■東京本邸 文京区千石
■関宿別邸 千葉県野田市
=========================
■父 鈴木由哲
■妻 小野田キヨ 小野寺慶峰の娘
●長男 鈴木貫太郎 初代男爵
●二男 鈴木孝雄
●三男 鈴木三郎
●男子 鈴木茂 永田栄次郎の養子になり永田茂となる
●女子 鈴木ケイ 永田廉平と結婚
●女子 鈴木ヨシ 岡本塩太郎と結婚
●女子 鈴木キミ 倉持正次郎と結婚
両親・兄妹と 後列中央が貫太郎
=========================
◆初代男爵 鈴木貫太郎 鈴木由哲の子・総理大臣
1868-1948
■前妻 大沼トヨ 大沼親誠の娘 死別
1880-1912
■後妻 足立タカ 足立元太郎の娘 女官
1883-1971
後妻 足立タカ
鈴木貫太郎&後妻タカ
中央が鈴木貫太郎夫妻
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従
私が侍従を拝命した時の侍従長は鈴木貫太郎さんでした。
です海軍大将であり、終戦時には首相にもなりました。
昭和天皇陛下が最も信頼なさる忠臣ではなかったかと思います。
昭和11年私が出勤を始めて間もない頃、庶務課長大金益次郎に連れられて侍従長室に行きました。
鈴木さんも二二六事件で襲撃された時の傷が癒え、出勤された日のことです。
特別に侍従の心得などはなさらず、なんともスケールの大きな人物に触れたようで、私は身が引き締まるのを覚えました。
鈴木さんは侍従候所に顔を出されました。
「この度はお手厚いお見舞いを賜りまして、幸い床を離れることを得ました。とりあえずお礼言上に出ました」と前置きして、襲撃の模様を語り出しました。
二二六事件の前に陸軍の青年将校が鈴木さんの元に訪ねてきて国家改造運動を言うので、鈴木さんはイギリス海軍で暴動が起こった時に断固処分をしたのでイギリス海軍が立ち直ったという話を聞かせたそうです。
その青年将校は納得して帰ったといいます。
その青年将校が二二六事件では鈴木さんを襲撃した主犯格だったそうです。
「閣下、御免」と言って命令を下し、下士官がとどめを刺そうとしたのを抑え、敬礼して去って行ったと語られます。
「ところが私は右を下にして寝ていたのです。今度初めて分かったことでありますが、私の心臓は移動性といって万人に一人だと聞かされました。心臓が右に寄っていて、その間を弾丸が抜けて助かりました」
実に淡々と言葉少なに語られていました。
「背中には今も弾丸がとどまっていますが、これは別に差し障りはないのでそのままになっております。脇腹に当った一弾も差し障りがないとのことですが、それが段々と下がって参り、今は睾丸の中にとどまっております」
皆、あっけにとられて伺っていました。
「では御前へ出ますので」と鈴木さんは出て行かれました。
それからずいぶん長い間鈴木さんは御前におられました。
やっぱり三つ弾になった点にも触れて、同じ調子で陛下にお話をお聞かせしたに相違なく、一同いよいよ息を飲みました。
おいたわりの御言葉も切実この上なかったに違いありません。
本人がノックして参殿しましたから陛下もビックリされ、鈴木さんの巨体を御覧になった時は「鈴木、よかったね」の一言が出たと拝察します。
陛下と鈴木さんの間には特別に感情の交流があったと、今でも研究者の間でも言われています。
それゆえに終戦に至る難事業を、陛下の意を受けて乗り切ることができたのだと思われます。
鈴木さんが陛下に信頼されていたという事実、このことこそ昭和史を救った最も大きな要因だったと、何度繰り返してもいいのではないかと私は考えています。
敗戦後、鈴木貫太郎首相は素早く総辞職しました。
「戦は負けっぷりは良くなければ」という次第です。
それに対して木戸幸一内府は、
「もっと続けさせようと考えていたのに…」とすれ違いざまに私に話しかけるのです。
全力を尽くした老大将に対し、まったく失礼な言です。
「思い上がっているなあ」と内心許せぬ気がしました。
いよいよ人物の小ささが丸出しです。
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『高松宮日記』
※後妻足立タカは昭和天皇・秩父宮・高松宮の御養育係の一人
1934年1月7日
子供を叱ることは必要だが、それがひねくれさす素になることもあるから注意を要する。
要は叱る人の態度・精神によるし、その人の叱る時以外の態度にもよる。
私の感じでは、女官足立タカとかの態度は適当なものではなかったことを記憶する。
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●長男 鈴木一 父と同じく昭和天皇の侍従となる 酒造業赤須東吾の娘赤須布美と結婚
●女子 鈴木サカエ 陸軍藤江恵輔と結婚
●女子 鈴木ミツコ 農学者足立仁と結婚
●鈴木サカエ 19歳 陸軍藤江恵輔と結婚
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田島道治『日記』宮内庁長官
1950年9月30日
侍従次長鈴木一転任波紋イヤになる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1950年6月3日
昭和天皇◆侍従次長鈴木一はどうもマメでない。
私は用があれば誰でも呼ぶが、良子は多少遠慮する。
元侍従次長広幡忠隆でも元侍従次長木下道雄でももっと来たが、鈴木はマメでない。
女官の方との接触も不十分。
しかし勇気はある。
田島長官◆鈴木侍従次長は少し粗暴のように存ぜられます。
周到を欠く点もあると思われます。
そして勇気いうよりも無鉄砲的に断行する勇気があります。
1950年9月11日
昭和天皇◆侍従職の連絡がまずくて三笠宮にアラを見られはせぬかと思い、侍従職の威厳にも関し困ったことが起きた。
(今回の三笠宮御差遣は公務ゆえ、陛下より内廷庁舎にてと仰せありしを、鈴木侍従次長は個人的に御文庫でと言った)
昭和天皇◆内廷庁舎と決めたことゆえ御文庫は何の準備もなく、三笠宮の椅子がなくて三笠宮が持って来るなど不体裁のことであり、アラ探しをしがちな三笠宮ゆえ困ったことと思った。
田島長官◆連絡不十分は私としてもお詫びをせねばなりませぬ。
今後はそんなことのないように致します。
昭和天皇◆あれは鈴木の直らぬ性質から出て来るのか、注意をすれば良くなるのか。
田島長官◆長田幹彦小説、木下依頼事件のごときもその欠点ゆえ、鈴木侍従次長の性質によるものかと存じまする。
昭和天皇◆孝宮和子内親王の衣装の問題もなんら申出なく、良子が聞いて初めて言うという訳であった。
そういう風ならば、気の毒でも替ってもらわねばと思う。
1950年9月27日
昭和天皇◆鈴木に「優生学上、福井その他に聞いてくれ」と言ったら、福井一人に聞いて「イトコの良い例もあり悪い例もある」ということを言って来ただけであったが、鈴木はかように少し荒っぽいところがある。
これから東宮ちゃんの配偶・また順宮厚子内親王の時にもやられても困る。
もっと慎重でないと。
1950年9月28日
昭和天皇◆貞明皇后が鈴木のことにお触れになったので、ありのままを申し上げた。
節子皇太后〔貞明皇后〕の人物の見方はどうも私にはわからぬが、鈴木はあの鈴木貫太郎の子だからよかろうとの御話であるが、良い親の子に立派な子の場合も確かにあるが、子供はそれほどでもないということはいくらもある。
それを貫太郎の息子だからとはおかしい御話だ。
1950年10月9日
(侍従次長鈴木一が退官に際し、陛下の服装問題にかれこれ仰せになることを御諌言的に申し上げしこと、高松宮らをよく御抱擁願いたしとの申し出のこと、ゴルフの問題のこと、順宮厚子内親王は浅野長愛へ御降嫁よろしかるべしとのこと申し上げし由承る)
昭和天皇◆鈴木は辞めてよかった。
田島長官◆線が太いので場所によっては大いに使えると思いますが、侍従次長のような気を配る点は不適。
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『入江相政日記』侍従長※当時は侍従
1950年9月27日
鈴木侍従次長から「今度辞めることになった」と聞かされて、非常にびっくりする。
要するにこれは最近の大失政であると思う。
そのことばかりが考えられる。
侍従永積寅彦・侍従山田康彦と鈴木侍従次長の罷免の問題について論じ合う。
宮内官僚三井安弥・宮内官僚鈴木菊男と鈴木次長の問題について語り合う。
鈴木侍従次長は最大の危機だと言っていた。
1950年9月29日
鈴木侍従次長が長く拝謁する。
最後のお別れのつもりであろう。
御服装のことと対皇族のことを申し上げた由。
御文庫へ行く。
鈴木侍従次長の申し上げたことに関連していろいろ仰せがある。
要するに鈴木侍従次長の罷免のことにつき、やはり平然たり得ないものがおありになるのであろう。
1950年10月3日
集まって鈴木侍従次長に挨拶をする。
鈴木侍従次長は泣きながら、去るに及んだ事情を述べられ、すべてを捨てて奉公を励むように話された。
1950年12月31日
今年は秋に鈴木一さんが侍従次長を辞めることになった。
このことには一通りの理由があるにしても、運び方なり何なりに後年に悔をやはり残すことになったのは遺憾であった。
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■夫 鈴木孝雄 鈴木由哲の子
1869-1964
■妻 立見モト 立見尚文男爵の娘
1884-1971
●長男 鈴木武 坂部淳一の娘坂部栄と結婚
●二男 鈴木英 総理大臣岡田啓介の娘岡田喜美子と結婚
●二女 鈴木千鶴子 政治家始関伊平と結婚
●三女 鈴木夏子 磯村産業小田村嘉穂と結婚
●四女 鈴木八重子 防衛庁肥後大介と結婚
1928年 鈴木孝雄 家族
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■夫 鈴木三郎 鈴木由哲の子
1876-1947
■妻 木下トネ 法学者木下広次の娘
●長男 鈴木平太
●二男 鈴木敏夫 岡本ヨシの養子になり岡本敏夫となる
●三男 鈴木義雄
●二女 鈴木須磨
■関宿別邸 千葉県野田市
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■父 鈴木由哲
■妻 小野田キヨ 小野寺慶峰の娘
●長男 鈴木貫太郎 初代男爵
●二男 鈴木孝雄
●三男 鈴木三郎
●男子 鈴木茂 永田栄次郎の養子になり永田茂となる
●女子 鈴木ケイ 永田廉平と結婚
●女子 鈴木ヨシ 岡本塩太郎と結婚
●女子 鈴木キミ 倉持正次郎と結婚
両親・兄妹と 後列中央が貫太郎
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◆初代男爵 鈴木貫太郎 鈴木由哲の子・総理大臣
1868-1948
■前妻 大沼トヨ 大沼親誠の娘 死別
1880-1912
■後妻 足立タカ 足立元太郎の娘 女官
1883-1971
後妻 足立タカ
鈴木貫太郎&後妻タカ
中央が鈴木貫太郎夫妻
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岡部長章『回想記』昭和天皇の侍従
私が侍従を拝命した時の侍従長は鈴木貫太郎さんでした。
です海軍大将であり、終戦時には首相にもなりました。
昭和天皇陛下が最も信頼なさる忠臣ではなかったかと思います。
昭和11年私が出勤を始めて間もない頃、庶務課長大金益次郎に連れられて侍従長室に行きました。
鈴木さんも二二六事件で襲撃された時の傷が癒え、出勤された日のことです。
特別に侍従の心得などはなさらず、なんともスケールの大きな人物に触れたようで、私は身が引き締まるのを覚えました。
鈴木さんは侍従候所に顔を出されました。
「この度はお手厚いお見舞いを賜りまして、幸い床を離れることを得ました。とりあえずお礼言上に出ました」と前置きして、襲撃の模様を語り出しました。
二二六事件の前に陸軍の青年将校が鈴木さんの元に訪ねてきて国家改造運動を言うので、鈴木さんはイギリス海軍で暴動が起こった時に断固処分をしたのでイギリス海軍が立ち直ったという話を聞かせたそうです。
その青年将校は納得して帰ったといいます。
その青年将校が二二六事件では鈴木さんを襲撃した主犯格だったそうです。
「閣下、御免」と言って命令を下し、下士官がとどめを刺そうとしたのを抑え、敬礼して去って行ったと語られます。
「ところが私は右を下にして寝ていたのです。今度初めて分かったことでありますが、私の心臓は移動性といって万人に一人だと聞かされました。心臓が右に寄っていて、その間を弾丸が抜けて助かりました」
実に淡々と言葉少なに語られていました。
「背中には今も弾丸がとどまっていますが、これは別に差し障りはないのでそのままになっております。脇腹に当った一弾も差し障りがないとのことですが、それが段々と下がって参り、今は睾丸の中にとどまっております」
皆、あっけにとられて伺っていました。
「では御前へ出ますので」と鈴木さんは出て行かれました。
それからずいぶん長い間鈴木さんは御前におられました。
やっぱり三つ弾になった点にも触れて、同じ調子で陛下にお話をお聞かせしたに相違なく、一同いよいよ息を飲みました。
おいたわりの御言葉も切実この上なかったに違いありません。
本人がノックして参殿しましたから陛下もビックリされ、鈴木さんの巨体を御覧になった時は「鈴木、よかったね」の一言が出たと拝察します。
陛下と鈴木さんの間には特別に感情の交流があったと、今でも研究者の間でも言われています。
それゆえに終戦に至る難事業を、陛下の意を受けて乗り切ることができたのだと思われます。
鈴木さんが陛下に信頼されていたという事実、このことこそ昭和史を救った最も大きな要因だったと、何度繰り返してもいいのではないかと私は考えています。
敗戦後、鈴木貫太郎首相は素早く総辞職しました。
「戦は負けっぷりは良くなければ」という次第です。
それに対して木戸幸一内府は、
「もっと続けさせようと考えていたのに…」とすれ違いざまに私に話しかけるのです。
全力を尽くした老大将に対し、まったく失礼な言です。
「思い上がっているなあ」と内心許せぬ気がしました。
いよいよ人物の小ささが丸出しです。
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『高松宮日記』
※後妻足立タカは昭和天皇・秩父宮・高松宮の御養育係の一人
1934年1月7日
子供を叱ることは必要だが、それがひねくれさす素になることもあるから注意を要する。
要は叱る人の態度・精神によるし、その人の叱る時以外の態度にもよる。
私の感じでは、女官足立タカとかの態度は適当なものではなかったことを記憶する。
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●長男 鈴木一 父と同じく昭和天皇の侍従となる 酒造業赤須東吾の娘赤須布美と結婚
●女子 鈴木サカエ 陸軍藤江恵輔と結婚
●女子 鈴木ミツコ 農学者足立仁と結婚
●鈴木サカエ 19歳 陸軍藤江恵輔と結婚
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田島道治『日記』宮内庁長官
1950年9月30日
侍従次長鈴木一転任波紋イヤになる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1950年6月3日
昭和天皇◆侍従次長鈴木一はどうもマメでない。
私は用があれば誰でも呼ぶが、良子は多少遠慮する。
元侍従次長広幡忠隆でも元侍従次長木下道雄でももっと来たが、鈴木はマメでない。
女官の方との接触も不十分。
しかし勇気はある。
田島長官◆鈴木侍従次長は少し粗暴のように存ぜられます。
周到を欠く点もあると思われます。
そして勇気いうよりも無鉄砲的に断行する勇気があります。
1950年9月11日
昭和天皇◆侍従職の連絡がまずくて三笠宮にアラを見られはせぬかと思い、侍従職の威厳にも関し困ったことが起きた。
(今回の三笠宮御差遣は公務ゆえ、陛下より内廷庁舎にてと仰せありしを、鈴木侍従次長は個人的に御文庫でと言った)
昭和天皇◆内廷庁舎と決めたことゆえ御文庫は何の準備もなく、三笠宮の椅子がなくて三笠宮が持って来るなど不体裁のことであり、アラ探しをしがちな三笠宮ゆえ困ったことと思った。
田島長官◆連絡不十分は私としてもお詫びをせねばなりませぬ。
今後はそんなことのないように致します。
昭和天皇◆あれは鈴木の直らぬ性質から出て来るのか、注意をすれば良くなるのか。
田島長官◆長田幹彦小説、木下依頼事件のごときもその欠点ゆえ、鈴木侍従次長の性質によるものかと存じまする。
昭和天皇◆孝宮和子内親王の衣装の問題もなんら申出なく、良子が聞いて初めて言うという訳であった。
そういう風ならば、気の毒でも替ってもらわねばと思う。
1950年9月27日
昭和天皇◆鈴木に「優生学上、福井その他に聞いてくれ」と言ったら、福井一人に聞いて「イトコの良い例もあり悪い例もある」ということを言って来ただけであったが、鈴木はかように少し荒っぽいところがある。
これから東宮ちゃんの配偶・また順宮厚子内親王の時にもやられても困る。
もっと慎重でないと。
1950年9月28日
昭和天皇◆貞明皇后が鈴木のことにお触れになったので、ありのままを申し上げた。
節子皇太后〔貞明皇后〕の人物の見方はどうも私にはわからぬが、鈴木はあの鈴木貫太郎の子だからよかろうとの御話であるが、良い親の子に立派な子の場合も確かにあるが、子供はそれほどでもないということはいくらもある。
それを貫太郎の息子だからとはおかしい御話だ。
1950年10月9日
(侍従次長鈴木一が退官に際し、陛下の服装問題にかれこれ仰せになることを御諌言的に申し上げしこと、高松宮らをよく御抱擁願いたしとの申し出のこと、ゴルフの問題のこと、順宮厚子内親王は浅野長愛へ御降嫁よろしかるべしとのこと申し上げし由承る)
昭和天皇◆鈴木は辞めてよかった。
田島長官◆線が太いので場所によっては大いに使えると思いますが、侍従次長のような気を配る点は不適。
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『入江相政日記』侍従長※当時は侍従
1950年9月27日
鈴木侍従次長から「今度辞めることになった」と聞かされて、非常にびっくりする。
要するにこれは最近の大失政であると思う。
そのことばかりが考えられる。
侍従永積寅彦・侍従山田康彦と鈴木侍従次長の罷免の問題について論じ合う。
宮内官僚三井安弥・宮内官僚鈴木菊男と鈴木次長の問題について語り合う。
鈴木侍従次長は最大の危機だと言っていた。
1950年9月29日
鈴木侍従次長が長く拝謁する。
最後のお別れのつもりであろう。
御服装のことと対皇族のことを申し上げた由。
御文庫へ行く。
鈴木侍従次長の申し上げたことに関連していろいろ仰せがある。
要するに鈴木侍従次長の罷免のことにつき、やはり平然たり得ないものがおありになるのであろう。
1950年10月3日
集まって鈴木侍従次長に挨拶をする。
鈴木侍従次長は泣きながら、去るに及んだ事情を述べられ、すべてを捨てて奉公を励むように話された。
1950年12月31日
今年は秋に鈴木一さんが侍従次長を辞めることになった。
このことには一通りの理由があるにしても、運び方なり何なりに後年に悔をやはり残すことになったのは遺憾であった。
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■夫 鈴木孝雄 鈴木由哲の子
1869-1964
■妻 立見モト 立見尚文男爵の娘
1884-1971
●長男 鈴木武 坂部淳一の娘坂部栄と結婚
●二男 鈴木英 総理大臣岡田啓介の娘岡田喜美子と結婚
●二女 鈴木千鶴子 政治家始関伊平と結婚
●三女 鈴木夏子 磯村産業小田村嘉穂と結婚
●四女 鈴木八重子 防衛庁肥後大介と結婚
1928年 鈴木孝雄 家族
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■夫 鈴木三郎 鈴木由哲の子
1876-1947
■妻 木下トネ 法学者木下広次の娘
●長男 鈴木平太
●二男 鈴木敏夫 岡本ヨシの養子になり岡本敏夫となる
●三男 鈴木義雄
●二女 鈴木須磨









