◆124代 昭和天皇(迪宮裕仁親王)123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚


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昭和天皇の孫・成子内親王&東久邇宮盛厚王の子
長男 東久邇信彦
二男 東久邇秀彦→壬生基博

東久邇◆我々の場合、相手に対する呼び方によって聞いている人はどの程度の親しさかわかる。
呼び方が違いますから。
名前にちゃん付けにする人がいた一番親しい。
壬生◆「信ちゃん」
東久邇◆「信ちゃん」と呼ばれるのは、平成両陛下。
それからうちの父の友人。
昭和天皇は信彦・秀彦とそのまま呼ばれることもありましたし、信ちゃん・秀ちゃんと呼ばれることもありました。
壬生◆私は壬生家に養子に行って、名前が「秀彦」から「基博」になったわけですが、昭和天皇のところに最初に御挨拶に伺った時、昭和天皇が「これからも秀ちゃんでいいか?」と(笑)
平成天皇は気を遣ってくださって、「壬生さん」なんて言われてますけどね。


東久邇◆お正月は1日に宮殿にご挨拶に上がることになっておりました。
何段階かありましてね。
二十歳を過ぎると1日、それ以下は3日。
青年組と未成年組がありまして、学齢期に達すると未成年組に入れました。
壬生◆未成年組だけで御祝膳があります。
御献立は御雑煮と蛤の吸い物、小串は紅鮭の照り焼き、〈あさあさ〉と言って大根の塩漬け、それに菱花びらです。
東久邇◆御雑煮は丸餅でおすましで、鴨の肉と里芋が入っていて、大変おいしんです。
昔は何回でもおかわりができました。
壬生◆菱花びらは白いお餅の中に小豆餅があって、それにゴボウをはさんで半円形に折ってある。
ゴボウは剣・小豆餅は勾玉・白いお餅が鏡、いわゆる三種の神器の形をとっているようです。
東久邇◆成年組になりますと雉子酒がつきます。
雉子酒は雉子の切り身を杯に入れてお酒をいただきます。
壬生◆子供の頃は我が家では蛤のスープをわざわざ銀の徳利に入れて、「お真似で」と言ってお椀についでもらう。
だんだんと年齢が上がってくると本物のお酒になって、飲ませてもらえるようになりました。


東久邇◆小さい頃は母と一緒に吹上御所に伺うと、御座所の机の上に漫画の本を置いて下さっていました。
我々は遊びに飽きると漫画の本を読ませていただいていました。
それで我々は昭和天皇も漫画がお好きだと思っていました。
壬生◆我々が伺った時にどうせ飽きるだろうからという御配慮で漫画を用意していただいていたわけなのです。
しかし我々は勝手に昭和天皇も漫画がお好きだと思い込んでしまい、昭和天皇の御誕生日に漫画をバースデープレゼントに差し上げたこともありました。
あれは今から思うと大いなる誤解ではなかったかと(笑)
今から思うとそういうことがずいぶんたくさんあったのではないかと恐縮しております。


壬生◆小さい頃 吹上の御所に呼んでいただいた時には、トランプやカルタをさせていただいたりしました。
東久邇◆良子皇后は百人一首が大変お好きでした。
壬生◆昭和天皇は百人一首はなさいませんでした。
百人一首というのは色恋の歌が多いからだそうです。
昭和天皇がなさるのは〈お能カルタ〉したがって、昭和天皇が御一緒にいただける時は〈お能カルタ〉良子皇后が御一緒いただける時は百人一首をよくやりました。
壬生◆〈お能カルタ〉の時、昭和天皇が必ず御取りになる札というのがあります。
みんな暗黙の了解をしていたのだと思いますが、「皇帝」という札でした。


壬生◆昭和天皇は将棋が強くすごく御強かったです。
私と弟の直彦とで、昭和天皇が飛車角落ちで差してくださっても勝てませんでした。
東久邇◆トランプもしました。
壬生◆トランプは51とかブリッジ。
たくさん人がいるときセブンブリッジ。
麻雀もしましたね。
麻雀は本当にオーソドックスなルールです。
東久邇◆明仁皇太子や常陸宮も麻雀をされました。


壬生◆昭和天皇の孫であるということを私が本当に意識したのはいつの段階だったんだろうと考えてみますと、私の場合は母親が死んだ時だったんではないかと思います。
母親が亡くなったのは私が小学校6年生の時でした。
それまでは昭和天皇は本当に身近に感じていまして、特別なことは全然感じていませんでした。
母親が死んだ時、まず世の中の反響の大きさに驚かされました。
テレビでも新聞でも連日連夜のように報道される。
ついでに自分たちのことも書かれる。
なるほど自分は昭和天皇の孫という立場にいるのだなと認識したわけです。
東久邇◆それは私も同感です。
小さい時には本当に一般の家庭のお祖父様・お祖母様と同じで子供思いで、孫を可愛いと思ってくださるという風にね。
もっとも小さい時分でも、御座所の中でピョンピョン跳ねたりするわきまえないところはあったものの、一方でお祖父様だからといって首に抱きつくとかねおねだりするとか、そういうのはしてはならないことと我々も心得ていたつもりでした。
壬生◆昭和天皇は我々にとってもちろん祖父であられて、と言ってただのお祖父様さまじゃなくて、やっぱり非常に尊敬に値する、かつすべてについて非常にお心を遣ってくださるそういう存在でした。


壬生◆昭和天皇の第一皇女として育った母が、東久邇家に降嫁したのが16歳。
学習院を卒業してすぐのことだと思います。
その母が子供が4人生まれてもう1人がお腹にいる時に、通信教育で勉強をしていた記憶があります。上の二人の子供と一緒に一生懸命大学の資格を取るための一般教養を勉強しているのですから、今から思えば母は本当に勉強したかったんだろうと思いますね。
東久邇◆相当頑張り屋でしたね。
壬生◆それでなくてもうちの母親はずいぶん苦労したと思います。
東久邇◆今まで世間を知らない人が世間の荒波におっぽり出されているわけですからね。
本当に一からね。
お金もいじったことがないのに、お金の価値観とかそういうところから始めているわけですから、並大抵の苦労じゃなかったと思います。
壬生◆相当の落差だと想像します。
時代が変わって、その中で兄妹5人、私みたいなわんぱくの限りを尽くしている人間を育てながら、なおかつ努力も。
私が言うのも変ですけれど、今から思うと母は立派だったと思います。
東久邇◆臣籍降嫁とか敗戦とかあって、今までの立場と全然違うわけですからね。
うちの父もそうだったのかもしれませんけれど、母親の方がギャップはもっと大きかったと思います。
壬生◆亡くなった時は35歳でした。私が小学校6年生の時。
東久邇◆ただうちの場合母親が降嫁したということもあって、いろいろなことにこだわらないで済んだというところはあります。
「おもうさま」とか「おたたさま」とかいった皇室用語ではなくて、早くからうちはパパ・ママとなっておりました。
学校も学習院ではなくて、僕が受けたのは青山と慶応、どっちも家に近いという理由です。
うちの父の弟も慶応で、私も最終的には慶応。
上の妹は東洋英和。
ところが女子だけの学校はというので、下の妹を含め兄妹5人のうち4人までが慶應に行きました。
その辺は全く自由選択でした。


壬生◆母が生きている頃は、昭和天皇は毎年母の誕生日に我々の麻布の家に来られました。
当時の皇太子様(平成天皇)をはじめとして、母親の御兄妹の皆様がお集りくださいましたね。
壬生◆毎年我々子供は挨拶が済むと裏の方に追いやられておりましたが。
前日頃から母親は大変で、私どもも手伝わされたことを記憶しています。
東久邇◆豚御飯というメニューがありまして、中国風の豚の炊き込み御飯に椎茸でとった出汁のスープをかけて、それにいろんな具、椎茸とか玉子とかミカンの刻んだものとか、そういうのを加えて食べるのですが、それがよく出たのを覚えております。
海老をパンで包んで串揚げにしたのもありました。
うちの母親は割と中華料理も得意でした。
壬生◆娘の誕生日にそうやって内輪の集まりをしているような場合でも、昭和天皇は御帰の時間を延ばされることを非常に気にされていらっしゃいました。
普通であれば娘の家に行っているんだから皆で賑やかにやって急いで帰る必要なんてないでしょう。
けれども昭和天皇の場合はその間警護の警官がずっと立っているわけですから、あらかじめ時間も決まっています。
延長となると5分とか10分とかの単位で昭和天皇はずっと気にされていらして、30分なんてとても難しく、そういう細かいところまで配慮されていらした。
東久邇◆確かに昭和天皇はそういうところを非常に配慮されていらっしゃいました。
私は「いろんなところを御覧になったらいかがですか。デパートとか展覧会とか」と申し上げたことがあるのですが、昭和天皇としてはいらっしゃりたいんだけれども、いらっしゃるには警官の人がまず配置される。
そういう人たちが気の毒だから、あえてねと。
壬生◆ある意味で葛藤がおありだったのではないかと思います。
東久邇◆そういう風に周りの方に配慮されて、神経が細やかと言うか繊細であられた。
昭和天皇御自身は自由なことをなさろうと思っても、御立場を考えられなさらなかった。
何かを見たいとか誰かに会いたいと思ってもスケジュールがみんな入っているわけですし、昭和天皇御自身が公人である以上自由な行動が自然と制限された形となってしまいますし、他に及ぼす影響とかバランスを御考になられたと思います。
自分が社会に出ていろんなストレスが溜まりますと、昭和天皇はどういう風にしてストレスを解消されてたのかなと考える時があります。
一つは御研究に没頭されたことではなかったかと。
昭和天皇にとっての御研究はその間は何も考えないで熱中できる時間だったのではないかと思いますね。


壬生◆昭和天皇は大変家族思いでいらっしゃいました。
私が小学校5年生だった頃から母親は病気で入院しておりました。
病名がガンだとわかり、治るのが難しい状況になりました。
東久邇◆本来なら外の病院で過ごすところ、昭和両陛下がしょっちゅう御見舞にいらっしゃりたいという御気持がおありになったのでしょう。
昭和天皇の思召で母親は国立病院から宮内庁病院に移りました。
当初からダメだというのはわかっていました。
もちろん母には病状は知らせていなかったし、母もそれをわかっていなかったと思います。
壬生◆毎週土曜日に宮内庁病院に見舞いに行くことになっていました。
土曜日は半ドンでしたから、学校が終わって昼頃に宮内庁病院に行きます。
すると必ず昭和天皇から御届いただいたサンドイッチがありました。
私がお腹を空かせて母の所にやって来るというのは昭和天皇はわかっていらっしゃったのだと思います。
それで私は毎週母の病院でサンドイッチを食べて、迎えに来た父に連れられて帰るというパターンを繰り返しておりました。
東久邇◆もうだめだというのがわかっている娘を近くに移されて、昭和両陛下は毎日のように食事を運ばれて、しょっちゅう御見舞にお見えいただきました。
母の臨終のとき良子皇后は最後まで手を握っていらっしゃって、昭和天皇も御側で看取られておられました。
壬生◆母が息を引き取った時、昭和天皇が「どうもありがとう」ってポツリと言われたのがね、ずっと私の記憶の底にに焼き付いていて。
大人になって考えると最後まで手を尽くされた完了された侍医さんや看護婦さんに対してそういう風に言われたということなんでしょうけれど、死んでいった母の病床に付き添っていた全員に対してそう言われたのかではないかと。
実際にはわかりませんけれど、昭和天皇のその御言葉が非常に印象に残っております。
東久邇◆私は母が亡くなってから昭和天皇は急に白髪が目立たれたような気がしましたけれど、娘に先立たれるというのはどれほどの思いでいらしたのかとね。
壬生◆昭和天皇は子供や孫に対して本当に愛情の深い方でしたね。
岡山に降嫁された池田厚子さんが御病気をされた時は、昭和天皇は毎日のように侍従から病状の報告を御受になられていらっしゃいました。
たぶんうちの母親の時も、毎日こういう風に病状を報告させていらしたんだろうなと思いました。
毎日必ずというところが昭和天皇のらしさではないかと思います。


壬生◆昭和天皇の御心遣で5月の節句だったら柏餅とかちまきとか、折々にいろんなものを御届けいただきました。
クリスマスの時も大膳が作ったターキーとか、いろいろな料理を頂戴しました。
東久邇◆それも母親が亡くなってからのことだと思います。
壬生◆子供たちにいいような映画が来た時は必ず呼んでいただいて、ディズニーの映画とか御所の中で試写会みたいにして観たことを覚えております。
東久邇◆昭和天皇も御一緒で、侍従さんたちも含めて20人ぐらいで。
映画会はたいてい夜でした。


東久邇◆我々はずいぶん早く母親を亡くして、それから父も亡くしましたから、昭和両陛下には我々のことをいろいろと御心配いただきました。
我々に何か起これば、どういう形でかそれか昭和天皇の耳に入る。
すると御心配なさって、「御心配のあまり御熱を出されましたよ」というようなことを、周りの方々から何度か聞かされました。
壬生◆昭和天皇は我々兄妹を大変不憫に思われていたんだろうと思います。
それまでは母と一緒に那須の御用邸に伺ったのは一度か二度ぐらいしかありませんでした。
それが母親が亡くなったその年の夏から毎年那須の御用邸に御呼いただいて、1週間か2週間ぐらい御一緒に過ごさせていただきました。
母親とお尋ねした頃は付属邸に泊まらせていただきましたが、あの時以降ずっと御本邸に泊めていただいておりました。
東久邇◆昭和天皇と同じ棟ですね。
壬生◆朝食だけは昭和両陛下お二人でなさって、あとは昼も夜もずっと御一緒で。
私たちは朝早く起きて勉強宿題などをやって、そのあと御一緒に散策というように過ごしておりました。
東久邇◆昭和天皇は大変健脚でいらっしゃいましたね。
御研究のためよく歩かれますが、途中で御疲れの御様子を御見せになったことは一度も記憶にありません。
御若い時多くの山にお登りになったり、毎日お歩きになっていらっしゃいますから、それで御丈夫だったのだと思います。
壬生◆昭和天皇の記憶力の良いことは有名ですが、御一緒に御供していても、「去年はこの時期にはここに何々が咲いていた」というような話をされる。
「今年はまだだね」とか。
しかも何の目印もないような道に急に止まられて、そういうようなことをおっしゃる。


壬生◆那須で思い出すのは、昭和天皇はあまりお風呂がお好きじゃなかった(笑)
那須は御用邸の中に温泉が引いてあるんですが、良子皇后は割とお好きだったんですけれど、昭和天皇はせっかくの温泉なのにあまりお好きでなかったようです。
それから那須では夜になると展望台に上ってよく星を眺めました。
昭和天皇が「この季節はだいたい何時頃にどこどこの方角に流れ星がよく見えるよ」というようなことも教えてくださった。
那須は星がよく見えるところで、流れ星、あっ、また流れ星という感じのところですから、本当に降るようなたくさんの流れ星が観察できました。
翌日昭和天皇にそのことを申し上げると、「そう、よかったね」とニコニコされておられました。
それから昭和天皇も良子皇后も鳥の鳴き声に御詳しくていらして、鳥の鳴き声が聞こえると「ああ、あれはブッポウソウだね」とか、昭和両陛下はそんな御話をなさって楽しまれていらした。


東久邇◆みなささま夏場は葉山に必ず来られてました。
壬生◆毎年夏は家族みんなで葉山に寄せていただいておりました。
東久邇◆一夏、7月の下旬から8月いっぱいは滞在いたしておりましたね。
壬生◆当時御用邸の方に昭和両陛下がいらっしゃって、付属邸には明仁皇太子・常陸宮・清宮貴子内親王なんかも来られていました。
東久邇家は一夏、付属邸の一部をお貸しいただいておりました。
東久邇◆そのあと御用邸の敷地内に移って、富士見亭は御用邸の外の船着場の近くにありました。
戦前は昭和天皇が御泳ぎになられる場所は禁泳区になっておりまして、富士見亭はそんな区域の中に建っておりました。
昭和両陛下がちょっと御涼みに行かれたり、また御船の乗り降りの際に御利用になったと聞いています。
壬生◆富士見亭は食堂・台所の他に和室が3部屋ありましたね。
東久邇◆我々は毎朝早く起きて学校の夏休みの宿題をして、それからピアノのお稽古などをしていました。
毎日御用邸に伺って、御居間にあるピアノを拝借して練習させていただいておりました。
ピアノは御用邸の中にしかありませんでしたので。
後は泳いだり、御船をご一緒させていただいたりしておりました。
たまに昭和天皇から昼食や夕食に御招きいただくことがありました。
「蛾が食べられるか」という話になったのを覚えております。
昭和天皇は「天ぷらにして食べられる」とおっしゃって、もちろん学者でいらっしゃるから食べても大丈夫だという確信のもとで主張されたと思いますが、昭和天皇はそういうちょっと大胆な好奇心旺盛みたいなところも御持でした。
壬生◆葉山では毎日のようにピアノのレッスンなどで御用邸に伺っていましたが、よくお昼御飯に呼んでいただきました。
呼んでいただく時はたいてい洋食でした。
東久邇◆たぶん若い者たちはそういうものが特に好きだろうと御考くださったのででしょう。
壬生◆そうですね。
まずスープが出て、その後一皿とサラダ。
お昼が多かったですからフルコースではないですが、大膳が作るのですからそれなりにきちんとした洋食でした。
東久邇◆我々は御飯にソースをかけて食べるのが好きでした(笑)
壬生◆デミグラスソース(笑)
東久邇◆デミグラスソースをピラフみたいな炒め御飯にかけて食べていました。
壬生◆炒め御飯と言っても油っぽくなくて、炊き込み御飯みたいにできておりました。
子供でしたからメインの料理をそっちのけで食べていました。
東久邇◆昭和天皇もそれがお好きでした。
壬生◆昭和天皇も御飯に何かかけるのがお好きみたいでしたね。
東久邇◆もともとみなさま白い御飯よりは混ぜ御飯がお好きで、ピラフ風の混ぜ御飯や炒めた御飯がお好きのようでした。
東久邇◆葉山ではおかわりも自由で、黙っててもおかわりをくださった。
御飯でもおかずでも食べ放題でした。
壬生◆自分で取る場合は「自分で食べられる分だけ取りなさい」と。
うちの母親はそういうところはうるさかったですね。
東久邇◆そうね。「取ったものは全部食べなさい」と。
壬生◆それは御食事についてだけじゃなくてね、全体の御生活もでもそうでした。
昭和天皇はちょっとメモを書かれるのもまっさらの紙を使われるんじゃなくて、使い古しの紙の裏を半分ぐらいに切って使われていました。
東久邇◆それから、葉山でおいしかったのは冷紅茶です。
壬生◆要するにアイスティーなんですが、冷紅茶と呼んでいました。
それからカルグルトというのがありました。
飲むヨーグルトです。
乳酸菌で作った飲み物なんです。
東久邇◆ヨーグルトをもう少し薄くした軽くしたものでしたね。
カルピスにすごく似ているけれど、ヨーグルトの飲み物です。
おやつでいただくのが好きだったのはフレンチトースト。
壬生◆それからバナナ。
今でこそバナナはフルーツの中で安い方なのですが、昔は結構高価で貴重なフルーツでした。
なにしろバナナについては、東久邇家のバナナ戦争というのがありまして。
昔は兄妹5人いるところにバナナが一房届きますと、端と真ん中とで大きさが違いますからそれをどういう風に分けるかは大変な問題でした。
うちは割合と民主的ですから、ジャンケンで決める場合が多かったですが。
東久邇◆我々が何を喜ぶか、そういうことを昭和天皇はよく御存知でいらっしゃいました。
我々が何が好きだとか、そのへんをよく汲んでいただいていたようです。

壬生◆御本邸二階の御座所は、展望台式に四方の外の景色が眺められるように造られておりました。
浜辺の方からは見えにくくなっておりましたが、こちらからは海の沖まで一望できました。
江ノ島もちろん富士山も手に取るように見ることができました。
風がよく入って涼しくて、入口の左側にピアノがあり、部屋の真ん中に丸い木の机の応接セットと昭和天皇の御座になる机と椅子が置いてありました。
東久邇◆そこから昭和両陛下が船で出られるところをお見送りしたり、お帰りになるところを見ていて下にお迎えに行くとかしていました。
御採集には良子皇后は行かれないことの方が多かった。
昭和天皇は船着場から小舟で沖合まで出られて、船に乗られて海洋生物の採集にいらしていました。
甚平スタイルと言うのでしょうか、採集にいらっしゃる時の昭和天皇は脇の所を糸でつないだみたいな白い着物を御召になっていらした。
だんだん開襟シャツと半ズボンと御帽子になられましたが。
壬生◆御用邸にはプールがあって、昭和天皇もそこで泳がれていました。
昭和天皇はスポーツの中では水泳が一番お好きだったんじゃないですか。
東久邇◆昭和天皇は水泳は御達者です。日本泳法ですけど。
うちの母親も日本泳法が得意でした。立ち泳ぎして、水の中で扇子に絵を描くとか。
壬生◆抜き手とか〈のし〉とか。
私も母から教わりました。
壬生◆葉山にはいい思い出がたくさんあります。
その御用邸が焼けてしまったことは大変残念に思っています。
東久邇◆放火でしたね。
昭和天皇の研究室も含めてすっかり焼けてしまいました。


壬生◆吹上の御所ができた時には、御所の前のお庭の芝生が本当にきれいだったの覚えています。
ところが何年か経ったら草ぼうぼうになり、今ではそれがもう全部自然な武蔵野の姿に戻ってしまっております。
昭和天皇は人工的な手を加えられるのはお好きじゃなくて、その結果東京のど真ん中の皇居に武蔵野の自然が残されているのです。
東久邇◆雑草の一つ一つは愛されていらして。
雑草じゃなく植物には一つ一つ名前がついているんだとね。
壬生◆鳥のためというので、皇居の中に相当の本数の実をつける木が植物を植えられていました。
だからかなりたくさんの種類の鳥が皇居の中に住んでいると思います。
東久邇◆だけど一番の悩みとされていたのはカラス。
カラスというのは肉食に近いですから小鳥の卵とかそういうのを食べてしまう。
それをどうやって退治したらいいのかというのをだいぶ悩まれたようです。
壬生◆昭和天皇は自然のままにという御意志が非常にお強かったですね。
ところがそれぐらい人工的なものがお好きではない昭和天皇も、良子皇后のためにバラ園だけはきれいに整備されていました。
東久邇◆良子皇后は本当にバラがお好きでいらっしゃいますから。
壬生◆吹上御所の御座所の前は草ぼうぼうですが、一角だけはバラ園になっていて見違えるほどでした。
良子皇后は一生懸命やられていまして、よく我々もお土産にバラをいただきました。
壬生◆お庭の食べられる野草の話になりまして、昭和天皇が「前の庭に生えているキバナノバラモンジンという野草は炒めて食べるとおいしいよ」と言われ、花になる前の蕾や芽を取って食べるのだと教えいただきました。
「戦争の時分には、良子皇后がお料理になってこういうものをよく食べた」とおっしゃっていらした。
そのお話をしていただいた時帰りに持っていくかということを昭和天皇が仰られて、木花のバラモンジンをお土産にいただいて帰りました。
帰宅して早速食べまして、ほろ苦く美味しかったことを覚えております


東久邇◆例えば政治的な話題にしても、昭和天皇にお話をするのにタブーということはありませんでした。
だけど逆に言うと、我々の方であまり話題にしませんでした。
その他の話題では「お相撲はどなたがお好きですか?」とか言うことも、あまり伺いませんでした。
壬生◆私は一度伺ったんですけれど、そこは笑われて「ハハハ…」と(笑)
残念ながら贔屓の力士の名前はついに知らずじまいでした。
東久邇◆そんなわけで我々の方でも昭和天皇が御答に困られるようなことはお尋ねしないようにしておりました。
昭和天皇からの御質問はだいたい我々の仕事がどうかとか家族はどうかとか身体は大丈夫かとかいったことが主でした。
しかし5人並べば一人一人に全員質問される。
一人に集中することはなくて必ず全員に質問される。
平等に公平に。
例えば私が長男だから特に御質問が多いということはありませんでした。
夫婦で伺っても、一人一人全員に御話がありました。
壬生◆とにかく昭和天皇は非常に公平無私であられた。
しかも不自然さを全然感じさせないところが素晴らしいですね。
東久邇◆義務からでなく自然に身についていらして、そうしたことの一切が昭和天皇にとってはごく当然のことなんでしょう。
我々にとっては非常に大変なことですけれど。
赤坂御苑で園遊会を催される時に、招待客に一言一言挨拶され御声を御掛になります。
壬生◆昭和天皇は記憶力が人一倍おありだからでしょうが。


東久邇◆昭和天皇からは国内外に行幸された折々にお土産をいただいたり、我々の誕生日などにも気を御遣いただいておりました。
私はロンドンに赴任していた時に、昭和天皇から御手紙を何回かいただきました。
壬生◆私もロンドンに赴任していた時、御手紙をいただきました。
東久邇◆昭和天皇が御手紙を書かれるのは珍しいことだと聞かされたことがありました。
私は筆不精なものだから、常に返事を書くわけではなかったのですが。
壬生◆私も昭和天皇の貴重な御手紙は今でも大切に保存しております。

東久邇◆昭和天皇のお笑いになった声というのは、本当に心から楽しそうにお笑いになりますね。
壬生◆弟の雅彦が車の免許を取ったばかりで郊外の畑の畦道を走っていて、対向車とすれ違って脱輪してしまいゴロゴロと畑に落っこちたという話を申し上げたんです。
その時はずいぶん笑われていましたね。しばらく笑いが止まらないぐらい笑われていました。
東久邇◆それは我々だっておかしい(笑)
壬生◆昭和天皇がお苦しそうに笑われて、それを見て我々も大笑いしました。
そういえば昭和天皇から叱られたということは一度もありませんね。
東久邇◆昭和天皇はお叱りにならない方でしたね。
良子皇后には叱られたことはあります。
小さい時だけれど、庭に出て遊んで靴をパパッと散らかして入ろうとしましたら、「揃えなさい」と言われました。
けれどそれぐらいしか記憶していません。


壬生◆昭和天皇が御病気になられてから最初にお見舞に伺ったのは9月の末になってからでした。
昭和天皇が倒れられたとき私は出張していまして、知らせを最初に聞いたのは通信社からなんです。
グアムで現地会社の総会をやっていた直後に電話がかかってきて、「何をやっているんですか。いま日本は大変ですよ」と言われて心配になりすぐに宮内庁に電話したところ、そんなにシリアスな状態ではないからというので一安心いたしました。
その後もファックスでどんどん情報が入ってきたんですけれど、マスコミ報道を今にもという感じでしたが、宮内庁ではそうでもないということでした。
日本に帰ってすぐにはお目にかかれなくて、しばらくしてから兄妹二班に分かれてお目にかかることになりました。
東久邇◆一度に行くとお疲れになるんじゃないかということでね。
壬生◆兄妹全員が一緒に伺ったりしたら、返って非常に深刻な事態なのだということを気にされるんじゃないかということもあったのかもしれません。
妹の優子はまだロンドンから帰ってきていない時だったので、兄と姉の文子と私と3人で伺いました。
東久邇◆下血されて10日ぐらい経ってからのことですね。
壬生◆初めてお見舞に伺った時、昭和天皇が大変お元気で、私にはホテルの仕事はどうだというようなことを聞かれ、姉文子には名古屋の生活には慣れたかというようなことをいろいろ聞かれました。
おやつれになっていらっしゃるんじゃないかと思っていたら、そうじゃなくてお元気で。
東久邇◆実際にお目にかかってみると、昭和天皇はベッドに横になられたままでしたが、ご心配申し上げていた少しも変わらない御様子で、我々の方がどういうお言葉を昭和天皇に申し上げたらいいのかかえって苦心いたしました。
壬生◆皇居の紅葉のことを非常に御心にかけていらた。
東久邇◆あの時期ちょうど都内でも紅葉がきれいに色づいてきた時でしたので、そのことを申し上げたら、「御所ではもっときれいだよ」とおっしゃいました。
「梓の紅葉がきれいだよ」と。
壬生◆昭和天皇は御所の中の植物が、何が、いつ、どこで、どのように色づくかを熟知されていらっしゃるのです。


東久邇◆1月7日の早朝は宮内省から最初に家に電話がありました。
我々の方も電話があったら、家から他の兄妹に連絡して駆けつけることになっていました。
壬生◆最初は待機という連絡でした。
東久邇◆そしたらもう1回電話がかかってきました。
我々が駆けつけたのは6時ちょっと過ぎぐらいでした。
待機の電話がかかった時「10分から15分ほどしておいでください」と言われまして、バラバラに各々馳せ参じたわけですが、家が兄妹の中では一番早く着きました。
何かあったときは半蔵門から入りなさいと言われていまして、私はそこからは入ることは滅多にないんですけれど、自分で運転して行きました。
兄妹そろったところで御病室に入り、お別れのご挨拶をいたしました。
壬生◆最期は皇太子両殿下(平成天皇夫妻)をはじめ、皇族・子供・孫に見守られて眠られているようでした。
東久邇◆翌日御船入の儀式がありました。
いわゆる納棺の儀式で、私が棺にお納めしたのはルーペでした。
壬生◆私は本でした。
お納めする品物はみんな白い絹の布に包んであって、緊張していましてよく覚えておりません。
東久邇◆包んであって何の品物か見えませんから、中は何なのか書いてありました。
壬生◆最初書いてあると思わなくて、とにかく感じとしては辞書かそういう感じの本でしたね。
東久邇◆私の場合は、お側の方が「これはどうですか?」と勧めてくださったような気がします。
壬生◆納棺の時に昭和天皇の遺品をお入れしたのは、明仁皇太子はじめ本当に近親者だけでした。
宮様方と子供と孫でした。
東久邇◆人数分の品物が用意されていまして、棺に納められた品物はどれも身の回りで常に使われていたものでした。
それをまた向こうの世界でお使いくださいということですから、別に高価なものではないんです。
その他には紙人形がありました。何か悪いことがあればその人形が全部肩代ってくれる身代わりになる人形があって、それを一緒に入れました。
それは約束事ですから、ヘソの緒とかもいられていました。
壬生◆爪とか髪の毛も入れられていたと思います。
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