◆高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)123代大正天皇の三男
1905-1987 82歳没
■妻 徳川喜久子 将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵&有栖川宮実枝子女王の娘
1911-2004 92歳没
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『高松宮日記』
※高松宮は江田島の海軍兵学校在学中
1921年2月12日
新聞に宮内大臣中村雄次郎辞職云々と。
久邇宮良子女王に関すとか。
1921年2月13日
新聞は某重大事件に賑わう。
予も知らざるも、久邇宮良子女王との御破談か。
1921年3月3日
裕仁皇太子、御渡欧御出発。
皇族方と共にシャンパンを挙ぐ。
感慨無量。
1921年3月21日
華頂宮博忠王、鴨撃ちに行かるる由。
祭日にはちと休んでもよかりそうなもの。
1921年4月22日
石川〔高松宮伝育官石川岩吉〕は長男の神経衰弱面白からず、どうするか未定。
1921年5月13日
今日の『国民新聞』に、秩父宮の妃に一条の娘さんがおなりになると出ていた。
1921年5月21日
田村〔御付武官田村丕顕〕に「武官が尾けて歩くのはなぜか」と聞いたら、鈴木貫太郎校長がそう言って教室までも尾つけるのだそうな。
そこで予が涙を出して見せた。
要するに学校内ではどこへでも尾けて歩くのだそうだ。
私がどうしてそんなに一人で歩くと信用ができないのかしら。
まあ結局私は私で武官に関係なく行動することにするよりほかない。
1921年6月1日
今月より武官、教室および短艇の中には来らざることにす。
しかし尾けては歩くらしい。
教室の隣室にはいるらしい。
馬鹿馬鹿しいことだ。
それでは少しも予の求むる自由は得られないのだよ。
1921年6月9日
西村に「私なんていうものは病人みたいに世の中に何もせず食っているのだ。真に無意味だよ」という意味のことを聞かす。
1921年6月14日
武官をまこうとするが、うまくまけぬ。
どうしても手先に使う人がいる。
1921年6月22日
西村が「何かのついでに呉に行って買って参りましょう」と言うから、
「そう面倒ばかりかけては済まぬ」と言うがなかなか聞かぬから、
「や、いろいろ慣例もあるから」とて断る。
あまりいろいろもらって妙な結果になると困るから。
学習院で懲りてる。
1921年6月28日
西村が私と話などするから、どうしても他の水兵が一緒にならぬと言ってきた。
どこに行ってもこれだから、私は一人孤独に泣かねばならぬのだ。
西村には気の毒だが、今私として絶交するのはちょっと困る。
1921年6月30日
真に私の行く先々では必ず仲間はずれを作ったり、人に迷惑をさしたりするのだからイヤになってしまう。
学習院の時も、佐藤さんなどはその部であろう。
気の毒だと言って私としてどうも手がつけられないのだから、なおさら自分の心を痛めるばかりである。
1921年7月2日
石川〔高松宮伝育官石川岩吉〕に宅より手紙にて、長男が甚だ良くない、床の下に小刀など忍ばせているということで、一度帰ってくれと言うことなので帰京す。
どうも不幸は不幸を招く。
1921年7月7日
石川から手紙で、長男は一時より少しは良いが面白くないと言ってきた。
1921年7月8日
今日物理講堂から大講堂まで田村〔御付武官田村丕顕〕をまいてやった。
手際よく。
1921年7月12日
石川から手紙で、少しづつ良いがはかばかしくないと言って寄こす。
学習院の野村三郎教授、出入りの左官に刺さる。
1921年7月26日〔田母沢御用邸〕
大正天皇御散歩のとき侍従の補助を要せらるるごとく拝せり。
ますますおよろしからざるがごとし。
1921年9月20日
西村さんに大正天皇の御不例のことを言った。
西村さんも心痛の色を顔に浮かべてくれた。
私は世界中で誰よりも西村さんを信頼していて、何一つ隠そうと思うことはない。
本当に私が頼りとし愛敬するのは西村さんだ。
1921年9月21日
小林堯太郎が裕仁皇太子が御土産に下さる犬を見た。
ポインターの雄一と雌一が良く。
こないだ仔を産んだのはその雌より劣るそうな。
またセッター雄一つ非常に良く。
他のセッター、ポインターは芸は良くとも体は駄目なるとか。
1921年10月4日
大正天皇御歩行にも補助を要せられ、御記憶力など減退にて、御良好とは拝し奉らずという御容態書発表になりたり。
1921年10月11日
裕仁皇太子より御土産のうち、犬だけ正式にいただいた由。
ポインター雄雌二頭。
主猟課に預けて飼わす。
1921年10月15日
裕仁皇太子よりヨーロッパの御土産として、油絵1・胸像1・望遠鏡1をいただきし由。
1921年10月20日
西村さんは少しも私に会ってくれぬ。
もう私など可愛がってくれぬのかしら。
1921年10月22日
西村と顔を合わせたが、どうしても以前ほどの親しさで顔を向けてくれない。
本当にどうしてあんなに私から離れて行ってしまうのだろう。
悲惨、悲惨。
1921年10月24日
今日は西村さんが親切な顔で見てくれた。
いったい西村さんはどういう気かしら。
本当は私を可愛がってくれる気があるだろうに。
1921年10月28日
西村さんはまた以前のような親しい顔で会ってくれる。
私の心は晴れ晴れしい気分になった。
1921年11月18日
やっぱり西村さんは本当に私を愛してくれぬ。
同性愛ということを理解してくれないのかしら。
1921年11月25日
前田〔皇子伝育官前田利男〕より、大臣より摂政を置かるることを話すようにとのことを聞く。
1921年11月28日
今度の摂政についての詔書などの拝読ありて、ただちに学校の生徒・学生・高等官総員にて写真を撮る。
西村さん本当に私を何とも思ってくれないようになってしまったようだ。
私は常に孤独で生きなければならぬのだろうか。
さびしい、さびしい、さびしい。
1921年12月1日
近ごろの新聞は裕仁皇太子の摂政御就任からして、三笠宮の御写真など種々なのが出る。
私はおかげで気楽だ。
1921年12月4日
西村さんが親切そうな顔を向けてくれた。
本当に両方で遠慮と疑いっこしているようだ。
でも嬉しくって、嬉しくって。
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『高松宮日記』
1923年1月3日
朝、スケート。
昼食後、山階宮武彦王と賀陽宮恒憲王とテニス。
1923年1月5日
スケーティング。
西園寺八郎・西園寺二郎・二荒芳徳・堂ノ脇光雄少将が一緒に滑った。
1923年1月6日
朝、スケート。
二荒芳徳・西園寺公一・西園寺二郎と一緒に滑る。
越ケ谷鴨場へ。
午前1回、午後1回。
鷹を使ってみる。
網で雉を獲る。
鴨は100余羽。
秩父宮、田口へスキーに御出発。
1923年2月7日
夜、有栖川宮董子妃御危篤の電報ありたり。
ことによっては帰らねばならぬかもしれぬ。
困ったことなり。
1923年2月8日
晩、宮内大臣牧野伸顕より喪主仰せつけらるること、帰京の日は後報という電報が来る。
やれやれ。
たぶん紀元節後ならん。
1923年2月9日
夜電報にて「帰京を要すれば18日の前」ということを報ず。
これによれば帰らずに済むかもしれないが、それでは変だ。
高松宮という称号は有栖川宮家の祭祀を継ぐためだ。
喪主という勅許を願っておきながら、ここにしまいまでいては変すぎる。
1923年2月10日
私としては喪主になった以上、帰京するを至当と思う旨、山内伝育官より官長に尋ねしむ。
夜、皇后宮属淡近澄、節子皇后の御親書もて来島。
帰京するようにとの仰せと思いのほか、意外のことにも帰らないようにと言うことで、非常にヒステリックになって書いておありになるので、私にはよく事が了解できなかったが、困ったことになった。
牧野宮相は帰るようにとの意見なるも、節子皇后はことごとく反対なさるらし。
官長も困りおるならん。
1923年2月12日
今朝牧野宮相より有栖川宮の御辞退を理由として帰京せぬよう伝い来る。
義理の立たないことになって心苦しい。
1923年2月20日
なんだか気分が引き立たぬ。
万物春めき、我が心も春めき悶まし。
異性に対して恋もなきに、またやはり同性愛か。
さりとて相手も見つからぬ。
同性愛は禁物だのに。
もうこりごりしているはずだのに。
1923年3月1日
官長から東京での様子を聞く。
牧野宮相は強く帰京を言い張り、御内儀ではどうしてもお許しなきこと想像の如く。
節子皇后が非常にヒステリックにおなりになっていたことも予想通りだった。
1923年3月2日
官長から続きを聞く。
こんどこちらへ来る時は、御内儀からは御伝言だけ、四十九日までに帰られたら良かろう、しかし夏まで帰らずとも悪くはないとのことなり。
1923年4月3日
北白川宮成久王御遭難の稍詳報来る。
北白川宮成久王御自身御運転になり75マイルぐらいで走っておられて、他の自動車をかわし損なって並木にぶつかったらしい。
運転台の北白川宮成久王と運転手は即死、客席の北白川宮房子妃と朝香宮鳩彦王とフランス人御用掛は重傷をして、北白川宮房子妃は御傷ことに重い由。
コスモス・ポーチュラカを蒔く。
1923年4月10日
原村演習携行の事業服など、明日出発のために出す。
卓・椅子を持ちゆく馬鹿な武官さん。
それよりも武官さんの大きな洗面台を持ちゆかせるに至っては捧腹絶倒の値あり。
憐れむべき点あるを覚ゆ。
馬鹿もかかるほどなれば笑止の至り。
1923年8月25日
朝、テニスをなす。
伏見宮博信王〔華頂博信侯爵〕はやはり脳の具合とお腹の具合で休暇を延長さる。
1923年8月27日
佃さんは「私は人から注目されているから、する事はそのつもりで注意するように」と言ってくれた。
私は学校中に佃さんの他には友を持たない。
1923年8月29日
朝食前山田さんと散歩す。
山田さんも私が親しみを感ずる人だ。
佃さんとは趣きを異にした友達だ。
この他には兵学校に親友を持たない。
自習中、休みに佃さんに会えた。
まるで逢い引きでもするような気持ちで。
しかしいつも中休みに来てくれるとなると、相すまないような気もする。
佃さんは私に会わなくてもよいのだから。
私だけ我慢すればよいのだ。
1923年9月2日〔関東大震災〕
東京方面に強震ありて、各所に火災等あり。
電信電話不通。
中央電信局火災で様子がわからない。
御見舞電報を出したが、日光へは着いたけれども東京へは行かない。
なにしろ大変な騒ぎには違いない。
夜になって来た報は想像以上のものだった。
呉から軍艦が急行する。
それで帰京をと言い出したが、校長の反対・武官の弱腰に出会してやめるより仕方がなかった。
1923年9月3日
報道はますます惨害の大、悲惨の極を報ず。
心配で、心配でたまらぬ。
秩父宮はまだ日光にいらっしゃるらしい。
なぜかは知らない。
イライラして学科はそっちのけ。
通信もよくできないので、断片的なことしかわからぬ。
それよりも無いよりはよいが、もっと知りたくて、知りたくて。
1923年9月4日
今日も焦慮の一日なり。
皇族方にも薨去された方々が数人あることが知れた。
宮城の損害はそんなにないらしい。
御殿の方面も無事らしい。
戒厳令で何びとも入れぬ由。
状況がわかるにつれ、彼人は如何、誰人は如何にと心配だ。
帰りたい、帰りたい。
武官一人帰れと言ったが、なぜか帰らぬ。
私を帰さない意趣ばらしに帰すつもりだが、帰らない。
明日はなんでも帰すつもり。
1923年9月5日
どうしても武官さんは帰らぬ。
理性のためか攻略のためか。
1923年9月8日
官長から、大正両陛下・裕仁皇太子・秩父宮・三笠宮御無事、諸事回復しつつあり、御安心あれという電報が来た。
電報が来たのは良いが、文がそれではあっけない。
帰ってもよいと言うてきたかと思った。
1923年9月9日
地震で帰りたい、どうしたいで神経がすっかり鋭くとんがってしまっていけない。
ブローム〔睡眠薬〕の必要がありそうだ。
1923年9月10日
裕仁皇太子より御手紙くる。
名古屋のスタンプなれば飛行機で来たのだろう。
もう東京へ帰るのは当分あきらめた。
1923年9月12日
17日の黄海海戦記念日に教官対生徒のテニス試合をするそうで、坂部少佐が私にも出るようにと言った。
1923年9月14日
佃さんは私にもうそんなに情を動かしていないのかしら。
片思いは覚悟の上だが仕方がない。
1923年9月15日
魚住が17日のテニスに出てくれと言うから、できないと断ったが、組を作ってしまった。
佃さんに会って断ってもらおうと思ったが、自習室に入って行くわけにもゆかず、明朝のことにす。
私が出ないなどと言ったら、坂部少佐はイヤな顔をするだろう。
1923年9月16日
魚住に「テニスはイヤ」と言った。
集会所のコートで佃さんと前田と佐藤が来てやっていたから、そこへ行って断ってくれと頼んだら迷惑そうだった。
ちょっとラケットを振ったら航海科長が来たので逃げ帰る。
試合に出ないでテニスなんかしていたらいよいよ睨まれる。
会えば佃さんだって私を捨てはしないのだもの、なんとかしてくれるって。
1923年9月17日
テニスの試合。
やはり佃さんは出た。
気の毒なことをした。
それにとんだ迷惑をかけてしまった。
1923年9月18日
佃さんに会って、昨日ワガママをぶっ通して気の毒な、済まないことだったと詫びて気がせいせいした。
出なかったことを悔ゆるのではない。
人々の気分の幾分かに影を投げかけることを恐れるのだ。
1923年9月19日
電報にて、御慶事〔昭和天皇の結婚〕は来年2月上旬か1月下旬に延ばされた。
1923年9月23日
石川〔皇子伝育官石川岩吉〕から手紙で、麻布の土地の残っているうちの5千坪ぐらいをアメリカ赤十字社の救援隊に貸すことにしたと言ってくる。
おおいに望むところなり。
手紙のたびに節減のことを言ってくる。
各宮家などもなかなか細かく打ち合せをしているらしい。
こちらは関係ないことだけれども、それでも非常な謹みをもって処すべきだ。
宮内省は破産になってしまうから。
1923年9月25日
「佃さんがちっとも遊んでくれないからぼんやりしている」と言ったりした。
「日曜には集会所に行くからテニスをしよう」とも話した。
「だけどテニスをすると坂部少佐は試合に出ろと言うから、もうテニスはしない」と言ったら、
「そんなことはないようにするから」と言ってくれた。
私は佃さんになら迷惑をかけてもよいような気がする。
変なことだ。
1923年10月7日
伏見宮博信王〔華頂博信侯爵〕はどうも神経の気味だ。
やはり御友達でも作って快活にお仕向けすることが肝要だ。
私も少し手伝うかと思ったが、よく考えてみるとそれは私の主義にもとった行為のようだ。
山階宮萩麿王も友達が良くない。
1923年10月8日
官長の手紙に、私の都合のよい時に帰ったらよいだろうと言うて来た。
今頃になってかえるにはなんか事柄がなければならぬ。
また今さら帰る気もない。
冬休みで結構だ。
1923年10月12日
2~3日中に〈長門〉が横須賀に帰るからそれで帰ったらよかろうという話なれば、私は今さらそんなに帰る必要はないと言ったが、東京で宮内大臣・皇后宮大夫のこともあり帰ることにした。
私はどうせ帰るなら試験の間にと思ったのだが、私の心事はまるでわかっていないから駄目だ。
長門で帰っても、学校へ行く時はどうなることか。
皇族ほど馬鹿げた職業はない。
1923年10月16日
上陸して見学する。
復興、遅々たり。
惨状、心痛む。
1923年10月19日
上野・本所・深川方面を視察す。
惨々々々。
1923年10月21日
秩父宮と馬に乗る。
外庭を駆け回る。
1923年10月22日
赤坂離宮へ行く。
スミスモーターフライヤーを借用して、石垣にぶつけて前輪を曲げた。
1923年10月29日
山内〔御付武官山内豊中〕帰る。
今ごろ帰るのだから呆れる。
桑折〔御付武官桑折英三郎〕もお坊ちゃんなり。
今度の中川〔高松宮家御用掛増山正興〕も華族なり。
困ったもの。
中川は次男だし華族臭の無いことを条件にしてあったのが、後で見せられた履歴には出仕までしていたとある。
これも呆れた。
四面楚歌の感あり。
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『高松宮日記』
※高松宮は海軍水雷学校在学中
1926年1月4日
甘露寺のお嬢さんが二人〔甘露寺績子・甘露寺寿子〕手伝いに来る。
これも候補者なり。〔秩父宮のお妃候補〕
姉さんの方より妹の方がニコニコしていて愛嬌がある。
顔もおとなしい。
しまいに姉の方も悪くないと思った。
朝香宮がとても西洋臭くなったことなど話題に上る。
1926年1月6日
鈴木貫太郎大将〔高松宮家顧問役〕に、武官を一人にすること、志摩〔御付武官志摩清英少佐〕をなんとかしてほしいことを話す。
山階宮萩麿王いらっしゃる。
萩麿王、堀井とは親しくなさるるよし結構なり。
堀井は満蒙に活躍したき望みあるらし。
探偵小説など好むとはさもあらん。
萩麿王も同じ探偵小説を好読さるるとは模倣の然らしむるためか。
1926年1月7日
山階宮萩麿王、御日記を持ちて来られ読めとて置いてゆかる。
萩麿王の人に交わられ友と交われるに、セックスの上に原因がありはしないか。
そうだと、それに偏しすぎるのは面白からず思う。
私についても誤解が大ではないかとも考えられる。
なぜならば私の人格を礼賛して、私のために身をどうするとまで書いておありになるのは如何かと思う。
私もお力になろうが、それは same level においての事なり。
1926年1月10日
2時参内。
大正天皇は寝台におやすみ。
今日はたいそうおよろしきとのこと。
4時過ぎ帰る。
満州の活動映画を観る。
同胞の血に彩られし地に、「平和の花を咲かすのが現在日本人の務めである」とのタイトル。
しみじみ思ったら奨励に行ってみたい気もして仕方ない。
大連市もなつかしい気がした。
1926年1月12日
「純な心持ち」というものがあることに気づいた。
性欲の研究を始めようか。
そしたら私の心持ちも純なものになることができるかもしれない。
そして清い友達ができるかもしれない。
まだ羞恥心はあるのだから。
「純な気持ち」から恋愛に近い感情も起ることもありうるわけだ。
こえは山階宮萩麿王の御日記を見つめて苦しむ産物としては大きなものだった。
ホッと息をつく。
なにせ萩麿王には私を対象とせぬよう言ってやろう。
理屈も何も言うことは要らぬ。
1926年1月14日
鈴木貫太郎大将、こないだの武官のことにて一人にすることは責任上できぬ由。
身の警衛の方面に対する顧慮より、一度に両方替えられぬ、しかし志摩は替えること。
鈴木大将に、皇族の身に持するに慎重なるべきこと、近ごろ世人の注目はよく見ておる、人民の敬礼はこれを容れるなどにて、純萃なる敬礼なるべきことを語る。
1926年1月21日
宮内次官関屋貞三郎より皇族会議ではなるたけ言わない方が良いだろう、年長の方が言う方がいいから。
別に言うつもりもなかったのだから差し支えないこと。
大谷〔宮内参事官大谷正男〕が来た時に形式ばっかりだねと言ったから、発言でもすると思ったかしら。
意見にしても、その場で説明するとそれっきりになっちまうようなものは言わない方がよいとのこと。
私には当り前のこと。
また朝香宮でも何か言えば面白いが。
1926年1月22日
運転手がチャルマースで朝鮮の苦学生を一人気絶させた。
自動車は停まっていた時で、かなたから電車の前を横切って飛んできて自動車にぶつかってひっくり返ったのだそう。
面倒な事にならず。
こちらは落ち度なかりき。
1926年1月23日
参内。
大正天皇ややおよろしき御様子にて、一昨日より解熱剤を差し上げざる由。
1926年1月27日
皇族会議。
朝香宮、例によりて出問なさる。
だだし愚問なり。
1926年1月29日
山階宮萩麿王に御日記を返す。
手紙添えず。
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『高松宮日記』
※高松宮は海軍水雷学校在学中
1927年1月14日
秩父宮「三連隊の人々に会えるのが楽しみだ」と仰せになったって新聞に出ていた。
真実だろう。
うらやましく思う。
私もこうした真面目な親しみを覚えたい気もする。
また三連隊の人々が同じ真面目なお親しみをもってお待ちしているのがうらやましい。
私には及びもつかぬ、真似もできぬところの一つだ。
1927年1月16日
節子皇太后も秩父宮をお待ちかねなり。
「お気の毒にてお会いするのがイヤになる」とも仰せあり。
また「言うこと多くて何から言ってよいやら言い様なし」とも仰せらる。
平凡なる文句なるも、この場合御心を推し奉りて感万量なり。
1927年1月19日
休憩室で賀陽宮恒憲王に拝島へいらしゃったお話を伺う。
21と18の運転手ぎりで同性愛に陥ってらっしゃるようだった。
山階宮常子妃に好感を有せられず。
あまりよくないよう等々。
1927年1月22日
秩父宮ふたたびオックスフォードにいらっしゃるおつもりにてイギリスでも今でもそう考えているが、さて帰ると節子皇后の御心中を思うと再び出発する気が弛む、理性と感情との衝突が非常に苦しいと仰る。
秩父宮なればこそ、そうした煩悶に悩まされになるのだ。
オックスフォードも2月からのタームは駄目だから、4月末からのタームだけにして御一年祭までには遅くとも帰る。
再び渡英なさることは現在各方面に具合悪いかもしれぬげ、もう一タームをなさることによって得られるものは将来御つくしになるために現在の不都合をつぐなってあまりありと御考えになる。
私としてもそれだけの御真面目な熱心を持ってらっしゃるなれば、むしろ再びなきこの機会にもう一タームをイギリスにお過ごしになるよう御賛成する。
1927年1月26日
秩父宮と宮城で御話して遅れた。
秩父宮は明日宮内大臣一木喜徳郎に会ったら、
節子皇太后が「東久邇宮稔彦王が御帰朝後は御出発の時は大正天皇の御代だったし、天皇も誅などに対して起立して敬意を表されるのだから、まず第一に殯宮に伺候なさってそれから赤坂離宮へいらっしゃるがよいだろう」とのこと。
大正天皇にお会いの時お仰せになる御語を宮内大臣が作っているそうだが、その中に譴責的な文句があるはずだが、これは東久邇宮をいよいよ窮せしむる所以で、すでに十分良心に苦しんでいるのだからむしろ温情をもってしかも厳然たる容姿をもって御迎えになる、御語もなるべく少ない方がよいだろうとのことを言ってくれとのことなり。
1927年1927年3月1日
宗秩寮総裁仙石政敬談として秩父宮御渡英中止の記事として出たのがとても不出来だったので、皇子御殿へ行ってみたらやっぱりお気に入っていなかった。
1927年3月2日
温泉行き、例によって億劫になってやめ。
増山〔御用掛増山正興〕が風邪をこじらして肋膜がどうのこうのと言って休んでいるから御供がおりません。
武官さんなんか連れて行っては静養にならない。
1927年3月6日
侍従長珍田捨巳が来るので面会しに行く。
例の島津治子事件のこと。
1927年3月8日
宮内大臣一木喜徳郎に会う。
例の女官長事件問題、宮内大臣いまだ意決せず。
1927年3月17日
秩父宮のところへアームストロング来れる由。
土曜日に見に行き、よかったら譲っていただく。
1927年3月30日
去年陸軍に頼んで断った運転手を聞いたら、二名ともいつでも手放す由。
最上のが陸軍省、次のが自動車学校にいる由。
履歴書を頼む。
秩父宮のところへ推薦するつもり。
1927年3月31日
アームストロング・シドレー日本自動車に土よけを付けたり塗り替えたりに出したのができてきた。
明日から使う。
皇族は自己の目的に精進しえない。
結局は虻蜂取らずで終わるより仕方なし。
予をして性欲に対する顧慮なからしめば、すでに偉人たるべきのみ。
1927年4月1日
今日からアームストロング箱〔セダン〕を使う。
1927年4月2日
日本商事に来ているブーマン来る。
メルセデスを見せる。
ちょっとハンドルを直しただけ、オールライト。
1927年4月3日
アームストロングはスピードはかなり出るが、田舎道にはスプリングが柔らかすぎる。
帰りデコボコ道でグッと止めたら、ボディが歪んで前左と後右のドアが開きにくくなった。
ペーブメントの上だけで乗る車だね。
1927年4月13日
水校〔海軍水雷学校〕卒業。
試験はずべる〔さぼる〕
それでも卒業。
1927年4月14日
砲校〔海軍砲術学校〕入校式。
1927年4月17日
とても良い天気なり。
ドライブに行きたい。
増山〔御用掛増山正興〕が出てこないので、御供難なり。
さりとて武官を連れて遊山に出かける気にはなれない。
1927年4月19日
武田を呼んで有栖川宮慰子妃の御服飾の処置につき尋ぬ。
節子皇太后が有栖川宮慰子妃へお頼みになりしと。
これを喜久子へ御遺贈になると、有栖川宮慰子妃が平常から言っておられた由と行き違いあるようなり。
1927年8月28日
すると言ってさせてもらえたことはこの一月なんにもない。
そんなに私は何をするにも能力がないのかしら。
〈比叡〉の中に棲んでいる油虫と大差なし。
1927年9月10日
今朝、内親王御出産。
ああ、イヤになっちまう。
男子はできぬかな。
また秩父宮の妃殿下面倒なりか。
1927年9月27日
節子皇太后より秩父宮妃の候補としてお考えの者の話承りたれば、竹田宮へ行ってお話しておく。
1927年10月5日
秩父宮の御新邸は表町御殿だそうな。
なにも御殿名をつけなくてもよかりそうなもの。
私の方は御免蒙ります。
1927年10月6日
敏子〔東条坊敏子〕が女官を辞めたと新聞に出ている。
とうとう快癒に手間取るというのかしら。
気の毒と言うより私が悲しい気がする。
運命は彼女を幸福づけなかった。
彼女の身辺にも恵まなかった。
二人の妹は如何に。
弟は如何に。
女官の中で私が好きだった敏子。
先には土御門〔土御門賀寿子〕が辞めた。
これは元気が良すぎたのだが、こうして私が好きだった人は一般的ではない。
それはそうだろう。
目のよるところへ玉だもの。
健全ならざる私には健全なる人が近づけられるはずがない。
今残っている慶子〔大原慶子〕果たして健全なるや。
1927年10月31日
士官室の若い士官をくすぐったり、自分でだらりだらりと歩いたり、ふざけ散らしているだけだ。
それを面白いとは自分でも考えていない。
他にすることがないだけの話。
皇族たるの威も誇もあったものではない。
自分で自分の面を汚しているぐらいは知っている。
まったく常軌を逸している。
せっかく艦隊の艦に乗せてもらっても今度のように特別扱いの配置にされて、するなするなさせるなさせるなと言わぬばかりに仕向けられては、する気になれずまたできもしない。
ちっとも私の気持ちを汲んではくれない。
もともと気短な私にしてみれば腹も立つ。
今まで海軍軍人に憧れも希望もなかったけれどお、軍艦に乗れば分隊も持てるし、同じ年頃の人と愉快に話せるし、下情にも通ずるよすが、堅苦しい生活から逃れる慰めともなれば、艦の生活は私にとって東京なんかの生活よりよっぽどましだと思いしも、人にも言ったが今度初めてそうでなくなった。
そうした気持ちを自分でごまかすためにふざけ散らすより他ない。
泣き笑いだ。
弱い心の持ち主だけど仕方がない。
小人閑居して不善を思わざるべからずだ。
私は〈比叡〉の油虫
立派なお部屋に納まって
たらくふ食ったらちょろちょろと
ふざけ散らして毎日を
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『高松宮日記』
※高松宮は海軍砲術学校在学中
1928年1月5日
宮内大臣一木喜徳郎来談。
秩父宮の妃殿下のことなり。
これでスラスラとゆくことだろう。
1928年1月12日
宗秩寮総裁仙石政敬を呼んで、皇族の行為について世間の批判を受けたようなことはこれを回覧しろと言ってやった。
1928年1月14日
大宮御所へ。
秩父宮妃のことで御満足のようだった。
1928年1月20日
イギリス大使帰国につき、秩父宮邸にお招きになったので私も行く。
とても久しぶりの英語で、結局わけわからず。
1928年1月21日
夜は秩父宮へ泊まる。
もうじきお嫁さんが来たらやめる。
1928年1月22日
鴨猟。
大した獲物ではなかったが、一日を面白く暮らして竹田宮に乗せてもらって帰る。
メルセデス成績悪しからず。
クラッチがちょっとカタカタしたりするが、明日本当の試運転。
1928年1月27日
メルセデスの修理完成して使う。
やっぱりとても乗り具合よし。
1928年2月4日
大宮御所へ。
なんだかこのごろ行く気がしなかったので御無沙汰していた。
秩父宮妃のことも何となく気になったし、僕の方のそれもお急ぎのようだったし、赤坂離宮へちっともおいでにならないのも、私として大宮御所へ伺いかねたわけだった。
1928年2月11日
秩父宮へ行って、東久邇宮・野口侍従・小山侍医などとスカッシュをする。
1928年2月22日
日本自動車からエセックスを持ってきたので見たが、あまりよくないからハドソンにしようと思って見合す。
1928年2月24日
戦艦〈八雲〉
とてもがぶる船だ。
湾内で酔っぱらったなんて、自分ながらイヤになっちまう。
1928年2月27日
越ケ谷鴨場へ行く。
イギリス・ベルギー・スペイン・シャム・支那の連中なり。
とてもしゃべれないので困った。
でもどうにかこうにか暮らして帰る。
獲物はごく少なかった。
1928年3月3日
兵学校卒業式に出ぬとて武官さんをいじめてやる。
実際いじめてやらなくては、わけのわからぬことおびただしい。
ちっとも頭を働かさないのだからね。
1928年5月20日〔遠洋航海中〕
フィリピン人の怠惰なる、とうてい独立のことを考うるに至らず。
米作をなすに田に種子をまき散らすのみ。
雑草の丈、稲をしのぐ。
気候は二毛作に適するも、その最もよき時機に一回を収穫するのみ。
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『高松宮日記』
※高松宮は海軍砲術学校在学中
1929年1月4日
北白川宮へ。
ダンスなどやる。
上野正雄伯爵、酔っ払い手こずらす。
1929年1月6日〔伊勢神宮〕
外宮参拝の時 山口の奴〔御付武官山口儀三朗〕がボヤボヤしてどんどんついてきてしまう。
神官に注意されてもなんだかわからぬらしく、ちょっとそれを気にしていたら玉串を反対に供えてしまった。
そして山口の奴はその失態を謝りもせぬ。
言語道断の奴だ。
もともと馬鹿ではあるが。
1929年1月17日
スキーのためにのみ行くことを示すために、スキー靴・ニッカボッカで出かけた。
北海道が大袈裟のようだから。
1929年1月19日
ヘルセット中尉のコーチで練習をやる。
とても前へ重心を置くことができないのでうまくゆかぬ。
今日の練習はお兄様の時のように人がたからず良かった。
1929年1月21日
ヘルセットとスネルスルードがスキーを持ってくる。
秩父宮に一本、僕に一本。
ノルウェー陸軍式である。
1929年1月25日
3度に1度はステムクリスチャニアものになる。
1929年1月27日
秩父宮お風邪の由。
ノルウェー選手からのスキーをもってお見舞いす。
御勉強のお疲れならん。
1929年2月3日
来年の外遊・結婚の経費、取り調べを始める。
それに新築と少し使いすぎるようでもあるから。
結婚はできるだけ節約してしたい。
1929年2月10日
川崎近くで同行の自転車をよけようとして反行の自転車を跳ね飛ばし、ブリキ屋の小僧に打撲傷を負わす。
仰向けにひっくり返ったのでどうかと思ったが、三週間でよくなるだろうとのこと。
右足の筋肉に異状のある由。
大屋にやらしてる時だった。
宮内属亀井弘をすぐ見舞かたがた警察との連絡にやる。
メルセデスすっかりイヤになる。
死ぬようなことになったらと心配した。
1929年2月11日
高松宮務監督石川岩吉昨日の小僧を見舞い、親元へ30・雇い主50・本人に10、見舞金を渡す。
および治療費を負担す。
警察の話により。
事故は小僧に悪い点なくこちらの過失を免れざるも、別に責任を取るほどでもないことになった。
宮内次官関屋貞三郎に会う。
結婚・外遊のことにつき話す。
●結婚は相手の卒業後に具体化すること。挙式は内約をせば早きを可とす。
●外遊は一年ぐらい。来年。
1929年2月16日
山口の奴〔御付武官山口儀三朗〕が7時前にノックしやがった。
あのお馬鹿さんにも困ったものだ。
二度もノックしやがった。
海軍大学校を13番で出た奴はあんなに頭のよいものかな。
すべての態度が気に入らぬ。
とても紳士の間に連れて行くのはきまりが悪い男だ。
1929年2月18日
明日艦の人と日本光学工業見学のつもりのところ、武官さんがついてゆくとのこと。
急遽やめる。
馬鹿にしてる。
勝手にしろ。
面白くない。
軍港内ならついてゆかぬけれど、東京だしとさ。
不愉快だ、不愉快だ。
あいつらの面を見るのもイヤだ。
私の気持ちをわざと知らぬふりをするのか。
一を捨てて二を取ることをせぬ。
大なる結果を取らずに小なる目前に執着する。
そのような武官がなんで私の武官の価値があるか。
私のつら汚しだ。
1929年2月23日
このごろ盛んに結婚のことが新聞に出る。
どうも大宮御所の中に漏らす人がおるらしい。
徳川頼貞の邸を借りることも、いつのまにか東京日々新聞が嗅ぎ出した。
断然借りるのをやめることにしよう。
増築で間に合す。
1929年2月25日
大宮御所へ。
結婚につき御思召など伺う。
時期はやはり20歳の来年の方が良いらしいが、12月でならぬとはおっしゃらぬ。
まあ、2~3月か。
約束は4月帰京前にしたらとのこと。
五島来談。
五島盛輝子爵は幼稚園からの御学友で、一番私に親しみを持っている人。
いわば壮士肌だが、もっとしっかりしている。
1929年2月26日
山口武官、肺炎やら胸膜炎やらわからぬが昨日入院。
高熱なるも病名決定せず。
鮫島〔御付武官鮫島具重〕曰く「療養させた方がよいと思うからその手続をする」と。
「いけない。艦の職員ではないのだから、そのままにしておけばよいのだ」と教えてやる。
療養させるなら代りを作るべきだ。
お馬鹿さんには武官は二人なくてならぬという海軍大臣の言い分がわからぬらしい。
不戦条約の「人民の名において」が問題になっている。
本当にあれでは国体と容れぬ。
それを調印するとは駄目だな。
1929年2月28日
風強く動揺するも、机上のセルロイドのキューピーが不安定となりしのみ。
1929年3月2日
鮫島〔御付武官鮫島具重〕はどのぐらい俺に対して誠意で尽くそうとするのか。
いくら表面を作っても、こうした俺の言うことを聞かぬ、感情的に些の満足も与えぬ勤めぶりで何が務まろう。
能力なき者には二度でも三度でも実行すべく言うこともあるが、できることをしない奴に、誠の底を持たぬ奴になんとも言う気になれぬ。
1929年3月16日
高松宮務監督石川岩吉より徳川家の返事としては、
「特に申し上げよとのことなれば、11月は慶喜・1月は慶久命日なればそのことを」とのこと。
大宮御所にも伺い、期日のこと宮内大臣・徳川家に内報せる由。
すなわち「1930年2月初午過ぎの吉日」
1929年3月18日
とてもよい天気なり
さりとてあの武官さんを連れて上陸する気にもなれず。
1929年3月21日
宮島に着く。
二時間ばかり士官室の人たちと散歩す。
久しぶりにもみじ饅頭を食べる。
憲兵がついてきた。
いつのまにか嗅ぎ出して。
馬鹿な憲兵だ。
帰れと言ったが、とうとうしまいまで着いてきた。
1929年3月26日
高松宮務監督石川岩吉との話。
内約の件は御思召によりては、5日・8日・12日が日が良い日なれば、5日に宮内大臣に仰せいただき、8日徳川へ、12日にその返事を取りて内約・発表、その日に勅許を願う。
1929年3月30日
北白川宮へ。
良子皇后御参内になるから、節子皇太后との間が上出来のようにするなどお話して。
1929年4月7日
出港用意にて甲板にでれば、写真屋三方より取り囲む。
癪にさわる。
パチパチやるので乾板を没収す。
1929年4月11日
山口の〔御付武官山口儀三朗〕恩給年加算の都合にて引き入れのことにす。
その時また鮫島〔御付武官鮫島具重〕をとっちめてやる。
1929年4月12日
高松宮務監督石川岩吉より婚約勅許のむね来電。
三陛下に御礼電発す。
節子皇太后より御よろこびのむね電あり。
1929年4月13日
今日当直だったが、副長が私の婚約につき御祝杯をするからとて当直の代りを寄こしたから、断然祝杯を止めさす。
無邪気な気分で杯をあげるのはよいけれど、当直を代えてに至っては馬鹿にするにもほどがある。
1929年4月26日
品川にて写真屋数名取り囲むも、なるべく撮らせず。
ついに玄関まで追って来た。
1929年4月29日
観兵式。
馬には乗らぬつもりだったが、秩父宮が乗れ乗れとおっしゃるので少し乗ることとす。
1929年5月1日
床屋に髪をつませて明日のためにめかす。
1929年5月2日
東京駅にグロスター公を迎えに行く。
昭和天皇の御供をしてホームへ。
昭和天皇の御紹介にて握手。
手袋を取るのかと思って取ったら、彼はそのままだった。
8時より秩父宮邸でディナー。
グロスター公の英語は聞き取り難し。
1929年5月3日
ガーター勲章贈献式。
荘厳に行わる。
グロスター公も重荷を下ろされた。
すべて誠に重々しく行われ、勅語も御上出来なり。
7時、宮中晩餐。
通訳なしにスピーチも両国語でそれぞれ。
1929年5月4日
海軍大臣岡田啓介のグロスター公殿下招宴へ。
話せぬのに隣に座らされて困る。
1929年5月8日
大宮御所へ。
落合大使未亡人〔落合謙太郎の妻落合タカコ〕に御用取扱交渉の件、申し上ぐ。
洋服などの準備に6~7万入用だそうな。
女の洋装はどこまでも不経済。
もっともそのために有栖川宮から徳川の方へ金が行っているんだそうだけれど。
1929年5月9日
グロスター公お別れの午餐。
いつも秩父宮妃の両隣がグロスター公と僕。
おかしくなってしまう。
1929年5月12日
金子子爵邸に晩食に行く。
細君〔金子武麿の妻豊子〕が虚栄家で、逗子ホテルで会った後も私のことをどうとか言っていたとか高松宮務監督石川岩吉が心配していた。
1929年6月2日
高松宮務監督石川岩吉から結婚や外遊の準備の女の着物の調べを寄こす。
徳川家で60,449円、こちらでヨーロッパに入ってから買うのも加えて22,170円。
洋装だけ。
女とは買うものなり。
買われるものにあらずか。
1929年6月28日
山口〔御付武官山口儀三朗〕が中山から来た手紙を誰かって先任伍長室へ聞いたり平野に聞いたりしていた。
馬鹿にするにもほどがある。
私のことを詮索だてしやがる。
いつになったら気に入るようにしようと言うのだ。
甲板だったが小声で怒りつける。
一日中極めて不愉快なりき。
武官さんとは私を不愉快ならしめるものだ。
そして馬鹿にするものだ。
ちぇっ、癪にさわる。
1929年9月13日
温泉会社の話など聞く。
小塚山の南の分水嶺が別荘によさそう。
2千坪買うか。
坪10円ぐらいでよさそう。
1929年9月16日
今日は大杉栄の死せる日か。
彼の随筆的なものは好きで読んだのだったのに。
いわゆる主義者の中で私にとって親しみを感じられた人だった。
著書の上で。
彼の主義はちっとも知ろうとしなかったけれど。
1929年9月20日
小塚山鞍部の土地を見に行く。
あの辺では一番よさそうだから、宮内大臣がよしと言ったら2千坪、2万円ぐらい買っておこう。
1929年9月25日
今日も外出せず、まとまって読書もせず。
どうも軽く寂しい不安を感ず。
友だちのいないのや、皇族として社会的無価値な生活や。
1929年9月28日
秩父宮へ行き、秩父宮妃と御馬場の三笠宮の打毬を見に行く。
三笠宮なかなか上手なり。
節子皇太后の御供にて洗心亭にて御茶をいただき、御畠を拝見して秩父宮妃と一緒に帰る。
1929年9月29日
田中義一大将急逝す。
時節柄気の毒にも思えるし、また生きているのも気の毒な気もするし。
1929年10月26日
大宮御所より三里塚の薯などいただく。
石川宮務監督がその後 様子を申し上げぬから、御催促だろうと心配す。
あまりに大宮御所をビクビクしすぎる。
1929年11月2日
秩父宮へ行く。
御一緒に帝展へ。
日本画多すぎてうんざり。
1929年12月8日
西郷〔同級生西郷従純〕を呼び一時間話す。
古河へ養子に行く由。
非常なる勉強なり。
頼もしきこと限りなし。
1929年12月9日
侍従長鈴木貫太郎来談。
現在の武官の仕方は私の気に入らぬことばかりであり、また気に入るようにやらしていない。
●その任務は公の場合のみにして、私上のことに関してはつけたりする程度を出ず。
●型に填るのは最も禁物なり。
人の気持ちには一定の法則があるようで千変万化なることによる。
●要するに武官のやり方は私の気持ちにピタリピタリと合って行かねばならぬ。
●武官の不必要を認めない。
しかし私上のことには少しでも立ち入らせたくない。
もし私が自ら秘書として認めた人ならある程度私上の問題に携らせることも可であるが、武官は決してそうではない。
私の理想としては宮務事務の一部である金銭出納、地方官との折衝などもやらせたくはないのである。
平服を着せて供もさせたくないのである。
●武官は公式上の者であるが、みるからにカチカチぎこちなくではどうにもならぬ。
やはり場合〃〃に応じて「気をつけ」「休め」式にパキパキやるのは気持ち良い。
また実際上あまり礼儀正しくありすぎても、写りの悪い時もある。
ゆっくりやるのがよく見える時と、敏捷にやるのがよく写る時と、いろいろあることに注意を要す。
●対外的な武官の態度、例えば新聞記者との対応は注意を要す。
私としては時流に投ずる的な語は欲せず、世間の耳目に遠ざかる主義であること、しかも皇族の威厳を保ちかつ皇族が超人間でないことに注意せねばならぬ。
大宮御所と宮城との折り合い、融和に努めるべきむね話す。
かかることは侍従長のなすべきことならざるがごときも、今としては侍従長の仕事拡大せる以上、また侍従長として努めざるべからざることなりとは難しきことなり。
1929年別紙
皇族が軍籍に身を置くことを絶対のものとされていることを不可解にしか思えない。
第一皇族がなぜ必要なのか、どうも皇族は要らないもののようにしか思えない。
もっとも日本が万世一系の天皇の統べたまう国であるために、その嗣継のために皇太子が必要でありそのまた予備の人がほしいことも否定できぬことであるが、しかしそれは無数無限の予備を意味しない。
その数を学理的に計算した人はまだないであろう。
まあ一人ないし二人と考える。
してみると私が皇族の地位におらねばならぬ理由にしかならない。
私が皇族として無価値だと言えない。
けれども単にスペアとして生きておるのが皇族であると言えないと思う。
生きていてそして悪いことをせぬことがスペアとしての全生命であり全任務であるからそれで皇族の価値は存在する理由になるかもしれないけれども、また一方十分なる徳をそなえそして智識を持つことが予備者として必須条件であらねばならない。
そうすると皇族は単に内部的なもので能動的なものでないと言いうる。
またある意味で私もそれを肯定するものである。
しかし現在周囲の事情は皇族の修学に対して考えられていない。
少なくもその便宜が与えられていない。
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『高松宮日記』
1933年1月14日
喜久子、女中候補につき石川宮務監督を絶対信用せずとか、〈ともえ〉のことを見るもイヤとか言いて、男の採用せる者はすべて駄目と言う。
叱りつける。
1933年2月16日
女中〈ともえ〉いよいよ下がった由。
喜久子の文にそれを名残惜しくとでも書きあることを願っていたのに、やはりそうした気分は何にもないらしい。
1933年2月21日
23日上陸、伊達家にて昼食のこととす。
19日に同邸内にて三井男爵夫人〔三井高弘の妻伊達照子〕が死去せりとのことなりしも、遠慮に及ばずとの判断なり。
かかる場合に寺岡〔御付武官寺岡謹平〕が情況を確かめること甚だ不得要領にて困る。
かかることも武官のやり方口のきき方によるなり。
そのための武官なるにあらずや。
1933年2月23日
伊達邸へ。
給仕する若い女はその辺のお嬢さんなり。
着物の着方はやはり田舎らしきところあり。
田中とかいうお医者さんの娘は顔整いたり。
穂積というお嬢さんは穂積重遠博士の姪になるらし。
他に平田という年増は家の人にて、着物など一番落ち着きキリッとしていたり。
三井未亡人は昨日告別式あり、京都に葬るらし。
やはり今日は来ない方がよかったと思った。
1933年2月25日
東京より仔犬の写真来る。
思ったほどにかわいくなし。
今度カルシウムを飲ますように言ってやる必要あり。
1933年3月31日
佐世保へ。
久しぶりの入港なり。
佐世保鎮守府司令長官左近司政三来艦。
4月3日に例年のごとく長官邸にて園遊会を催すから、来て見よとのこと。
「本年は非常時なればやめようかと思ったが、部外の人も毎年これを楽しんでいるなれば、いつもの手おどり等やめてガーデンパーティーをやる」とのこと。
手おどりぐらいやればいいのに。
1933年4月25日
徳川実枝子〔有栖川宮実枝子女王・徳川慶久公爵の妻・高松宮喜久子妃の母〕逝去の報あり。
この1月にお会いしたのが一生の名残と誰が知っていたろうか。
徳川一家もあちこちに不幸不運の続出している時に、つきぬ心配やらなすべきことをまだまだ残していかれた。
かえらぬ繰り言ならが、せめて3~4年喜久子に子供を作ってお祖母様にしてから今日のことにしてあげたかった。
私にしてみればだだ実枝子様に対してではなく、節子皇太后に対しての私の務めであり、そのニュースを携えて有栖川宮威仁親王〔実枝子女王の父〕なり有栖川宮慰子妃〔実枝子女王の母〕なりのもとへゆかれるのだったらあきらめもつくのだがつくづく思う。
後の徳川慶光さん〔喜久子妃の弟〕なりなんなりの面倒も見ねばなるまい。
とても人の命のはかなさが考えられる。
1933年5月23日
立花種勝&北白川宮美年子女王夫妻をお招きして、御結婚後初めてお目にかかる。
美年女王とても御謙遜にて御挨拶など丁重を極むとの噂なりしも、今までと大して変わったことなく愉快にお話す。
1933年5月28日
徳川慶光・二妹〔喜久子妃の兄妹〕を呼び夕食を共にす。
慶光さんも母を喪い急に大人びたし、アカの方に引っぱられかけるらしかったが、本人はそれを警戒していた。
1933年6月6日
伏見宮邦芳王の御葬儀に参列。
幼年校まで修められて御病気になられたことを聞いて、ややお気の毒さを加えたり。
1933年6月16日
今朝卦面が良くなかったので、一日つつしみの心去らず。
夕食に至りてやれやれ。
大凶を気にするはよくないが、つつしみて修養とするは可なり。
1933年6月26日
小学校の四年ぐらいになると、何がなしに睾丸が意識されてくる。
年長の人が中学ぐらいで柔道を習って釣鐘の急所を伝える。
そして性欲の感じでなしに他人の睾丸をつくことに興味が湧く。
また巴投げが面白い技に考えられる。
その程度が3~4年間は続く。
自分で自分の股間に手をやる癖もついてくる。
そのうちに夜中就寝中に遺精をやる。
そしてサルマタなりフンドシなりの汚れが羞恥の心を呼び起こす。
しかしそれが生命の根本である精子とかいうことについては何らの知識もなく女の連想もない。
その間にはインキンになって痒くもなる。
また陰茎の硬直も起ってくる。
友達との間にも二通の種類ができてくる。
そして触感によっていっそうの満足が感じられるようになる。
あるいは懸想の友情になり同性愛高潮となる。
しかしそれが陰茎に手を触れ合うようになると、射精の興味にまで行かぬまでも他人の陰茎を摩擦しまた自分のそれを硬直そして他人の手により摩擦されることに快感を忘れることができなくなるのであろう。
一度そうして手淫を覚えるとそれはやめられぬ、相手を見出さねばおけない。
しかしてそうした相手を見出す第六感はかなり鋭敏になる。
そのころにはまた女を経験する年輩になる。
また女との性交には正統なる快感と執着が生じてこなければならぬ。
そこには花柳病が待っている。
しかし性交そのものと同時に、女との接触には大きな享楽があるのである。
1933年7月10日
台南神社参拝隊出発。
先導の船がソロソロ走る。
桟橋もものものしく、今さらながら呆れる。
先駆・サイドカー2台・警察部長と憲兵中佐のオープン、がっかりなり。
町の生徒が並んでいるのはよいとして、30分前よりの交通止め、がっかり。
やっぱりここでも一定の所だけで並べ、自分の家の前でもいけぬと言うのだろう。
貸家札を貼りつけたいように戸を閉めた家が並んでいる、またがっかり。
牛車で路面を痛めると話ながら、牛車がいない。
田畑に耕す人も水牛もいない。
今日は人と牛はみな引っ込ましてあるのだ。
せっかく田舎の景色を見ようとして、ちっとも趣が添えられなかった。
並んでいる人は日本式によくお辞儀をした。
1933年8月19日
パラオ島に上陸してみた。
コンレイ村に内地に3年ほどいた少年がいた。
村にいるとやはり生まれつきの怠け者になる傾きがあるので、長官は役所で使ったらと言っていた。
私は今度の南洋で気になりだしたことは、人間は食うことが最大の欲かどうか、人生の目的として食えれば満足しうるのが本能であるかどうかということであった。
少年は内地で十分文化的生活を味わい、また見聞きしているに違いない。
それが村に帰れば裸足で半裸で何らの慰問なきコンレイ村に安住することはどうしたことか。
南洋は食う物はほとんど労せずして得られる。
家は作らねばならないが、それとても簡単なものしか持たない。
その衣食住は極めて単調なのに、満足して向上心もないというのは、どうしても食えて着て住むことが心配なければその最小限度で人生は満足できるのであると言わねばならぬ。
それが他に知識なければそうも言えるのであるが、十分文化を知った者がこの単調な最低な生活によって向上心を再び捨てるというのは何事を語るであろうか。
本能としては華美を欲し驕奢を好むのではないか。
もっとも安逸を願い労苦を厭うことは乞食三日すればやめられぬのたとえで知れる。
すなわち条件は徒食にある。
そうに違いない。
臥薪嘗胆には耐えるが、懲役・奴隷の労働には耐えぬのでもある。
空論としては、衣食住が満足されるならば、それは必ずしもその上を欲し現在に不満を感ずるものでないのではあるまいか。
衣食足って礼節を知るというのはそれを語るのであるが、礼節が労苦を伴う時やはり行われぬものとなろう。
要は食って怠けることにある。
ここに奢侈を捨てることの容易であることが知れよう。
同時に人を働かせることの、また自己を労することの困難なることが悟れよう。
1933年9月3日
宮ノ下御用邸を見分する。
考えたより地形の悪い敷地だ。
残そうという御殿も景色は見えず、場所が具合よくない。
水道があり温泉がかなり出るのが取り柄なり。
1933年9月10日
武藤信義元帥が満州に客死して男爵になったことは彼の人の勲功からして然るべきことであるが、その人が世を去るに際して授爵のことはないのが内例になっているのは過去の実例によるのである。
まず今回は特別の扱いとして別に差し支えのあることでもなく、これがなくては物足らぬ状況でもあった。
武藤元帥には二人の女の子があって男子はなかった。
それで姉の方に縁談があったが、女子のばかりだから廃嫡にせねば他へは縁づけぬのだそうな。
ところがどうも廃嫡とは気持ちがよくないと考えていたところへ知恵を授けた人があったらしく、細君の親戚のまだ二つか三つの子を養子に入籍すれば、その子が相続者になるので廃嫡などせずに片づけるというわけで、そういうことに手続をした。
もちろんその子供はほんの一時の借り物で、姉さんがお嫁にゆけばその子供は離縁となって元へ戻る。
そういうつもりの細工であった。
そこへ今度の急変でその子供を戻す前に武藤元帥が亡くなられた、そして男爵になった。
さあそこで多分副官という人であろう、その借り物の子供に男爵を継がせたらというわけで、実は27日に亡くなられたのを28日にして、その間にその子供を離縁して元へ戻したわけだった。
これは実に機敏な処置だった。
ところが法律のいたずらは続く。
華族令では男子がなくては襲爵はできないことになっている。
養子がそのままいればよかったのだが、養子を出したために妹の方が相続者になって、それに入籍したのでは襲爵できぬわけである。
元帥の血統の女子によって男爵を継がせようとしたのができなくなった。
それでどうすればよいかとなるとその妹を元帥の遺言で廃嫡にすればよいのであるが、役場には妹が戸主となることを届けてしまうし、その辺の実情に暗いことなどあってどうにも取り返しがつかなくなった。
襲爵は三年間であるからまだその方は期限があるが、その養子を外に出したのが武藤元帥の意志でなかったという訴訟でも起こせば何とかなるのであるが、それでは私印の盗用になるというので陸軍省の恩給課長も頭を悩ませて、しようがないということになったそうである。
そのころ新聞に元帥の一代華族主義とかいう記事もあったりして、それでこの事件もおさまるらしい。
1933年10月11日
ハドソンを見たりす。
右ハンドルに直すとオートマチッククラッチを脱すことになり、どうも買う気になれず。
1933年11月12日
朝香の叔母さん〔朝香宮允子妃〕柩前祭。
いつか来るべき御葬儀ながら、これほど悲しき心地はなし。
涙にじみ出づるも止め得ず。
1933年11月25日
ビックがまた欲しくなったので、オースチンを持ってくるのをやめて、この幌を買えと言ってやる。
今度の市岡武官〔御付武官市岡寿〕はMGの短い、傾けたらひっくり返りやすいような人だ。
叩けばカンと言ったきり余韻の残らないような気がする。
1933年12月23日
皇子御誕生の由。
7時少し過ぎに電話にて承知。
まことに私も重荷の下りたようなうれしさを、考えてみればおかしな話ながら、感じてやまず。
1933年12月29日
参内。
新宮に見上げたり。
とても赤いお顔にて、お鼻大きく高く見受けたり。
シャンペンの杯をあげ、退出。
継宮とはちょっとおかしい気がしたが、よくよく明仁とつけてみると良いお名なり。
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『高松宮日記』
※高松宮は海軍大学校在学中
1934年1月7日
新宮が御誕生になってみな大喜びだ。
しかし秩父宮も御同感のようだが、はやり御教育方法が心配になる。
新宮の御養育御教導ほど重大な問題はあるまい。
すでに照宮成子内親王その他の方々の御養育で経験もある通り、早くその方策を決定し計画を立ててかからねば失敗するであろう。
そしてこれは一般論ではいけないので、現実に即し今日に適した特殊な方法でなくてはならぬ。
昭和両陛下は共に極めて御やさしい。
おそらく本当に御叱りになることはあるまい。
しかも二方とも大して御強壮な身体でない場合、そこに生まれる御子は気丈な方でない方が普通であろう。
してその上に育て方が弱々しくされることによって、男さんについて果たしてどうであろうか。
照宮成子内親王ですら、魚屋とか何屋とか果てはお寺というような物についての概念を持っていられないで、国語読本等に関する興趣もおわきにならず困るような話である。
まして御成人後はいよいよ下情に遠ざかられる立場の方が、自由なるべき小学時代までをそんなことで甚だ困りものである。
1934年3月1日
とうとう満州国が帝国になった。
しかしやれやれと息をつくどころではない。
少しは良くなったかしらと思えぬこともないが、新聞の記事によれば外国でも相当この新帝即位を書いているようだがどういうものか。
ますます関心を深らしめ自重すべきだろう。
1934年5月18日
矢田氏の話。
参議は日本人3人・漢人4人・満人3人・蒙古人1人だそうだが、机のあるのは日本人3人のみで蒙古人はほとんど新京にはおらぬ。
参議の会の時だけ支那人が出て来るのだそうな。
それではならぬから、自動車も役所のを用いるように机も置いてやることにするそうな。
どうせ大綱は握っているので、せいぜい気持ちよくしてやるのが必要だ。
移民問題も雑居では駄目だというのでチャムス付近で広大な面積を一町一円で買う強制、それもはじめ武器の証明をやると言って武器を持って来させて取り上げ、地権も取り上げていつその一円をやるかもしれぬ有り様に、地方人が放棄して飯塚部隊の全滅、軍旗も失われたという噂もある。
とても静まる見越しなく、これには軍も失敗を自覚したらしい。
それで満鉄の300万円に満州の300万円を足すことにしたそうなが、その時の閣議にも臧式毅は無言で終始した。
死の沈黙と言われている。
移民問題も当分駄目と言われている。
臧式毅が一番反抗の底力があるらしい。
なにしろもっと支那人を楽しませなくては仕方なし。
1934年5月31日
宮ノ下御用邸を改造した家へ泊まりに行く。
思ったより新しそうに見えてよろし。
温泉は透明で頼りないが量は十分なり。
1934年6月1日
細川護立侯爵が見送りに来ていてメロンの籠をくれた。
車が発してから見たらソラマメがつめてあったので、知らないでもらって残念なりと悔しがる。
〔高松宮夫妻は細川侯爵にソラマメというあだ名をつけていたので細川侯爵がいたずらをした〕
1934年6月9日
東京での話で武藤山治氏の暗殺は、その場で刺客を殺した人があるのだそうだ。
刺客の頭の弾丸はピストルが異なる弾丸だそうだ。
その黒幕はまだ不明とか。
ほんとに世の中が面倒になる。
1934年6月15日
南京で行方不明の南京総領事館書記生蔵本英明は支那の憲兵とか秘密結社にさらわれたとか言って強がっていたが、どうも気が変になってフラフラと出てしまったらしい。
逆に謝るべき事態らしい。
困ったことに違いなし。
1934年7月
佳木斯・満州里を観るのは駄目になったがハルビンは大丈夫と思ったのに、関東軍参謀長西尾寿造との話ではとても話にならぬ。
すなわち微行といっても関東軍としては同じことで、秩父宮の時と同様数カ月前から大警戒をやるとのこと。
これでは秩父宮の時 新京で、一日も早く御帰京を願うという日本人の投書と同じことだ。
警戒〃〃で交通も商売もできぬ、生活問題なりと言うわけ。
結局は私が海軍で、軍は駐満海軍部が邪魔なところだから、同じような気分が私にも働くらしい。
だからことさら面倒にするとも考えられる。
満州皇帝溥儀は秩父宮とお会いしてまた親しみを加えられたらしい。
日本行きにも賛成されたのだそうで、私にもある種の好奇心があるらしく、会うことが望ましいようにもうかがえる文面だった。
飛行機で行くと言えばそれも困ると言うし、結局軍は私をうるさがるのだろう。
別に軍をスパイするのでも、陸軍の満州を海軍の満州にするのでもないが。
1934年8月24日
竹田の叔母さん〔竹田宮昌子妃〕から話があるというので行ってみたら、毛利富士子〔毛利高範子爵の娘〕を探ってこいということだった。
1934年8月25日
筑波藤麿侯爵へ。〔妻喜代子は毛利富士子の妹〕
毛利富士子が朝香の叔父さん〔妻を亡くした朝香宮鳩彦王〕の妃殿下になり得るかどうか聞きに行く。
可能性はあるが、おとなしいようだ。
夕方、竹田宮へ報告に行く。
1934年9月18日〔満州滞在〕
大連に来てみれば関東州内はちっとも危険もないらしく、関東軍のやかましさも州内に対する認識不足らしい。
サイドカーも付けぬでよいし、交通止めも不要とのこと。
満鉄総裁林博太郎来る。
だいぶ関東軍に700万円とか取られるのだそうだが、名目がなくて背任罪になっては困るし工夫している由。
どうせもたれ合っているのだから、取られても仕方あるまい。
満州国人官吏はやはり日本人官吏と合わぬらしい。
腰もまだ落ち着いていないらしい。
1934年9月30日〔満州滞在〕
民団の連合艦隊送迎会ありしも芸者が出るから行かんでよいとしておいたら、今朝になって職業婦人は一人も入れぬから来るかと言ってきたが、それでは私のために多勢の興を削ぐことだしやはり行かぬことにす。
海外で芸者やそうした婦人の立場は大切であって、それを蔑視することは面白くない。
私が行くとそこがうまく行かぬからやめたのだが、結果はかえってまずいことになった。
艦に帰ろうとしたら風波のため定期船が出ぬというので、グランドホテルに飛び込んで泊まることにしてやれやれと思っていたら、連合艦隊司令官長末次信正が「ホテルはいけない。総領事官邸に泊まれ」というわけで、領事館も面食らって支度して12時頃やっと落ち着けた。
どういうわけだかわからぬが、とても面倒をかけてしまった。
1934年11月28日
外国で作ったブラックタイとドレスと虫が穴をあけてしまったので三越で作る。
大損害なり。
1934年12月12日
夜、ドイツ大使永井松三夫妻を呼ぶ。
ヒトラーも6月頃何百人と殺してからは、ずっと穏当になったそうな。
1934年12月16日
二荒芳徳伯爵が来て話す。
ドイツにやっていた■■は先方でドイツ娘といい仲になって、帰って来てこちらの妻子と具合悪く二荒とも絶交の有り様とのこと。
惜しいものだが思想の方はよほど良いらしく、それだけは効ありしらし。
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『高松宮日記』
1935年1月1日
朝香宮鳩彦王したたかに御酒まわり、「私は独り者だ」とてさんざんお泣き出しになり、また東久邇宮稔彦王がつられてボロボロ泣き出す騒ぎ、やっとお帰しす。
なんでも宮城より秩父宮・三笠宮と連続で、とてもお酒が入ったらしかった。
こんなのも珍しいお正月なり。
1935年1月3日
秩父宮をはじめ叔父様・叔母様・皆様をお招きして北白川宮佐和子女王のお別れの宴をする。
朝香宮にまた泣かれてはと警戒しつつ、みなお酒を相当上がる。
1935年1月8日
三笠宮、日光のスキーで足を腫らしたので座れぬ由。
岩にぶつけたのだと。
1935年1月14日
明日、有栖川宮熾仁親王40年祭。
宮家を認めない今日、うちにある御霊殿の立場は中途半端なものである。
この際その点を宮内省の注意まで刺激しておく方がよいと別当も考えた。
皇族は姓を持たぬ、家を持たぬのが今の定めであって、皇族の御霊はすべて皇霊殿にあって各宮にあるものはその御分霊になる。
ところが皇族の年祭は皇霊殿でできるわけではない。
春秋皇霊祭があるのだがこれも昭和天皇が御まつりになるので、昭和天皇下方の御霊に御拝になることと思われる。
そうすると皇族の御霊には御会釈になっているわけであろうし、各皇族はすべてについて拝しているわけである。
それきりである。
そして年祭は宮邸の霊殿で各宮が主祭する。
そして宮内大臣を経て奏上はするし、昭和天皇から御菓子等の御そなえがある。
御使いのあることもある。
建前として宮邸のお祭はかげの祭で、奏上もこれを御黙許になるというか、そうかなと思し召す程度のことと思える。
そうしても私祭である。
皇霊殿で行わるべきものがなくてはならぬ。
しかし今のままではできぬ。
皇族の御霊は皇霊殿にあるにしても、別殿にするかまた別殿でお祭できるようにするのがよいと思える。
そして公のお祭はそこで行い、宮邸のはやはり内々のものであるべきだと思える。
これは重複になるとするならば、宮のを本霊にして絶えた方のみを皇霊殿に置いて、宮のある間はその宮で主祭することに定められるべきと思う。
1935年12月10日
筧克彦博士と語る。
●帝大、それも東京帝大は教学の中心である。
ここに皇学〈神ながらの教〉を講座として置くことが最も良し。
学部なればなお良し。
●学生にして帝大はなんと言っても熱あり。
これに点火すれば期せずして全国の学に火をつけ学をおこすことができる。
●皇族がこの信仰の問題・精神的な問題について会議をすることが急務なり。
そしてそれを助ける者として神祇官が必要になる。
●現在の傾向は最も〈神ながらの教〉をおこすに適した機なり。
●信仰を欠くがゆえに大本教あり天理教あり。
口実はつけたりつけなかったり、要するに不敬になる。
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『高松宮日記』
※高松宮は海軍大学校在学中
1936年1月8日
近ごろ皇族が芸者に関係ある方あり、そうした芸者の出る宴会や待合に出入りされることが人の話になって困ったという話。
東久邇宮稔彦王が新橋の芸者と関係なさって胤を宿しているのがいて話題になっている。
その女将が相当な腕利きで、早くなんとかしなくては面倒になるだろうと心配している由。
また■■王も■■宮もそうした方で困ったもの、■■宮がどうかしらぬが深入りさせてはならぬと考える。
皇族のそうした行動はただちに昭和天皇の御徳に関することである。
皇族は道徳的存在として昭和天皇を取り囲んでいなくてはならぬ。
若い方が早くから堕落なさっては真に困るのである。
■■宮もああした書生的なところのある方であるから、芸者に子を産ませてその処置につき誤りなきようになさり得るか。
昔ならそれを方々に押しつけてしまえるであろうが、今はなかなかそうも行かぬ。
事務官にしてよくそこを片づけられるだろうか。
■■宮事務官も近く金銭上の不取締の理由でやめるそうだがどうなるか。
彼が今までそうしたことをアレンジしていたようだが、それがいなくなって結果は良くなるかかえって悪くなるか。
問題は若き皇族にいかにして自覚せしめ道徳的に精進せしめるかである。
なにか青年団とか少年団とかの運動に熱心ならしめることもよい方法である。
従来の軍人オンリー、さわりないようにとの指導方針では余力の始末に困って性的に堕落する。
1936年1月17日
高松宮務監督石川岩吉、風邪気にて休む。
石川を皇子御伝育の主任にしたいという宮内大臣湯浅倉平の希望を聞いたのは去年の10月28日で、その日に皇后宮大夫広幡忠隆が節子皇太后にも申し上げたのであった。
私はもとより石川の個人的な適任については異存もなく、あるいはもうこちらの宮務監督を最後として楽に隠居できることを夢見てもいたが、皇太子伝育ともなればこれは重大であり、これを務めることはまたこの上なき奉仕だから、私としては今宮務監督を替えられてはまことに困るのであって、吉島事務官がすでに数年になるが、まだ紙上の事務以上に発展し得ない素質であり、喜久子が石川がいなくては頼りなくなってことごとに困る現情であり、女中の方もまた思うような人がなくて困っている場合であり、実際困る程度の話ではないが皇太子の御伝育にはなにものも差し置かねばならぬのであって、湯浅大臣にも「私としてはお断りする理由もないが、石川の私人としての健康なり家庭なりがこれを許すか否かである」と答えた。
湯浅大臣は案の定、家庭(子供の将来のこと)宮の事務(事務官のこと)喜久子(奥向きのこと)をもってお受けしがたきを申し述べた由であった。
しかし話はそれで終わったのではなく石川以外に人なしと言うので、私も「西義一大将をどうか」と言ったが、「軍人は偏っていていけない。昭和天皇の思召も軍人でない者ということであった」とあり、宮内省外からは「慣れていなくて困る。大宮御所との関係も石川なら」と言う訳で前宮内大臣一木喜徳郎が推したらしく、牧野伸顕当時の内大臣も賛して「もう他にない」、節子皇太后も「替りが問題で、後が困るだろう」という思召とのこと。
後任探しではかどらず、適当な人もなく、
●斉藤守圀
●西邑清
●山県武夫海軍中佐
●今村信次郎海軍中将
●大木彝雄
というわけであった。
西邑はとても大宮御所風になりきっているし、妻が良くないし、
山県は軍人式が抜けず細かい事にも気もつきかねよう、ただ外遊を共にした点は良いが、
今村は軍人でとても話になる人とも思えず、侍従武官であったが私も知ってるだけ不満多く、
大木はすぐ役立つが心配性で腎臓を取ったばかりで身体がどうかというので、
結局斉藤守圀よりなく、私はよく知らないが面識はあり、知事上りの人であるが東京市の助役もうまくやった人で、私としては国学とか学者の方との連絡が少しなさすぎる人であるが、これから必ずものになる人であると思えるから、石川もこの人が来れば良いというところまで話は進んできた。
私が成人して最も憾みとしたのは、宗教的教育を受けなかったことである。
一般家庭には神棚か仏壇があるであろう、鎮守の祭かなにかの祭礼があるであろう、仏寺の法会や法話をきくこともあろう、物心ついて神社に仏寺に宗教的環境に置き置かれるのであるが、冠婚葬祭つねに宗教に触れざるなしである。
皇族がこうした経験を味わうのは生まれて50日目の賢所に参るのに始まるのであるがそれっきりで、旅行した時に神社に参拝することはあっても例の宗教を故意に除いた参拝である。
そして成年になって初めて宗教的な宮中の祭典に出るのであるが、それがまた神事を人事のごとく扱う式の参拝で、そこに矛盾を感じても焦ってもなんともならないのである。
私は御所から離れて別居していたから、御奥での宗教的なる行事に触れる機会がなかった。
そして伝育に当った人々はそうした注意を少しも払っていたとは考えられぬ。
しかして成年になると常に急に賢所の御式にも出ることになる。
唯物的学校教育のみを受けた精神的には科学的な修身というよりも単なる形式的な道徳教育のみを受けた者にとって、藪から棒の出来事である。
宮中の私達の参列する神事は極めて形式的な単なる一時的な敬礼の瞬間にすぎない。
そして皇族たるものが神道に対する理解むしろ信仰は動作行為の根底にならなくてはならぬことを顧みる時、実に残念に思うのである。
今日の皇族が自覚のないことのみをするのも、その根本を忘れているからである。
すべて教育であって、氏のみでない人生に、将来の皇族・皇太子様も同じである。
この大切な点を忘れてはならぬ。
理屈ではない、自然の道である。
1936年1月21日
今朝、イギリス国王ジョージ5世崩御の電報あり。
真に急なことなり。
皇太子〔エドワード8世〕が即位されるであろうが、皇后なきを如何にせん。
1936年1月22日
帰ってから英語。
ミセス・ルイズが上海に行ったので、代わりにやはり女子学習院のミセス・パックマンに来てもらう。
1936年2月1日
大宮御所へ上がる。
軍縮条約なくなりて如何になるべきかなど御案じにて御話あり、相沢三郎中佐もあれだけ固き信念を持つ者を惜しきことなど仰せあり。
1936年2月12日
宮内次官大谷正男来邸。
宮務監督の件、斉藤守圀は愛育会を去りかねる由にて断る。
そこでまた他を物色中にて、女子師範学校校長を辞めた吉岡郷甫を考慮中とのことなり。
1936年2月14日
副島道正伯爵に会う。
相沢三郎中佐の事件のことに及び、真に心配なりとて荒木貞夫・真崎甚三郎・牧野諸氏と会って話している由。
荒木貞夫派対林銑十郎派の対立も実に心配なら、若い士官の今度の裁きに対する態度も心配、日本の財政も心配、陸軍参謀総長閑院宮にも申し上げるとのこと。
私はイギリス新帝戴冠式に秩父宮御派遣は如何と意見を聞く。
国際関係にて皇族が行きかえって彼国の取り扱いぶりが日本国に悪く反映する懸念を尋ねしも、無からんとのことなり。
1936年2月22日
筧克彦博士の教学刷新委員会に出席する。
神祇府新設案の話を聞く。
その中に皇族が斎主となる組織あり、これにつき如何にと言うから、組織ができれば皇族も動くであろうと答う。
1936年2月24日
有栖川宮幟仁親王五十年祭。
秩父宮務監督犬塚太郎が御代拝に来て玉串をあげて、脳溢血の軽いのでヒョロヒョロして、そのまま談話室に寝かしてしまい、後で二階の宿直室に移す。
当分動かさぬ方が良いとのこと。
不随の所はなし、意識も明瞭、口もきける。
1936年2月26日〔二二六事件〕
朝7時頃宮内省事務官岩波武信より電話とのことにて、何事かと思えば聞けば驚くべきことにて、今朝5時頃 麻布三連隊の兵が将校指揮のもとに出動し、内大臣斉藤実・侍従長鈴木貫太郎に暴行し、斉藤内府は即死・鈴木侍従長は重傷とのこと。
大蔵大臣高橋是清や首相岡田啓介もやられたらしいが、警視庁や陸軍省が占拠されて連絡取れず不明とのこと。
宮内大臣湯浅倉平は参内し上奏した。
私も行こうかと言ったが、いま宮城の辺は通行止められとても入れぬとのことで、仕方なく学校へ行く。
出がけに弘前の秩父宮に右の概況をお電話しておいた。
昼休みに帰邸して状況を聞いたがまだ参内できぬとのことなりしも、海軍の方の取り調べでは海軍軍令部総長伏見宮も9時頃参内され朝香宮・東久邇宮も参内されたと言うので、時間もないので学校へ戻り三時に通常礼服に着替えて学校より参内、御機嫌を伺う。
御心配は申すまでもなきことながら、御元気にて安心せり。
事態は不明ながら小規模ならぬように知らされてきて、教育総監渡辺錠太郎もやられた、一連隊からも兵が出ていると、いろいろなデマや真相が発表・流布され、陸軍省は偕行社へ、参謀本部は憲兵隊に、警視庁はなんとか署へといったふうに事務を執る。
財界の誰かれが殺されたとも伝わる。
戒厳令はかえって彼らに好都合だというので戦時警備令で治安維持をやるという発令であったが、夜に入り枢密院会議ありて戒厳令を公布された。
私の所には昼から経理学校の兵が十数名来て警備する。
戒厳になって陸兵も数名来れば、巡査もいるというわけで大混雑なり。
かくて不安のうち暮れていった。
市中は極めて変わりなく、丸の内だけが宮城前には広場に人を入れずに雪の中に近衛兵が針金を張って守っている。
人々はむしろ見物のつもりでゾロゾロ歩いている。
高橋蔵相は三笠宮の仕人が凶行後すぐに行ったら兵がいて入れなかったが、宮家の者だと告げたら「今回のことは皇族には手を触れるなというのであるから差し支えない」とて中に入れたので、入って機銃で蜂の巣のように無残な姿を見てきたということであったが、発表は重傷とされた。
岡田首相は海軍省の者が行ったら、今度は「海軍には御迷惑をかけません」とて中に入れたので見て来たというのに即死と発表されて、私も死んだと思い込んでいた。
27日に御所で生きていると伺って夢のような気がした。
1936年2月27日
一夜明けて岩波事務官に電話した。
宮中はお変りなしとのことに通学す。
昼休み帰邸して状況を聞く。
甲府・高崎・佐倉などの兵が来、第一師団とともに戒厳配備についている。
陸軍では反軍を「占拠部隊」と称して依然戒厳部隊の中に加えて給与もしている。
ただ「原隊へかえれ」と命令だか相談だかをしている。
らちあかず。
海軍ではすでに「反軍」と称して連合艦隊を第二艦隊は大阪に第一艦隊は東京湾に集合を命じて、昨日来横須賀より陸戦隊を四個大隊持ってきて芝浦や海軍省に配して待機警備して、陸軍やらずば海軍の手にてもやるという意気であった。
学校が終ってからまず大宮御所に御機嫌を伺い、それから参内す。
昨日は平河門から入ったが、今日は大手門から入る。
5時すぎ秩父宮、上野駅御着。
ただちに御参内。
昨日弘前より御電話にて「帰ろうかどうしようか」と言ってらっしゃったから宮内省の方に聞いたら、「お帰りになっても不都合は少しもないが、三連隊や西田悦少尉や安藤輝三大尉らとの関係でデマが飛ぶことは心配」ということであった。
それもお話したが、重臣の不在はそれにもましてお帰りが必要とも思ったが、御判断を願い、結局11時の汽車でお帰りのことになさった。
午前中朝香宮が学校に見えて、「今度の事件は重大であり皇族が黙っているべき時でない。秩父宮も夕方にはお帰りになるが、今は私が一番上だから各宮を集めて皇族の意見を昭和天皇に申し上げようではないか」とのお話なり。
「如何なることを申し上げるのですか」と言えば、「速やかに後継内閣を作って人心を安定せしめようという意見なり」と申し上げるのだとのこと。
「それは自然誰という問題になり、それを腹に持たないでどうかと思うから、集まれはかけられない」とお答えし、「秩父宮が5時頃には宮城にならせられるから、その時お集りになる方があればそこで如何」とお別れす。
朝香宮は東久邇宮・梨本宮と共にお待ちにて、結局「議決のようなものはやはり面白くない。昭和天皇の御承知のことを申し上げても仕様ない事だし、しかし皇族の意見をまとめておくのはよいから、明日集ろう」というわけで、秩父宮と私は奥で夕食を一緒にいただいた。
秩父宮はそれから大宮御所にならせらる。
1936年2月28日
陸軍の方はなかなか片づかず。
しかし騒擾はあの場面では拡大せぬらしいので通学す。
昼秩父宮より御電話にて「皇族集合の件は伏見宮にお話せるところ、そういうことは早きほど良し」とて、2時半~3時に宮中に集れということになったので、直ちに帰り参内。
〈ぶどうの間〉にて伏見宮・久邇宮朝融王・秩父宮・朝香宮・東久邇宮・梨本宮・竹田宮・私の8人集る。
今度の事件に対する皇族としての所見の統一ということであったが、別にそうしたことも定まらず、席上伏見宮は私達二人して弟として昭和天皇をお助けしてくれとおっしゃって、御自分も感泣なさった。
そんなことは私も初めてであった。
1936年2月29日
黎明より砲撃するとの話にて、5時に出かけようと起きたが、秩父宮より遅れて8時過ぎになるとのこと。
7時参内す。
砲撃は火災を慮り止めて、戦車を使って掃蕩する由。
それも8時半、9時と遅れた。
秩父宮・朝香宮・東久邇宮・竹田宮と共に振天府の所より配備など見る。
参謀本部の付近の様子を10時頃まで見る。
無事にあの辺り反軍消散す。
昼食をして3~4時頃まで待ち、大方処分のつきし報を得て大宮御所に伺い、5時帰る。
昨夜来、宮中近くの戦闘もあるかと心痛せしも銃声ほとんどなく終わる。
日本のありがたさなり。
参謀本部正門の所に機銃をすえて兵数名あり。
参謀本部の窓より将校が首を出して怒鳴る。
たぶん「退れ」と言うならんも聞こえず。
下士官ならん、これに「応ぜず」という対答をなす様子に見え、依然として門の所にあり。
乾門側の道路より装甲車数両進行し来り、陸軍省下の三叉路にて反乱軍の相当数の部隊に対し交渉する様子。
全部隊は対抗する態度なく、士官おらざる様子にて、やがて整列し宮城に面し敬礼し「君が代」のラッパを奏す。
これにはこちらで見ていて一種の感動あり。
今にも衝突ありやと思いし数日の後なれば、反乱軍とはいえ「君が代」に対し姿勢を正す気持ちになる。
やがて赤坂の方へ退散す。
日比谷の方面よりも戦車・装甲車、参謀本部門より一部は入り一部は議院の坂を登り行く。
すでに参謀本部前の兵はおらず、それまでに私服の人来り交渉しおりたり。
かくて銃声一つせずみ終わる。
1936年3月1日
二二六事件陸軍大臣告示というもの
●蹶起の趣旨においては天聴に達せられたり
●諸子の行動は国体の真姿顕現にあるものと認む
●国体の真姿顕現の現況については恐懼に堪えず
●各軍事参事官一致して、右趣旨により邁進すること申し合せたり
●これ以外は、一に大御心に待つ。
1936年3月2日
大宮御所より今度のことにつき度々参内などして御苦労とて、二種交魚・果物いただく。
6月27日
堤正之少佐、今朝9時自宅で自殺したと聞く。
昨日も平常通り学校に来ていて、今日も午前自宅作業で午後学校に行くと言っていた由。
家族の人が昼食を聞きに二階の室へ行き発見せりと。
自殺はピストルで胸に四発ほど発射している。
即死なり。
簡単な遺書といってもその場で書いたもの。
「誰々に知らせ、(将来の修養に行き詰ったと思わせる)非常時に軍人としての責任にたえられぬ」と言った意味のことあり。
そう言えば最近言葉少なく、思い込むといっても一般の陰気な型とは違う程度であったとも思えた。
寺本少将の話によれば、4月だったか「自分はどうしても忠君愛国の感情が燃えてこない。どう努めても思うように出ない」とて相当意気込んで尋ねた由。
それに対して「例えば大楠公の事蹟を常に考えて、それに照らし合わせて自分の行為を考えよ」と教えた。
事後自宅に行ってみたら、観心寺の「非理方憲法権天」の軸が目立たぬ所にかけありし由。
それで祖父が非常な勤皇家にて、それに近からんとして科学的な教育による本人がどうしても気分が出ぬという煩悶ならんと。
修養ではあるまい。
このごろ満州上海の事変の行賞行い給うとて、勲二等以上の勲記には御みずから御名をしるし給うことの400に余り、日に日にそのために時多く費やし給うと承りて、この度の行賞も日露戦争になぞらえて下し給うと言うも、事いささか度を失せる感あるを如何せん。
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『高松宮日記』
※秩父宮夫妻、英ジョージ6世の戴冠式を含む欧米外遊中
1937年4月18日
今日は高松宮務監督山内豊中を連れていく。
やはりなんとか軽率な感じである。
まだまだ信用するに足らぬという感じ。
1937年4月20日
細川護貞の結婚披露あり華族会館へ行く。
お嫁さんは近衛公爵の次女近衛温子。
はじめは半ば恋愛だったので婚約したのが、お嫁さん少しお転婆すぎるので仲たがいしかけたのを、またそのために大急ぎというわけか式をしてしまった。
まったく花嫁らしくない。
貞ちゃんがうまく続けられればよいがという感じなり。
1937年4月23日
メルセデスベンツ320型、600円まけて寄こす由。
9月には来るべし。
ホイールベース130はアメリカ物は流線形にて室狭く6気筒少し。
今年はアメリカ物は6気筒は115~125インチ程度しかなし。
130インチも狭し。
メルセデス1万3千円はアメリカ物の二倍なり。
1937年5月6日
大和田受信所へ行く。
秘密に行くつもりにて海軍省の自動車にてウチから警察に何も言わぬよう言い置きしに、行ってみたら警察が出たりしていた。
後に聞けば埼玉県で知って昨日ぐらいからいろいろ聞いてきたりした由なるが、午前に高輪警察よりウチに聞いたら知らないと答えたので、御付武官林彙邇に電話したら馬鹿にも午後行くことを答えし由。
武官が秘密価値の判断をなし得ざる、驚くべきなり。
ガッカリした。
1937年5月7日
帝国ホテルにて東伏見伯爵と亀井伯爵令嬢の結婚披露宴あり。
東伏見宮周子妃いたくお喜びなり。
1937年5月12日
イギリス大使館にて午餐あり。
イギリス大使の昭和天皇への乾杯に対し、私がキングへの乾杯。
初めて英語でやる。
私の外遊前後は私の身辺はあまりに欧化的であった。
それで日本語主義を取ってバッキンガム宮殿でも無理押しに日本語でやった。
その後満州事変などありて、今度は国家主義というかそれを通り越した偏屈な自主的主義というものになってしまったから、逆にこうした席では外国語を用うるのも意味深であると思う。
豹変なり。
1937年5月14日
筧克彦博士に面会す。
「現状打破」ということが流行語であるが、私はこれをどうしても素直に考えられぬので話し合ってみたが、要するに「弥栄」では現在を基準にしてこれを是認してかかるところがなくてはならぬという話で、簡単ながらそこに現状打破の新生命を見出すことができた。
「国のため君のためという真面目な心があればなんとあれども実行してみるがよい」と言うので、二二六事件を例にして「もし二二六事件の人々が完全に君のためと信じていたとすれば、そしてその結果悪かったとして処置されたとすれば、この一連の行為を是認せらるべきであるか」と言うと、
「そうではない。殺人は国法の禁ずるところであり、その方向が君のためと真面目に信じたとしても悪だ」と言う。
「二二六事件の発端ないし経過およびその後に顧み、そのことの良し悪しを考えるよりも、その良し悪しを将来に改善することによって意味がある」と言う。
抽象的にそうであるが、これは独断の軽挙を将来する危険性があるが、また既往をとがめずということは将来にも悪をとがめずとする傾向であるが、しかし沈滞的でない明るさを認めることは事実である。
要は真心である。
筧博士の説はやはり実際に直接的ではない。
間接に実際的である。
この意味で、博士の不断の学生との接触により間接の効果の大を望むべきである。
寺本少将がよく言う、左傾でも右傾でもそのデビエートしたものを唯々推進していくと、ぐるっと流転して反対に出ると。
これが弥栄のむすびの思想に合すると思う。
「現状を否定する」「現状を破壊する」ということを目的とした捨石精神主義は、本当の捨石にならずに字だけの意味に作用する。
すなわちその捨てられた石は、ある時は邪魔物でありけつまづくものになり、またある時は踏石となるかもしれぬ。
それは捨石ではなく、捨石は捨てしがごとくして、これなくしてはならぬ石であるべきである。
曲がった人もこれを否定してはならぬ。
その人の良きところを否定してはならぬ。
良きところは第三者にわかることもあり、わからぬ時もあるとすれが、唯々推進している時は自らその良きところとして残るであろう。
そこに実際問題として実害がないようにすることが必要になってくる。
これが難しい。
陸軍が無茶をやる。
これを完全に止めるべきか。
止められぬことを悔むべきではない。
日本には根本の大道が一貫する。
日本の歴史はその大道を離れて日本の国民のため以外に発展せぬことを信ずるならば、推進〃〃で行くことができる。
安心していられるであろう。
そうなれば陸軍の無茶もじっと推進すればよいことになる。
そこに個人主義的な虚栄や福利や小我が没却せられれば、その無茶を無茶として眺めつつこれを大道に引きつけることができるのであろう。
国民の生活の安楽と国防との重要比較は陸軍海軍の軍備に直接にかかる。
軍備〃〃と言うのにハラハラするうちに、また適当なる軍縮も招来せらるるであろう。
これを傍観することが現状を是認する弥栄であるか、他人をけしかけることが推進であるか。
やりとりの日本主義は自己の否定であるか。
正反常にありて中道に出ずべきであるか、中道に出でんとする時に病あるにあらずや。
1937年5月22日
三笠宮おねだりにて竹田宮へ今晩お呼ばれとのことに、一緒に来いとのことに上る。
(活動映画とダンスのためなりと)
三笠宮も物心つきて、独りさびしさを覚え始めし有り様なり。
ことに騎兵の連中には誘惑も自然と多きもののようなり。
秩父宮も一般の皇族と自ら異なるものあると自覚せしむるを要すと御出発前に御注意ありし。
1937年5月27日
一年ぶりに平泉澄博士に会う。
二二六事件以来憲兵からかなりしつこく塾を尋ねられた由。
五一五事件の出所した4人のうち2人は落伍したが、吉原政巳・菅勤の2人は博士のもとにあり立派になっている由。
日曜ごとに憲兵隊に行って馬に乗っているとのこと。
憲兵なり同期なりがこの2人の人格を見て生活費を頒ち現役と同じくらいに心安く馬にも乗せているならば結構であるが、玉石を分たず五一五事件の偽英雄的感じからそうするならば矯正すべき空気である。
しかし平泉博士の手に2人でも救われているのは喜ばしいことである。
その他陸軍の大尉・中尉以下で100人ぐらいは話を聞いて心服している者ある由。
これが粛軍の礎となるならば本当の粛軍に至ると信ずる。
海軍にはごく2~3人であろう。
宇垣一成大将に対する陸軍の組閣ボイコットに対する近衛公爵はこれを不義として平泉博士に相談し、その草稿による意見を陸軍大臣寺内寿一に致し、爾後陸軍も全般的抗拒の態度を捨てしめたる趣、その近衛公爵の態度を褒めたり。
石原莞爾少将は満ち足りた人であるが、その策を実施するために八幡製鉄所の溶鉱炉を消火せしめた浅原健三を便利のためか盛んに用いる。
浅原は実に偉大な人であるが軍の内密などもずいぶん知らせるらしく、平泉博士もこの人からそうした話を聞く由。
ただこの人が果たして思想的にどうなのか平泉博士も疑念を持っている由。
板垣征四郎中将の方は考える余力ある人にて、大将の器ではある由。
満洲にできる大学の総長を平泉博士に頼みたる由なるが断りたりと。
その組織の計画に参与しているが、寄宿と併行したものにして日本の国体に合したものを作るつもりの由。
内地にてはとても理想のものにはならぬからとのこと。
そうした日本の大学が内地にできぬとはとても残念なことである。
二荒伯爵が「昭和天皇は民の心を心とせられるべく、国民が『宮城は贅沢なり。九尺二間の長屋に住ませらるべし』と言えば、そこに住まるべきが大御心なり」と言いたる由。
田尻昌次少将がそれを引用してその誤れるを知らず。
世の思想は混沌としている。
第二の永田事件を連想する者少なからず。
陸軍の若い人が真剣になるのも、第二の二二六事件に出合わせばどうするかという点である。
海軍にはそんな切実な気持ちはない。
ただどっちにつくもない一死奉公であろう。
1937年6月21日
秩父宮9度近くの熱を出していらっしゃるので、電報にて御見舞す。
《電報に乗っても行けず 御大事に》宣仁・崇仁・喜久子
お返事あり。
《御見舞に うちはげまされ 9度近き 熱も7度に下がるうれしさ》
1937年6月26日
閑院宮にて親睦会例会。
男の方も元帥に敬意を表してかだいぶいらっしゃった。
やはり元帥さんに対する感じは海軍と異なるし、陸軍の中心点としての存在は大きな方であろう。
1937年7月10日
照宮成子内親王をお招きして夕食。
映画を御覧に入れた。
照宮成子内親王はまったく張り合いなきくらいお静かなり。
御供より先に帰れる本間雅晴少将に会う。
カナダの歓迎は素晴らしいものであっただけ、アメリカのそれが物足りなく本間には腹立たしかったようである。
クイーンメリー号はゴージャスなもので、秩父宮妃お召物などお気の毒みたいなりし由。
秩父宮もすてきにお務めになり、夜も一夜に三つぐらいのソワレにて2~3時になる有り様なりしとて、また各国の使節ともたびたび顔をお合せになるため親しくなられるし、イギリスの人ともすっかりお知り合いになり、今後外交官との付き合いはとても有利なことなるべし。
それやこれやドイツ在留日本人はイギリスよりただちにドイツへとお成りを望みたるらしきも、秩父宮はイギリスでのせっかくの日英好転気勢を削ぐのを面白くなく思われてならん、スカンジナビアに先に行かれるおつもりなりしと。
戴冠式等にて日本婦人の国装があったらと痛感せる由。
東洋人はその国の服となりたる由にて、体格的に劣る日本人の引き立たぬを残念に考えたる様子なりき。
1937年7月12日
参内拝謁。
秩父宮より「イギリスに来て日独協定がイギリスに対しただちに日英協定をもたらすものとの考えが誤りなり」し由の御手紙ありたる趣にて、
「あちらに行きて初めておわかりになりしもののようなり」との御話あり。
本間少将の話として、「英独関係が良くない、日独協定も日本が利用さるるのみにならぬよう注意すべしという話なり」し由申し上げしに、
「陸軍の人がそう考えることは良き傾向なり」と思召されたり。
1937年8月15日
節子皇太后より派兵将士に氷砂糖を賜る由。
良子皇后より負傷病兵に包帯等を賜る恒例に対し、氷砂糖はもっと広範囲になり釣り合い上いかがなものか。
いただく方では良子皇后と節子皇太后と区別はないわけであるが、内輪で見るとちょっとどうかなり。
1937年8月22日
北支または上海戦線を見に行くことに対し、宮内省側に不可とする理由ありや、宮務監督に尋ねさす。
1937年8月26日
町の中に万歳の声しきりなり。
子供らは自動車を見ては万歳を叫び、国旗は毎日のように軒に掲げらる。
1937年8月28日
宮務監督が宗秩寮総裁木戸幸一に北支か上海に行く件につき意向返事を促したるに、
「秩父宮も外国で御病気等のこともあり、高松宮が海外に出るのは昭和天皇の御心配を増すことで畏れ多いからこの際留保してほしい」とのことなりき。
私が宮務監督に「秩父宮の御留守のこともあり、どうか」と言いしを逆用したる感あり。
しかし御心配の点は私が行くことによりあるであろうが、赤子何万人を戦闘の死地におかれる以上は、かえって兄弟たる私をある程度危険に置かれることにより満足をお感じになるのではあるまいかとすら私は思うのである。
木戸総裁が困った面倒なこととしてあっさり考えすぎているのは困ったことと思う。
1937年9月4日
参内。
北支または上海に戦闘視察に行く件、御心配ありや否やをお話せるところ、やはり傷を受けたりすることがお気になるらしく、それがため節子皇太后の御機嫌を悪くすることがお困りとお考えになる。
作戦を邪魔してもいけない、公務として行くならばよいが等の御話あり。
私の考えとは根底が違うと思った。
節子皇太后に対する御考えが御孝心というよりも、触らぬような御考えであると思う。
1937年9月5日
昭和天皇より御手紙ありて、戦地行きの件につき御示あり。
●昭和天皇の御事故の時のこと
●公務で行くこと
●戦闘小休みの時機あるべし等の点、
ならびに宮務監督・所属長官と話して今一度伺えということであった。
御返事差し上ぐ。
●昨日の伺いにてすでに御許可ありしとは考えず
●昭和天皇の御心配の有無、臣下にわからずと考え伺いしこと
●思いつきでなく相当の心構えによる等
どうもやはり皇族に関する認識が不十分でいらしゃり、政治的な考え・行政的な思召が主になって、軍という点にはかなり違うものある御理解なりと感ず。
1937年9月9日
次長嶋田繁太郎に上海に行くことを話し、アレンジを頼む。
1937年9月10日
上海行の件、御思召を伺うため参内。
絶対に行くなという思召でもないので話を進めることとす。
要点はやはり死傷の場合で、これが海軍の立場にまで影響すると困る。
この点研究すべく武官に命ず。
1937年9月11日
宗秩寮総裁木戸幸一来り、今日侍従長百武三郎より話あり、よくわからぬので宮内大臣松平恒雄参内伺いたるところ、はやり「なんとか上海に行かせぬようにせよ。昨日は良いというように言ったが」というわけで、なんとか自発的にやめてほしいという次第なり。
あまりのことながら、理屈はともかくそうまでやめろとおっしゃるならば、私が伺えば「絶対にとめはせぬ。賛成はせぬ」というわけで、それで「話を進めてよろしゅうございますか」と言えば、「よろしい」とのことに、軍令部はすっかりその手はずになり進んでいたが、そんなにまでして行くのも畏れ入るので、根本に私の修養のためという腹があるので押して行くわけにもいかず、宮務監督より副官にやめる旨を電話せしむ。
残念至極なり。
しかも私には黙許以上にお許しになり、宮内大臣にやめさせるとはあまりに私の立場を無視なされたこととこれが一番に煩悶の種なり。
次はすでに二度まで思召を伺ったこととて、それを次長に伝えて運んでもらったのを、まるで思召を嘘ついて私がお許しありと申したようにて、これは私事ながら面目の上に相当以上の痛手なり。
木戸総裁は秩父宮のお帰り後と言うが、その時はおそらくすでに海軍の戦線は無くなっているか、あっても苦戦ではあるまい。
そんな時に行くのではまるで危険が去ったから出てきたというので、士気の上にはなんのよきこともなく、お芝居じみたそうした行為は私には自発的にできぬものである。
木戸総裁の話では「秩父宮のお帰り後まで待って行け」ということになっている。
「秩父宮もまた戦線をお巡りになるとおっしゃるであろう」と言っていた。
こんなことなら話をしださぬかもっと話の仕方があったのだが、私としては昭和天皇がそんなおずるいというか踏みつけたなさり方をなさるとは夢想もしなかった。
皇族の軍籍に対し従来の疑問をいっそう再認せしめられたり。
ロボットとしての皇族は平常軍人のごとく装いて政治に関せず、軍人たらんとすれば万一の場合の政治家として待機を余儀なくせしめられ、しかもこれに対する素養を与えられずいたずらなる存在たる不満は、上海行き差し止めによりていよいよ深し。
もともと今年は秩父宮御留守なりとて艦隊に乗るのをやめて東京にいるのであるが、すでに1カ月にてお帰りとなり、時局はかかる条件に進みつつあり、東京にいるのは二二六事件式のことを恐れててればなるが、今一週ぐらいを留守にしてなんの不都合が具体的にあるか、その抽象的な不都合は私が上海に行くという上海の軍隊に何らかの奨励の効果を考えれば不都合など十二分に無視し得ると思うのである。
海軍にいてこの機会を逃したことだけで、私は今まで何のために嫌々ながら海軍に在籍しているのかという唯一の手がかりを失ったような悲しさを覚える。
ますます私の海軍にいることの有名無実さを感じられる。
海軍の統帥に関して、私の希望も、私が海軍の統帥者として自覚を得てのちにはじめて信念づけられる。
ただ少佐が中佐に進むことだけではない。
それは大元帥という別の組織機関のみのことである。
昭和天皇に御心配をかけぬというために、私としては大きな、ある意味では昭和天皇に対しても間接に大きな犠牲を与えるものとして上海行きをやめたのである。
1937年9月13日
上海行きやめのことを次長に話す。
言いにくき限りなり。
理由はっきり言えず、私が言い出したから自発的にやめねばならぬと言っておく。
一部長も惜しいこととて同情してくれた。
やれやれ、がっかり。
松平宮相来談。
上海行の件について話あり。
海軍次官山本五十六が「将来大きな期待をかけねばならぬ高松宮だから、現に危険なる現地に行くを海軍も欲せず」との答えなりし由なれば、それが大なる誤りにて、政治家と異なる軍人がロボットでは司令官も務まらぬは関東軍に見るべく、戦場を知らぬ軍人が無価値なるは確信するところなり。
海軍にすらそんなことを言う人あれば、いっそう宮内大臣の認識を深めるを要すと話しておく。
1937年9月18日
昨日の黄海海戦記念日に海軍機百機ばかりを東京の空に飛ばすはずなりしも、天候雨にて止む。
なんでもみんな支那に持って行っちまったので日本に無いという噂に対するデモンストレーションの由。
ところが飛ぶのは練習機がほとんど全部なのだからかえって底が見えるみたいなりと思うが、区別のつかぬ人もあるというのだろう。
宮城にニュース映画拝見に上る。
上海行の件につき「話の行き違いあって」との御言葉あり。
今さらお話にもならぬことなれば黙って伺っていたが、どうも松平宮相の伺い方が間違っていたとも思えたが、行けなくなって気の毒とは御思いでないようなり。
1937年9月24日
前田侯爵より有栖川宮三年町邸にありし陰陽石を返却せるものを、再び取り返した形にて受け取り庭に置く。
これも子孫が絶える魔物なりという易もありしが、やはり子孫のできる何らかの工作としてのことなり。
1937年9月25日
秩父宮の御手紙に、日独協調を説く説にもとから一致した考えを持たぬし、それについてもドイツを見ておいて自信ある説を言えるという考えでドイツに行くのだということもあったりで、日独関係に秩父宮の訪独がこれを主張した論者の期待と一致せぬものありしにあらずや。
1937年9月26日
百武侍従長来談。
上海行をやめた件に関して私と昭和天皇との間に感情の阻隔を生せしとでも思えるがごとき話あり。
昭和天皇のお許しの思召なかりしと思いおる様子に見えたれば、私は「しからず。お許しは消極的にありしと考えおる」旨を言い置きたり。
伏見宮博義王〈島風〉にて浦東側よりの迫撃砲にて微傷を受けられる。
新聞等も軽傷として取り扱い、やたらな書き方ではなくうまく書いてあったと思う。
これで皇族も戦死傷者の中に数えられる帳面づらとなりよろし。
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『高松宮日記』
1940年5月1日
一時間ばかり卓球をする。
秩父宮職員と試合をすると言ったら、この頃みな稽古している。
1940年5月12日
秩父宮へ行き、満州皇帝溥儀がいらした時の喜久子の着物打ち合せお願いす。
1940年5月19日
大宮御所へ。
秩父宮・三笠宮とそろって夕食いただく。
食後溥儀皇帝いらした時、節子皇太后がお茶をお上げになる予行とて、御茶室でお点前をなさりいただく。
1940年6月5日〔満州滞在〕
大連発〈あじあ〉に乗る。
昨年できたとかいうすごい展望車がついていた。
冷房装置をしていた。
奉天ヤマトホテル。
嫌いなホテルの代表的なタイプ。
まず支配人が沈痛な顔して先導するし、リフトはボーイ、部屋はブラックタイを来た薄ハゲのボーイ。
室内に変に家具の臭いがする。
バスの槽はきれいだった。
食事の給仕も女が二人いたが生気のない顔をしているし、ボーイもナイスでない。
家の古いのは仕方がないが、人まで古臭いのはガッカリなり。
1940年6月9日〔満州滞在〕
宿は日満軍人会館。
奉天ヤマトホテルはガッカリだったので、ここでヤレヤレとのびのびして泊まる。
1940年6月10日〔満州滞在〕
朝、溥儀皇帝来らる。
1940年6月13日〔満州滞在〕
宿は理事公館。
材木で儲けてお妾のためにこの家を建て、出来上がりかけて不景気となり、とうとう満鉄の手に入ったという豪華版の家だが、普段人が住まぬだけにガランとしてお化けが出そうなり。
よく掃除がしてあって気持ちは悪くないが、廊下の時計がボンと鳴るのも陰にこもるみたい。
二嬢あり。
これでどうにか気楽になれた。
二人とも東京の人。
可愛らしい型。
ロシア語と満州語の練習中。
1940年6月14日〔満州滞在〕
もともとノモンハンは軍令部総長伏見宮博恭王が陸軍に対して遠慮して行かぬがよいとお話なさったとて、桑折少将はプログラムにいれたくないと言うのを、私は秩父宮にどうかしらと尋ねたら、構わぬとて有末次大佐にお尋ねになったので、関東軍の方はそれに対しても、入れぬと困るというので上空からということにして、海軍へ出す予定表には抜いておくことにしてある。
海軍で考えるほど陸軍では恥ずかしがる事でないようだし、私はずっと参謀本部と軍令部との情報交換で聞いているので別に大してなんとも思わぬのだが、世間の噂や何かを先に聞くといかにも陸軍が気の毒ともなるのである。
宿は領事館。
浴衣も丹前も白。
浴衣は木綿、丹前は紋羽二重みたいなもの。
夜具も然り。
吉良上野介そのままなり。
気持ち良からず。
給仕はタロンホテルの妹 売れ残り25歳、食事は将校集会所からという寄せ集め。
しかし白づくめの他はノンキで良かった。
1940年6月15日〔満州滞在〕
宿は将校集会所。
将校集会所は委託経営で主人は特務機関の軍属なりしとかで、細君も大阪人であるが初めての宿屋商売とか。
つきっきりみたいな式の扱いでうれしからず。
貴賓室だろうからか、スマートでなかった。
秩父宮もお泊りになった室の由。
1940年6月16日〔満州滞在〕
着替えようとしたら靴下2足あり。
履いたら、違うからこっちのを履けとて、それを記念として残せということだった。
「何をつまらぬことを」とドンドン履いてしまう。
そういうタチの女将だった。
横山勇師団長の管内にふさわしいような気もした。
軍人宿にふさわしくないというだけだ。
かくて師団長官邸に行き泊まる。
山下奉文中将は今晩立ち退いたわけ。
憲兵隊長の奥さんと満州電々の奥さんと世話に来ていた。
堅苦しい奥さんではなかったが、奥さん方の借り物の接待は100パーセント良くない。
山下中将、熊・狸・狼・狐・ノロ等庭にいて、好きなのを持ち帰れとのこと。
ノロと狸をもらうことにしたら熊もということになり、大連の〈日向〉に積むことになる。
1940年6月17日〔満州滞在〕
弥栄駅着。
弥栄の御馳走を期待していたのに、チャムスのサンドイッチにてガッカリ。
1940年6月20日〔満州滞在〕
宿は東満ホテル洋館中の日本座敷なり。
陸軍式というやつか。
しかしさっぱりしていて良かった。
女中が小笠原流だったが、慣れると変でなくなった。
1940年6月24日
秩父宮御風邪気につき私が溥儀皇帝御出迎のこと電報を受け取る。
1940年6月26日
お迎えの列車にて横浜港へ。
すでに〈日向〉入港しあり。
艦載水雷艇で〈日向〉へ。
ここから公式で礼砲あり。
キャビンにて溥儀皇帝に、昭和天皇の御思召でお迎えに来たこと、東京駅にて御待ち受けのこと伝える。
しばらく溥儀皇帝とお話して、内火艇にて同乗、上陸す。
それより乗車、東京駅着。
今度は昭和天皇に御紹介する要もなく、ただ後からついて行っただけだから楽なり。
握手には手袋を取り挙手礼には手袋をはめるので、溥儀皇帝手袋を取ったりはめたりだった。
赤坂離宮まで自動車に同乗して、直ちに帰る。
晩餐に出る。
1940年6月27日
赤坂離宮にて溥儀皇帝の皇族を招きての晩餐あり。
1940年6月28日
米内首相官邸にて午餐あり。
これも秩父宮お休みなので私が行く。
毎日溥儀皇帝と顔を会わすと話の種もなくなる。
ただちに大宮御所へ行き、秩父宮妃・喜久子集り、明日のお茶のお稽古あり。
1940年6月29日
大宮御所へ。
モーニングコート、黒ソフトにて行く。
溥儀皇帝、軍服よりモーニングの方が座るのによかろうというわけ。
昼食は懐石料理にて、いつもの御食堂。
後にて節子皇太后、お茶室にてお点前。
赤坂離宮へ行き晩餐。
また顔ぶれは秩父宮妃・三笠宮・喜久子というわけ。
●大連 ヤマトホテル
ロシア時代の建物だろう。
しかし汚くはなかった。
水飢饉で夜間絶水だそうだが、ホテルと病院は細々と出るのをポンプで汲み上げておく由。
夜も水は普通に出た。
浴槽の排水栓がシャワーの方にあって、隔があるから出て開けなくてはならぬ。
中年者だから垢ぬけないボーイだった。
●奉天 ヤマトホテル
大連よりももっと旧式な装飾だった。
支配人が半ハゲの沈痛な御辞儀する。
和食を食べると女給仕が来る。
洋食だとボーイ。
ここも中年の嫌いなタイプのボーイ長と男の子に毛が生えたくらいの丸刈りのボーイが、しかも服装がブラックタイの白の低い上衣で気に入らぬ。
室を閉めておくと家具の臭いがする。
しかし塵っぽくないだけが良かった。
着いた時に衛兵がいたが、「張学良の頃より治安が悪いみたい」と言ってやったら並ぶのを止めた。
●新京 日満軍人会館
ここが一番良かった。
支配人が丸い太った人だったが、出入に案内するだけ。
後は女中だけ。
この女中の具合がとても良くて、うるさがらず、やりっぱなさず、満点だった。
お大名旅行でここならもっといてもよいと思った。
長くなれば退屈するだろうが、他の宿ではそんな思いもしなかった。
●ハルビン 理事公館
ポーランド生まれのロシア材木商が二号のために建て、不景気になってから自分で住まっていたが、とうとう満鉄が買って、地下室には玉突きやプールもあるとか。
材木屋だけに木地が良い。
手入れも良いから住み心地は悪くないけど、なんとなくガランとしてそんな因縁だというからお化けが出そうでもあった。
東京から来ていたお嬢さん二人、この二人が明るさを出してヤレヤレだった。
食事はヤマトホテルから男と女の給仕が来る。
廊下の置時計がボンボンと陰気をそそるようだと思ったが、気にならずに寝てしまう。
●ハイラル 領事館
入浴したら、出した浴衣と丹前に驚いた。
白の紋羽二重の丹前に、白の木綿のガーゼの袷みたいな物。
絶対に変なり。
寝るとなったら、また白の紋羽二重まがいの布団なり。
吉良上野介もかくあらんとばかり、他人が見ぬからよいものの、この世のものとも思えず。
●孫呉 将校集会所
ここは委託経営で、主人はハルビンやハイラルで特務機関にいた軍属で、宿屋商売初めての人。
しかも大阪の人らしい頭の先から声を出す、「高貴の御方の扱いをわからぬ」という式の丁寧さ。
頑強だけれど敬遠的ではない。
こういう形もあるものだ。
敬遠的よりはマシな方だが、面白くないには違いない。
靴の紐を結ばねばならぬと思えば早く履いてもらおうとするし、記念に靴下を取っておこうとして代りのを履かせようとするけれども、黙ってするほど悪くも遠慮深くもない。
居心地は良くないが、観察の対象になるタイプなり。
建物はおそまつ。
便所もとっておきと見えて引き出し式で、とうとうウンコを出す気になれなかった。
●チャムス 山下奉文中将の官舎
山下師団長、平常は当番三人と副官と住んでる由。
よその細君たちが来て世話した。
別に気兼ねの要るようではなかったけれど紋付だったし、海軍の兵隊なり従兵の方がマシだと思う具合なり。
陸軍の当番はハッハッと不動姿勢を取られる恐れあり。
庭に動物園然と熊やノロや狐や狼の子供が箱に入れてあったのも私にくれるためで、そういうやり方は陸軍に一脈あるようだが悪い気はしない。
ただ獣などもらうのはうれしくないが、他のもてなしと総合しての心持が買われるわけだった。
●牡丹江 ヤマトホテル
駅前の新しい建物。
このごろのホテルらしい建物で、サッパリした室ではあった。
往来に面しているので、旅行中一番にぎやかだった。
しかし交通を見ているのは大好きだ。
ここも男のボーイ。
赤黒い顔の丈の高い人。
ボーイ長みたいな燕尾服の人は、すてきに丁寧みたいな御辞儀をする敬遠型。
支配人は髪をなでつけみたいに分けた人で、これは支配人らしい人だった。
食事にも絶対に女給仕は出てこなかったが、簡易ホテル住まいという感じも悪くはなかった。
ボーイがなんとかもっとよければ良いというくらい。
新しいから気持ちが良かった。
水道の水が濁って汚かった。
●琿春 東満ホテル
炭鉱関係のホテルで、町から離れた野中の一軒家的な存在。
これも新しく、今年一月開業とか。
部屋はみな日本間。
浴室が珍品だった。
タイルの浴槽にはげた所があるとか言って、その中に小判型の木の槽が入れ子に置いてあった。
それがまた浅くて寝風呂みたい。
これが七不思議の一つ。
もう一つはお茶を持ってきた女が何とも言えない、きちんとしたみたいな御作法でやる。
小笠原流式のノソノソネチネチではないが、ただではなかった。
「作法の先生かと思った」と言ってやる。
●羅津 ヤマトホテル
これも新しい、一年にならぬ。
やや装飾的な観光ホテル型。
ボーイがブラックタイの事務員かホテル学校出かといった若い人。
態度が西洋人式であり、それが一人でやる。
うるさくはないが、変な空虚な感なり。
要するにいろいろな宿だった。
女中のいる所がよいのは当り前。
ホテルがみな清潔だったのは良い。
かび臭いのはなかった。
奥さんの接待には三通りある。
(1)世間話のできる人
(2)恭しくて手のつけようのない人
(3)ただの奥さん
今度のは(3)のようなのだった。
宿屋の女将さんも同じようなことになるが、接待するのが仕事だからこちらは気楽だ。
ホテルのボーイも子供らしいのや若々しいのは良いけれど、中年・中老年ときてはイヤなもの。
こんどのはみなそれだった。
今度の旅行で無かったのは小学校の女先生の接待。
これも苦手の一つだ。
1940年7月2日
溥儀皇帝、東京御発につきお見送り。
東京駅で節子皇太后からの御伝言。
これを言っているので、予定時間ギリギリになる。
《節子皇太后御口上》
この度はせっかくおいで遊ばしていただきましたのに、なんのおもてなしも御心半ばで御つくし遊ばされませんでした。
御対面もたびたび遊ばされましたし、御話も遊ばされ御申入もお聞き遊ばされまして、御満足様に思召されました。
梅雨うちとは申しながら御天気の御都合およろしく、御参拝もおすらすらとお済まし遊ばされましたことは、陛下の御徳であらしゃりまする。
いよいよ今日は御立ちであらしゃりまするので、お名残惜しゅう思召されます。
御途中御機嫌よく御艦も御静かに御滞りなく、新京へ御着のお知らせを御待ち遊ばされまする。
よろしゅう。
1940年7月14日
秩父宮へ立ち寄る。
色白くおなりになりしも、先頃よりはおやつれでない。
まだ新聞も御覧になりたがらぬ由。
みなで小説を読んであげているのだそうな。
1940年7月20日
秩父宮8月には箱根あたりへ転地なさるとのこと。
1940年8月1日
秩父宮、箱根小涌田谷の藤田公一男爵別邸へ。
先ごろ痰の中に血が出て、一年近くお咳の止まらぬ気管炎と考え合せ、肺病の一歩手前とかで大事なり。
当分御休養。
冬は御避寒の要ある由。
秩父宮も今度は御自身だいぶ御心配のようなり。
でもお家の人には相変わらず、お口では強がりをおっしゃるらしい。
1940年8月4日
大宮御所へ。
〔節子皇太后の弟九条良致男爵死亡に際して〕はじめ喪章はつけぬことにしていたところ、皇太后典侍竹屋津根子より「自分で気が済まぬからつけてきた」態にしてつけてきてほしいとのことで、喪章つけて行く。
1940年8月7日
休暇を取ってみる。
ブラブラして暮らす。
夕方ちょっと海につかる。
喜久子が庭の東屋で見てるのが目ざわりで、すぐ上がってしまう。
1940年8月8日
北白川永久王より御手紙来る。
返事書く。
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高松宮殿下
7月30日 於張家口
永久拝
はるかに張家口より御機嫌を伺います。
その後まことに御無音に打ち過ぎまして、失礼申し上げました。
殿下には今回満州皇帝御訪日の際の御大任も終らせられ御栄転遊ばされました事、まことに遅れましたがお喜び申し上げます。
今夏は葉山より御通艦とのこと、私達だいぶ海が恋しくなりました。
当蒙疆も一世紀遅れた蒙古人相手にとかく進展しております。
気候は夏も室内は概して涼しく、北京より避暑に参る程度。
ただし紫外線は猛烈であります。
当地は支那軍外蒙軍および回教工作また蒙古政府蒙古軍指導などあり、また一種特別な面白味があります。
またいずれ蒙古事情でも申し上げます。
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1940年8月10日
秩父宮妃、内巻に結いにいらっしゃる。
1940年8月11日
新聞を見ると、細川温子〔細川護貞の妻近衛温子〕とうとう逝く。
結婚の御披露で初めて向き合って座ったようなものだったが、貞ちゃんのお嫁さんというのでよそよそしい感じをしなかった。
以来、会ったのは2~3度か。
それでこないだ細川邸へ行った時ももう寝ていて会えなかったのが寂しい気がしたのに、まったく幽明ところを異にすという気持ちがひしひしとする。
またあの顔が見られるのじゃないかと夢のようであり、見られないと思うと細川家ではわがままな奥さんであったかもしれぬが、他人には面白い懐かしい思い出しかない。
1940年8月12日
秩父宮箱根にいらしてまたお咳が余計になったとかにて、いまだ外にお出にならず。
お床とって、こないだのように寒いとすぐおねんねだそうな。
しかしもう大した御異状はないようだ。
御本人がとても大事にしていらっしゃる。
だいぶおさみしそうだった。
ことに秩父宮妃が御退屈らしかった。
1940年8月20日
秩父宮、結核菌が出た由。
1940年8月22日
秩父宮事務官前田利男より事務官吉島六一郎宛親展にて、秩父宮の御容態申し来る。
ただ菌のことには触れず、御見舞は遠慮してくれとあり。
毎日御容態電話に通知あり。
看護婦二人つく。
絶対安静。
18日は節子皇太后より侍医八代豊雄が、19日は秩父宮の御希望で侍医頭八田善之進が診てあげた由。
1940年8月25日
秩父宮妃に電話にていらっしゃいませんかと言わせたところ、お出あり。
菌が出たとはおっしゃらず菌みたいなもの、お痰にもちょっと色づく程度の血にて、もう平熱にて御安静なるも、私が出た方がよいらしい御様子なりしも行かず。
1940年8月30日
葉山へ。
夕食、喜佐子・久美子〔共に高松宮喜久子妃の妹〕呼んで三笠宮のお相手をさす。
女の子に接する機会あるを可とすべしと思いて。
1940年9月5日
「北白川宮永久王、対空監視所にて飛行機事故のため、4日御負傷同日薨去あらせらる」云々と。
永久王は飛行中にはあらず、地上にあらせられた模様。
永久王はお立ちの時も、北白川の叔母さんが御心配であった。
なにしろ能久親王は台湾で、成久王はフランスで、いずれも薨去になっているので、今度もとても御気にしていらっしゃった。
それが本当にこんなことになってなんともお気の毒であるばかりか、若い皇族の中で一番しっかりしてらっしゃると自他ともに許していた方であった。
御跡取はあるとはいうものの、そんなことはこの際なんの理由にも慰めにもならぬ。
美年女王はじめいらっしゃるけれど、多恵女王にしてみれば今秋の御婚約である。
お一人ではない御家庭ではあるが、御不幸なお家である。
北白川宮へ行く。
房子妃・祥子妃にお目にかかったが、お疲れのようでもあり、もちろんお慰めの言葉もないので十数分で退出。
1940年9月7日
永久王の御遺骸お帰りになったとラジオで言っていた。
大急ぎで昼食をして北白川宮へ行く。
まだお蓋をしていなくて、お顔が見られた。
やはり色はお悪いが、顔面に傷がなくてよかった。
少し口を開き気味なり。
ちょっと聞いたら右の足の先が飛んで行方知れずとのことなり。
頭のは皮がずっとめくれてしまったのだそうな。
叔母様より「看病の日数も無かったのでなるべく長く置きたい。正寝移柩の前にお別れをして蓋をしめてもよいか、18日に御葬儀してもよいか聞いてくれ」とのことで、野村事務官に聞いて13日頃まで大丈夫の予定と言うも、もし駄目なら正寝移柩の前でもお蓋をして、白帛で覆い縛ることを後にすればよいという解釈にして、また十日祭は内々でもできないことはないことなるも、かえって叔母様方のお疲れもあるから、それを機会に正寝にお移した方がよいとのことになり、ただし叔母様のお気持ちもあるので、正式のお通夜はお葬儀の方に寄せて四日間とするに、宮務監督がやはり今度は希望者が多いからとて決まる。
それで正寝移柩を12日にして、12~13日は内々のお通夜として叔母様のお気持ちにも合するようにした。
1940年9月8日
竹田宮恒徳王と一緒に宮内次官白根松介と宗秩寮総裁武者小路公共に面会、砲車の問題を話す。
宮内省側としては霊車を砲車にしたくない。
その代り戦死を表現する手段として、儀仗兵に砲兵を加えて葬列に続ける案を出す。
《砲車がいけない理由》
●霊車は文面にはないがあの馬車として枢密院の説明になっている。
そして葬儀令制定以来何等の変更なくやってきている。
●皇族としての葬儀であって、これが最高の儀礼であるからそれによるべきで、皇族としては陸軍も海軍も妃殿下も変りあるべきでない。
●伏見宮博義王の場合にも従来通り願った等々。
これに対し竹田宮恒徳王は問題は法の問題でなく叔母様の情の問題で、亡くなった永久王が連隊と共に戦地に行きたいとの御希望の一つの表し方として砲車に乗せてやりたいとのお考えで、儀仗のことについては軍隊を動かすことであり、それはありがたいが願えることではないとのことを説かれた。
私としては霊車とあって一定の馬車とは法文にないから、そして砲車は軍に死んだ軍人に対する葬具としてすでに通念としているので突飛ではない。
いまこれを戦車に乗せるのは過早であるが、砲車なら葬儀令の制定前ではあるが、有栖川宮威仁親王の時にも砲車に乗せて兵が引いた。
儀仗隊と交換的に考えるのでなく、砲台になし得るか否かの問題である。
●注文を活かしてまず解釈で運用し、それでやれなくなった時に法文の改訂もするので、この場合なんら法文上の違例でなく、むしろ儀仗に砲兵が砲車を引っぱるのが変なぐらいである。
●戦死という特例として扱えば今後の前例ともならず、従来と変わって差し支えないので、なにも馬車が二千六百年の皇族の葬儀の定型でもないのである。
結局水掛け論みたいで、また研究することになる。
後で陸軍側委員の今村均中将に会ったら、陸軍次官阿南惟幾と宮内次官との話の時に、陸軍次官が「規則が変えられぬと言うが、宮内大臣はさきに『やむなければ火葬にして御遺骨を持ち帰ったらどうか』戦死者のすべてが骨として帰るのに、皇族だからとてそのままお帰りになるのは国民に対して影響如何であろうとさえ重大なる慣例の変更を提議されたではないか』と言ったら、宮内次官も困っていた」とのことだった。
陸軍としては儀仗隊に砲兵を加えることは前例として良いことだから、それでもよいとのことであった。
1940年9月9日
北白川宮へ。
野口事務官に会って砲車の件聞いたら、だいたいその腹になり陸軍に予行をせよと言い、明日伺って決めるとのこと。
野口事務官としては従来の形を破るのに強く反対であるが、重点主義的に今度だけ特例を認めるので、そうしたら細かい点は陸軍に任せるつもりだと言っていた。
いざこざにならぬ様子なり。
御遺骸少し臭いがし出したが、12日までは大丈夫らしい。
ドライアイス一日二回替える時のみ、御顔をお見せすることにした。
秩父宮より御手紙来り、私の考えと大差なく、大袈裟になってはかえって贔屓の引き倒しになることに注意とのことであったので、竹田宮恒徳王にその点言っておく。
1940年9月10日
永久王に大勲位いただく。
瑞宝副章買うかどうかと言ったら、賞勲局長が献上することになる。
金鵄章もおいただきになる。
これは伏見宮博義王の時と同じく、私としては疑問を持ち反対である。
1940年9月11日
砲車の件、伺い済となる。
初めて聞いたのだが、伏見宮博義王の時 砲車は用いられぬと御尋ねがあり、できないと申し上げたので、その代りの意味で葬場から水兵に担がすことをおっしゃったのだそうな。
北白川宮で葛城敏子様〔細川温子の義妹・細川護立侯爵の娘・葛城茂麿の妻〕に会う。
細川温子の最期は意識不明で安らかだったが、一カ月も前に遺言してにぎやかにしてくれとのことで、お通夜もにぎやかだったそうな。
細川雅子〔葛城敏子の実妹〕転地しているのだそうなと聞いたら、そんなことはないしノンキにして元気だとのことだった。
秩父宮、遠藤繁清博士診察して、お軽いが大事にしなくてはならぬ、暑いより寒いのはよい、ただ湿気るのがいけないと言うので、当分箱根のままということになる。
侍医中村順一の曖昧なのよりハッキリして、お手当も決まり結構なり。
1940年9月12日
北白川宮へ行く。
正寝移柩。
永久王のお顔、とても白く塗ってしまった。
1940年9月17日
北白川宮へ行く。
霊代安置の儀。
竹田宮恒徳王から北白川の叔母さんが、葬場からお墓への霊輿の側に竹田の叔母さんの時のようにおなじみの将校を歩かせたいと言うのに対し、宮内省でそれは先回の時に事後研究会でこれは具合悪いので前例にせぬことに式部の方で決めて今回もお断りしているので、なんとかならぬかとのことだったが、その話の時は委員退出の後でどうにもならず。
1940年9月18日
北白川宮へ行く。
昨夜のお棺の側に将校を供させる件、話すに同じような返答であり、すでに相談の暇もないので、列の後になら差し支えないとのことで、叔母さんにそれで御納得いただき、霊車を指揮した築山博一中佐と同期生5名つくことにす。
1940年9月22日
秩父宮へ。
上体起こしてお会いになる。
顔色よく肉つきもよく見受けた。
やはり痰が出る様子。
三笠宮初めてなので、お庭を散歩したりお茶食べたり。
1940年10月15日
東久邇宮彰常王の臣籍降下の皇族会議あり。
5分もかからず終わる。
1940年10月25日
秩父宮二千六百年祝典御出席にならぬので、11日当日のみ私が代わりに務めることになったと御電話あり。
1940年10月26日
秩父宮、6月以来御風邪の気味で8月に急性肺炎をなさり御静養中と発表さる。
1940年10月27日
宗秩寮総裁来邸。
二千六百年式典、総裁なにも内容知らずに聞きにきている。
こっちも何をするか知らずに、ただ寿詞と万歳とを言うことのようなり。
1940年10月29日
電車で葉山へ。
新宿御苑のトマトを秩父宮へあげる。
新宿御苑のトマト、内緒でならいくつでもあげるとのことだった。
11月の奉祝詞「恐懼頓首、臣宣仁申す」式でとてもおかしくて、何とかならんかと言って帰る。
万歳を弥栄にして「天皇陛下皇后陛下、弥栄」としては如何か、奉祝文とともに秩父宮の方で研究してくださるはず。
1940年11月3日
二千六百年式典の奉祝文、字引ひいたりする。
どうも難しい字で気に入らぬが、代理だから仕方もない。
万歳も弥栄では困ることになる。
やはり万歳と言うことになる。
ただし天皇陛下皇后陛下の万歳ということになる。
秩父宮のお考えによる。
私も同意見なり。
1940年11月4日
奉祝文、疑問の点あり。
立案者宮内省嘱託木下彪に来邸を求め説明を聞く。
どうも天皇陛下のことを讃える点多く、二千六百年奉祝のことが少ないようだと言うたが、奉祝会の意向によったということで、なにしろ飛び入りの代理だからまあ我慢することにした。
「恐懼」を直した程度。
秩父宮に報告しておく。
1940年11月5日
秩父宮へ行き、奉祝会 勅語あることになりたれば、奉祝文のことにつき伺う。
別にお心づきの点もなしとのことなり。
1940年11月7日
式部官武井守成と二千六百年祝典事務局長歌田千勝来邸。
●万歳は天皇陛下のみとのことで、「私が間違えて言っちまえば、天皇陛下皇后陛下でよいわけか」と言ったら、まあもう一度研究することになる。
●万歳には私は手を上げないことにした。
一般には上げる習慣だから、上げないではバラバラになる懸念あり。
みなは上げればよい。
●宮崎県と鹿児島県と発祥地奪い合いのため、神代三陵を希望していたからそれは断る。
もしそれで高千穂峡に行く予定だがそれが釣り合い上困るような話だったから、「そんなことで知事さんが県民を指導できぬなら仕方がないから高千穂峡やめでもよい」と言っておく。
両方の御機嫌取りみたいにやってたらきりがない。
重大問題ならそれも仕方ない時もあるが。
●「橿原と宮崎の奉献式には出ずに奉告祭に出る」と言ったら、奉献式も会だけのものでなく全国民の奉献式だからと言って、それにむしろ重点あるようなことを言っていた。
「会すなわち全国民の総代だろう」と言ってやったが、結局まあ大したことではないから両方出ることにした。
ただ秩父宮と同じではいけないからなんとか、やり方を違うようと言うたが、それも実際問題としては区別あるようにできそうもない。
レコード録音機を借りてきて、奉祝文の読み方を録って自分で聞いてみる。
こうしないとどうもわからぬ。
初めてやってみたが、自分の声を再生して聞くと読み方の研究になる。
1940年11月10日
宮城前祝典へ。
祝典は内閣でやるので、近衛が明日私のやるところをやって見せるみたいに同じことをやる。
1940年11月11日
宮城前奉祝式へ。
奉祝詞の朗読と万歳、うちで録音を録ってもらう。
私のとグルー大使のと君が代斉唱と録れた。
1940年11月14日
音羽正彦侯爵&大谷尊由の娘大谷益子の御披露。
大きな砲丸投げやるだけ左肩を上げた癖のある、許婚が長かっただけ慣れたお嫁さんだった。
1940年11月18日
中宮寺着。
中宮寺の尼さん〔近衛尊覚〕だいぶ耳が遠くなったが、元気になっていた。
尊昭尼さん〔平松時冬の実娘・一条実孝の養女〕23歳になったそうで、夏中胃病で寝ていたそうな。
1940年11月19日
円照寺着。
門跡山本糸子、山本静山と名を変えていた。
25歳になって大人になった。
橿原神宮の給仕には高女生徒が出てきてしていた。
相当なスローモー式お作法なり。
1940年11月22日
ホテル着。
夜、細川侯爵一家ゾロゾロ見えたが、入浴していて帰ってもらう。
1940年11月24日
紫明館着。
大正天皇がお泊りになった建物で、浴槽は湯を汲みこむ式、便所は引き出し式、その他はよろし。
料理屋だからサービスは慣れていて、堅くならずに済む。
1940年11月26日
八紘台着。
青年団西部動員大会発足式あり。
動員青年と宮崎の学生の分列あり。
元気あって各地から集ったのにかかわらず歩調も合う。
目の前を行進するので、目がチラチラして目が回りそうになってので、時々空の雲を見てやっと大丈夫だった。
公会堂の体験発表会へ行く。
福岡のはジェスチャーたっぷりに軍役奉仕の感激を語り、聴衆に涙する者多し。
それにつけても私が青年のそうした感激性に感応する純真というか若さがないのがさびしく感じられる。
だから私は宮崎の農業者が、おじさんの田畑の耕作と自家の田畑の耕作とを両方やらねばならなくなった、そして両方やる決心をしたという話の方により深く聞いた。
1940年12月15日
また下痢が始まる。
いささかヘトヘトの気味。
士官室で「トントントンカラリンと隣組」と蓄音機をやってるのを聴いたら、とたんにうれしくなっちゃった。
1940年12月30日
腹の具合もすっかり良くなって、旧態勢の前菜・スープ・野菜・魚・肉と西洋料理をおいしく食べる。
こないだうちからのおかゆの栄養不足を取り返した感なり。
秩父宮にもビフテキを召し上がれと手紙に書いたくらいなり。
食堂の給仕は爺さんのボーイだがそんなに悪くないのと、不美人の人、熊本市の人でかためているだけに男も女も美人はいないが、まとまったなごやかさがある。
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1905-1987 82歳没
■妻 徳川喜久子 将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵&有栖川宮実枝子女王の娘
1911-2004 92歳没
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『高松宮日記』
※高松宮は江田島の海軍兵学校在学中
1921年2月12日
新聞に宮内大臣中村雄次郎辞職云々と。
久邇宮良子女王に関すとか。
1921年2月13日
新聞は某重大事件に賑わう。
予も知らざるも、久邇宮良子女王との御破談か。
1921年3月3日
裕仁皇太子、御渡欧御出発。
皇族方と共にシャンパンを挙ぐ。
感慨無量。
1921年3月21日
華頂宮博忠王、鴨撃ちに行かるる由。
祭日にはちと休んでもよかりそうなもの。
1921年4月22日
石川〔高松宮伝育官石川岩吉〕は長男の神経衰弱面白からず、どうするか未定。
1921年5月13日
今日の『国民新聞』に、秩父宮の妃に一条の娘さんがおなりになると出ていた。
1921年5月21日
田村〔御付武官田村丕顕〕に「武官が尾けて歩くのはなぜか」と聞いたら、鈴木貫太郎校長がそう言って教室までも尾つけるのだそうな。
そこで予が涙を出して見せた。
要するに学校内ではどこへでも尾けて歩くのだそうだ。
私がどうしてそんなに一人で歩くと信用ができないのかしら。
まあ結局私は私で武官に関係なく行動することにするよりほかない。
1921年6月1日
今月より武官、教室および短艇の中には来らざることにす。
しかし尾けては歩くらしい。
教室の隣室にはいるらしい。
馬鹿馬鹿しいことだ。
それでは少しも予の求むる自由は得られないのだよ。
1921年6月9日
西村に「私なんていうものは病人みたいに世の中に何もせず食っているのだ。真に無意味だよ」という意味のことを聞かす。
1921年6月14日
武官をまこうとするが、うまくまけぬ。
どうしても手先に使う人がいる。
1921年6月22日
西村が「何かのついでに呉に行って買って参りましょう」と言うから、
「そう面倒ばかりかけては済まぬ」と言うがなかなか聞かぬから、
「や、いろいろ慣例もあるから」とて断る。
あまりいろいろもらって妙な結果になると困るから。
学習院で懲りてる。
1921年6月28日
西村が私と話などするから、どうしても他の水兵が一緒にならぬと言ってきた。
どこに行ってもこれだから、私は一人孤独に泣かねばならぬのだ。
西村には気の毒だが、今私として絶交するのはちょっと困る。
1921年6月30日
真に私の行く先々では必ず仲間はずれを作ったり、人に迷惑をさしたりするのだからイヤになってしまう。
学習院の時も、佐藤さんなどはその部であろう。
気の毒だと言って私としてどうも手がつけられないのだから、なおさら自分の心を痛めるばかりである。
1921年7月2日
石川〔高松宮伝育官石川岩吉〕に宅より手紙にて、長男が甚だ良くない、床の下に小刀など忍ばせているということで、一度帰ってくれと言うことなので帰京す。
どうも不幸は不幸を招く。
1921年7月7日
石川から手紙で、長男は一時より少しは良いが面白くないと言ってきた。
1921年7月8日
今日物理講堂から大講堂まで田村〔御付武官田村丕顕〕をまいてやった。
手際よく。
1921年7月12日
石川から手紙で、少しづつ良いがはかばかしくないと言って寄こす。
学習院の野村三郎教授、出入りの左官に刺さる。
1921年7月26日〔田母沢御用邸〕
大正天皇御散歩のとき侍従の補助を要せらるるごとく拝せり。
ますますおよろしからざるがごとし。
1921年9月20日
西村さんに大正天皇の御不例のことを言った。
西村さんも心痛の色を顔に浮かべてくれた。
私は世界中で誰よりも西村さんを信頼していて、何一つ隠そうと思うことはない。
本当に私が頼りとし愛敬するのは西村さんだ。
1921年9月21日
小林堯太郎が裕仁皇太子が御土産に下さる犬を見た。
ポインターの雄一と雌一が良く。
こないだ仔を産んだのはその雌より劣るそうな。
またセッター雄一つ非常に良く。
他のセッター、ポインターは芸は良くとも体は駄目なるとか。
1921年10月4日
大正天皇御歩行にも補助を要せられ、御記憶力など減退にて、御良好とは拝し奉らずという御容態書発表になりたり。
1921年10月11日
裕仁皇太子より御土産のうち、犬だけ正式にいただいた由。
ポインター雄雌二頭。
主猟課に預けて飼わす。
1921年10月15日
裕仁皇太子よりヨーロッパの御土産として、油絵1・胸像1・望遠鏡1をいただきし由。
1921年10月20日
西村さんは少しも私に会ってくれぬ。
もう私など可愛がってくれぬのかしら。
1921年10月22日
西村と顔を合わせたが、どうしても以前ほどの親しさで顔を向けてくれない。
本当にどうしてあんなに私から離れて行ってしまうのだろう。
悲惨、悲惨。
1921年10月24日
今日は西村さんが親切な顔で見てくれた。
いったい西村さんはどういう気かしら。
本当は私を可愛がってくれる気があるだろうに。
1921年10月28日
西村さんはまた以前のような親しい顔で会ってくれる。
私の心は晴れ晴れしい気分になった。
1921年11月18日
やっぱり西村さんは本当に私を愛してくれぬ。
同性愛ということを理解してくれないのかしら。
1921年11月25日
前田〔皇子伝育官前田利男〕より、大臣より摂政を置かるることを話すようにとのことを聞く。
1921年11月28日
今度の摂政についての詔書などの拝読ありて、ただちに学校の生徒・学生・高等官総員にて写真を撮る。
西村さん本当に私を何とも思ってくれないようになってしまったようだ。
私は常に孤独で生きなければならぬのだろうか。
さびしい、さびしい、さびしい。
1921年12月1日
近ごろの新聞は裕仁皇太子の摂政御就任からして、三笠宮の御写真など種々なのが出る。
私はおかげで気楽だ。
1921年12月4日
西村さんが親切そうな顔を向けてくれた。
本当に両方で遠慮と疑いっこしているようだ。
でも嬉しくって、嬉しくって。
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『高松宮日記』
1923年1月3日
朝、スケート。
昼食後、山階宮武彦王と賀陽宮恒憲王とテニス。
1923年1月5日
スケーティング。
西園寺八郎・西園寺二郎・二荒芳徳・堂ノ脇光雄少将が一緒に滑った。
1923年1月6日
朝、スケート。
二荒芳徳・西園寺公一・西園寺二郎と一緒に滑る。
越ケ谷鴨場へ。
午前1回、午後1回。
鷹を使ってみる。
網で雉を獲る。
鴨は100余羽。
秩父宮、田口へスキーに御出発。
1923年2月7日
夜、有栖川宮董子妃御危篤の電報ありたり。
ことによっては帰らねばならぬかもしれぬ。
困ったことなり。
1923年2月8日
晩、宮内大臣牧野伸顕より喪主仰せつけらるること、帰京の日は後報という電報が来る。
やれやれ。
たぶん紀元節後ならん。
1923年2月9日
夜電報にて「帰京を要すれば18日の前」ということを報ず。
これによれば帰らずに済むかもしれないが、それでは変だ。
高松宮という称号は有栖川宮家の祭祀を継ぐためだ。
喪主という勅許を願っておきながら、ここにしまいまでいては変すぎる。
1923年2月10日
私としては喪主になった以上、帰京するを至当と思う旨、山内伝育官より官長に尋ねしむ。
夜、皇后宮属淡近澄、節子皇后の御親書もて来島。
帰京するようにとの仰せと思いのほか、意外のことにも帰らないようにと言うことで、非常にヒステリックになって書いておありになるので、私にはよく事が了解できなかったが、困ったことになった。
牧野宮相は帰るようにとの意見なるも、節子皇后はことごとく反対なさるらし。
官長も困りおるならん。
1923年2月12日
今朝牧野宮相より有栖川宮の御辞退を理由として帰京せぬよう伝い来る。
義理の立たないことになって心苦しい。
1923年2月20日
なんだか気分が引き立たぬ。
万物春めき、我が心も春めき悶まし。
異性に対して恋もなきに、またやはり同性愛か。
さりとて相手も見つからぬ。
同性愛は禁物だのに。
もうこりごりしているはずだのに。
1923年3月1日
官長から東京での様子を聞く。
牧野宮相は強く帰京を言い張り、御内儀ではどうしてもお許しなきこと想像の如く。
節子皇后が非常にヒステリックにおなりになっていたことも予想通りだった。
1923年3月2日
官長から続きを聞く。
こんどこちらへ来る時は、御内儀からは御伝言だけ、四十九日までに帰られたら良かろう、しかし夏まで帰らずとも悪くはないとのことなり。
1923年4月3日
北白川宮成久王御遭難の稍詳報来る。
北白川宮成久王御自身御運転になり75マイルぐらいで走っておられて、他の自動車をかわし損なって並木にぶつかったらしい。
運転台の北白川宮成久王と運転手は即死、客席の北白川宮房子妃と朝香宮鳩彦王とフランス人御用掛は重傷をして、北白川宮房子妃は御傷ことに重い由。
コスモス・ポーチュラカを蒔く。
1923年4月10日
原村演習携行の事業服など、明日出発のために出す。
卓・椅子を持ちゆく馬鹿な武官さん。
それよりも武官さんの大きな洗面台を持ちゆかせるに至っては捧腹絶倒の値あり。
憐れむべき点あるを覚ゆ。
馬鹿もかかるほどなれば笑止の至り。
1923年8月25日
朝、テニスをなす。
伏見宮博信王〔華頂博信侯爵〕はやはり脳の具合とお腹の具合で休暇を延長さる。
1923年8月27日
佃さんは「私は人から注目されているから、する事はそのつもりで注意するように」と言ってくれた。
私は学校中に佃さんの他には友を持たない。
1923年8月29日
朝食前山田さんと散歩す。
山田さんも私が親しみを感ずる人だ。
佃さんとは趣きを異にした友達だ。
この他には兵学校に親友を持たない。
自習中、休みに佃さんに会えた。
まるで逢い引きでもするような気持ちで。
しかしいつも中休みに来てくれるとなると、相すまないような気もする。
佃さんは私に会わなくてもよいのだから。
私だけ我慢すればよいのだ。
1923年9月2日〔関東大震災〕
東京方面に強震ありて、各所に火災等あり。
電信電話不通。
中央電信局火災で様子がわからない。
御見舞電報を出したが、日光へは着いたけれども東京へは行かない。
なにしろ大変な騒ぎには違いない。
夜になって来た報は想像以上のものだった。
呉から軍艦が急行する。
それで帰京をと言い出したが、校長の反対・武官の弱腰に出会してやめるより仕方がなかった。
1923年9月3日
報道はますます惨害の大、悲惨の極を報ず。
心配で、心配でたまらぬ。
秩父宮はまだ日光にいらっしゃるらしい。
なぜかは知らない。
イライラして学科はそっちのけ。
通信もよくできないので、断片的なことしかわからぬ。
それよりも無いよりはよいが、もっと知りたくて、知りたくて。
1923年9月4日
今日も焦慮の一日なり。
皇族方にも薨去された方々が数人あることが知れた。
宮城の損害はそんなにないらしい。
御殿の方面も無事らしい。
戒厳令で何びとも入れぬ由。
状況がわかるにつれ、彼人は如何、誰人は如何にと心配だ。
帰りたい、帰りたい。
武官一人帰れと言ったが、なぜか帰らぬ。
私を帰さない意趣ばらしに帰すつもりだが、帰らない。
明日はなんでも帰すつもり。
1923年9月5日
どうしても武官さんは帰らぬ。
理性のためか攻略のためか。
1923年9月8日
官長から、大正両陛下・裕仁皇太子・秩父宮・三笠宮御無事、諸事回復しつつあり、御安心あれという電報が来た。
電報が来たのは良いが、文がそれではあっけない。
帰ってもよいと言うてきたかと思った。
1923年9月9日
地震で帰りたい、どうしたいで神経がすっかり鋭くとんがってしまっていけない。
ブローム〔睡眠薬〕の必要がありそうだ。
1923年9月10日
裕仁皇太子より御手紙くる。
名古屋のスタンプなれば飛行機で来たのだろう。
もう東京へ帰るのは当分あきらめた。
1923年9月12日
17日の黄海海戦記念日に教官対生徒のテニス試合をするそうで、坂部少佐が私にも出るようにと言った。
1923年9月14日
佃さんは私にもうそんなに情を動かしていないのかしら。
片思いは覚悟の上だが仕方がない。
1923年9月15日
魚住が17日のテニスに出てくれと言うから、できないと断ったが、組を作ってしまった。
佃さんに会って断ってもらおうと思ったが、自習室に入って行くわけにもゆかず、明朝のことにす。
私が出ないなどと言ったら、坂部少佐はイヤな顔をするだろう。
1923年9月16日
魚住に「テニスはイヤ」と言った。
集会所のコートで佃さんと前田と佐藤が来てやっていたから、そこへ行って断ってくれと頼んだら迷惑そうだった。
ちょっとラケットを振ったら航海科長が来たので逃げ帰る。
試合に出ないでテニスなんかしていたらいよいよ睨まれる。
会えば佃さんだって私を捨てはしないのだもの、なんとかしてくれるって。
1923年9月17日
テニスの試合。
やはり佃さんは出た。
気の毒なことをした。
それにとんだ迷惑をかけてしまった。
1923年9月18日
佃さんに会って、昨日ワガママをぶっ通して気の毒な、済まないことだったと詫びて気がせいせいした。
出なかったことを悔ゆるのではない。
人々の気分の幾分かに影を投げかけることを恐れるのだ。
1923年9月19日
電報にて、御慶事〔昭和天皇の結婚〕は来年2月上旬か1月下旬に延ばされた。
1923年9月23日
石川〔皇子伝育官石川岩吉〕から手紙で、麻布の土地の残っているうちの5千坪ぐらいをアメリカ赤十字社の救援隊に貸すことにしたと言ってくる。
おおいに望むところなり。
手紙のたびに節減のことを言ってくる。
各宮家などもなかなか細かく打ち合せをしているらしい。
こちらは関係ないことだけれども、それでも非常な謹みをもって処すべきだ。
宮内省は破産になってしまうから。
1923年9月25日
「佃さんがちっとも遊んでくれないからぼんやりしている」と言ったりした。
「日曜には集会所に行くからテニスをしよう」とも話した。
「だけどテニスをすると坂部少佐は試合に出ろと言うから、もうテニスはしない」と言ったら、
「そんなことはないようにするから」と言ってくれた。
私は佃さんになら迷惑をかけてもよいような気がする。
変なことだ。
1923年10月7日
伏見宮博信王〔華頂博信侯爵〕はどうも神経の気味だ。
やはり御友達でも作って快活にお仕向けすることが肝要だ。
私も少し手伝うかと思ったが、よく考えてみるとそれは私の主義にもとった行為のようだ。
山階宮萩麿王も友達が良くない。
1923年10月8日
官長の手紙に、私の都合のよい時に帰ったらよいだろうと言うて来た。
今頃になってかえるにはなんか事柄がなければならぬ。
また今さら帰る気もない。
冬休みで結構だ。
1923年10月12日
2~3日中に〈長門〉が横須賀に帰るからそれで帰ったらよかろうという話なれば、私は今さらそんなに帰る必要はないと言ったが、東京で宮内大臣・皇后宮大夫のこともあり帰ることにした。
私はどうせ帰るなら試験の間にと思ったのだが、私の心事はまるでわかっていないから駄目だ。
長門で帰っても、学校へ行く時はどうなることか。
皇族ほど馬鹿げた職業はない。
1923年10月16日
上陸して見学する。
復興、遅々たり。
惨状、心痛む。
1923年10月19日
上野・本所・深川方面を視察す。
惨々々々。
1923年10月21日
秩父宮と馬に乗る。
外庭を駆け回る。
1923年10月22日
赤坂離宮へ行く。
スミスモーターフライヤーを借用して、石垣にぶつけて前輪を曲げた。
1923年10月29日
山内〔御付武官山内豊中〕帰る。
今ごろ帰るのだから呆れる。
桑折〔御付武官桑折英三郎〕もお坊ちゃんなり。
今度の中川〔高松宮家御用掛増山正興〕も華族なり。
困ったもの。
中川は次男だし華族臭の無いことを条件にしてあったのが、後で見せられた履歴には出仕までしていたとある。
これも呆れた。
四面楚歌の感あり。
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『高松宮日記』
※高松宮は海軍水雷学校在学中
1926年1月4日
甘露寺のお嬢さんが二人〔甘露寺績子・甘露寺寿子〕手伝いに来る。
これも候補者なり。〔秩父宮のお妃候補〕
姉さんの方より妹の方がニコニコしていて愛嬌がある。
顔もおとなしい。
しまいに姉の方も悪くないと思った。
朝香宮がとても西洋臭くなったことなど話題に上る。
1926年1月6日
鈴木貫太郎大将〔高松宮家顧問役〕に、武官を一人にすること、志摩〔御付武官志摩清英少佐〕をなんとかしてほしいことを話す。
山階宮萩麿王いらっしゃる。
萩麿王、堀井とは親しくなさるるよし結構なり。
堀井は満蒙に活躍したき望みあるらし。
探偵小説など好むとはさもあらん。
萩麿王も同じ探偵小説を好読さるるとは模倣の然らしむるためか。
1926年1月7日
山階宮萩麿王、御日記を持ちて来られ読めとて置いてゆかる。
萩麿王の人に交わられ友と交われるに、セックスの上に原因がありはしないか。
そうだと、それに偏しすぎるのは面白からず思う。
私についても誤解が大ではないかとも考えられる。
なぜならば私の人格を礼賛して、私のために身をどうするとまで書いておありになるのは如何かと思う。
私もお力になろうが、それは same level においての事なり。
1926年1月10日
2時参内。
大正天皇は寝台におやすみ。
今日はたいそうおよろしきとのこと。
4時過ぎ帰る。
満州の活動映画を観る。
同胞の血に彩られし地に、「平和の花を咲かすのが現在日本人の務めである」とのタイトル。
しみじみ思ったら奨励に行ってみたい気もして仕方ない。
大連市もなつかしい気がした。
1926年1月12日
「純な心持ち」というものがあることに気づいた。
性欲の研究を始めようか。
そしたら私の心持ちも純なものになることができるかもしれない。
そして清い友達ができるかもしれない。
まだ羞恥心はあるのだから。
「純な気持ち」から恋愛に近い感情も起ることもありうるわけだ。
こえは山階宮萩麿王の御日記を見つめて苦しむ産物としては大きなものだった。
ホッと息をつく。
なにせ萩麿王には私を対象とせぬよう言ってやろう。
理屈も何も言うことは要らぬ。
1926年1月14日
鈴木貫太郎大将、こないだの武官のことにて一人にすることは責任上できぬ由。
身の警衛の方面に対する顧慮より、一度に両方替えられぬ、しかし志摩は替えること。
鈴木大将に、皇族の身に持するに慎重なるべきこと、近ごろ世人の注目はよく見ておる、人民の敬礼はこれを容れるなどにて、純萃なる敬礼なるべきことを語る。
1926年1月21日
宮内次官関屋貞三郎より皇族会議ではなるたけ言わない方が良いだろう、年長の方が言う方がいいから。
別に言うつもりもなかったのだから差し支えないこと。
大谷〔宮内参事官大谷正男〕が来た時に形式ばっかりだねと言ったから、発言でもすると思ったかしら。
意見にしても、その場で説明するとそれっきりになっちまうようなものは言わない方がよいとのこと。
私には当り前のこと。
また朝香宮でも何か言えば面白いが。
1926年1月22日
運転手がチャルマースで朝鮮の苦学生を一人気絶させた。
自動車は停まっていた時で、かなたから電車の前を横切って飛んできて自動車にぶつかってひっくり返ったのだそう。
面倒な事にならず。
こちらは落ち度なかりき。
1926年1月23日
参内。
大正天皇ややおよろしき御様子にて、一昨日より解熱剤を差し上げざる由。
1926年1月27日
皇族会議。
朝香宮、例によりて出問なさる。
だだし愚問なり。
1926年1月29日
山階宮萩麿王に御日記を返す。
手紙添えず。
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『高松宮日記』
※高松宮は海軍水雷学校在学中
1927年1月14日
秩父宮「三連隊の人々に会えるのが楽しみだ」と仰せになったって新聞に出ていた。
真実だろう。
うらやましく思う。
私もこうした真面目な親しみを覚えたい気もする。
また三連隊の人々が同じ真面目なお親しみをもってお待ちしているのがうらやましい。
私には及びもつかぬ、真似もできぬところの一つだ。
1927年1月16日
節子皇太后も秩父宮をお待ちかねなり。
「お気の毒にてお会いするのがイヤになる」とも仰せあり。
また「言うこと多くて何から言ってよいやら言い様なし」とも仰せらる。
平凡なる文句なるも、この場合御心を推し奉りて感万量なり。
1927年1月19日
休憩室で賀陽宮恒憲王に拝島へいらしゃったお話を伺う。
21と18の運転手ぎりで同性愛に陥ってらっしゃるようだった。
山階宮常子妃に好感を有せられず。
あまりよくないよう等々。
1927年1月22日
秩父宮ふたたびオックスフォードにいらっしゃるおつもりにてイギリスでも今でもそう考えているが、さて帰ると節子皇后の御心中を思うと再び出発する気が弛む、理性と感情との衝突が非常に苦しいと仰る。
秩父宮なればこそ、そうした煩悶に悩まされになるのだ。
オックスフォードも2月からのタームは駄目だから、4月末からのタームだけにして御一年祭までには遅くとも帰る。
再び渡英なさることは現在各方面に具合悪いかもしれぬげ、もう一タームをなさることによって得られるものは将来御つくしになるために現在の不都合をつぐなってあまりありと御考えになる。
私としてもそれだけの御真面目な熱心を持ってらっしゃるなれば、むしろ再びなきこの機会にもう一タームをイギリスにお過ごしになるよう御賛成する。
1927年1月26日
秩父宮と宮城で御話して遅れた。
秩父宮は明日宮内大臣一木喜徳郎に会ったら、
節子皇太后が「東久邇宮稔彦王が御帰朝後は御出発の時は大正天皇の御代だったし、天皇も誅などに対して起立して敬意を表されるのだから、まず第一に殯宮に伺候なさってそれから赤坂離宮へいらっしゃるがよいだろう」とのこと。
大正天皇にお会いの時お仰せになる御語を宮内大臣が作っているそうだが、その中に譴責的な文句があるはずだが、これは東久邇宮をいよいよ窮せしむる所以で、すでに十分良心に苦しんでいるのだからむしろ温情をもってしかも厳然たる容姿をもって御迎えになる、御語もなるべく少ない方がよいだろうとのことを言ってくれとのことなり。
1927年1927年3月1日
宗秩寮総裁仙石政敬談として秩父宮御渡英中止の記事として出たのがとても不出来だったので、皇子御殿へ行ってみたらやっぱりお気に入っていなかった。
1927年3月2日
温泉行き、例によって億劫になってやめ。
増山〔御用掛増山正興〕が風邪をこじらして肋膜がどうのこうのと言って休んでいるから御供がおりません。
武官さんなんか連れて行っては静養にならない。
1927年3月6日
侍従長珍田捨巳が来るので面会しに行く。
例の島津治子事件のこと。
1927年3月8日
宮内大臣一木喜徳郎に会う。
例の女官長事件問題、宮内大臣いまだ意決せず。
1927年3月17日
秩父宮のところへアームストロング来れる由。
土曜日に見に行き、よかったら譲っていただく。
1927年3月30日
去年陸軍に頼んで断った運転手を聞いたら、二名ともいつでも手放す由。
最上のが陸軍省、次のが自動車学校にいる由。
履歴書を頼む。
秩父宮のところへ推薦するつもり。
1927年3月31日
アームストロング・シドレー日本自動車に土よけを付けたり塗り替えたりに出したのができてきた。
明日から使う。
皇族は自己の目的に精進しえない。
結局は虻蜂取らずで終わるより仕方なし。
予をして性欲に対する顧慮なからしめば、すでに偉人たるべきのみ。
1927年4月1日
今日からアームストロング箱〔セダン〕を使う。
1927年4月2日
日本商事に来ているブーマン来る。
メルセデスを見せる。
ちょっとハンドルを直しただけ、オールライト。
1927年4月3日
アームストロングはスピードはかなり出るが、田舎道にはスプリングが柔らかすぎる。
帰りデコボコ道でグッと止めたら、ボディが歪んで前左と後右のドアが開きにくくなった。
ペーブメントの上だけで乗る車だね。
1927年4月13日
水校〔海軍水雷学校〕卒業。
試験はずべる〔さぼる〕
それでも卒業。
1927年4月14日
砲校〔海軍砲術学校〕入校式。
1927年4月17日
とても良い天気なり。
ドライブに行きたい。
増山〔御用掛増山正興〕が出てこないので、御供難なり。
さりとて武官を連れて遊山に出かける気にはなれない。
1927年4月19日
武田を呼んで有栖川宮慰子妃の御服飾の処置につき尋ぬ。
節子皇太后が有栖川宮慰子妃へお頼みになりしと。
これを喜久子へ御遺贈になると、有栖川宮慰子妃が平常から言っておられた由と行き違いあるようなり。
1927年8月28日
すると言ってさせてもらえたことはこの一月なんにもない。
そんなに私は何をするにも能力がないのかしら。
〈比叡〉の中に棲んでいる油虫と大差なし。
1927年9月10日
今朝、内親王御出産。
ああ、イヤになっちまう。
男子はできぬかな。
また秩父宮の妃殿下面倒なりか。
1927年9月27日
節子皇太后より秩父宮妃の候補としてお考えの者の話承りたれば、竹田宮へ行ってお話しておく。
1927年10月5日
秩父宮の御新邸は表町御殿だそうな。
なにも御殿名をつけなくてもよかりそうなもの。
私の方は御免蒙ります。
1927年10月6日
敏子〔東条坊敏子〕が女官を辞めたと新聞に出ている。
とうとう快癒に手間取るというのかしら。
気の毒と言うより私が悲しい気がする。
運命は彼女を幸福づけなかった。
彼女の身辺にも恵まなかった。
二人の妹は如何に。
弟は如何に。
女官の中で私が好きだった敏子。
先には土御門〔土御門賀寿子〕が辞めた。
これは元気が良すぎたのだが、こうして私が好きだった人は一般的ではない。
それはそうだろう。
目のよるところへ玉だもの。
健全ならざる私には健全なる人が近づけられるはずがない。
今残っている慶子〔大原慶子〕果たして健全なるや。
1927年10月31日
士官室の若い士官をくすぐったり、自分でだらりだらりと歩いたり、ふざけ散らしているだけだ。
それを面白いとは自分でも考えていない。
他にすることがないだけの話。
皇族たるの威も誇もあったものではない。
自分で自分の面を汚しているぐらいは知っている。
まったく常軌を逸している。
せっかく艦隊の艦に乗せてもらっても今度のように特別扱いの配置にされて、するなするなさせるなさせるなと言わぬばかりに仕向けられては、する気になれずまたできもしない。
ちっとも私の気持ちを汲んではくれない。
もともと気短な私にしてみれば腹も立つ。
今まで海軍軍人に憧れも希望もなかったけれどお、軍艦に乗れば分隊も持てるし、同じ年頃の人と愉快に話せるし、下情にも通ずるよすが、堅苦しい生活から逃れる慰めともなれば、艦の生活は私にとって東京なんかの生活よりよっぽどましだと思いしも、人にも言ったが今度初めてそうでなくなった。
そうした気持ちを自分でごまかすためにふざけ散らすより他ない。
泣き笑いだ。
弱い心の持ち主だけど仕方がない。
小人閑居して不善を思わざるべからずだ。
私は〈比叡〉の油虫
立派なお部屋に納まって
たらくふ食ったらちょろちょろと
ふざけ散らして毎日を
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『高松宮日記』
※高松宮は海軍砲術学校在学中
1928年1月5日
宮内大臣一木喜徳郎来談。
秩父宮の妃殿下のことなり。
これでスラスラとゆくことだろう。
1928年1月12日
宗秩寮総裁仙石政敬を呼んで、皇族の行為について世間の批判を受けたようなことはこれを回覧しろと言ってやった。
1928年1月14日
大宮御所へ。
秩父宮妃のことで御満足のようだった。
1928年1月20日
イギリス大使帰国につき、秩父宮邸にお招きになったので私も行く。
とても久しぶりの英語で、結局わけわからず。
1928年1月21日
夜は秩父宮へ泊まる。
もうじきお嫁さんが来たらやめる。
1928年1月22日
鴨猟。
大した獲物ではなかったが、一日を面白く暮らして竹田宮に乗せてもらって帰る。
メルセデス成績悪しからず。
クラッチがちょっとカタカタしたりするが、明日本当の試運転。
1928年1月27日
メルセデスの修理完成して使う。
やっぱりとても乗り具合よし。
1928年2月4日
大宮御所へ。
なんだかこのごろ行く気がしなかったので御無沙汰していた。
秩父宮妃のことも何となく気になったし、僕の方のそれもお急ぎのようだったし、赤坂離宮へちっともおいでにならないのも、私として大宮御所へ伺いかねたわけだった。
1928年2月11日
秩父宮へ行って、東久邇宮・野口侍従・小山侍医などとスカッシュをする。
1928年2月22日
日本自動車からエセックスを持ってきたので見たが、あまりよくないからハドソンにしようと思って見合す。
1928年2月24日
戦艦〈八雲〉
とてもがぶる船だ。
湾内で酔っぱらったなんて、自分ながらイヤになっちまう。
1928年2月27日
越ケ谷鴨場へ行く。
イギリス・ベルギー・スペイン・シャム・支那の連中なり。
とてもしゃべれないので困った。
でもどうにかこうにか暮らして帰る。
獲物はごく少なかった。
1928年3月3日
兵学校卒業式に出ぬとて武官さんをいじめてやる。
実際いじめてやらなくては、わけのわからぬことおびただしい。
ちっとも頭を働かさないのだからね。
1928年5月20日〔遠洋航海中〕
フィリピン人の怠惰なる、とうてい独立のことを考うるに至らず。
米作をなすに田に種子をまき散らすのみ。
雑草の丈、稲をしのぐ。
気候は二毛作に適するも、その最もよき時機に一回を収穫するのみ。
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『高松宮日記』
※高松宮は海軍砲術学校在学中
1929年1月4日
北白川宮へ。
ダンスなどやる。
上野正雄伯爵、酔っ払い手こずらす。
1929年1月6日〔伊勢神宮〕
外宮参拝の時 山口の奴〔御付武官山口儀三朗〕がボヤボヤしてどんどんついてきてしまう。
神官に注意されてもなんだかわからぬらしく、ちょっとそれを気にしていたら玉串を反対に供えてしまった。
そして山口の奴はその失態を謝りもせぬ。
言語道断の奴だ。
もともと馬鹿ではあるが。
1929年1月17日
スキーのためにのみ行くことを示すために、スキー靴・ニッカボッカで出かけた。
北海道が大袈裟のようだから。
1929年1月19日
ヘルセット中尉のコーチで練習をやる。
とても前へ重心を置くことができないのでうまくゆかぬ。
今日の練習はお兄様の時のように人がたからず良かった。
1929年1月21日
ヘルセットとスネルスルードがスキーを持ってくる。
秩父宮に一本、僕に一本。
ノルウェー陸軍式である。
1929年1月25日
3度に1度はステムクリスチャニアものになる。
1929年1月27日
秩父宮お風邪の由。
ノルウェー選手からのスキーをもってお見舞いす。
御勉強のお疲れならん。
1929年2月3日
来年の外遊・結婚の経費、取り調べを始める。
それに新築と少し使いすぎるようでもあるから。
結婚はできるだけ節約してしたい。
1929年2月10日
川崎近くで同行の自転車をよけようとして反行の自転車を跳ね飛ばし、ブリキ屋の小僧に打撲傷を負わす。
仰向けにひっくり返ったのでどうかと思ったが、三週間でよくなるだろうとのこと。
右足の筋肉に異状のある由。
大屋にやらしてる時だった。
宮内属亀井弘をすぐ見舞かたがた警察との連絡にやる。
メルセデスすっかりイヤになる。
死ぬようなことになったらと心配した。
1929年2月11日
高松宮務監督石川岩吉昨日の小僧を見舞い、親元へ30・雇い主50・本人に10、見舞金を渡す。
および治療費を負担す。
警察の話により。
事故は小僧に悪い点なくこちらの過失を免れざるも、別に責任を取るほどでもないことになった。
宮内次官関屋貞三郎に会う。
結婚・外遊のことにつき話す。
●結婚は相手の卒業後に具体化すること。挙式は内約をせば早きを可とす。
●外遊は一年ぐらい。来年。
1929年2月16日
山口の奴〔御付武官山口儀三朗〕が7時前にノックしやがった。
あのお馬鹿さんにも困ったものだ。
二度もノックしやがった。
海軍大学校を13番で出た奴はあんなに頭のよいものかな。
すべての態度が気に入らぬ。
とても紳士の間に連れて行くのはきまりが悪い男だ。
1929年2月18日
明日艦の人と日本光学工業見学のつもりのところ、武官さんがついてゆくとのこと。
急遽やめる。
馬鹿にしてる。
勝手にしろ。
面白くない。
軍港内ならついてゆかぬけれど、東京だしとさ。
不愉快だ、不愉快だ。
あいつらの面を見るのもイヤだ。
私の気持ちをわざと知らぬふりをするのか。
一を捨てて二を取ることをせぬ。
大なる結果を取らずに小なる目前に執着する。
そのような武官がなんで私の武官の価値があるか。
私のつら汚しだ。
1929年2月23日
このごろ盛んに結婚のことが新聞に出る。
どうも大宮御所の中に漏らす人がおるらしい。
徳川頼貞の邸を借りることも、いつのまにか東京日々新聞が嗅ぎ出した。
断然借りるのをやめることにしよう。
増築で間に合す。
1929年2月25日
大宮御所へ。
結婚につき御思召など伺う。
時期はやはり20歳の来年の方が良いらしいが、12月でならぬとはおっしゃらぬ。
まあ、2~3月か。
約束は4月帰京前にしたらとのこと。
五島来談。
五島盛輝子爵は幼稚園からの御学友で、一番私に親しみを持っている人。
いわば壮士肌だが、もっとしっかりしている。
1929年2月26日
山口武官、肺炎やら胸膜炎やらわからぬが昨日入院。
高熱なるも病名決定せず。
鮫島〔御付武官鮫島具重〕曰く「療養させた方がよいと思うからその手続をする」と。
「いけない。艦の職員ではないのだから、そのままにしておけばよいのだ」と教えてやる。
療養させるなら代りを作るべきだ。
お馬鹿さんには武官は二人なくてならぬという海軍大臣の言い分がわからぬらしい。
不戦条約の「人民の名において」が問題になっている。
本当にあれでは国体と容れぬ。
それを調印するとは駄目だな。
1929年2月28日
風強く動揺するも、机上のセルロイドのキューピーが不安定となりしのみ。
1929年3月2日
鮫島〔御付武官鮫島具重〕はどのぐらい俺に対して誠意で尽くそうとするのか。
いくら表面を作っても、こうした俺の言うことを聞かぬ、感情的に些の満足も与えぬ勤めぶりで何が務まろう。
能力なき者には二度でも三度でも実行すべく言うこともあるが、できることをしない奴に、誠の底を持たぬ奴になんとも言う気になれぬ。
1929年3月16日
高松宮務監督石川岩吉より徳川家の返事としては、
「特に申し上げよとのことなれば、11月は慶喜・1月は慶久命日なればそのことを」とのこと。
大宮御所にも伺い、期日のこと宮内大臣・徳川家に内報せる由。
すなわち「1930年2月初午過ぎの吉日」
1929年3月18日
とてもよい天気なり
さりとてあの武官さんを連れて上陸する気にもなれず。
1929年3月21日
宮島に着く。
二時間ばかり士官室の人たちと散歩す。
久しぶりにもみじ饅頭を食べる。
憲兵がついてきた。
いつのまにか嗅ぎ出して。
馬鹿な憲兵だ。
帰れと言ったが、とうとうしまいまで着いてきた。
1929年3月26日
高松宮務監督石川岩吉との話。
内約の件は御思召によりては、5日・8日・12日が日が良い日なれば、5日に宮内大臣に仰せいただき、8日徳川へ、12日にその返事を取りて内約・発表、その日に勅許を願う。
1929年3月30日
北白川宮へ。
良子皇后御参内になるから、節子皇太后との間が上出来のようにするなどお話して。
1929年4月7日
出港用意にて甲板にでれば、写真屋三方より取り囲む。
癪にさわる。
パチパチやるので乾板を没収す。
1929年4月11日
山口の〔御付武官山口儀三朗〕恩給年加算の都合にて引き入れのことにす。
その時また鮫島〔御付武官鮫島具重〕をとっちめてやる。
1929年4月12日
高松宮務監督石川岩吉より婚約勅許のむね来電。
三陛下に御礼電発す。
節子皇太后より御よろこびのむね電あり。
1929年4月13日
今日当直だったが、副長が私の婚約につき御祝杯をするからとて当直の代りを寄こしたから、断然祝杯を止めさす。
無邪気な気分で杯をあげるのはよいけれど、当直を代えてに至っては馬鹿にするにもほどがある。
1929年4月26日
品川にて写真屋数名取り囲むも、なるべく撮らせず。
ついに玄関まで追って来た。
1929年4月29日
観兵式。
馬には乗らぬつもりだったが、秩父宮が乗れ乗れとおっしゃるので少し乗ることとす。
1929年5月1日
床屋に髪をつませて明日のためにめかす。
1929年5月2日
東京駅にグロスター公を迎えに行く。
昭和天皇の御供をしてホームへ。
昭和天皇の御紹介にて握手。
手袋を取るのかと思って取ったら、彼はそのままだった。
8時より秩父宮邸でディナー。
グロスター公の英語は聞き取り難し。
1929年5月3日
ガーター勲章贈献式。
荘厳に行わる。
グロスター公も重荷を下ろされた。
すべて誠に重々しく行われ、勅語も御上出来なり。
7時、宮中晩餐。
通訳なしにスピーチも両国語でそれぞれ。
1929年5月4日
海軍大臣岡田啓介のグロスター公殿下招宴へ。
話せぬのに隣に座らされて困る。
1929年5月8日
大宮御所へ。
落合大使未亡人〔落合謙太郎の妻落合タカコ〕に御用取扱交渉の件、申し上ぐ。
洋服などの準備に6~7万入用だそうな。
女の洋装はどこまでも不経済。
もっともそのために有栖川宮から徳川の方へ金が行っているんだそうだけれど。
1929年5月9日
グロスター公お別れの午餐。
いつも秩父宮妃の両隣がグロスター公と僕。
おかしくなってしまう。
1929年5月12日
金子子爵邸に晩食に行く。
細君〔金子武麿の妻豊子〕が虚栄家で、逗子ホテルで会った後も私のことをどうとか言っていたとか高松宮務監督石川岩吉が心配していた。
1929年6月2日
高松宮務監督石川岩吉から結婚や外遊の準備の女の着物の調べを寄こす。
徳川家で60,449円、こちらでヨーロッパに入ってから買うのも加えて22,170円。
洋装だけ。
女とは買うものなり。
買われるものにあらずか。
1929年6月28日
山口〔御付武官山口儀三朗〕が中山から来た手紙を誰かって先任伍長室へ聞いたり平野に聞いたりしていた。
馬鹿にするにもほどがある。
私のことを詮索だてしやがる。
いつになったら気に入るようにしようと言うのだ。
甲板だったが小声で怒りつける。
一日中極めて不愉快なりき。
武官さんとは私を不愉快ならしめるものだ。
そして馬鹿にするものだ。
ちぇっ、癪にさわる。
1929年9月13日
温泉会社の話など聞く。
小塚山の南の分水嶺が別荘によさそう。
2千坪買うか。
坪10円ぐらいでよさそう。
1929年9月16日
今日は大杉栄の死せる日か。
彼の随筆的なものは好きで読んだのだったのに。
いわゆる主義者の中で私にとって親しみを感じられた人だった。
著書の上で。
彼の主義はちっとも知ろうとしなかったけれど。
1929年9月20日
小塚山鞍部の土地を見に行く。
あの辺では一番よさそうだから、宮内大臣がよしと言ったら2千坪、2万円ぐらい買っておこう。
1929年9月25日
今日も外出せず、まとまって読書もせず。
どうも軽く寂しい不安を感ず。
友だちのいないのや、皇族として社会的無価値な生活や。
1929年9月28日
秩父宮へ行き、秩父宮妃と御馬場の三笠宮の打毬を見に行く。
三笠宮なかなか上手なり。
節子皇太后の御供にて洗心亭にて御茶をいただき、御畠を拝見して秩父宮妃と一緒に帰る。
1929年9月29日
田中義一大将急逝す。
時節柄気の毒にも思えるし、また生きているのも気の毒な気もするし。
1929年10月26日
大宮御所より三里塚の薯などいただく。
石川宮務監督がその後 様子を申し上げぬから、御催促だろうと心配す。
あまりに大宮御所をビクビクしすぎる。
1929年11月2日
秩父宮へ行く。
御一緒に帝展へ。
日本画多すぎてうんざり。
1929年12月8日
西郷〔同級生西郷従純〕を呼び一時間話す。
古河へ養子に行く由。
非常なる勉強なり。
頼もしきこと限りなし。
1929年12月9日
侍従長鈴木貫太郎来談。
現在の武官の仕方は私の気に入らぬことばかりであり、また気に入るようにやらしていない。
●その任務は公の場合のみにして、私上のことに関してはつけたりする程度を出ず。
●型に填るのは最も禁物なり。
人の気持ちには一定の法則があるようで千変万化なることによる。
●要するに武官のやり方は私の気持ちにピタリピタリと合って行かねばならぬ。
●武官の不必要を認めない。
しかし私上のことには少しでも立ち入らせたくない。
もし私が自ら秘書として認めた人ならある程度私上の問題に携らせることも可であるが、武官は決してそうではない。
私の理想としては宮務事務の一部である金銭出納、地方官との折衝などもやらせたくはないのである。
平服を着せて供もさせたくないのである。
●武官は公式上の者であるが、みるからにカチカチぎこちなくではどうにもならぬ。
やはり場合〃〃に応じて「気をつけ」「休め」式にパキパキやるのは気持ち良い。
また実際上あまり礼儀正しくありすぎても、写りの悪い時もある。
ゆっくりやるのがよく見える時と、敏捷にやるのがよく写る時と、いろいろあることに注意を要す。
●対外的な武官の態度、例えば新聞記者との対応は注意を要す。
私としては時流に投ずる的な語は欲せず、世間の耳目に遠ざかる主義であること、しかも皇族の威厳を保ちかつ皇族が超人間でないことに注意せねばならぬ。
大宮御所と宮城との折り合い、融和に努めるべきむね話す。
かかることは侍従長のなすべきことならざるがごときも、今としては侍従長の仕事拡大せる以上、また侍従長として努めざるべからざることなりとは難しきことなり。
1929年別紙
皇族が軍籍に身を置くことを絶対のものとされていることを不可解にしか思えない。
第一皇族がなぜ必要なのか、どうも皇族は要らないもののようにしか思えない。
もっとも日本が万世一系の天皇の統べたまう国であるために、その嗣継のために皇太子が必要でありそのまた予備の人がほしいことも否定できぬことであるが、しかしそれは無数無限の予備を意味しない。
その数を学理的に計算した人はまだないであろう。
まあ一人ないし二人と考える。
してみると私が皇族の地位におらねばならぬ理由にしかならない。
私が皇族として無価値だと言えない。
けれども単にスペアとして生きておるのが皇族であると言えないと思う。
生きていてそして悪いことをせぬことがスペアとしての全生命であり全任務であるからそれで皇族の価値は存在する理由になるかもしれないけれども、また一方十分なる徳をそなえそして智識を持つことが予備者として必須条件であらねばならない。
そうすると皇族は単に内部的なもので能動的なものでないと言いうる。
またある意味で私もそれを肯定するものである。
しかし現在周囲の事情は皇族の修学に対して考えられていない。
少なくもその便宜が与えられていない。
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『高松宮日記』
1933年1月14日
喜久子、女中候補につき石川宮務監督を絶対信用せずとか、〈ともえ〉のことを見るもイヤとか言いて、男の採用せる者はすべて駄目と言う。
叱りつける。
1933年2月16日
女中〈ともえ〉いよいよ下がった由。
喜久子の文にそれを名残惜しくとでも書きあることを願っていたのに、やはりそうした気分は何にもないらしい。
1933年2月21日
23日上陸、伊達家にて昼食のこととす。
19日に同邸内にて三井男爵夫人〔三井高弘の妻伊達照子〕が死去せりとのことなりしも、遠慮に及ばずとの判断なり。
かかる場合に寺岡〔御付武官寺岡謹平〕が情況を確かめること甚だ不得要領にて困る。
かかることも武官のやり方口のきき方によるなり。
そのための武官なるにあらずや。
1933年2月23日
伊達邸へ。
給仕する若い女はその辺のお嬢さんなり。
着物の着方はやはり田舎らしきところあり。
田中とかいうお医者さんの娘は顔整いたり。
穂積というお嬢さんは穂積重遠博士の姪になるらし。
他に平田という年増は家の人にて、着物など一番落ち着きキリッとしていたり。
三井未亡人は昨日告別式あり、京都に葬るらし。
やはり今日は来ない方がよかったと思った。
1933年2月25日
東京より仔犬の写真来る。
思ったほどにかわいくなし。
今度カルシウムを飲ますように言ってやる必要あり。
1933年3月31日
佐世保へ。
久しぶりの入港なり。
佐世保鎮守府司令長官左近司政三来艦。
4月3日に例年のごとく長官邸にて園遊会を催すから、来て見よとのこと。
「本年は非常時なればやめようかと思ったが、部外の人も毎年これを楽しんでいるなれば、いつもの手おどり等やめてガーデンパーティーをやる」とのこと。
手おどりぐらいやればいいのに。
1933年4月25日
徳川実枝子〔有栖川宮実枝子女王・徳川慶久公爵の妻・高松宮喜久子妃の母〕逝去の報あり。
この1月にお会いしたのが一生の名残と誰が知っていたろうか。
徳川一家もあちこちに不幸不運の続出している時に、つきぬ心配やらなすべきことをまだまだ残していかれた。
かえらぬ繰り言ならが、せめて3~4年喜久子に子供を作ってお祖母様にしてから今日のことにしてあげたかった。
私にしてみればだだ実枝子様に対してではなく、節子皇太后に対しての私の務めであり、そのニュースを携えて有栖川宮威仁親王〔実枝子女王の父〕なり有栖川宮慰子妃〔実枝子女王の母〕なりのもとへゆかれるのだったらあきらめもつくのだがつくづく思う。
後の徳川慶光さん〔喜久子妃の弟〕なりなんなりの面倒も見ねばなるまい。
とても人の命のはかなさが考えられる。
1933年5月23日
立花種勝&北白川宮美年子女王夫妻をお招きして、御結婚後初めてお目にかかる。
美年女王とても御謙遜にて御挨拶など丁重を極むとの噂なりしも、今までと大して変わったことなく愉快にお話す。
1933年5月28日
徳川慶光・二妹〔喜久子妃の兄妹〕を呼び夕食を共にす。
慶光さんも母を喪い急に大人びたし、アカの方に引っぱられかけるらしかったが、本人はそれを警戒していた。
1933年6月6日
伏見宮邦芳王の御葬儀に参列。
幼年校まで修められて御病気になられたことを聞いて、ややお気の毒さを加えたり。
1933年6月16日
今朝卦面が良くなかったので、一日つつしみの心去らず。
夕食に至りてやれやれ。
大凶を気にするはよくないが、つつしみて修養とするは可なり。
1933年6月26日
小学校の四年ぐらいになると、何がなしに睾丸が意識されてくる。
年長の人が中学ぐらいで柔道を習って釣鐘の急所を伝える。
そして性欲の感じでなしに他人の睾丸をつくことに興味が湧く。
また巴投げが面白い技に考えられる。
その程度が3~4年間は続く。
自分で自分の股間に手をやる癖もついてくる。
そのうちに夜中就寝中に遺精をやる。
そしてサルマタなりフンドシなりの汚れが羞恥の心を呼び起こす。
しかしそれが生命の根本である精子とかいうことについては何らの知識もなく女の連想もない。
その間にはインキンになって痒くもなる。
また陰茎の硬直も起ってくる。
友達との間にも二通の種類ができてくる。
そして触感によっていっそうの満足が感じられるようになる。
あるいは懸想の友情になり同性愛高潮となる。
しかしそれが陰茎に手を触れ合うようになると、射精の興味にまで行かぬまでも他人の陰茎を摩擦しまた自分のそれを硬直そして他人の手により摩擦されることに快感を忘れることができなくなるのであろう。
一度そうして手淫を覚えるとそれはやめられぬ、相手を見出さねばおけない。
しかしてそうした相手を見出す第六感はかなり鋭敏になる。
そのころにはまた女を経験する年輩になる。
また女との性交には正統なる快感と執着が生じてこなければならぬ。
そこには花柳病が待っている。
しかし性交そのものと同時に、女との接触には大きな享楽があるのである。
1933年7月10日
台南神社参拝隊出発。
先導の船がソロソロ走る。
桟橋もものものしく、今さらながら呆れる。
先駆・サイドカー2台・警察部長と憲兵中佐のオープン、がっかりなり。
町の生徒が並んでいるのはよいとして、30分前よりの交通止め、がっかり。
やっぱりここでも一定の所だけで並べ、自分の家の前でもいけぬと言うのだろう。
貸家札を貼りつけたいように戸を閉めた家が並んでいる、またがっかり。
牛車で路面を痛めると話ながら、牛車がいない。
田畑に耕す人も水牛もいない。
今日は人と牛はみな引っ込ましてあるのだ。
せっかく田舎の景色を見ようとして、ちっとも趣が添えられなかった。
並んでいる人は日本式によくお辞儀をした。
1933年8月19日
パラオ島に上陸してみた。
コンレイ村に内地に3年ほどいた少年がいた。
村にいるとやはり生まれつきの怠け者になる傾きがあるので、長官は役所で使ったらと言っていた。
私は今度の南洋で気になりだしたことは、人間は食うことが最大の欲かどうか、人生の目的として食えれば満足しうるのが本能であるかどうかということであった。
少年は内地で十分文化的生活を味わい、また見聞きしているに違いない。
それが村に帰れば裸足で半裸で何らの慰問なきコンレイ村に安住することはどうしたことか。
南洋は食う物はほとんど労せずして得られる。
家は作らねばならないが、それとても簡単なものしか持たない。
その衣食住は極めて単調なのに、満足して向上心もないというのは、どうしても食えて着て住むことが心配なければその最小限度で人生は満足できるのであると言わねばならぬ。
それが他に知識なければそうも言えるのであるが、十分文化を知った者がこの単調な最低な生活によって向上心を再び捨てるというのは何事を語るであろうか。
本能としては華美を欲し驕奢を好むのではないか。
もっとも安逸を願い労苦を厭うことは乞食三日すればやめられぬのたとえで知れる。
すなわち条件は徒食にある。
そうに違いない。
臥薪嘗胆には耐えるが、懲役・奴隷の労働には耐えぬのでもある。
空論としては、衣食住が満足されるならば、それは必ずしもその上を欲し現在に不満を感ずるものでないのではあるまいか。
衣食足って礼節を知るというのはそれを語るのであるが、礼節が労苦を伴う時やはり行われぬものとなろう。
要は食って怠けることにある。
ここに奢侈を捨てることの容易であることが知れよう。
同時に人を働かせることの、また自己を労することの困難なることが悟れよう。
1933年9月3日
宮ノ下御用邸を見分する。
考えたより地形の悪い敷地だ。
残そうという御殿も景色は見えず、場所が具合よくない。
水道があり温泉がかなり出るのが取り柄なり。
1933年9月10日
武藤信義元帥が満州に客死して男爵になったことは彼の人の勲功からして然るべきことであるが、その人が世を去るに際して授爵のことはないのが内例になっているのは過去の実例によるのである。
まず今回は特別の扱いとして別に差し支えのあることでもなく、これがなくては物足らぬ状況でもあった。
武藤元帥には二人の女の子があって男子はなかった。
それで姉の方に縁談があったが、女子のばかりだから廃嫡にせねば他へは縁づけぬのだそうな。
ところがどうも廃嫡とは気持ちがよくないと考えていたところへ知恵を授けた人があったらしく、細君の親戚のまだ二つか三つの子を養子に入籍すれば、その子が相続者になるので廃嫡などせずに片づけるというわけで、そういうことに手続をした。
もちろんその子供はほんの一時の借り物で、姉さんがお嫁にゆけばその子供は離縁となって元へ戻る。
そういうつもりの細工であった。
そこへ今度の急変でその子供を戻す前に武藤元帥が亡くなられた、そして男爵になった。
さあそこで多分副官という人であろう、その借り物の子供に男爵を継がせたらというわけで、実は27日に亡くなられたのを28日にして、その間にその子供を離縁して元へ戻したわけだった。
これは実に機敏な処置だった。
ところが法律のいたずらは続く。
華族令では男子がなくては襲爵はできないことになっている。
養子がそのままいればよかったのだが、養子を出したために妹の方が相続者になって、それに入籍したのでは襲爵できぬわけである。
元帥の血統の女子によって男爵を継がせようとしたのができなくなった。
それでどうすればよいかとなるとその妹を元帥の遺言で廃嫡にすればよいのであるが、役場には妹が戸主となることを届けてしまうし、その辺の実情に暗いことなどあってどうにも取り返しがつかなくなった。
襲爵は三年間であるからまだその方は期限があるが、その養子を外に出したのが武藤元帥の意志でなかったという訴訟でも起こせば何とかなるのであるが、それでは私印の盗用になるというので陸軍省の恩給課長も頭を悩ませて、しようがないということになったそうである。
そのころ新聞に元帥の一代華族主義とかいう記事もあったりして、それでこの事件もおさまるらしい。
1933年10月11日
ハドソンを見たりす。
右ハンドルに直すとオートマチッククラッチを脱すことになり、どうも買う気になれず。
1933年11月12日
朝香の叔母さん〔朝香宮允子妃〕柩前祭。
いつか来るべき御葬儀ながら、これほど悲しき心地はなし。
涙にじみ出づるも止め得ず。
1933年11月25日
ビックがまた欲しくなったので、オースチンを持ってくるのをやめて、この幌を買えと言ってやる。
今度の市岡武官〔御付武官市岡寿〕はMGの短い、傾けたらひっくり返りやすいような人だ。
叩けばカンと言ったきり余韻の残らないような気がする。
1933年12月23日
皇子御誕生の由。
7時少し過ぎに電話にて承知。
まことに私も重荷の下りたようなうれしさを、考えてみればおかしな話ながら、感じてやまず。
1933年12月29日
参内。
新宮に見上げたり。
とても赤いお顔にて、お鼻大きく高く見受けたり。
シャンペンの杯をあげ、退出。
継宮とはちょっとおかしい気がしたが、よくよく明仁とつけてみると良いお名なり。
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『高松宮日記』
※高松宮は海軍大学校在学中
1934年1月7日
新宮が御誕生になってみな大喜びだ。
しかし秩父宮も御同感のようだが、はやり御教育方法が心配になる。
新宮の御養育御教導ほど重大な問題はあるまい。
すでに照宮成子内親王その他の方々の御養育で経験もある通り、早くその方策を決定し計画を立ててかからねば失敗するであろう。
そしてこれは一般論ではいけないので、現実に即し今日に適した特殊な方法でなくてはならぬ。
昭和両陛下は共に極めて御やさしい。
おそらく本当に御叱りになることはあるまい。
しかも二方とも大して御強壮な身体でない場合、そこに生まれる御子は気丈な方でない方が普通であろう。
してその上に育て方が弱々しくされることによって、男さんについて果たしてどうであろうか。
照宮成子内親王ですら、魚屋とか何屋とか果てはお寺というような物についての概念を持っていられないで、国語読本等に関する興趣もおわきにならず困るような話である。
まして御成人後はいよいよ下情に遠ざかられる立場の方が、自由なるべき小学時代までをそんなことで甚だ困りものである。
1934年3月1日
とうとう満州国が帝国になった。
しかしやれやれと息をつくどころではない。
少しは良くなったかしらと思えぬこともないが、新聞の記事によれば外国でも相当この新帝即位を書いているようだがどういうものか。
ますます関心を深らしめ自重すべきだろう。
1934年5月18日
矢田氏の話。
参議は日本人3人・漢人4人・満人3人・蒙古人1人だそうだが、机のあるのは日本人3人のみで蒙古人はほとんど新京にはおらぬ。
参議の会の時だけ支那人が出て来るのだそうな。
それではならぬから、自動車も役所のを用いるように机も置いてやることにするそうな。
どうせ大綱は握っているので、せいぜい気持ちよくしてやるのが必要だ。
移民問題も雑居では駄目だというのでチャムス付近で広大な面積を一町一円で買う強制、それもはじめ武器の証明をやると言って武器を持って来させて取り上げ、地権も取り上げていつその一円をやるかもしれぬ有り様に、地方人が放棄して飯塚部隊の全滅、軍旗も失われたという噂もある。
とても静まる見越しなく、これには軍も失敗を自覚したらしい。
それで満鉄の300万円に満州の300万円を足すことにしたそうなが、その時の閣議にも臧式毅は無言で終始した。
死の沈黙と言われている。
移民問題も当分駄目と言われている。
臧式毅が一番反抗の底力があるらしい。
なにしろもっと支那人を楽しませなくては仕方なし。
1934年5月31日
宮ノ下御用邸を改造した家へ泊まりに行く。
思ったより新しそうに見えてよろし。
温泉は透明で頼りないが量は十分なり。
1934年6月1日
細川護立侯爵が見送りに来ていてメロンの籠をくれた。
車が発してから見たらソラマメがつめてあったので、知らないでもらって残念なりと悔しがる。
〔高松宮夫妻は細川侯爵にソラマメというあだ名をつけていたので細川侯爵がいたずらをした〕
1934年6月9日
東京での話で武藤山治氏の暗殺は、その場で刺客を殺した人があるのだそうだ。
刺客の頭の弾丸はピストルが異なる弾丸だそうだ。
その黒幕はまだ不明とか。
ほんとに世の中が面倒になる。
1934年6月15日
南京で行方不明の南京総領事館書記生蔵本英明は支那の憲兵とか秘密結社にさらわれたとか言って強がっていたが、どうも気が変になってフラフラと出てしまったらしい。
逆に謝るべき事態らしい。
困ったことに違いなし。
1934年7月
佳木斯・満州里を観るのは駄目になったがハルビンは大丈夫と思ったのに、関東軍参謀長西尾寿造との話ではとても話にならぬ。
すなわち微行といっても関東軍としては同じことで、秩父宮の時と同様数カ月前から大警戒をやるとのこと。
これでは秩父宮の時 新京で、一日も早く御帰京を願うという日本人の投書と同じことだ。
警戒〃〃で交通も商売もできぬ、生活問題なりと言うわけ。
結局は私が海軍で、軍は駐満海軍部が邪魔なところだから、同じような気分が私にも働くらしい。
だからことさら面倒にするとも考えられる。
満州皇帝溥儀は秩父宮とお会いしてまた親しみを加えられたらしい。
日本行きにも賛成されたのだそうで、私にもある種の好奇心があるらしく、会うことが望ましいようにもうかがえる文面だった。
飛行機で行くと言えばそれも困ると言うし、結局軍は私をうるさがるのだろう。
別に軍をスパイするのでも、陸軍の満州を海軍の満州にするのでもないが。
1934年8月24日
竹田の叔母さん〔竹田宮昌子妃〕から話があるというので行ってみたら、毛利富士子〔毛利高範子爵の娘〕を探ってこいということだった。
1934年8月25日
筑波藤麿侯爵へ。〔妻喜代子は毛利富士子の妹〕
毛利富士子が朝香の叔父さん〔妻を亡くした朝香宮鳩彦王〕の妃殿下になり得るかどうか聞きに行く。
可能性はあるが、おとなしいようだ。
夕方、竹田宮へ報告に行く。
1934年9月18日〔満州滞在〕
大連に来てみれば関東州内はちっとも危険もないらしく、関東軍のやかましさも州内に対する認識不足らしい。
サイドカーも付けぬでよいし、交通止めも不要とのこと。
満鉄総裁林博太郎来る。
だいぶ関東軍に700万円とか取られるのだそうだが、名目がなくて背任罪になっては困るし工夫している由。
どうせもたれ合っているのだから、取られても仕方あるまい。
満州国人官吏はやはり日本人官吏と合わぬらしい。
腰もまだ落ち着いていないらしい。
1934年9月30日〔満州滞在〕
民団の連合艦隊送迎会ありしも芸者が出るから行かんでよいとしておいたら、今朝になって職業婦人は一人も入れぬから来るかと言ってきたが、それでは私のために多勢の興を削ぐことだしやはり行かぬことにす。
海外で芸者やそうした婦人の立場は大切であって、それを蔑視することは面白くない。
私が行くとそこがうまく行かぬからやめたのだが、結果はかえってまずいことになった。
艦に帰ろうとしたら風波のため定期船が出ぬというので、グランドホテルに飛び込んで泊まることにしてやれやれと思っていたら、連合艦隊司令官長末次信正が「ホテルはいけない。総領事官邸に泊まれ」というわけで、領事館も面食らって支度して12時頃やっと落ち着けた。
どういうわけだかわからぬが、とても面倒をかけてしまった。
1934年11月28日
外国で作ったブラックタイとドレスと虫が穴をあけてしまったので三越で作る。
大損害なり。
1934年12月12日
夜、ドイツ大使永井松三夫妻を呼ぶ。
ヒトラーも6月頃何百人と殺してからは、ずっと穏当になったそうな。
1934年12月16日
二荒芳徳伯爵が来て話す。
ドイツにやっていた■■は先方でドイツ娘といい仲になって、帰って来てこちらの妻子と具合悪く二荒とも絶交の有り様とのこと。
惜しいものだが思想の方はよほど良いらしく、それだけは効ありしらし。
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『高松宮日記』
1935年1月1日
朝香宮鳩彦王したたかに御酒まわり、「私は独り者だ」とてさんざんお泣き出しになり、また東久邇宮稔彦王がつられてボロボロ泣き出す騒ぎ、やっとお帰しす。
なんでも宮城より秩父宮・三笠宮と連続で、とてもお酒が入ったらしかった。
こんなのも珍しいお正月なり。
1935年1月3日
秩父宮をはじめ叔父様・叔母様・皆様をお招きして北白川宮佐和子女王のお別れの宴をする。
朝香宮にまた泣かれてはと警戒しつつ、みなお酒を相当上がる。
1935年1月8日
三笠宮、日光のスキーで足を腫らしたので座れぬ由。
岩にぶつけたのだと。
1935年1月14日
明日、有栖川宮熾仁親王40年祭。
宮家を認めない今日、うちにある御霊殿の立場は中途半端なものである。
この際その点を宮内省の注意まで刺激しておく方がよいと別当も考えた。
皇族は姓を持たぬ、家を持たぬのが今の定めであって、皇族の御霊はすべて皇霊殿にあって各宮にあるものはその御分霊になる。
ところが皇族の年祭は皇霊殿でできるわけではない。
春秋皇霊祭があるのだがこれも昭和天皇が御まつりになるので、昭和天皇下方の御霊に御拝になることと思われる。
そうすると皇族の御霊には御会釈になっているわけであろうし、各皇族はすべてについて拝しているわけである。
それきりである。
そして年祭は宮邸の霊殿で各宮が主祭する。
そして宮内大臣を経て奏上はするし、昭和天皇から御菓子等の御そなえがある。
御使いのあることもある。
建前として宮邸のお祭はかげの祭で、奏上もこれを御黙許になるというか、そうかなと思し召す程度のことと思える。
そうしても私祭である。
皇霊殿で行わるべきものがなくてはならぬ。
しかし今のままではできぬ。
皇族の御霊は皇霊殿にあるにしても、別殿にするかまた別殿でお祭できるようにするのがよいと思える。
そして公のお祭はそこで行い、宮邸のはやはり内々のものであるべきだと思える。
これは重複になるとするならば、宮のを本霊にして絶えた方のみを皇霊殿に置いて、宮のある間はその宮で主祭することに定められるべきと思う。
1935年12月10日
筧克彦博士と語る。
●帝大、それも東京帝大は教学の中心である。
ここに皇学〈神ながらの教〉を講座として置くことが最も良し。
学部なればなお良し。
●学生にして帝大はなんと言っても熱あり。
これに点火すれば期せずして全国の学に火をつけ学をおこすことができる。
●皇族がこの信仰の問題・精神的な問題について会議をすることが急務なり。
そしてそれを助ける者として神祇官が必要になる。
●現在の傾向は最も〈神ながらの教〉をおこすに適した機なり。
●信仰を欠くがゆえに大本教あり天理教あり。
口実はつけたりつけなかったり、要するに不敬になる。
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『高松宮日記』
※高松宮は海軍大学校在学中
1936年1月8日
近ごろ皇族が芸者に関係ある方あり、そうした芸者の出る宴会や待合に出入りされることが人の話になって困ったという話。
東久邇宮稔彦王が新橋の芸者と関係なさって胤を宿しているのがいて話題になっている。
その女将が相当な腕利きで、早くなんとかしなくては面倒になるだろうと心配している由。
また■■王も■■宮もそうした方で困ったもの、■■宮がどうかしらぬが深入りさせてはならぬと考える。
皇族のそうした行動はただちに昭和天皇の御徳に関することである。
皇族は道徳的存在として昭和天皇を取り囲んでいなくてはならぬ。
若い方が早くから堕落なさっては真に困るのである。
■■宮もああした書生的なところのある方であるから、芸者に子を産ませてその処置につき誤りなきようになさり得るか。
昔ならそれを方々に押しつけてしまえるであろうが、今はなかなかそうも行かぬ。
事務官にしてよくそこを片づけられるだろうか。
■■宮事務官も近く金銭上の不取締の理由でやめるそうだがどうなるか。
彼が今までそうしたことをアレンジしていたようだが、それがいなくなって結果は良くなるかかえって悪くなるか。
問題は若き皇族にいかにして自覚せしめ道徳的に精進せしめるかである。
なにか青年団とか少年団とかの運動に熱心ならしめることもよい方法である。
従来の軍人オンリー、さわりないようにとの指導方針では余力の始末に困って性的に堕落する。
1936年1月17日
高松宮務監督石川岩吉、風邪気にて休む。
石川を皇子御伝育の主任にしたいという宮内大臣湯浅倉平の希望を聞いたのは去年の10月28日で、その日に皇后宮大夫広幡忠隆が節子皇太后にも申し上げたのであった。
私はもとより石川の個人的な適任については異存もなく、あるいはもうこちらの宮務監督を最後として楽に隠居できることを夢見てもいたが、皇太子伝育ともなればこれは重大であり、これを務めることはまたこの上なき奉仕だから、私としては今宮務監督を替えられてはまことに困るのであって、吉島事務官がすでに数年になるが、まだ紙上の事務以上に発展し得ない素質であり、喜久子が石川がいなくては頼りなくなってことごとに困る現情であり、女中の方もまた思うような人がなくて困っている場合であり、実際困る程度の話ではないが皇太子の御伝育にはなにものも差し置かねばならぬのであって、湯浅大臣にも「私としてはお断りする理由もないが、石川の私人としての健康なり家庭なりがこれを許すか否かである」と答えた。
湯浅大臣は案の定、家庭(子供の将来のこと)宮の事務(事務官のこと)喜久子(奥向きのこと)をもってお受けしがたきを申し述べた由であった。
しかし話はそれで終わったのではなく石川以外に人なしと言うので、私も「西義一大将をどうか」と言ったが、「軍人は偏っていていけない。昭和天皇の思召も軍人でない者ということであった」とあり、宮内省外からは「慣れていなくて困る。大宮御所との関係も石川なら」と言う訳で前宮内大臣一木喜徳郎が推したらしく、牧野伸顕当時の内大臣も賛して「もう他にない」、節子皇太后も「替りが問題で、後が困るだろう」という思召とのこと。
後任探しではかどらず、適当な人もなく、
●斉藤守圀
●西邑清
●山県武夫海軍中佐
●今村信次郎海軍中将
●大木彝雄
というわけであった。
西邑はとても大宮御所風になりきっているし、妻が良くないし、
山県は軍人式が抜けず細かい事にも気もつきかねよう、ただ外遊を共にした点は良いが、
今村は軍人でとても話になる人とも思えず、侍従武官であったが私も知ってるだけ不満多く、
大木はすぐ役立つが心配性で腎臓を取ったばかりで身体がどうかというので、
結局斉藤守圀よりなく、私はよく知らないが面識はあり、知事上りの人であるが東京市の助役もうまくやった人で、私としては国学とか学者の方との連絡が少しなさすぎる人であるが、これから必ずものになる人であると思えるから、石川もこの人が来れば良いというところまで話は進んできた。
私が成人して最も憾みとしたのは、宗教的教育を受けなかったことである。
一般家庭には神棚か仏壇があるであろう、鎮守の祭かなにかの祭礼があるであろう、仏寺の法会や法話をきくこともあろう、物心ついて神社に仏寺に宗教的環境に置き置かれるのであるが、冠婚葬祭つねに宗教に触れざるなしである。
皇族がこうした経験を味わうのは生まれて50日目の賢所に参るのに始まるのであるがそれっきりで、旅行した時に神社に参拝することはあっても例の宗教を故意に除いた参拝である。
そして成年になって初めて宗教的な宮中の祭典に出るのであるが、それがまた神事を人事のごとく扱う式の参拝で、そこに矛盾を感じても焦ってもなんともならないのである。
私は御所から離れて別居していたから、御奥での宗教的なる行事に触れる機会がなかった。
そして伝育に当った人々はそうした注意を少しも払っていたとは考えられぬ。
しかして成年になると常に急に賢所の御式にも出ることになる。
唯物的学校教育のみを受けた精神的には科学的な修身というよりも単なる形式的な道徳教育のみを受けた者にとって、藪から棒の出来事である。
宮中の私達の参列する神事は極めて形式的な単なる一時的な敬礼の瞬間にすぎない。
そして皇族たるものが神道に対する理解むしろ信仰は動作行為の根底にならなくてはならぬことを顧みる時、実に残念に思うのである。
今日の皇族が自覚のないことのみをするのも、その根本を忘れているからである。
すべて教育であって、氏のみでない人生に、将来の皇族・皇太子様も同じである。
この大切な点を忘れてはならぬ。
理屈ではない、自然の道である。
1936年1月21日
今朝、イギリス国王ジョージ5世崩御の電報あり。
真に急なことなり。
皇太子〔エドワード8世〕が即位されるであろうが、皇后なきを如何にせん。
1936年1月22日
帰ってから英語。
ミセス・ルイズが上海に行ったので、代わりにやはり女子学習院のミセス・パックマンに来てもらう。
1936年2月1日
大宮御所へ上がる。
軍縮条約なくなりて如何になるべきかなど御案じにて御話あり、相沢三郎中佐もあれだけ固き信念を持つ者を惜しきことなど仰せあり。
1936年2月12日
宮内次官大谷正男来邸。
宮務監督の件、斉藤守圀は愛育会を去りかねる由にて断る。
そこでまた他を物色中にて、女子師範学校校長を辞めた吉岡郷甫を考慮中とのことなり。
1936年2月14日
副島道正伯爵に会う。
相沢三郎中佐の事件のことに及び、真に心配なりとて荒木貞夫・真崎甚三郎・牧野諸氏と会って話している由。
荒木貞夫派対林銑十郎派の対立も実に心配なら、若い士官の今度の裁きに対する態度も心配、日本の財政も心配、陸軍参謀総長閑院宮にも申し上げるとのこと。
私はイギリス新帝戴冠式に秩父宮御派遣は如何と意見を聞く。
国際関係にて皇族が行きかえって彼国の取り扱いぶりが日本国に悪く反映する懸念を尋ねしも、無からんとのことなり。
1936年2月22日
筧克彦博士の教学刷新委員会に出席する。
神祇府新設案の話を聞く。
その中に皇族が斎主となる組織あり、これにつき如何にと言うから、組織ができれば皇族も動くであろうと答う。
1936年2月24日
有栖川宮幟仁親王五十年祭。
秩父宮務監督犬塚太郎が御代拝に来て玉串をあげて、脳溢血の軽いのでヒョロヒョロして、そのまま談話室に寝かしてしまい、後で二階の宿直室に移す。
当分動かさぬ方が良いとのこと。
不随の所はなし、意識も明瞭、口もきける。
1936年2月26日〔二二六事件〕
朝7時頃宮内省事務官岩波武信より電話とのことにて、何事かと思えば聞けば驚くべきことにて、今朝5時頃 麻布三連隊の兵が将校指揮のもとに出動し、内大臣斉藤実・侍従長鈴木貫太郎に暴行し、斉藤内府は即死・鈴木侍従長は重傷とのこと。
大蔵大臣高橋是清や首相岡田啓介もやられたらしいが、警視庁や陸軍省が占拠されて連絡取れず不明とのこと。
宮内大臣湯浅倉平は参内し上奏した。
私も行こうかと言ったが、いま宮城の辺は通行止められとても入れぬとのことで、仕方なく学校へ行く。
出がけに弘前の秩父宮に右の概況をお電話しておいた。
昼休みに帰邸して状況を聞いたがまだ参内できぬとのことなりしも、海軍の方の取り調べでは海軍軍令部総長伏見宮も9時頃参内され朝香宮・東久邇宮も参内されたと言うので、時間もないので学校へ戻り三時に通常礼服に着替えて学校より参内、御機嫌を伺う。
御心配は申すまでもなきことながら、御元気にて安心せり。
事態は不明ながら小規模ならぬように知らされてきて、教育総監渡辺錠太郎もやられた、一連隊からも兵が出ていると、いろいろなデマや真相が発表・流布され、陸軍省は偕行社へ、参謀本部は憲兵隊に、警視庁はなんとか署へといったふうに事務を執る。
財界の誰かれが殺されたとも伝わる。
戒厳令はかえって彼らに好都合だというので戦時警備令で治安維持をやるという発令であったが、夜に入り枢密院会議ありて戒厳令を公布された。
私の所には昼から経理学校の兵が十数名来て警備する。
戒厳になって陸兵も数名来れば、巡査もいるというわけで大混雑なり。
かくて不安のうち暮れていった。
市中は極めて変わりなく、丸の内だけが宮城前には広場に人を入れずに雪の中に近衛兵が針金を張って守っている。
人々はむしろ見物のつもりでゾロゾロ歩いている。
高橋蔵相は三笠宮の仕人が凶行後すぐに行ったら兵がいて入れなかったが、宮家の者だと告げたら「今回のことは皇族には手を触れるなというのであるから差し支えない」とて中に入れたので、入って機銃で蜂の巣のように無残な姿を見てきたということであったが、発表は重傷とされた。
岡田首相は海軍省の者が行ったら、今度は「海軍には御迷惑をかけません」とて中に入れたので見て来たというのに即死と発表されて、私も死んだと思い込んでいた。
27日に御所で生きていると伺って夢のような気がした。
1936年2月27日
一夜明けて岩波事務官に電話した。
宮中はお変りなしとのことに通学す。
昼休み帰邸して状況を聞く。
甲府・高崎・佐倉などの兵が来、第一師団とともに戒厳配備についている。
陸軍では反軍を「占拠部隊」と称して依然戒厳部隊の中に加えて給与もしている。
ただ「原隊へかえれ」と命令だか相談だかをしている。
らちあかず。
海軍ではすでに「反軍」と称して連合艦隊を第二艦隊は大阪に第一艦隊は東京湾に集合を命じて、昨日来横須賀より陸戦隊を四個大隊持ってきて芝浦や海軍省に配して待機警備して、陸軍やらずば海軍の手にてもやるという意気であった。
学校が終ってからまず大宮御所に御機嫌を伺い、それから参内す。
昨日は平河門から入ったが、今日は大手門から入る。
5時すぎ秩父宮、上野駅御着。
ただちに御参内。
昨日弘前より御電話にて「帰ろうかどうしようか」と言ってらっしゃったから宮内省の方に聞いたら、「お帰りになっても不都合は少しもないが、三連隊や西田悦少尉や安藤輝三大尉らとの関係でデマが飛ぶことは心配」ということであった。
それもお話したが、重臣の不在はそれにもましてお帰りが必要とも思ったが、御判断を願い、結局11時の汽車でお帰りのことになさった。
午前中朝香宮が学校に見えて、「今度の事件は重大であり皇族が黙っているべき時でない。秩父宮も夕方にはお帰りになるが、今は私が一番上だから各宮を集めて皇族の意見を昭和天皇に申し上げようではないか」とのお話なり。
「如何なることを申し上げるのですか」と言えば、「速やかに後継内閣を作って人心を安定せしめようという意見なり」と申し上げるのだとのこと。
「それは自然誰という問題になり、それを腹に持たないでどうかと思うから、集まれはかけられない」とお答えし、「秩父宮が5時頃には宮城にならせられるから、その時お集りになる方があればそこで如何」とお別れす。
朝香宮は東久邇宮・梨本宮と共にお待ちにて、結局「議決のようなものはやはり面白くない。昭和天皇の御承知のことを申し上げても仕様ない事だし、しかし皇族の意見をまとめておくのはよいから、明日集ろう」というわけで、秩父宮と私は奥で夕食を一緒にいただいた。
秩父宮はそれから大宮御所にならせらる。
1936年2月28日
陸軍の方はなかなか片づかず。
しかし騒擾はあの場面では拡大せぬらしいので通学す。
昼秩父宮より御電話にて「皇族集合の件は伏見宮にお話せるところ、そういうことは早きほど良し」とて、2時半~3時に宮中に集れということになったので、直ちに帰り参内。
〈ぶどうの間〉にて伏見宮・久邇宮朝融王・秩父宮・朝香宮・東久邇宮・梨本宮・竹田宮・私の8人集る。
今度の事件に対する皇族としての所見の統一ということであったが、別にそうしたことも定まらず、席上伏見宮は私達二人して弟として昭和天皇をお助けしてくれとおっしゃって、御自分も感泣なさった。
そんなことは私も初めてであった。
1936年2月29日
黎明より砲撃するとの話にて、5時に出かけようと起きたが、秩父宮より遅れて8時過ぎになるとのこと。
7時参内す。
砲撃は火災を慮り止めて、戦車を使って掃蕩する由。
それも8時半、9時と遅れた。
秩父宮・朝香宮・東久邇宮・竹田宮と共に振天府の所より配備など見る。
参謀本部の付近の様子を10時頃まで見る。
無事にあの辺り反軍消散す。
昼食をして3~4時頃まで待ち、大方処分のつきし報を得て大宮御所に伺い、5時帰る。
昨夜来、宮中近くの戦闘もあるかと心痛せしも銃声ほとんどなく終わる。
日本のありがたさなり。
参謀本部正門の所に機銃をすえて兵数名あり。
参謀本部の窓より将校が首を出して怒鳴る。
たぶん「退れ」と言うならんも聞こえず。
下士官ならん、これに「応ぜず」という対答をなす様子に見え、依然として門の所にあり。
乾門側の道路より装甲車数両進行し来り、陸軍省下の三叉路にて反乱軍の相当数の部隊に対し交渉する様子。
全部隊は対抗する態度なく、士官おらざる様子にて、やがて整列し宮城に面し敬礼し「君が代」のラッパを奏す。
これにはこちらで見ていて一種の感動あり。
今にも衝突ありやと思いし数日の後なれば、反乱軍とはいえ「君が代」に対し姿勢を正す気持ちになる。
やがて赤坂の方へ退散す。
日比谷の方面よりも戦車・装甲車、参謀本部門より一部は入り一部は議院の坂を登り行く。
すでに参謀本部前の兵はおらず、それまでに私服の人来り交渉しおりたり。
かくて銃声一つせずみ終わる。
1936年3月1日
二二六事件陸軍大臣告示というもの
●蹶起の趣旨においては天聴に達せられたり
●諸子の行動は国体の真姿顕現にあるものと認む
●国体の真姿顕現の現況については恐懼に堪えず
●各軍事参事官一致して、右趣旨により邁進すること申し合せたり
●これ以外は、一に大御心に待つ。
1936年3月2日
大宮御所より今度のことにつき度々参内などして御苦労とて、二種交魚・果物いただく。
6月27日
堤正之少佐、今朝9時自宅で自殺したと聞く。
昨日も平常通り学校に来ていて、今日も午前自宅作業で午後学校に行くと言っていた由。
家族の人が昼食を聞きに二階の室へ行き発見せりと。
自殺はピストルで胸に四発ほど発射している。
即死なり。
簡単な遺書といってもその場で書いたもの。
「誰々に知らせ、(将来の修養に行き詰ったと思わせる)非常時に軍人としての責任にたえられぬ」と言った意味のことあり。
そう言えば最近言葉少なく、思い込むといっても一般の陰気な型とは違う程度であったとも思えた。
寺本少将の話によれば、4月だったか「自分はどうしても忠君愛国の感情が燃えてこない。どう努めても思うように出ない」とて相当意気込んで尋ねた由。
それに対して「例えば大楠公の事蹟を常に考えて、それに照らし合わせて自分の行為を考えよ」と教えた。
事後自宅に行ってみたら、観心寺の「非理方憲法権天」の軸が目立たぬ所にかけありし由。
それで祖父が非常な勤皇家にて、それに近からんとして科学的な教育による本人がどうしても気分が出ぬという煩悶ならんと。
修養ではあるまい。
このごろ満州上海の事変の行賞行い給うとて、勲二等以上の勲記には御みずから御名をしるし給うことの400に余り、日に日にそのために時多く費やし給うと承りて、この度の行賞も日露戦争になぞらえて下し給うと言うも、事いささか度を失せる感あるを如何せん。
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『高松宮日記』
※秩父宮夫妻、英ジョージ6世の戴冠式を含む欧米外遊中
1937年4月18日
今日は高松宮務監督山内豊中を連れていく。
やはりなんとか軽率な感じである。
まだまだ信用するに足らぬという感じ。
1937年4月20日
細川護貞の結婚披露あり華族会館へ行く。
お嫁さんは近衛公爵の次女近衛温子。
はじめは半ば恋愛だったので婚約したのが、お嫁さん少しお転婆すぎるので仲たがいしかけたのを、またそのために大急ぎというわけか式をしてしまった。
まったく花嫁らしくない。
貞ちゃんがうまく続けられればよいがという感じなり。
1937年4月23日
メルセデスベンツ320型、600円まけて寄こす由。
9月には来るべし。
ホイールベース130はアメリカ物は流線形にて室狭く6気筒少し。
今年はアメリカ物は6気筒は115~125インチ程度しかなし。
130インチも狭し。
メルセデス1万3千円はアメリカ物の二倍なり。
1937年5月6日
大和田受信所へ行く。
秘密に行くつもりにて海軍省の自動車にてウチから警察に何も言わぬよう言い置きしに、行ってみたら警察が出たりしていた。
後に聞けば埼玉県で知って昨日ぐらいからいろいろ聞いてきたりした由なるが、午前に高輪警察よりウチに聞いたら知らないと答えたので、御付武官林彙邇に電話したら馬鹿にも午後行くことを答えし由。
武官が秘密価値の判断をなし得ざる、驚くべきなり。
ガッカリした。
1937年5月7日
帝国ホテルにて東伏見伯爵と亀井伯爵令嬢の結婚披露宴あり。
東伏見宮周子妃いたくお喜びなり。
1937年5月12日
イギリス大使館にて午餐あり。
イギリス大使の昭和天皇への乾杯に対し、私がキングへの乾杯。
初めて英語でやる。
私の外遊前後は私の身辺はあまりに欧化的であった。
それで日本語主義を取ってバッキンガム宮殿でも無理押しに日本語でやった。
その後満州事変などありて、今度は国家主義というかそれを通り越した偏屈な自主的主義というものになってしまったから、逆にこうした席では外国語を用うるのも意味深であると思う。
豹変なり。
1937年5月14日
筧克彦博士に面会す。
「現状打破」ということが流行語であるが、私はこれをどうしても素直に考えられぬので話し合ってみたが、要するに「弥栄」では現在を基準にしてこれを是認してかかるところがなくてはならぬという話で、簡単ながらそこに現状打破の新生命を見出すことができた。
「国のため君のためという真面目な心があればなんとあれども実行してみるがよい」と言うので、二二六事件を例にして「もし二二六事件の人々が完全に君のためと信じていたとすれば、そしてその結果悪かったとして処置されたとすれば、この一連の行為を是認せらるべきであるか」と言うと、
「そうではない。殺人は国法の禁ずるところであり、その方向が君のためと真面目に信じたとしても悪だ」と言う。
「二二六事件の発端ないし経過およびその後に顧み、そのことの良し悪しを考えるよりも、その良し悪しを将来に改善することによって意味がある」と言う。
抽象的にそうであるが、これは独断の軽挙を将来する危険性があるが、また既往をとがめずということは将来にも悪をとがめずとする傾向であるが、しかし沈滞的でない明るさを認めることは事実である。
要は真心である。
筧博士の説はやはり実際に直接的ではない。
間接に実際的である。
この意味で、博士の不断の学生との接触により間接の効果の大を望むべきである。
寺本少将がよく言う、左傾でも右傾でもそのデビエートしたものを唯々推進していくと、ぐるっと流転して反対に出ると。
これが弥栄のむすびの思想に合すると思う。
「現状を否定する」「現状を破壊する」ということを目的とした捨石精神主義は、本当の捨石にならずに字だけの意味に作用する。
すなわちその捨てられた石は、ある時は邪魔物でありけつまづくものになり、またある時は踏石となるかもしれぬ。
それは捨石ではなく、捨石は捨てしがごとくして、これなくしてはならぬ石であるべきである。
曲がった人もこれを否定してはならぬ。
その人の良きところを否定してはならぬ。
良きところは第三者にわかることもあり、わからぬ時もあるとすれが、唯々推進している時は自らその良きところとして残るであろう。
そこに実際問題として実害がないようにすることが必要になってくる。
これが難しい。
陸軍が無茶をやる。
これを完全に止めるべきか。
止められぬことを悔むべきではない。
日本には根本の大道が一貫する。
日本の歴史はその大道を離れて日本の国民のため以外に発展せぬことを信ずるならば、推進〃〃で行くことができる。
安心していられるであろう。
そうなれば陸軍の無茶もじっと推進すればよいことになる。
そこに個人主義的な虚栄や福利や小我が没却せられれば、その無茶を無茶として眺めつつこれを大道に引きつけることができるのであろう。
国民の生活の安楽と国防との重要比較は陸軍海軍の軍備に直接にかかる。
軍備〃〃と言うのにハラハラするうちに、また適当なる軍縮も招来せらるるであろう。
これを傍観することが現状を是認する弥栄であるか、他人をけしかけることが推進であるか。
やりとりの日本主義は自己の否定であるか。
正反常にありて中道に出ずべきであるか、中道に出でんとする時に病あるにあらずや。
1937年5月22日
三笠宮おねだりにて竹田宮へ今晩お呼ばれとのことに、一緒に来いとのことに上る。
(活動映画とダンスのためなりと)
三笠宮も物心つきて、独りさびしさを覚え始めし有り様なり。
ことに騎兵の連中には誘惑も自然と多きもののようなり。
秩父宮も一般の皇族と自ら異なるものあると自覚せしむるを要すと御出発前に御注意ありし。
1937年5月27日
一年ぶりに平泉澄博士に会う。
二二六事件以来憲兵からかなりしつこく塾を尋ねられた由。
五一五事件の出所した4人のうち2人は落伍したが、吉原政巳・菅勤の2人は博士のもとにあり立派になっている由。
日曜ごとに憲兵隊に行って馬に乗っているとのこと。
憲兵なり同期なりがこの2人の人格を見て生活費を頒ち現役と同じくらいに心安く馬にも乗せているならば結構であるが、玉石を分たず五一五事件の偽英雄的感じからそうするならば矯正すべき空気である。
しかし平泉博士の手に2人でも救われているのは喜ばしいことである。
その他陸軍の大尉・中尉以下で100人ぐらいは話を聞いて心服している者ある由。
これが粛軍の礎となるならば本当の粛軍に至ると信ずる。
海軍にはごく2~3人であろう。
宇垣一成大将に対する陸軍の組閣ボイコットに対する近衛公爵はこれを不義として平泉博士に相談し、その草稿による意見を陸軍大臣寺内寿一に致し、爾後陸軍も全般的抗拒の態度を捨てしめたる趣、その近衛公爵の態度を褒めたり。
石原莞爾少将は満ち足りた人であるが、その策を実施するために八幡製鉄所の溶鉱炉を消火せしめた浅原健三を便利のためか盛んに用いる。
浅原は実に偉大な人であるが軍の内密などもずいぶん知らせるらしく、平泉博士もこの人からそうした話を聞く由。
ただこの人が果たして思想的にどうなのか平泉博士も疑念を持っている由。
板垣征四郎中将の方は考える余力ある人にて、大将の器ではある由。
満洲にできる大学の総長を平泉博士に頼みたる由なるが断りたりと。
その組織の計画に参与しているが、寄宿と併行したものにして日本の国体に合したものを作るつもりの由。
内地にてはとても理想のものにはならぬからとのこと。
そうした日本の大学が内地にできぬとはとても残念なことである。
二荒伯爵が「昭和天皇は民の心を心とせられるべく、国民が『宮城は贅沢なり。九尺二間の長屋に住ませらるべし』と言えば、そこに住まるべきが大御心なり」と言いたる由。
田尻昌次少将がそれを引用してその誤れるを知らず。
世の思想は混沌としている。
第二の永田事件を連想する者少なからず。
陸軍の若い人が真剣になるのも、第二の二二六事件に出合わせばどうするかという点である。
海軍にはそんな切実な気持ちはない。
ただどっちにつくもない一死奉公であろう。
1937年6月21日
秩父宮9度近くの熱を出していらっしゃるので、電報にて御見舞す。
《電報に乗っても行けず 御大事に》宣仁・崇仁・喜久子
お返事あり。
《御見舞に うちはげまされ 9度近き 熱も7度に下がるうれしさ》
1937年6月26日
閑院宮にて親睦会例会。
男の方も元帥に敬意を表してかだいぶいらっしゃった。
やはり元帥さんに対する感じは海軍と異なるし、陸軍の中心点としての存在は大きな方であろう。
1937年7月10日
照宮成子内親王をお招きして夕食。
映画を御覧に入れた。
照宮成子内親王はまったく張り合いなきくらいお静かなり。
御供より先に帰れる本間雅晴少将に会う。
カナダの歓迎は素晴らしいものであっただけ、アメリカのそれが物足りなく本間には腹立たしかったようである。
クイーンメリー号はゴージャスなもので、秩父宮妃お召物などお気の毒みたいなりし由。
秩父宮もすてきにお務めになり、夜も一夜に三つぐらいのソワレにて2~3時になる有り様なりしとて、また各国の使節ともたびたび顔をお合せになるため親しくなられるし、イギリスの人ともすっかりお知り合いになり、今後外交官との付き合いはとても有利なことなるべし。
それやこれやドイツ在留日本人はイギリスよりただちにドイツへとお成りを望みたるらしきも、秩父宮はイギリスでのせっかくの日英好転気勢を削ぐのを面白くなく思われてならん、スカンジナビアに先に行かれるおつもりなりしと。
戴冠式等にて日本婦人の国装があったらと痛感せる由。
東洋人はその国の服となりたる由にて、体格的に劣る日本人の引き立たぬを残念に考えたる様子なりき。
1937年7月12日
参内拝謁。
秩父宮より「イギリスに来て日独協定がイギリスに対しただちに日英協定をもたらすものとの考えが誤りなり」し由の御手紙ありたる趣にて、
「あちらに行きて初めておわかりになりしもののようなり」との御話あり。
本間少将の話として、「英独関係が良くない、日独協定も日本が利用さるるのみにならぬよう注意すべしという話なり」し由申し上げしに、
「陸軍の人がそう考えることは良き傾向なり」と思召されたり。
1937年8月15日
節子皇太后より派兵将士に氷砂糖を賜る由。
良子皇后より負傷病兵に包帯等を賜る恒例に対し、氷砂糖はもっと広範囲になり釣り合い上いかがなものか。
いただく方では良子皇后と節子皇太后と区別はないわけであるが、内輪で見るとちょっとどうかなり。
1937年8月22日
北支または上海戦線を見に行くことに対し、宮内省側に不可とする理由ありや、宮務監督に尋ねさす。
1937年8月26日
町の中に万歳の声しきりなり。
子供らは自動車を見ては万歳を叫び、国旗は毎日のように軒に掲げらる。
1937年8月28日
宮務監督が宗秩寮総裁木戸幸一に北支か上海に行く件につき意向返事を促したるに、
「秩父宮も外国で御病気等のこともあり、高松宮が海外に出るのは昭和天皇の御心配を増すことで畏れ多いからこの際留保してほしい」とのことなりき。
私が宮務監督に「秩父宮の御留守のこともあり、どうか」と言いしを逆用したる感あり。
しかし御心配の点は私が行くことによりあるであろうが、赤子何万人を戦闘の死地におかれる以上は、かえって兄弟たる私をある程度危険に置かれることにより満足をお感じになるのではあるまいかとすら私は思うのである。
木戸総裁が困った面倒なこととしてあっさり考えすぎているのは困ったことと思う。
1937年9月4日
参内。
北支または上海に戦闘視察に行く件、御心配ありや否やをお話せるところ、やはり傷を受けたりすることがお気になるらしく、それがため節子皇太后の御機嫌を悪くすることがお困りとお考えになる。
作戦を邪魔してもいけない、公務として行くならばよいが等の御話あり。
私の考えとは根底が違うと思った。
節子皇太后に対する御考えが御孝心というよりも、触らぬような御考えであると思う。
1937年9月5日
昭和天皇より御手紙ありて、戦地行きの件につき御示あり。
●昭和天皇の御事故の時のこと
●公務で行くこと
●戦闘小休みの時機あるべし等の点、
ならびに宮務監督・所属長官と話して今一度伺えということであった。
御返事差し上ぐ。
●昨日の伺いにてすでに御許可ありしとは考えず
●昭和天皇の御心配の有無、臣下にわからずと考え伺いしこと
●思いつきでなく相当の心構えによる等
どうもやはり皇族に関する認識が不十分でいらしゃり、政治的な考え・行政的な思召が主になって、軍という点にはかなり違うものある御理解なりと感ず。
1937年9月9日
次長嶋田繁太郎に上海に行くことを話し、アレンジを頼む。
1937年9月10日
上海行の件、御思召を伺うため参内。
絶対に行くなという思召でもないので話を進めることとす。
要点はやはり死傷の場合で、これが海軍の立場にまで影響すると困る。
この点研究すべく武官に命ず。
1937年9月11日
宗秩寮総裁木戸幸一来り、今日侍従長百武三郎より話あり、よくわからぬので宮内大臣松平恒雄参内伺いたるところ、はやり「なんとか上海に行かせぬようにせよ。昨日は良いというように言ったが」というわけで、なんとか自発的にやめてほしいという次第なり。
あまりのことながら、理屈はともかくそうまでやめろとおっしゃるならば、私が伺えば「絶対にとめはせぬ。賛成はせぬ」というわけで、それで「話を進めてよろしゅうございますか」と言えば、「よろしい」とのことに、軍令部はすっかりその手はずになり進んでいたが、そんなにまでして行くのも畏れ入るので、根本に私の修養のためという腹があるので押して行くわけにもいかず、宮務監督より副官にやめる旨を電話せしむ。
残念至極なり。
しかも私には黙許以上にお許しになり、宮内大臣にやめさせるとはあまりに私の立場を無視なされたこととこれが一番に煩悶の種なり。
次はすでに二度まで思召を伺ったこととて、それを次長に伝えて運んでもらったのを、まるで思召を嘘ついて私がお許しありと申したようにて、これは私事ながら面目の上に相当以上の痛手なり。
木戸総裁は秩父宮のお帰り後と言うが、その時はおそらくすでに海軍の戦線は無くなっているか、あっても苦戦ではあるまい。
そんな時に行くのではまるで危険が去ったから出てきたというので、士気の上にはなんのよきこともなく、お芝居じみたそうした行為は私には自発的にできぬものである。
木戸総裁の話では「秩父宮のお帰り後まで待って行け」ということになっている。
「秩父宮もまた戦線をお巡りになるとおっしゃるであろう」と言っていた。
こんなことなら話をしださぬかもっと話の仕方があったのだが、私としては昭和天皇がそんなおずるいというか踏みつけたなさり方をなさるとは夢想もしなかった。
皇族の軍籍に対し従来の疑問をいっそう再認せしめられたり。
ロボットとしての皇族は平常軍人のごとく装いて政治に関せず、軍人たらんとすれば万一の場合の政治家として待機を余儀なくせしめられ、しかもこれに対する素養を与えられずいたずらなる存在たる不満は、上海行き差し止めによりていよいよ深し。
もともと今年は秩父宮御留守なりとて艦隊に乗るのをやめて東京にいるのであるが、すでに1カ月にてお帰りとなり、時局はかかる条件に進みつつあり、東京にいるのは二二六事件式のことを恐れててればなるが、今一週ぐらいを留守にしてなんの不都合が具体的にあるか、その抽象的な不都合は私が上海に行くという上海の軍隊に何らかの奨励の効果を考えれば不都合など十二分に無視し得ると思うのである。
海軍にいてこの機会を逃したことだけで、私は今まで何のために嫌々ながら海軍に在籍しているのかという唯一の手がかりを失ったような悲しさを覚える。
ますます私の海軍にいることの有名無実さを感じられる。
海軍の統帥に関して、私の希望も、私が海軍の統帥者として自覚を得てのちにはじめて信念づけられる。
ただ少佐が中佐に進むことだけではない。
それは大元帥という別の組織機関のみのことである。
昭和天皇に御心配をかけぬというために、私としては大きな、ある意味では昭和天皇に対しても間接に大きな犠牲を与えるものとして上海行きをやめたのである。
1937年9月13日
上海行きやめのことを次長に話す。
言いにくき限りなり。
理由はっきり言えず、私が言い出したから自発的にやめねばならぬと言っておく。
一部長も惜しいこととて同情してくれた。
やれやれ、がっかり。
松平宮相来談。
上海行の件について話あり。
海軍次官山本五十六が「将来大きな期待をかけねばならぬ高松宮だから、現に危険なる現地に行くを海軍も欲せず」との答えなりし由なれば、それが大なる誤りにて、政治家と異なる軍人がロボットでは司令官も務まらぬは関東軍に見るべく、戦場を知らぬ軍人が無価値なるは確信するところなり。
海軍にすらそんなことを言う人あれば、いっそう宮内大臣の認識を深めるを要すと話しておく。
1937年9月18日
昨日の黄海海戦記念日に海軍機百機ばかりを東京の空に飛ばすはずなりしも、天候雨にて止む。
なんでもみんな支那に持って行っちまったので日本に無いという噂に対するデモンストレーションの由。
ところが飛ぶのは練習機がほとんど全部なのだからかえって底が見えるみたいなりと思うが、区別のつかぬ人もあるというのだろう。
宮城にニュース映画拝見に上る。
上海行の件につき「話の行き違いあって」との御言葉あり。
今さらお話にもならぬことなれば黙って伺っていたが、どうも松平宮相の伺い方が間違っていたとも思えたが、行けなくなって気の毒とは御思いでないようなり。
1937年9月24日
前田侯爵より有栖川宮三年町邸にありし陰陽石を返却せるものを、再び取り返した形にて受け取り庭に置く。
これも子孫が絶える魔物なりという易もありしが、やはり子孫のできる何らかの工作としてのことなり。
1937年9月25日
秩父宮の御手紙に、日独協調を説く説にもとから一致した考えを持たぬし、それについてもドイツを見ておいて自信ある説を言えるという考えでドイツに行くのだということもあったりで、日独関係に秩父宮の訪独がこれを主張した論者の期待と一致せぬものありしにあらずや。
1937年9月26日
百武侍従長来談。
上海行をやめた件に関して私と昭和天皇との間に感情の阻隔を生せしとでも思えるがごとき話あり。
昭和天皇のお許しの思召なかりしと思いおる様子に見えたれば、私は「しからず。お許しは消極的にありしと考えおる」旨を言い置きたり。
伏見宮博義王〈島風〉にて浦東側よりの迫撃砲にて微傷を受けられる。
新聞等も軽傷として取り扱い、やたらな書き方ではなくうまく書いてあったと思う。
これで皇族も戦死傷者の中に数えられる帳面づらとなりよろし。
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『高松宮日記』
1940年5月1日
一時間ばかり卓球をする。
秩父宮職員と試合をすると言ったら、この頃みな稽古している。
1940年5月12日
秩父宮へ行き、満州皇帝溥儀がいらした時の喜久子の着物打ち合せお願いす。
1940年5月19日
大宮御所へ。
秩父宮・三笠宮とそろって夕食いただく。
食後溥儀皇帝いらした時、節子皇太后がお茶をお上げになる予行とて、御茶室でお点前をなさりいただく。
1940年6月5日〔満州滞在〕
大連発〈あじあ〉に乗る。
昨年できたとかいうすごい展望車がついていた。
冷房装置をしていた。
奉天ヤマトホテル。
嫌いなホテルの代表的なタイプ。
まず支配人が沈痛な顔して先導するし、リフトはボーイ、部屋はブラックタイを来た薄ハゲのボーイ。
室内に変に家具の臭いがする。
バスの槽はきれいだった。
食事の給仕も女が二人いたが生気のない顔をしているし、ボーイもナイスでない。
家の古いのは仕方がないが、人まで古臭いのはガッカリなり。
1940年6月9日〔満州滞在〕
宿は日満軍人会館。
奉天ヤマトホテルはガッカリだったので、ここでヤレヤレとのびのびして泊まる。
1940年6月10日〔満州滞在〕
朝、溥儀皇帝来らる。
1940年6月13日〔満州滞在〕
宿は理事公館。
材木で儲けてお妾のためにこの家を建て、出来上がりかけて不景気となり、とうとう満鉄の手に入ったという豪華版の家だが、普段人が住まぬだけにガランとしてお化けが出そうなり。
よく掃除がしてあって気持ちは悪くないが、廊下の時計がボンと鳴るのも陰にこもるみたい。
二嬢あり。
これでどうにか気楽になれた。
二人とも東京の人。
可愛らしい型。
ロシア語と満州語の練習中。
1940年6月14日〔満州滞在〕
もともとノモンハンは軍令部総長伏見宮博恭王が陸軍に対して遠慮して行かぬがよいとお話なさったとて、桑折少将はプログラムにいれたくないと言うのを、私は秩父宮にどうかしらと尋ねたら、構わぬとて有末次大佐にお尋ねになったので、関東軍の方はそれに対しても、入れぬと困るというので上空からということにして、海軍へ出す予定表には抜いておくことにしてある。
海軍で考えるほど陸軍では恥ずかしがる事でないようだし、私はずっと参謀本部と軍令部との情報交換で聞いているので別に大してなんとも思わぬのだが、世間の噂や何かを先に聞くといかにも陸軍が気の毒ともなるのである。
宿は領事館。
浴衣も丹前も白。
浴衣は木綿、丹前は紋羽二重みたいなもの。
夜具も然り。
吉良上野介そのままなり。
気持ち良からず。
給仕はタロンホテルの妹 売れ残り25歳、食事は将校集会所からという寄せ集め。
しかし白づくめの他はノンキで良かった。
1940年6月15日〔満州滞在〕
宿は将校集会所。
将校集会所は委託経営で主人は特務機関の軍属なりしとかで、細君も大阪人であるが初めての宿屋商売とか。
つきっきりみたいな式の扱いでうれしからず。
貴賓室だろうからか、スマートでなかった。
秩父宮もお泊りになった室の由。
1940年6月16日〔満州滞在〕
着替えようとしたら靴下2足あり。
履いたら、違うからこっちのを履けとて、それを記念として残せということだった。
「何をつまらぬことを」とドンドン履いてしまう。
そういうタチの女将だった。
横山勇師団長の管内にふさわしいような気もした。
軍人宿にふさわしくないというだけだ。
かくて師団長官邸に行き泊まる。
山下奉文中将は今晩立ち退いたわけ。
憲兵隊長の奥さんと満州電々の奥さんと世話に来ていた。
堅苦しい奥さんではなかったが、奥さん方の借り物の接待は100パーセント良くない。
山下中将、熊・狸・狼・狐・ノロ等庭にいて、好きなのを持ち帰れとのこと。
ノロと狸をもらうことにしたら熊もということになり、大連の〈日向〉に積むことになる。
1940年6月17日〔満州滞在〕
弥栄駅着。
弥栄の御馳走を期待していたのに、チャムスのサンドイッチにてガッカリ。
1940年6月20日〔満州滞在〕
宿は東満ホテル洋館中の日本座敷なり。
陸軍式というやつか。
しかしさっぱりしていて良かった。
女中が小笠原流だったが、慣れると変でなくなった。
1940年6月24日
秩父宮御風邪気につき私が溥儀皇帝御出迎のこと電報を受け取る。
1940年6月26日
お迎えの列車にて横浜港へ。
すでに〈日向〉入港しあり。
艦載水雷艇で〈日向〉へ。
ここから公式で礼砲あり。
キャビンにて溥儀皇帝に、昭和天皇の御思召でお迎えに来たこと、東京駅にて御待ち受けのこと伝える。
しばらく溥儀皇帝とお話して、内火艇にて同乗、上陸す。
それより乗車、東京駅着。
今度は昭和天皇に御紹介する要もなく、ただ後からついて行っただけだから楽なり。
握手には手袋を取り挙手礼には手袋をはめるので、溥儀皇帝手袋を取ったりはめたりだった。
赤坂離宮まで自動車に同乗して、直ちに帰る。
晩餐に出る。
1940年6月27日
赤坂離宮にて溥儀皇帝の皇族を招きての晩餐あり。
1940年6月28日
米内首相官邸にて午餐あり。
これも秩父宮お休みなので私が行く。
毎日溥儀皇帝と顔を会わすと話の種もなくなる。
ただちに大宮御所へ行き、秩父宮妃・喜久子集り、明日のお茶のお稽古あり。
1940年6月29日
大宮御所へ。
モーニングコート、黒ソフトにて行く。
溥儀皇帝、軍服よりモーニングの方が座るのによかろうというわけ。
昼食は懐石料理にて、いつもの御食堂。
後にて節子皇太后、お茶室にてお点前。
赤坂離宮へ行き晩餐。
また顔ぶれは秩父宮妃・三笠宮・喜久子というわけ。
●大連 ヤマトホテル
ロシア時代の建物だろう。
しかし汚くはなかった。
水飢饉で夜間絶水だそうだが、ホテルと病院は細々と出るのをポンプで汲み上げておく由。
夜も水は普通に出た。
浴槽の排水栓がシャワーの方にあって、隔があるから出て開けなくてはならぬ。
中年者だから垢ぬけないボーイだった。
●奉天 ヤマトホテル
大連よりももっと旧式な装飾だった。
支配人が半ハゲの沈痛な御辞儀する。
和食を食べると女給仕が来る。
洋食だとボーイ。
ここも中年の嫌いなタイプのボーイ長と男の子に毛が生えたくらいの丸刈りのボーイが、しかも服装がブラックタイの白の低い上衣で気に入らぬ。
室を閉めておくと家具の臭いがする。
しかし塵っぽくないだけが良かった。
着いた時に衛兵がいたが、「張学良の頃より治安が悪いみたい」と言ってやったら並ぶのを止めた。
●新京 日満軍人会館
ここが一番良かった。
支配人が丸い太った人だったが、出入に案内するだけ。
後は女中だけ。
この女中の具合がとても良くて、うるさがらず、やりっぱなさず、満点だった。
お大名旅行でここならもっといてもよいと思った。
長くなれば退屈するだろうが、他の宿ではそんな思いもしなかった。
●ハルビン 理事公館
ポーランド生まれのロシア材木商が二号のために建て、不景気になってから自分で住まっていたが、とうとう満鉄が買って、地下室には玉突きやプールもあるとか。
材木屋だけに木地が良い。
手入れも良いから住み心地は悪くないけど、なんとなくガランとしてそんな因縁だというからお化けが出そうでもあった。
東京から来ていたお嬢さん二人、この二人が明るさを出してヤレヤレだった。
食事はヤマトホテルから男と女の給仕が来る。
廊下の置時計がボンボンと陰気をそそるようだと思ったが、気にならずに寝てしまう。
●ハイラル 領事館
入浴したら、出した浴衣と丹前に驚いた。
白の紋羽二重の丹前に、白の木綿のガーゼの袷みたいな物。
絶対に変なり。
寝るとなったら、また白の紋羽二重まがいの布団なり。
吉良上野介もかくあらんとばかり、他人が見ぬからよいものの、この世のものとも思えず。
●孫呉 将校集会所
ここは委託経営で、主人はハルビンやハイラルで特務機関にいた軍属で、宿屋商売初めての人。
しかも大阪の人らしい頭の先から声を出す、「高貴の御方の扱いをわからぬ」という式の丁寧さ。
頑強だけれど敬遠的ではない。
こういう形もあるものだ。
敬遠的よりはマシな方だが、面白くないには違いない。
靴の紐を結ばねばならぬと思えば早く履いてもらおうとするし、記念に靴下を取っておこうとして代りのを履かせようとするけれども、黙ってするほど悪くも遠慮深くもない。
居心地は良くないが、観察の対象になるタイプなり。
建物はおそまつ。
便所もとっておきと見えて引き出し式で、とうとうウンコを出す気になれなかった。
●チャムス 山下奉文中将の官舎
山下師団長、平常は当番三人と副官と住んでる由。
よその細君たちが来て世話した。
別に気兼ねの要るようではなかったけれど紋付だったし、海軍の兵隊なり従兵の方がマシだと思う具合なり。
陸軍の当番はハッハッと不動姿勢を取られる恐れあり。
庭に動物園然と熊やノロや狐や狼の子供が箱に入れてあったのも私にくれるためで、そういうやり方は陸軍に一脈あるようだが悪い気はしない。
ただ獣などもらうのはうれしくないが、他のもてなしと総合しての心持が買われるわけだった。
●牡丹江 ヤマトホテル
駅前の新しい建物。
このごろのホテルらしい建物で、サッパリした室ではあった。
往来に面しているので、旅行中一番にぎやかだった。
しかし交通を見ているのは大好きだ。
ここも男のボーイ。
赤黒い顔の丈の高い人。
ボーイ長みたいな燕尾服の人は、すてきに丁寧みたいな御辞儀をする敬遠型。
支配人は髪をなでつけみたいに分けた人で、これは支配人らしい人だった。
食事にも絶対に女給仕は出てこなかったが、簡易ホテル住まいという感じも悪くはなかった。
ボーイがなんとかもっとよければ良いというくらい。
新しいから気持ちが良かった。
水道の水が濁って汚かった。
●琿春 東満ホテル
炭鉱関係のホテルで、町から離れた野中の一軒家的な存在。
これも新しく、今年一月開業とか。
部屋はみな日本間。
浴室が珍品だった。
タイルの浴槽にはげた所があるとか言って、その中に小判型の木の槽が入れ子に置いてあった。
それがまた浅くて寝風呂みたい。
これが七不思議の一つ。
もう一つはお茶を持ってきた女が何とも言えない、きちんとしたみたいな御作法でやる。
小笠原流式のノソノソネチネチではないが、ただではなかった。
「作法の先生かと思った」と言ってやる。
●羅津 ヤマトホテル
これも新しい、一年にならぬ。
やや装飾的な観光ホテル型。
ボーイがブラックタイの事務員かホテル学校出かといった若い人。
態度が西洋人式であり、それが一人でやる。
うるさくはないが、変な空虚な感なり。
要するにいろいろな宿だった。
女中のいる所がよいのは当り前。
ホテルがみな清潔だったのは良い。
かび臭いのはなかった。
奥さんの接待には三通りある。
(1)世間話のできる人
(2)恭しくて手のつけようのない人
(3)ただの奥さん
今度のは(3)のようなのだった。
宿屋の女将さんも同じようなことになるが、接待するのが仕事だからこちらは気楽だ。
ホテルのボーイも子供らしいのや若々しいのは良いけれど、中年・中老年ときてはイヤなもの。
こんどのはみなそれだった。
今度の旅行で無かったのは小学校の女先生の接待。
これも苦手の一つだ。
1940年7月2日
溥儀皇帝、東京御発につきお見送り。
東京駅で節子皇太后からの御伝言。
これを言っているので、予定時間ギリギリになる。
《節子皇太后御口上》
この度はせっかくおいで遊ばしていただきましたのに、なんのおもてなしも御心半ばで御つくし遊ばされませんでした。
御対面もたびたび遊ばされましたし、御話も遊ばされ御申入もお聞き遊ばされまして、御満足様に思召されました。
梅雨うちとは申しながら御天気の御都合およろしく、御参拝もおすらすらとお済まし遊ばされましたことは、陛下の御徳であらしゃりまする。
いよいよ今日は御立ちであらしゃりまするので、お名残惜しゅう思召されます。
御途中御機嫌よく御艦も御静かに御滞りなく、新京へ御着のお知らせを御待ち遊ばされまする。
よろしゅう。
1940年7月14日
秩父宮へ立ち寄る。
色白くおなりになりしも、先頃よりはおやつれでない。
まだ新聞も御覧になりたがらぬ由。
みなで小説を読んであげているのだそうな。
1940年7月20日
秩父宮8月には箱根あたりへ転地なさるとのこと。
1940年8月1日
秩父宮、箱根小涌田谷の藤田公一男爵別邸へ。
先ごろ痰の中に血が出て、一年近くお咳の止まらぬ気管炎と考え合せ、肺病の一歩手前とかで大事なり。
当分御休養。
冬は御避寒の要ある由。
秩父宮も今度は御自身だいぶ御心配のようなり。
でもお家の人には相変わらず、お口では強がりをおっしゃるらしい。
1940年8月4日
大宮御所へ。
〔節子皇太后の弟九条良致男爵死亡に際して〕はじめ喪章はつけぬことにしていたところ、皇太后典侍竹屋津根子より「自分で気が済まぬからつけてきた」態にしてつけてきてほしいとのことで、喪章つけて行く。
1940年8月7日
休暇を取ってみる。
ブラブラして暮らす。
夕方ちょっと海につかる。
喜久子が庭の東屋で見てるのが目ざわりで、すぐ上がってしまう。
1940年8月8日
北白川永久王より御手紙来る。
返事書く。
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高松宮殿下
7月30日 於張家口
永久拝
はるかに張家口より御機嫌を伺います。
その後まことに御無音に打ち過ぎまして、失礼申し上げました。
殿下には今回満州皇帝御訪日の際の御大任も終らせられ御栄転遊ばされました事、まことに遅れましたがお喜び申し上げます。
今夏は葉山より御通艦とのこと、私達だいぶ海が恋しくなりました。
当蒙疆も一世紀遅れた蒙古人相手にとかく進展しております。
気候は夏も室内は概して涼しく、北京より避暑に参る程度。
ただし紫外線は猛烈であります。
当地は支那軍外蒙軍および回教工作また蒙古政府蒙古軍指導などあり、また一種特別な面白味があります。
またいずれ蒙古事情でも申し上げます。
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1940年8月10日
秩父宮妃、内巻に結いにいらっしゃる。
1940年8月11日
新聞を見ると、細川温子〔細川護貞の妻近衛温子〕とうとう逝く。
結婚の御披露で初めて向き合って座ったようなものだったが、貞ちゃんのお嫁さんというのでよそよそしい感じをしなかった。
以来、会ったのは2~3度か。
それでこないだ細川邸へ行った時ももう寝ていて会えなかったのが寂しい気がしたのに、まったく幽明ところを異にすという気持ちがひしひしとする。
またあの顔が見られるのじゃないかと夢のようであり、見られないと思うと細川家ではわがままな奥さんであったかもしれぬが、他人には面白い懐かしい思い出しかない。
1940年8月12日
秩父宮箱根にいらしてまたお咳が余計になったとかにて、いまだ外にお出にならず。
お床とって、こないだのように寒いとすぐおねんねだそうな。
しかしもう大した御異状はないようだ。
御本人がとても大事にしていらっしゃる。
だいぶおさみしそうだった。
ことに秩父宮妃が御退屈らしかった。
1940年8月20日
秩父宮、結核菌が出た由。
1940年8月22日
秩父宮事務官前田利男より事務官吉島六一郎宛親展にて、秩父宮の御容態申し来る。
ただ菌のことには触れず、御見舞は遠慮してくれとあり。
毎日御容態電話に通知あり。
看護婦二人つく。
絶対安静。
18日は節子皇太后より侍医八代豊雄が、19日は秩父宮の御希望で侍医頭八田善之進が診てあげた由。
1940年8月25日
秩父宮妃に電話にていらっしゃいませんかと言わせたところ、お出あり。
菌が出たとはおっしゃらず菌みたいなもの、お痰にもちょっと色づく程度の血にて、もう平熱にて御安静なるも、私が出た方がよいらしい御様子なりしも行かず。
1940年8月30日
葉山へ。
夕食、喜佐子・久美子〔共に高松宮喜久子妃の妹〕呼んで三笠宮のお相手をさす。
女の子に接する機会あるを可とすべしと思いて。
1940年9月5日
「北白川宮永久王、対空監視所にて飛行機事故のため、4日御負傷同日薨去あらせらる」云々と。
永久王は飛行中にはあらず、地上にあらせられた模様。
永久王はお立ちの時も、北白川の叔母さんが御心配であった。
なにしろ能久親王は台湾で、成久王はフランスで、いずれも薨去になっているので、今度もとても御気にしていらっしゃった。
それが本当にこんなことになってなんともお気の毒であるばかりか、若い皇族の中で一番しっかりしてらっしゃると自他ともに許していた方であった。
御跡取はあるとはいうものの、そんなことはこの際なんの理由にも慰めにもならぬ。
美年女王はじめいらっしゃるけれど、多恵女王にしてみれば今秋の御婚約である。
お一人ではない御家庭ではあるが、御不幸なお家である。
北白川宮へ行く。
房子妃・祥子妃にお目にかかったが、お疲れのようでもあり、もちろんお慰めの言葉もないので十数分で退出。
1940年9月7日
永久王の御遺骸お帰りになったとラジオで言っていた。
大急ぎで昼食をして北白川宮へ行く。
まだお蓋をしていなくて、お顔が見られた。
やはり色はお悪いが、顔面に傷がなくてよかった。
少し口を開き気味なり。
ちょっと聞いたら右の足の先が飛んで行方知れずとのことなり。
頭のは皮がずっとめくれてしまったのだそうな。
叔母様より「看病の日数も無かったのでなるべく長く置きたい。正寝移柩の前にお別れをして蓋をしめてもよいか、18日に御葬儀してもよいか聞いてくれ」とのことで、野村事務官に聞いて13日頃まで大丈夫の予定と言うも、もし駄目なら正寝移柩の前でもお蓋をして、白帛で覆い縛ることを後にすればよいという解釈にして、また十日祭は内々でもできないことはないことなるも、かえって叔母様方のお疲れもあるから、それを機会に正寝にお移した方がよいとのことになり、ただし叔母様のお気持ちもあるので、正式のお通夜はお葬儀の方に寄せて四日間とするに、宮務監督がやはり今度は希望者が多いからとて決まる。
それで正寝移柩を12日にして、12~13日は内々のお通夜として叔母様のお気持ちにも合するようにした。
1940年9月8日
竹田宮恒徳王と一緒に宮内次官白根松介と宗秩寮総裁武者小路公共に面会、砲車の問題を話す。
宮内省側としては霊車を砲車にしたくない。
その代り戦死を表現する手段として、儀仗兵に砲兵を加えて葬列に続ける案を出す。
《砲車がいけない理由》
●霊車は文面にはないがあの馬車として枢密院の説明になっている。
そして葬儀令制定以来何等の変更なくやってきている。
●皇族としての葬儀であって、これが最高の儀礼であるからそれによるべきで、皇族としては陸軍も海軍も妃殿下も変りあるべきでない。
●伏見宮博義王の場合にも従来通り願った等々。
これに対し竹田宮恒徳王は問題は法の問題でなく叔母様の情の問題で、亡くなった永久王が連隊と共に戦地に行きたいとの御希望の一つの表し方として砲車に乗せてやりたいとのお考えで、儀仗のことについては軍隊を動かすことであり、それはありがたいが願えることではないとのことを説かれた。
私としては霊車とあって一定の馬車とは法文にないから、そして砲車は軍に死んだ軍人に対する葬具としてすでに通念としているので突飛ではない。
いまこれを戦車に乗せるのは過早であるが、砲車なら葬儀令の制定前ではあるが、有栖川宮威仁親王の時にも砲車に乗せて兵が引いた。
儀仗隊と交換的に考えるのでなく、砲台になし得るか否かの問題である。
●注文を活かしてまず解釈で運用し、それでやれなくなった時に法文の改訂もするので、この場合なんら法文上の違例でなく、むしろ儀仗に砲兵が砲車を引っぱるのが変なぐらいである。
●戦死という特例として扱えば今後の前例ともならず、従来と変わって差し支えないので、なにも馬車が二千六百年の皇族の葬儀の定型でもないのである。
結局水掛け論みたいで、また研究することになる。
後で陸軍側委員の今村均中将に会ったら、陸軍次官阿南惟幾と宮内次官との話の時に、陸軍次官が「規則が変えられぬと言うが、宮内大臣はさきに『やむなければ火葬にして御遺骨を持ち帰ったらどうか』戦死者のすべてが骨として帰るのに、皇族だからとてそのままお帰りになるのは国民に対して影響如何であろうとさえ重大なる慣例の変更を提議されたではないか』と言ったら、宮内次官も困っていた」とのことだった。
陸軍としては儀仗隊に砲兵を加えることは前例として良いことだから、それでもよいとのことであった。
1940年9月9日
北白川宮へ。
野口事務官に会って砲車の件聞いたら、だいたいその腹になり陸軍に予行をせよと言い、明日伺って決めるとのこと。
野口事務官としては従来の形を破るのに強く反対であるが、重点主義的に今度だけ特例を認めるので、そうしたら細かい点は陸軍に任せるつもりだと言っていた。
いざこざにならぬ様子なり。
御遺骸少し臭いがし出したが、12日までは大丈夫らしい。
ドライアイス一日二回替える時のみ、御顔をお見せすることにした。
秩父宮より御手紙来り、私の考えと大差なく、大袈裟になってはかえって贔屓の引き倒しになることに注意とのことであったので、竹田宮恒徳王にその点言っておく。
1940年9月10日
永久王に大勲位いただく。
瑞宝副章買うかどうかと言ったら、賞勲局長が献上することになる。
金鵄章もおいただきになる。
これは伏見宮博義王の時と同じく、私としては疑問を持ち反対である。
1940年9月11日
砲車の件、伺い済となる。
初めて聞いたのだが、伏見宮博義王の時 砲車は用いられぬと御尋ねがあり、できないと申し上げたので、その代りの意味で葬場から水兵に担がすことをおっしゃったのだそうな。
北白川宮で葛城敏子様〔細川温子の義妹・細川護立侯爵の娘・葛城茂麿の妻〕に会う。
細川温子の最期は意識不明で安らかだったが、一カ月も前に遺言してにぎやかにしてくれとのことで、お通夜もにぎやかだったそうな。
細川雅子〔葛城敏子の実妹〕転地しているのだそうなと聞いたら、そんなことはないしノンキにして元気だとのことだった。
秩父宮、遠藤繁清博士診察して、お軽いが大事にしなくてはならぬ、暑いより寒いのはよい、ただ湿気るのがいけないと言うので、当分箱根のままということになる。
侍医中村順一の曖昧なのよりハッキリして、お手当も決まり結構なり。
1940年9月12日
北白川宮へ行く。
正寝移柩。
永久王のお顔、とても白く塗ってしまった。
1940年9月17日
北白川宮へ行く。
霊代安置の儀。
竹田宮恒徳王から北白川の叔母さんが、葬場からお墓への霊輿の側に竹田の叔母さんの時のようにおなじみの将校を歩かせたいと言うのに対し、宮内省でそれは先回の時に事後研究会でこれは具合悪いので前例にせぬことに式部の方で決めて今回もお断りしているので、なんとかならぬかとのことだったが、その話の時は委員退出の後でどうにもならず。
1940年9月18日
北白川宮へ行く。
昨夜のお棺の側に将校を供させる件、話すに同じような返答であり、すでに相談の暇もないので、列の後になら差し支えないとのことで、叔母さんにそれで御納得いただき、霊車を指揮した築山博一中佐と同期生5名つくことにす。
1940年9月22日
秩父宮へ。
上体起こしてお会いになる。
顔色よく肉つきもよく見受けた。
やはり痰が出る様子。
三笠宮初めてなので、お庭を散歩したりお茶食べたり。
1940年10月15日
東久邇宮彰常王の臣籍降下の皇族会議あり。
5分もかからず終わる。
1940年10月25日
秩父宮二千六百年祝典御出席にならぬので、11日当日のみ私が代わりに務めることになったと御電話あり。
1940年10月26日
秩父宮、6月以来御風邪の気味で8月に急性肺炎をなさり御静養中と発表さる。
1940年10月27日
宗秩寮総裁来邸。
二千六百年式典、総裁なにも内容知らずに聞きにきている。
こっちも何をするか知らずに、ただ寿詞と万歳とを言うことのようなり。
1940年10月29日
電車で葉山へ。
新宿御苑のトマトを秩父宮へあげる。
新宿御苑のトマト、内緒でならいくつでもあげるとのことだった。
11月の奉祝詞「恐懼頓首、臣宣仁申す」式でとてもおかしくて、何とかならんかと言って帰る。
万歳を弥栄にして「天皇陛下皇后陛下、弥栄」としては如何か、奉祝文とともに秩父宮の方で研究してくださるはず。
1940年11月3日
二千六百年式典の奉祝文、字引ひいたりする。
どうも難しい字で気に入らぬが、代理だから仕方もない。
万歳も弥栄では困ることになる。
やはり万歳と言うことになる。
ただし天皇陛下皇后陛下の万歳ということになる。
秩父宮のお考えによる。
私も同意見なり。
1940年11月4日
奉祝文、疑問の点あり。
立案者宮内省嘱託木下彪に来邸を求め説明を聞く。
どうも天皇陛下のことを讃える点多く、二千六百年奉祝のことが少ないようだと言うたが、奉祝会の意向によったということで、なにしろ飛び入りの代理だからまあ我慢することにした。
「恐懼」を直した程度。
秩父宮に報告しておく。
1940年11月5日
秩父宮へ行き、奉祝会 勅語あることになりたれば、奉祝文のことにつき伺う。
別にお心づきの点もなしとのことなり。
1940年11月7日
式部官武井守成と二千六百年祝典事務局長歌田千勝来邸。
●万歳は天皇陛下のみとのことで、「私が間違えて言っちまえば、天皇陛下皇后陛下でよいわけか」と言ったら、まあもう一度研究することになる。
●万歳には私は手を上げないことにした。
一般には上げる習慣だから、上げないではバラバラになる懸念あり。
みなは上げればよい。
●宮崎県と鹿児島県と発祥地奪い合いのため、神代三陵を希望していたからそれは断る。
もしそれで高千穂峡に行く予定だがそれが釣り合い上困るような話だったから、「そんなことで知事さんが県民を指導できぬなら仕方がないから高千穂峡やめでもよい」と言っておく。
両方の御機嫌取りみたいにやってたらきりがない。
重大問題ならそれも仕方ない時もあるが。
●「橿原と宮崎の奉献式には出ずに奉告祭に出る」と言ったら、奉献式も会だけのものでなく全国民の奉献式だからと言って、それにむしろ重点あるようなことを言っていた。
「会すなわち全国民の総代だろう」と言ってやったが、結局まあ大したことではないから両方出ることにした。
ただ秩父宮と同じではいけないからなんとか、やり方を違うようと言うたが、それも実際問題としては区別あるようにできそうもない。
レコード録音機を借りてきて、奉祝文の読み方を録って自分で聞いてみる。
こうしないとどうもわからぬ。
初めてやってみたが、自分の声を再生して聞くと読み方の研究になる。
1940年11月10日
宮城前祝典へ。
祝典は内閣でやるので、近衛が明日私のやるところをやって見せるみたいに同じことをやる。
1940年11月11日
宮城前奉祝式へ。
奉祝詞の朗読と万歳、うちで録音を録ってもらう。
私のとグルー大使のと君が代斉唱と録れた。
1940年11月14日
音羽正彦侯爵&大谷尊由の娘大谷益子の御披露。
大きな砲丸投げやるだけ左肩を上げた癖のある、許婚が長かっただけ慣れたお嫁さんだった。
1940年11月18日
中宮寺着。
中宮寺の尼さん〔近衛尊覚〕だいぶ耳が遠くなったが、元気になっていた。
尊昭尼さん〔平松時冬の実娘・一条実孝の養女〕23歳になったそうで、夏中胃病で寝ていたそうな。
1940年11月19日
円照寺着。
門跡山本糸子、山本静山と名を変えていた。
25歳になって大人になった。
橿原神宮の給仕には高女生徒が出てきてしていた。
相当なスローモー式お作法なり。
1940年11月22日
ホテル着。
夜、細川侯爵一家ゾロゾロ見えたが、入浴していて帰ってもらう。
1940年11月24日
紫明館着。
大正天皇がお泊りになった建物で、浴槽は湯を汲みこむ式、便所は引き出し式、その他はよろし。
料理屋だからサービスは慣れていて、堅くならずに済む。
1940年11月26日
八紘台着。
青年団西部動員大会発足式あり。
動員青年と宮崎の学生の分列あり。
元気あって各地から集ったのにかかわらず歩調も合う。
目の前を行進するので、目がチラチラして目が回りそうになってので、時々空の雲を見てやっと大丈夫だった。
公会堂の体験発表会へ行く。
福岡のはジェスチャーたっぷりに軍役奉仕の感激を語り、聴衆に涙する者多し。
それにつけても私が青年のそうした感激性に感応する純真というか若さがないのがさびしく感じられる。
だから私は宮崎の農業者が、おじさんの田畑の耕作と自家の田畑の耕作とを両方やらねばならなくなった、そして両方やる決心をしたという話の方により深く聞いた。
1940年12月15日
また下痢が始まる。
いささかヘトヘトの気味。
士官室で「トントントンカラリンと隣組」と蓄音機をやってるのを聴いたら、とたんにうれしくなっちゃった。
1940年12月30日
腹の具合もすっかり良くなって、旧態勢の前菜・スープ・野菜・魚・肉と西洋料理をおいしく食べる。
こないだうちからのおかゆの栄養不足を取り返した感なり。
秩父宮にもビフテキを召し上がれと手紙に書いたくらいなり。
食堂の給仕は爺さんのボーイだがそんなに悪くないのと、不美人の人、熊本市の人でかためているだけに男も女も美人はいないが、まとまったなごやかさがある。
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