰も彼も平らげ、秩父宮大得意。
次に出て来たのがあまごのフライ。
秩父宮は骨を平らげられる勇者にかかわらず頭がお嫌いの由にて、あまごの頭までをいちいち取って上がられるのを、ここぞとばかりに東久邇宮が「これは頭から食べられる」とおっしゃる。
両宮の間に大激論、一座大笑いとなる。
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『本庄繁日記』昭和天皇の侍従武官長

満州事変発生の1931年の末より1932年の春期にわたる頃のこと。
当時は満州事変勃発に伴い、国内の空気自然殺気を帯び、十月事件の発生を見るなど、特に軍部青年将校の意気熱調を呈し来れる折柄、ある日 秩父宮参内、昭和天皇に御対談遊ばされ、しきりに昭和天皇の御親政の必要を説かれ、要すれば憲法の停止もやむを得ずと激せられ、昭和天皇との間に相当激論あらせられし趣なるが、その後にて昭和天皇は侍従長に『祖宗の威徳を傷つくるがごときことは自分の到底同意し得ざるところ、親政と言うも自分は憲法の命ずるところにより現に大綱を把持して大政を総攬せり。これ以上何をなすべき。また憲法の停止のごときは明治大帝の創制せられたるところのものを破壊するものにして、断じて不可なりと信ず』と漏らされたりと。
誠に恐懼の次第なり。
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『木戸幸一日記』

1932年6月21日
※木戸・近衛文麿・原田熊雄・宮内大臣一木喜徳郎が会談

秩父宮の最近の時局に対する御考が、ややもすれば軍国的になれる点につき意見を交換す。

1933年3月8日
秩父宮御参内になり、種々昭和天皇とお話あり。
後で昭和天皇は「従来秩父宮は政治についても軍部の見るがごとき軍本位のかたよれる御考が多かりしが、昨今はだいぶ変わられて御眼界も広くなられし」との御感想をお漏し相なりたり。
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二二六事件の叛乱将校 中橋基明の獄中遺書

《判決の不正を絶叫す》
秩父宮殿下 歩三におられりし当時、国家改造法案をよく御研究になり、改造に関してはよく理解さられ、このたび蹶起せる坂井直に対しては、御殿において「蹶起の際は一中隊を引率して迎えに来い」と仰せられしなり。
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朝日新聞 1937年9月14日

『きのう秩父宮殿下 ヒトラー総統と御会見 ニュルンベルク城で』
「秩父宮殿下には、ヒトラー総統・ヘス無任所大臣・ゲーリング航空大臣・党団代表およそ30名に堅き御握手の後、城内の大広間でヒトラー総統以下30数名の日独両国の外交官と午餐を共に遊ばされた」
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