◆124代 昭和天皇(迪宮裕仁親王)123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚


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『入江相政日記』侍従長

1969年2月22日
昭和天皇がちょっとフラフラ遊ばしたとのこと。
心臓らしいとのこと。

1969年2月24日
侍医長西野重孝・侍医冨家崇雄と話し、心臓だから御食事を加減しなければならないとのこと。
ところが厨司長秋山徳蔵は「ヤブ医者の言うことなんか聞くか」と言ったとのこと。
つまり良子皇后にお願いしなければなるまい。

1969年2月25日
良子皇后に御食事のこと申し上げる。
御同意で「洋食を減らそう」との仰せ。
二度ぐらいになるかもしれない。

1969年2月27日
昭和天皇から御召。
東久邇佳子未亡人の今後の身のふり方のこと。

1969年3月7日
東久邇宮家から照宮成子内親王の宝石が戻って来たので良子皇后に差し上げる。

1969年3月29日
良子皇后から孝宮和子内親王こと。

1969年4月9日
宇佐美長官に孝宮和子内親王のこと話す。

1969年4月12日
昨日参内の孝宮和子内親王どんな様子だったか伺う。

1969年5月8日
四条隆貞君〔東久邇文子の夫大村和敏の親類〕来訪、東久邇文子さんのこと。

1969年5月22日
昭和天皇から御召。
孝宮和子内親王のこと。

1969年6月6日
良子皇后、光輪閣に行啓。
北白川女官長初めての陪乗。
魔女〔女官今城誼子〕が陪乗しなくていい気持ちである。
みなも大喜び。

昭和天皇の御理髪中、良子皇后にも東久邇文子さんのこと申し上げる。

1969年6月7日
宇佐美長官とこのごろの孝宮和子内親王のこと、東久邇文子さんのことなど話し合う。
良子皇后と孝宮和子内親王のこと、東久邇文子さんのことかなり長く話し合う。

1969年6月25日
昭和天皇より、
孝宮和子内親王のこと「お華の先生というよりはみなで一緒に研究するという方がよくはないか」などいい御注意がある。
孝宮和子内親王の所へ行く。
今の御家をお貸しなること、赤坂へお移りのこと、みなスラスラとお許しを得ることができた。

1969年6月26日
昭和両陛下に昨日のこと御報告。
本当に御安心の御様子でお喜びいただいた。

1969年7月2日
宮内庁長官室で東久邇文子さんに会う。
どうしても別れるとのこと。
〔東久邇文子&大村和敏1969年8月9日離婚〕

1969年7月7日〔那須御用邸〕
宇佐美長官と二人で昭和両陛下に拝謁。
東久邇文子さんのこと申し上げる。
想像していたのとはまったく異なり、我々の申し上げることをすっかりお聞きいただいた。

1969年7月8日〔那須御用邸〕
昭和天皇が「文子に離婚すると他の兄妹の縁談などに非常に関係あることを考えたかと言ってやるように」と仰せられた。

1969年7月9日〔那須御用邸〕
このごろつくづき感じたのは、魔女が見違えるように勢いがなくなったこと、女官原田リツや女官久保喜美子がのびのびしてきたこと。

1969年7月14日〔那須御用邸〕
昭和天皇に賢所にクーラーをつける見通しがついたと申し上げ、お許しを得る。
良子皇后に申し上げたら、
「とんでもないこと。それぐらいのことにお堪えになれない御方ではない」などとおっしゃった由。
お気の毒さまだがお取り止めにする。

1969年7月17日〔那須御用邸〕
東久邇文子さんの離婚のこと申し上げる。
週刊誌に出るということはおイヤがりになっていた。

1969年8月6日〔那須御用邸〕
明仁皇太子〔平成天皇〕の浜名湖の御土産のカニ、いつもならどこかへプイということだったろうに、良子皇后さっそくお描きになった。
いい具合に前田青邨〔良子皇后の絵の師〕も激賞。

1969年9月23日
お帰りの車の中で、昭和天皇から東久邇信彦さんの御縁談についての仰せがあった。

1969年9月29日
宇佐美長官から、高松宮妃が入江には内緒でと言って明日宇佐美長官を御召の由を聞く。
昨日良子皇后にも御電話があったらしく、予のことを非常に怒っていらっしゃった由。
怒るということは東久邇信彦さんと御相手とを無理してでもひっつけようとしていらっしゃることは明瞭。
昭和天皇は御自身のお考え、すなわち御賛成ではないということを宇佐美長官からハッキリ言わせるようにとの仰せ。
宇佐美長官に伝えたら、明日ハッキリ申し上げようということになった。

1969年9月30日
宇佐美長官が高松宮妃へ行き、だいたいすっかり済んだ由。
しかし御相手が徳川家につき昭和天皇はお進みにならないということはとうとう申し上げたらしい。

1969年10月1日
昨日宇佐美長官から高松宮妃に申し上げたことについての揺り返しがあった由。
それは高松宮妃からではなく、文子さんというようなところ、信彦さんも少し怪しいとのこと。
昭和天皇は「信彦・文子には遺伝のこともハッキリ言え」との仰せ。
〔徳川喜久子と高松宮の結婚当時、有栖川宮家→徳川家側に精神病の遺伝があるとして宮内大臣一木喜徳郎が責任を取って辞任に追い込まれた事件があった。その遺伝のことか〕

1969年10月6日
昭和天皇より、昨日突然東久邇信彦さんが吹上に来られた由。
そしてなぜいけないかということでいろいろ申し上げた由。
それに対し昭和天皇も極力お申し入れになったが、まだまだ不十分だったので折りがあったら補ってくれとの仰せ。

1969年10月20日
良子皇后、高松宮妃が今日参内につき、信彦さんの縁談について今までの経過を聞かせろとのこと。
また、昭和天皇に生物学御研究所から少しお早く吹上にお帰りになれないかとの良子皇后のお望みをお伝えする。
何かあったらお帰りということになる。

1969年10月21日
昨日高松宮妃が良子皇后におっしゃったことについて宇佐美長官と相談。

1969年10月22日
東久邇信彦さんと一時間御話する。
週刊誌がもう知ってるとのこと。
すべて困ったことである。

1969年11月20日
長官室で会議。
この間に西野侍医長が良子皇后に〔新嘗祭の簡素化を〕申し上げてくれてるはず。
西野侍医長に聞くと、良子皇后は全然受けつけにならないとのこと。
魔女の脅しは相当のもの。

1969年11月21日
徳川侍従次長・侍従松平潔・侍医冨家崇雄と協議。
いずれにしても今年の新嘗祭はもう駄目、来年からのことにしようということにする。

1969年12月8日
西野侍医長・徳川侍従次長と良子皇后にいろいろ申し上げる時のことにつき相談。

1969年12月9日
宇佐美長官から、清宮貴子内親王のこと、桂宮のこと。
徳川侍従次長から、清宮貴子内親王のこと、東久邇さんのこと。
いい話は一つもなし。

1969年12月31日
2月22日稲田侍従長が倒れ、その翌日から侍従長と侍従次長とを兼ねることになり多忙を極める。
8月末には侍従次長に徳川義寛君も本決まりになった。
5月20日には北白川女官長〔徳川義寛の妹〕が拝命。
ベストメンバーである。
魔女は夢にも思ってなかった由。
本当に驚いたそうである。
夏の那須御用邸ではだいぶ勢いがないように見受けたし、そのような話でもあったが、冬になる頃にはまただいぶ勢いを盛り返したような気味がある。
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『入江相政日記』侍従長

1970年1月14日
徳川侍従次長から清宮貴子内親王とターナとの話を聞く。
今日孝宮和子内親王赤坂御用地へおいでになり、〔新居〕大変お気に入ったらしいということを申し上げ、御安心いただく。

1970年2月18日
昭和両陛下に拝謁、孝宮和子内親王御分家のことなどちょっと口を切ってみる。

1970年2月21日
御召、孝宮和子内親王のことである。
なんとか早く御心配を消して差し上げたい。

1970年2月24日
午前中、ちょっとエスカレーターの御練習。
もうほとんどお差し支えなくなった。

1970年2月25日
鷹司綏子夫人〔孝宮和子内親王の姑〕・清閑寺幸子夫人〔孝宮和子内親王の小姑〕来訪。
最近の事情をよく話し、もうしばらく待ってもらうように頼む。
諒解して帰られる。

1970年2月28日
徳川侍従次長と一緒に、沢辺女嬬から孝宮和子内親王のことをいろいろ聞く。
拝謁、孝宮和子内親王のことも申し上げ御安心いただく。

1970年3月3日
森岡君、孝宮和子内親王の御引越の終わった報告。

1970年4月7日
宇佐美長官と孝宮和子内親王のことなど相談。
先に養子のことを御話すれば御安心になって母上にも優しくなさりはしないかという件、宇佐美長官も同意。

1970年4月16日
赤坂御用地の孝宮和子内親王の家へ行く。
赤軍派のこと申し上げ、御車を御注文になるように申し上げ、続いて御養子のことすっかり御承知いただく。
安心した。
しかも大変な御機嫌だった。
昭和天皇もすっかり御安心でお喜びだった。
鷹司綏子夫人も喜んだ。

1970年4月28日
7月の万博の会議。
良子皇后は京都へお立寄り祇園祭ということを言われたが、宇佐美長官は反対、こんな時に見物にお寄りになるべきでないと説き沙汰やみになる。
この話、陰に魔女〔女官今城誼子〕がいるに違いないと予も徳川侍従次長も思うからである。

1970年5月14日
宇佐美長官から、梅渓さん推薦の1946年生まれの人、東久邇信彦さんにどうかという話。

1970年5月15日
良子皇后から東久邇信彦さんの配偶候補の写真などをお下げいただく。

1970年5月30日
良子皇后から御召。
何事かと思ったら、「旬祭はいつから年二度になったか。毎月の御拝が願わしい。なぜなら日本の国がいろいろおかしいので、はやりお祭りをしっかり遊ばさないといけない」とのこと。
貞明皇后から御外遊まで動員して洗いざらい申し上げる。
それでは仕方がないということになる。
くだらない。

1970年6月1日
宇佐美長官に良子皇后のことを報告。
よくやってくれたという意味だろう、宇佐美長官は深々と御辞儀した。
西野侍医長が心配する揺り返しはこない。
洗いざらい申し上げたからだろう。

1970年6月10日
先週末ごろから昭和天皇が御口をパクパク遊ばすのが気になっていた。
良子皇后に伺ったら、お疲れだろうとのこと。

鷹司綏子夫人に電話、孝宮和子内親王の御養子ということで結構と告げ、続いて孝宮和子内親王の所へ行き、快く御承知いただく。

1970年6月11日
宇佐美長官に昨日の鷹司さんの驚くべきこと報告。
これでは孝宮和子内親王がお気に入らないのも当り前ということになる。

1970年6月12日
女官名取ハナに電話。
この間からの鷹司さんのこと話し、今までのノロノロも必ずしも孝宮和子内親王だけが悪いのではないと言ったら、大いに諒解なさった。

1970年6月22日
宇佐美長官と鷹司さんのこと話し、御手許から2万円だけ上乗せして操作しようということになる。

1970年6月24日
鷹司信熙氏来訪。
このあいだ浅野さんから聞いていたようなことには一言も触れずに、
ただ「親子として血の通ったものにしてほしい」とのこと。
「それはいいが、暇がかかる」と言ったら、「それでいい」とのこと。
どういうことなのか。

1970年6月25日
鷹司綏子夫人に、昨日の鷹司信熙氏との会見の様子を話す。
つまり彼の息子を養子にしたかったのだろうということになる。
昭和両陛下に鷹司家のことすっかり御報告、御安心いただく。
鷹司綏子夫人に電話したら、鷹司信熙氏も多くは言わず、決まった以上は松平尚武氏を盛り立てると言った由。
やはり自分の子をという気があったものとみえる。

1970年7月1日
孝宮和子内親王・鷹司綏子夫人・清閑寺幸子夫人・松平尚武氏、養子縁組の署名捺印。
これですっかり整った。

1970年7月7日
午前、台湾の厳家淦副総統夫妻御引見る。
このころ御口のパクパクはずっと続いていた。
午後、ニュージーランド首相夫妻。
この時も御同様だった。

1970年7月20日〔那須御用邸〕
昭和天皇は非常に御機嫌なのだが、御口の御癖はまだお直りにならない。
でも今度の那須の間にいくらかはよくおなりになるのではないか。

1970年7月28日
清宮貴子内親王が東京プリンスホテルの店へお出になる件、先走った話と思う。
那須御用邸の徳川侍従次長に電話、弱っている。

1970年8月6日
どういうものか度々宇佐美長官に同じようなことをおっしゃる由。

1970年8月8日
エチオピア皇太子夫妻をめぐる明仁皇太子の三笠宮のこと。

1970年8月10日
吹上当直の冨家侍医から電話で、昭和天皇が今朝お厠でフラフラ遊ばしたとのこと。
良子皇后が冨家侍医に、東京新聞などに出た御退位云々〔昭和が明治を抜いて最長記録となったことで退位問題が再燃した〕のことを相当お気に遊ばしているとおっしゃった由。
御口のパクパクも根本はそこから来ているものと思われる。

1970年8月11日
エチオピア皇太子妃の席次のことはまだ続いているらしい。

1970年8月12日
この間からのエチオピア問題につき申し上げ、三笠宮の方ももうこの辺でお済まし願いたいむね申し上げ、それですっかり済む。

1970年9月1日
三笠宮百合子妃から、三笠宮寛仁親王が明仁皇太子夫妻と明方4時まで議論、続いて明仁皇太子夫妻は軽井沢で夜8時から12時半まで同じことについて談じ込まれた由。

1970年9月2日〔那須御用邸〕
昭和両陛下、たいへん御機嫌。
やはり魔女がいないからではあるまいか。

1970年10月5日
掌典長永積寅彦来訪。
魔女を内掌典に入れたらという提案、これは素晴らしいこと。

1970年10月10日
夕食後、徳川侍従次長・杉村侍医・冨家侍医と魔女のことについて話し合う。

1970年10月30日
孝宮和子内親王の千駄ケ谷の御家をお貸しになることについて申し上げ、御諒解を得る。

1970年12月31日
6月ころから昭和天皇の御口の御癖が始まった。
世間の人は不思議がった。
良子皇后が魔女にかかりきりだから、そのことの御心配のためかという説。
魔女にかかりきりになっていらっしゃるためによくお忘れになる、それについての御心配から来るものとする説があった。
良子皇后に伺ってみると、万博の書類をお示しになりながら「あれはこれよ。これのお疲れよ」とおっしゃった。
その時の御様子は特に後ろめたいような後ろぐらいような所はおありにならなかった。
しかしその御癖が過去にあったのは、照宮成子内親王のお悪かった時と順宮厚子内親王の御重態の時と、この二度しかないこと、公事の御心配というよりは御家庭内の御心配が原因と考えられること、それらより魔女の絡むこととしか思えなかった。
冲中博士が拝診の時に申し上げたが、効き目のあったのはその日一日だけのこと。
あとはまた元通りになった。
新嘗祭をおやめ願うこと、四方拝は御洋服で、それに続く歳旦祭は御代拝。
この三つだけ整えれば当分はお差し替えなし考えられたが、新嘗祭お取り止めの工作はこの二年来まず良子皇后に当ったためにいつも失敗に終わっていた。
今年は良子皇后は抜きにして、昭和天皇と御祭の今後について懇談申し上げようと考えていた。
そしたら、5月30日良子皇后が「なぜ6月1日の旬祭は御代拝か」とおっしゃる。
「二年ほど前に昭和天皇のお許しを得て年二回陽気のいい5月と10月だけ御親拝、あとは御代拝ということになっている」と申し上げたら、
「もっと御祭を大事に、度数を増やした方がいい」とおっしゃる。
「なぜそういうことをおっしゃるのか。誰がそういうことを申し上げるのか」と伺う。
「ただ私が考えるだけ」とのこと。
「それなら良子皇后がお考えをお変えになりさえすればよい、昭和天皇は御大事な御方、御祭も御大事だが、御祭のために御身体にお障りになったら大変」と申し上げる。
そうしたら驚いたことに、「それでは私がやろうか」とおっしゃる。
無茶苦茶とはこのこと。
こうまで魔女にやられていらっしゃるとは。
そこで貞明皇后のことを詳しく申し上げる。
「還暦を過ぎたら粗相があっては畏れ入るから、賢所なども御遠慮すべきもの」とおっしゃったこと。
魔女の奥の手の貞明皇后〔女官今城誼子は貞明皇后時代からの女官であった〕のことまで申し上げたので、とどめを刺したことになった。
新嘗祭の翌日11月24日に昭和天皇は何か批評はなかったかと仰せになったが、明仁皇太子もすっかり御安心で、ようこそやめて上げたとおっしゃったことを申し上げたらすっかり御安心だった。
不思議なことに11月24日から御口の御癖はすっかりやんでしまった。
やはり新嘗祭のお務めへの危懼の御気持が底におありになったのではないかと奥の人たちは言う。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1970年2月20日
昭和天皇、午前中エスカレーターの御練習遊ばされる。
全侍従奉仕。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1971年1月5日
良子皇后から新嘗祭の簡素化はいかんとまた来た。
小一時間かけてまた申し上げる。
東本願寺と吹原産業のことも申し上げる
〔香淳皇后の妹大谷智子の「お東騒動」の一つ〕

1971年1月26日
梅渓さんが東久邇信彦さんと■■令嬢との縁談を取り下げた件、小川宮務課長から聞き昭和天皇に申し上げる。

1971年1月27日
午後11時宇佐美長官から電話、葉山御用邸全焼とのこと。

1971年1月28日
昭和天皇お目覚めのあと井関侍従が葉山御用邸全焼のこと申し上げたら、少しお笑い顔で「焼けたか」とおっしゃり、「それでは二月の葉山はやめるから」とおっしゃった由。
なんとも言えない味である。

1971年2月1日
北白川女官長から、高松宮妃の東久邇文子さんに関することいろいろ聞く。
小川宮務課長・橋本君らに頼み、文子さんの気持ちを聞こうということになる。

1971年2月4日
宇佐美長官から、岡山の池田隆政さん〔順宮厚子内親王の夫〕の事業はいよいよ駄目とのこと。

1971年2月9日
小川宮務課長から、東久邇優子ちゃんの成績について報告。

1971年2月12日
小川宮務課長から、東久邇文子さんのこと。

外国の御供のことに触れ、「魔女〔女官今城誼子〕はどうもいけない。とにかくお連れになるが、今後段々お遠ざけにならないといけない」と申し上げたら、
昭和天皇も「その通りだ」と仰せになる。
御立派なもの。
前々からお困りになっていたものと思われる。

1971年2月19日
昭和天皇から魔女のこと、「良子は楽観しているようだが、まだ話さないか」との仰せ。
楽観と仰せになるのは、外国へ魔女を連れて行けると思ってらっしゃるという意味。
それにつきいろいろ申し上げ、また伺う。

1971年2月20日
昭和両陛下のヨーロッパ訪問予定、朝日にスクープされた。

1971年2月21日
読売・NHKなど、少しずつ後を追ってきた。

1971年2月22日
昭和天皇はまた魔女退治のことを仰せになった。
重ねての御協力をお願いしておく。

1971年2月27日
昨夜北白川女官長から徳川侍従次長に電話で、良子皇后が「御供は北白川女官長・フランス語通訳武者小路不二子・女官今城誼子・女官道木菊重・久保女嬬」とおっしゃった由。

1971年3月9日
徳川侍従次長から、良子皇后に「表は三人でやるような訳なので、女官は一人になる」と申し上げたら、
「そういうこともあるでしょうね」と仰せになった由。

1971年3月31日
良子皇后から御召。
魔女のことだった。

1971年4月1日
徳川侍従次長と二人で昭和天皇に拝謁、今日外国への御供のこと良子皇后に申し上げること申し上げる。
二人で良子皇后に申し上げる。
御機嫌悪く、「どうして今城はいけないか」と仰せになったが、
縷々申し上げたら、「そんなら仕方ない」とおっしゃった。
下がってきて宇佐美長官に報告。
午後、良子皇后の御機嫌がいいのに驚く。
北白川女官長も同意見。

1971年4月3日
昭和天皇に昨日良子皇后に申し上げたことをすっかり申し上げる。
「それなら良かった」との仰せ。
第一段階かもしれぬが、長い間のことが一応解決したかと思われる。

1971年4月5日
良子皇后から御召。
案の定「今城を連れて行く。もし行けなければ、私はヨーロッパはやめる」とのこと。
「今城が悪くないということは必ずわかる」とおっしゃるから、
「今城が悪いということはそのうち必ずおわかりになる」と申し上げる。
時間もないからまたいずれということにして下る。
くだらないことだ。
宇佐美長官にも瓜生次長にも言う。
「そんならヨーロッパはおやめに願おう」と申し上げることになる。

1971年4月7日
北白川女官長と徳川侍従次長と三人。
また盛んに揺り返しをやっている由。

1971年4月9日
昭和天皇が魔女のこと「そんなに言うことを聞かなければ、やめちまえ」とまで仰せになった。
徳川侍従次長にも昭和天皇の仰せを伝える。

1971年4月10日
良子皇后から御召。
良子皇后、やはり魔女をと仰せになる。
「今度の御旅行は昭和天皇なので良子皇后はその御供、おやめになりたいなら仕方がない。ただ理由としてはすっかりすっぱ抜く他ない。もういい加減におやめになったら」と申し上げる。

1971年4月11日
掌典長永積寅彦さん来訪。
魔女のその後のこと報告。

1971年4月13日
式部官長島重信・北白川女官長・徳川侍従次長と昭和両陛下に拝謁、ヨーロッパ御訪問のことにつき申し上げる。
下ってきたら良子皇后が「島」とお呼び止めになり、「女官を二人連れて行ってはいけないのか」とおっしゃった由。
もちろん魔女の巻き返し。
島官長は宇佐美長官から逐一聞いているので、「島はその方はやっておりません」とお断りした由。
なんとも沙汰の限り。

1971年4月16日〔中国地方行幸〕
女官道木菊重・女官久保喜美子と魔女のことを話しながら朝食を食べる。

1971年4月23日
高松宮妃が徳川侍従次長を呼ばれて、
「良子皇后から電話で『女官長を替えたいからいい人を見つけるように。このごろ奥のことが表につつぬけになっていけない』とおっしゃった」由。
魔女の最後の悪あがきというもの。
不愉快で不愉快で、昼のサンドイッチを楽しみにしていたのに、御通夜みたいな昼食。

1971年4月26日
〔ヴァイニング夫人12年ぶりに来日〕
徳川侍従次長から、良子皇后がヴァイニング夫人に御面会になった時の魔女のことを聞く。
末期の症状であるし、こういうことが起こったのは非常によかったと話し合う。
宇佐美長官から電話で、良子皇后が宇佐美長官を御召とのこと。
ヴァイニング事件のことを話しておく。
宇佐美長官がうんとやっつけた由。
ラスプーチンまで出したと言う。
「それじゃ、やっぱり駄目ね」とおっしゃった由。
いい気持ちになった。

1971年4月27日
昭和天皇にその後の魔女事件の経過につき御報告申し上げる。
徳川侍従次長と二人で早く魔女を去らしめることをやれとの仰せ。
この途中、良子皇后はなんとまた宇佐美長官を御召、「女官長を替えてくれ」とおっしゃった由。
あきれたもの。

1971年4月28日
宇佐美長官から、昨日の女官長を辞めさせろ事件について詳しく聞く。

1971年4月30日
良子皇后から宇佐美長官を御召。
宇佐美長官から聞くと、良子皇后は「徳川侍従次長と松平をやめろ。外国の御供さえしなければ置いておいてもよし」
「みんな今城に絡んだことのように思われます」と申し上げたら、ガックリとおなりの由。

1971年5月4日
宇佐美長官が昭和天皇に魔女のことみんな申し上げ、昭和天皇もお驚きだった由。
ヨーロッパの御供からは完全に外れたので、後はしばらくしてから罷免ということを申し上げる。

1971年5月6日
昭和天皇から御召。
また魔女のことだった。
御心配になっている。
申し訳ないことだ。

1971年5月7日
昭和天皇から御召。
良子皇后は、徳川侍従次長と一緒に出て申し上げた内容も、供奉員のことも、有島暁子が御用掛〔英語通訳〕になった意味も、その拝謁すべてを忘れてしまっているとの仰せ。
また、高松宮妃から魔女に殺生石の能の色紙を書かせて、魔女に貞明皇后20年についてやれということをまた仰せ。

1971年5月10日
元侍従次長甘露寺受長さん来訪。
魔女のこと言う。
ただし辞表は書かせられないとのこと。

1971年5月11日〔園遊会〕
宇佐美長官から、高松宮が「なぜもっと早くやらなかったか。もう今となっては遅いので、秋が済んでからにしては。孤立と思ってらっしゃるから、北白川女官長や入江侍従長が御味方でございますと言え」とのこと。
宇佐美長官が昭和天皇に高松宮のことを申し上げたら、全部駄目とおっしゃっていた。

1971年5月13日
徳川侍従次長と魔女のこと相談する。

1971年6月8日
元侍従長稲田周一さんの所へ行って、魔女採用のいきさつにつき聴取。

1971年6月9日
昭和天皇に、昨日稲田元侍従長から聞いた魔女の推薦者はやはり元侍従次長甘露寺受長だったことを申し上げる。

1971年6月10日
昭和両陛下に宇佐美長官と二人で御外遊の供奉員について申し上げる。
魔女はもちろん入っていないし、女官長・侍従次長・松平を罷免とまで仰せになったのが、そのまま入っているのを御覧になりながら、良子皇后は何とも仰せられず、のみならず大変御機嫌だった。

1971年6月16日
良子皇后に、徳川侍従次長と二人で魔女罷免のこと申し上げる。
何の御抵抗もなく、御承知になる。
宇佐美長官・永積掌典長・西野侍医長にも報告、みな大喜び。

1971年6月17日
良子皇后すっかり御機嫌。
昨夜からずっと御機嫌の由。
きっとさっぱり遊ばしたのだろう。
午前、徳川侍従次長から魔女に申し渡し、「もう5~6年勤めようと思っていた」など言った由。
午後、フランス語通訳武者小路不二子さんが「吹上に行ったら魔女がずっと押しかけて良子皇后にやり続けているから、先手を打って申し上げた方がよくないか」と言われた由だが、かえって悪いし、必要あるまいと断る。
そのあとも大変御機嫌の由。
事は済んだと思われる。

1971年6月20日
昭和両陛下、孝宮和子内親王の新宅へ行幸行啓。
鷹司綏子夫人・養子鷹司尚武お出迎え。

1971年6月25日
良子皇后に拝謁したが、なんとも日本一の御機嫌である。
すっかりサッパリ遊ばしたという感じ。

1971年6月29日
魔女に電話したら、辞表は明日持ってくるとのこと。

1971年6月30日
部屋に戻ったら魔女の辞表が出ていた。
宇佐美長官の所へ持って行く。
とにかく辞表も受けたのだからというので、永積掌典長・西野侍医長を誘って夕方一杯やろうということになる。

1971年7月1日
高松宮邸。
高松宮妃にお目にかかり、魔女のこと。
帰って、昭和天皇に高松宮妃のことなど御話する。
北白川女官長と魔女の辞める時期のことなど相談。

1971年7月2日
甘露寺さんに魔女のこと頼み込む。

1971年7月3日
昭和天皇から「昨日宇佐美長官が今城がもう休んだりするから7月いっぱいで辞めると言ったが、そんなことはいかん」との仰せ。
そうではなく、「今城と懇談の結果、7月いっぱい気持良く勤めて勇退したらと話し合ったためである」ことを申し上げて御納得いただく。

1971年7月6日
宇佐美長官に、魔女は那須にも御供しない由、良子皇后もそれを御承知の由、申し上げる。

1971年7月29日
魔女、退官につき昭和両陛下に拝謁、そのあと花の間で良子皇后に拝謁。
これですっかり済んだ。

1971年7月30日
吹上にもどこにも魔女がいないのでサッパリした気持ちである。
昨夜も北白川女官長から電話で、女官候所一同の喜びを伝えていらっしゃった。
表も奥も今度ほど喜んだことはない。

1971年11月5日
永積掌典長と新嘗祭の簡素化協議。

1971年11月9日
昭和天皇に新嘗祭の簡素化案を申し上げて御同意を得る。
次に良子皇后に申し上げたが、「もう少し長く願えないか」などおっしゃった由。
どうも新嘗祭となると魔女の影響がまだお残りになっている。

1971年11月23日〔新嘗祭〕
お帰りの御車の中で、昭和天皇は「これなら何ともないから、暁もやってもいい」との仰せ。
御満足でよかった。

1971年12月2日
小川宮務課長来訪。
東久邇文子さんを御本邸へということは非常に難しく駄目とのこと。
常盤松しか仕様のないことになってきたが、しばらくはいいとしてそれが駄目になった時のことを考えておくように言う。

1971年12月31日
今年も実に様々ことがあったが、大別すると魔女の追放と御外遊の二つになり、さらにもう一つ加えるとなると新嘗祭の簡素化ということになる。
御外遊のことは昨年からのこと。
これがだんだん進みまとまってくるにつれて、必ず魔女をお連れになるだろうと思われた。
御外遊のことは長官・官長・次長・予の四人しか知らない頃から、魔女がフランス語を習っているという噂を聞いた。
昭和天皇には申し上げるから進捗の様子を御承知になる。
するとそれを良子皇后に御話になるから、良子皇后はさっそく魔女におっしゃるということで、魔女は非常に早期にこれを承知することになる。
こういううちに御外遊公式発表の前に、朝日の岸田君に抜かれた。
良子皇后が北白川女官長に、「御供は北白川女官長・今城女官・道木女官・久保女嬬」とおっしゃった。
昭和天皇に度々このことについて思召を伺い申し上げて、結局これを機会に魔女のことを良子皇后によく申し上げようということになる。
随員の正式な発表を待たずに、側近の方は早く決めないと御準備がしにくいということで、一般と歯切り離すということで宇佐美長官らと話を整える。
それで徳川侍従次長と二人で昭和天皇に拝謁・御諒承を得て、引き続き良子皇后に拝謁、魔女を外すことにつき申し上げる。
この時はかなり御不興だったが、押し切る。
そのご予に対する揺り返しが二度、島官長に一度、宇佐美長官に一度。
ヴァイニング事件のあと二度の揺り返し、しかしそのまま押し切る。
そのご御供がいけないというのに置いておけないという理由で罷免のお許しを得る。
不思議なことだった。
そのご御機嫌もよく、ヨーロッパの御旅行もまったく御無事、大変な御成功だった。
魔女は退官、その後なにごともなく終わった。
つまり今年は魔女の追放と御外遊とこの二つの柱だけだった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1971年4月26日
昭和両陛下、ポーランド外務大臣夫妻と御引見。
御平服なれど徹底せず、良子皇后も御承知なく御和服のまま。

良子皇后、女官今城誼子の件で宇佐美長官を御召。

1971年9月3日
昨夜アメリカからお帰りの順宮厚子内親王夫妻と御対面。

1971年9月28日〔ヨーロッパ訪問〕
昭和両陛下、コペンハーゲン御到着実況放送あり。
昭和天皇の御口のパクパクの御癖激し。
お疲れのためか、案ぜられる。

1971年12月31日〔大祓〕
潔斎・着替、馬車で吹上へ。
良子皇后のハーハーがお済になるまで、大広間で侍従松平潔としばらく待つ。
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『入江相政日記』侍従長

1972年1月12日
三笠宮妃と魔女〔元女官今城誼子〕のことなど、いろいろ御話し合う。

1972年1月18日
歓送迎会。
魔女は来ない。

1972年6月26日
魔女が電話をはずすことにつき抵抗。
はずせば9月には出ないとか言った由。
「断然はずせ」と言う。

1972年7月29日
孝宮和子内親王の所へ行く。
神宮祭主のこと御承知にならないばかりでなく、お泣きになったりしてなんともならない。
「そんなことしかできないと思われても」とかいうこと。
優越感と劣等感の共生である。
キリもないし、またを御約束して辞去。

1972年7月30日
昭和天皇に昨日の孝宮和子内親王のことを申し上げる。
「それだけ言っても駄目だったか」との仰せ。

1972年8月2日
孝宮和子内親王の所へ行く。
今日は大変御機嫌で、重ねて申し上げたら「おもう様のおっしゃるようにする」との仰せ。
すっかり安心した。

1972年8月8日〔那須御用邸〕
昭和天皇に孝宮和子内親王のこと申し上げる。
お労いの御言葉をいただいた。

1972年8月16日
昭和天皇に、島津禎久さん〔清宮貴子内親王の子〕の学校のことについて申し上げる。

1972年9月8日
宇佐美長官と徳川侍従次長と、魔女が来年3月末日まで官舎を出ないと言っていることなどにつき協議。

1972年10月17日
昭和天皇から「今城はもう出たか」との仰せ。

1972年12月31日
昭和天皇は御訪米を非常にお望みであるが、これは御自身の御体力が少しでもしっかりしていらっしゃる内にということと、良子皇后のことも大いに関係していると思われる。
良子皇后はヨーロッパ御訪問の頃からそろそろだったが、この頃はひどいことになっておしまいになったらしい。
北白川女官長などは、アメリカなんかとうてい駄目と言われる。
長年魔女に脅され続けていらっしゃったことから来るお気落ちとでもいうものか。
これが目下最大の悩みである。
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『入江相政日記』侍従長

1973年2月16日
昭和天皇がいろいろ仰せになり、御退位のこと・御譲位のことを仰せられるので、
「国民はまったく正反対のことを考えている」むね申し上げる。

1973年2月22日
駐英大使森治樹のロンドン着任から信任状捧呈までの報告を読んで申し上げたら大変なお喜びで、「摂政就任以来今日まで、こんなに詳しく知らせてくれたのは初めて」とおっしゃり、
「そのことを森に言い、今後も参考になるようなことがあったら知らせてくれるよう頼んでくれ」との仰せだった。

1973年6月14日
徳川侍従次長と良子皇后の御絵の御近作を整える。
なんとなくまとまりの悪さに、もしそれならばと慄然とする。

1973年8月27日〔那須御用邸〕
昭和天皇の御口パクパクの御癖が始まる。
平木女官・久保女官は「良子皇后の問題が元か」と言う。

1973年9月25日
昭和天皇御機嫌はいいが、御口パクパクの御癖は相当のものである。
これからいろいろ困ることが起ってくるだろう。

1973年9月27日
昭和天皇の御健康について西野侍医長と語り合う。
マッサージを初めて提案する。

1973年10月2日
昭和天皇御機嫌だが、御口パクパクの御癖はまだまだ。

1973年10月30日
「11月3日の明治節祭を御代拝に、献穀は参集所で」と申し上げたら、
昭和天皇は「そんなことをすると結局退位に繋がる」と仰せになるから、
「御退位などにならずに末永く御在位で、国民の期待にお応えいただきたい。そのために軽いものはおやめいただくということ」を申し上げ、お許しを得る。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1973年5月12日
昭和天皇の御口のパクパクの御癖、かなり激し。

1973年5月17日
貞明皇后例祭。
旧奉仕の方々に茶菓の接待、魔女〔元女官今城誼子〕は現れず。
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『入江相政日記』侍従長

1974年4月9日
北白川女官長から最近の良子皇后の御様子を聞く。
憂うべきものがあるらしい。

1974年8月19日
宇佐美長官が、島津久永さん〔清宮貴子内親王の夫〕の海外勤務、シドニーがよからんかとの件。

1974年8月21日〔那須御用邸〕
昭和両陛下ジープ。
常陸宮夫妻が御陪乗と言っていたが、断然退けて予と原田女官で陪乗。
昭和天皇はお眠りになるし、良子皇后は半ドアになさるし、そんなことを常陸宮夫妻にお願いするわけにはいかない。

1974年10月5日
孝宮和子内親王の所へ行って、神宮祭主のこと申し上げ、御快諾を得る。

1974年11月2日
羽田空港。
ベルギー国王ボードゥアン1世夫妻のお出迎え。
両国の皇后がお手を繋いで宮殿をお歩きになり大変良かった。

1974年11月26日
フォード大統領の来日は大の大の成功だった。
昭和天皇に、キッシンジャーがまったく変わったことなど申し上げる。

1974年11月29日
昭和天皇に、昨夜外務大臣木村俊夫から聞いたフォード大統領来日の好結果について申し上げる。
泣いてお喜びだった。
こんなのは初めてのこと。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1974年1月17日
昭和天皇が「昔の侍従は乱暴だったが、今の侍従の方が真面目にやるし良い」と仰せられた由。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1974年5月17日
高松宮(3月に完成した)迎賓館に見学においで。
「東宮様〔平成天皇〕、いまだ■■か?」〔小林は聞き取れなかった〕
昭和天皇から「高松宮は行かれたが、東宮様はどうか。高松宮はでしゃばりの気味があるから」とのことで、「東宮様はいまだ」の旨が判明したが、その言上は田中侍従に申し送り。
この件は昭和天皇が行幸の時から、明仁皇太子お断りなど、少々複雑のいきさつがあるらしい。

1974年11月19日
フォード大統領歓迎御挨拶、宮中晩餐会。
昭和天皇非常に張り切っておられるようにお見受けした。
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『入江相政日記』侍従長

1975年1月14日
昭和天皇の御容態、侍医杉村昌雄で要領を得ない所もあるが、とにかく御予定通りということになる。

1975年1月24日
小川宮務課長来訪。
東久邇文子さんの再婚の縁談の一つとして外務省の人の話。
この人が引き受けてくれればいいが。
文子さんがよくやって下さればいいが。

1975年2月17日
祈年祭の御親拝の御供。
内陣で二度バタンという大きな音がした。
掌典長永積寅彦に聞くと、内陣で前と右と二度お倒れになったとか。
「御袴がもつれたのかもしれない」とも言う。
それなら大したこともないが、今度は居拝に願おうということになる。

1975年3月25日
北白川女官長・久保女官から、2月の須崎御用邸から東京へお帰りの時、良子皇后が「暑い間 須崎で過ごして幸せだった。東京はまだ暑いだろうね」とおっしゃった由を聞く。

1975年5月13日
リビア大使の拝謁。
北白川女官長と一緒に良子皇后のことで気をもむこと例のごとく。

1975年5月24日〔滋賀巡幸〕
森林センターでお種まき。
このとき良子皇后はお笑い続け、お帰りの道お間違え。

1975年6月6日
徳川侍従次長・北白川女官長と、昭和天皇に良子皇后のこと申し上げた結果につきいろいろ打ち合せ。
昭和天皇から御召。
女官の苦心などをいろいろ申し上げ、お気持ちよくおわかりいただけた。

1975年8月18日
武道館で戦没者慰霊祭。
ハンドバッグをお持ちになった良子皇后がぶら下げておしまいになる。

1975年9月1日
良子皇后は線描きはおよろしいが、御絵はもう駄目とのこと。
去年よりだいぶお進みになったらしい。

1975年9月22日
秩父宮妃・高松宮妃・三笠宮妃が良子皇后の御様子に驚かれたことなど聞く。

1975年10月7日〔アメリカ訪問〕
良子皇后がダイヤの大きなブローチを持って出ておいでになったのでビックリ。
またどこかへ行っても大変とお預かりする。

1975年10月27日〔三重行幸〕
久居市役所、続いてボクシング。
この頃から昭和天皇お眠くなる。
28分間お起こしするので大騒ぎ。

1975年10月31日
良子皇后に今日の記者会見について、「アメリカの御印象は?」と伺ったら、「楽しかった」とおっしゃるように申し上げる。
宇佐美長官に話したら「それだけでは困る」と言うから、「それならやめるほかない」と言う。
いっぺんやめとなったので、女官候所では大喜びだった由。
エルサルバドルは気が気ではなかった。
〔この日、エルサルバドル大使に拝謁〕
徳川侍従次長がなんとかして、蓋を開けてみたらまさに天祐。
とにかく無事に済んだ。

1975年11月14日
春秋の間で受勲者の拝謁の時、ちょっと御言葉があった後、台の上で「どうしよう。粗相をした」とおっしゃる。
「大丈夫でございますから」と申し上げ、御言葉をお続けになる。
あとで「ちょっと御休憩になりますか」と伺ったら、「大丈夫」とおっしゃるので、そのまま豊明殿も願う。
薔薇の間で伺ったら、お小水のこと。
でも外に何もあらわれなくてよかった。

1975年11月19日
「3月と8月の御訪米の発表をアメリカの新聞がぜんぜん記事として取り上げなかったので、外務省も悲観的だった。それがああまで変わったのは、昭和天皇の御徳によるもの」と申し上げ、自信をおつけする。
御涙を流してお喜びだった。

1975年12月31日
年の始めからそろそろ御訪米のことが話に上るようになった。
訪米阻止という騒ぎ。
ウチに警察官が来り、ボディーガードがついたり。
蒲田に四千人が集まったとかいうことだったが、お帰りの時には一人のデモもなかった。
アメリカの前景気はあまりよくなかった。
いろいろ案ぜられたが、大変な御人気だった。
良子皇后もまあまあ無事にやってくださった。

エリザベス女王の御訪日もまた大騒ぎになった。
「我がイギリス」人種が多数現れた。
秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王・麻生和子夫妻。
外務大臣宮沢喜一や儀典長内田宏を脅したりしてさんざんの醜態だった。
三木首相も驚いたことだろう。
昭和天皇がしっかりしてらっしゃるからいいようなものの、さもなければ大変面倒なことになるところだった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1975年2月17日〔祈年祭〕
昭和天皇、賢所にてお倒れになったような大きな音二度。
とばりを少し繰りて伺うも御異常なき御様子にて安堵す。
やはり前にお倒れになり、手をおつき遊ばしたる由。
寒さの中 急にお立ち上りになりたるせいか。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1975年3月6日
良子皇后御誕生日。
御誕辰の御祝を①昭和天皇か②明仁皇太子か③常陸宮か、
明仁皇太子のネパールからの御帰国御祝を④)昭和天皇からおっしゃる順序について、
昭和天皇から「どうするか侍従長か侍従次長に意見を聞くように」とのことで、いずれも連絡取れず自分の考えを申し上げた。
昭和天皇は「①夫が妻の誕生日の祝いを言うのはおかしい。②は④によって帰国を祝ってもらう立場だからおかしい。③にでもしたら」とだいぶこだわっておられた。
しかし②について、良子皇后の御祝を申し上げることと自分の帰国を祝ってもらうこととは全く別だからかまわないことを強く申し上げ、明仁皇太子だけがお祝いを申し上げることになった。
①についてはあえて考えを申し上げなかったが、夫が妻の誕生日の祝いの言葉を言うのはそれほどおかしいことではあるまいと思った。

1975年5月13日
毎日新聞に伊達宗克著『天皇の外交』の広告が出ており、
昭和天皇が「戦争の償いとして戦後平和外交を推進しているかのごとく広告しているが、戦前も平和を念願しての外交だったのだからおかしい」と仰せあり。
「内容を調べてほしい」と言われた。

1975年8月12日
黒田実式部官が徳川侍従次長の手伝いに来て雑談。
戦後GHQとの交渉は黒田さん一人でやったと。
苦労も多かったが、その功績は上司が自らのもののように考え、認められなかった。
特に宮内庁次長林敬三のとき宮内庁予算の1/3減を翌年予算に計上するよう命令があり、それをマッカーサー秘書バンカー大佐に話して減ナシとした。
これを宮内庁次長林敬三は宮内庁長官田島道治に自ら交渉したかのごとく報告し、宮内庁長官田島道治は退官後これを知って驚いたという。
その他幹部がGHQに嘘を言って、それがばれて首切りを言われ、それをバンカー大佐に泣きついて止めてもらったことなど、なかなか秘話が多く面白い。

1975年8月20日
御服装について内舎人牧野名助からから聞く。
■お背広
●三揃いのチョッキは六つボタンで最下段は掛けない。
掛けないというより、チョッキの斜めに切れ分かれている所にボタンホールとボタンをつけてあるので掛からない。
戦前からオシャレな人がしていたことで、飾りとなっている。
戦前からのこと。
●上着の雨フタは戦前から昭和30年頃まではつけていなかった。
しかし30年頃以降お付けしているものの、ポケット内に入れて使うように少し小さく作ってある。
もともと雨フタは物を入れた時の用心や自動車などのドア取手に引っかからないためにつけてあるものだから、高貴な方の場合不要ともいえる。
そのためこれまでつけてなかったものと思われる。
●ズボンの裾の折り返しも、戦前から昭和30年頃までシングルであったものが、一般と同様にしようということでダブルにしたものである。
■お靴
●昭和天皇の靴は少し大きめに作られている。
紐を結んだまま脱着なさるので、きついように見える。
●賢所の用の靴はめったにお使いにならぬから、皮が固くなりがちで余計馴染まず、脱着がきついようになる。
●戦前から昭和34年頃まで、お背広の色にかかわらず茶色(しかも明るい茶色)であった。
世間が落ち着いてきてお背広に合った物ということで黒色になった。
もともと茶色がお好きであったので黒色に変える時もなかなか御承知なさらず、侍従長から御説明して御納得してもらった。
それでせめて皇居内では茶色になさっていただこうということで、宮殿御往復は茶色にしている。
茶色は一年二足ぐらい必要。
●かかとの取り替えなどせず、減ったものは御運動服の時になさることにし、ひどくなれば焼却。
●那須などで御調査にお使いになるお靴は、土踏まずの上の所に金属が入っている。

1975年9月11日
侍従長入江相政によると「通訳の外務官僚奥村勝蔵がマッカーサー元帥との御会見の内容を漏らしたのは、白洲次郎の圧力によるもので、奥村が悪いのではなく白洲が悪かったのだ。白洲駐米大使の案もアメリカのアグレマンが得られず駄目になった」と言う。

1975年9月29日
御訪米を明日に控え、伺いもの・御覧ものの文書多し。
明日羽田での御言葉御練習。
丁寧に4回もなさる。
〈来日〉を〈ライジツ〉とお読みになるので、〈ライニチ〉とお直しし、そこを特に念入りになさった。

1975年10月14日
昭和両陛下羽田着、御帰国。

1975年10月15日
昭和天皇は平常どおり10時過ぎ宮殿お出まし、驚いた。
御無理ではないか。
少しおやつれの御様子。
ハワイでお風邪で発熱なさったと伝えられたが、ほとんどよろしいという。
だいぶ日にお焼けになり、色黒くお見受けした。

1975年11月22日
昭和天皇の近況について入江侍従長の話。
御訪米・御帰国後の記者会見などに対する世評を大変お気になさっており、加えて御体調がお風邪・下痢なども重なり十分でないこともあり、御自信を失っておられるので、昭和天皇の素朴な御行動がアメリカの世論を驚異的に盛り上げたことなど具体的に申し上げ、自信を持って行動なさるべきことを申し上げたところ、涙をお流しになってお聞きになっていたと。
それで19日の御訪米随員らの御茶お出ましの時は非常にお元気であった。
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『入江相政日記』侍従長

1976年1月13日
昭和天皇から御召。
文春の皇族座談会『皇族団欒』の高松宮のこと。
本当につまらないことを申し上げになるから困る。

1976年1月20日
昭和天皇から御召。
また『皇族団欒』の高松宮のこと。

1976年2月4日〔須崎御用邸〕
富田次長から、昨夜昭和天皇と侍医杉村昌雄と日の出のことについて大論争の由。
お年のせいでブレーキが効かなくおなりになった。

1976年4月30日
「明日の旬祭、御代拝では」と申し上げたら、
「高松宮妃が『昨日の誕生日の後で疲れたのか』と言ってもいかんから」とおっしゃる。
「参列もないし、わかりません」と申し上げたら、
「いやいや、いろいろ情報網を持っているらしいから」とおっしゃる。

1976年7月1日
昭和天皇から「文春の皇族座談会『皇族団欒』のようなものを正しいものと思っていては困る」との仰せ。
三笠宮へ行き、三笠宮妃によく御話する。
あの座談会に批判的だったこと、高松宮一辺倒でないことなどがわかり、すぐ帰り昭和天皇に申し上げる。

1976年7月3日
秩父宮へ行き、秩父宮妃にこの間からのこと洗いざらい申し上げる。
すべて御同意、お喜びだった。

1976年7月5日
昭和天皇に秩父宮妃のことを申し上げる。
「入江、御苦労だった」と仰せくださる。

1976年7月8日
宇佐美長官に、秩父宮妃・三笠宮妃のこと報告する。

1976年7月12日
昭和天皇から、一昨日皇族方御参内の節、高松宮夫妻が大変協調的であったがどういうわけかという仰せ。
「やはりいくらか御反省になったのだろう」と申し上げ、
「それならいいが」との仰せだった。

1976年8月8日〔那須御用邸〕
昭和天皇に拝謁、少し緊張していらっしゃるよう。
徳川侍従次長に聞くと、昨夜お漏らしになったとのこと。
寒いからかもしれないとも言う。

1976年8月19日
昭和天皇から「この間の電話の美智子の教育方針がよかったと言ってもいいか」との件。
予は「もっとサラッとなら」という意見。
宇佐美長官も同感。

1976年9月11日
秩父宮妃御参内、高松宮・明仁皇太子などお集りの時にミグ25事件につきみなさんいいことだとお喜びとのことだったが、昭和天皇は「皇族さんは無責任だから」とおっしゃったとのことで、この無責任についてお掘り下げになった結果の御話。

1976年10月15日
10時半から昼前まで御進講。
今日は大変なおあくびの後とうとうおやすみになりかけたのでお起こしする。

1976年12月31日
1月10日文春の二月号に『皇族団欒』とかいうくだらない座談会の記事が載った。
秩父宮妃・高松宮夫妻・三笠宮寛仁親王という顔ぶれ。
司会は加瀬英明。
つまり高松宮が一人で【誇りかに】しゃべっておられるだけ。
すでに昨年の文春の二月号にも加瀬君が書いているが、高松宮から伺ったようなことが多く、それによれば御自分は根っからの平和論者であり、太平洋戦争をとめたのも自分であるという意味のことが書いてある。
昭和天皇にはこれが非常にお気に入らず、実に数えきれないほど御召があった。
このようなことがあったので、それでは思召されることを何でもおっしゃっていただいたら如何か、それによってさっぱり遊ばすならとお勧めし、それはそうすれば楽だと仰せになるので、すっかり伺うことにする。
これを動機として、拝聴録計9冊と結語とができあがった。
なお明年もお続けいただこうと思う。
赤坂方面〔平成天皇家〕の人気は依然冴えず困ったもの。
しかしこれはまったく手がつけられない。
その意味も含めて昭和天皇がますます御機嫌でいらっしゃるよう祈るほかない。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1976年2月26日
二二六事件の日につき、昭和天皇宮殿へのお出ましあらせられず。

1976年8月6日〔那須御用邸〕
原爆の日につき、お慎みのためお出ましなし。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1976年10月27日
午餐。
御着席の直後 三木首相が「良いお天気で」と申し上げると、
昭和天皇が「政治の方もこのようにうまく晴れるとよいね」とおっしゃり、一同大笑い。
三木首相も苦笑していた。
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『入江相政日記』侍従長

1977年1月14日
歌会始。
良子皇后が御自分の御歌の時にお立ちにならなかったのには弱った。
御製の時にもお立ちにならないのではないかと心配したら、お立ちになったのでまあまあ安心した。

1977年3月8日
宇佐美長官と、杉村昌雄は侍医長不適のことについて話し合い、まったく同意見。

1977年4月14日
生物学座談会。
始めの頃、御口パクパクの御癖があった。
お楽しみの進講なのに、どういうわけか。
良子皇后のことで何かおありになったか、三笠宮寛仁親王のことか。

1977年5月7日
西野侍医長より、良子皇后のは思惑よりお進みが遅いとのこと。

1977年7月6日
葉山御用邸再建についての会議。
侍従職としてはほとんど要らないものと主張しておく。

1977年7月17日〔那須御用邸〕
今朝良子皇后御腰の故障とのこと。
大変な騒ぎ。
良子皇后昭和天皇と御一緒では御小水がおできにならないとのことで、御食堂にお移り願うことにする。

1977年7月18日〔那須御用邸〕
良子皇后のレントゲン、腰椎が一つ老化して潰れているとのこと。

1977年7月19日〔那須御用邸〕
良子皇后急速に御混乱と聞かされショック。
昨夜、西野侍医長・原田女官会談の結果ということ。
西野侍医長によれば、原田女官のショックは少し間違いだったらしいとのこと。
まあ、よかった。

1977年7月23日〔那須御用邸〕
昭和天皇が「杉村侍医が興奮している。今まで聞いていたのとまったく違うことを言う」との仰せ。
西野侍医長・侍従山本岩雄・侍従卜部亮吾と何べんも電話。
北白川女官長・久保女官も来室、杉村侍医とも協議。
結局こちらでギブスベッドにお入れし、東京へはお帰り願わないということ。
まとまったところで昭和天皇に申し上げ、大変御安心。

1977年7月24日〔那須御用邸〕
また御召。
杉村侍医がつまらないことを申し上げた結果である。
彼の言うところによれば、何も大したことはないが、やはりいろいろ申し上げたらしい。
例えば「12月までお治りにならない」とか、
「即刻寝台車でお帰りになり、宮内庁病院に御入院遊ばすべきだ」とか、困ったもの。
昭和天皇によく申し上げ、御納得いただく。

1977年7月25日〔那須御用邸〕
杉村侍医に呼び止められ、今度はまったく話が違っていて、ギブスベッド一生懸命にやり、その間にコルセットを準備しておいてそれを差し上げ、8月下旬還幸の時にはなんとか電車で御一緒にお帰りになれるようにしたいとのこと。
それなら問題ない。
すぐ昭和天皇に申し上げ、大変御安心、お喜び、「杉村によろしく頼む、礼を言ってくれ」との仰せ。
さっそく話す。
女官候所で涙ぐんでいたとのこと。
よかった。

1977年7月26日〔那須御用邸〕
良子皇后「どうしてこんなところに入れるか」というので、ギブスベッドから出ておしまいになるとのこと。
意味を忘れておしまいになるから。

1977年7月27日〔皇居〕
昭和天皇、杉村侍医のこといろいろ仰せになる。
西野侍医長と杉村論。
東京還啓を奏請、12月いっぱい駄目と申し上げればすぐお許しを得、それによってヘゲモニーを握ろうとしたクーデターであると。
どうも太陽系以下の宇宙の人であろうということになる。
良子皇后の方は非常におよろしく、あまりお痛みにならないとのこと。
これで宇佐美長官の居直りが消えることになるといいが。

1977年8月2日〔那須御用邸〕
久々に良子皇后に拝謁。
お年を召した、御顎が太く二重になっている。
非常に悲観的にならざるを得ない。

1977年8月3日〔那須御用邸〕
昭和天皇から「西野以外の三人はみな悲観論ばかりでイヤになってしまう。責任逃れかもしれないが」との仰せ。
すべてお見通し。

1977年8月4日〔那須御用邸〕
昭和天皇から「杉村を侍医長にすることはできない」との仰せ。

1977年8月8日〔那須御用邸〕
今日からコルセットのトレーニング。

1977年8月17日〔那須御用邸〕
良子皇后、トレーニングをえらくお怒りになり、昭和天皇の御前で北白川女官長の背中をひどくどやしになったり、階段の上り下りを派手になさったり。
暗澹たる気持ち。

1977年8月21日〔那須御用邸〕
宿舎にいたら良子皇后から御電話。
「通用門に犬がこっちを見て立っている」
「およろしゅうございましたね」と申し上げたら、
「みなのお陰で」とのこと。

1977年8月27日
西野侍医長・北白川女官長と良子皇后のこれからのことにつき協議。

1977年8月30日
宇佐美長官・富田次長・式部官長湯川盛夫と良子皇后のこれからのことにつき協議。
富田次長・式部官長は全面賛成・同意。
宇佐美長官はいつものことながら、いちいち何か言ったが、つまりは他に仕方がないこと。

1977年9月5日
北白川女官長に「コルセットのことは発表するが、昭和天皇からの仰せもあり、皇族方が吹上へ御参内の前にギックリ腰のことについては申し上げた方がいいのではないか」と言ったが、何とかかんとか言って承知しない。
まだ夏中のこだわりである。
原田女官に言っておく。

1977年9月19日
良子皇后に、マレーシア首相とは御会見だけということをよく申し上げたのに、後で晩餐会の席割りを御覧になって、
「どうして私を出さないのか。腹も悪くないのに」と大変御機嫌が悪かった由。
御会見の時は何事もなかったが、諸事いよいよ限界を思わせられる。

1977年10月8日
秩父宮妃から御電話。
三笠宮寛仁親王が本を出し、例の対談『皇族団欒』も載せると。
絶対に不可と言う。

1977年10月9日
三笠宮寛仁親王から電話。
「秩父宮妃から伺ったが、承知なさった高松宮に取り止めると言ったら妙にお思いになるだろう」とのこと。
「そんなこと問題にならない。もしこれが出た時のと比べれば、皇室としての損害は比較にならない」と言ったら、
「やめます」とのこと。
まあよかった。

1977年10月11日
昭和天皇に三笠宮寛仁親王の一件を話す。
予の処置にまったく同意。

1977年10月18日〔那須御用邸〕
杉村侍医から良子皇后のレントゲンの報告。
これだけでハーフリタイアメントは当然である。

1977年11月5日
西野侍医長と杉村侍医のことなどいろいろ相談。
困ったことということはいよいよハッキリする。

1977年11月16日
昭和天皇に「杉村侍医に言い渡すことになった」と申し上げたら、
昭和天皇は「とにかく『嘘を言うのがいかん』と言え」と仰せになる。

1977年11月22日
杉村侍医に辞職を勧め、三月いっぱい退任のことも決める。

1977年11月24日
昭和天皇に杉村侍医のことすっかり申し上げる。
御満足で「いろいろ御苦労でした」とおっしゃる。

1977年11月28日
昭和天皇から「杉村侍医、宇佐美長官が辞めたあと居直りはしないか」とのこと。
楽観に過ぎるかは知らねど、「まずまず大丈夫だろう」とお答えする。

1977年12月31日
良子皇后のギックリ腰、お気の毒様ではあるが、このためハーフリタイアメントが非常に具合よく行われることになった。
宇佐美長官は6月と言い、9月と言い、12月と言い、たびたび辞任を声明しながら、西野侍医長の予言のごとく、とうとう年を越すことになった。
一月ということになっているが、この分では果たしてどうなるかわからない。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1977年2月26日
二二六事件のためお慎み。
御就寝前、「治安は何ともないかね」とのお尋ね。

1977年3月4日
常陸宮から献上のスッポンを昭和両陛下に御披露。
御料理用ということで、飼育をくいとめる。

1977年5月24日〔園遊会〕
水割一杯が効いて色に出にけりとなる。
昭和天皇はニッコリ、秩父宮妃は「夕焼のようね」三笠宮寛仁親王は「だいぶやったな」
昭和天皇橋の付近で急に御東所〔トイレ〕となり、田中侍従と藪の中へ。
お帰りの御車でも御失敗とか。

1977年7月17日〔那須御用邸〕
初めて良子皇后の御背中の異状を知る。
女官さんからの申出により、入江侍従長・侍医と協議の結果、良子皇后の寝室を御食堂にお移しすることに決め、昭和天皇のお許しを得て御動座。

1977年7月21日〔那須御用邸〕
那須御用邸の山本侍従に連絡。
良子皇后東京へお帰りかどうかは五分五分。
お残りの場合は侍従二交替で那須御用邸に残留の方針とか。

1977年7月23日〔那須御用邸〕
良子皇后お残りかどうかについて那須方面で議論わかれ、安楽侍従からまた逆転の可能性もありとの話。

1977年7月26日〔良子皇后のみ那須御用邸〕
那須御用邸から御帰京につき、昭和天皇のネクタイがないと大騒ぎ。
なんと御背中の方に回っており大笑い。

1977年7月27日〔良子皇后のみ那須御用邸〕
北白川女官長と看護婦受け入れにつき協議。
宮内庁病院総婦長佐藤ミヨ参内。
御清拭・御手当、さすがの手つき。

1977年7月28日〔良子皇后のみ那須御用邸〕
入江侍従長から電話、杉村侍医のヘゲモニー対策なり。

1977年7月29日〔良子皇后のみ那須御用邸〕
「一日も早く御快癒になるよう御辛抱でお静かに」と申し上げると、「静かにしているよ」との仰せ。

1977年8月8日〔良子皇后のみ那須御用邸〕
良子皇后コルセットに切り替えの由。

1977年8月9日〔良子皇后のみ那須御用邸〕
良子皇后の御容態および御動静につき記者発表。

1977年12月7日
国会行幸に供奉。
議場の階段にておよろけ、さらに「拝謁は二人しか覚えていないが」とお案じ。
おそらく目はおつぶりになっていらしたものの、お立ちになっていらしたと。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1977年1月14日
歌会始の儀。
良子皇后御自分の御歌の時、起立なさるべきところお座りのままだった。
自分から「始まる前には御自分の時と昭和天皇の時だけ起立」ということをおっしゃっていたのに、という入江侍従長の話。
しかし誰も奇異に感じた者はいないだろう。

1977年2月28日
今日良子皇后のお雛様が御居間和室に飾られたので、御夕食前に良子皇后にお願いして御食事中に拝見した。
良子皇后が「家でも飾りましたか?」との仰せで、
「男の子ですから、家内が持ってきた一対を飾った」むね申し上げた。
「そのうち女の子が生まれますよ」との仰せには参った。
「飾ると賑やかになっていいね」とおっしゃった。

1977年6月15日
昭和天皇が向きを変えられる時、御足がもつれ右半身を下にして御倒になった。
その際 右手を水底におつきになり、手のひらを少しをお切りになり、御手首上にかすり傷を負われた。

1977年7月19日
良子皇后は17日の朝ギックリ腰で御床で、御調査は昭和天皇お一方。
当分そういうことになろう。
女官さんは大変。

1977年7月24日
角田素文侍従によれば、入江侍従長と杉村昌雄侍医の意見が違い、それぞれ昭和天皇に申し上げたので、昭和天皇はどちらを信用したらよいのかと、夜11時と朝4時半に田中直侍従をお呼びになった。
そのため田中侍従は疲れて早く寝たと言う。
杉村侍医を説得するのが鍵だという我々の危惧が当たったわけで、入江侍従長も相当頭に来ているのではないか。

1977年7月30日
良子皇后のギックリ腰について、ギプス使用に関して。
「もし那須の方に直接お尋ねあった場合、どのように答えたものか入江侍従長に伺いたい。ギックリ腰の治療法としてギプスをつけていらっしゃることは一般に周知のことだから、この際隠すことはあるまい。むしろいずれ知れることでもあるし、御兄弟・御子様方にそれほどの隠しだてをすることはない。直接お世話している者としては嘘を言うわけにはいかない」という北白川祥子女官長の考えを伝えた。
入江侍従長は「看護婦をつけて十二分のお手当てをしており、御安静になさり徐々に御回復の旨お答えすることにし、ギプス使用のことは絶対に言わないこと。もし後日皆様方に知れて怒られても、その時は禁止されていたのでお話できなかったと言えばよい。その責任は侍従長がかぶる」とのことを北白川女官長にお伝えした。
北白川女官長は「来月5日常陸宮夫妻が那須においでで、御会食があるのだからわかってしまうのではないか。詳しいことは侍従長に聞いてほしいと答えることにする」と強いご不満の様子。
入江侍従長も昭和天皇の御意向があって秘しているよう言うのであろうが、つまらないことでかえって昭和天皇の御立場を悪くすることにもなりかねないから、入江侍従長は昭和天皇の御考を改めるよう説得すべきではないか。
また皆様方に秘しておくことはその筋から記者に流れて報道されることを恐れてのことだろうが、当然の治療法を施していることを報道されたところで何も困ることはないのではないか。

1977年8月1日
山本岩雄次長に氏に電話の際、ギプス使用発表について北白川祥子女官長・冨家崇雄侍医の不満を話したところ、西野重孝侍医長と山本侍従は発表しても良いと考えていたらしい。
「入江侍従長に話してみる」と言っていた。
午後山本侍従から電話があり「30日お祭りの際、宇佐美長官が秩父宮妃に看護婦派遣を話したところ、それは大変とあちこち聞き回った。昭和天皇がそれをお知りになり、『だから発表は慎重にするように』と仰せあり。侍従長の回答はその意を受けたもの」と言う。
「侍従長に聞いてください」との返事で結構ということだった。
ギプス使用発表しないことに、北白川女官長はじめ大変不満。
立場上隠せるものでないと。

1977年8月8日
良子皇后御順調の御様子であるが、昭和天皇は侍医が悪い予想・悲観的見通を強調することに極めて批判的である由。
入江侍従長などの意見は、「そういう悲観的な見通を申し上げることは、昭和天皇が色々と御心配になるから良くない」
北白川女官長など女官の意見は、「昭和天皇の御認識が甘いから率直な意見を申し上げるべきだ」
いずが良いかそれぞれ一理あろう。
昭和天皇もいささかを考えすぎではないか。

1977年8月23日
記者クラブとの御会見。
終戦後の天皇の人間宣言に関して、冒頭に五箇条の御誓文があることについて、我国の民主主義は戦後輸入されたものでなく、すでに明治大帝はそのような思召であったということを、マッカーサーも認め、これを入れるという天皇の考えに賛成したのだという。

1977年8月26日
入江侍従長・山本侍従の心配をよそに、昭和天皇は「あれぐらいはしゃべってもよいのではないか」と意気軒昂たるものがあるという。

1977年12月25日
大正天皇例祭。
御拝からお戻りになって、昭和天皇が「今日は大祭か小祭か?」とのお尋ねで、山本岩雄侍従が大祭のはずの旨お答えしたところ、「御告文がなかったが」との仰せ。
掌典長がお詫びに出た。
昭和天皇は「これから忘れないように」と仰せがあったという。
掌典職お粗末の極み。
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『入江相政日記』侍従長

1978年1月3日
いい気持ちで寝ていたら、侍医杉村昌雄から電話。
横に院長がいると思われる。
さんざんの蒸し返し。
西野侍医長に電話、また杉村侍医から電話。
そのまま寝る。

1978年1月4日
杉村侍医問題で会議。
上げ出しのように、辞める日に侍医長にする以外はないということになる。

1978年1月17日
オランダ大使の拝謁。
日本語を学び昭和天皇の仰せは半分はわかるというので、良子皇后のことゾッとする。

1978年1月26日
外務大臣園田直の進言によるサウジアラビア・クウェート御訪問の件、昭和天皇も良子皇后はとうてい海外は御無理と思召していらっしゃるに違いないということで宇佐美長官と意見の一致を見る。

1978年1月31日
良子皇后が「ノルウェー皇太子の時、どうして出てはいけないか」など仰せになったとか。

1978年2月10日
昨夜秩父宮妃が「今晩のなどは非公式だから良子皇后もお出になったらいいのに」などと申し上げられた由。
昭和天皇「困る」との仰せ。
小林侍従に「腰もいいようだから、二十日の外交団の午餐に出たらどうだろう」と仰せになったのと大いに矛盾する。

1978年2月17日
昭和天皇の御命で秩父宮へ。
秩父宮妃に良子皇后の御情態をかなり詳しく御話し、だからこれからやることの他にやり方はないことを御説明。
よくわかってくださる。

1978年2月18日
昭和天皇に秩父宮妃のことを申し上げたら大変御満足で、「本当に御苦労だった」とおっしゃっていただく。

1978年2月23日
三笠宮へ。
三笠宮妃に秩父宮妃に話したのと同じことを御話する。
よくわかってくださる。

1978年3月1日
宇佐美長官が杉村侍医のことで徳川侍従次長に叱られ、「殿様は怖い」と言った由。
世の中すべて面白い。

1978年4月11日
北白川女官長と話し合う。
良子皇后の外人などの関係の御引退の件。

1978年6月15日
黒木東宮侍従長に、元東宮侍従浜尾実などがよくしゃべる「お膝元での御教育は明仁皇太子〔平成天皇〕がお初めて」とのテレビの言説に対する昭和天皇の御不満を伝えておく。

1978年9月9日
昭和天皇、杉村侍医のこと「催促のようだけど」と仰せになる。

1978年9月12日
徳川侍従次長と二人で杉村侍医に面会。
「昭和天皇が辞めろとおっしゃれば別だが」と言うので、
「宇佐美前長官からこのことは昭和天皇にも申し上げてある」と話す。
これはいくらか効いたようで、「今年いっぱいで辞める」と言った。
昭和天皇と富田長官に報告、昭和天皇も富田長官も大変に安心の様子。

1978年9月21日
福田首相拝謁。
昭和天皇、この時ちょっとお寝になったらしい。

1978年9月25日
福田首相の上奏の間にお休みになったことについて昭和天皇がお気にしていらっしゃる。
「手紙でよく話しておきましたから御安心遊ばすよう」と申し上げておく。

1978年10月3日
昨日杉村侍医が昭和天皇に「良子皇后の御回復が予期に反している、機会でお伸ばししたり電気療法をしたりする必要がある」と申し上げた由。
昭和天皇は「今まで他の者から聞かされていたのとまるで違う」とお怒りになっている。
退下して、西野侍医長・徳川侍従次長に杉村侍医の独走のこと打ち合せ。

1978年10月4日
昭和天皇「昨日、西野侍医長から聞いて安心した」との仰せ。

1978年10月7日
昭和天皇から、良子皇后になぜ国賓・公賓などの食事に出ないのかということを徳川侍従次長と北白川女官長でよく申し上げては、忘れるが何べんとなくやってみてはとの仰せ。

1978年10月9日
昭和天皇が、良子皇后の実情をもう少し発表するわけにはいくまいかとおっしゃる。

1978年10月17日
昭和天皇から杉村侍医のこと。
「私ももう辞めてもらいたいと言っていると告げてもいい」とまで仰せ。

1978年10月23日
鄧小平夫妻と御会見。
良子皇后はもうどこにお座りになるべきかもおわかりにならない。

1978年10月25日
昭和天皇から、人に良子皇后の御容態を聞かれた時、どう答えるべきかの問題を相談しておいてくれとの仰せ。

1978年11月16日
昭和天皇から杉村侍医のこと、すっかり言ってもいいから何とかしてくれとの仰せ。

1978年11月18日
杉村問題、東宮侍医星川光正と交代させたらという案を話し合う。

1978年12月28日
打ち合せしておいた通りで簡単に決まる。
すべて何の御異議もなく、
ことに「元始祭はやめにしよう、するとなれば座る練習もしなければならないから」と仰せになったとかで、御体力の衰えを御自覚になったのではあるまいかといくらかイヤな気もするが、それが御本音だろうということになる。

1978年12月31日
杉村侍医問題はとうとう年内に片づかず。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1978年6月18日
昭和天皇、昨夜の植樹祭のビデオに関し御不満。
ビデオを拝見し問題部分を探求するも、全体として悪い感じはなし。
「御高齢でお疲れ」とか「明仁皇太子にお任せになっては」などが問題点か。

1978年9月22日
昭和天皇に上奏書類を願いたるところ、御眠気激しくしばしば中断。
御署名も最悪、衤(ころもへん)が礻(しめすへん)になり、つきっきり。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1978年1月17日
常陸宮夫妻御参内。
御食後〈お能カルタ〉
お能の曲名を漢字で書いたものが取り札、万葉仮名で書いたものが読み札。
昭和両陛下なかなかお上手。
漢字で読めないものもあり、昭和両陛下はお慣れになっている。
源平に分れ半分の50枚を取った。
時間が短く物足りなかった。

1978年7月10日
信任状捧呈式。
インド大使の来日経験についてあらかじめ聞いておくことを忘れ、昭和天皇からその点につき御尋。
慌てて入江侍従長に聞いたがわからず、式部長官に聞いたところ「よくわからぬが、あれに書いてないから多分ないだろう」とのことだった。
そのむね申し上げたが、昭和天皇がそのむね大使におっしゃったところ、「数年前に一週間ほど滞在したことがある」とのお答えで、話が違ってきた。
終わって昭和天皇にお詫びしたが、「ん」とおっしゃってお笑いになった。
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『入江相政日記』侍従長

1979年1月3日
元始祭。
富田長官から、御参内の皇族方、特に高松宮に今日の御祭の御親拝は御無理ということを言ってもらう。

1979年1月4日
昭和天皇の御仕事を大幅に委譲なさるべきだという読売の記事について、
昭和天皇は「私は一応楽になるにしても、美智子の負担が重すぎ参ってしまうことになる」と仰せになる。

1979年1月23日
昭和天皇から「侍医杉村昌雄がまだいるがどうしたのか」との仰せ。

1979年1月30日
徳川侍従次長・侍従山本岩雄で杉村侍医に言い渡した由。
そしたら、「午後一時に返答する」と言った由。
午後一時に山本侍従に「二日待ってくれ。信頼する人と相談するから」とのこと。
徳川侍従次長が「そうは待てない。構わず発令してしまう。明日の朝、電話で返事しろ」と言い渡した由。

1979年2月2日
山本侍従、杉村侍医とやり合った由。
宇佐美前長官・西野侍医長・入江侍従長が自分の罪をごまかすために杉村を人身御供にあげたと。
西野侍医長は病院で碁ばかり打ち、入江侍従長は方々で御馳走にばかりなっている。
いま名を挙げたら君たちが震え上がるような人に相談しているが、まだ返事が来ない。
辞表なしに配置替えができるはずがない。
山本さんは入江侍従長・徳川侍従次長と違いいい人かと思っていたら駄目とか。

西野侍医長も加わり、もし当直を強行したらどうするか、警察力を使ってでも阻止するかなど話題として最低。
しかし大いに笑う。
杉村侍医、驚いたことに自車で吹上に乗りつける。
すぐ庁舎に呼び、徳川侍従次長・山本侍従から話す。
結局、辞表を出すことを承知。

1979年2月3日
昨夜杉村侍医から山本侍従に電話。
宇佐美前長官・西野侍医長・入江侍従長の詫び状を出せとか、退官の条件を公文書で出せとか言った由。
昭和天皇に申し上げ、「みんな御苦労だった」との仰せ。
吹上の西野侍医長から電話。
良子皇后の御腰のレントゲン写真を吹上に届けて西野侍医長に説明すると言ったのを断ったとか。
馬鹿な話が続く。

1979年2月5日
杉村侍医を呼んで辞表を書かせることになる。
しかし杉村侍医は山本侍従の部屋に来てはいるが、どうしても辞表を書かないとのこと。
行くと、怒ってわけのわからぬことを言っている。
役所として示せる採集条件は、
●4月1日退官
●その日拝謁
●適当な時期に御相伴
●退職金2,700余万円
しかし明日正午に来て辞表を書くと言って聞かない。
到底信用できないと言って、あらかじめ書いてある辞表に署名捺印させる。
「三人に悪いことがありますよ」との捨て台詞で帰って行く。
徳川侍従次長、かつて録音盤を入れた金庫にこれをしまう。

1979年2月6日
昭和天皇に辞表のこと申し上げる。
すっかり御安心、「みんな御苦労だった」との仰せ。
今日の昼はこの話題をめぐって大笑い。

1979年4月2日
杉村侍医退官。
杉村侍医、よもやと思ったのに「今度のことは私の意志によって辞めたのではございません。特に非常に残念でございます」と申し上げた由。
昭和天皇は「『特に非常に』と言うところに力を入れていたよ」とおっしゃる。
「退官の時には誰でもいろいろの思いがあることはわかっているが、こんなことを言った人は初めてだ」との仰せ。
富田長官・西野侍医長・山本侍従に報告、みなあきれる。

1979年4月11日
御進講。
昭和天皇も御口パクパクの御癖もなく、ゆったりお聞きいただいている。
やはり杉村侍医問題が片づいたこともあろう。

1979年4月13日
昭和天皇から「杉村侍医の後任が決まらないのは、杉村の妨害によるものか」との仰せ。
「後任の後任が決まらないだけ」と申し上げ、御安心願う。

1979年4月18日
後任の侍医星川光正が良子皇后のレントゲン写真を見た結果、「だんだん良くなった」と言ったことにつき、昭和天皇は「杉村は残らんがために悪くなったと言ったんだろうか」との仰せ。
「みんなもまったく同様に思う」むね申し上げる。

1979年5月25日
スウェーデンのベルティル王子夫妻と会見。
北白川女官長と御供。
せっかく御言葉うまくおっしゃったのに、
お出になってすぐ「良かったか?」とおっしゃるので、「人がおります」と突っぱねる。
北白川女官長あとでころげて笑う。

1979年7月26日
昭和天皇から「杉村はまだいろいろやっているということだが、国会で問題になるようなことはないか」とのお尋ね。
「いまだに侍医杉村という名刺を持ち歩くということ以外は、当方に関係のないことであるから御心配はいらない」と申し上げる。

1979年12月31日
杉村侍医に退官してもらうについて大骨を折った年である。
彼にははじめから言ったように、
「こうなったらアッサリ辞めること。そうすればいつまでもこちらに来られるし」と言った。
彼はそれがわかりもしたろうが、院長にはまったくわからず、ことごとく逆に出てきた。
そのためみんな不快の念を抱き、結局彼の30年の勤め、その中には功績もあったかもしれないのが、まったくフイになってしまった。
昭和天皇の御口パクパクの御癖も良子皇后の御情態についての御軫念から来ているものと思ったのに、杉村の退官後まったく御癖はお出にならない。
長年の間よほど根深いものがおありになったものらしい。
とにかく4月以降はすっかりさっぱり遊ばし、御気分は極めてよろしい。
最近長年の間なかったことである。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1979年1月30日
侍医杉村昌雄に退職か配置替えかで最後通告が行われた模様。

昭和天皇シルクハットが合わないとの仰せ。
庁舎に戻りお手持の絹帽の寸法を測る。
ずいぶん違いがあることがわかる。

1979年2月2日
侍従山本岩雄から杉村侍医問題の経緯につき説明。
昼食時もその話題で持ち切り。
夕刻侍医西川一郎・侍医冨家崇雄、こちらへ退避。
杉村侍医吹上に出現との報。
庁舎に呼び返され説得の結果、辞表提出を飲み一応退庁し落着す。

1979年3月3日
西野侍医長から杉村〔侍医〕空襲につき電話。

1979年4月2日
杉村侍医退職、一件落着。

1979年4月7日
食堂に入江侍従長・徳川侍従次長・西野侍医長ら全員集合。
杉村問題の経緯につき反復、記録を取る。

1979年8月15日〔全国戦没者追悼式〕
式典にて、良子皇后取り残されるハプニングあり。
記者クラブもこの件 取り上げる。

1979年8月18日〔那須御用邸〕
東宮侍医星川正光、良子皇后を拝診。
御足の筋肉も全体的にもろくなっており無理はきかない、星川侍医から直接病状につき申し上げる。

1979年9月14日
昭和天皇より、三笠宮寛仁親王に関して、竹田宮や山階宮が若年の頃グレた話を御引用。

1979年10月23日
昭和天皇お帰りの際 御車寄で踏み外し、御膝に擦過傷。
ズボンも敗れる、大事なし。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1979年6月1日
御夕食前に良子皇后がキジらしき血の乾かない頸部の肉が露出した鳥の足をお持ちになって、御座所にお呼びになった。
「昭和天皇から何の鳥か調べるように」との仰せで、お預かりして候所に帰り、明日庭園に聞くように仕人に言って新聞紙に包んでもらった。
頭部も内臓部分もなく、頸部だけあるひどいものだった。

1979年6月24日
昭和天皇より「月曜の晩餐の前に生物学御研究所はノンキすぎるという批判はないか?また疲れるとか言われるがどんなものか?」との御尋あり。
前者については全くを気にする必要はないこと、後者については昭和天皇御自身の御気持のことで何とも申し上げられないと申し上げた。

1979年8月15日
全国戦没者追悼式。
昭和両陛下ひな壇中央にお進みになるべきところ、橋本厚相の先導でお進みになったのは昭和天皇お一人であった。
一同アレッと驚いたが定位置にお立ちになった昭和天皇は良子皇后がおいでにならないのでちょっと左側をお向きになった。
橋本厚相は先導御 下がってしまったが、後はテレビに入らなかった。
協議して昨年来の御足肉離れでびっこお引きになっていたのは衆目の一致するところだから、お痛みでためらっていらっしゃったということにした。

1979年8月29日
天皇天皇の記者会見、いろいろ質疑がある。
東宮時代のヨーロッパ御旅行の思い出・印象深いこと・ジョージ5世の立憲政治のあるべき姿の話はその後の指針となったこと・赤坂離宮新婚時代の思い出・浩宮の将来についての御考などを伺う。
また終戦直後の食糧難時代当時の松村農相の著書にあること、すなわち昭和天皇が皇室の御物を代償にGHQに食糧を求めたらどうかと提案なさったことの真偽を問うたことについて否定なさらなかった。自分のしたことだからと積極的に御話にはならなかった。
浩宮のことも将来立派に成人することを期待していると極めて簡単で、記者は不満らしかった。
記者との懇談会。
御会見の感想としては「昭和天皇に完全にしてやられた。簡単すぎたし、エピソードのみで、これといった盛り上がりがなかった」ということのようである。

1979年10月23日
昭和天皇宮殿からお帰りの際、宮殿御車寄外側の段を踏み外されて、2,3歩前に出て両手とヒザをおつきになり、右膝下のズボンが少し破れた。
すぐ御車をお呼びしようとお勧めしたが、何度も大丈夫とおっしゃり、結局お歩きになった。

1979年12月14日
側近一同御相伴。
一同で昭和両陛下に鰻を差し上げるということで催された。
入江侍従長が挨拶。
「今年の御行事も終わりに近づき、昭和両陛下には御機嫌麗しく恐悦至極。せめて鰻でも差し上げようと思ったが、それもおんぶで形をなさなくなってどうにも御挨拶のしようもない」と。
利根川の自然のものとか。
昭和天皇は鰻をすっかり召し上がった。
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『入江相政日記』侍従長

1980年1月11日
侍医星川光正、良子皇后の御腰拝診。
脊椎骨には御異常なく、骨盤の肉離れとのこと。
よかった。
昭和天皇は「星川は〔前の侍医〕杉村昌雄と違って非常にハッキリしていていい」との仰せ。

1980年1月30日
西野侍医長・侍従山本岩雄に、一昨日侍医冨家崇雄が昭和天皇に良子皇后の御腰のことにつき申し上げたが、あんまり本当のことを申し上げないようにと述べる。
山本説は、冨家侍医は昭和天皇に的の真ん中を射て申し上げるからいかんと言う。
その通り。
西野侍医長は、冨家侍医は軍医の息子として昭和天皇に大きな憧れを持っているので、しっかりしていただきたいという気持ちだと言う。
くだらぬことである。

1980年4月29日
昭和天皇の御誕辰。
来年は80歳におなりになる。
もっともっとやっていただかなくちゃ。
お側に出た時、私は29歳、昭和天皇は33歳。
さまざまなことがあった50年だった。

1980年6月4日
昭和天皇から、西川侍医のことを仰せ。
「あれはドギマギするから」

1980年8月15日
全国戦没者追悼式。
中央にお進みの時、徳川侍従次長が良子皇后の御介添に行き、昭和天皇に続いてお進みになるよう再三申し上げたが、なかなかお進みにならない。
やっとお立ちになったが、真ん中で止まっておしまいになった。
もうどうにもならない。

1980年12月31日
昭和天皇はすっかり御気分よくお過ごしで、国賓級の人々がみんな喜んでくれる。
社会党の石橋政嗣の母上が昭和天皇のことをいつも心にかけていると言うし、共産党の宮本も昭和天皇の御在位中は何もしないし、できないと言ったとか。
なんとかみんなでお守りして、いつまでもいつまでも御機嫌でおいでいただかなければならない。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1980年1月3日
元始祭。
御告文が三殿であるところ、掌典長が皇霊殿で差し上げるのを忘れたらしく、お帰りになるや否や
「掌典長、間違ったね」とおっしゃり、
しばらくして「高松宮、今日来ているだろうか?わかるとよくない」と。
「お見えになっていないのではないか、見えていたとしても御声は届かないと思います」とお答えした。

1980年1月10日
歌会始の儀。
昭和天皇は30分ぐらい経ってからお眠りになり始めたという。
入江侍従長の足踏みも効なく、御体が少し傾くくらいだったらしいが、幸いテレビには映らなかった。
朝、濃いお茶を召し上がらなかったという。

1980年2月19日
3宮様御参内、晩餐。
高円宮の金婚式の御祝のため、秩父宮・高松宮・三笠宮5方おいで。
大食堂からのお戻りの際 高松宮は良子皇后の御手をお持ちだったが、
高松宮が「昭和天皇がお焼きになるから」とおっしゃり、みなさま大笑い。
昭和天皇がなさったらということで、昭和天皇が良子皇后と御手をつないで御談話室にお戻り。
大変ほほえましい、珍しい情景だった。

1980年5月19日
夜、中国映画『桜』鑑賞。
ハッピーエンドではあるが、わかりにくい。
昭和両陛下には字幕は無理。

1980年5月27日
華国峰首相との御引見にあたり、昭和天皇は先方に日中戦争は遺憾であったとおっしゃりたいが、富田宮内庁長官・式部長官はいまさらということで反対の意向とか。
入江侍従長は結構という意見らしいが、富田長官などの反対は右翼の動きが気になるためという。
しかし国際的に重要な意味を持つことに、右翼が反対しているからやめたほうがよいというのではあまりに情けない。
構わず御考通り御発言なさったらいい。
大変良いことではないか。

1980年7月29日
映画『二百三高地』鑑賞。
肉弾相打つ凄まじさ。
昭和天皇には刺激強すぎて感心しない。

1980年8月15日
全国戦没者追悼式。
良子皇后は昭和天皇の2~3メートル斜後方でおとまりになってしまい、柱前の昭和天皇の横にいらっしゃらなかった。
最後までその場で黙祷。
御言葉終了までお立ち、昭和天皇の後から御席にお帰りになった。
記者には「良子皇后はお控えになっていたのだろう」と答えることにしたという。
今年から御言葉が口語調に改められた。
他の御言葉の調子と同様にするため、かねてから文語調に外部の批判があったものである。

1980年10月2日
御稲刈御練習。
親指上小指下が正しいのに昭和天皇の左手の握り方がいつも逆になっているので、外部からの投書があった。
従来から投書などで指摘されていたものであるが、今年から正しく願おうということになり、御練習いただいた。

1980年11月23日
新嘗祭の夕の儀がひどく遅れたことについて後で采女に聞いたところ、昭和天皇がお眠りになって進行ままならなかったという。
昭和天皇は御召替後10分足らずの間にお眠りになってしまい、お手水もなさらずお出まししそうになった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1980年1月10日〔歌会始の儀〕
昭和天皇の御様子気になる。
御眠気で入江侍従長の〔目覚ましの〕足踏み始まる。

北白川女官長から良子皇后の御腰につき、レントゲンの遅れ・侍医の怠慢を詰め寄られる。

1980年2月1日
オランダのユリアナ女王の退位声明を御覧に入れる。
昭和天皇「妙な時に辞めるんだね」と仰せ。

1980年2月10日〔須崎御用邸〕
御居間の窓にアオバト衝突あり。
昭和天皇には内緒。

1980年6月13日
三笠宮寛仁親王、御婚約の御礼。
「外見だけでなく明治天皇の精神を見習う。テレビなどでウケのよい話などを慎む」の二点。

1980年8月15日〔戦没者追悼式〕
良子皇后、徳川侍従次長の御介添もむなしく、出遅れて途中でお立ち止まり。

1980年11月29日
杉村元侍医による週刊サンケイ連載拝診記は良子皇后腰痛のことに触れ、入江侍従長・徳川侍従次長攻撃の態。
差し止めもきかずとか。
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『入江相政日記』侍従長

1981年4月23日
昭和天皇が良子皇后の欠席〔腰痛を理由にした公務欠席〕について富田長官から説明した通りで異存ないが、新聞記者がそれでも承知しないのなら、みなぶちまけちまおうかと仰せになる。

1981年7月23日
昭和両陛下、豊島岡の照宮御墓所に御拝の御供。
良子皇后 御玉串を掌典にお下げにならず、御自身で奉奠。
記者連にはわからなかったろう。

1981年8月1日〔那須御用邸〕
〔この日 昭和天皇は発熱で休み〕
北白川女官長に「良子皇后の御運動は?」と勧めたら、大不機嫌。
「警察が知る」と。
警察なんかには言わない。
「昭和天皇の御看病を遊ばさなければならない方が御散歩では、女嬬や雑仕がどうかと言う」と。
そんなのみなわかってるじゃないか。
もともと昭和天皇と離せと言うから考えたんじゃないか。
喧嘩別れ。

1981年8月2日〔那須御用邸〕
今日は北白川女官長の方から折れて、良子皇后の御散歩を言ってくる。
侍従卜部亮吾と一緒に御供。

1981年8月15日〔戦没者追悼式〕
今年は良子皇后の行啓がないので気が楽である。
しかし思えば、去年までよく行啓に踏み切ったものだった。

1981年8月18日〔良子皇后のみ那須御用邸に残る〕
昭和天皇、大変御元気。
良子皇后をおかばいになる必要がなく、なんとなくさっぱりしていらっしゃるようとみんなの感想。

1981年8月19日
富田長官に、昭和天皇も良子皇后もしばらくお分れの方がそれぞれ御都合よく、両方極めて御機嫌のむね言っておく。

1981年10月15日〔滋賀京都巡幸〕
京都に入ってから鴨川を渡り旧久邇邸を御覧に入れたが、肝心の良子皇后大した御感興なし。
でもこれで昭和天皇のお望みは通った。
東本願寺の夫妻〔良子皇后の妹夫妻〕返事もせず来もせずひどいもの。

1981年12月22日
昭和天皇に、内藤君からの四男大谷暢道を宗門の裁判にかけるという電話の件について申し上げる。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1981年7月31日〔那須御用邸〕
昭和天皇御発熱37.8度で緊急協議。
原因は御風邪ではなく腎盂炎によるものと判明。
昨年3月以来のこと。

1981年10月8日
侍医冨家崇雄に対して、定年法からみて退職勧奨。
わりあい穏やかな話し合い。

1981年11月28日〔葉山御用邸〕
ベランダから提灯行列にお応え。
続いて海上の満艦飾、さらに花火大会御覧。
昭和天皇「久しぶり」と大満悦。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1981年2月28日
良子皇后のお誕生日の御写真を試写室でみる。
約2分半、編集前のもの。
魚を描いたものを前にして、絵筆をお取りのもの。
絵には全くお触れにならず、絵筆に絵具をおつけになるだけで、大変不自然。
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『入江相政日記』侍従長

1982年1月27日
鷹司平通さん17回忌につき、久々で孝宮和子内親王の所。
お喜び、御機嫌だった。

1982年3月23日
昭和天皇より、「富田長官は皇室評論家4人について悪く言っていたが、それより元東宮侍従浜尾実の方がずっといけない」との仰せ。

1982年4月8日
昭和天皇から、御外遊のことにつき明仁皇太子との割り振りのことなどいろいろ仰せ。
大いに意欲がおありになる。

1982年4月28日
週刊新潮に元侍医杉村昌雄が〔那須御用邸で痛めた〕良子皇后の御腰は東京で御治療申し上げようと思ったのに、侍従長のメンツにかかわると止めたので、お治りにならなかったと書いてある。
こういうデタラメは全然こたえない。

1982年6月8日
高松宮が去年以来 御返事していなかったのを蒸し返してこられた。
御陪食の時の皇族の服装を背広ではなくモーニングにしたらとの件。
宮様方がモーニングになると昭和天皇御一方が御背広になってしまう、昭和天皇は御背広・モーニング、モーニング・御背広と御召替が大変だから、宮様方は御背広で昭和天皇を守ってあげていただきたいと申し上げた。
昭和天皇は「あの対応は非常によかった。あれでわからなけりゃもっと強く言え。宮様方は暇だから勝手を言う。もう少し実情を調べて言え」との仰せ。

1982年6月15日
進講。
のべつにおあくび、お眠そう。
昨夜また良子皇后が昭和天皇をお起こしになったか。

1982年6月24日
植さんに久邇宮家への賜金を渡す。

1982年7月19日
明け方、昭和天皇がお吐きになったとか。
星川侍医は、どうも御睡眠不足のためらしいと言う。
御厠所がおわかりにならない良子皇后が昭和天皇をお起こしになるためではないかと思われる。
御寝所を別にしたので、もう大丈夫。

1982年8月13日〔那須御用邸〕
昭和天皇、御熱7度6分、御脈100以上。
戦没者追悼式はおやめになる他なかった。
昭和天皇から「8月15日はどうなったか」との仰せ。
「明仁皇太子御名代、美智子妃はただ御供、したがってごゆっくり御養生を」と申し上げる。

1982年8月14日〔那須御用邸〕
昭和天皇ちょっと御機嫌悪く、
「私が外遊の時に東宮ちゃんがやった時のように、何も言葉は言わないんだろうな」との仰せ。
すぐ東京に連絡。
侍従卜部亮吾が富田長官そのことを言ったら、ギョッとした由。
卜部侍従曰く「そういうことがわかっているから侍従職ははじめから消極的だった」と言っていた。
そして御言葉も用意していたのに、願わないことにした由。
つまらないことである。

1982年8月15日〔那須御用邸〕
昭和天皇はどうも胆嚢炎ではないかとのこと。

1982年9月4日
西野侍医長から電話。
杉村侍医が文春にさんざん書いたと、宇佐美前長官・入江侍従長・徳川侍従次長・西野侍医長の四人組をやっつけたとか。
文春はそれに異議あらば機会を与えると。
冗談じゃないよ。
愍殺あるのみ。

1982年9月9日
広告によると杉村侍医の発言、週刊文春にも出てる。
『良子皇后の御腰を悪くした君側の奸は誰か』
月刊にも週刊にもとは、文春も落ちぶれたもの。

1982年10月7日
富田長官が記者に杉村侍医のことを言い、記者は何らかの形で書くと聞いていたのに、富田長官シュリンク。
さらに叙勲を取り計らって取り静めたらなどいう由。
沙汰の限りの弱気である。
愛想が尽きた。

1982年10月18日
万全の策を取ったにもかかわらず、良子皇后はすっかり変わっておしまいになった。

1982年11月1日
進講。
途中からお眠くなる。
テーブルの脚を蹴っ飛ばしたり咳をしたりしても駄目で、久しぶりでお起こしに行く。
あとはシャンとしていらっしゃった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1982年2月13日
良子皇后の幻覚で御前に出る。

1982年3月5日
良子皇后の幻影発生。

1982年5月27日
元侍医杉村昌雄の本、間違い目立つ。

1982年6月21日
元侍医杉村昌雄のマスコミ活動につき協議。

1982年7月9日
入江侍従長・徳川侍従次長から先般の皇族会議の話を聞く。
主題は富田長官追い出しとか、麻生太郎や田中六助などが動いているとか、まさに昭和天皇の御気持を逆なでするような話。

1982年7月23日〔那須御用邸〕
三笠宮寛仁親王、鳥羽行中止とのこと。
昭和天皇、御安堵の御様子なり。

1982年8月13日〔那須御用邸〕
昭和天皇御発熱のため、戦没者追悼式は明仁皇太子の御名代。
富田長官から認証式も明仁皇太子代理で検討するよう意外な指示。

1982年8月14日〔那須御用邸〕
昭和天皇に認証式代行について申し上げたところ、反対はなさらないがお進みでない御様子。
さらに「御言葉はないだろうね」との念押し。
当然予想された事態。
国事行為への立ち入りは禁句なのに。

1982年8月15日
侍医星川光正によると胆嚢炎の疑いありとのこと、少し長引くやも。

1982年9月4日
文春の元侍医杉村昌雄の退職経緯記事につき無視すること。

1982年9月13日
食堂にて入江侍従長・徳川侍従次長・西野侍医長と杉村元侍医の問題につき事実確認整理をする。

1982年10月7日
杉村元侍医問題の発表について、表は消極的。

1982年11月12日
三笠宮寛仁親王、昭和天皇と10分足らずの御対面。
堅い表情でさっさとお帰り。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1982年5月9日
昭和天皇、三笠宮寬仁親王のこと(皇室離脱宣言)で御心痛の御様子で、今朝も靴下をお履きになりながらしばらく考え事でじっとなさっていたり、御食事中も御手をしばらく動かさなかったりなど、考え事が多いように見受けられたとのこと。

1982年7月18日
昭和天皇、御風邪のため御床。

1982年7月19日
昭和天皇、夜お吐きになったのも風邪のためとわかったのだが、昨日一日の御容態は悪化することもなく推移した。
昭和天皇は「良子が御東所(トイレ)がわからないと言って起こしたので、起きたところ吐き気がしたが、吐いたら治った」とのこと。
その間良子皇后は寝台に腕をついて横になり、ニコニコお笑いになっていた。

1982年8月16日
昭和天皇の御容態、胆嚢炎らしいと。マル秘。

1982年10月2日
島根国体行幸。
一同赤い羽根を衿につけることになり、昭和天皇にもお願いしたところ、
「宇佐美宮内庁長官の時はつけないことにしたのに、なぜ急につけることになったか」と仰せあり、ギャフン。
慌てて羽を取って出発した。
やはり思いつきのことはよくない。

1982年11月5日
良子皇后、ホールにさまよう。
内舎人・仕人から、良子皇后ホールにおいでになり、お持ちの写真について側衛に何か御尋になっていると知らせがあり、急いで出た。
御居間の方にお帰りいただき用向きを伺ったが、昭和天皇から裏に何か書くようにおっしゃられたらしいが要領を得ない。
侍従がお相手していることをおわかりでないらしい。
階段下ホールでお話していたところ、昭和天皇がおいでになったのでお引き取り願った。
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『入江相政日記』侍従長

1983年1月12日
講書始。
途中でお眠くなる。
薬を差し上げるのが30分遅かった。

1983年1月14日
歌御会始。
今日は9時半に薬を差し上げた。
ちょうどよかったと見えて大変しっかりしていらっしゃった。

1983年2月2日
良子皇后「自動車の前に子供が乗っている。危ないのに、よく落ちず乗っている」と仰せ。
こんなことは初めて。

1983年2月12日
富田長官来室。
昭和天皇が御祭を軽視遊ばしているようになっては大変につき、なんとか考えてくれとのこと。
かえすがえすも永田という思慮なき人のために大変な御迷惑をお受けになること、腹が立って仕方なし。
〔1982年12月掌典補永田忠興が学界に『宮中祭祀の一考察』を発表、宮中祭祀に重大な変更が行われているとして警鐘を鳴らす〕

1983年2月17日
御祭軽視という批判を避けるため、春季皇霊祭、神殿祭だけ最後に御親拝を願えまいかという件につき相談したが、みんな反対。
この間の良子皇后のエスカレーター事故のようなことが起きても知らないというみなの意見を述べる。

1983年3月29日〔須崎御用邸〕
記者とお会いになるのは寒いので御車寄でということになる。
なごやかでよかった。
ただ「良子皇后と御話遊ばすか」という伺いに対して、
「腰の方は落ち着いているが、全体の健康がよくないので」とおっしゃる。
暗におつむり〔頭〕のことをおっしゃったのだが、もっと〈おはして〉〔話して〕おしまいになって方がよかった。
後で「ああいうことを聞くから困る」とおっしゃっていた。

1983年5月6日
徳川侍従次長から週刊新潮の例の新興宗教と良子皇后の経過を聞く。
〔週刊新潮1983年5月5日号『皇后陛下を巻き込んだ新興宗教の錚々たる信者』
昭和40年代に香淳皇后は姪久邇正子の勧めで〈大真協会〉を信仰するようになったという記事〕

1983年6月3日
昭和天皇から、浩宮御留学につき、秩父宮の留学・三笠宮寛仁親王の留学がうまく行かなかったこと、久邇宮との複雑な因縁をなかなかわかってくれないとか、浩宮が帰るまでの二年間生きていられるかなど、クヨクヨしたことをクドクドとおおせになる。

1983年7月1日
富田長官より、今年新嘗祭を願えないかとの話。
また困ったことになった。

1983年8月14日
週刊新潮の人電話。
元侍医杉村昌雄の墓碑銘を書くにつき意見をということ。
「誠に気の毒だった」としか言えないと言ったが、先方は一人で入江さん方を君側の奸と言っているのに、入江さん方が黙っておられると彼らの言い分の通りになってしまうと言う。
なっても構わない。知る人ぞ知る。
ことに死んだ人のことをとやかく言いたくないと言い張って終わる。

1983年9月8日
昭和天皇、沼原の木道、すり足でお進み由。

1983年9月28日
三笠宮容子内親王の朝見。
良子皇后まるで変っておしまいになった。
記者が見ているので困る。

1983年12月13日
昭和天皇が中川融〔浩宮オックスフォード留学の主席随員・元国連大使〕に、
「秩父宮も三笠宮寛仁親王もオックスフォード留学は失敗だったが、浩宮の時はそんなことがないように」と仰せになったことにつき、
中川さんが「三笠宮寛仁親王のことは十分わかるが、秩父宮のはどういう御意味か」と言っていた由。
三笠宮寛仁親王は駐英大使平原毅に手紙を出して、浩宮がいろいろな人にお会いになるよう、それを大使館が妨げると言われたことも聞く。

1983年12月22日
植さんに久邇宮家への賜金渡す。

1983年12月28日
昭和天皇が「秩父宮のオックスフォードの教育は失敗だった」と仰せの件伺う。
つまり不十分だったのと、秩父宮の性質によるが、参謀総長閑院宮載仁親王をダラ幹と言い、当時の軍の勢いに乗ったことなど、との仰せだった。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1983年1月20日
黒木東宮侍従の急逝の由 知り驚く。
死に場所がトルコ風呂ということで週刊誌など取材の動き。

1983年4月26日
週刊新潮に良子皇后と新興宗教の記事。

1983年5月6日
〔御養蚕始の儀〕
良子皇后の御所作、ほとんどお迷い。

1983年6月6日
昭和天皇よりお御足の不安につき、御幼少時の上半身の揺れ、貞明皇后が御心配になり電気療法など拝聴する。

1983年6月23日
洋楽演奏会に久邇宮正子女王陪聴のこと。
大真協会〔久邇正子の信仰〕のこともあり、良子皇后との接触は避けねば。

1983年7月15日
パキスタンに関して梁井大使の御進講。
おあくび連発でヒヤヒヤ。

1983年8月16日
侍医大橋敏之から、昭和天皇のの痺れにつき見解。
マッサージの必要から、看護婦長伊藤敦子を派遣することに手配。

1983年8月17日
昭和天皇が三殿御拝について永田発言〔式部官永田忠興〕を御心配。

1983年9月22日
週刊文春にまた杉村元侍医記事
〔最後の拝謁で私は陛下に直訴した~死後発見された天皇元侍医杉村昌雄の憤怒の手記〕
都合の良いことだけよく書けたもの。

1983年9月28日
三笠宮容子内親王、朝見の儀。
案じられた通り、良子皇后の御所作すべて具合悪く冷や汗。

1983年9月29日
週刊文春の杉村元侍医の記事、事実と違う点をチェック。

1983年10月5日
昭和天皇より、杉村問題につき高田侍医と八田侍医頭の引用を御示唆。

1983年12月14日〔須崎御用邸〕
昭和天皇が御用でいらっしゃらないと良子皇后さまよい、久しぶりにピアノの音。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1983年1月3日
高松宮御誕生日につき、昭和両陛下と御談話室で御対面。
例年30分くらいのところ今年は大変長い。
昨夏以来ヘルペスで公式行事には御不参の美智子妃のこと、(皇室離脱宣言をした)三笠宮寛仁親王のことなどがあったからか。

1983年3月29日
国内記者御会釈。
御車寄内、お立ちのままオフレコで自由に。
「良子は腰が悪く健康状態が良くないので、あまり話もない」というようなこと御答になったことが後で記者の間で問題となり、総務課担当者がどういう趣旨だったのか侍従から説明してほしいと言ってきた。
入江侍従長・侍医長と相談の結果、
「良子皇后先ごろ宮殿でお転びになったあと御膝などかなりお痛みがあったので、そのことについて御心配になっての御会話が多く、その他の事についてはあまりないという趣旨である」ことを小生から記者団に説明し納得してもらった。

1983年5月30日
ネクタイお忘れ。
昭和天皇も「小林も気がつかなかった」と女官におっしゃっていたというが、全く気が抜けない。
気づかなかったとは我ながらおそまつ。

1983年7月25日
今暁3時前後、良子皇后をお東(トイレ)後 廊下でお迷いでなかなか寝室にお戻りにならなかったらしく、昭和天皇がお探しで女官をお起こしになり、「なぜ鍵をかけておかなかった」とお叱り。

1983年8月9日
昭和天皇、御夕食のとき御箸をよくお持ちになれず度々お落しになり、揃えるのに卓にトンとおつきになった。御飯もよくおこぼしになったと。
悪い前兆でなければ良いがということであろう。
お疲れのせいでもないらしいが心配だ。
御格子(就寝)前に侍医が伺ったところ、右親指が少し痺れるとのことで拝診したが、大したことはなさそう。

1983年8月11日
昭和天皇、上腕のあたりから感じがよくないらしい。
看護婦が来るのを心待になさっている御様子。
マッサージでもおさせになるおつもりか。
侍医が何も処置しないのはおかしい。
徳川侍従次長が侍医に何かしてあげるように頼んだので、やっと薬をお塗りした。
しかもすぐにではなく、御格子(就寝)の時に。
北白川女官長・女官らが交代で参邸したが、星川光正侍医のやり方に大いに不満。

1983年8月12日
昭和天皇は看護婦のマッサージをお望みらしいが、星川侍医はクセになるからなさらん方がいいと取り合わない。
クセになっても良くなるならよいではないか。

1983年8月22日
昭和天皇那須においでになってから、毎日午前と午後1回ずつ約15分ぐらい看護婦が右手のマッサージをしてあげている。
根因については侍医の中でも意見一つでないようだが、9日頃から時間も経っているのに進行する様子がないので、局部的なものだろうというのが伊東貞三侍医の意見。

1983年8月29日
昭和天皇の痺れほとんど良くおなりで、マッサージが効いたらしいと。
良子皇后の御足の腫れも大変良いとのこと、何より。

1983年9月5日
昭和天皇、散歩・御調査。
坂道のお進みが容易でなく、すぐ後ろでメモ取りと注意で緊張した。
最後の広い坂道で足を半分お踏みはずしたため、右側におよろけになった。
急ぎ支えたが間に合わず、後ろに尻をお着きになるように倒れ、小生の上に重ね餅。
何事もなくて幸いであった。

1983年9月28日
三笠宮容子内親王の朝見の儀。
良子皇后の御言葉なかなかお読みになれず尻切れ。
酒盃御口につけず御箸お立てならずうやむやなど散々の態であった様子で、記者連中注目の中でいよいよ老衰状態が知られてしまったという。
これから記者への対応どうするのか、もう誤魔化しきれないと思う。
かえって良いのかもしれない。
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『入江相政日記』侍従長

1984年10月19日
昭和天皇、朝から御風邪気。
女官久保喜美子が星川侍医長に話したが、「自分は外科だから夕方内科が来たら」など言ったので、
「そんなこと言わないで診察してくれ」と頼む。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1984年1月18日
御結婚60年の御感想案を作成。
昭和天皇から伺った、「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」という御感想にギョッとする。

1984年4月5日
御進講。
昭和天皇、薬の効き目なくお居眠り。
入江侍従長ゆすりにハラハラ。

1984年12月14日
東宮侍従曽我剛より、紀宮清子内親王が映画『風の谷のナウシカ』御所望とか。
東映の浜田氏に相談。

1984年12月15日
良子皇后、御署名なかなかお書きにならず時間かかる。
御眼鏡なく悪戦苦闘。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1984年1月10日
講書始の儀。
主要行事の前夜は十分お眠りいただくため、御寝室を別にし御格子(就寝)も約30分ほど遅らせ10時とすることになり、昨夜からそのようにすることになった。
また今日の儀の前に眠気覚ましのための薬を差し上げることになった。
その結果は上々で大変好結果となったので、明後日の歌会始の儀の時も同様にしていただく予定。

1984年4月20日
上奏物の御処理。
お昼寝なしで、お眠くて大変。
特に勲記の御署名危なかった。

1984年7月8日
東久邇10方御参内。
東久邇文子さんからお電話あり。
「今日はカメラを持たないようにとの話であるが、1年1回くらいの集まりであるから、昭和両陛下を囲んで記念撮影をしたい。こちらのカメラでなくても侍従職の物で写していただいてもよいし、こちらで写すならフィルムをそちらにお預けしてもよいから」と。
「ご相談いたしますが、こちらではカメラの用意がないので念のためそちらでご用意いただきたい」と申し上げた。
女官候所から北白川女官長にご相談したところ、昨年あまりにくだけすぎた昭和両陛下の御写真が撮られたので、当然外部の人に見られることになってよくないから、カメラはご遠慮願った。
卜部侍従も特に良子皇后の正常でないお顔つきのこともありまずいと同様の意見だったので、東久邇文子さんおいでの時に、「良子皇后の御写真はおぐしや御服装など御負担が大きいので、できるだけお断りしている。今日も全く御用意していないので御遠慮願ったらという女官長・事務主管の意見だから」と申し上げた。
「それは残念なこと」とおっしゃっていた。

1984年7月28日
那須御用邸。
良子皇后、次第に問題多くなっていると。

1984年9月20日
良子皇后、車椅子。
賢所御参拝のあと車椅子に試乗なさった。
だいたい具合良さそう。

1984年10月19日
昭和天皇御風邪。
朝から御咳あり御風邪らしいとのことだったが、女官は当直侍医星川光正侍医長に朝から拝診をお願いしたのに、御顔を見ればわかると言って取り合わないので、入江侍従長から星川侍医長に電話でなるべく早く拝診するようお願いし、北白川女官長からも食堂にいた星川侍医長に同様の要請をしたが、御昼寝のあと拝診するむね決めたからそのようにすると言って、御昼寝前の拝診を拒んでいた。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1985年1月2日
良子皇后御車からお降りになれず、ひと騒ぎ。
記者会から良子皇后のお手叩きで説明求められるも断る。

1985年1月4日
星川侍医長より良子皇后の御様子について聞く。
変形性関節症の再発。
御所での年末の転倒が引き金か。

1985年1月19日
東宮職員手島英臣から清宮貴子内親王の銀婚式につき内宴のこと。

1985年1月28日
昭和天皇より、右手先が痺れるとの仰せ。
星川侍医長に知らせる。

1985年2月2日
入江侍従長より、東久邇文子さんの御相手高木代々吉氏の調査報告書を預かり目を通す。

1985年4月15日
記者会での御言葉について昭和天皇より、
「長寿についてイヤなことにも出会うということは言わない方がよいか」と。
「御胸の中にしまっておいでいただきたい」とお答えする。

1985年5月24日
徳川侍従次長は東久邇文子さんの結婚式のため名古屋へ。

1985年5月25日
東久邇文子&高木代々吉夫妻、初参内。

1985年6月6日
昭和天皇より、高円宮からバレエを御覧にならないかと聞かれたことにつき苦手というのが本音なれどいかに対処すべきかと。

1985年6月8日
久邇邦晴氏の交通事故につき情報入る。

1985年10月5日
昭和天皇より、できればハレー彗星を見てみたいとのこと。

1985年12月2日
富田長官・山本次長に、前回1910年の昭和天皇のハレー彗星のスケッチを見せる。

1985年12月3日
『迪宮御日誌』にて、ハレー彗星御覧は1910年5月29日と5月30日の二回記載あり。
昭和天皇のスケッチは5月21日の御作なり。

1985年12月13日〔須崎御用邸〕
昭和天皇、屋上におでまし、ハレー彗星御覧。
危ぶまれたが大成功で、昭和天皇も御満足。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1985年1月《良子皇后の御容態》
暮の28日夜お転びになったためか、お車の乗り降り特にお降りの際になかなかお立ちにならない。
お立ちの御意思がないので御手を引いてもビクともなさらないし、かえってお嫌いになる。
1日の御車寄でのお降りの際はどうにもならず、北白川女官長に女官3人に卜部侍従もお手伝いしてようやく終わりになったが、その間10分余り。
昭和天皇は先にお降り願ったが、御車寄をお入りになったところでお止りで、良子皇后の御様子を御覧になってしまった。
お入りになるようお勧めしたがお動きにならず、北白川女官長が申し上げてやっとお入りいただいた。
伊東貞三侍医が拝診したが、特に異常はなかったらしいが、お転びの恐怖心がおありのため動くことが怖いのではないかと。

1985年1月8日
講書始の儀。
昭和天皇なかなか御立派。
薬の効。

1月29日
昭和天皇の右手痺れ。
昨日卜部侍従が賀状を御覧願っている時、右手先がしびれることをお聞きした。
前からという。時々あるらしい。

1月30日
北白川女官長、昭和天皇から「左首筋と右腕に電気が走るような感がする。また右指先が痺れる」と伺い、大橋敏之侍医に伝えた。
明後日当直だから御様子を伺いましょうということだった。

1985年2月3日
大橋敏之侍医が、「昭和天皇の右手の痺れは大したことなく、内科的なものとは関係ないだろう」と。

1985年7月13日
天皇天皇御長寿記録達成につき、側近一同から鰻弁当献上。
御相伴。
昭和天皇はお隣席の西野重孝元侍医に「これまで長生きできたのは西野のおかげだよ」とおっしゃった。
戦後の御巡幸・御訪欧米の際の側近の失敗談など、おくつろぎで御話になった。
細かいところまで覚えていらっしゃるのに驚いた。

1985年12月9日
島津久永夫妻(清宮貴子内親王夫妻)吹上大食堂で銀婚式祝宴御晩餐。
鷹司和子様はじめ全御兄妹お揃い。
良子皇后のお世話は美智子妃・常陸宮妃がお世話なさったが、良子皇后がなかなか御着席・お立ち上りなさらず、特にお帰りの際は美智子妃が良子皇后に御眼鏡をそのままかお置きなるかをお聞きになったが要領を得なかったので、小生がそのままでと申し上げてお帰りいただいた。
お世話するのはやはり慣れた女官でないと時間がかかってしまう。

12月16日
賢所御神楽。
御神楽終了のむね職当直から報告。
各宮家から御神楽終了のお祝いと昭和両陛下天機御機嫌伺候の電話が続々入る。
奥からの電話はいずれも宮廷言葉を交えてご丁寧な言い回しで閉口する。
「こんにちは、御神楽おするすると終わらせられ、おめでとうさんにござります。お寒さめっきり募りまして、昭和両陛下にはいよいよお健やかにいらせられますこととお伺い申し上げます。夜も更けてまいりましたが、昭和両陛下にはよしなに申し上げていただきますよう、ごきげんよう」
実際にはもっと長々と早口。
なめらかに、また語尾いささか曖昧に巧みに述べられる。
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卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従

1986年1月2日〔一般参賀〕
突如良子皇后お手振り、昭和天皇はおやめで戸惑う。

1986年2月5日
昭和天皇より、高松宮の車椅子御提言につき、富田長官に話したことと徳川侍従長が不満そうに言って来たこととが食い違うので、富田長官に念を押すようにと。

1986年3月17日
東宮侍従八木貞二より、美智子妃御入院、子宮筋腫手術のこと。

1986年3月18日〔須崎御用邸〕
午前3時に起きて屋上へ、ハレー彗星見つける。
4時10分お起こし、はね起き、御洗面、お召替え、屋上へ。
60倍と200倍の天体望遠鏡でハレー彗星御覧。
4時33分入御、御寝室へ。
おねぎらいの言葉。

1986年4月15日
共同通信に終戦時昭和両陛下から明仁皇太子あての御手紙が公表される。
〔元東宮侍従村井長正が書き写していた4通の手紙〕

1986年4月16日
村井元東宮侍従あて警告文案を練る。

1986年4月17日
村井問題につき、徳川侍従長に富田長官の意向を伝えるも、態度不変。

1986年4月18日
階段にて村井元東宮侍従とバッタリ、汗顔の至りと。

1986年6月11日
徳川侍従長・安楽侍従次長と叙勲候補の件について、元女官今城誼子と元東宮侍従村井長正は除外のこと。

1986年7月3日
昭和天皇にディズニーランドについての御関心度につき伺う。
「行ってみたい」と本音。

1986年7月4日
侍従田中直より、三笠宮寛仁親王の御旅行届につき物言いありと。
侍医伊東貞三より、肝炎のこと聞く。
主治医から三笠宮寛仁親王の容体と見解など事情を聞いた上、昭和天皇に御了承得る。

1986年7月11日
宮務課長小松博より、三笠宮寛仁親王の退院予定のこと聞く。

1986年8月5日
元侍医杉村昌雄の夫人の出版情報。

1986年8月11日
杉村未亡人の出版につき抗議文。

1986年8月15日〔那須御用邸〕
北白川女官長と雑談。
かたわらで良子皇后大小の箱で無心なお遊び、悲し。

1986年9月3日
三笠宮寛仁親王、酒で入院の由。

1986年10月10日
星川侍医長から良子皇后のレントゲン結果につき、第四腰椎にヒビの疑い。
側面を撮らぬと判明せず、明日もう一度トライしてみるとのこと。

1986年10月16日
良子皇后の御腰痛の記者発表、各社記者押しかける。
ニュースは政府にも流れ、富田長官に照会あり、何のことだとカンカン。
昭和天皇にはお断りしたものの富田長官の耳に達していなかったとのこと。

1986年12月10日
高松宮万が一の時の対応分担など、御日誌により秩父宮の時の例を調べる。

1986年12月17日
山本次長より、また新潮に橋本明のレポートあり、元東宮侍従村井長正が情報提供していると。

1986年12月24日
高松宮に関し、秩父宮の例を基に具体的に打ち合せ。
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『小林忍日記』昭和天皇の侍従

1986年1月2日
一般参賀。
良子皇后はお手振りをなさらないことにしたので皇族方もなさらず、昭和天皇のみお手振り。
ただ6~7回目に良子皇后が突然お手振りをなさって、御供は驚かされたという。

1986年3月13日
昭和天皇が丸山手前の船頭小屋の高い所のイヌフグリを御覧になるべく上がったが、わずか数十センチメートルの坂を四つんばいでなさった。
ところが立ち上がれず、四つんばいで苦心なさる。
ちょっとお手を取って引き上げてあげれば済むものを、樋口英昭侍従は慣れないので見守るだけ。
小生は路上で女官長さんと話していたので、離れたところから見ているだけで手を出さず。
そのあとお下がりになるとき四つんばいで後ろ向きに足からお下がりになり始めたので、小生出て行き伊藤貞三侍医と両脇からお手を取ってお立ち願って支えて前向きに坂をお下がり願った。
夜女官候所で北白川女官長と久保女官がその時の状況を再現して大笑いと共に、侍従がもっとを手助けしなくてはと。

1986年4月15日
戦争末期終戦直後の明仁皇太子宛の昭和両陛下の御手紙各新聞に。
特に読売はトップに内容要旨を掲げた。
東宮侍従村井長正が伝育官当時写していたものを、昭和天皇の御立派なことを私するに忍びずと、共同通信の橋本明記者(平成天皇の御学友)を通じて発表したものという。
山本宮内庁次長は私信を公開するとはけしからんといい、徳川侍従長は昭和天皇に御許を得てからすべきなのに、昨日村井氏から電話があったが、すでに記者に発表してからでは遅いと呆れていた。
我々にしても側近としてあるまじきことと憤慨に堪えないところ。

1986年5月11日
仁徳天皇陵御参拝。
ついで全国植樹祭会場へ。
午後は大阪府立母子保健総合医療センターへ。
ホテルに御帰り、すぐテレビで5月場所御覧。
御感想は適当にとのことで、田中直侍従が苦心して作っていた。

1986年7月14日
アルゼンチン大統領来日につき、晩餐御言葉御練習の訂正。
当直の中村氏が奉仕したが、かなり細かいところまで訂正を申し上げたらしく、〈両国〉を〈リョウゴク〉ではなく〈リョウコク〉と厳しく申し上げたので御機嫌良くなく、どちらが正しいか文化庁に聞いて調べるむね申し上げたらしい。
前者も決して誤りではなく、むしろこれが広く読まれているのではないか。

1986年8月15日
全国戦没者追悼式。
昭和天皇モーニングコートの上着ボタンがかけられていないのが気になる。
きつくなってお言葉書の出し入れがしにくくなるからと拒否されたという。
最近お太りになって少し窮屈になっているという。

1986年10月17日
良子皇后御容態記者会見。
御腰・御膝がお痛みになるという説明を行った。
ところがこの記者会見の予告が通告されるや、天皇の御容態とかが報道されるとか、あらぬデマ。
北京から問い合せがあるとか大変混乱したらしい。
卜部亮吾主管も驚き、もう今後は書いたものを配るようにし、集めて説明することはしないと言っていた。

1986年11月10日
御在位60年祝賀提灯行列。
皇居前広場に数千の人が三々五々提灯を持って集まるので昭和天皇に御覧になってほしいとの要望があった。
昭和天皇も二重橋から車外で提灯をお振りになってお応えする案もつい最近まであったが、それではあまりに計画的に取られるからお手振りだけにすることに決まった。
昭和天皇がどんな御感想であったか記者から質問があった時どうするか、担当の審議官・安楽侍従次長寺・小生は御感想などを伺う必要はないとの意見だったが、富田宮内庁長官・山本宮内庁次長・総務課長は簡単でよいから何か欲しいとの意見で、富田宮内庁長官から徳川侍従長にそのように話して、結局当直の中村侍従が御感想を伺うことになった。
御車が到着少し前に、鉄橋欄干の電灯と伏見櫓に点灯、急に橋上が明るくなる。
橋上中央広場側歩道にお移りになり、欄干間際で広場の万歳万歳の声に2,3分お応えのお手振り。
万歳が終わると君が代の合唱始まり、その間2回の合唱が終わるまでずっと広場の方を御覧。

1986年12月10日
昭和天皇の視力。
当直の田中直侍従によれば、今日各国元首らにあてる年末年始のカード御署名の際、字が二重に見えて焦点が定まらないような状態であった。
なんとか10枚お書き願ったが、お帰りの御車の中で、生物学御研究所の顕微鏡もよく見えないとおっしゃったという。
伊東貞三侍医に伝え、別の御眼鏡を持ってきてもらったが変わりなかった。
伊東侍医が星川光正侍医長に報告したところ、明日自分が当直で出るまでほっておけばよいとのことだったという。
何たることだ。
すぐ来て診るなり、眼科の先生に連絡するなりすべきではないか。
生物学御研究所の清水達哉専門官に先週以前の御様子を聞いたところ、やはり最近顕微鏡がよくお見えにならないという。

1986年12月18日
『新潮45』によれば、天皇が終戦直後戦争の責任を痛感なさって御退位をお考えになったものの、司令部の容れるところとならなかったことはよく知られているところ。
しかしそれまでに時の田島宮内庁長官に命じ、戦争責任を内外に明らかにする詔書を起草せしめられたこと、その草案のことは田島長官のご遺族が保管していることなど元侍従村井長正が語り、共同通信の橋本明記者(平成天皇の御学友)により『新潮45』に掲載された。
先に昭和天皇の明仁皇太子への御手紙公開で物議を醸した村井氏の再度の暴露記事で、宮内庁も困惑。
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