◆高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)123代大正天皇の三男
1905-1987 82歳没


■妻 徳川喜久子 将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵&有栖川宮実枝子女王の娘
1911-2004 92歳没


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前任の有栖川宮務監督平山成信から後任の有栖川宮務監督西紳六郎への手紙

1916年10月20日 必親展
過日拝顔の節お尋ね御座候 徳川喜久子様の件は、小生宮務監督奉職中の1913年6月22日 当時の宮内大臣渡辺千秋 舞子御別邸に伺候し、故有栖川宮威仁親王〔高松宮喜久子妃の祖父〕の御病室で拝謁の上、第三皇子宣仁親王に高松宮の御称号を賜ることに内定なりたるむね言上せしに、深く聖旨の厚きに御感佩遊ばされ、その儀御決定の上はなるべく早く御発表なり候よう取り計いくるるよう渡辺宮相に御頼談ありたる後、他日徳川喜久子様御成長の上、高松宮妃に御選定の御都合にもなり候はば、誠に御満足遊ばさるむね御内話あり。
渡辺宮相も御希望の趣にはまったく御同感につき、時機を見て大正両陛下にも内奏仕るべきむねお答え申し上げ退席さられ表客室にて休息中、有栖川宮慰子妃は威仁親王の思召により御滞在中の徳川喜久子様を親しく客室にお連れになり、渡辺宮相にお引き合せ遊ばされたる次第に御座候。
この段、参考まで申し上げ置き候。
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宮内大臣波多野直敬から有栖川宮務監督西紳六郎への手紙

1917年3月27日
高松宮妃に関係する件、前宮内大臣渡辺千秋より別紙の通り中継を受け候。
1916年12月、節子皇后より本大臣へ同様の御沙汰あり候。
当時御内約済と言うまでには運びおらざるも、相当の時機においてお取り極めあらせらるべき御内意と伺い奉り候。
参考まで申し置き候なり。
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別紙
有栖川宮威仁親王御病気重くならせられ候際、宣仁親王に高松宮の御称号を賜い、かつ成長の後は徳川慶久公爵の娘喜久子を妃にならせられたき御内願を拝承し、帰京の上そのむね委細言上置き候こと、お引き継ぎ申し述べ候。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長

1923年8月9日
※宮内官僚小原駩吉の発言

秩父宮・高松宮に随従し岐阜県に御供したるが、なるほど秩父宮にはよほど大切なる場合なり。
御行動においても野卑なる事を特に為さる事もあるが、第一に御直しなさる必要あるは御言葉なり。
ほとんど巻舌にてべらんめえ調の御言葉が出る事あり。
これは若い士官等の風に感染なされたるものならん。
御性質は弱き者をいじめなさる傾あり。
これに反し高松宮は人に対する御思遣りも深く何事も研究心強く、秩父宮が無理になさざるとはよほど異なる所あり。
スカールを為さるを拝見したるに、秩父宮は教師の言も聞かずして無理をもって漕がんとなされ、高松宮は充分に会得したる後に漕がるる様の差あるを見たり。
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『侍従次長 河井弥八日記』参議院議長※当時は侍従次長&皇后宮大夫

1931年4月25日
高松宮喜久子妃がニューヨークで「ヨーロッパに学ぶべき一物も無し」と述べられしこと、ワシントンで「禁酒法はいつまで続くや」と問わせられしことにつき、宮内次官関屋貞三郎よりの照会に対し出淵勝次大使より回答あり、その真相を了解したり。
しかれどもいったん新聞紙に登載せられし以上は満天下の誤解あるをもって、これが対策を宮内大臣一木喜徳郎・関屋次官・宗秩寮総裁仙石政敬に進む。
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『木戸幸一日記』内大臣

※1932年8月、3代宮内大臣田中光顕伯爵が9代宮内大臣一木喜徳郎に辞職を迫り、
一木宮相は1933年1月に辞職する。

1932年8月25日
田中光顕伯爵の行動の真相を知ることができた。
問題は高松宮と徳川喜久子姫の御成婚に関連するものであって、田中氏が宮内大臣当時、有栖川宮栽仁王に内親王を配せんとする議があったところ、
明治天皇は「有栖川宮の系統には狂人があるので、かくのごとき系統のところには内親王を婚嫁せしむることを得ず」と仰せられたることあり。
田中氏はこの点より見て高松宮に喜久子姫を配するはよろしからずと考え、かねて御内意の存したる時も宮内当局に注意したるが、御成婚御内定の際も一木宮相に考慮方を注意したるにもかかわらずこれを決行したるは実に不都合なるゆえその責任を問うというのであって、もし宮内大臣にして辞職せざるにおいては、この問題を暴露して争うと言うのである。

1933年4月25日
湯浅宮相が元宮相田中光顕伯爵と会見し、
田中氏より「高松宮の御子孫と皇室の御縁談なきよう取り計われたし」と申し入れ、
湯浅宮相が「深く念頭に入るる」ということにて、円満解決せしとのことなりき。

1937年10月12日
*10月1日伊勢神宮祭主を務めていた久邇宮多嘉王が死亡

賀陽宮家松浦別当来訪。
伊勢神宮祭主につき賀陽宮恒憲王より、「現在のところ軍籍を去って奉仕するの意思はなく、兼任なれば梨本宮もおいでのことなれば、この次ぐらいにはお勤めしてもよろし」との御意を漏らされたりとの話ありたり。

※東宮〔平成天皇〕伝育官石川岩吉の発言

伊勢神宮祭主につき、かねてより高松宮は御希望あり。
今回もその御気持はあり、多嘉王の御勤務ぶり等も御調べありたり。
高松宮は軍籍を退きてとの御考なるが、
「これは今日海軍において容易に御同意せざるべし」と申し上げたるに、高松宮もその点は御同様に思し召され、結局今回は別段御申出はなかりしなり。
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『入江相政日記』侍従長

1947年3月19日
高松宮へ行く。
加藤宮内庁次官・三井・犬丸・高尾と予。
赤十字が島津忠承社長・赤木朝治副社長・原泰一副社長。
日赤渉外部長池田徳馬君・松平信子夫人・葛西社会局長。
いろいろ仰せがあり良子皇后を名誉総裁と仰いだ以上、宮内省も考えろ赤十字も考えろとのことだが、 例によって例のごとく、主旨は御自身の聡明さを一同に誇示しようというのに尽きている。
おそらく何の効果もなかったろう。
どうしてこうもお違いになるのか。

1947年9月24日
高松宮明日より群馬県の水害地へ御差遣につき御召になりいろいろ御注意になったところ、いちいち反抗遊ばした由。
実に済度しがたきものである。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1948年5月23日
高松宮と掛け違いの様子。

1948年6月24日
高松宮のこと昭和天皇の思召を伺う。

1948年7月3日
御回顧録を読む。
御回顧録を読了す。

1948年7月6日
高松宮問題。

1948年7月9日
退位問題をお確めす。

1948年7月16日
高松宮問題。

1948年7月21日
政府の特例上の要求ならば考えぬこともない様子なれども、高松宮の行動上、今回はこれにて止めたいと思う。

1948年7月28日
高松宮、総裁問題御了承。
ただし今後多少御隠忍御不願、当方も担えず拝辞す。
牧野伸顕参内、退位然るべからずと奏上の旨。

1948年12月18日
良子皇后御召、昭和天皇御心配のこと、高松宮があること言いしによる、女のことかと御心配ゆえだいたい申し上げ、昭和天皇にも申し上ぐと申す。

1948年12月20日
昭和天皇に拝謁、高松宮のこと言上。
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『入江相政日記』侍従長

1948年2月5日
侍従長大金益次郎の所へ行く。
高松宮を御招待。
宮内庁次長加藤進・侍従次長鈴木一・三井安弥・高尾亮一・徳川義寛という顔ぶり。
牛鍋で非常に愉快。
さすがの高松宮も全然皮肉をお飛ばしになる隙がない。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1949年3月6日
元東宮伝育官石川岩吉氏来室、秩父宮・高松宮の性格談。

1949年3月11日
高松宮喜久子妃来室、女のこと。

1949年3月15日
式部頭松平康昌に高松宮妃のこと、昨日の高松宮 皇太子御外遊のこと言う。

1949年7月16日
秩父宮に委細申し上ぐ。
帰る時「また厄介かけるかもしれぬ」とワガママ口あり。
高松宮にお話す。
「昭和天皇の御話は承り置くも、新聞社に会わぬことはできぬ」との御話。
利用云々の御言葉もあり、不遜との御言葉ちょうだいす。

1949年7月18日
三笠宮御訪問。
高松宮のことに及び落涙す。

1949年9月28日
皇太后宮大夫坊城俊良来訪。
宮様方の行動につき御不満の話。
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『入江相政日記』侍従長

1949年2月8日
宮内庁次長林敬三から「御進講に高松宮もお誘いになっては如何」との件につき話がある。
反対しておく。
また三笠宮と宮内官との懇談会の話もある。

1949年3月14日
田島長官・林次長・鈴木侍従次長・三井・鈴木・山田といろいろ議論を重ねる。
今日はどういうのか高松宮の御発言も非常に多い。
高松宮はさすがに老熟したところもおありで、だいたい我々と同じ思想のようであるが、三笠宮とはついに平行線的なものであることがわかる。
今日は5時間も毒気にあてられたので参ってしまう。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年2月12日
田島長官◆これ要するに昭和天皇の御思召と多少の背馳覚悟にて、直宮様との融和のために力を尽くすこと。
昭和天皇◆高松宮など進駐軍その他に他言されしことあり、案外信用できず。
皇弟の自覚なし。
田島長官◆直宮様と御一体は世上の変化上、ますます必要。
高松宮は「宮内庁は何の役にも立たぬ」との仰せを拝しながら、できるだけのことは致すつもりでおります。

1949年2月21日
昭和天皇◆皇族と親しくしたく思うが、どういうことをするのが親しくなるのか、日曜日の映画もそのためだがあまり来られぬ。
高松宮は特に食事が御趣味で、あまり出さぬ葡萄酒を出したら非常に喜ばれたが、食事に招くのがいいのか、いったいどうすればいいか。

1949年2月28日
昭和天皇◆新東宮大夫野村行一・新東宮参与小泉信三は正しい良い人で大変よいと思うが、新任の時に高松宮・三笠宮はいつも何かと仰せになることがあるので、その点注意せよ。

1949年3月8日
昭和天皇◆北白川の叔母さん〔北白川宮房子妃〕が高松宮・三笠宮の少し遊び過ぎらるることを言っておられた。
「節子皇太后〔貞明皇后〕も御承知なき様子ゆえ、昭和天皇から仰せになりては」との御話ありし。

1949年3月11日
昭和天皇◆皇位継承または摂政の立場にあることゆえ、万一にも起こるに備えて修養することが高松宮・三笠宮の本分で、他のことをいろいろなさることは本来必要でないことと思う。
然るに映画またはダンスホール等へ出られるほか、民間人の希望に副っていろいろの所に行かれるが、その民間人の悪口もずいぶんあるらしき様子。
これは本分に顧みていただきたく思う。
これは私の理想論かもしれないが。

1949年3月24日
田島長官◆三笠宮は観念論で、「歴史の発展上君主制はなくなり大統領制になりつつある以上、日本の新憲法も天皇制廃止の課程として宮内庁官吏は考えるか」という御話にて、純然たる観念論。
高松宮は「科学が発達しても宗教が盛んになると同じようで、人間の観念理屈だけで歴史は動かぬ」という議論で、高松宮も天皇制支持のように拝しました。
ただしお二人とも天皇陛下の戦争責任問題に関してはちょっと変な言い回しをなさいました。
昭和天皇◆戦争責任については三笠宮が昭和天皇に仰せありし旨。
その節、宣戦の詔書には朕が志ならんやと言ってるではないかと言った。
またパールハーバーは海軍作戦に過ぎぬ。
(この点、田島はいつも残念と思う)

1949年9月7日
昭和天皇◆進駐軍の趣旨には悪いが、先だっての秩父宮の新聞事件のことに関して、別当のようなものを新設して秘書的に置くということはどうだろうか。
田島長官◆仰せの通り進駐軍は宮家の人を宮内庁で負担することには大反対でありますが、それは別として高松宮の現状ではその制度ができても何もなりませぬ。
高松宮自ら御会見して、御面会者の選択を事務官吉島六一郎にもお許しにならぬ状況でありますから。
しかし仰せゆえ、研究しましょう。
昭和天皇◆もう、研究せんでもよい。

田島長官◆秩父宮の新聞事件に発する昭和天皇の命を高松宮にお伝えせし際、「不遜なことを言う」と叱られた。
昭和天皇◆先年高松宮が御名代の時、強く新聞記者のこと仰せにありし時は「行かぬ」との仰せありしゆえ、「それならばやめてもらう」と仰せにより、高松宮「行く」と仰せになりし由。
田島長官◆元高松宮別当石川岩吉に聞きし高松宮の御性質等より、何かにおもねらるる様にも思わるる旨。
昭和天皇◆東条英機・嶋田繫太郎は大反対で、しかし海軍砲術学校の時は主戦論、何か周囲の者に主観的に同意せられ表論的に意見を述べ先見を誇らるる傾向あり。
田島長官◆秩父宮は先日申し上げし際、「また厄介をかける」との雑談的御返事なりしも、厄介をかけたとの御挨拶と存じました。
また高松宮も新聞記者のために相当苦い御経験もあるらしく、御利口の方ゆえ今後新聞でお困りになることはありますまい。

1949年9月15日
〔昭和天皇の研究『相模湾産後鰓類図譜』が出版される〕
田島長官◆宮様方にも科学上の御知識はとにかく、贈呈しかるべきと存じます。
昭和天皇◆秩父宮に「研究所で採集のものを本にする」と話した時に、
秩父宮から「昭和天皇御自身の御名前をお出しになること云々」の御話があり、また本をあげればそれを蒸し返されるかもしれず、イヤなのだ。
田島長官◆それはやはり大きくお考えのうえ御贈呈しかるべきと思います。

1949年9月19日
昭和天皇◆三笠宮から本の御礼がすぐ来た。
三笠宮は近来よほどよくおなりになったように思う。
『改造』に寄稿は困るが、まあよくおなりと思う。
高松宮は遅く御礼が来た。
秩父宮はまだ何とも言ってこない。
東宮も御礼が遅かったが、これは年少で侍従の出したのに気づかれるのが遅くとも仕方ないが、宮様方は新聞も御覧で早く御礼あってしかるべきだ。

その後三谷侍従長曰く、「昭和天皇は今回の本につきては非常に particular である。例えば『田島は東宮御床上げのとき賜物に反対したが、今回は希望するのはどうか』との御話あり。三谷その区別を申し上げ御了解になりし由」

1949年9月30日
昭和天皇◆高松宮のことだがねー。
新憲法でいくら自由とか平等とか言っても差別はあるので、皇族として明治天皇・大正天皇の御血筋として私の皇弟としておいでの上は、普通の人より不自由は当然だと思うのだが。
田島長官◆ごもっとも、その通り。
昭和天皇は最も御不自由の御方。
昭和天皇◆高松宮は皇弟という御自覚の上に御行動をしていただくようにはできないものか。
私の行くことのできない時は私の心を体して、公式ではなく非公式でもなく、心持ちの上だけで私に代ってという気持ちで御行動して下さるという訳にはならぬものか。
田島長官◆高松宮に初めて拝謁の時、「宮内庁は皇族のことは考えぬ所」と仰せにて、とうてい高松宮の取り巻き連のように耳を傾けていただくことはできぬと思いますが、決して捨てずに努力いたします。
昭和天皇◆私もあからさまに言えば喧嘩になるが、賛成できぬ時は喧嘩にならぬよう賛成はせぬため、話がいつも難しくなる。
田島長官◆ある県知事などは高松宮夫妻はごめんだと申しおる由。
陰口をたたくうちはよろしいが、いつかはもっと悪声が強くなると思います。
元高松宮家別当石川岩吉の言によりましても、何か勢力のある者に媚びてなさる傾向あるゆえ、popularity は気になさると思います。
昭和天皇◆海軍御勤務中に皇族として国民がお待ちしていると、裏道から抜けて鼻を明せる類のことをなさる。
田島長官◆高松宮が皇弟の自覚をお持ちになるような方法はありませぬから、皇族様との月一回の会をもっと充実してお近づき申すことと、両陛下との御食事をよく遊ばすことと思います。
昭和天皇◆高松宮は食事が一番よい。
(察するに皇后宮大夫坊城俊良の話と総合して、宮様のことを仰せになるのは27日の節子皇太后との御話の結果と拝察す。
坊城皇太后宮大夫の「近来節子皇太后と宮城と御仲およろしくおなりになったのに」との語調ちょっと心配なり)

1949年11月5日
田島長官◆昭和天皇より高松宮らとお近きような方法との御話もございましたが、高松宮は他の御約束が多く、ずいぶん先まで御予定済のこと多く、御出席を得ず残念に存じます。
やはり昭和天皇の方から大らかなお気持ちをもって高松宮を御夕飯にでもお招きになりましては如何でございましょうか。
ずいぶん各地へ旅行なさいますゆえ、旅先の状況等をお聞きになればよろしいかと存じます。

田島長官◆先だって大宮御所へ行幸啓の折り、高松宮も御会食のようで。
昭和天皇◆高松宮は御先約で2時頃帰られた。
田島長官◆昭和天皇が高松宮を〔候補日を〕4日も出してお招きのところ、すべて御先約済のことあり、ああいうとき多少御繰替願えればと思います。

1949年12月9日
田島長官◆恋愛結婚とか見合結婚とかいうことは皇室については如何お考えでございますか。
昭和天皇◆恋愛はとてもで、三笠宮ぐらいがちょうどよいと思う。
私と高松宮は全然古い風で、秩父宮は少し違い、三笠宮ぐらいがいいと思う。
節子皇太后は三笠宮の言いなりで、細川の娘〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕を広幡大夫は「御顔が」と言ったが、私は御顔より照宮成子内親王と同級で、叔母様になる人が照宮成子内親王と同級ではと思って私は反対し、百合子妃は私が推薦したのだ。
その時のことを思うと、いま三笠宮がいろいろ言われるのはどうかと思ってる。

1949年12月12日
昭和天皇◆皇室が里方の場合に嫁入先に干渉するとの批評は受けぬか心配。
ことに宮様方から批評出るように思う。
高松宮夫妻はタンスの引出まで見るという風で、実は女官なども大困りであり、大宮御所の女官も困っている。
良子もこれには閉口してる。


昭和天皇◆昨日高松宮夫婦が晩餐にお出でになったが、
その折り良子が高松宮に「大公使の所へもお出でになりますが、それは日を指定参りますか、数日の内高松宮の選択にまつのか」と質問せしところ、
「3~4日を言ってくるから、その内から選ぶ」と言われたが、ちょっと腑に落ちないと思う。
皇居へは毎週月曜日と約束がしてあるのに、その一般的前約は顧みずして月曜日を御選択になる場合があるのはどういうものか。
もう一つおかしいと思ったのは、
良子が「高松宮夫妻がシベリアの将官連が厚遇されてる様子だが、あれは少し魂胆があるのではないか」というような話をして、私もその意見に賛成したら、
高松宮は「何も魂胆などない」と仰せになったが、高松宮はは人が右と言えば左と仰せになる。
田島長官◆それは高松宮の御癖と存じます。
昭和天皇◆日独同盟を謳歌し、開戦論を主張しながら、東条の開戦の時にはにわかに平和論をお出しになったこともあり、どうもそういう御癖がある。
田島長官◆初耳がお好き、御自身が第一にという御気持ちがお強いからでしょうか。
昭和天皇◆ヴァイニング夫人の場合も良子より先に先生にしたいと言い、良子が始めたら何の挨拶もなしにおやめになったことがあるが、どうもおかしい。

昭和天皇◆高松宮はスキーか何かでずーっとお出かけのようだが、本来は私と連絡して、私が行くと大袈裟になるような時に名代である如くない如くにして皇弟としてお出かけになると一番良いと思う。
田島長官◆宮様の御旅行は主催者側よりの旅費によりて御支弁の場合もあります御様子にも伺いまする。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1950年3月3日
吉田首相を訪問。
三笠宮洋行のこと、高松宮のことを懇談す。
吉田首相としては、三笠宮の件はGHQ副官ローレンス・バンカーの意見を聞くこと、高松宮の件は何か適職心掛けること。

1950年3月8日
高松宮スキー御負傷第一報、侍医御差遣等手配す。

1950年6月13日
小倉氏談。
高松宮、御旅行多し、花柳あること希望とのこと。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年1月2日
田島長官◆先日三笠宮から高松宮の御旅行のため民間に怨言あることの御話出ました際、高松宮が反抗的に御話になりしこと。
昭和天皇◆高松宮妃も御話あったが、高松宮は人が言えば余計にかぶせて仰せにはなるが、実行はなさらぬようだ。
また高松宮は上の者とか宮内庁から言えば非常に御反抗的だが、民間の者や投書にはなかなかお聞きになるとのことだ。

1950年1月6日
昭和天皇◆今朝の新聞に高松宮が東宮御洋行のことを話しておられるが。
高松宮は新聞社員などには実にうまく仰せになり、時期の問題だと仰せになった誠によろしい。
こういうことは秩父宮や三笠宮と違っておよろしい。
三笠宮は御正直で、御口と御腹は一つでその点はおよろしいが、仰せにならぬでもよきことを仰せになり、それも御自分のことをいつでも省みて仰せになるが、多少歪められている場合もある。
例えば結婚の問題なども、私と高松宮は決まっていたようなもので、秩父宮は少し違うが、三笠宮はずっと御自由で御自分で御選択になり、節子皇太后はいいなりであったのに、御自分では外部の力によったように思って御話になり、ちょっとわからぬ点がある。
日光や葉山の御用邸の付属邸など、節子皇太后と三笠宮と御一緒にお住みのために作ったものだが、「親子兄弟一緒でなかった」という風に人に御話になるが、あの点はどうかと思う。

1950年3月10日
〔高松宮、スキーで負傷〕
田島長官◆高松宮、御軽傷にて結構でございました。
昭和天皇◆私はこれが新聞などへも出て、多少御反省の機会になればよいと思っている。
国民の状態がこんな時、行楽的にお出かけが多すぎるように思うから。

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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年3月11日
田島長官◆高松宮は莫大な税金のようでございますが、秩父宮・三笠宮は大したことないと存じます。

1950年6月22日
昭和天皇◆田島は知らぬから宮中服のできた沿革を話しておこう。
それは第一に高松宮妃の主唱でできたので、秩父宮妃などと研究の結果できた。
私はむしろ反対だったが、結局出た。
理由は洋服は英米的だというのである。
同盟の独伊も洋服だからと反駁したが、軍人などは何か国粋的なものという声を上げてた。
これに妃殿下方がまず乗ぜられた。
第二に繊維不足という時勢の声に対し、一反の反物ででき、上衣は丸帯でできるということであって、まあ結局承知したが、後でわかったことには、上衣は丸帯ではできず新調ということになり、東久邇の叔母さん〔東久邇宮聡子妃〕など「洋服以上に面倒だ」と私にこぼされるようになり、宮内大臣松平恒雄に上衣をやめることをいくら話してもなかなかやらず、通牒でやっと出したが、「戦時中」とあったゆえ、これを「当分」と変えようとしたが、松平は遂にやらず宮内大臣が石渡荘太郎になってこれが実現した。
上衣のヤメやら何やらで節子皇太后は結局今までお着にならず、お作りにならない。
なお高松宮妃の御自分的な理由は、今までの洋服裁縫師がいなくなったことであるが、これは私的な理由で私はどうも賛成できなかった。
その高松宮妃が戦後批評が出るとすぐ洋服を自由になさるのはどうかと思う。
秩父宮妃の、相当の研究の結果ゆえ不評でも何とか改良してという立場の方が理解できる。
フランス大使か誰かが三笠宮妃に「この服はなってない。パリでお作りなさい」と言ったこともあると聞いている。
私は宮中服には本来賛成してない。
和服が良いと思うが、節子皇太后が不様という訳で不賛成で宮中服となり、しかも節子皇太后は宮中服は召さぬ訳だ。
田島長官◆和服について併用の意味で節子皇太后のお許しを得て、和服の方向に行き得るかよく研究いたします。
昭和天皇◆節子皇太后のモンペも戦争の防空から来てて、戦時色はある。

1950年7月5日
田島長官◆三笠宮のことに関連し、明仁皇太子・常陸宮のこともなかなか考えさせられまする。
明仁皇太子は特別にて民法に長子相続もなくなったにかかわらず、皇室だけは長子相続の建前で二男・三男は冷や飯で、この点よほど注意しなければならぬと存じます。
明仁皇太子のことは東宮大夫穂積重遠の無責任では駄目ゆえ東宮参与小泉信三に替ってもらうという具体案ができてお許しを得て実行しましたが、常陸宮についてはなお研究中。
昭和天皇◆田島は戦争後になって宮様方が平民的自由と皇族の特権とを両方活発にやられるようになったと言ったが、戦前からずいぶん平民的な特権をやっておいでだった。
一つは別当などの人がついていたことと、今一つは検閲制で新聞に出なかったというだけだ。

1950年9月18日
田島長官◆東京新聞の三笠宮の御意見発表は、現地で同様の御発言がありましたか否か心配になり、現地に聞き質しましたが、現地ではそのことございませんでした。
昭和天皇◆高松宮妃のように発表前にお見せいただくといいのだがねー。
もっとも高松宮は高松妃のやり方に御反対だそうだが。

1950年10月17日
田島長官「高松宮■■事件、御承知なりや」お伺いせしところ、
昭和天皇「高松宮妃が良子に話しておられるのを間接に聞いた」との御話にて、式部官長松平康昌より聞きし大要御話申し上ぐ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年5月18日
〔1951年5月17日節子皇太后死去〕
田島長官◆陵名を石に刻して埋めるのでございます。
大正天皇の時は閑院宮載仁親王の筆でありまするが、今回は殿方様にお願い致しましょうか。
昭和天皇◆高松宮がよい。
秩父宮は御病気のため、毛筆の大字は御無理であるから。
それに高松宮が字も一番御上手だ。

1951年6月5日
昭和天皇◆昨日突然秩父宮妃と高松宮妃が来られて、高松宮妃は宮中服は失敗だったとの観念があるらしく、はっきりあれは間違いだったとの話はないが、秩父宮妃は別の態度で何か一新軌軸を出そうとしたもので、一朝一夕に廃すべきでなく、また戦時に関連したものでもないとのお考えが強く、とても強固だ。
それほど時局に影響ないならば、その時にも私は言ったのだが、
「戦争済んでから日本古来の伝統も考えてゆっくり新しいものを創造していいではないか」
それをあの際やったのは、何と言っても戦時色あるを免れぬと思う。
三笠宮なども「洋服は米英式だ」と言ってたような時代で、
私は「ドイツ式でないのか」と言ったことがある。
だからこの際 私の天皇服のように一時 人の目の見える所のみとして、世の批評を聞き、再検討・再出発すればよいので、そのつなぎに和装をやってみれば、またそれの批評も出よう。
秩父宮妃が宮中服成立の経緯につき、相当主張あることを物語りしゆえ、話が出るかもしれぬから参考に話す。
田島長官◆田島は節子皇太后に良子皇后和装の明瞭な同意を得るつもりでありましたのが御崩御ですが、昭和天皇の御趣意にも合しまするゆえ、和装をお始め願えばよいと存じます。
昭和天皇◆秩父宮妃が宮中服に執着強く、改良してモノにしたい意思が強いが、何か古い伝統のあるものは廃するに忍びぬことがある。
田島長官◆それはそうでありますが、宮中服はそういうものではありませぬ。
昭和天皇◆そうだよ。

1951年6月15日
昭和天皇◆節子皇太后の御遺書の事だがねー。
節子皇太后は筧克彦の御進講「神ながらの道」をお聞きになったのだが、その筆記をどういう意味かわからぬが秩父宮にあげてくれとある。
これはその通りにするだけのことゆえ差し上げてもいいが、どうして秩父宮かということはわからない。
とにかく秩父宮は節子皇太后の一番お気に入りであった。
三笠宮も末のお子さんで〔溺愛され〕高松宮が御不平で、
戦争の時 支那の上海か何か危険な所へお出でになったのも、その御不平のためであったような話も聞いた。

1951年6月21日
田島長官◆〔貞明皇后の墓の〕お土かけのこと、高松宮御電話あり。
皇太子様もとの御説あり。
「お小さい方も印象をはっきりするためになすったらよい」との御意見でしたが、
「順宮厚子内親王が遊ばせば、照宮成子内親王・孝宮和子内親王、またその御配偶者、さすれば東久邇宮稔彦王・東久邇宮聡子妃もとなりますが」と申し上げ、
高松宮は「内廷皇族で線を引ける」との仰せ。
昭和天皇◆それは私としては困る。
稔彦王の関係もどうなるかと思うゆえ、最初の両陛下・直宮・妃殿下方だけか、皇太子を入れただけにしてもらいたい。
皇太子を入れたために他に波及するなら、皇太子もやめてくれ。
田島長官◆高松宮に申し上げましょう。

1951年7月26日
昭和天皇◆久邇宮朝融王はいつでもそうだよ。
そうして御実行にならぬから、初めから嘘をついてるということになるのだ。
その点同じ海軍でも高松宮と反対だ。
その場ではそうだと言わずなんだかだと言われるが、実際の行動は口で反対されたことをやられるのでもなく、むしろこちらの言ったことのような行動をなさる。
それは御利口だから。

1951年7月27日
昭和天皇◆節子皇太后の御遺物の処理のこと、秩父宮・三笠宮に御異存なければ高松宮に御一任して案を立てていただくのがいいと思うが、そう御話を運んでもらいたい。

1951年8月3日
田島長官◆高松宮御遺物処理案作成の件は誠に快く御承諾。
しかもいわば皆で案を作る下働きをすることゆえ、昭和天皇の御裁可は当然、秩父宮・三笠宮の御同意も高松宮より御話するとの、極めてなごやかなる仰せでありました。

1951年8月22日
田島長官◆高松宮に御遺物分配の件「百日祭までにおできでございますか」とお伺い致しましたが、「いや、とてもだ。来月」との仰せでありました。
昭和天皇◆高松宮はいつも三日坊主だ。

1951年9月4日
昭和天皇◆赤十字に関する高松宮の考え方やまた御遺品の分配のことなどで私の憤慨してることから考えて、高松宮という人は何でもちょっと自分が頼まれればその関係の所有権を自分が持っているように振る舞われる人だと思われる。
私が頼んだ節子皇太后の遺品分配のことでも、自分でどんどん女官などにやっておしまいになるし、私は非常に憤慨してる。
田島長官◆田島が昭和天皇の思召をお伝えしました時には、高松宮は「私が下働きの幹事役をするだけ」という御挨拶でありまして、その高松宮と昭和天皇の仰せとは矛盾で私も憤慨いたしまするが、さりとてこの点を昭和天皇が筋を通して高松宮に仰せになれば難しい事態になりまするゆえ、忍び難きをお忍びいただき負けるが勝ちということにお願いいたしたいと存じます。

1951年12月3日
田島長官◆高松宮は上手に物を仰せになりますが、三笠宮は純と申しますか仰せになりますので、昭和天皇も時々お困りになりますが、以前から見ればよほどお慎みのように存じます。
昭和天皇◆高松宮も田島の来ぬ前の頃は相当お話になった。

1951年12月13日
田島長官◆『原田熊雄日誌』第6巻に西園寺公望が綏靖天皇の事を引き、
「直宮様方は何もお考えにならぬが、勢というもので何か起こらぬとも限らぬ」という意味を二度申しておりますが。
昭和天皇◆西園寺は私にそういう事は言わぬし、原田に言ったかどうかも知らぬが、秩父宮は英米反対で日独同盟論を強く主張せられ、私はついに「そういう意見はもうあなたから聞かない。板垣陸相に言ってください」と言ったぐらい、第三連隊に関係が深く当時の陸軍の考えの通りであった。
参謀本部で閑院さん〔閑院宮載仁親王〕が、「秩父宮は食堂へもおいでにならぬ」というようなことを言っておられた。
高松宮は砲術学校の時にかなり主戦論をされて私とケンカし、高松宮妃も同席して困っておられたこともある。
そんな事が自然西園寺の耳に入り心配してたのかも知れぬ。

1951年12月17日
田島長官◆高松宮が宮内職員高尾亮一に、
「終戦の際昭和天皇が万世の為に太平を開かんと仰せられたのに照応して、条約効力発生の時 何事か仰せになった方が良いと思われる」との御話があり、退位論など影をひそめていると確信するとの話がありました。
昭和天皇◆そうか、高松宮は今は退位論ではないのか。
高松宮は私に直接退位をおっしゃった。
そして「毎日のことでないから、御病身でも秩父宮が摂政にならればいい」と言われた。
口では秩父宮と言ってたが、腹では自分と思っていたのではないかしら。
東宮ちゃんが成年に達し、御自分が摂政になれないから退位論を改説されたのかしら。
秩父宮は終戦直後に内大臣木戸幸一や内大臣秘書官長松平康昌に、退位論ではない御説をはっきりお言いになった。
田島長官◆田島は一昨年や昨年は秩父宮のそうではない御意思の印象を受けております。
昭和天皇◆お変りになったか…。
田島長官◆いずれにしましても先だって来の文章ができますれば、世間発表前には御兄弟様に御内示になり御納得願った方が良いように思われます。
昭和天皇◆その方がよかろう。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年4月27日
秩父宮に御言葉の文申し上ぐ。
「固い・抽象的、まずよからん」とのこと。

1952年4月28日
高松宮に御言葉の文申し上ぐ。
「戦争のことは言わぬ方よし。今さら平和論を言うと言われる」とのこと。

三笠宮に御言葉の文申し上ぐ。
約50分熟考、御説あり。

1952年5月3日
式典は無事終了。
約一年苦労の御言葉もよし。

1952年6月26日
高松宮行状のこと。
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田島道治『拝謁記』拝謁記

1952年1月25日
田島長官◆元学習院院長山梨勝之進〔海軍大将〕に追放解除願を出すよう勧めておきましたが、山梨は慎重でありまして海軍大将小林躋造と相談して長老岡田啓介海軍大将を訪い同意を得、全海軍大将に手分けして話し一致の行動を取りましたそうでございます。
昭和天皇◆それなれば日本人の例の形式的で玉石混合で、海軍大将はみな良くなるのか。
それがいつも困る。
戦犯も内大臣木戸幸一を良くしようと思うと、また玉石混合で良くなる。
非常に困ることだ。
田島長官◆山梨の話では高松宮など皇族は追放ではありませんが制限は受けておられるので、形式的には追放ではなく実質的には制限あり困ったことであります。
昭和天皇◆高松宮は真珠湾の時の軍令部作戦関係の位置におられたから、あまり良くないことになるとかえってヤブヘビ的ゆえ何もせぬ方が良いと思う。

1952年2月11日
田島長官◆英ジョージ6世の葬儀は東京で大使館主催の弔祭式があるかと存じますが、ヴィクトリア女王の時は小松宮彰仁親王夫妻、エドワード7世の時は嘉仁皇太子夫妻〔大正天皇夫妻〕ジョージ5世の時は高松宮夫妻が御名代ということでおいでになっておりますが、今回は国際関係が正常でございませぬので御名代はどなたにお願い致しましょうか。
昭和天皇◆秩父宮は御病気で御無理ゆえ、高松宮にお頼みしてもらおう。
田島長官◆良子皇后御名代も高松宮妃にお願い致しましてよろしゅうございますか。
昭和天皇◆御健康はどうかしら。
万一健康上の問題があれば秩父宮妃にお願いしてくれ。

田島長官◆まだ先のことでありますが、戴冠式が6カ月後なれば国交回復後と存じます。
その節もし駐英大使でなく御名代というような場合はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆御親類の国は別として他の国の参列者の振り合いを見て、例えばフランスが大統領自ら行くという場合で政府も希望するようなら、私はむしろ名代が行った方が良いと思う。
その時もそれはやはり高松宮だ。
秩父宮は行かれないから、また三笠宮は歳もお若いから。

1952年2月16日
田島長官◆高松宮邸に出まして両陛下御名代の事をお願い致しましたところ、何か御機嫌が悪いことがありましたかいちいち何か仰せになり、
「私は秩父宮御病気ゆえ御名代を引き受けても良いが、良子皇后御名代は秩父宮妃が本当だ」という御説を強く仰せになり、
「昭和天皇の御思召もそうだ」と申し上げましたところ、
「ヴィクトリア女王・エドワード7世・ジョージ5世など、みな秩父宮夫妻お揃いの前例などを田島が申し上げぬから悪い」とか「秩父宮妃が御病気になればいい」とか「リッジウェイとの関係を田島が配意するのは馬鹿なことだ。日本が敗けた以上、下になるのが当り前だ」というような御話でありましたが、辞去後高松宮より御電話がありまして、
「藤沢〔秩父宮別邸〕との打ち合せの結果、めんどくさいから私のところでやれとの話ゆえ、それでよろしい」とのことで決まりましたのでございます。
昭和天皇◆高松宮は秩父宮妃のことをいろいろ言われたのだなー。
田島長官◆何だかいろいろ順調な御返事がありませんでした。
まずイギリス弔祭式について御国威を失墜することなしに済んだと存じます。

1952年2月18日
田島長官◆三笠宮が田島の部屋へおいでになりまして、
「戴冠式の御名代はどうなるか、私の外遊ということについて最も良い機会だが」との仰せでありました。
突然でありましてビックリしましたが、直接こんなに早く御話が出ようとは予期いたしませんでしたが、
「8月よりもっと早いかもしれませぬ。したがって正常国際関係が復活していないかもしれませぬし、またその際皇族がお出かけになることになるか大使的な人になるかも分かりませぬ」とハッキリせぬお答えを致しておきましたが、昭和天皇に直接お話があるかもしれませぬゆえ、ちょっとお耳に入れておきます。
田島長官◆高松宮は社交のことは御上手で、私なんかよりとても御上手だし、秩父宮が行かれれば一番良いがそれは駄目ゆえ、高松宮はこういう時には適当な御長所がおありだ。
この前高松宮が行かれたのはガーター勲章の御答礼で戴冠式とは違う。
戴冠式だからねー。

1952年2月25日
田島長官◆今日の新聞には戴冠式はやはり8月7日で、先方から招待状が来てみなければわかりませぬのだそうでございます。
昭和天皇◆イギリスは昔から親善だから、できれば今後も。

1952年2月29日
田島長官◆秩父宮からお手紙をいただきましたが、戴冠式に御名代の問題があれば明仁皇太子がよろしいということであります。
田島はそれまで想像もいたしませんでしたが、御手紙を拝見してみればごもっともであり筋の通ったことで、具体的に考えてみるだけの要はあると思いました。
侍従長三谷隆信は消極的で、東宮職では若い連中はとにかく東宮参与小泉信三・東宮大夫野村行一の間では否定的に傾いております様でありますが、秩父宮に直接お伺いして両陛下に申し上ぐべきと存じまして藤沢〔秩父宮別邸〕へ上りました。
秩父宮は例の通り御自分の結論に反する事は枝葉的にお考えになりお論じになりますが、秩父宮の仰せは大筋はよく通っております。
「戴冠式御参列は難しいことでなくなんでもないことで、御役目というものがない。これは高松宮がガーター勲章の御答礼においでになったのとは全然違う。スターとして主役は何もない。ならびに大名的である」ということで、御自分様の御経験の順序を伺いました。
「前夜グロスター公の晩餐会から始まって、当日は式部官に誘導されて席にお着きになるだけ、国会での午餐・バッキンガムでの午餐も向こうの人は不慣れな方にはちゃんと気をつけてくれるから心配無用。私的にはクイーンがお呼びになる少数の宴会もあろうけれども、大してお困りになることはない。随従の者もある程度までお付き添いできる」
「軍艦は無し、飛行機も汽船も外国のものであり、右翼の者から問題にされる」ということも申しましたが、
「日本が一等国だった時のことを思っては駄目だ」との仰せでした。
秩父宮は非常な御熱意で、「話が進まなければ昭和天皇に直訴する」との御話でありました。
田島もこういう場所へ一度おいでになればその御経験は御自信をお付けになる機会でよろしいかとその点は結構と存じますが、田島・宮内庁次長宇佐美毅の積極に傾くこと三谷侍従長・小泉参与の消極に傾くこともあくまでも感じで、まだ意見と申すまでのものでもございません。
昭和天皇◆交通の問題を心配するのは右翼ばかりではない。
東宮ちゃんとしてはまたとない機会であるが、東宮ちゃんは身体が健康とは言えないし、行くとすれば香港・シンガポールの線はどうしても不可と思うゆえ、カナダかアメリカ経由ということになる。
そうするとイギリスに行く前に相当疲れてしまうと思う。
その上イギリスの儀式ということは主役でなくてもやはり疲れるから、その点どうかと思う。
秩父宮の議論は筋は通っている。
これは三笠宮をやめてもらうには非常に良いがねー。

昭和天皇◆東宮ちゃんの御名代の話ね、良子と話したのだが「それはちと早い、若すぎる」と言ったのだ。
しかし私が「私がイギリスへ行った歳と比べると1年かそこらの差だよ」と言ったら、
「そうですか。そんならむしろ賛成です。行ったほうがいい」と言うのだ。
それでまたとない機会だし筋の通ったことだから、具体的な事とか客観情勢とか国民感情とかで行けなくなることもあるかもしれんが、それらの点が全て差し支えないならまあ望むという方の考えだから。
実は私は東宮ちゃんが長く留学というようなことはあまり好かぬので、そういう意味での留学とか洋行とかいうことはやめたいと思うぐらいだ。
アメリカが留学など言う時でも、これをやっておけばそれを断るにもいいしね。

1952年3月7日
田島長官◆戴冠式の件、新聞記者なども宮様は三殿下〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕で、秩父宮は御病気として、他の二殿下ではあまり世の注目を引かぬらしく、ひそかに明仁皇太子と思ってるのもあります。
昭和天皇◆どうしてそんななのかねー。
高松宮は社交は御上手だし、内地でもいろいろお出ましになるが、それがかえって困るということになるらしく、節子皇太后から直接伺ったが、埼玉県県会議長が直接節子皇太后へ「高松宮は困る」と言ってきたことがあるとの話で、節子皇太后は否定の御返事をなすったと聞いたが、そういうこともある。
田島長官◆実は首相吉田茂が初めから明仁皇太子と思いましたのも、二殿下がイヤなためもあるかと思われます。
昭和天皇◆吉田はどうしてかねー。
秩父宮はいいようだが。
田島長官◆高松宮は御招待もお断りしますし、封書も拝見せんでお返しいたしますし、吉田首相は感情的にイヤらしゅうございます。

1952年4月8日
昭和天皇◆良子が市外へ出るとなると一つ例ができると断るに困るようになり、悪い例だが高松宮みたように出てばかりおられ、高松宮妃はいつも御留守で御一緒のことが少なくなる。
これは良い例ではない。

1952年4月22日
〔1952年5月3日サンフランシスコ平和条約発効記念式典の御言葉〕
田島長官◆秩父宮が「高松宮がしきりに御言葉と言っておられるが、私はどうかと思う」とのことでありました。
秩父宮は高松宮とだいたい御意見が一致かと存じましたが。
昭和天皇◆いや、意見は違うんだよ。
高松宮は結局海軍の意見、秩父宮は陸軍の背後というわけで。

1952年4月28日
田島長官◆秩父宮は御言葉を御丁寧に3回熟読になりまして、
「少し堅いようだ。それから抽象的だ」とのお話がありましたが、
正月ぐらいに「何も仰せない方が良い」と仰せになってたことは、別に仰せになりませんでした。
「ああいうものはどうも少し堅くなるのも抽象的になるのもやむを得ない」と御退位のことについては何も御意見ありませんでした。
高松宮は一度ザッとお読みになり、「まあ、こんなものだろう」との仰せでありましたが、
「ブレントラストは誰か」と御質問があり、小泉信三・安部能成と申しました。
「もっと他に書き加えよというような意見はなかったか」との御質問ゆえ、
「原稿はずいぶん変わりましたが、比較的大きなことは戦争の事・終戦前の事に触れるか触れぬかで論がありましたが、この際それはやめた方が良いとなりました」と申し上げましたところ、
「それはやめた方が良い。戦争については昭和天皇は事実平和論者であられるけれども、詔書のことがあるから自分の意思に反した結果となったという仰せはやはりなさらない方が良い。《過去を顧み》という一句もあるし」との仰せで、高松宮も御退位について何の御疑問も御質問もありませなんだ。
昭和天皇◆そうか、高松宮はやはり御自分の御考より周囲の言うものに左右されるのだなー。
砲術学校の時は非常に主戦論で、東条の時は海軍の意を受けて非戦論、また終戦の時はもちろん早くというお考えだった。
御自分の意見というより周囲の意見に従われるのだなー。
田島長官◆先鞭をつけるとか意見をお急ぎになる所がおありではありませんでしょうか。
昭和天皇◆それもそうだが退位は、あの頃よく南原繁が上がってたからだ。
田島長官◆お二方とも御退位なきことに何の御異存もなき御様子に拝し、また御言葉も別に取り立てて仰せはありませなんだ。

1952年7月2日
田島長官◆高松宮の赤十字社の場合など総裁として相当仕事に関わりがあったような御話でありますが、これはおよろしくないかと思います。
昭和天皇◆皇族は責任を取ることができない。
例えその総裁を辞めても皇族は辞めるという訳にはいかぬ。
実際の仕事に当るということはやらないようにしなければならんと思う。

1952年7月4日
田島長官◆三笠宮が『赤旗』にインタビューで御話になりましたことが外国へ響いているということで、ロシアに関係ある世界的な会合に日本も出席すべきだというようなことと聞いております。
先だって福島の新聞の事件は申し上げましたが、〔三笠宮が福島県の警察予備隊誘致を批判した〕三笠宮は一部的に真理と思われますると全体的にどうかと思うこともドンドン言われまする。
昭和天皇◆地位を考えない、その影響がどうあるかということを少しも考えない、困る。
それは秩父宮も高松宮も、御地位ということ影響如何ということのお考えがどうかと思う。
田島長官◆高松宮は御言葉はなかなか御利口に仰せになりますが、御行動は必ずしもそうも参りませぬようで、平和になったという御気持が多少は関係あるかもしれません。
昭和天皇◆平和になった今日ますます世間の目が光るから慎重の要がある。

1952年9月10日
田島長官「外務省から連絡がありまして、いよいよエリザベス2世戴冠式に昭和天皇の御名代がおいでいただけるか、またそれはどなたかを御通知願うというような申し入れが、駐日イギリス大使デニングから外務大臣宛にありました由」とて、右文章を翻訳して申し上ぐ。
ミッションは3人以内とか一行も最小限度とか注意事項に、
昭和天皇「3人の制限が一行のことでなければそれでよろしい」
交通に関しては往路カナダ経由・帰路アメリカの御希望あり。
昭和天皇「フランスは共産党強きが如何」

1952年9月13日
田島長官◆明仁皇太子御名代のことは極秘のことでありますが、秩父宮の御発言によって参りましたことゆえ、招請のあったことぐらい昭和天皇から秩父宮と御話になりますることは如何と存じました次第であります。
(昭和天皇、別に何とも仰せなし)

1952年9月19日
田島長官◆秩父宮につきましてカナダ映画の件は田島が早飲み込みいたしました結果、昭和天皇にも御心配おかけしまたいろいろ迷惑を及ぼしたようでありますが、お詫び申し上げます。
昭和天皇◆私は田島からカナダ映画の話を聞いて、侍従などがあまり見当たらぬという話を聞いたので、秩父宮あたりがまた「侍従の数を減ぜよ」などと言われはせぬかと思い、また服装がいろいろあって、秩父宮妃や高松宮妃などまた宮中服のようなものでも言い出されはせぬかというような気がして、私は秩父宮はお招きせん方がいいと決めた後であったので。
(これは侍従入江相政が「我々平民の社会では通用致しません」と御諫言申せし、
「御自分の御子様方と共に御兄弟もご一緒に御睦びなるべく」旨に辟易してか、こんな変な理由を仰せになり真に変と思う)

1952年9月22日
田島長官◆国体へおいでの時 できれば宮城・山形へもおいでになりたいむね拝承いたしておりましたが、例年と違いまして順宮厚子内親王御慶事・明仁皇太子の成年式・立太子礼など特別の行事がありまして、侍従職の負担が重くなりまするので福島のみとしてお許しを得ましたが、
高松宮から「家来の都合で昭和天皇のおいでを左右するのはおかしい」との仰せで。
昭和天皇◆良子など松島を知らないのだよ。
私は行ったが、外国人と話をする時には松島を知らぬではおかしい。

1952年12月8日
田島長官◆高松宮が翁島の御別荘を無償で福島県へ下附になる件でありますが、 有栖川宮威仁親王が御築造のとき地元民より意に反してお取りになっているような原因でもありますが、地元民にお返し願いたいという請願がありまして、表面高松宮は無償で県へ下附のため国会の協賛を要しておりますが、陰ではどういう風ですか有償であるとの話であります。

1952年12月9日
田島長官◆三笠宮が『青年よ、銃をとるなかれ』という一文をお書きになりまして雑誌にお載せになりましためか、ウィーンで開かれる共産系の会合の案内が来まして、その返事を書くよう式部にお話があり、官長がお返事なき方が良いむね申し上げ、どうしてもお出しになるとしてもお断りというだけで良いと思うとのことで、日本文で変なお返事でもお出しになれば良くないと存じます。
御地位をお考え願いませんと。
昭和天皇◆困るね、それは。高松宮もだ。
田島長官◆高松宮は改進党の代議士に招かれて栃木県においでになりましたのが、だいぶ問題のようであります。
昭和天皇◆改進党なれば。
田島長官◆保守党ではありますが、その代議士の人物がどうも感心しませぬので、政治的に御利用になられたことで反対党の代議士連がブーブー申しておりまして。

1952年12月18日
田島長官◆明仁皇太子御誕辰拝賀のことでありますが、新嘗祭の時明仁皇太子が殿上で御拝になります時、宮様〔高松宮か三笠宮〕から「前例はあるのか」とのお尋ねがありまして、「あります」と申し上げましたが、その御質問の裏には宮様方はモーニングで拝礼かと思っておいでであったかと想像されますから、「本来は宮様方も御装束をおつけ願うのであります」と申し上げましたが、「それはイヤだ」との仰せもありました。
それから御神楽の時明仁皇太子御拝の時に臣下は起立いたしますが、もちろん宮様方はおかけのままであります。
これは親王として御同等とのお考えもあるかと存じまするゆえ、御誕辰拝賀となりますると宮様方の御誕辰にも明仁皇太子が賀にお出かけになるべきかという問題もあり、真に難しくデリケートでありますため、御思召を拝したいと存じまして。
昭和天皇◆それはなかなかデリケートだが、皇太子の身位は未来の天皇で、私には叔父甥でも公には一段高いのだから行かぬでもよいと思う。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1953年1月3日
秩父宮、実は2:30頃御危篤、新聞等公表は4時半薨去。

1953年1月5日
御解剖行われ、2時過ぎ帰宅。

1953年1月10日
次長・侍従長より昨日両陛下 御葬儀に関し御不満のこと聞く。

1953年1月16日
高松宮御来室、秩父宮家財政のこと。
臨時費の他、月額補助従来の2/3になる程度御希望。

1953年1月20日
高松宮拝謁、秩父宮御会計御補助の件、長官にいろいろありがとう。
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田島道治『拝謁記』拝謁記

※当時の総理大臣の年給は132万

1953年1月15日
田島長官◆秩父宮家が親王薨去になりますれば、140万円の年分は停止になりますると1/3にお減りになりますので、御日常御不足かと存じます。
また経常費合理化のため人減らしがあると存じますが、解雇につき退職金が御入用かと存じます。
鵠沼の御邸も相続税が相当あるかと存じます。
御不足分を御本家の内廷費で御支弁いただくより仕方ないと存じます。
昭和天皇◆それは当然内廷費で支弁するようにしてよろしい。
あまりケチでなく。
田島長官◆昨日高松宮妃がおいでになりまして、
「秩父宮家の御会計はどうだろう。高松宮家とて富裕ではないが少しぐらいのことはできるから」というようなお話でありましたから、
「必ず昭和天皇がお許しになると存じますから御心配なく」と申して置きました次第でございます。
医療費の点は解剖の御礼もあり昨年までの分は済んでおりまするが、これはやはり別に賜ることに願いたいと存じます。
昭和天皇◆実行方法はどうするのか。
田島長官◆医療費は全額決定次第御手許上げいたし、従来通りお自ら秩父宮妃にお渡し遊ばされ、その節昭和天皇から秩父宮妃に対し親しく御言葉で「宮家経済のことは長官に話してあるから」と仰せになれば結構かと存じます。
なお一つ内廷費支出のお許しをいただきたいことは、700万円の御葬儀費用を政府は厚意をもってくれましたが、宮内庁職員の徹夜など超過勤務手当に使用は厳禁と釘を差されておりいますが、さりとてなしというわけには参りませぬゆえ、内廷費から20~30万円支弁させていただきたいと存じます。
昭和天皇◆よろしい。

1953年1月16日
田島長官◆昨日豊島岡墓所で秩父宮妃にお目にかかりまして、
「いずれ昭和天皇より御話はありましょうが、皇室で御輔助の御気持でありますから、どうぞ田島に御相談いただきとうございます」と申し上げまして非常に御感激の御様子でありました。
ところが今朝高松宮がおいでになりまして、
「後家さんにおなりになって女さんお一人ゆえ金は要らぬという考えでは困る。田島の先入観がそれでは困る。宮家としても半分以上は妃殿下のための衣食の費用だ。秩父宮妃は特別な御地位と御経歴で国のためにお働き願うという立場で、御費用は御入用と考えてもらわんと困る。皇族の数は少ないし、特殊な立場で国際的にお願いするために費用は要る」との仰せで、今日は別に反対論を申しませなんだ。
高松宮と近い式部官長松平康昌に話しましたが、「それはちょっと行き過ぎですね」とも申しておりました。
昭和天皇◆それは今後は高松宮夫妻で遊ばして、その輔助に秩父宮妃がおいでになればいい。
今まで秩父宮がやってられた程度のことは必要かも知らんが、それ以上は要らぬことと思う。
田島長官◆高松宮は金額の問題を仰せ出しになり、
「1/3になって月額58,000円ではどうも仕方がない。2/3くらいになるように御輔助になるといい」という風な御意見に拝しました。

1953年1月19日
田島長官◆秩父宮の医療費は44万2千円程度でありますが、他にも御医療費はありましょうし、50万円としていつもの通り御手許上げと致しまするゆえ、明日良子皇后が鵠沼へおいででございますれば、良子皇后より秩父宮妃に進ぜられますれば至極結構のことと存じます。

1953年1月20日
田島長官◆秩父宮家の毎月の内廷御輔助の金額を定め願うことが先決となりまするゆえ、宮内庁次長・侍従長・侍従次長・式部長官ら要職の者の個別的意見は期せずして年額70万円と申しまして、つまり法律上秩父宮御在世時の1/3にしかなりませんのを、内廷の御輔助で2/3に願うということであります。
昭和天皇◆よろしい。
田島長官◆高松宮に秩父宮家の件 申し上げましたところ、非常に御満悦の御様子に拝しました。
田島拝命以来初めて「御苦労だった」との御言葉をいただきました。
昭和天皇◆そうか。

1953年2月25日
田島長官◆イギリス戴冠式への御希望を申出ありましたが、秩父宮の御発議で明仁皇太子となりましたゆえ、三笠宮としては御失望かと存じます。
それゆえ政府に頼み何かの名義で御洋行の機を作ることは、三笠宮のためにも皇室にも日本国にもよろしいかと存じます。
昭和天皇◆高松宮妃もそんなことを言っておられて、洋行は第一の方法と思うが随員が大切だ。
田島長官◆式部官長松平康昌は外交官僚日高信六郎が良いとのことであります。
三谷侍従長も日高は良いと申し、三谷は明仁皇太子随員首席にも一度日高と申したことがあります。
昭和天皇◆日高は立派ないい人物だと思う。
ただし三笠宮に対して影響を及ぼす力があるかどうか、その点が駄目なら人物が良くても駄目だ。
三笠宮がその意見に動かされるようなあまり年齢の違わぬいい人はないものか。
田島長官◆秩父宮・高松宮は皇孫でお生まれになり、三笠宮は皇子としてお生まれで、節子皇太后が末っ子は可愛いと言うのでお可愛がりになったというようなことも多少ございましょうか。
昭和天皇◆私などは〈おもう様〉〈おたた様〉と御一緒のことはあまりないが、日光や葉山の付属邸というものは三笠宮のためにできたという一例を見ても、田島の言ったようなことはあった。
三笠宮はワンパクで、籐椅子をお振り上げになったのを女官がお止めしたのを、子供は活発でなければと節子皇太后がお止めになったというような例もある。
陸軍少将田内三吉というのが養育掛としてずっとお付きしてた。
秩父宮や高松宮は恥ずかしいのかちっとも三笠宮と遊ばない。
私は遊んでやったことがある。

1953年3月26日
田島長官◆高松宮妃が三笠宮御洋行に関して御話になりましたと見えまして、
三笠宮は「高松宮妃は私の子供のことなど少しも考えておられぬ」とのお話がありましたとかで、「自分は外国旅行より留学したい」との仰せでありましたそうです。
昭和天皇◆それは高松宮妃から聞いた。
高松宮妃を通して三笠宮の考えというのも聞いた。
我々はお父様お母様とは言わないで〈おもう様〉〈おたた様〉と言うのだが、三笠宮はこれを改めて普通のお父様お母様として御実行になっているそうだが、それはそれでいいとしてその裏付けになっているものに何かあれば面白くないと思う。
高松宮妃のお話に「子供を連れて行かなければ三笠宮妃が神経衰弱になってしまう」とのことだが、私は神経衰弱になるのは三笠宮ではないかと思う。
なぜならお父様お母様のような皇族として従来なかったことを始められているのが、御留守中に壊されるのを御心配になるからだ。
皇族たる権利と庶民たる権利を二重に享有せんとする思想である。
権利ある者はそのための義務があるはずだ。
二重の権利はいかぬ。

1953年4月20日
昭和天皇◆皇族は今皇族としての特権は十分ある上に、昔と違って庶民と同じような生活をもなし得るという両方の得な立場にあるということが、元は同じ皇族であった元皇族から見れば、いかにも両方とも持って得をしているという風にに考え、羨ましく思うという心理があるのではあるまいか。
田島長官◆確かにさようなことはあり得ると存じます。
皇族としてのいろいろな特権は元皇族と大きな違いであります上に、平民的な御行動の御自由も十分お持ちであります。
高松宮など地方へお出ましの時は固い御歓迎の席のみでなく日本流宴会などもお好みとの評判もありまするゆえ、そういうお感じはごもっともとも感じられます。

1953年4月22日
田島長官◆昔は側近という観念は侍従職関係に限られましたが、今日では宮内庁の役人は全部側近のつもりで勤務いたしております考え方に変化しつつありますゆえ、昭和天皇が夜のモーニングはと仰せもあり。
昭和天皇◆私がモーニングは晩餐におかしいと言ったのは、外部の首相や何かを呼ぶ時のことを言ったので、内輪の内宴的にはモーニングでもいいと思う。
高松宮なんか、昔のやり方は内廷皇族や側近のために御不平を言われた。

1953年6月20日
昭和天皇◆昨日田島の言ったことだがねー。
私には田島の言ったことは、私が子供の方に重きを置いて高松宮などのことを次にするというような意味に感じを受けて実は驚いたのだがねー。
田島ががそんな感じを持ってるかと思って。
私はむろん皇族さん方を重んじて子供の方のことはもちろんその次に考えているので、主義としては私は田島の述べたのと同じことを考えているのだが、こと重大だと思ったから良子にも話して今日話すわけだが、ニュース映画〔視聴会〕のことは元皇后宮大夫広幡忠隆の頃に平素はお目にかかることもしずらいから、なるべく御話する機会のあるようにとの高松宮の方の希望で、それではニュースにおいでなさいということになって始まったもので、先方の希望を入れて始めたことなのに、近頃は少しもおいでではない。
それから宮さん方は御機嫌伺いなどということはちっともないけれども、内親王の方は御機嫌伺いというので向こうからやって来る。
それゆえ食事を出すことがあるというに過ぎない。
こちらから食事に呼んだことはない。
それから叔母様方〔照宮成子内親王の嫁ぎ先〕は去年の立太子礼の時にも菊栄会親睦会に呼べたけれども、鷹司〔孝宮和子内親王の嫁ぎ先〕・池田〔順宮厚子内親王の嫁ぎ先〕はどこにも入らなかったから(これは明らかに昭和天皇の御記憶違い)今度呼んだだけのことだ。
今言った通りで昨日田島の言った通り、私は子供より皇族さんを重んじてやっているのを、田島がああいうことを言って驚いた。
(とのお繰り返しゆえ、これは昭和天皇の御意思に反しても変な理論を仰せになっておいでのことを御諫言申さねば昭和天皇の変な御理屈を是認することになるが、笑っておいでではあるが拝命以来の御語勢ゆえ)
田島長官◆さようでございましたか。
田島が昨日申し上げましたことで昭和天皇を驚かせましたことは、誠に恐れ入りましたことと存じます。
この事柄で田島が何か申し上げまするには、覚悟を新たにいたしまする必要もありまするゆえ、今日は退かせていただきまして、覚悟のできました上で改めたただいまの仰せに対し申し上げることにお許しを得たいと存じます。
昭和天皇◆うん、そう。
私はちゃんと田島の考え方と同じであるゆえ、今日ニュース等のやり方をその考えでやってるが、実際のやり方がどうもというので再検討するという意味なら、それは分かるので話は別だ。

1953年6月22日
田島長官◆田島が宮内庁長官を拝命いたしましたのは芦田内閣からでありましたが、突然の話で驚き断りましたが、「5月3日の憲法記念日までに決まらねばGHQの方から先方へ猟官運動をしている者を押しつけてくるかもしれぬ」と芦田首相が申しましたのが気になりまして、GHQに猟官するような奴よりは田島の方がまだマシだと存じ、ついに拝命するに至りました次第で、芦田首相に侍従長は田島の推選する者に同意してほしいという条件を出しました。
侍従長三谷隆信はおとなしい人で誰にでも評判はよろしいが、何一つしないので学習院ではやや持て余しておりましたが、人物は誠実で頭が良くて大人しくて、侍従長はむしろ消極的な方がよろしいぐらいで、かつて御通訳をいたしたこともありますので三谷に承諾してもらいましたが、侍従長としては誠に適当と存じます。
申さば田島は追放の多い最中に代用食のようなことで拝命いたしました次第で、その時分はまだ東京裁判以前でありまして、今日とはずいぶん違っておりまして、昭和天皇御退位の問題もやかましく、昭和天皇から「元宮内大臣牧野伸顕にはよく打ち明けて大切なことは相談する方がよろしい」とのお示しもありましたので、大事と思いますることは考え抜きました結果を牧野のところへ参り相談いたしました。
爾来表の方のいろいろな問題にも当たりましたが、この問題は昨年5月3日の昭和天皇の御言葉によりまして終止符を打ちました。
奥のことも5年間いろいろな人からいろいろなことを耳にいたしましたし、表のことに関する奥のこともありますので、自然奥のことにも頭を使うは当然でありました。
例えば三笠宮の思想・行動の上にどうかと思われる節があり、三笠宮にも少し御態度を変えていただきたいなどということを申して参りましたけれども、一面田島は宮内庁のことに全責任ある身として考えてみますれば、三笠宮がどうしてそういう風におなりになるのか、おなりになるには宮内庁長官として職務の不十分なところがないのかと反省してみますると、やはりないとは申されませぬ。
しばしば御洋行の御希望を承りました時、「在外邦人の金などでは駄目でございます。お兄様はみなさま御洋行ゆえ、堂々皇族としておいでになれますような機会を考えます」と申して参っておりましたところ、今回のイギリス女王戴冠式には明仁皇太子がおいでになりますことになり、三笠宮としては御不満にお思いにもなりませんが、自分はいつ行けるかとお思いになりますことは当然であり、また昭和天皇は終戦と同時にひどくお変りになりましたが、宮家の変化に比べますれば日常の御生活ことに経済の面では格段お違いにならぬとも申されまするに反し、特に三笠宮はお子様も大勢さんおありで、今後いかになり行くかと先をお考えになれば、進歩的な思想についてのお考えになりますのも多少は理由のあることと反省して考える必要があり、さすれば宮内庁長官として三笠宮の思想・行動をただ困るというだけでなく、その原因になることに対策を立てぬが職責上悪いということになりまするので、具体案としてとにかく一度御洋行願うことがよろしい、またできる限り経済上お楽になりますよう取り計らいますことが必要と存じまして、昨年来政府側に対しても予算等を頼んでおります次第であります。
田島は一長官でありまするが、昭和天皇と遊ばされましては、皇族の一員である三笠宮に対して望ましいかぬ思想・行動おありの時には、それはどういうわけか、どうしてかとお考え頂き、単に困るというだけではなく、なんとかお考えいただくことが必要ではないかと存じまする。
高松宮にしてもいろいろのことがあり、最近霜害が最もひどかった川越地方へ視察においでの節、宿屋以外の料理屋にお泊まりになるというので地方新聞にちょっと出まして、埼玉県知事が心配して宮内庁次長のところまで参りましたようなことがあります。
軍人でおいでの方が毎日お勤めになる軍職がなくなり、ありがたかっておいでを願うとなれば、時間がおありゆえお出かけになります。いくら共産党の世の中になりましても、皇位継承権をお持ちの三笠宮が如何とも遊ばされることはできぬは明白で、皇室の首長たる昭和天皇に大きな御立場から大らかになっていただくことが必要かと存じます。
昭和天皇◆その点は分かったが、高松宮妃もヴァイニング夫人の時に良子に先んじて英語を習い、またじきに辞めてしまうとか、秩父宮が私にゴルフを勧め、それではとやりだすと御自分は飽きてやめておしまいになる。
秩父宮妃も高松宮妃と一緒に宮中服をお作りになるに熱心でいて、評判が悪くなると一緒になって悪口を言い、そして御自分は和服を着るというように、飽きやすくて人より先じたがったりなさるから、どうもそういう点が…。
田島長官◆田島の立場としては申し上げるのもつらいことでありまするが、そういうことはすべて宮様の方がお悪いとは存じます。
宮様方の方がお悪いと断言せざるを得ぬとしましても、昭和天皇が宮様方と同列に立って向こう様がこうだからこうだと仰せになりますことは、昭和天皇の御立場としてはいかがかと存じます。
田島は仏教の家ですが、キリスト教の方では羊飼いは普通についてくる羊の群れよりも迷える羊の方を余計に心配するということであります。
この羊飼いのようなお気持ちで、弟様方をも親心で子のように思いになればと存ずるのでございます。
(昭和天皇「うんうん」と強く御応えになり、「具体的にどういう方法にしたらばよいか」との仰せあり)
田島長官◆毎週のニュースはおやめになり、月2回ぐらい御懇談の御食事でも共にせらましたらばと存じますが、よく侍従次長稲田周一と練りまして申し上げます。

1953年6月24日
昭和天皇◆田島の話もあったので、昨夜は御馳走をしたのだが、スッポンもあったので。
田島長官◆スッポンのスープでありますか。
昭和天皇◆いや、スッポンの料理だよ。
高松宮は非常にお喜びだったが、高松宮と御懇親するのは食事以外よりないよ。
御料理の話の中で三笠宮もいろいろな物をお食べになってるようで、牛の頭の料理はおいしいとかなんとか言ってられたが、私は三笠宮は矛盾もはなはだしいと思うのだがねー。
平素いろいろ進歩的な意見を言われるが、ああいう贅沢な料理の御話もなさる。
それにちょっと心配なのは、御口が軽いから昨夜のような御馳走の話を外でされやせぬか。
皇室は御質素などと言っているが、この間は御馳走が出たなどと言われると誠に困ったものだが。
三笠宮は困るよ。
この前 田島に「7千万円もかけて仮宮殿を作るは贅沢だ」など言ってきたなら、牛の頭とか贅沢な料理などは知らぬはずだ。
矛盾だよ、三笠宮は。
田島長官◆三笠宮は7千万円の時も相当仰せありましたが、御説明しますればまあおわかりになりますし、昨年の5月3日の御言葉中の《米国をはじめ》を削れとのことでもなかなかやかましく《英米をはじめ》の訂正にまでお折れになりましたが、反米的でかなりきつく申され、田島へ御手紙、また官邸へもおいでになりなどいたしましたが、昭和天皇がお決めと申しました後は何とも仰せありませんでしたから、お若いためにちょっと進歩的な思いつきのおありの時は仰せになりますが、おわかりになればそれでだいたい静かにおなりのようでありますが、どうも矛盾よりも進歩的なものに余計お気が向くらしく、先だってもアメリカ国務省に太平洋問題調査会の人間が巣食うことの調査拒否を調査報告をお話ししてもらいました時も、普通はずいぶん恐るべきことだと感ずべきなのに、そういうことはまあありがちのようなお考えで、根底に何かちょっとどうも。
昭和天皇◆どうも高松宮も三笠宮とは昨夜もあまりお話なさらぬ。
秩父宮がお亡くなりになって、高松宮は秩父宮妃にいろいろ尽くしておいでになるようだが、どうも三笠宮とは合わぬようだ。
田島長官◆秩父宮は同じ陸軍でもあり、三笠宮も御殿場までお出かけになり、むしろ高松宮への御話は秩父宮を通されたというようなことも聞いておりますが、どうも三笠宮のことは何とか致さなければなりませんが、秩父宮なき今日どうしてもお二方だけゆえ、だんだんにお歳も召してやっていただく他ないと存じております。
田島と致しましてはとにかく経済面その他でできるだけ三笠宮のお気持ちのいいことをすることは必要だと思っております。
昭和天皇◆まあ私としては田島の言った注意で努めてやるから、具体的なやり方は田島の方でよく考えてくれ。
(申さば諫言的な申し上げのこと御容認の御言葉と拝し恐懼す。また感激す)

1953年6月29日
昭和天皇◆皇族さんの名代のことだが、さっき田島が高松宮に聞いても侍従御差遣で結構と仰せになるが、だいたいおイヤなのだ。窮屈で今までどなたもおイヤであるのだ。
田島の言った主意で皇族さんにも一体となって懇意的にするのであるが、食事をしたりニュースだけではつまらぬとなれば、楽しみということのみになり、それが漏れて皇室が楽しみのようなことばかりやっているように間違われるのも困る。
災害の見舞いの御名代となれば公然でよくわかって、皇族もいろいろしておいでということもわかると思うが。

1953年6月30日
田島長官◆三笠宮としては別にアカの方に同情してるという立場でないおつもりかもしれませぬので、例えば職員の30円弁当かなにかお取りの時に、宮内職員高尾亮一が「皇族さんとしてそれはおかしゅうございます。大膳へ頼みどうとも致します」と申し上げまして、「いいよ」との御話でありましたそうで、三笠宮はすべて簡便が良いというお気持ちの御行動で、この点 高松宮はこういう軽いことは少しもありませぬ。
昭和天皇◆高松宮はそういう点はいい。
田島長官◆実は災害地に侍従御差遣のことを高松宮に申し上げましたゆえ、三笠宮にも申し上げねば悪いと存じまして昨日申し上げましたが、その時 下の侍従の部屋で侍従連と御一緒で一つの机で原稿書きをしておいででありました。
戯談的に「いつ侍従を拝命になりましたか」と申し上げたようなわけでございます。
昭和天皇◆それは陸軍の風で、兵隊と同じことをするという流儀なのだ。

1953年8月1日
田島長官◆三笠宮のことでありますが、警視庁で御心配申し上げてることを御本人様に申し上げぬわけには参りませぬので申し上げましたところ、特に御関心の様子もなかったように承りました。
間接に伝言でありまするゆえ、何と仰せになったかはわかりませぬ。
御洋行には外国語は御必要ゆえ、外国語の御勉強をお勧めして、しかるべき思想の良い外人と言語の御勉強としてお付き合いになればよろしいのではないかと考えております。
昭和天皇◆田島への返事に「またいい機会があれば1~2年の内でも行きたい」とあるが、いい機会とはどんなことか。
田島長官◆高松宮も三笠宮のことを非常に御心配で、先日も上がりました節「例えば明年のブラジルの400年祭に高松宮のおいでをお願いしてるとのようなことはどうか」と仰せになっておりましたが。
昭和天皇◆それならば高松宮が三笠宮にそういう風に言えばいいね。
田島長官◆高松宮が先方へ三笠宮をとお話をお付けになりましても、三笠宮がイヤと仰せになりますれば何ともなりませぬ。
昭和天皇◆それもそうだ。
田島長官◆これは田島の拝察でありますが、三笠宮はちょっとした御洋行をお一人で遊ばしたといたしますれば、政府が三笠宮妃と御一緒に諸国御漫遊というようなことに二度とは金を出してくれまい、小さいので済ませられてしまってはつまらぬとのお考えがおありかと思います。
昭和天皇◆私はこの前秩父宮妃ともお話ししたのだが、本当に三笠宮妃が御同行できぬのか、お子様のことを口実にしておいでなのか、実情がわからぬ。
三笠宮妃が三笠宮のお考えをどういう風に考えておられるか。
もし私情で子供と離れたくないとしても、三笠宮のおために洋行が良いとなればこの際私情を捨てるお考えになるべきとも思うし。

田島長官◆那須へ秩父宮妃をお誘いになりまして、秩父宮妃は非常にお喜びで、どうか高松宮・三笠宮も那須へ仰せいただきたいと存じまする。
昭和天皇◆妃殿下方ならともかく、宮さんは来られてもどうも。
田島長官◆お受けになるならぬは宮様方の御自由として、三笠宮などもしこんなことでまたおひがみのようなことは困りまする。
高松宮も三笠宮御洋行のこと御希望が4~5年先とのこと申し上げに出ました際も、「御自分でできることはある程度のことをしても行かれると良い。また外国語の御勉強の方法もいいだろう」と仰せになりました。

1953年9月11日
田島長官◆前回申し上げましたように秩父宮の相続税の金額は29万円だそうでありまするが、新しい相続法ではお子様のありませぬ節は御兄弟にも相続権がありまするので、昭和天皇・高松宮・三笠宮になりまするが、もちろん御取得の御意思はなく秩父宮妃に全部でありますので、宇佐美次長より高松宮・三笠宮の御了承を受けましてございます。
軍人恩給の問題で、皇族のうち高松宮は恩給をお受けになり得られまするし、三笠宮は一時金だそうでありまするが、皇族としては恩給の積金は遊ばしておりませんし、皇族費は国家の支給でありまするゆえ、御遠慮の方しかるべきと考えまして、そのことを宇佐美次長より申し上げ、両宮とも御了承であります。
先日は三笠宮・秩父宮妃をお招き遊ばしまして、みな非常にありがたくお喜びのように拝しました。

1953年12月3日
田島長官◆三笠宮のことでちょっとよろしい朗報でございますが、高松宮の御話で高松宮はブラジルにおいでになりませんが「三笠宮にいかが」との仰せで、三笠宮は「南米へは皇族は誰も行ってないから行ってもよい」と仰せられました由で、三笠宮は往復とも船でおいでになりたく、また北米等には寄らぬとの話でありましたそうでございます。
船はどういうわけか存じませんが、北米へお寄りにならぬのはそれで御外遊が済んだとなってはとの御懸念かとも邪推いたされますが、宇佐美次長が「南米へ直接のものは少なく、自然北米にお立ち寄りとなりましょう」と申しました由であります。
昭和天皇◆皇族さんはみな御自分は独特というようなお考えがあるので、高松宮も誰も南米においでがないからと行ってみようとの御気もあるのだよ。
それができて欧米御周りということになれば一番いいねー。
田島長官◆御本人様御希望も承りましたことゆえ、外務省と話を進めてみますように申します。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1966年6月13日
木戸幸一との対話。
高松宮現状評判(素人の噂、お金のこと)などたっぷり話す。
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『入江相政日記』侍従長

1972年2月20日
昭和天皇が、高松宮妃が宮内官僚高尾亮一のお勧めによって断りもなしに〔新御用邸〕須崎御用邸を見にいらっしゃったことに怒っておいでになる。
秩父宮妃がいつか拝見したいとお申し出になったことはお喜びになっていたが、今日のお集りの時に秩父宮妃・三笠宮妃もお申し出になっては困るとおっしゃっているので、御参内になった時にそれぞれ申し上げる。
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『入江相政日記』侍従長

1973年12月11日
朝日新聞の衣奈君より電話。
高松宮妃からの御召で行ったら、日赤・朝日の共催である良子皇后の展覧会の上りを、常磐会と藤楓協会に寄付するのとのことで、秩父宮妃も御同意とか。
あきれてしまう。

1973年12月25日
宇佐美長官・徳川侍従次長と高松宮妃のこと。
また良子皇后の展覧会の上がりを常磐会と藤楓協会にと言われた由。

1973年12月26日
また高松宮妃が北白川女官長に、良子皇后の展覧会の上がりを常磐会と藤楓協会にとおっしゃった由。

1973年12月28日
高松宮へ行く。
この間からの蒸し返し。
それでその不可なる所以を御話する。
よくわかったとのこと。

1973年12月29日
昭和天皇に高松宮妃のこと申し上げ、御安心いただく。
しかし同時に朝日の人などにおっしゃったことについては、あきれていらっしゃった。
宇佐美長官にも報告、喜んでいただく。
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『入江相政日記』侍従長

1974年7月6日
高松宮妃より御召。
「このあいだの謡はどうなった」とのこと。
つまり駄目、「そういうことは商売人にお任せ願いたし」と言う。
「特に進講の要なし」という。
これは相当に効いた。
帰って、宇佐美長官・徳川侍従次長・北白川女官長に報告しておく。

1974年12月20日
高松宮へ。
高松宮夫妻から、天皇家五十年展についてのこと。
「昭和天皇の人間形成という意味からフランス革命史など御出品になっては」とのこと。
昭和天皇に伺ったら、「沖縄の貝はあまりにも平凡、高松宮が出すことは自由、ただ自分としては出すのはイヤ、フランス革命史については秘かにやるべきで誇示するようなことは好みに合わず」とのこと。
さすがに素晴らしい。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1974年5月17日
高松宮、(3月に完成した)迎賓館に見学においで。
「東宮様(平成天皇)、いまだ■■か?」〔小林は聞き取れなかった〕
昭和天皇から「高松宮は行かれたが、東宮様はどうか。高松宮はでしゃばりの気味があるから」とのことで、「東宮様はいまだ」の旨が判明したが、その言上は田中侍従に申し送り。
この件は昭和天皇が行幸の時から、明仁皇太子お断りなど、少々複雑のいきさつがあるらしい。
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『入江相政日記』侍従長

1975年2月26日
文春の加瀬英明『高松宮かく語りき』を読んで寝る。
高松宮を良い役にしただけのつまらぬもの。

1975年3月3日
昭和天皇に、この間からの高松宮妃・美智子妃などのことについて申し上げる。
御納得いただいた。

1975年4月23日
宇佐美長官来室。
日本の皇族にあきれ返る。
〔5月7日~5月12日のエリザベス女王来日について〕

1975年4月26日
秩父宮妃から駐英大使大野勝己さんにも電話があった由。
八方に手を回して、なんたること。
大臣を押しのけてエジンバラ公に同乗する決意を、「さすがは高松宮様」と讃えられたとか。
この間からのこと、まったく話にならない。

1975年5月1日
宇佐美長官・徳川侍従次長・北白川女官長・式部官長島重信と話し合い。
秩父宮妃・高松宮妃が美智子妃・常陸宮妃に、
「和服ではダンスができないから、良子皇后にお願いして洋服にしろ」と強く言われた由。
お嫁さんたちとしてはそんなことはできないということで、美智子妃・常陸宮妃は和服、他は御勝手にということにしようということになる。

1975年5月3日
晩餐の時のダンスの関係で、美智子妃・常陸宮妃はローブデコルテ、良子皇后は和服の関係上、御一方では具合が悪いので秩父宮妃・高松宮妃も和服ということで両陛下のお許しを得ようということになる。

1975年5月18日
北白川女官長から、秩父宮妃から揺り返しがあった由。
宇佐美長官からも同じこと聞く。

1975年12月31日
エリザベス女王の御訪日もまた大騒ぎになった。
「我がイギリス」人種が多数現れた。
秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王・麻生和子夫妻。
外務大臣宮沢喜一や儀典長内田宏を脅したりしてさんざんの醜態だった。
三木首相も驚いたことだろう。
昭和天皇がしっかりしてらっしゃるからいいようなものの、さもなければ大変面倒なことになるところだった。
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『入江相政日記』侍従長

1976年1月13日
昭和天皇から御召。
文春の皇族座談会『皇族団欒』の高松宮のこと。
本当につまらないことを申し上げになるから困る。

1976年1月20日
昭和天皇から御召。
また『皇族団欒』の高松宮のこと。

1976年4月30日
「明日の旬祭、御代拝では」と申し上げたら、
「高松宮妃が『昨日の誕生日の後で疲れたのか』と言ってもいかんから」とおっしゃる。
「参列もないし、わかりません」と申し上げたら、
「いやいや、いろいろ情報網を持っているらしいから」とおっしゃる。

1976年7月1日
昭和天皇から「文春の皇族座談会『皇族団欒』のようなものを正しいものと思っていては困る」との仰せ。
三笠宮へ行き、三笠宮妃によく御話する。
あの座談会に批判的だったこと、高松宮一辺倒でないことなどがわかり、すぐ帰り昭和天皇に申し上げる。

1976年7月3日
秩父宮へ行き、秩父宮妃にこの間からのこと洗いざらい申し上げる。
すべて御同意、お喜びだった。

1976年7月5日
昭和天皇に秩父宮妃のことを申し上げる。
「入江、御苦労だった」と仰せくださる。

1976年7月8日
宇佐美長官に、秩父宮妃・三笠宮妃のこと報告する。

1976年7月12日
昭和天皇から、一昨日皇族方御参内の節、高松宮夫妻が大変協調的であったがどういうわけかという仰せ。
「やはりいくらか御反省になったのだろう」と申し上げ、
「それならいいが」との仰せだった。

1976年8月14日
高松宮へ。
高松宮と良子皇后のこと、美智子妃のこと、東久邇文子さんの再婚の縁談のこと。

1976年9月11日
秩父宮妃御参内、高松宮・明仁皇太子などお集りの時にミグ25事件につきみなさんいいことだとお喜びとのことだったが、昭和天皇は「皇族さんは無責任だから」とおっしゃったとのことで、この無責任についてお掘り下げになった結果の御話。

1976年12月31日
1月10日文春の二月号に『皇族団欒』とかいうくだらない座談会の記事が載った。
秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王という顔ぶれ。
司会は加瀬英明。
つまり高松宮が一人で【誇りかに】しゃべっておられるだけ。
すでに昨年の文春の二月号にも加瀬君が書いているが、高松宮から伺ったようなことが多く、それによれば御自分は根っからの平和論者であり、太平洋戦争をとめたのも自分であるという意味のことが書いてある。
昭和天皇にはこれが非常にお気に入らず、実に数えきれないほど御召があった。
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『入江相政日記』侍従長

1977年3月8日
北白川女官長来室。
秩父宮妃が「高松宮はおさびしいのだ」とおっしゃったことを確かめるのは、秩父宮へどっちが行くかにつき相談。

1977年10月8日
秩父宮妃から御電話。
三笠宮寛仁親王が本を出し、例の対談『皇族団欒』も載せると。
絶対に不可と言う。

1977年10月9日
三笠宮寛仁親王から電話。
「秩父宮妃から伺ったが、承知なさった高松宮に取り止めると言ったら妙にお思いになるだろう」とのこと。
「そんなこと問題にならない。もしこれが出た時のと比べれば、皇室としての損害は比較にならない」と言ったら、
「やめます」とのこと。
まあよかった。

1977年10月11日
昭和天皇に三笠宮寛仁親王の一件を話す。
予の処置にまったく同意。

1977年12月29日
歳末の拝賀。
御退出の皇族方にも自然会う。
高松宮、めずらしく大いに笑顔。
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『入江相政日記』侍従長

1978年1月4日
昭和天皇から、昨日高松宮が非常に御態度が良かったとのこと。
「一時の気まぐれでなければ」と仰せになる。

1978年9月21日
高松宮が富田長官と予に、
「式部官長はそろそろ外務省大使〔から採るの〕をやめて、昔からの儀式に通じている者にすべきである。侍従松平潔がいるじゃないか。本人は言いにくいだろうから、私が本人に言ってやった」とのこと。
まったく問題にならぬ。
富田長官も予も不愉快な気持ち。
富田長官に、高松宮対策につき吉川さんに事情を話し協力を頼もうと言う。

1978年9月22日
北白川女官長に、高松宮の松平問題を話しておく。

1978年9月25日
元式部副長吉川重国を訪ね、松平問題について逐一話す。
高松宮が「吉川が外務省大使の時代ではない」と言ったというのは嘘とわかる。
松平侍従のこと委細話す、あきれておられた。
「前々から変だ変だと思っていた」とのこと。
「でもよく聞かせてくださった」と言って大変喜んでおられた。
すぐ富田長官に報告、喜んでくださる。

1978年10月30日
メキシコ大統領夫妻をお迎え、御会見。
この前後の松平侍従、見るに見かねる。
メキシコ大統領夫人の身体に手をかけて向きを変えたりした由。
北白川女官長大憤慨。

1978年10月31日
富田長官、松平問題驚いていた。

1978年12月31日
松平問題はとうとう年内に片づかず。
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『入江相政日記』侍従長

1979年4月12日
式部官長湯川盛夫と侍従松平潔のことについて話し合う。
昨日もセネガルについて申し上げるのは、
「君は接伴員なのだから、式部副長和智一夫にした方がいい」とまで言った由。
予は1975年のエリザベス女王訪日の時も湯川官長が申し上げない細かいことなど言って、夜に吹上に押し込み一時間半も両陛下に申し上げたことなどすっかり話す。
驚いておられた。
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『入江相政日記』侍従長

1980年6月14日
富田長官から、高松宮が掌典長東園基文の落度(常陸宮の成年式の時の御裾の扱いが良くなかった)と侍従松平潔におっしゃったの件。

1980年6月17日
掌典長東園基文の所へ行き、高松宮の侍従松平潔の件をよく話す。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1980年1月3日
元始祭。
御告文が三殿であるところ、掌典長が皇霊殿で差し上げるのを忘れたらしく、お帰りになるや否や
「掌典長、間違ったね」とおっしゃり、
しばらくして「高松宮、今日来ているだろうか?わかるとよくない」と。
「お見えになっていないのではないか、見えていたとしても御声は届かないと思います」とお答えした。

1980年2月19日
3宮様御参内、晩餐。
高円宮の金婚式の御祝のため、秩父宮・高松宮・三笠宮五方おいで。
大食堂からのお戻りの際 高松宮は良子皇后の御手をお持ちだったが、
高松宮が「昭和天皇がお焼きになるから」とおっしゃり、みなさま大笑い。
昭和天皇がなさったらということで、昭和天皇が良子皇后と御手をつないで御談話室にお戻り。
大変ほほえましい、珍しい情景だった。
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『入江相政日記』侍従長

1981年4月29日
高松宮から「〔随筆をたくさん書いて〕昭和天皇を種に儲けるね」と言われる。
予は「第一印税はそんなに入らない。第二にそれはみんな昭和天皇に返ってくる」と言っておく。
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『入江相政日記』侍従長

1982年6月8日
高松宮が去年以来 御返事していなかったのを蒸し返してこられた。
御陪食の時の皇族の服装を背広ではなくモーニングにしたらとの件。
宮様方がモーニングになると昭和天皇御一方が御背広になってしまう、昭和天皇は御背広・モーニング、モーニング・御背広と御召替が大変だから、宮様方は御背広で昭和天皇を守ってあげていただきたいと申し上げた。
昭和天皇は「あの対応は非常によかった。あれでわからなけりゃもっと強く言え。宮様方は暇だから勝手を言う。もう少し実情を調べて言え」との仰せ。

1982年6月19日
高松宮へ。
高松宮から、三笠宮寛仁親王にも困ったとのこと〔皇室離脱発言〕彼は気が弱いとのこと。
噂に聞いていた三笠宮寛仁親王が宮内庁はいけないというのとは、ちょっと調子が違う。
戻って富田長官に言っておく。

1982年7月8日
官房副長官翁久次郎来訪。
このあいだの皇族会議では、宮内庁長官富田朝彦罷免論を論じ、高松宮から宮沢官房長官に電話。
放っておいたら麻生太郎・田中六助でまた来た由。
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『入江相政日記』侍従長

1983年1月4日
昨日の高松宮のこと伺う。
昭和天皇から高松宮に相当いろいろおっしゃった。
例の文芸春秋のことすべて仰せになった由。
高松宮も浩宮〔令和の天皇〕の御留学につける人のこと、元イギリス大使加藤匡夫なくて元国連大使中川融でもいいとおっしゃった由。
これについて富田長官・宮務課長ら、さらに徳川侍従次長や侍医卜部とも相談してくれとの仰せ。

1983年1月5日
高松宮から電話。
3日のことにつき御話あり。
いつまでも御気に遊ばしていてもいけないから、何とでもするとのこと。
いい塩梅だった。
思っていたより具合よく行きそうになってきた。

1983年1月20日
高松宮へ。
高松宮御機嫌。
すっかり申し上げ、全部済む。

1983年1月24日
昭和天皇に高松宮のこと申し上げる。
大変御満足で、お褒めいただく。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1983年1月3日
高松宮御誕生日につき、両陛下と御談話室で御対面。
例年30分くらいのところ今年は大変長い。
昨夏以来ヘルペスで公式行事には御不参の美智子妃のこと、(皇室離脱宣言をした)三笠宮寛仁親王のことなどがあったからか。
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『入江相政日記』侍従長

1984年1月4日
昭和天皇より、「昨日の高松宮大変静か。今までで一番よかった」とお喜びだった。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1987年2月3日
高松宮薨去。
肺ガンのためと発表された。
秩父宮が薨去の際は鵠沼御別邸に行幸啓になったが、今日は午前中にお別れしたばかりでもあり、高松宮邸には行幸にならない。
明日行幸啓の予定という。

1987年2月4日
御服喪の期間。
両陛下はじめ東宮御一家各殿下は30日。
他の皇族方についても同様で、高円宮家の承子女王に至るまで一律30日。
高松宮妃は90日。
全ての皇族を一律にしていることは不可解。
昭和天皇も疑問をお持ちで、やはり親等に応じて異なるべきもの。
高松宮邸へ行幸啓。
宮内庁長官・主務官・侍従長・侍従次長・侍従・女官長・女官と本式のお供。
これが適当か否か。
秩父宮の時の例によるというが、あの時は鵠沼への行幸啓だった。
もっとひっそりとはいかぬものか。

1987年2月5日
高松宮の薨去で何となく慌ただしい。
新聞記者の出入りも多い。
NHKはFMの音楽番組を組み替えたので抗議の電話が殺到しているとか。
日本テレビでは天下関係特別番組を長時間流したので、TBSは10日御葬儀の日に同様にするとか、エスカレートしてきているらしい。
国葬ではあるまいし、弔意の表明ないし報道も適度にしないとかえって国民の反発を買うことになり、皇室制度にとってマイナスになるのではないか。

1987年2月10日
御葬儀次第の混乱と失敗。
お席など雑然としてまったく図面通りではく、拝礼の位置も予定とは異なる所にせざるを得ない。
皇后宮使の次第も混乱がひどかったという。
勅使が朝寝の間から出ないのに先導され途中待たされ、間では御榊を入れる台が祭壇前に置いてなく、拝礼が一時中断されたなどひどいもの。
昨夜も酷い扱いだったという。
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三笠宮寛仁親王 2005年

「高松伯母様の薨去」
2~3年前高松伯母様が一時危篤になられたことがありました。
そのとき父から「万が一の時は喪主を頼む。自分は秩父宮勢津子妃の時に喪主を務めてすっかり疲れてしまったから」と言われていたので、その時から覚悟はしていました。

娘二人を連れて高輪の御殿に直行、御寝所で悲しい御対面になったのですが、気になったのは長年の御闘病のせいか、御顔がかなりの範囲で黒ずんでおられました。
「これは大変」と思った私は、高松伯母様の末の妹御である井出夫人と田代侍女を呼んで御化粧道具を指示し、三人で必死の御化粧作戦を開始しました。
常日頃私はオナゴの友だちの多さを誇っていますが、さすがの私も御化粧に手を貸したことはなく、生まれて初めてパフなどを使って高松伯母様の死化粧のお手伝いをすることになりました。
御舟入では枕の高さを調節するのに苦労しました。
低すぎると御口が開いてしまうので、タオルを何枚か枕の下に入れ、ちょうどよい角度に安置することができました。
御舟入の儀までに3回御化粧をして差し上げたおかげで実にお美しい御顔で、弔問客がみな声をそろえて「いまにも何かおっしゃりそう」と言ってくださったのは、高松伯父様・秩父伯母様そして高松伯母様と三方続けた葬儀屋冥利に尽きることでした。
喪服は昼間はモーニング・黒のベスト・黒ネクタイ・黒トップハット・黒手袋、夜間はフロックコート。

斂葬の儀では高松伯母様御生前ゆかりの人々6名が、御霊車をお守りしながら歩いて行くのですが、宮内庁の誰に指導されたのか、なんとも珍妙な形でシルクハットを持っていたのが愉快でした。
どうせ借りた帽子でしょうからサイズが合わず、被れずに持つしかないのはわかりますが、慣れないことをやらされて可哀相でした。
私はきちんと自前のトップハットを被って歩きました。
寒くなかったので黒の手袋は持っていましたが、男の場合屋外では帽子は被るものであり、手袋ははめるものであるというマナーが、近頃まったく理解されていないのは残念なことです。
数日前親族総代の徳川慶朝氏に「トップハットは持っているの?」と聞いたら、「エーッ!」と言われたので、わざわざ平田暁夫帽子店に私の予備のシルクハットを届け、徳川慶朝氏のサイズにしてあげて黒手袋も貸しましたが、被る勇気がなかったようでした。

故高円宮の葬儀の時 喪主である久子妃が宮中の賢所風に同格の人が参進している時、座ったままだったのを見ていて「格好が良くない」と思っていましたので、高松伯母様の葬儀の時は宮内官たちとの打ち合せで「勅使・喪主・代表皇族・旧皇族代表・親族総代の礼拝の後、皇族方・旧皇族方・親族方の順に参進し、三権の長・外交団長までは立って応対し、参列しているその他大勢の臣下の者どもの時は座ろう」と決めていたのですが、式部官も慌てたと見え礼拝の案内の順番を間違えて、御親族の前に三権の長以下を出したしまったため、私は座るタイミングを失い結局全員が終わるまで立って目礼を繰り返すハメになりました。
高等科で応援団長をやっていた経験が妙なところで役立ちました。

落合火葬場を出る時は、我が家のセンチュリーの中で私は一生懸命「斂葬詞」の練習をしていました。
大和言葉に当て字の漢字ですから、スピーチの名人と言われる私も必死の練習を繰り返しました。
ギャラリーに強いトモさんは、本番ではミスなしで読むことができました。
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