◆124代 昭和天皇(迪宮裕仁親王)123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没
■妻 香淳皇后 久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没
●継宮 明仁親王 125代平成天皇
●義宮 正仁親王 常陸宮
●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚
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侍従 岡部長章 回想記
学習院を卒業すると東京大学に入りました。
専門は東洋史です。
私が卒業する年、上野の博物館が研究員を募集するという話を聞きました。
上野の博物館は当時はまだ宮内省所属の帝室博物館でした。
帝室博物館に3年ほどいましたら、今度は本省に来いという命令です。
本省といえば宮内省です。
宮内省に赴くと、侍従になれということでした。
大正時代までは、侍従というのはみな爵位のある人でなければということでした。
ところがそれではなかなか人が得られなくなって、昭和の時代には次男や三男にも範囲を広げたのです。
大名華族か公家華族の子弟で、学習院を出て官立の大学を出ていればいいということになってから、私も侍従として入ることになったそうです。
3月20日に登庁すると、まず天皇様の拝謁がありました。
侍従の身分は奏任官なのですが、お側で仕えるのだからというので、文官中最高の親任官なみの扱いとなるのです。
学習院卒業式には天皇様の行幸があるので御顔を拝したことがありましたが、近くで拝したのはこの時が初めてでした。
昭和天皇から「いろいろ御苦労をかけるであろう」という御言葉をいただきました。
新しい侍従は必ずその御言葉をいただくのです。
私は頭を下げて戻ってきました。
こちらから言葉を言ってはいけないのです。
拝謁者はすべて侍従候所を通ります。
関門のようなものです。
出入口が二つあり、行きも帰りも部屋の中を通り抜けて行くようになっています。
侍従は誰々が何時から何時まで拝謁したというメモを残しておきます。
それを当直の侍従が毎夜まとめて日誌につけます。
これを正式には「常侍官日誌」と言います。
拝謁はいろいろな組織の最高責任者です。
だから外務省の局長クラスが拝謁するというようなことはありません。
外務大臣のお供で来たとしても、控室で待っているのです。
重光外相に同行してミズーリ号に行った課長が、その後著作の中で重光外相と一緒に拝謁して何か申し上げたかのように書いているのですが、そういうことはありえません。
「宮中にも自由に出入りしていた」とあるのは、重光外相の使いとして内大臣室に出入りしたという意味なのでしょう。
政治筋の拝謁者は大臣に限ります。
課長の拝謁という例はないのです。
御常御殿は二階建で、上が御政務室と御書斎、内大臣の拝謁はここで行われます。
総理大臣など外の人の拝謁は、御政務室の下の御学問所で行われます。
総理大臣だった近衛さんなども五摂家ではあっても外の人ですから、拝謁の時はまず参殿者休所に来ます。
侍従が昭和天皇のもとに行って、「近衛の拝謁にお出まし願います」と申し上げます。
このとき昭和天皇の御服装に注意するのが実は大切なのです。
支那事変が長引いて陸軍の方針についての御悩が多くなると、昭和天皇はお考え込みになる場合が多くなりました。
片方の御靴には拍車が光っていて陸軍装であるのに、他方は海軍式の物を御用いなるということがあり、侍従が御注意しすぐに御替になったなど、御悩の御心中が拝察されるのでした。
昭和天皇の拝謁の間は御学問所という明治天皇以来の名称で、ここは唐紙4枚が全部取り外してあり、6曲の金屏風が置かれ、玉座が二の間からは直接見えないようにしてあります。
玉座の背後はネズミ色の大理石のマントルピースで、冬の特に寒い夜などには前もって事務官が電熱のスイッチを入れておきます。
侍従は、朝は普通の役所と同じで8時30分までに出勤します。
そして夕方5時になると退出する。
通勤には背広を着ていますが、登庁するとモーニングに着替えて侍従の詰所に行きます。
この詰所は正式には「常侍官候所」といいます。
しかし「侍従詰所」とも呼ばれていました。
仕事の間はずっとモーニングを着ています。それが通常服。
フロックコートが通常礼服・燕尾服が小礼服・金モールのいかめしいのが大礼服です。
その他に行幸の際の御供の時に着用する供奉服があります。
黒色の詰め衿で、長剣を帯びます。
カフスと襟には黒の絹糸で菊の唐草が刺繍してある渋いものです。
勅任官・親任官は胸部にも刺繍が施されています。
小出侍従の説明では「これは飾りの剣ではない。身をもってお守りするのだから、研げば切れるのだ」とのことでした。
侍従詰所は檜造りの12畳ぐらいの広さで、中央に楕円形の大きなテーブルがあり、その周りに長い椅子一脚と数脚の椅子が配してありました。
窓の所に私たち侍従が事務を執るグリーンのラシャが貼られた机が二つあり、その端に電話機が一つ。
これは省内にならどこへでも掛かり、外へでも通じる電話機です。
それから一段高い三脚のような高い台の上に、御座所からの電話機が置いてありました。
昭和天皇の方には電話機が一つあって、何か用事があるとお掛けになります。
これは一方通行で、もちろんこちらからは掛けられないようになっています。
この電話が鳴ると「はい、岡部でございます」とお答えすることになっています。
この電話の他に御召のベルというのがあります。
これもこちらからは押せないベルです。
このベルが鳴ると、誰かが御前に出るわけです。
ベルの方は壁にでも付いていたのでしょう、どこかでチンと鳴るんです。
昭和天皇の執務室のベルは侍従詰所へ内大臣へ宮内大臣へとそれぞれ繋がっていて、用事のある部署のベルを御押になります。
電話は簡潔な御用件の場合に御使になります。
昭和天皇は毎朝9時頃に執務室にお出ましになります。
お杉戸が昭和両陛下の御居住の部分と昭和天皇が毎日の御政務をなさる御政務部分との境なのです。
そのお杉戸を御自分でお開けになります。
侍従はそれを〈お出まし〉と申したものです。
お昼の御食事に奥へ御引上になり、午後1時にはまた出ておいでになります。
日曜日以外は毎夕6時過ぎに上奏物と呼ばれる書類が内閣から届きます。
その書類に見たという意味で〈可〉という字が彫ってある象牙の印を昭和天皇が御自分で御捺印なさるのです。
そのお世話も泊まりの侍従の仕事です。
書類の量はだんだん多くなって、大東亜戦争の最中ともなると積み上げて1メートル近くにもなるという状態でした。
御執務の御机は木の縁取りがあって革張りの大型のものです。
やはり革張りの椅子に座られます。
椅子の背には金箔押しの菊の御紋がついていました。
内閣からの書類は上奏箱に入ってきます。
上奏の合鍵は御政務室の皮の小箱に納めてあります。
さらに上層箱には大中小の3種があり、大の深さは20センチほど、小は4センチほどでした。
深箱が2つともなるとそれは大変です。
内閣書記官が鍵を掛けて寄越します。
皮の小箱から合鍵を取り出して書類を取り出します。
昭和天皇が御覧になりやすいように書類を一つずつ差し出しますと、自ら判を押されます。
侍従は「御裁可」を願うと申し、武官は「御允裁」と呼び分けていました。
終わったものはまた一つずつ箱に戻して内閣に下げます。
御署名が必要なのは詔勅関係の書類です。
これは輔弼によるのですから、首相以下閣僚が先に署名します。
本文との間は広く空けてあり、そこへ昭和天皇に御署名を願い、内大臣府で純金の御璽または国璽を捺印することになっていました。
他には勲記にも御署名をなさいます。
御署名の御墨は書に通じていた内大臣秘書官工藤壮平氏の進言で特別に作られたもの、筆は平安堂の細筆でした。
侍従が墨をすり、用意ができましたと申し上げますと、昭和天皇は墨をたっぷりつけてゆっくりと御書きになりました。
だんだん戦争がひどくなるにつれ御用務が多くなり、御夕食が8時近くになることも度々でした。
大臣たちは閣議が終わって家に帰り、風呂にでも入って特別配給のビールでも飲んでいるというような時間に、昭和天皇は内閣からの書類を御覧になり、御裁可の象牙印を御自分で捺印なさるのです。
重要案件ですと、閣議の書類も熟読なさいます。
大臣の方が早く解放されるので、これは何とも変な話だとつくづく残念に思うのが常でした。
昭和天皇は午後10時30分頃に御眠みになります。
そうすると昭和天皇が御眠になったという連絡が内舎人から入ります。
天皇の洋服のチリを払ったりする御側勤めの役を内舎人というのですが、どういう決まりか女官候所から直接に侍従候所には来ずに、内舎人の所に電話が行き、それから私たちのいる侍従候所に「御格子(就寝)になりました」と伝えてくるのです。
この連絡が来ると私たちも眠りにつくことができます。
モーニングを脱いで侍従武官と一緒に風呂に入ってから睡眠に入ります。
朝はもちろん昭和天皇より早く起きていなければいけません。
昭和天皇が何時頃に起きられるかは知りませんが、だいたい午前9時頃には御座所にお出ましで、その前に朝の御食事もされますから午前7時前後に起きられるのでしょう。
私たちは午前6時には起きて身支度を整え食事をとります。
食堂があって、朝食は日本食でした。
夕食と朝食は官給で、泊まりの者だけに出されます。
昼食は自己負担です。
私は初めこのことを知らず、卑しくも侍従なら三度の食事は官給で出るのだと思っていたんです。
最初に給料もらったとき勘定書を見ると食事代が引かれていたので、侍従候所で大笑いになったことがありました。
広幡大夫は巨躯に似ぬ細い声で、「それでも入りを計ってやってるから感心だ」と言われ、また笑いのタネになりました。
毎週土曜日には決まって夕食会が開かれました。
御相伴と言います。
泊まりの侍従二人と侍医が一人それに陸軍か海軍の武官が一人、昭和両陛下と同じテーブルでいただくのです。
その他に女官が二人出ます。
御食堂の入口でお待ちしていると昭和両陛下がお出ましになり、中央の長方形のテーブルに着かれ一同も席を賜ります。
大正天皇の頃は大正両陛下は洋卓にお着きで一同は座っていただいたと、古参の筧侍医にお聞きしました。
膝行のとき靴下が脱げそうで、退出時にはズボンがたくし上がってスネが出そうになる。
慣れないうちは心配だったそうです。
料理はいつもフランス料理で、オードブル・スープ・魚・肉といったコース料理でした。
食事の時にはワインも出ます。
しかし昭和天皇はお酒は全然飲まれません。
お話が弾むと2時間にもわたります。
話術は入江侍従が特に長じていましたし、私もそれに和するようになりました。
食事の時に昭和天皇の方から話されることはあまりありませんでした。
特に私と入江さんの時には二人ともおしゃべりでしたから、こちらからお話することが多かった。
人によっては御相伴に出る前に話題を考えておくという人もいましたが、私はいちいち考えたことはありません。
昭和天皇が御話される時にもその内容は御政務には関係ないことで触りのない愉快な話題が多く、昭和天皇の御言葉を誰かが取り間違ったとか何かをひっくり返したとかいうような面白い失敗談が出ます。
そうした失敗をめいめいが昭和天皇の御耳に入れるといったことになるのです。
昭和天皇は大いに御笑になりますが、あまり深入りなさいません。
落ち度を自責させては気の毒との細やかな御配慮が感じられるのです。
それに私たちについてのプライベートなことも立ち入って御聞にはなりません。
昭和天皇の自然な御人柄に誰もが打たれる場合が多いのです。
このお食事会に酒の好きな村山浩侍医が酔って出たことがありました。
昭和13年、清宮貴子内親王がお生まれの時です。
お七夜で命名のおめでたい日というわけで、側近者に一樽下されました。
それで昼間から飲んでいたのです。
当直の村山侍医が酔っ払ってしまっているので、御相伴には代りに新米の稲田侍医が出るということになっていたのです。
ところが薬手が大イビキをかいている村山侍医を起こしてしまったのです。
起こされた村山侍医は一大事とばかり風呂に入って務めに出てきた。
代りの稲田侍医はただ待っていただけという気の毒なことになりました。
けれどもまだ酔いが抜けないものだから、廊下から危なげな足音が聞こえたのです。
困ったなという思いで顔を見合わすと、茶目っ気のある海軍武官山積大佐が「大丈夫、大丈夫」と100パーセント引き受けるように言ってくれました。
さすがに海の男らしい自信です。
私もしょうがない、なるようになれと思い、とにかく村山侍医を昭和天皇からできるだけ離そうと決心しました。
申し合せたわけではないのに山積武官と私とで素早く左右の席を占め、村山侍医は中央の盛花を隔てて昭和天皇の御席の真向いに着かなければならないようにしました。
間髪を入れぬ妙義でした。
食事の間も村山侍医はなんとか一生懸命話に加わろうと努力するのですが、頭がボーッとしている。
私たちは素早く話題を転換して村山侍医が口を出せないようにして、ようやく無事に済むだろうと思ったのです。
ところが最後の方になってだいぶ酒も覚めてきたのでしょう、ちょっと話の歯車が合ってしまった。
「大工の右手が大きい」とかそんな話題だったと記憶していますが、村山侍医が自分の前にある花の横から顔をのぞかせながら、「要不要の原則ということがございましたな」と突然昭和天皇に賛成を強要したのです。
それで大笑いになり、昭和天皇も御笑になりまして、大変愉快に無事に終わりました。
昭和天皇も以前その侍医が酔っている姿を御覧になったことがあったのです。
昭和8年に東宮様がお生まれの時、やはりよって侍従部屋でイビキをかいて寝てしまったのを御覧になって、「これは病気ではないか?」と仰せられたそうです。
徳大寺侍従が「酔っておりますので、酔いが覚めれば何でもございません」とご説明したそうです。
だから「ああ、また酔っているな」と御感じになったのに違いありません。
このことは侍従候所でも、山積・岡部の虎退治と呼ばれるようになりました。
昭和天皇はニュース映画はもとより、劇映画なども御覧になります。
ニュース映画は必ず毎週一回、劇映画も時々御食事後に御覧に入れるのです。
警視庁の検閲課に行くと、しかるべきものを2本用意しています。
それを見てどちらか1本を借りてきます。
警視庁で出す映画は検閲済のもので、検閲前のものは絶対に見せません。
しかし警視庁の担当の人間が「これがいい、あれがいい」と私たちの選定に口を出すことはありませんでした。
映写技師も属官で、警視庁に行って技術をマスターしてきた人たちが数人います。
映画を御覧の時には侍従・侍医・女官など当直の者も拝見しますが、御直宮(御兄弟)を御招きするようにとの仰せもありました。
秩父宮は病気で御殿場で静養中でしたが、高松宮と三笠宮はよくお見えになりました。
昭和両陛下が一番前で、その隣に殿下方が、そして後ろに私達が座ります。
昭和天皇が一番お好なのはディズニーの漫画。
きちんと姿勢を正して御覧になり、あまり大声で御笑にはならないけれど、時々御声は聞こえました。
昭和12年の支那事変を機に、年を追って陸軍中心の非常時意識が強まり、吹上御苑に設けられた9ホールのコースで御運動をなさると敵国のスポーツと陰口が流されました。
それでゴルフを廃止させざるをえなくなり、週2回の御運動は御乗馬だけになりました。
また葉山でブリッジをなさっているのを麻雀だと即断して、暴戻なる支那の遊戯はけしからぬということにもなりました。
麻雀と見違えたあげく、麻雀で賭けておいでだというデマも流されました。
次第にブリッジも親しまれなくなりました。
代って将棋を楽しまれました。
折り畳み式の軽便な将棋盤を侍従の鞄に入れて、葉山や日光へ持ち込んだ時期もありました。
侍従と侍医の対決を観戦されることもありましたし、昭和天皇御自身が「ひとつ、やろう」と仰せになることもありました。
私は乱視があるため角筋を間違えて駒を動かし、「あっと、それは」と大きな声を出されたこともありました。
昭和天皇の御将棋はなかなかの腕前でした。
あるとき私が「昭和天皇はどなたにお習いでございますか?」と伺うと、
「それは大正天皇だよ」と懐かしげな口振りでおっしゃられました。
昭和天皇はよく皇居内を散歩なさいました。
泊まりの者が必ず一人御供をします。
本丸の方には行かれずに、吹上御苑周辺が中心でした。
9ホールあるゴルフ場でしたが、支那事変が厳しくなると自然庭園にして武蔵野の植物を育てることを御望になり、その観察に行かれるのです。
門前の小僧で私も少しは植物について知ることができましたが、生物学御研究所の真田技官・加藤技官は植物の開花期まで心得ていて、今どこでちょうど何の花が咲いておりますというようなご案内をしていました。
当時の宮殿の大きな御本棚のどこには誰の本があるとすべて御記憶されていました。
葉山に滞在されている折など、葉山の侍従から在京の侍従に
「何段目、向かって右方にある『■■』の第三巻を届けるように」との連絡があると、それを宮内省の連絡便で送るのです。
整然と配列してある本の背の色まで思い浮かべて、「あれを見なければならない」と御考になり、お伝えになるに違いありません。
アメリカのグルー大使が外交官を代表して祝辞を述べたのは皇紀二千六百年の行事の時です。
グルー大使はもちろん英語で祝辞を読んだのですが、昭和天皇はお分かりになったかどうか。
というのも昭和天皇はフランス語は御読になるのですが、英語は御習いにならなかった。
あるとき、侍従が「岡部君、御召だ」と言うのです。
御名指しとはいったい何の御用だろうと思いながら御前に出ますと、
誠に気の毒に思召の御様子で「岡部、これをね」と本を開いておいでです。
「これは中国に行っていた及川(及川古志郎)が上海から帰ってきた時に持ってきてくれたんだよ。私は英語が分からないから、ここからここまで訳してほしいのだ」と遠慮がちに仰せられました。
このような翻訳は本来なら生物学御研究所の服部宏太郎御用掛の筋なのですが、服部御用掛は土曜のみ出勤で御研究の御相手をするので不在のことが多いわけです。
昭和天皇は早く内容を御知りになりたいが、わざわざ老博士を呼ぶことを御遠慮になるのです。
侍従に生物学の原書を読ませるのは筋ではなく、この時も気の毒の御様子を示されました。
侍従の本来の職務の筋以外なので、御遠慮がちに申されたのです。
その微笑を含んで英語は苦手と仰せられる御人柄には大変驚き感動を覚えました。
私は「ちょっとお借りして調べます」と申しますと、「いいよ」とすぐ御渡になります。
私は学術書を訳すなんてできるだろうかと思ったのですが、侍従候所の辞書で訳し始めると案外簡単でした。
学術用語についてはわからないものもあったので、
昭和天皇には「こういう意味に解せますが、それでよろしゅうございますか」とお伺いすると、
「それでいいよ」「よくわかるよ」などと御答くださいました。
柔軟で細心な御態度が何よりもうれしく、文字通りありがたく稀な御人柄な事が実にひしひしと迫ってくると申したら、旧時であれば不敬だと評されるに違いありません。
及川さんは海軍武官でなかなか賢くて、昭和天皇のお土産として生物学の本などを持ってきました。
ところが陸軍の場合は戦利品の匂いがチラホラします。
そうすると昭和天皇の御機嫌が悪くなるのです。
支那方面軍司令部の東久邇宮昭和天皇の御帰任の時に、船に2台分の品が運ばれました。
船というのは畳一畳の荷台のことで、いろいろな物を乗せ前後を二人で運んで、それらを申し口に並べてあるのです。
「これは考古学上の名称は〈彩色土器〉と申します。黒いエナメルでこのように番号が書いてありますので、これはどこかの博物館の展示品に違いなく、おそらく上海の自然科学研究所の列品だと思われます」と申し上げました。
昭和天皇は大変御不満そうな御顔で「貴重なものか?」と念を御押になります。
「帝室博物館でも見たことがございませんし、私も実物を手に取るのはこれが初めてでございます」とお答えしました。
すると即座に「それでは帝室博物館にやって保存するように」と仰せられ、上野の博物館に運ぶことになりました。
終戦直後に広幡太夫が御召で御前に出たら、「あれをさっそく外務省に回して向こうへ返すように」と御命じになりました。
あれというのはこの展示品のことだったのです。
広幡太夫は「すっかり忘れていた。御記憶のいいのには恐れ入ったよ」と感心していました。
私が侍従として勤め始めた年の3月頃には二二六事件の騒ぎも一応カタがついていたためでしょうか、昭和天皇はとても朗らかな御様子でした。
昭和天皇が非常に朗らかな調子の御声で侍従候所に出ていらして、私はビックリしました。
まさか昭和天皇が候所に出て来られるとは思ってもいませんでした。
大元帥の軍服を着た御姿でノックもなしにいきなりスッと入って来られるのです。
考えてみれば御自分の御住いの中なのですから、どこへ行かれるのも御自由なのです。
侍従候所に来られるのは昭和天皇にとっては一時の息抜きなのです。
特に明日は宮中の御祭だという日の夕方にはよく出てこられました。
良子皇后は賢所御参になるために髪型を洋式からおすべらかしになさいます。
女官が奉仕してびんづけ油で固めるのですが、それには大変時間がかかるのです。
だから御夕食の時間が遅れてしまう。
昭和天皇の御政務が終わってもまだ良子皇后の御支度ができていないと、御夕食までの30分ほど私たちのところへ出て来られるわけです。
良子天皇が入ってこられると私たち侍従は立ち上がります。
タバコを吸っている者は消さなければいけません。
昭和天皇はタバコを吸われませんから。
私はそれを知らずに吸っていて、徳大寺侍従に「御前では、それは」と言われて慌てて消したことがありました。
部屋に入られると昭和天皇は私たちと話をされることもありますが、まずテーブルの上に置いてある新聞を必ず御覧になりました。
あまり細かいところは御読にならず、見出しと数行読まれるぐらいでした。
それも三面記事などではなく、ほとんどが第一面の政治記事でした。
昭和天皇にとっては総理大臣や外務大臣・内務大臣などの奏上が正統なものなのですから、参考程度に新聞を御覧になるのでしょう。
新聞は数種類置いてありましたが、朝日を一番よく御覧になりました。
新聞を読まれても感想などは御口になさいません。
私達もお聞きしませんでした。
侍従候所では昭和天皇は政治の生々しい話などは一切されませんでした。
私たちと話される内容は採集された生物のことが多く、それにちょっとした日常の失敗談のようなことなどで、冗談などはあまり言われませんでした。
昭和15年ともなると支那事変の状況がひどいことになってきます。
拝謁も多くなりますし、毎夕御覧になる書類も山のようになってきました。
御散歩の回数は減りました。
映画は御夕食後に御覧になるのでこれは変わりませんでした。
それからまことに困ったことは、御政務室でのお独り言が多くなってきたことです。
私が赴任した時は二二六事件の直後で一応ことは落着していたので、その1年間はお独り言をお聞きしたことはあまりありませんでした。
それが翌年昭和12年7月盧溝橋事件の後になると、急に多くなってきたと思います。
御政務室に通じるドアは開きっ放しになっているために、階段を上っているうちにお独り言の御声が聞こえてきました。
ある時期からお歩きになりながらお独り言を言っておいでのことが目立つようになりました。
大きい御声で「どうも、あれは」とか言われるものだから、侍従だけでなく武官も伺っているはずです。
いろいろなことで内閣の動きが激しくなりましたし、高等官の人事にもそれが現れてくる。
だから昭和天皇の御裁可を仰ぐ件案も多くなるわけです。
結局毎夕書類が山のように積まれてしまうという状況でした。
大東亜戦争の期間、昭和天皇のお独り言を耳にすることがありました。
真珠湾の直後には「まったく天佑だ」と言われていたのを伺ったことがあります。
味方をも欺くような作戦の秘密が漏れずに成功したのですから、確かに驚くべき次第です。
困った場合ではないお独り言は、その時だけでした。
後は「どうも、これは」というようなお声がほとんどでした。
御政務の量も増えました。
私の受けた印象では、昭和天皇の悩みの種は主として陸軍だったようです。
侍従武官長の宇佐美中将が御前に出ている時に、昭和天皇がちょっと激しい調子で御話になるのを耳にしてしまったことがありました。
二二六事件の時の武官長は本庄繁大将で私が3月20日に侍従になって三日間ほどで退官、宇佐美中将が新たに就任したのです。
宇佐美さんが拝謁している時に、「壬申の乱のようなことになる」という意味の事を大声で申されたのが聞こえました。
秩父宮を担ごうとする陸軍の運動があったと仄聞していたので、それに関連することだなと思いました。
秩父宮が多少激しい御性質の方だということは私も心得ていました。
それをまた陸軍の青年将校が担ごうとするのです。
おそらく宇佐美武官長は昭和天皇に対して、秩父宮の意見もいろいろ聞いてほしいと言ったのではないでしょうか。
それで昭和天皇が壬申の乱というような例を持ち出されたのだと思います。
ところが宇佐美武官長は「はあ」とか言って、壬申の乱が何なのかわからない様子でした。
秩父宮のようなお直宮が昭和天皇に会われるのは奥の方になります。
当時秩父宮は陸軍の佐官でしたから、御兄弟として来られるだけで軍事上の奏上はできません。
陸軍では皇族を金枝玉葉の御身分などと言いますが、それも昭和天皇にとってはプライベートな関係だけになります。
朝香宮殿下が陸軍内のことに触れ、叱られて退出されたこともあります。
階級は大将でも軍事参事官で、上奏する立場ではなかったのです。
昭和天皇はそうした公私の別を固くお守りになりました。
陸軍の過激な将校は、この点の認識が足りません。
勝手に思い入れをしていたのです。
高松宮に対しても細川護貞君が懸命にネジを巻いたようですが、高松宮はそれを受け入れず、秩父宮・高松宮両殿下とも、この点ははっきりと身を処せられました。
昭和17年の終わりのガダルカナル島を撤退したあたりから、昭和天皇は統帥部の御説明に対し何か不合理な点をお気づきになったらしいのです。
それよりも以前から、満州事変さらに支那事変以来の陸軍のあり方に御不満だったことはよく知られていました。
しかし昭和天皇が陸軍に対してどう対応しておられたかは、私たち侍従には詳細はわかりませんでした。
戦況についての細かい報告は侍従武官が申し上げていたのです。
侍従武官は陸軍の方は参謀本部の参議官ですし、海軍の方は軍令部員なのですから、詳しい戦況は知っていたはずです。
もう少し重要な戦況については侍従武官長が、さらにもっと重要な事項は両総長が出てきて申し上げることになっていました。
ただ一つ例外的にドイツ軍の東進が止まった時、スモレンスクあたりは湿地でドイツ軍の戦車が行動できないので長引くと口にしたのを、侍従一同は聞いています。
それも最後にはドイツが勝つという前提での陸軍武官の説明でした。
海軍武官の遠藤大佐が、「三国同盟の前後に陸軍の武官としてベルリンに駐在していた大島武官が、のちにドイツ大使となりドイツ人に大変好かれているのだ」と苦々しく当直の時に漏らしたことがありました。
要するに陸軍からの報告というのは希望的観測で、嘘が多かったように思えてなりませんでした。
大本営政府連絡会議では立派なことを言っていて、現実にどうすればいいのかの方針を立てられるような会議ではなかったと言われます。
そうなるとなるべく都合のいいことに力を入れて昭和天皇に報告する傾向が強まりながら、現実には負けているのですから、昭和天皇も悩まれたことでしょう。
しかもそれを相談するような人がいなかったのです。
内大臣には戦のことは相談できないし、侍従武官長をはじめ陸海両武官はみんな統帥部からタガをはめられていたわけですから。
私たちは戦況については新聞で知るだけで、昭和天皇も戦況について侍従に話されるということはありません。
もちろんこちらから伺う筋でもありません。
ただ戦況が悪くなると陸軍と海軍はもともと考え方が違うので、海軍の武官が侍従候所にやって来て鬱憤ばらしに話をしていくことが多くなり、それで戦況はだいたいわかるるようになりました。
侍従長は鈴木貫太郎さんの後は百武三郎さん・藤田尚徳さんとやはり海軍出身者です。
皆さん立派な方でした。
侍従武官長は本庄繁大将の後が宇佐美興屋中将・畑俊六将そ・蓮沼蕃大将と、いずれも陸軍からというのが慣例でした。
海軍大将が侍従長になっているので、武官長は釣り合いの上から陸軍大将で、海軍の主席武官は中将・陸軍の首席武官は少将ということになっていました。
海軍武官はよく私達のいる侍従候所にやって来ました。
平田東助伯爵の次男平田昇氏は武官として武官府に詰めていました。
上海事件かなにかの時にアメリカが参戦しそうになったというので、
侍従候所に来て「アメリカがもう少しで立つところにまでなったんだぞ!陸軍の野郎があんまり馬鹿をしやがるからしょうがねえ」と鬱憤を漏らしていったことがあります。
平田武官が転出し、海軍の中村中将が着任しました。
この人も侍従候所に来てミッドウェーの敗戦の模様を、
「我々の想定ではラバウルめがけてくると思っていた。山本五十六長官はもちろんラバウルに備えをしておった。ところがむこうはまっすぐに引っかけてきやがった」などと話したり、
「陸軍の奴がああやるから、海軍にとってはとんでもない迷惑だ」などとよく不満を漏らしていました。
陸軍のと海軍の違いということでは特に印象深い思い出があります。
私が侍従を拝命した夏に北海道の大演習に行ったことがありました。
帰りは御召艦の比叡に乗ってきたのです。
横須賀に着くと海軍がラッパを吹いている。
『君が代』を吹いていたのですが、驚いたことには実に軽い調子で吹いているのです。
豆腐屋のラッパのように楽に吹いている。
学習院というのは乃木大将の下士官のラッパ手が門番をしていて、ラッパを吹いて始業時間を合図します。
ネイビーブルーの服に金ボタンと海軍のような服装ですが、吹くラッパは陸軍式なのです。
陸軍式のラッパは顔を赤くして吹き、音もピリピリした感じです。
陸軍のラッパが真っ赤な顔して吹く理由は、明治初年にラッパを作った時にフランスの陸軍式を採用することになったのですが、1センチほど間違って作ってしまった。
1センチぐらいどうでもええじゃないかと上層の閣下たちが言ったとかで、鳴らしにくいわけです。
どこまで本当の話かは別として、いかにもありそうなことです。
昭和になって特に満州事変後の軍国主義が強くなると、「陸軍は言い出したら聞かないから」ということが陰口となったことがつくづくと思い出されます。
幕末から明治時代の志士たちの勇敢な気風が頑迷に変質したと言えそうで、何か笑えぬのことのような感じがします。
横須賀で初めて私が耳にした海軍の軽妙なラッパの音が、陸軍とはこんなにも違うかと驚いたことは、昭和史を顧みる場合常に蘇ってくる響きなのです。
昭和に入って宮中では色々なことが縮小されるようになりました。
大正時代にはお正月の外国使臣の拝賀の時などは、明治宮殿の赤い絨毯に香水をふりかけたのでした。客が到着する直前、アルコールランプで温めて香水の蒸気を吹き付ける器具が用いられていたそうです。
明治初期条約改正を切望し鹿鳴館で夜会が行われたことも思い合されます。
昭和になってからはそんなこともなくなりましたが、明治宮殿の方へ行くとカビ臭い匂いがしていました。
昭和期には正殿で正月の外国使臣の拝賀が行われていました。
この拝賀には来日した時期が一番古い大使が先に拝賀し、外国使臣の代表で言葉を述べます。
アメリカのグルー大使は長い間代表だった人で、皇紀二千六百年の式典にも英語で堂々と奉祝文を述べました。
イギリスのクレイギー大使が着任した信任状捧呈式の時は、明治宮殿の正面の御車寄から長い廊下を大使が夫人同伴で進んできます。
随行する駐在武官のピゴット少将はイギリスの近衛連隊の赤い上着に黒ズボンで、熊の皮の黒い帽子を抱えていました。
大使以下みな夫人同伴ですから、まさに渓谷を雲がゆっくりと押し寄せるかのような威厳がありました。
グルー大使はその長身をフロックコートに身を包んで、一人で代表を務めました。
米英の特色がこの二つによく現れていると私は痛感したものです。
またイタリアの特使としてスカマッカ伯爵が来朝。
スカマッカ伯爵はアウリッチ大使の長身に比べ肥満型でした。
随員もみな金モールの大礼服でしたが、夫人同伴ではなかったように記憶しています。
謁見が終るとスカマッカ伯爵は一歩下がって、右手を高く上げる〈ア ノイ〉(ローマ式敬礼)の礼を派手に捧げて退きました。
実に派手な礼で、ラテン系らしいと思いました。
先方が美々しい大礼服なので昭和天皇も、陸軍大元帥の大礼服、一同もまた大礼服でした。
昭和19年になると戦争の状況もかなり悪化し、生活も厳しくなっていきました。
4月13日には宮城外堀を食糧増産のために貸し出され、東京都の学童たちが耕作したと新聞記事にはありますが、私は詳しく覚えていません。
宮城前では4年前に紀元二千六百年記念の儀式があった場所は、一転して天長節の観兵式の場になったと記憶します。
アメリカ軍の空襲のおそれがあるというので、代々木練兵場ではなしに二重橋前で行われたのです。
最後にはそこが高射砲の陣地になったのですが、そこにはカボチャなども植えてありました。
昭和19年の7月頃から昭和天皇は明治宮殿から吹上御所に移られました。
6月にサイパンが陥ちてアメリカが飛行機を設営し、日本本土も爆撃圏内に入ったからです。
吹上御所に移られて以降、特に戦争の末期には御苦労なさっていたようです。
召し上り物もそれなりに落とせとの御考え大膳職に伝えられました。
半つき米で一汁一菜、パンの色も黒っぽいといった具合でした。
私たちの方はもっとひどく、かなり早くから食糧事情は悪くなっていました。
まだ昭和天皇が明治宮殿におられた頃でも、泊まりの朝に椀を取ると天井が映る重湯のような味噌汁に黒い物が入っている。
ヒジキかと思って食べてみるとゴワゴワします。
正月飾りに使うホンダワラを刻んだものだったのです。
それにタクワンと身欠ニシンが二切れ。
ニシンの保存と扱いが悪いので脂肪が酸化したようになっていて、食べると渋い味がして腹を壊してしまうのです。
藤田尚徳侍従長は「そのニシンを餌に御堀でエビが捕れるので、それを食べた方が良い」と教えてくれました。
手ぬぐいで作った四つ子網で堀をすくうと、淡水に住む手の長いエビが捕れるのです。
本丸の図書寮の下 竹橋の辺りに外からは見えない御堀があるので、そこが最適だということでした。
捕れたエビを麹町の官舎に持って帰って煮てもらったこともあります。
今麹町にあるプリンスホテルが当時は朝鮮の李王垠さんの御殿で、その前が万平ホテル、御殿の隣が宮内省の官舎で、戦争がひどくなった頃にはそこの大金総務局長の官舎に合宿していました。
総務局長の官舎と言っても実は庶務局長当時のままで、食糧不足の折から引越しに人手を使うのは気の毒ということで、総務局の官舎へは移られなかったのです。
次の庶務課長の小倉庫次氏は家から局長の官舎へ入れば良いというところに、大金益次郎氏の人格がよく出ています。
何でもないことのようですが、人柄の高下というのはこうした点に表れるのです。
私が侍従になった時の顔ぶれは、侍従長は鈴木貫太郎大将でしたが二二六事件で襲撃を受け療養中でした。
そして侍従次長が甘露寺受長伯爵。
明治期から侍従として宮廷に入り、昭和天皇がまだ摂政で御学問所におられた時代から侍従だった人です。
次が牧野貞亮子爵、その次に黒田長敬子爵。
大正天皇の侍従だった方で、極めておっとりとして親切なお人柄でした。
侍従職庶務課長大金益次郎さんは私の初当直の日にこの黒田侍従を配し、種々ご指導を受けるよう配慮してくれました。
大金さんのこの配慮も忘れることができないものです。
以上3人が大先輩で、それに徳大寺実厚公爵。
この方は騎兵出身で、明治時代の侍従長徳大寺実則公爵の孫だから否応なく軍人にされたということのようでした。
それから昭和天皇の御学友だった永積寅彦氏、やはり御学友だった久松定孝氏。
その次に任官したのが小出英経氏、その小出氏の推薦で入江相政氏。
入江氏の任官は私の2年ほど前です。
それに私が入って9人になりました。
しかし侍従の定員は12人でしたから、まだ3人足りなかったのです。
私の後に任官したのが入江氏と同クラスだった岡村康彦氏、私と同クラスだった東園基文子爵、その次に徳川義寛男爵が入ったと思います。
しかし岡村氏と東園氏は東宮伝育官兼任でしたから、まだ手が足りないということで村井長正男爵が加わりました。
昭和10年代の側近者は以上のメンバーで、侍従の中では甘露寺伯爵が長老格で大久保彦左衛門のような存在でした。
甘露寺さんは侍従次長になって当直なしの任務だったのですが、「当直が必要なようならいつでも引き受けるよ」と言ってくださるような人でした。
侍従の仕事について私に説明をしてくれたのは、主として黒田氏・小出氏・入江氏でした。
入江氏に言わせると侍従というのは御手先代わりだとのことで、中国では帝の落し物を拾うから侍従うのことを「拾遺」と呼ぶのだとも聞きました。
だから侍従というのはそういうお世話をするものだ、というのが入江氏の説でした。
小出氏は昭和天皇を自分の身をもってお庇いするのが侍従の仕事だと説明されました。
黒田氏は口数少なく、実意を示される方でした。
小出氏は24貫(90キロ)もある巨体で、それにちなむ珍談もあります。
昭和11年の北海道大演習行幸の際は、宮内書記官木下道雄・庶務課長大金益次郎・大膳寮の秋山司厨長それに小出侍従の4名が出張しました。
札幌の旅館で小出氏が入浴しようとすると、秋山氏が湯船に浸かって首だけ出ていた。
巨漢を自覚している小出氏は「入るよ」と警告したのですが、秋山氏は平然としているのです。
そこで小出氏が勢いよく一気に湯舟に沈むと、湯が滝のようにあふれ出した。
秋山氏は増えた湯をガブガブ飲んでしまい、立ち上がって「ひどいものだ!」と一驚したそうです。
宮内大臣は昭和天皇の御日常生活面とは直接関係は持ちません。
だから毎日お目にかかることもなく、たまにを御召があるか宮内大臣から申し上げることがあると、侍従候所に来て「拝謁を願いたい」と告げます。
それで侍従が昭和天皇の御前に出て御許を得ると、はじめて御座所へと登っていきます。
宮内大臣は宮内庁と林野庁を監督している役職の役所の長官です。
昭和天皇の御身近にいるのは、政治向きの者としては内大臣・軍事向きは武官・日常の御生活面は侍従ということになっています。
昭和天皇の御日常のスケジュールは、全て侍従職の庶務課長が立てることになっていました。
庶務課長というのは宮内省の書記官がなるのです。
高等文官試験を通った人で、内務官僚の中から適当な人を宮内官にする。
これが宮内書記官です。
侍従職の庶務課長を何年か勤めると、本省に帰って部局長になります。
庶務課長は侍従候所ではなく、事務官室に席があります。
別の大きな事務室の中は庶務課の席と経理課の席と内庭課の席とに分かれていて、侍従職・皇后宮職の係がいます。
これらは属官と総称され、身分は判任官です。
内庭課長は皇后宮宮事務官で、内庭課には御運動係などが属します。
今日の御運動がゴルフだということになると、御運動係の人が用意をし、ホールに旗を立てたりするのです。
スケジュールを立てると言っても庶務課長が作り出すのではなく、拝謁者の予定を調整することが中心です。
昭和天皇はどんなことがあってもこの庶務課長の立案を御変えになることはありません。
普通の侍従の仕事というのは昭和天皇の日常のお世話をすることだけですが、別の役職を兼官するようになると仕事の内容も広がってきます。
私は侍従になって1年目に式部官を、2年目に皇后宮事務官を兼官することになりました。
侍従の中で、事務官になる人もならない人もいます。
宮内省の中で昇進の速さは3ランクぐらいに分かれていて、一番早いのが法律官僚で、その次が侍従です。
式部官は仕事は派手で目立つ割に、昇進は一番遅いのです。
侍従も皇后宮事務官を兼ねると昇進は早くなり、法律官僚に次ぐようになります。
勤務は3日に1度泊まりがありました。
朝8時に出て翌日の朝交代が来るまでです。
侍従職だけの者はそれで帰ってもいいのですが、皇后宮事務官を兼任すると夕方までいなければなりません。
しかも皇后宮事務官には非番がないのです。
だから当直明けの日も夕方までいて、その翌日も朝ちゃんと出勤する。
ですから仕事は大変にきつくなります。
これまでにはやらなかったいろいろな雑事もさばくことになります。
当直割を作るのは一番末席の事務官の仕事でした。
いざ作ろうとすると、その日は都合が悪いとかなんとかぐずぐず言うのが華族の特権と思っているのです。
これが事務官としては一番嫌なことでした。
皇后宮事務官を兼ねると、外部から来る拝謁者の世話をすることも仕事になってきます。
宮内省の中の人が昭和天皇に拝謁するのはいつもおられる御常御殿の2階の御政務室に直接行ってお目にかかるのですが、首相や国務大臣・参謀総長など外部からの人の拝謁は御学問所で行われます。
ただし私は文官の諸大臣の世話をするだけで、陸軍海軍両大臣とか参謀総長など軍人の世話は侍従武官の担当でした。
宮内官には伝染予防規定というものがありました。
一番潜伏期の長いのがおたふく風邪だったと思います。
子供がおたふく風邪になると父親である侍従は朝出勤すると侍医寮にある消毒風呂に入ります。
毎朝3ヶ月ぐらい入らなければいけないのです。
潜伏期の短いものだと2~3日というように病気の種類によって規定されています。
葉山などに御静養に行かれる時には、侍従が御供をします。
昭和天皇が宮城外に出かけられる時の鹵簿には順序があります。
大正時代までは馬車でしたが、昭和に入ってからは自動車が使われるようになりました。
まず警視庁の白色の単車が先行し、次に総監のオープンカーが続きます。
昭和天皇と良子皇后で一台ずつ同型同色のメルセデスベンツにお乗りになります。
昭和天皇の御車の後ろにサイドカーに乗る御警衛内舎人の士長、次に侍従2人と侍従武官1人の乗った車が続き、良子皇后の御車は侍従車の次になります。
その後を女官の乗った車、そして最後に宮内大臣と内大臣の乗った車が続きます。
なお御車の両側には近衛師団の将校の乗るサイドカーが2台ずつ4台つきます。
なぜ昭和両陛下が一つの御車に御乗りにならないのかというと、昭和天皇が一泊以上宮城から出られる時には必ず剣と璽という神器が出御になる規定なのです。
昭和天皇の両側にはこの2品を安置する小さな棚があって、その前に侍従長が進行方向に背を向けて乗り込みます。
そのため良子皇后が御一緒だと困ることになるのです。
神器は天皇と離し難いのです。
それから侍従も必ず2人行きます。
万一災害が起こったりして非常御動座の場合には、1人が剣と璽を持ち、1人が昭和両陛下を御先導するために、どうしても最小限2人が泊まらなければいけないわけです。
剣と璽は普段は奥宮殿の剣璽の間に奉安してあります。
葉山に御出ましということになると、侍従・侍従長・武官・武官長は表宮殿と奥の境の杉戸の前でお待ちします。
宮城に残る侍従2人が剣璽の間に入り、まず剣の方を、次いで璽を奉持します。
剣の方が位が上なのです。
御杉戸の内側には昭和両陛下が御立になり、剣璽さんがお通りになるの慎んで御待ちになります。
杉戸のところで葉山に御供をする侍従2人に神器を渡します。
御先導の侍従に御剣が続き、次が昭和天皇、すぐ御後が神璽奉持の侍従です。
侍従長・武官長が左右に並び、その後ろに武官が1人、次が良子皇后、そして皇后宮大夫・女官長・女官、さらにその後を内大臣・宮内大臣という順番になります。
先導の侍従と剣・璽を持つ侍従は詰め衿の供奉服を着ています。
普段供奉服には剣を下げるのですが、剣と璽を持つ侍従は邪魔になるので鍵は下げません。
先導する侍従だけが剣を下げます。
二重橋の内側の御車寄まで行くと先導の侍従の役割は終わるので、列を離れます。
御車寄の階段をまず剣の侍従が降りて、御料車の横に立ちます。
すぐ後から昭和天皇が降りられます。
侍従の口伝に「御車寄の段上で御止りになるから気をつけろ」というのがあります。
御車寄の階段の上で昭和天皇がちょっと止まられるのです。
後ろの神璽奉持の侍従がそのまま歩いて行くとぶつかってしまう。
後ろから当ててしまった例があるそうです。
階段を降りると昭和天皇はそのまま御乗車になり、侍従長が続いて乗り込みます。
そうすると剣の侍従が侍従長に剣を渡す。
侍従長はそれを車の中の定位置に置きます。
璽も同じようにして車の中に置かれます。
これで完了で、ドアが閉まる。
御供の侍従は急いで次の車に乗り込む。
こうして東京駅に着くとまた急いで車から出て、今度は反対に侍従長は璽を先に侍従に渡し、次に剣となります。
葉山の駅と御用邸でも同じことです。
御用邸の奥に安置してやっとホッとできるわけです。
最初の頃は緊張しましたが、度重なると慣れました。
また海軍の視察の場合には、横須賀の埠頭からランチで御召艦比叡に御乗船になることがあります。
この場合ランチは小波で上下するので、艦の舷側のタラップに移る場合は奉持ではなく抱えることが許され、デッキにたどり着いてからそこで正しく奉持することになっていました。
昭和天皇が崩御された後、私が侍従を辞めた頃の侍従長であった木下道雄氏の『側近日誌』が平成元年の春に公開されました。
木下氏は日誌の中で昭和天皇は「朕は」とおっしゃったように書いているなど、格式ばった表現が目立っていました。
木下氏は財務省出身の文官であり、かつて岡本愛祐氏と共に昭和天皇の摂政当時の東宮侍従でもありました。
その岡本氏の書いた回想録を読んでも「朕」という言い方は出てきません。
それなのに木下氏はどうして「朕」という書き方をしたのでしょうか、どうも腑に落ちません。
昭和20年夏に木下氏が侍従次長兼皇后宮大夫をしていた頃も、その話しぶりに少々エキセントリックな感じを受けました。
神がかりでもあるように思いました。
『側近日誌』では、侍従長に就任の前日に突然辞表を出したことになっています。
いかにも無念という感じで書かれています。
しかし平成元年夏に心安い旧側近者に質してみたら、次のようなことがわかりました。
GHQのある軍人が木下氏のもとに缶詰を届けてくれました。
木下氏はそれを持って坂下門から入ろうとしました。
昭和天皇も食事は貧しい時でした、少しでもお役に立てようと考えたのだそうです。
この話が大膳司厨長の秋山徳蔵氏の耳に入りました。
昭和天皇の御食事を担当している秋山氏は激怒しました。
昭和天皇が口にされるものは全て秋山氏が管理することになっていたのです。
それに秋山氏はなかなか気丈な職人肌の人物でした。
秋山氏と木下氏の間が険悪になったといいます。
ドイツ語を学び東京大学法科を出て文官試験をパスし内務官僚から宮内省に入り東宮侍従になって大正時代の宮中を改革したと自負する自信家と、腕一本で生きて日本第一のフランス料理の大家となった人物が衝突して、その結果頭脳の自信家が負けたというのです。
私は木下氏の『側近日誌』を読みながら、もう一つ本当のことが書かれていないのではないかと思いました。
昭和天皇の御心中を思うと、おろいろおありになったと思います。
しかしその御心中は私たちには明かされませんでした。
御退位の御気持があったことも最近になって発表されているようですが、昭和天皇の御性格を考えれば確かにありうることで、東久邇宮首相がその点をこっそりと記者に漏らされました。
1945年10月の末か11月初めの泊まりの夕方から体の具合が悪くなりました。
侍医寮で診てもらうと、「これは大変なことになった。肋膜炎だから安静にしていないといけない」と言うので、しばらく勤めを休むことになりました。
年が明けて3月に入り、突然三井庶務課長が私の家に訪ねて来られました。
さも言いにくそうに侍従の辞表を書いてはどうかと言われます。
その言葉の裏には当然策謀があることが察せられました。
占領による人員の大縮小がGHQから宮内省にも命じられたのです。
私は当然定員削減の対象になったのです。
私に対する扱いがこのようになったというのには、確かに宮中の定員が多かったのも事実でした。
イギリスの宮廷に比べて宮家の数が非常に多いし、宮内官の人数も多すぎるというのがGHQの見方だったのです。
偽らぬ気持ちとしては不満でした。
しかし異議をとなえても水掛け論で、三井氏を困らせるばかりです。
というのは当時の侍従職の監督者は能吏の聞こえの高い人物で、すこぶる自身の強い果断をもって鳴る木下道雄氏だったからです。
とにかく私は三井氏の勧めを受け、その場で辞表を書きました。
しかし当時は米が配給制になっていたりで、都内に転入することが難しい状況でしたし、長男が小学校に入る年齢でもあったので、私の病気が治って東京に焼け跡を見つけて引越すまで発令は待ってもらうようにお願いしました。
辞表を出した翌年昭和22年の3月に病気が落ち着いてから改めて昭和天皇に御挨拶に伺いました。
宮城に赴いて、庶務課などは通さずそのまま侍従候所に行って御前に出たのです。
私が元気になったことに驚かれたようで、「ああ、もういいのか?」という御言葉でした。
昭和天皇が腰掛けるようにと仰せられるので、円卓の向かい側に腰掛けさせていただきました。
「長々御苦労であった」との御言葉をいただき、私の方からは何も申し上げずに御辞儀をして下がりました。
吹上の御文庫に行って良子皇后に御目にかかるように、との扱いは受けませんでした。
昭和天皇に御挨拶してしばらくしてから三井氏にお会いする機会がありました。
三井氏は私の家に行く時に、
「岡田さんはなかなか頑強に反対するだろうと思い、大変な役目を仰せつかったと思いました」と述懐していました。
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1901-1989 87歳没
■妻 香淳皇后 久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没
●継宮 明仁親王 125代平成天皇
●義宮 正仁親王 常陸宮
●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚
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侍従 岡部長章 回想記
学習院を卒業すると東京大学に入りました。
専門は東洋史です。
私が卒業する年、上野の博物館が研究員を募集するという話を聞きました。
上野の博物館は当時はまだ宮内省所属の帝室博物館でした。
帝室博物館に3年ほどいましたら、今度は本省に来いという命令です。
本省といえば宮内省です。
宮内省に赴くと、侍従になれということでした。
大正時代までは、侍従というのはみな爵位のある人でなければということでした。
ところがそれではなかなか人が得られなくなって、昭和の時代には次男や三男にも範囲を広げたのです。
大名華族か公家華族の子弟で、学習院を出て官立の大学を出ていればいいということになってから、私も侍従として入ることになったそうです。
3月20日に登庁すると、まず天皇様の拝謁がありました。
侍従の身分は奏任官なのですが、お側で仕えるのだからというので、文官中最高の親任官なみの扱いとなるのです。
学習院卒業式には天皇様の行幸があるので御顔を拝したことがありましたが、近くで拝したのはこの時が初めてでした。
昭和天皇から「いろいろ御苦労をかけるであろう」という御言葉をいただきました。
新しい侍従は必ずその御言葉をいただくのです。
私は頭を下げて戻ってきました。
こちらから言葉を言ってはいけないのです。
拝謁者はすべて侍従候所を通ります。
関門のようなものです。
出入口が二つあり、行きも帰りも部屋の中を通り抜けて行くようになっています。
侍従は誰々が何時から何時まで拝謁したというメモを残しておきます。
それを当直の侍従が毎夜まとめて日誌につけます。
これを正式には「常侍官日誌」と言います。
拝謁はいろいろな組織の最高責任者です。
だから外務省の局長クラスが拝謁するというようなことはありません。
外務大臣のお供で来たとしても、控室で待っているのです。
重光外相に同行してミズーリ号に行った課長が、その後著作の中で重光外相と一緒に拝謁して何か申し上げたかのように書いているのですが、そういうことはありえません。
「宮中にも自由に出入りしていた」とあるのは、重光外相の使いとして内大臣室に出入りしたという意味なのでしょう。
政治筋の拝謁者は大臣に限ります。
課長の拝謁という例はないのです。
御常御殿は二階建で、上が御政務室と御書斎、内大臣の拝謁はここで行われます。
総理大臣など外の人の拝謁は、御政務室の下の御学問所で行われます。
総理大臣だった近衛さんなども五摂家ではあっても外の人ですから、拝謁の時はまず参殿者休所に来ます。
侍従が昭和天皇のもとに行って、「近衛の拝謁にお出まし願います」と申し上げます。
このとき昭和天皇の御服装に注意するのが実は大切なのです。
支那事変が長引いて陸軍の方針についての御悩が多くなると、昭和天皇はお考え込みになる場合が多くなりました。
片方の御靴には拍車が光っていて陸軍装であるのに、他方は海軍式の物を御用いなるということがあり、侍従が御注意しすぐに御替になったなど、御悩の御心中が拝察されるのでした。
昭和天皇の拝謁の間は御学問所という明治天皇以来の名称で、ここは唐紙4枚が全部取り外してあり、6曲の金屏風が置かれ、玉座が二の間からは直接見えないようにしてあります。
玉座の背後はネズミ色の大理石のマントルピースで、冬の特に寒い夜などには前もって事務官が電熱のスイッチを入れておきます。
侍従は、朝は普通の役所と同じで8時30分までに出勤します。
そして夕方5時になると退出する。
通勤には背広を着ていますが、登庁するとモーニングに着替えて侍従の詰所に行きます。
この詰所は正式には「常侍官候所」といいます。
しかし「侍従詰所」とも呼ばれていました。
仕事の間はずっとモーニングを着ています。それが通常服。
フロックコートが通常礼服・燕尾服が小礼服・金モールのいかめしいのが大礼服です。
その他に行幸の際の御供の時に着用する供奉服があります。
黒色の詰め衿で、長剣を帯びます。
カフスと襟には黒の絹糸で菊の唐草が刺繍してある渋いものです。
勅任官・親任官は胸部にも刺繍が施されています。
小出侍従の説明では「これは飾りの剣ではない。身をもってお守りするのだから、研げば切れるのだ」とのことでした。
侍従詰所は檜造りの12畳ぐらいの広さで、中央に楕円形の大きなテーブルがあり、その周りに長い椅子一脚と数脚の椅子が配してありました。
窓の所に私たち侍従が事務を執るグリーンのラシャが貼られた机が二つあり、その端に電話機が一つ。
これは省内にならどこへでも掛かり、外へでも通じる電話機です。
それから一段高い三脚のような高い台の上に、御座所からの電話機が置いてありました。
昭和天皇の方には電話機が一つあって、何か用事があるとお掛けになります。
これは一方通行で、もちろんこちらからは掛けられないようになっています。
この電話が鳴ると「はい、岡部でございます」とお答えすることになっています。
この電話の他に御召のベルというのがあります。
これもこちらからは押せないベルです。
このベルが鳴ると、誰かが御前に出るわけです。
ベルの方は壁にでも付いていたのでしょう、どこかでチンと鳴るんです。
昭和天皇の執務室のベルは侍従詰所へ内大臣へ宮内大臣へとそれぞれ繋がっていて、用事のある部署のベルを御押になります。
電話は簡潔な御用件の場合に御使になります。
昭和天皇は毎朝9時頃に執務室にお出ましになります。
お杉戸が昭和両陛下の御居住の部分と昭和天皇が毎日の御政務をなさる御政務部分との境なのです。
そのお杉戸を御自分でお開けになります。
侍従はそれを〈お出まし〉と申したものです。
お昼の御食事に奥へ御引上になり、午後1時にはまた出ておいでになります。
日曜日以外は毎夕6時過ぎに上奏物と呼ばれる書類が内閣から届きます。
その書類に見たという意味で〈可〉という字が彫ってある象牙の印を昭和天皇が御自分で御捺印なさるのです。
そのお世話も泊まりの侍従の仕事です。
書類の量はだんだん多くなって、大東亜戦争の最中ともなると積み上げて1メートル近くにもなるという状態でした。
御執務の御机は木の縁取りがあって革張りの大型のものです。
やはり革張りの椅子に座られます。
椅子の背には金箔押しの菊の御紋がついていました。
内閣からの書類は上奏箱に入ってきます。
上奏の合鍵は御政務室の皮の小箱に納めてあります。
さらに上層箱には大中小の3種があり、大の深さは20センチほど、小は4センチほどでした。
深箱が2つともなるとそれは大変です。
内閣書記官が鍵を掛けて寄越します。
皮の小箱から合鍵を取り出して書類を取り出します。
昭和天皇が御覧になりやすいように書類を一つずつ差し出しますと、自ら判を押されます。
侍従は「御裁可」を願うと申し、武官は「御允裁」と呼び分けていました。
終わったものはまた一つずつ箱に戻して内閣に下げます。
御署名が必要なのは詔勅関係の書類です。
これは輔弼によるのですから、首相以下閣僚が先に署名します。
本文との間は広く空けてあり、そこへ昭和天皇に御署名を願い、内大臣府で純金の御璽または国璽を捺印することになっていました。
他には勲記にも御署名をなさいます。
御署名の御墨は書に通じていた内大臣秘書官工藤壮平氏の進言で特別に作られたもの、筆は平安堂の細筆でした。
侍従が墨をすり、用意ができましたと申し上げますと、昭和天皇は墨をたっぷりつけてゆっくりと御書きになりました。
だんだん戦争がひどくなるにつれ御用務が多くなり、御夕食が8時近くになることも度々でした。
大臣たちは閣議が終わって家に帰り、風呂にでも入って特別配給のビールでも飲んでいるというような時間に、昭和天皇は内閣からの書類を御覧になり、御裁可の象牙印を御自分で捺印なさるのです。
重要案件ですと、閣議の書類も熟読なさいます。
大臣の方が早く解放されるので、これは何とも変な話だとつくづく残念に思うのが常でした。
昭和天皇は午後10時30分頃に御眠みになります。
そうすると昭和天皇が御眠になったという連絡が内舎人から入ります。
天皇の洋服のチリを払ったりする御側勤めの役を内舎人というのですが、どういう決まりか女官候所から直接に侍従候所には来ずに、内舎人の所に電話が行き、それから私たちのいる侍従候所に「御格子(就寝)になりました」と伝えてくるのです。
この連絡が来ると私たちも眠りにつくことができます。
モーニングを脱いで侍従武官と一緒に風呂に入ってから睡眠に入ります。
朝はもちろん昭和天皇より早く起きていなければいけません。
昭和天皇が何時頃に起きられるかは知りませんが、だいたい午前9時頃には御座所にお出ましで、その前に朝の御食事もされますから午前7時前後に起きられるのでしょう。
私たちは午前6時には起きて身支度を整え食事をとります。
食堂があって、朝食は日本食でした。
夕食と朝食は官給で、泊まりの者だけに出されます。
昼食は自己負担です。
私は初めこのことを知らず、卑しくも侍従なら三度の食事は官給で出るのだと思っていたんです。
最初に給料もらったとき勘定書を見ると食事代が引かれていたので、侍従候所で大笑いになったことがありました。
広幡大夫は巨躯に似ぬ細い声で、「それでも入りを計ってやってるから感心だ」と言われ、また笑いのタネになりました。
毎週土曜日には決まって夕食会が開かれました。
御相伴と言います。
泊まりの侍従二人と侍医が一人それに陸軍か海軍の武官が一人、昭和両陛下と同じテーブルでいただくのです。
その他に女官が二人出ます。
御食堂の入口でお待ちしていると昭和両陛下がお出ましになり、中央の長方形のテーブルに着かれ一同も席を賜ります。
大正天皇の頃は大正両陛下は洋卓にお着きで一同は座っていただいたと、古参の筧侍医にお聞きしました。
膝行のとき靴下が脱げそうで、退出時にはズボンがたくし上がってスネが出そうになる。
慣れないうちは心配だったそうです。
料理はいつもフランス料理で、オードブル・スープ・魚・肉といったコース料理でした。
食事の時にはワインも出ます。
しかし昭和天皇はお酒は全然飲まれません。
お話が弾むと2時間にもわたります。
話術は入江侍従が特に長じていましたし、私もそれに和するようになりました。
食事の時に昭和天皇の方から話されることはあまりありませんでした。
特に私と入江さんの時には二人ともおしゃべりでしたから、こちらからお話することが多かった。
人によっては御相伴に出る前に話題を考えておくという人もいましたが、私はいちいち考えたことはありません。
昭和天皇が御話される時にもその内容は御政務には関係ないことで触りのない愉快な話題が多く、昭和天皇の御言葉を誰かが取り間違ったとか何かをひっくり返したとかいうような面白い失敗談が出ます。
そうした失敗をめいめいが昭和天皇の御耳に入れるといったことになるのです。
昭和天皇は大いに御笑になりますが、あまり深入りなさいません。
落ち度を自責させては気の毒との細やかな御配慮が感じられるのです。
それに私たちについてのプライベートなことも立ち入って御聞にはなりません。
昭和天皇の自然な御人柄に誰もが打たれる場合が多いのです。
このお食事会に酒の好きな村山浩侍医が酔って出たことがありました。
昭和13年、清宮貴子内親王がお生まれの時です。
お七夜で命名のおめでたい日というわけで、側近者に一樽下されました。
それで昼間から飲んでいたのです。
当直の村山侍医が酔っ払ってしまっているので、御相伴には代りに新米の稲田侍医が出るということになっていたのです。
ところが薬手が大イビキをかいている村山侍医を起こしてしまったのです。
起こされた村山侍医は一大事とばかり風呂に入って務めに出てきた。
代りの稲田侍医はただ待っていただけという気の毒なことになりました。
けれどもまだ酔いが抜けないものだから、廊下から危なげな足音が聞こえたのです。
困ったなという思いで顔を見合わすと、茶目っ気のある海軍武官山積大佐が「大丈夫、大丈夫」と100パーセント引き受けるように言ってくれました。
さすがに海の男らしい自信です。
私もしょうがない、なるようになれと思い、とにかく村山侍医を昭和天皇からできるだけ離そうと決心しました。
申し合せたわけではないのに山積武官と私とで素早く左右の席を占め、村山侍医は中央の盛花を隔てて昭和天皇の御席の真向いに着かなければならないようにしました。
間髪を入れぬ妙義でした。
食事の間も村山侍医はなんとか一生懸命話に加わろうと努力するのですが、頭がボーッとしている。
私たちは素早く話題を転換して村山侍医が口を出せないようにして、ようやく無事に済むだろうと思ったのです。
ところが最後の方になってだいぶ酒も覚めてきたのでしょう、ちょっと話の歯車が合ってしまった。
「大工の右手が大きい」とかそんな話題だったと記憶していますが、村山侍医が自分の前にある花の横から顔をのぞかせながら、「要不要の原則ということがございましたな」と突然昭和天皇に賛成を強要したのです。
それで大笑いになり、昭和天皇も御笑になりまして、大変愉快に無事に終わりました。
昭和天皇も以前その侍医が酔っている姿を御覧になったことがあったのです。
昭和8年に東宮様がお生まれの時、やはりよって侍従部屋でイビキをかいて寝てしまったのを御覧になって、「これは病気ではないか?」と仰せられたそうです。
徳大寺侍従が「酔っておりますので、酔いが覚めれば何でもございません」とご説明したそうです。
だから「ああ、また酔っているな」と御感じになったのに違いありません。
このことは侍従候所でも、山積・岡部の虎退治と呼ばれるようになりました。
昭和天皇はニュース映画はもとより、劇映画なども御覧になります。
ニュース映画は必ず毎週一回、劇映画も時々御食事後に御覧に入れるのです。
警視庁の検閲課に行くと、しかるべきものを2本用意しています。
それを見てどちらか1本を借りてきます。
警視庁で出す映画は検閲済のもので、検閲前のものは絶対に見せません。
しかし警視庁の担当の人間が「これがいい、あれがいい」と私たちの選定に口を出すことはありませんでした。
映写技師も属官で、警視庁に行って技術をマスターしてきた人たちが数人います。
映画を御覧の時には侍従・侍医・女官など当直の者も拝見しますが、御直宮(御兄弟)を御招きするようにとの仰せもありました。
秩父宮は病気で御殿場で静養中でしたが、高松宮と三笠宮はよくお見えになりました。
昭和両陛下が一番前で、その隣に殿下方が、そして後ろに私達が座ります。
昭和天皇が一番お好なのはディズニーの漫画。
きちんと姿勢を正して御覧になり、あまり大声で御笑にはならないけれど、時々御声は聞こえました。
昭和12年の支那事変を機に、年を追って陸軍中心の非常時意識が強まり、吹上御苑に設けられた9ホールのコースで御運動をなさると敵国のスポーツと陰口が流されました。
それでゴルフを廃止させざるをえなくなり、週2回の御運動は御乗馬だけになりました。
また葉山でブリッジをなさっているのを麻雀だと即断して、暴戻なる支那の遊戯はけしからぬということにもなりました。
麻雀と見違えたあげく、麻雀で賭けておいでだというデマも流されました。
次第にブリッジも親しまれなくなりました。
代って将棋を楽しまれました。
折り畳み式の軽便な将棋盤を侍従の鞄に入れて、葉山や日光へ持ち込んだ時期もありました。
侍従と侍医の対決を観戦されることもありましたし、昭和天皇御自身が「ひとつ、やろう」と仰せになることもありました。
私は乱視があるため角筋を間違えて駒を動かし、「あっと、それは」と大きな声を出されたこともありました。
昭和天皇の御将棋はなかなかの腕前でした。
あるとき私が「昭和天皇はどなたにお習いでございますか?」と伺うと、
「それは大正天皇だよ」と懐かしげな口振りでおっしゃられました。
昭和天皇はよく皇居内を散歩なさいました。
泊まりの者が必ず一人御供をします。
本丸の方には行かれずに、吹上御苑周辺が中心でした。
9ホールあるゴルフ場でしたが、支那事変が厳しくなると自然庭園にして武蔵野の植物を育てることを御望になり、その観察に行かれるのです。
門前の小僧で私も少しは植物について知ることができましたが、生物学御研究所の真田技官・加藤技官は植物の開花期まで心得ていて、今どこでちょうど何の花が咲いておりますというようなご案内をしていました。
当時の宮殿の大きな御本棚のどこには誰の本があるとすべて御記憶されていました。
葉山に滞在されている折など、葉山の侍従から在京の侍従に
「何段目、向かって右方にある『■■』の第三巻を届けるように」との連絡があると、それを宮内省の連絡便で送るのです。
整然と配列してある本の背の色まで思い浮かべて、「あれを見なければならない」と御考になり、お伝えになるに違いありません。
アメリカのグルー大使が外交官を代表して祝辞を述べたのは皇紀二千六百年の行事の時です。
グルー大使はもちろん英語で祝辞を読んだのですが、昭和天皇はお分かりになったかどうか。
というのも昭和天皇はフランス語は御読になるのですが、英語は御習いにならなかった。
あるとき、侍従が「岡部君、御召だ」と言うのです。
御名指しとはいったい何の御用だろうと思いながら御前に出ますと、
誠に気の毒に思召の御様子で「岡部、これをね」と本を開いておいでです。
「これは中国に行っていた及川(及川古志郎)が上海から帰ってきた時に持ってきてくれたんだよ。私は英語が分からないから、ここからここまで訳してほしいのだ」と遠慮がちに仰せられました。
このような翻訳は本来なら生物学御研究所の服部宏太郎御用掛の筋なのですが、服部御用掛は土曜のみ出勤で御研究の御相手をするので不在のことが多いわけです。
昭和天皇は早く内容を御知りになりたいが、わざわざ老博士を呼ぶことを御遠慮になるのです。
侍従に生物学の原書を読ませるのは筋ではなく、この時も気の毒の御様子を示されました。
侍従の本来の職務の筋以外なので、御遠慮がちに申されたのです。
その微笑を含んで英語は苦手と仰せられる御人柄には大変驚き感動を覚えました。
私は「ちょっとお借りして調べます」と申しますと、「いいよ」とすぐ御渡になります。
私は学術書を訳すなんてできるだろうかと思ったのですが、侍従候所の辞書で訳し始めると案外簡単でした。
学術用語についてはわからないものもあったので、
昭和天皇には「こういう意味に解せますが、それでよろしゅうございますか」とお伺いすると、
「それでいいよ」「よくわかるよ」などと御答くださいました。
柔軟で細心な御態度が何よりもうれしく、文字通りありがたく稀な御人柄な事が実にひしひしと迫ってくると申したら、旧時であれば不敬だと評されるに違いありません。
及川さんは海軍武官でなかなか賢くて、昭和天皇のお土産として生物学の本などを持ってきました。
ところが陸軍の場合は戦利品の匂いがチラホラします。
そうすると昭和天皇の御機嫌が悪くなるのです。
支那方面軍司令部の東久邇宮昭和天皇の御帰任の時に、船に2台分の品が運ばれました。
船というのは畳一畳の荷台のことで、いろいろな物を乗せ前後を二人で運んで、それらを申し口に並べてあるのです。
「これは考古学上の名称は〈彩色土器〉と申します。黒いエナメルでこのように番号が書いてありますので、これはどこかの博物館の展示品に違いなく、おそらく上海の自然科学研究所の列品だと思われます」と申し上げました。
昭和天皇は大変御不満そうな御顔で「貴重なものか?」と念を御押になります。
「帝室博物館でも見たことがございませんし、私も実物を手に取るのはこれが初めてでございます」とお答えしました。
すると即座に「それでは帝室博物館にやって保存するように」と仰せられ、上野の博物館に運ぶことになりました。
終戦直後に広幡太夫が御召で御前に出たら、「あれをさっそく外務省に回して向こうへ返すように」と御命じになりました。
あれというのはこの展示品のことだったのです。
広幡太夫は「すっかり忘れていた。御記憶のいいのには恐れ入ったよ」と感心していました。
私が侍従として勤め始めた年の3月頃には二二六事件の騒ぎも一応カタがついていたためでしょうか、昭和天皇はとても朗らかな御様子でした。
昭和天皇が非常に朗らかな調子の御声で侍従候所に出ていらして、私はビックリしました。
まさか昭和天皇が候所に出て来られるとは思ってもいませんでした。
大元帥の軍服を着た御姿でノックもなしにいきなりスッと入って来られるのです。
考えてみれば御自分の御住いの中なのですから、どこへ行かれるのも御自由なのです。
侍従候所に来られるのは昭和天皇にとっては一時の息抜きなのです。
特に明日は宮中の御祭だという日の夕方にはよく出てこられました。
良子皇后は賢所御参になるために髪型を洋式からおすべらかしになさいます。
女官が奉仕してびんづけ油で固めるのですが、それには大変時間がかかるのです。
だから御夕食の時間が遅れてしまう。
昭和天皇の御政務が終わってもまだ良子皇后の御支度ができていないと、御夕食までの30分ほど私たちのところへ出て来られるわけです。
良子天皇が入ってこられると私たち侍従は立ち上がります。
タバコを吸っている者は消さなければいけません。
昭和天皇はタバコを吸われませんから。
私はそれを知らずに吸っていて、徳大寺侍従に「御前では、それは」と言われて慌てて消したことがありました。
部屋に入られると昭和天皇は私たちと話をされることもありますが、まずテーブルの上に置いてある新聞を必ず御覧になりました。
あまり細かいところは御読にならず、見出しと数行読まれるぐらいでした。
それも三面記事などではなく、ほとんどが第一面の政治記事でした。
昭和天皇にとっては総理大臣や外務大臣・内務大臣などの奏上が正統なものなのですから、参考程度に新聞を御覧になるのでしょう。
新聞は数種類置いてありましたが、朝日を一番よく御覧になりました。
新聞を読まれても感想などは御口になさいません。
私達もお聞きしませんでした。
侍従候所では昭和天皇は政治の生々しい話などは一切されませんでした。
私たちと話される内容は採集された生物のことが多く、それにちょっとした日常の失敗談のようなことなどで、冗談などはあまり言われませんでした。
昭和15年ともなると支那事変の状況がひどいことになってきます。
拝謁も多くなりますし、毎夕御覧になる書類も山のようになってきました。
御散歩の回数は減りました。
映画は御夕食後に御覧になるのでこれは変わりませんでした。
それからまことに困ったことは、御政務室でのお独り言が多くなってきたことです。
私が赴任した時は二二六事件の直後で一応ことは落着していたので、その1年間はお独り言をお聞きしたことはあまりありませんでした。
それが翌年昭和12年7月盧溝橋事件の後になると、急に多くなってきたと思います。
御政務室に通じるドアは開きっ放しになっているために、階段を上っているうちにお独り言の御声が聞こえてきました。
ある時期からお歩きになりながらお独り言を言っておいでのことが目立つようになりました。
大きい御声で「どうも、あれは」とか言われるものだから、侍従だけでなく武官も伺っているはずです。
いろいろなことで内閣の動きが激しくなりましたし、高等官の人事にもそれが現れてくる。
だから昭和天皇の御裁可を仰ぐ件案も多くなるわけです。
結局毎夕書類が山のように積まれてしまうという状況でした。
大東亜戦争の期間、昭和天皇のお独り言を耳にすることがありました。
真珠湾の直後には「まったく天佑だ」と言われていたのを伺ったことがあります。
味方をも欺くような作戦の秘密が漏れずに成功したのですから、確かに驚くべき次第です。
困った場合ではないお独り言は、その時だけでした。
後は「どうも、これは」というようなお声がほとんどでした。
御政務の量も増えました。
私の受けた印象では、昭和天皇の悩みの種は主として陸軍だったようです。
侍従武官長の宇佐美中将が御前に出ている時に、昭和天皇がちょっと激しい調子で御話になるのを耳にしてしまったことがありました。
二二六事件の時の武官長は本庄繁大将で私が3月20日に侍従になって三日間ほどで退官、宇佐美中将が新たに就任したのです。
宇佐美さんが拝謁している時に、「壬申の乱のようなことになる」という意味の事を大声で申されたのが聞こえました。
秩父宮を担ごうとする陸軍の運動があったと仄聞していたので、それに関連することだなと思いました。
秩父宮が多少激しい御性質の方だということは私も心得ていました。
それをまた陸軍の青年将校が担ごうとするのです。
おそらく宇佐美武官長は昭和天皇に対して、秩父宮の意見もいろいろ聞いてほしいと言ったのではないでしょうか。
それで昭和天皇が壬申の乱というような例を持ち出されたのだと思います。
ところが宇佐美武官長は「はあ」とか言って、壬申の乱が何なのかわからない様子でした。
秩父宮のようなお直宮が昭和天皇に会われるのは奥の方になります。
当時秩父宮は陸軍の佐官でしたから、御兄弟として来られるだけで軍事上の奏上はできません。
陸軍では皇族を金枝玉葉の御身分などと言いますが、それも昭和天皇にとってはプライベートな関係だけになります。
朝香宮殿下が陸軍内のことに触れ、叱られて退出されたこともあります。
階級は大将でも軍事参事官で、上奏する立場ではなかったのです。
昭和天皇はそうした公私の別を固くお守りになりました。
陸軍の過激な将校は、この点の認識が足りません。
勝手に思い入れをしていたのです。
高松宮に対しても細川護貞君が懸命にネジを巻いたようですが、高松宮はそれを受け入れず、秩父宮・高松宮両殿下とも、この点ははっきりと身を処せられました。
昭和17年の終わりのガダルカナル島を撤退したあたりから、昭和天皇は統帥部の御説明に対し何か不合理な点をお気づきになったらしいのです。
それよりも以前から、満州事変さらに支那事変以来の陸軍のあり方に御不満だったことはよく知られていました。
しかし昭和天皇が陸軍に対してどう対応しておられたかは、私たち侍従には詳細はわかりませんでした。
戦況についての細かい報告は侍従武官が申し上げていたのです。
侍従武官は陸軍の方は参謀本部の参議官ですし、海軍の方は軍令部員なのですから、詳しい戦況は知っていたはずです。
もう少し重要な戦況については侍従武官長が、さらにもっと重要な事項は両総長が出てきて申し上げることになっていました。
ただ一つ例外的にドイツ軍の東進が止まった時、スモレンスクあたりは湿地でドイツ軍の戦車が行動できないので長引くと口にしたのを、侍従一同は聞いています。
それも最後にはドイツが勝つという前提での陸軍武官の説明でした。
海軍武官の遠藤大佐が、「三国同盟の前後に陸軍の武官としてベルリンに駐在していた大島武官が、のちにドイツ大使となりドイツ人に大変好かれているのだ」と苦々しく当直の時に漏らしたことがありました。
要するに陸軍からの報告というのは希望的観測で、嘘が多かったように思えてなりませんでした。
大本営政府連絡会議では立派なことを言っていて、現実にどうすればいいのかの方針を立てられるような会議ではなかったと言われます。
そうなるとなるべく都合のいいことに力を入れて昭和天皇に報告する傾向が強まりながら、現実には負けているのですから、昭和天皇も悩まれたことでしょう。
しかもそれを相談するような人がいなかったのです。
内大臣には戦のことは相談できないし、侍従武官長をはじめ陸海両武官はみんな統帥部からタガをはめられていたわけですから。
私たちは戦況については新聞で知るだけで、昭和天皇も戦況について侍従に話されるということはありません。
もちろんこちらから伺う筋でもありません。
ただ戦況が悪くなると陸軍と海軍はもともと考え方が違うので、海軍の武官が侍従候所にやって来て鬱憤ばらしに話をしていくことが多くなり、それで戦況はだいたいわかるるようになりました。
侍従長は鈴木貫太郎さんの後は百武三郎さん・藤田尚徳さんとやはり海軍出身者です。
皆さん立派な方でした。
侍従武官長は本庄繁大将の後が宇佐美興屋中将・畑俊六将そ・蓮沼蕃大将と、いずれも陸軍からというのが慣例でした。
海軍大将が侍従長になっているので、武官長は釣り合いの上から陸軍大将で、海軍の主席武官は中将・陸軍の首席武官は少将ということになっていました。
海軍武官はよく私達のいる侍従候所にやって来ました。
平田東助伯爵の次男平田昇氏は武官として武官府に詰めていました。
上海事件かなにかの時にアメリカが参戦しそうになったというので、
侍従候所に来て「アメリカがもう少しで立つところにまでなったんだぞ!陸軍の野郎があんまり馬鹿をしやがるからしょうがねえ」と鬱憤を漏らしていったことがあります。
平田武官が転出し、海軍の中村中将が着任しました。
この人も侍従候所に来てミッドウェーの敗戦の模様を、
「我々の想定ではラバウルめがけてくると思っていた。山本五十六長官はもちろんラバウルに備えをしておった。ところがむこうはまっすぐに引っかけてきやがった」などと話したり、
「陸軍の奴がああやるから、海軍にとってはとんでもない迷惑だ」などとよく不満を漏らしていました。
陸軍のと海軍の違いということでは特に印象深い思い出があります。
私が侍従を拝命した夏に北海道の大演習に行ったことがありました。
帰りは御召艦の比叡に乗ってきたのです。
横須賀に着くと海軍がラッパを吹いている。
『君が代』を吹いていたのですが、驚いたことには実に軽い調子で吹いているのです。
豆腐屋のラッパのように楽に吹いている。
学習院というのは乃木大将の下士官のラッパ手が門番をしていて、ラッパを吹いて始業時間を合図します。
ネイビーブルーの服に金ボタンと海軍のような服装ですが、吹くラッパは陸軍式なのです。
陸軍式のラッパは顔を赤くして吹き、音もピリピリした感じです。
陸軍のラッパが真っ赤な顔して吹く理由は、明治初年にラッパを作った時にフランスの陸軍式を採用することになったのですが、1センチほど間違って作ってしまった。
1センチぐらいどうでもええじゃないかと上層の閣下たちが言ったとかで、鳴らしにくいわけです。
どこまで本当の話かは別として、いかにもありそうなことです。
昭和になって特に満州事変後の軍国主義が強くなると、「陸軍は言い出したら聞かないから」ということが陰口となったことがつくづくと思い出されます。
幕末から明治時代の志士たちの勇敢な気風が頑迷に変質したと言えそうで、何か笑えぬのことのような感じがします。
横須賀で初めて私が耳にした海軍の軽妙なラッパの音が、陸軍とはこんなにも違うかと驚いたことは、昭和史を顧みる場合常に蘇ってくる響きなのです。
昭和に入って宮中では色々なことが縮小されるようになりました。
大正時代にはお正月の外国使臣の拝賀の時などは、明治宮殿の赤い絨毯に香水をふりかけたのでした。客が到着する直前、アルコールランプで温めて香水の蒸気を吹き付ける器具が用いられていたそうです。
明治初期条約改正を切望し鹿鳴館で夜会が行われたことも思い合されます。
昭和になってからはそんなこともなくなりましたが、明治宮殿の方へ行くとカビ臭い匂いがしていました。
昭和期には正殿で正月の外国使臣の拝賀が行われていました。
この拝賀には来日した時期が一番古い大使が先に拝賀し、外国使臣の代表で言葉を述べます。
アメリカのグルー大使は長い間代表だった人で、皇紀二千六百年の式典にも英語で堂々と奉祝文を述べました。
イギリスのクレイギー大使が着任した信任状捧呈式の時は、明治宮殿の正面の御車寄から長い廊下を大使が夫人同伴で進んできます。
随行する駐在武官のピゴット少将はイギリスの近衛連隊の赤い上着に黒ズボンで、熊の皮の黒い帽子を抱えていました。
大使以下みな夫人同伴ですから、まさに渓谷を雲がゆっくりと押し寄せるかのような威厳がありました。
グルー大使はその長身をフロックコートに身を包んで、一人で代表を務めました。
米英の特色がこの二つによく現れていると私は痛感したものです。
またイタリアの特使としてスカマッカ伯爵が来朝。
スカマッカ伯爵はアウリッチ大使の長身に比べ肥満型でした。
随員もみな金モールの大礼服でしたが、夫人同伴ではなかったように記憶しています。
謁見が終るとスカマッカ伯爵は一歩下がって、右手を高く上げる〈ア ノイ〉(ローマ式敬礼)の礼を派手に捧げて退きました。
実に派手な礼で、ラテン系らしいと思いました。
先方が美々しい大礼服なので昭和天皇も、陸軍大元帥の大礼服、一同もまた大礼服でした。
昭和19年になると戦争の状況もかなり悪化し、生活も厳しくなっていきました。
4月13日には宮城外堀を食糧増産のために貸し出され、東京都の学童たちが耕作したと新聞記事にはありますが、私は詳しく覚えていません。
宮城前では4年前に紀元二千六百年記念の儀式があった場所は、一転して天長節の観兵式の場になったと記憶します。
アメリカ軍の空襲のおそれがあるというので、代々木練兵場ではなしに二重橋前で行われたのです。
最後にはそこが高射砲の陣地になったのですが、そこにはカボチャなども植えてありました。
昭和19年の7月頃から昭和天皇は明治宮殿から吹上御所に移られました。
6月にサイパンが陥ちてアメリカが飛行機を設営し、日本本土も爆撃圏内に入ったからです。
吹上御所に移られて以降、特に戦争の末期には御苦労なさっていたようです。
召し上り物もそれなりに落とせとの御考え大膳職に伝えられました。
半つき米で一汁一菜、パンの色も黒っぽいといった具合でした。
私たちの方はもっとひどく、かなり早くから食糧事情は悪くなっていました。
まだ昭和天皇が明治宮殿におられた頃でも、泊まりの朝に椀を取ると天井が映る重湯のような味噌汁に黒い物が入っている。
ヒジキかと思って食べてみるとゴワゴワします。
正月飾りに使うホンダワラを刻んだものだったのです。
それにタクワンと身欠ニシンが二切れ。
ニシンの保存と扱いが悪いので脂肪が酸化したようになっていて、食べると渋い味がして腹を壊してしまうのです。
藤田尚徳侍従長は「そのニシンを餌に御堀でエビが捕れるので、それを食べた方が良い」と教えてくれました。
手ぬぐいで作った四つ子網で堀をすくうと、淡水に住む手の長いエビが捕れるのです。
本丸の図書寮の下 竹橋の辺りに外からは見えない御堀があるので、そこが最適だということでした。
捕れたエビを麹町の官舎に持って帰って煮てもらったこともあります。
今麹町にあるプリンスホテルが当時は朝鮮の李王垠さんの御殿で、その前が万平ホテル、御殿の隣が宮内省の官舎で、戦争がひどくなった頃にはそこの大金総務局長の官舎に合宿していました。
総務局長の官舎と言っても実は庶務局長当時のままで、食糧不足の折から引越しに人手を使うのは気の毒ということで、総務局の官舎へは移られなかったのです。
次の庶務課長の小倉庫次氏は家から局長の官舎へ入れば良いというところに、大金益次郎氏の人格がよく出ています。
何でもないことのようですが、人柄の高下というのはこうした点に表れるのです。
私が侍従になった時の顔ぶれは、侍従長は鈴木貫太郎大将でしたが二二六事件で襲撃を受け療養中でした。
そして侍従次長が甘露寺受長伯爵。
明治期から侍従として宮廷に入り、昭和天皇がまだ摂政で御学問所におられた時代から侍従だった人です。
次が牧野貞亮子爵、その次に黒田長敬子爵。
大正天皇の侍従だった方で、極めておっとりとして親切なお人柄でした。
侍従職庶務課長大金益次郎さんは私の初当直の日にこの黒田侍従を配し、種々ご指導を受けるよう配慮してくれました。
大金さんのこの配慮も忘れることができないものです。
以上3人が大先輩で、それに徳大寺実厚公爵。
この方は騎兵出身で、明治時代の侍従長徳大寺実則公爵の孫だから否応なく軍人にされたということのようでした。
それから昭和天皇の御学友だった永積寅彦氏、やはり御学友だった久松定孝氏。
その次に任官したのが小出英経氏、その小出氏の推薦で入江相政氏。
入江氏の任官は私の2年ほど前です。
それに私が入って9人になりました。
しかし侍従の定員は12人でしたから、まだ3人足りなかったのです。
私の後に任官したのが入江氏と同クラスだった岡村康彦氏、私と同クラスだった東園基文子爵、その次に徳川義寛男爵が入ったと思います。
しかし岡村氏と東園氏は東宮伝育官兼任でしたから、まだ手が足りないということで村井長正男爵が加わりました。
昭和10年代の側近者は以上のメンバーで、侍従の中では甘露寺伯爵が長老格で大久保彦左衛門のような存在でした。
甘露寺さんは侍従次長になって当直なしの任務だったのですが、「当直が必要なようならいつでも引き受けるよ」と言ってくださるような人でした。
侍従の仕事について私に説明をしてくれたのは、主として黒田氏・小出氏・入江氏でした。
入江氏に言わせると侍従というのは御手先代わりだとのことで、中国では帝の落し物を拾うから侍従うのことを「拾遺」と呼ぶのだとも聞きました。
だから侍従というのはそういうお世話をするものだ、というのが入江氏の説でした。
小出氏は昭和天皇を自分の身をもってお庇いするのが侍従の仕事だと説明されました。
黒田氏は口数少なく、実意を示される方でした。
小出氏は24貫(90キロ)もある巨体で、それにちなむ珍談もあります。
昭和11年の北海道大演習行幸の際は、宮内書記官木下道雄・庶務課長大金益次郎・大膳寮の秋山司厨長それに小出侍従の4名が出張しました。
札幌の旅館で小出氏が入浴しようとすると、秋山氏が湯船に浸かって首だけ出ていた。
巨漢を自覚している小出氏は「入るよ」と警告したのですが、秋山氏は平然としているのです。
そこで小出氏が勢いよく一気に湯舟に沈むと、湯が滝のようにあふれ出した。
秋山氏は増えた湯をガブガブ飲んでしまい、立ち上がって「ひどいものだ!」と一驚したそうです。
宮内大臣は昭和天皇の御日常生活面とは直接関係は持ちません。
だから毎日お目にかかることもなく、たまにを御召があるか宮内大臣から申し上げることがあると、侍従候所に来て「拝謁を願いたい」と告げます。
それで侍従が昭和天皇の御前に出て御許を得ると、はじめて御座所へと登っていきます。
宮内大臣は宮内庁と林野庁を監督している役職の役所の長官です。
昭和天皇の御身近にいるのは、政治向きの者としては内大臣・軍事向きは武官・日常の御生活面は侍従ということになっています。
昭和天皇の御日常のスケジュールは、全て侍従職の庶務課長が立てることになっていました。
庶務課長というのは宮内省の書記官がなるのです。
高等文官試験を通った人で、内務官僚の中から適当な人を宮内官にする。
これが宮内書記官です。
侍従職の庶務課長を何年か勤めると、本省に帰って部局長になります。
庶務課長は侍従候所ではなく、事務官室に席があります。
別の大きな事務室の中は庶務課の席と経理課の席と内庭課の席とに分かれていて、侍従職・皇后宮職の係がいます。
これらは属官と総称され、身分は判任官です。
内庭課長は皇后宮宮事務官で、内庭課には御運動係などが属します。
今日の御運動がゴルフだということになると、御運動係の人が用意をし、ホールに旗を立てたりするのです。
スケジュールを立てると言っても庶務課長が作り出すのではなく、拝謁者の予定を調整することが中心です。
昭和天皇はどんなことがあってもこの庶務課長の立案を御変えになることはありません。
普通の侍従の仕事というのは昭和天皇の日常のお世話をすることだけですが、別の役職を兼官するようになると仕事の内容も広がってきます。
私は侍従になって1年目に式部官を、2年目に皇后宮事務官を兼官することになりました。
侍従の中で、事務官になる人もならない人もいます。
宮内省の中で昇進の速さは3ランクぐらいに分かれていて、一番早いのが法律官僚で、その次が侍従です。
式部官は仕事は派手で目立つ割に、昇進は一番遅いのです。
侍従も皇后宮事務官を兼ねると昇進は早くなり、法律官僚に次ぐようになります。
勤務は3日に1度泊まりがありました。
朝8時に出て翌日の朝交代が来るまでです。
侍従職だけの者はそれで帰ってもいいのですが、皇后宮事務官を兼任すると夕方までいなければなりません。
しかも皇后宮事務官には非番がないのです。
だから当直明けの日も夕方までいて、その翌日も朝ちゃんと出勤する。
ですから仕事は大変にきつくなります。
これまでにはやらなかったいろいろな雑事もさばくことになります。
当直割を作るのは一番末席の事務官の仕事でした。
いざ作ろうとすると、その日は都合が悪いとかなんとかぐずぐず言うのが華族の特権と思っているのです。
これが事務官としては一番嫌なことでした。
皇后宮事務官を兼ねると、外部から来る拝謁者の世話をすることも仕事になってきます。
宮内省の中の人が昭和天皇に拝謁するのはいつもおられる御常御殿の2階の御政務室に直接行ってお目にかかるのですが、首相や国務大臣・参謀総長など外部からの人の拝謁は御学問所で行われます。
ただし私は文官の諸大臣の世話をするだけで、陸軍海軍両大臣とか参謀総長など軍人の世話は侍従武官の担当でした。
宮内官には伝染予防規定というものがありました。
一番潜伏期の長いのがおたふく風邪だったと思います。
子供がおたふく風邪になると父親である侍従は朝出勤すると侍医寮にある消毒風呂に入ります。
毎朝3ヶ月ぐらい入らなければいけないのです。
潜伏期の短いものだと2~3日というように病気の種類によって規定されています。
葉山などに御静養に行かれる時には、侍従が御供をします。
昭和天皇が宮城外に出かけられる時の鹵簿には順序があります。
大正時代までは馬車でしたが、昭和に入ってからは自動車が使われるようになりました。
まず警視庁の白色の単車が先行し、次に総監のオープンカーが続きます。
昭和天皇と良子皇后で一台ずつ同型同色のメルセデスベンツにお乗りになります。
昭和天皇の御車の後ろにサイドカーに乗る御警衛内舎人の士長、次に侍従2人と侍従武官1人の乗った車が続き、良子皇后の御車は侍従車の次になります。
その後を女官の乗った車、そして最後に宮内大臣と内大臣の乗った車が続きます。
なお御車の両側には近衛師団の将校の乗るサイドカーが2台ずつ4台つきます。
なぜ昭和両陛下が一つの御車に御乗りにならないのかというと、昭和天皇が一泊以上宮城から出られる時には必ず剣と璽という神器が出御になる規定なのです。
昭和天皇の両側にはこの2品を安置する小さな棚があって、その前に侍従長が進行方向に背を向けて乗り込みます。
そのため良子皇后が御一緒だと困ることになるのです。
神器は天皇と離し難いのです。
それから侍従も必ず2人行きます。
万一災害が起こったりして非常御動座の場合には、1人が剣と璽を持ち、1人が昭和両陛下を御先導するために、どうしても最小限2人が泊まらなければいけないわけです。
剣と璽は普段は奥宮殿の剣璽の間に奉安してあります。
葉山に御出ましということになると、侍従・侍従長・武官・武官長は表宮殿と奥の境の杉戸の前でお待ちします。
宮城に残る侍従2人が剣璽の間に入り、まず剣の方を、次いで璽を奉持します。
剣の方が位が上なのです。
御杉戸の内側には昭和両陛下が御立になり、剣璽さんがお通りになるの慎んで御待ちになります。
杉戸のところで葉山に御供をする侍従2人に神器を渡します。
御先導の侍従に御剣が続き、次が昭和天皇、すぐ御後が神璽奉持の侍従です。
侍従長・武官長が左右に並び、その後ろに武官が1人、次が良子皇后、そして皇后宮大夫・女官長・女官、さらにその後を内大臣・宮内大臣という順番になります。
先導の侍従と剣・璽を持つ侍従は詰め衿の供奉服を着ています。
普段供奉服には剣を下げるのですが、剣と璽を持つ侍従は邪魔になるので鍵は下げません。
先導する侍従だけが剣を下げます。
二重橋の内側の御車寄まで行くと先導の侍従の役割は終わるので、列を離れます。
御車寄の階段をまず剣の侍従が降りて、御料車の横に立ちます。
すぐ後から昭和天皇が降りられます。
侍従の口伝に「御車寄の段上で御止りになるから気をつけろ」というのがあります。
御車寄の階段の上で昭和天皇がちょっと止まられるのです。
後ろの神璽奉持の侍従がそのまま歩いて行くとぶつかってしまう。
後ろから当ててしまった例があるそうです。
階段を降りると昭和天皇はそのまま御乗車になり、侍従長が続いて乗り込みます。
そうすると剣の侍従が侍従長に剣を渡す。
侍従長はそれを車の中の定位置に置きます。
璽も同じようにして車の中に置かれます。
これで完了で、ドアが閉まる。
御供の侍従は急いで次の車に乗り込む。
こうして東京駅に着くとまた急いで車から出て、今度は反対に侍従長は璽を先に侍従に渡し、次に剣となります。
葉山の駅と御用邸でも同じことです。
御用邸の奥に安置してやっとホッとできるわけです。
最初の頃は緊張しましたが、度重なると慣れました。
また海軍の視察の場合には、横須賀の埠頭からランチで御召艦比叡に御乗船になることがあります。
この場合ランチは小波で上下するので、艦の舷側のタラップに移る場合は奉持ではなく抱えることが許され、デッキにたどり着いてからそこで正しく奉持することになっていました。
昭和天皇が崩御された後、私が侍従を辞めた頃の侍従長であった木下道雄氏の『側近日誌』が平成元年の春に公開されました。
木下氏は日誌の中で昭和天皇は「朕は」とおっしゃったように書いているなど、格式ばった表現が目立っていました。
木下氏は財務省出身の文官であり、かつて岡本愛祐氏と共に昭和天皇の摂政当時の東宮侍従でもありました。
その岡本氏の書いた回想録を読んでも「朕」という言い方は出てきません。
それなのに木下氏はどうして「朕」という書き方をしたのでしょうか、どうも腑に落ちません。
昭和20年夏に木下氏が侍従次長兼皇后宮大夫をしていた頃も、その話しぶりに少々エキセントリックな感じを受けました。
神がかりでもあるように思いました。
『側近日誌』では、侍従長に就任の前日に突然辞表を出したことになっています。
いかにも無念という感じで書かれています。
しかし平成元年夏に心安い旧側近者に質してみたら、次のようなことがわかりました。
GHQのある軍人が木下氏のもとに缶詰を届けてくれました。
木下氏はそれを持って坂下門から入ろうとしました。
昭和天皇も食事は貧しい時でした、少しでもお役に立てようと考えたのだそうです。
この話が大膳司厨長の秋山徳蔵氏の耳に入りました。
昭和天皇の御食事を担当している秋山氏は激怒しました。
昭和天皇が口にされるものは全て秋山氏が管理することになっていたのです。
それに秋山氏はなかなか気丈な職人肌の人物でした。
秋山氏と木下氏の間が険悪になったといいます。
ドイツ語を学び東京大学法科を出て文官試験をパスし内務官僚から宮内省に入り東宮侍従になって大正時代の宮中を改革したと自負する自信家と、腕一本で生きて日本第一のフランス料理の大家となった人物が衝突して、その結果頭脳の自信家が負けたというのです。
私は木下氏の『側近日誌』を読みながら、もう一つ本当のことが書かれていないのではないかと思いました。
昭和天皇の御心中を思うと、おろいろおありになったと思います。
しかしその御心中は私たちには明かされませんでした。
御退位の御気持があったことも最近になって発表されているようですが、昭和天皇の御性格を考えれば確かにありうることで、東久邇宮首相がその点をこっそりと記者に漏らされました。
1945年10月の末か11月初めの泊まりの夕方から体の具合が悪くなりました。
侍医寮で診てもらうと、「これは大変なことになった。肋膜炎だから安静にしていないといけない」と言うので、しばらく勤めを休むことになりました。
年が明けて3月に入り、突然三井庶務課長が私の家に訪ねて来られました。
さも言いにくそうに侍従の辞表を書いてはどうかと言われます。
その言葉の裏には当然策謀があることが察せられました。
占領による人員の大縮小がGHQから宮内省にも命じられたのです。
私は当然定員削減の対象になったのです。
私に対する扱いがこのようになったというのには、確かに宮中の定員が多かったのも事実でした。
イギリスの宮廷に比べて宮家の数が非常に多いし、宮内官の人数も多すぎるというのがGHQの見方だったのです。
偽らぬ気持ちとしては不満でした。
しかし異議をとなえても水掛け論で、三井氏を困らせるばかりです。
というのは当時の侍従職の監督者は能吏の聞こえの高い人物で、すこぶる自身の強い果断をもって鳴る木下道雄氏だったからです。
とにかく私は三井氏の勧めを受け、その場で辞表を書きました。
しかし当時は米が配給制になっていたりで、都内に転入することが難しい状況でしたし、長男が小学校に入る年齢でもあったので、私の病気が治って東京に焼け跡を見つけて引越すまで発令は待ってもらうようにお願いしました。
辞表を出した翌年昭和22年の3月に病気が落ち着いてから改めて昭和天皇に御挨拶に伺いました。
宮城に赴いて、庶務課などは通さずそのまま侍従候所に行って御前に出たのです。
私が元気になったことに驚かれたようで、「ああ、もういいのか?」という御言葉でした。
昭和天皇が腰掛けるようにと仰せられるので、円卓の向かい側に腰掛けさせていただきました。
「長々御苦労であった」との御言葉をいただき、私の方からは何も申し上げずに御辞儀をして下がりました。
吹上の御文庫に行って良子皇后に御目にかかるように、との扱いは受けませんでした。
昭和天皇に御挨拶してしばらくしてから三井氏にお会いする機会がありました。
三井氏は私の家に行く時に、
「岡田さんはなかなか頑強に反対するだろうと思い、大変な役目を仰せつかったと思いました」と述懐していました。
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