◆124代 昭和天皇(迪宮裕仁親王)123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


※香淳皇后は子供たちを自分の兄妹の子供たちと結婚させたがったが、昭和天皇は遺伝学的見地からイトコとは結婚させなかった。

*香淳皇后の兄久邇宮朝融王は、子の久邇邦昭の妻として順宮厚子内親王・清宮貴子内親王に2回縁談を申し込む

*香淳皇后の妹大谷智子は、子の大谷光紹の妻として孝宮和子内親王・清宮貴子内親王に2回縁談を申し込む


●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚


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田島道治 日記 宮内庁長官

1949年12月12日
東久邇宮盛厚王来訪。
六本木地価のこと、投資失敗のこと、株式のこと。
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『入江相政日記』侍従長

1949年11月29日
田島長官・林次長・三谷侍従長・鈴木侍従次長・名取女官・予で、東本願寺問題〔孝宮和子内親王&大谷光紹の縁談〕を論議する。

1949年12月5日
田島長官・林宮次長・三谷侍従長・八田・塚原・名取女官・予で、孝宮和子内親王御結婚問題を論議する。
要するに血族結婚は不可ということになり、さらにその他の点から言っても不可ということになる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年2月7日
昭和天皇◆大正天皇御脳および良子色盲のことなどは嘘ではない。
色盲の点はメンデルの分離の法則があるゆえそのむね答弁すればよく、実際明仁皇太子・常陸宮も初等科入学以来ずいぶん注意しているが何事もない。
田島長官◆万一色盲におなりでも、電車の旗ふりを遊ばす訳でなし、そんなことは議会の問題にならぬと思いますし、なっても何でもありません。

1949年3月10日
田島長官◆大礼服にはモーニング、モーニングにはモーニング、すなわちモーニングのところは一段下がって背広でよしではないと思う。
ただし黒または紺の背広でちょっと略式は如何かとも思う。
昭和天皇◆高松宮妃 婦人宮中服に熱心なる賛成、陛下はあまり賛成でなかりしこと、上衣のありしこと、節子皇太后〔貞明皇后〕の御意見ありしこと、洋装が良いが手袋等如何と思うこと、自分の一案はモーニングに白衿紋付、徳川以来の一応完成風俗ゆえ良し、背広には洋装、大礼服には袿袴ということなるが、節子皇太后〔貞明皇后〕反対の様なり。

1949年4月13日
〔孝宮和子内親王は一年の予定で呉竹寮を出て元侍従長百武三郎宅で平民生活修行をしていた〕
昭和天皇◆孝宮和子内親王が呉竹寮に帰るらしい。
田島長官◆昨年元侍従長百武三郎に御依頼になりました方針に何か変化がありましたのでしょうか。
昭和天皇◆いや、別に方針が変わったわけではないが、照宮成子内親王が嫁に行く前は良かったが、その後は孝宮和子内親王と順宮厚子内親王の間がどうもうまくいかぬ。
照宮成子内親王がいた頃だが、孝宮和子内親王は感情的に走り順宮厚子内親王の着物をズタズタに裂いたこともある。
ちょっと感情的な癖がある。
百武の所でも茶碗を打ちつけるようなことがあり、呉竹寮から帰る時にじき戻るからということで百武のところへ行ったから、近く呉竹寮に戻るはずだ。
また結婚もいい話があればそれを避けることはないが、自然早くないかとも思う。
田島長官◆感情的ということも一般にはワガママとも申せぬこともないかもしれず、御降嫁後は舅姑にお仕えになる上からもワガママをお出しにならぬよう修徳の必要もあるやに存ぜられ、すぐに百武家をお出でになることにお決めは如何かとも存ぜられ、皇子付女官名取ハナ・侍従入江相政らともよく聞き、最善のことを考えたいと存じます。
昭和天皇◆ワガママは抑えなければいかぬが、どうしても納得できぬことを無理押ししても、必ずしも結果はよくないことも考えねばならぬと思う。
(あの子は困りものというような意味は少しも仰せなし。これは少々難問と思う)

1949年4月20日
田島長官◆孝宮和子内親王のことただちに百武家をお出になることは如何と申し上げしこと、一年という期限で御話になっておれば適当に御退居遊ばさるる結構と存じます。

1949年9月15日
〔昭和天皇の研究『相模湾産後鰓類図譜』が出版される〕
田島長官◆宮様方にも科学上の御知識はとにかく、贈呈しかるべきと存じます。
昭和天皇◆秩父宮に「研究所で採集のものを本にする」と話した時に、
秩父宮から「昭和天皇御自身の御名前をお出しになること云々」の御話があり、
また本をあげればそれを蒸し返されるかもしれず、イヤなのだ。
田島長官◆それはやはり大きくお考えのうえ御贈呈しかるべきと思います。

1949年9月19日
昭和天皇◆三笠宮から本の御礼がすぐ来た。
三笠宮は近来よほどよくおなりになったように思う。
『改造』に寄稿は困るが、まあよくおなりと思う。
高松宮は遅く御礼が来た。
秩父宮はまだ何とも言ってこない。
明仁皇太子も御礼が遅かったが、これは年少で侍従の出したのに気づかれるのが遅くとも仕方ないが、宮様方は新聞も御覧で早く御礼あってしかるべきだ。

その後三谷侍従長曰く、「陛下は今回の本につきては非常に particular である。例えば『田島は明仁皇太子御床上げのとき賜物に反対したが、今回は希望するのはどうか』との御話あり。三谷その区別を申し上げ御了解になりし由」

1949年9月30日
田島長官◆賀陽宮恒憲王の名古屋訪問は不評判。
昭和天皇◆高松宮は賀陽宮のことをずいぶん私に悪く仰せになったことがある。
また元皇后宮大夫広幡忠隆が賀陽邦寿〔賀陽宮恒憲王の子〕が良いとの話にて、孝宮和子内親王の相手に決まりかけたが、【すぐ来ん】とのことと酒を飲むとのことで、すぐには差し上げられぬとのことで先方から辞退するようにした。
田島長官◆長男賀陽邦寿のことは京都大学でもあまり評判良くないように伺います。
評判よいのは東京大学の次男賀陽治憲の方と思います。

察するに皇后宮大夫坊城俊良の話と総合して、宮様のことを仰せになるのは27日の節子皇太后〔貞明皇后〕との御話の結果と拝察す。
坊城皇后宮大夫の「近来節子皇太后〔貞明皇后〕と宮城と御仲およろしくおなりになったのに」との語調ちょっと心配なり。

1949年11月11日
昭和天皇◆どうしても赤坂離宮に住むということになるなら、私は好んでいない、やむを得ず住むということを国民に判然とわからせて欲しい。
事実赤坂離宮は贅沢だし、暖房の石炭はずいぶんかかるし、夏は西日で暑くて仕方ない。
そんなイヤな所へ行って、国民には贅沢してるという感を与えることは困る。
田島長官◆赤坂離宮お好みなきことは伺いましたし、赤坂離宮は外国使臣拝謁等の時にお使い願うことは考えておりますが、御住居は別に結構と存じます。
昭和天皇◆意味はよくわかったが、賢所もあり花蔭亭のような所もあり、宮城をやめるとすればなかなか問題が多い。
田島長官◆一部には健康上あまり良からずとのことを聞きました。
御文庫の湿度問題あり、来年度の宿題ゆえ総合的に考えます。
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読売新聞 1949年11月23日

※後にこの縁談は天皇家側から断る。

『孝宮様の御内約順調に進む 選ばれた東本願寺の大谷光紹氏』
「孝宮和子内親王の御配偶については鈴木侍従次長を中心に選考が進められていたが、東本願寺法主大谷光暢氏の長男大谷光紹氏との間に御内約が順調に進んでいる旨、光暢氏により初めて明らかにされた」
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1949年11月30日
昭和天皇◆新聞を見て驚いて、そんなに進んだのかと思った。
田島長官◆他の新聞は書きませず、読売新聞記者が大きく扱ったと存じますが、新聞ほど進んだ訳ではありません。
昭和天皇◆私の義叔母らが西本願寺や仏光寺に行ってるが、信徒に対する関係上なかなか話す機会も多いらしいが。
(経済的な点はよろしいが、御不安むしろ御心配の御様子に拝す)

1949年12月8日
田島長官◆孝宮和子内親王御縁談につき、大谷光紹氏の人柄学業家柄御続合など至極良縁と存じ今日まで内話を続け来りましたところ、名取女官などより孝宮和子内親王側のことをよくよく聞けば、孝宮和子内親王の御性格上御負担重く、この際この話はこのままのことにお決め願いたく。
昭和天皇◆今後はより慎重にしてほしい。
田島長官◆今後は孝宮和子内親王本位にての方針。
ただ今 残れる鷹司平通・浅野長愛をよく研究の上。
昭和天皇◆慎重とは矛盾するが順宮厚子内親王のこともあるゆえ急いで。
(やはり一般とは異なり御親子の御仲は下々のごとくでなく、〔孝宮和子内親王の欠点について〕やはりさほどとは思われぬ御様子なり)

1949年12月9日
田島長官◆孝宮和子内親王ことは従来名取女官らより承り、昭和天皇からも感情的との御話を承知いたしましたゆえ、大谷家のような所の方適当と存じましたところ、いよいよとなり孝宮和子内親王の本当の側近側より孝宮和子内親王の御性質・御不十分の点など程度の差あり、かしずかれる御身分はよいと思いしところ、かえってそれが御性質が目立ち御負担重り、地位が地位だけに到底難しきことと存じました次第でございます。
したがって今後の候補者については、先方は孝宮和子内親王のことを理解し承知の上で孝宮和子内親王の御幸福のためにかばうという人柄人格の誠実の人なれば働き・頭脳の点は構わぬことといたしまするが、ただ今のところ、陛下は鷹司平通・浅野長愛いずれ御希望か。
昭和天皇◆その点が完全なれば鷹司の方がよいと思う。
田島長官◆浅野はとにかく理学士でありまするが、鷹司の方は大阪理工科大学出身でありまするが、好んであんな学校へは入りませぬゆえ、東大または京大へ入学不能であったかと考えますが。
昭和天皇◆大学を出てもいいと言えぬ人物もあるし、大学を出ぬもいい人物もある。
要は学校ではない。
(田島の申し上げんとせし点は、大阪理工科大学等に入る程度にては人物も如何との懸念の点なるも、この際は申し上げず)
昭和天皇◆節子皇太后〔貞明皇后〕は二候補者を申し上げし後、私たちにはしきりに浅野がよいと仰せになる。
お続きがあるからかもしれぬが、しかし良子は弟君の東伏見邦英が浅野のことをひどく言われたのを聞いているので、女のこととて感情上浅野のことには気が進まぬかもしれぬ。
もちろん東伏見は文学者で変な所もあり、先方は理学士であり相互に了解し得ぬような点もあろうから、東伏見の評の当否は分らぬが、当否は置いて良子としてはちょっと考えるのではないかと思う。

節子皇太后〔貞明皇后〕はかつて「大谷については一言も御話がない」との御話にて、陛下のお気持ち鷹司が人柄が申し分なくば才能は劣ってもこれを第一に考えるとのお考えは明白となれり。
「皇室も昔と違って経済上補助はできず、掌典というような才能を必要とせぬ職を授け、間接的に経済上の補助をする他ない」と申し上ぐ。

(孝宮和子内親王の御欠点につき十分御理解なきように拝し、そのことを言葉に注意しながら申し上げしところ)
昭和天皇◆犬養毅内閣の外務大臣芳沢謙吉の家へ行った時のことなども。
(との仰せにて、高松宮妃に伺いしことも御承知らしく)
昭和天皇◆私たちでもそうだが、大勢の人が注目してると思うことが非常にイヤに感ずるのだ。
田島長官◆恋愛結婚とか見合結婚とかいうことは皇室については如何お考えでございますか。
昭和天皇◆恋愛はとてもで、三笠宮ぐらいがちょうどよいと思う。
私と高松宮は全然古い風で、秩父宮は少し違い、三笠宮ぐらいがいいと思う。
節子皇太后〔貞明皇后〕は三笠宮の言いなりで、細川の娘〔細川護立侯爵の娘細川泰子〕を広幡大夫は「御顔が」と言ったが、私は御顔より照宮成子内親王と同級で、叔母様になる人が照宮成子内親王と同級ではと思って私は反対し、百合君は私が推薦したのだ。
その時のことを思うと、いま三笠宮がいろいろ言われるのはどうかと思ってる。

1949年12月12日
昭和天皇◆戯談に私は良子に孝宮和子内親王を修道院へと言ったところ、良子は反対で神宮祭主なら賛成だと言った。
東久邇宮盛厚王は照宮成子内親王と同意、「大谷の話こそ良し、御進行希望」との話あり。
田島長官◆それらの点は現に研究済のことゆえ、先日申し上げたる通りに願いたき旨。
昭和天皇◆名取女官の話にては、誰か付けるとの話なるが、皇室が里方の場合に嫁入先に干渉するとの批評は受けぬか心配。
ことに宮様方から批評出るように思う。
高松宮夫妻はタンスの引出まで見るという風で、実は女官なども大困りであり、大宮御所の女官も困っている。
良子もこれには閉口してる。
東京でなければこの批判から免れるゆえ、大谷がいい御趣旨。
順宮厚子内親王は怜悧にて照宮成子内親王と同じゆえ上下に挟まれるが、順宮厚子内親王の配偶者との関係の考慮も必要。
良子は失望した。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1950年1月16日
鷹司夫人来訪ありて、孝宮和子内親王の遅れの程度質問あり。

1950年6月18日
宮様方の鷹司評など。

1950年7月29日
東久邇盛厚氏来訪、真面目直説法にて反省要望す。

1950年8月5日
秩父宮妃より聞くところによれば、照宮成子内親王パーティにて御不慣れの由、companion 必要。

1950年9月25日
侍従入江相政来話。
鷹司新家庭ねじまき必要のこと。

1950年12月21日
入江侍従。
明仁皇太子スキー、東久邇夫妻御同行やめていただくこと。
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『入江相政日記』侍従長

1950年1月19日
今度の話〔孝宮和子内親王&鷹司平通の縁談〕が駄目になったらどうしようと思う。
他になんら成算もなし、またこれが駄目になるようなことでは今後にも望みがない。
孝宮和子内親王の御様子を見上げていると、なんとかうまく成り立ってくれればいいとつくづくそれのみが思われる。

1950年1月20日
田島長官と鈴木侍従次長と三谷侍従長の部屋でお会いする。
固唾を飲んで聞くと「〔鷹司家は〕お受けする」ということなので、本当に天にも昇る心地がする。
名取ハナ女官に「お受けする」を伝えたら、名取女官は折れるようにして胸をなでおろされた。
本当に良かった。
肩の凝りも全部おりたというもの。

1950年1月22日
名取女官と話す。
昨日孝宮和子内親王に申し上げた由。
非常にお喜びになったとのこと、いよいよ良かった。

1950年1月26日
新聞社では相当知っているらしく、いつやられるかわからない情勢になってきた。
2時半に新聞発表。

1950年1月27日
今朝からたくさんの人が恐悦に見える。
しかし孝宮和子内親王は終始非常に御機嫌である。

1950年2月14日
田島長官・式部官長松平康昌・稲田周一・高尾亮一・牧野誠一という顔ぶれ。
逐条的に話を進めて行ったが、なかなか暇がかかる。
御式のこと、その参列者などなかなか決まらない。
御住居のことも難しい。
どうもやはり一般的に御実状に疎い連中と話をしているような気がして仕方がない。
お仲人などについても同様である。

1950年2月17日
田島長官から昨夕拝謁、詳細に申し上げたことにつき報告がある。
どうもあまり細かいことを申し上げ過ぎるように思う。
鈴木侍従次長から良子皇后にでも申し上げればよいようなことが多い。
しかし昭和陛下のなるべく民間風に、そして先方の意向に従うようにというありがたい思召がわかったのは何よりであった。

1950年3月2日
保科女官長から電話で、良子皇后が孝宮和子内親王にやはり一度は御島田・御振袖をお着せになりたいとのこと。
その不可なる所以をお答えしたが、はやりこれは根本的によく申し上げねばならぬと思う。

1950年3月3日
名取女官から聞くところによると、今日良子皇后から孝宮和子内親王に御振袖のことを仰せになった由。
どうしてこういうことになるのかわからない。
御女性として親御さんとして当然のこととも言えるが、孝宮和子内親王がお好みでないものを世間の悪評を犯してまで断行する必要がどこにあるのであろう。

1950年4月15日
長官の所へ行き、孝宮和子内親王と鷹司平通さんがバレエ映画『赤い靴』を御覧になることの可否について聞く。
前に高松宮がお誘いになってのをお断りになった以上具合が悪かろうということになったが、驚いたのは田島長官は「良家の子女は婚前にそういう所へは行かないものだ」とのこと。
遺憾に堪えない。

1950年4月20日
稲田周一さんが「御新宅の敷地は千駄ケ谷の式部官長の旧宅にしようということになった」という話をされる。
新生活の上で簡素いってんばりの裏付があれば、それでよかろうと思うと答える。
田島長官・林次長・鈴木侍従次長も結局承知された由。

1950年5月8日
皇室経済会議。
御降嫁下賜金480万円が決まった。

1950年5月11日
女官小倉満子からの電話で起こされる。
閑院宮載仁親王の五年祭と孝宮和子内親王の御婚儀の御日取との関係についての仰せで、できることならこちらを変えるようにとの仰せである。
田島長官・林次長・三谷侍従長・鈴木侍従次長と協議する。
みなの意見をまとめると、「いまさらお変え願っては困る」とのこと。

1950年5月14日
孝宮和子内親王、袿袴を召して実になんともいえず御立派である。
御祝酒をいただいて帰る。

1950年5月20日
孝宮和子内親王、二重橋からお出になる。
雨の中、両側ともやっと御車が通れるだけの間を空けて一杯の人波である。
みな大変な喜び。
孝宮和子内親王の御態度も極めて御立派であった。

1950年5月23日
娘からクラス会での順宮厚子内親王の御様子について聞かされ、学習院大学教授岩田九郎も非常に心配しているとのこと。
名取女官に話さねばならないが、いろいろ続いては困ってしまう。

1950年6月3日
呉竹寮に行き、名取女官と話す。
明夜、順宮厚子内親王は照宮成子内親王のお誘いで帝劇へいらっしゃる由。
なんとかこういうことから解放して差し上げることはできないものか。

1950年6月29日
名取女官が進退についていろいろ考えられるところを語られたが、思いとどまってもらうように話する。

1950年7月6日
今夜田島長官と三谷侍従長が常陸宮に御相伴に出るそうであるが、常陸宮の御伝育方針をめぐっていろいろな行き違いがあるにのに結局どういう所に落ち着くであろうかと山田侍従も心配している。
毎々のことであるが、実に不思議なことであると思う。
御前へ出たら、また孝宮和子内親王の御服装についていろいろ御話がある。
段々伺えば、女子と小人とは養い難しの感を深める。
実に困った事態であると思う。

1950年9月16日
侍従会議。
今回は特に保科女官長にも出席してもらう。
夏前から良子皇后の御服装について田島長官に仰せのあったこと、田島長官一人でやっておられることであり、我々は大宮御所との関係を案じたが、三谷侍従長が侍従会議でその問題を取り上げるのはやめようと言われたのでそのままになっていたことが、果たしてすっかりこんがらがってしまったらしい。
こうなった今日でも三谷侍従長はまだ取り上げようとしない。
まったく不思議なことである。

1950年9月27日
鈴木侍従次長から「今度辞めることになった」と聞かされて、非常にびっくりする。
要するにこれは最近の大失政であると思う。
そのことばかりが考えられる。
永積侍従・山田侍従と鈴木次長の罷免の問題について論じ合う。
宮内職員三井安弥さん・宮内職員鈴木菊男さんと鈴木次長の問題について語り合う。
鈴木次長は最大の危機だと言っていた。
どうも次長問題が気になって妙な夢を見る。
夢の中に元侍従長大金益次郎さんが現れる。
はやり一番相談したいと思っているからだろう。

1950年9月29日
鈴木次長が長く拝謁する。
最後のお別れのつもりであろう。
御服装のことと対皇族のことを申し上げた由。
驚いたことには宮中服の批難は法務総裁殖田俊吉から申し入れがあったことに端を発していることが昭和陛下の仰せによってわかった。
こういうことをなぜにそのまま申し上げてしまうものか。
田島長官限りで理由を言って断ってしまえばいいものと思う。
どうも不思議なことである。
御文庫へ行く。
鈴木次長の申し上げたことに関連していろいろ仰せがある。
要するに鈴木次長の罷免のことにつき、やはり平然たり得ないものがおありになるのであろう。
両陛下と常陸宮のブリッジの御相手をする。

1950年10月1日
三谷侍従長に呼ばれる。
予に事務主管を、徳川侍従に呉竹寮をとの話である。
すでに昭和陛下のお許しも得て、明日発令とのこと。
今さら駄々をこねても仕様がないので、「早く適当な人を入れるよう、そしてその人が慣れるまでは務めましょう」と言う。
徳川さんも困っている。
名取女官も非常にガッカリして「せめて顧問のようにして残ってくれないか」などと言っておられた。
過分のことである。

1950年10月3日
集まって鈴木次長に挨拶をする。
鈴木次長は泣きながら、去るに及んだ事情を述べられ、すべてを捨てて奉公を励むように話された。

1950年12月12日
今度はまた久邇宮朝融王の方の御話〔順宮厚子内親王&久邇邦昭〕があった由。
要するに近親結婚の非なる所以をよく良子皇后に申し上げてないらしい。
困ったものである。

1950年12月15日
順宮厚子内親王の結婚問題を協議する。
驚いたことに、三谷侍従長や稲田侍従次長の頭からまだ京都の方の問題〔東本願寺大谷光紹〕が消えていないのみか、さらに京都に決める他ないだろうという意見であることはあきれたことである。

1950年12月16日
順宮厚子内親王の御結婚問題について会議。
田島長官と宇佐美次長も一緒。
この問題については田島長官は三谷侍従長や稲田侍従次長よりも頼みになり、意見も正しい。
どうも人間というものは一長一短である。

1950年12月21日
東久邇宮熱盛王夫妻が明仁皇太子と一緒にスキーにいらっしゃろうということだが、高松宮や三笠宮のおやめ願った関係上、これもおやめ願いたいと昭和陛下に申し上げ、つづいて良子皇后にも申し上げ、いずれもお許しを得る。
東宮侍従黒木従達にそのむね話すと喜んでいた。

1950年12月25日
元侍従長大金益次郎さんがみえる。
鈴木前次長をめぐっての問題をいろいろ話、大金さんの意見も半分くらい聞いたのであるが、なにしろ人が何人も入って来てゆっくり話もできない。

1950年12月31日
今年は秋に鈴木一さんが侍従次長を辞めることになった。
このことには一通りの理由があるにしても、運び方なり何なりに後年に悔をやはり残すことになったのは遺憾であった。
稲田周一さんが侍従次長になった。
そして予も事務主管になった。
呉竹寮にも1944年春以来6年半関係したが、どうも長くなりすぎたとは思いながらやはり御用の都合もあり、順宮厚子内親王の御慶事の頃までかと思っていたのが、そいういう事情から急に徳川さんと代ることになった。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は72万円

1950年1月2日
田島長官◆孝宮和子内親王の御縁談、慎重かつ迅速との御思召にて、協議の結果鷹司平通がよろしかろうとの結論に達しました。
人物性向学歴健康続合および令妹鷹司庸子孝宮和子内親王と同窓等の旨。
昭和天皇◆イトコの鷹司の娘も多分同級だよ。
(鷹司靖子、例の生学のこと おかしき娘の姉)

昭和天皇◆鷹司は身体はちょっとひ弱いように見えるが。
田島長官◆その点も次長の方で調べました。

1949年1月6日
田島長官◆昨日鷹司信輔氏〔鷹司平通の父〕を訪ね、
「御令息は既に御結婚はお決まりになりましたか?」
「いえ、まだです」
「実は孝宮和子内親王も御年頃にて御降嫁の御話でございますが、正式に御話あればお受けになりますか御内意を伺いに出ました次第でございます」
「それは誠に光栄の至りで」
「私どもは御良縁と考えられまするので、御良考を願いたいと存じます」
「ただ戦災後、家が手狭で」
「そのことは承知いたしおりまするゆえ、御新家庭の御家の問題は私どもで考慮することができると思います」
「本人の意思をよく聞きまして」
「御令嬢なり御令姪が学習院にて御同窓ゆえ孝宮和子内親王のことはいろいろ御承知と存じますが、
孝宮和子内親王は率直に申し少し御発達の遅れておられることもないではござりませぬが、それらの点はよく御理解をいただきませねば終始のことゆえ、十分御姉妹方にお聞き願いたく」
「御健康は?」
「それはおよろしいと存じますが、元侍医頭八田善之進にお聞きくださればよくわかると存じます」
あと別に質問もこれなく、
「御返事はなるべく早くお願いねがいたく、さりとて拝辞の御返事を早くよりは、お受けの御返事をやや遅くても希望します」と申し、辞去いたしました。

昭和天皇◆鷹司が田島の所に来るということだが、その際に孝宮和子内親王のちょっと強い性質のことなどざっくばらんに話してもらいたい。
こういう思い込む気質な代りに、いったん理解がゆけばまた真っ直ぐにそれを信奉してやるという長所もあるから、その他すべて遅いということもあるが、それも飲み込めばきちりとやるから。
田島長官◆御性質など隠し立てしては長い将来のためよくありませぬゆえ、ありのままに長所短所を申すつもりでございます。
昭和天皇◆見合結婚というではなく、多少交際するということも時節柄結構だが。
田島長官◆田島などの友人中、恋愛結婚で後であまり円満でないのもありますから。
昭和天皇◆それはそうだ。
見合結婚で単なる他人の決めたではなく、見合結婚だけれども一応お互いに理解してもらうのが結構と思う。

1950年1月7日
昭和天皇◆昨日おたた様にお目にかかったら、鷹司のことをさんざんに言われた。
「あんな力のない人」というような意味でひどく仰せになり、浅野の方がよいとの思召からではないかと思われるが、「田島らいろいろ考えてやってるようだからよろしいが」と仰せになった。
田島長官◆田島が拝謁の際は、「鷹司は大した働きのある人ではなく、しかし無難」との仰せがありました。
経済のことは宮内省の方で御新家庭の点など考慮云々申し上げし際、「経済のことは今後の世の中では非常に重要なことだ」との仰せを拝したのみ。
浅野をよろしいと御思召のための御不満かと存じますゆえ、御話を承りましても田島は少しも動揺いたしませぬ。
岳父となられる方の働きとか才能とかいうことは問題でなく、人柄さえよろしければ結構と存じます。
昭和天皇◆おたた様は時流におもねる御性質がおありと思う。
現に「上つ方というものは若干ウソを言わねばいかぬ」と仰せになったことがあり、その意味は軍国の時など軍人などには内心御満足でなくても適当御嘉納の御言葉あるようにとの意味のことであったが、今の時世になれば多少時流におもねるという点がよほどある。
おたた様は申し上げると逆効果のことがある。
この点高松宮と同じで、田島が御経費のことを申し上げたが、あの後はむしろ賜りなど立派になされるようで、女官伊達璋子から聞いたが、御重に御菓子だの御料理だのの賜りは御立派になったとのことだ。
田島長官◆田島などの拝謁の際も、賜りをお考えのうえ御日取をお決めになるとの噂を聞いたこともありますほどで、御隠居の女性様としてお楽しみの唯一かとも存じます。
昭和天皇◆実はそのために田島の言った女官が夜遅くなることもあるとのことだ。
田島長官◆昨年御陪食の節のボンボン入れも女官の作成との御話を承りました。
昭和天皇◆おたた様はだいたい鷹司のようなのはお嫌いで、秩父宮のような鋭い所のある人がお気に入る。
田島長官◆浅野さんのことも考えましたが、孝宮和子内親王の場合にはいろいろ考慮の上鷹司が第一と考えましたので、順宮厚子内親王も御年頃ゆえ、浅野を考えてもと思っております。
昭和天皇◆浅野の兄の方は東伏見がひどく批評して、大谷家に娘をやることを反対したということを聞いておるゆえ、そういう場合にはその点によく注意して。
また朝香宮が照宮成子内親王の時に、「マタイトコでも近親すぎる」と言われたこともある。
田島長官◆東久邇宮の場合は二重のマタイトコにお当りになりますが、浅野の場合は節子皇太后〔貞明皇后〕の方の御関係のみでありますから、その点はさほどでないと存じます。

1950年1月30日
田島長官◆鷹司綏子夫人は良い人の印象。
昭和天皇◆田島はそう見るか、節子皇太后〔貞明皇后〕より少し噂を聞いているが。
田島長官◆鷹司信輔も夫人もそうとう緩慢の人らしく、孝宮和子内親王の岳父母としておよろしいと存じました。
昭和天皇◆孝宮和子内親王は「早く」と言われるとダメなんだ。
ゆっくりしないといけない。

1950年2月7日
田島長官◆従来はその例なきも、御式には両陛下の御列席しかるべしとの意見も相当有力でありまして。
昭和天皇◆私はむしろ親として積極的に式に列した方がよいと思う。
イギリスの王室などを見ても御列席のようだ。

1950年2月16日
田島長官◆孝宮和子内親王の御服装の点でございますが、鷹司信輔夫妻の時 大礼服と袿袴なりし由にて、燕尾服またはモーニングと袿袴の希望を申し述べておりました。
昭和天皇◆良子からカツラは今までずいぶんやったがうまくゆかぬと聞いている。
もしカツラがうまくいくとしたら、袿袴の方がよいと思う。

田島長官◆媒酌人の問題でございますが、鷹司は五摂家という点に重きがあるらしく察せられ、田島が「九条家は?」と申せしところ、「夫人なし」とのことにて一条実孝の名前も出ておりますが。
昭和天皇◆一条は右だろう。
田島長官◆右でございます上もともと海軍軍人でありこれはいけませぬと存じまするし、打ち合せの会合でも問題になりませんでした。
二条弼基の名も出て。
昭和天皇◆夫人〔多嘉王の娘恭仁子〕は良子と親類であるし、年が少し若いのが欠点だが私は異議ない。
お里帰りはどうなる?
田島長官◆照宮成子内親王の時にはお里帰りという儀がありませなんだゆえ特に考えませなんだゆえ、なお研究いたします。

拝察するに「すでに照宮成子内親王の時とはいろいろ変えてやってる点があるのだから、時代のあれで変えてやったらいい」という御趣旨に拝せられる。
鷹司家の希望の存することはだいたいお容れになる御思召に拝察せらる。

1950年2月21日
田島長官◆袿袴の場合のおすべらかし。
あの髪はおすべらかしでなく〈大童〉と言うのだ。
前の所が少し重いようだ。
分け方など少し違うが、ちょっと見ればおすべらかしと変わらぬ。
照宮成子内親王は〈五つ衣〉であったが、三笠宮の時は〈袿〉であった。
先方が袿と言うなら袿がよかろう。
田島長官◆お金の件は人手を借らず田島が先方に持参のつもりでございます。
ただいまのところでは、納采の儀前に20万円ぐらい・御婚儀近づきまして30万円ぐらいかと存じます。
昭和天皇◆よろしい。
しかし贈与税など問題おきぬように。

1950年2月24日
田島長官◆20万円は鷹司に手交しましたが、御心配のごとき贈与税の点も遺漏なく致します。
昭和天皇◆孝宮和子内親王は非常に喜んでいるらしく、私たちにもよく話をするようになったし、平通を良い人だと二度も言ったそうだ。
田島長官◆御婚約を機会に御心配申し上げましたような点もずいぶんお変りになるのではないかと存じます。
しかし鷹司平通氏が呉竹寮に頻々上がる様子でございますが、これは適当がよろしいかと存じます。

1950年2月27日
昭和天皇◆鷹司信輔も田島と同じようにあまりしばしばと言ったらしいが、鷹司の妹たちが両親の頭が古いと言って攻撃したらしい。
田島長官◆年代の差でございましょう。
昭和天皇◆照宮成子内親王も孝宮和子内親王の同級生の話などはとても理解できぬこともあると言ってた。
田島長官◆照宮成子内親王と孝宮和子内親王は御年のみならず、戦前戦後で一般のものの考え方が変わりましたから。
昭和天皇◆おたた様は鷹司信輔〔父〕より平通〔子〕の方がよいという印象を聞いたが、だいたい御話をする人の方が好きで、黙っている人の方をあまりお認めにならぬようだ。

1950年2月28日
昭和天皇◆昨日おたた様にお目にかかったら、鷹司夫人のことを非常によく仰せになってた。
あまり良く思っておいででなかったようだが。
田島長官◆拝謁の際に鷹司夫人の妹に当る人〔徳川繫子〕のことを申し上げましたら、お思い違い
の様子で、そういう訳かとの御話もありましたが。
昭和天皇◆そうか。
田島長官◆秩父宮妃が大宮御所にて御会食の時の御話でも、鷹司の人々に御満足の御様子とのことでございました。
昭和天皇◆おたた様は平通のことをよく言われるけれども、信輔との比較の御言葉はどうかと思う。
単に平通はよいと仰せになるのに、信輔に比べればと仰せになるのはどうも。
おたた様の御性質として、話し上手の人がお好きで話下手の者はお嫌いのようだ。

1950年5月22日
田島長官◆孝宮和子内親王の御婚儀も滞りなく行われ、人気も大変よろしいし、三陛下が御親臨で庶民の神前結婚式と大差ないということが、皇室と国民の間の親近感を与えたように存じます。

田島長官◆先のことでございますが、順宮厚子内親王は短大を御卒業まで御結婚遊ばしませぬでしょうか。
昭和天皇◆順宮厚子内親王は今は結婚なんて少しも考えていないようだが、良縁があれば学校を卒業せねばならぬことはないと思う。
具体論は人格が一番で、それから優生学上困るという点のないことが必要であるが、華族制度のなくなった今日理論的にはおかしいと言えるかもしれぬが、やはり家柄とうことは考えねばならぬ。
ただし財産は構わない。
今度のように補助すればできるから。
田島長官◆家柄の点は皇族・公爵侯爵に限るというような狭い華族でございましょうか。
昭和天皇◆筋の通った卑しからぬ家柄なれば、必ずしも拘泥しない。
田島長官◆元皇族・公爵侯爵を物色して、なければ漸次家柄の格を下げて、人格のよき人を選ぶようにすればよろしゅうございますか。
昭和天皇◆そうだ。

1950年5月23日
昭和天皇◆昨日おたた様の御話の内に、昭憲皇太后が元来お弱くて明治天皇より早くお亡くなりになっては困ると言う明治天皇の御話で、長生のため非常に御留意になり、そのため明治天皇より少し後れて崩御になりよかったが、その方法として沼津へお出かけになったという御話があったくらいゆえ、いい塩梅だと思う。
その点三浦が御話すれば、夜の遅いことなどもよろしい結果が出るのではないかと思う。

1950年5月30日
昭和天皇◆私はこの宮城に必ずしも固執しないが、世人と異なりどこへでも行けるでなし、せめて家の中で自由に散歩できる所が欲しい。
賢所もあるし難しい。
また赤坂離宮は住みにくい。
それから葉山でもちょっと困る。
田島長官◆それは心得ておりまする。

1950年6月17日
昭和天皇◆「大谷は良子の妹だから」とて、あの時の御不満あるらしく承る。

1950年6月26日
田島長官◆三笠宮が吉田首相を訪問されて余計なことを言われたとのことでして。
昭和天皇◆大学で何か意見を聞かれるのか。
田島長官◆大学で友達となられた人に相当赤いような人がいて、その説に御同情的なのかと拝察いたします。

1950年6月27日
田島長官◆三笠宮の共産党に対する御意見は厚生次官にも御話になりました由で、御話を伺った秘書課長は東久邇宮稔彦王追放のことがよほどこたえているように拝したと申しておりました。

1950年7月4日
昭和天皇◆三笠宮ああいうことを食事中に言われては困る。
単にエチケットとして真に当を得ない。
社交的食事ともなれば政治問題など論ずることはない。
三笠宮がそれだけのエチケットもわきまえぬは困ったことだ。
田島長官◆今日陪席して三笠宮困ったことを仰せになると思いおりましたが、真に恐縮千万に存じます。
なんとか田島より御注意申し上げます。

1950年7月5日
昭和天皇◆孝宮和子内親王は何も言わぬから少しもわからぬ。
わからぬから人に考えが伝わるので、面倒なことや行き違いが起きた。

1950年7月12日
田島長官◆侍医より良子皇后の御肥満につき申し出て、侍従職ではゴルフを申し出ておりますが、世間へ伝われば今回は宮城内にリンクができたと伝わり、世間に与えるかと案ぜられるのであります。
昭和天皇◆侍従職の矛盾に驚く。
孝宮和子内親王の結婚の時あんなに振袖を主張した侍従職が、ゴルフの評判立つことを平気で主張するのは解しかねる。
散歩すれば十分で、どっちかと言えば私はゴルフは不賛成だ。

田島長官◆侍従次長鈴木一更迭問題ですが、侍従次長の職と監理部長とか書陵部長とかは感じは如何でございましょう。
昭和天皇◆部長は侍従次長より明らかに左遷の感がある。
田島長官◆鈴木の地位を移そうと決心しましたのでございますが。
昭和天皇◆鈴木は一度主殿頭をせしことあり。
侍従は事務官として優秀でも侍従としてダメという人もあり、要件の相違があるからよく注意してくれ。
私は諫言することはいいが、私に議論を吹っかけてくるような侍従は困る。
良子は女官長と高木は信用してるが、東貞子・雪井良子・小倉満子などには少し困ってるようだ。
田島長官◆雪井は一番駄目と思う。
昭和天皇◆雪井は外部には口は堅いが、内部では口が軽く人づきはあまりよくない。

1950年9月11日
昭和天皇◆ヴァイニング夫人はいつ帰国するのか。
田島長官◆10月か11月と存じます。
昭和天皇◆内地の旅行でも希望すればそうした方がよいと思うが。
田島長官◆せっかくの御思召は良子皇后から直接仰せいただく方が当人にも好感情と存じます。
昭和天皇◆高木が渡米中で通訳かいないゆえ、良子がそれだけのこと言えるかしら。

昭和天皇◆侍従職の連絡がまずくて三笠宮にアラを見られはせぬかと思い、侍従職の威厳にも関し困ったことが起きた。
(今回の三笠宮御差遣は公務ゆえ、陛下より内廷庁舎にてと仰せありしを、鈴木侍従次長は個人的に御文庫でと言った)
昭和天皇◆内廷庁舎と決めたことゆえ御文庫は何の準備もなく、三笠宮の椅子がなくて三笠宮が持って来るなど不体裁のことであり、アラ探しをしがちな三笠宮ゆえ困ったことと思った。
田島長官◆連絡不十分は私としてもお詫びをせねばなりませぬ。
今後はそんなことのないように致します。
昭和天皇◆あれは鈴木の直らぬ性質から出て来るのか、注意をすれば良くなるのか。
田島長官◆長田幹彦小説、木下依頼事件のごときもその欠点ゆえ、鈴木侍従次長の性質によるものかと存じまする。
昭和天皇◆孝宮和子内親王の衣装の問題もなんら申出なく、良子が聞いて初めて言うという訳であった。
そういう風ならば、気の毒でも替ってもらわねばと思う。

この問題侍従職のことなれど、三谷侍従長には何の御話もなし。
侍従長は侍従職の責任者ではない、陛下の秘書官長とのみ思召し、侍従職の事務には無答責とお考えらし。

1950年9月25日
昭和天皇◆良子とも話したが、侍従次長後任 稲田周一ならば大変よろしいとのことである。
入江相政は困ると良子が言ってた。
それは良子が数カ月苦心して孝宮和子内親王に振袖を着せると言ってたのを、時節柄振袖はいかぬという名取女官の議論に同調して、振袖でも贅沢の物あり倹約の物あり、留袖とて倹約とは限らぬと思うのに、強く振袖を否定したのは鈴木もそうだが入江もそうだ。
それに良子の服装問題にも主張が一貫せず、私は非常に納得しかねている。
ヴァイニング夫人が良いと言ったって西洋人全部の感覚がそうだとは限らぬに、一方どう感じてもこれがいいと言ったり、どうも変だ。
それで良子はその時の怨みが残ってる感情的な話で、まあそう思うに無理もないと思う。
田島長官◆入江は次長には考えておりませぬが、事務主管にどうかと存じておりましたが、それも徳川義寛の方がよろしいかと存じております。
昭和天皇◆私は徳川も8月15日の時の態度から見てよいと思うが、永積が注意周到でよく気をつけるから、永積がよいかと思ったが。

孝宮和子内親王御婚礼時の御着物の問題にて、名取女官・入江侍従・それを統括して責任者たりし鈴木侍従次長は、よほど良子皇后の御感情を害しおるらしき御話をいろいろ拝聴す。

1950年9月26日
昭和天皇◆入江のことだが、良子としては姉妹関係もあろうが東本願寺をいいと思い、名取がクリスチャンゆえ事を構えて東本願寺の話を壊したのではないかとの疑いを持ち、その点は鈴木でなく名取に対して大いに憤慨の様子なるも、辞めさせても後がなきため辞めることはないが、どうも良子は不満のようで感情的な所がなかなか抜けない。
したがって入江も同類と思ってるようだ。
(いつもと違い良子皇后の御感想をお述べゆえ、非常に御声を低くして御話になる)
田島長官◆良子皇后に誤解があれば解きたいと存じます。
女官長との話し合いも致しましょう。

1950年9月27日
昭和天皇◆女官長と話し合うちうことはやってもらいたいと思う。
鈴木に「優生学上、福井その他に聞いてくれ」と言ったら、福井一人に聞いて「イトコの良い例もあり悪い例もある」ということを言って来ただけであったが、鈴木はかように少し荒っぽいところがある。
これから明仁皇太子の配偶・また順宮厚子内親王の時にもやられても困る。
もっと慎重でないと。
また良子は孝宮和子内親王の縁談のことで、名取は教師の仕事以外のことまで口を出し過ぎると言っている。

1950年9月28日
昭和天皇◆おたた様が鈴木のことにお触れになったので、ありのままを申し上げた。
おたた様の人物の見方はどうも私にはわからぬが、鈴木はあの鈴木貫太郎の子だからよかろうとの御話であるが、良い親の子に立派な子の場合も確かにあるが、子供はそれほどでもないということはいくらもある。
それを貫太郎の息子だからとはおかしい御話だ。
田島長官◆それは女官らのいる所ではございませぬでしたか。
昭和天皇◆いや、節子皇太后と良子と三人だけの時であった。

1950年9月30日
田島長官◆事務主管の後はやはり入江がよろしいように存じます。
昭和天皇◆良子も是非いかぬと言ったものでもなしそれでもいいが、しかし入江は服装のことはどうも少し変であって、孝宮和子内親王の結婚の時振袖のことについて名取と組んでどうも腑に落ちぬことがあり、宮中服についてもちょっと変な考えを持っているようだから、事務主管になってもよいが、服装の考えは修正してもらわんと困る。
入江は服装の問題、主として宮中服に関し、ヴァイニング夫人は賛成と言いながら内地ではそう広く言わず、マッカーサー夫人に聞いたところ、「外へは言わぬが賛成」とのことで、実際評判の左右にはならぬにもかかわらず、孝宮和子内親王が宮中服反対のことなどわかりそうなものを、漫然「ヴァイニング夫人などもよろしいと申しますから」とて宮中服をいいと言うのはどうもおかしい。
田島長官◆入江は国文の研究者でもあり女子服装のことが分らぬ訳はなく、今後は式部官長も侍従長も参画し、女官長もまた場合によりては田島も参加するようにして、御不満のないように致します。

1950年10月9日
昭和天皇◆和装のことだがねー、おたた様御機嫌のおよろしい時に今一度伺ったらどうだろう。
田島長官◆御機嫌のおよろしい時に今一度申し上げますることは結構でございまするが、必ず御賛意を承ることができるかどうかは疑問のように存じます。
むしろ実行遊ばす旨の念のためのお知らせということかと存じますから、それは適当の時に田島が伺いまして申し上げましょう。
だいたい良子皇后が和装を召しますのは、ただ今は来年正月をお考えでございましょうか。
昭和天皇◆外人謁見の時と思ってる。
正月は洋服なり宮中服なりにしたらと思ってる。
田島長官◆節子皇太后〔貞明皇后〕は「正式宮中服にしてみたところで、国民世論というのも少しおかしいが、一般の宮中服に対する不満が変わるわけではなし」との仰せゆえ、節子皇太后〔貞明皇后〕の正式と仰せにお変えになっても、宮中服は宮中服で評判にかわりはありません。

節子皇太后〔貞明皇后〕のお許し、せめて御黙認でもない限り御注文も遊ばさぬらしき御様子に拝せしゆえ、
田島長官「染に時間もかかりますから御注文だけは遊ばしては如何」
なお陛下が正月にはお用い無き理由は、
昭和天皇「正月は黒でやや地味にせねばならぬが、外人謁見のような時は色物でやや派手でもよいから」

次長鈴木一退官に際し、「陛下の服装問題にかれこれ仰せになることを御諌言的に申し上げしこと、高松宮らをよく御抱擁願いたしとの申し出のこと、ゴルフの問題のこと、順宮厚子内親王は浅野長愛へ御降嫁よろしかるべし」とのこと申し上げし由承る。

昭和天皇◆鈴木は辞めてよかった。
田島長官◆線が太いので場所によっては大いに使えると思いますが、侍従次長のような気を配る点は不適。

1950年10月10日
昭和天皇「昨日聞いた浅野長愛の話だが、なぜ女子学習院へ転任したろうか。順宮厚子内親王との結婚に何らかの関連ありや。あれば縁談できぬ時は変なものだ。順宮厚子内親王が女子学習院に通学中に転任して来たのは」という御話、焦点どうもハッキリせず。
田島長官「順宮厚子内親王と浅野長愛の転任は没交渉と存じます」と申し上ぐ。
「そうか」と深くおうなずきなれど、この御話の焦点ちょっとわからず。
昭和天皇「順宮厚子内親王の意思は今結婚にないが、大谷光紹への口実が〔良子皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王・順宮厚子内親王を子大谷光紹の妻に望んだが皇室側から断った〕留学三年ということゆえ、帰朝前に結婚する方が賢明だ」との仰せにて、浅野長勲の曾孫にて、長勲の息子という人もどんな人か調べる要あり。

1950年11月7日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談、新陣容で間違いなく慎重に見てやってまいりますつもりでおります。
昭和天皇◆大谷光紹への口上から、大谷の帰国せぬ内というのは頬かぶりではあるが。

1950年12月1日
昭和天皇「久邇邦昭〔久邇宮朝融王の子〕に順宮厚子内親王をもらいたいと良子に話があった」という御話を初めて仰せになり拝承す。

1950年12月18日
昭和天皇◆良子の和装の問題だがねー、呉服費も取ってくれたが、良子は節子皇太后〔貞明皇后〕のハッキリした御同意がないと恐ろしくて作れないらしい。
このことでは何でもなくても、他のことで復讐されるというような気持ちで心配して躊躇してる。
田島長官◆田島が何かの形でもっと明示的な御同意をいただけば結構ということでございますか。
昭和天皇◆そうだ。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1951年9月3日
鷹司和子さん流産のこと。
東久邇氏自動車事故のこと。

1951年10月3日
岡山に順宮厚子内親王のこと、侍従次長稲田周一困却の話聞く。
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『入江相政日記』侍従長

1951年1月8日
田島長官・宇佐美次長・三谷侍従長・侍従徳川義寛と、順宮厚子内親王の御結婚問題につき協議。
池田・両徳川・松平・鍋島が候補者に残り、結局池田隆政ということで少し進めてみようということになる。

1951年5月12日
稲田侍従次長が岡山〔池田隆政〕から帰ってこられる。
大変順調であった由。
しかも申し分ない立派な人であった由。
けっこうだった。

1951年6月15日
今度の日曜に三宮の六方お集りで、明仁皇太子をお招きになろうということになった由。
拝謁、お断りになることにお許しを得る。

1951年6月16日
東宮侍従戸田康英君は高松宮へ行き、高松宮妃にお断りしたが、非常に不満気に何かおっしゃった由。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は96万円

1951年2月5日
昭和天皇◆節子皇太后〔貞明皇后〕が前の式部長官武井守成のことをお褒めになるのはどういう理由からから私は知らぬが、宮中服を作る時に骨折ったことなどをお考えかもしれないが、宮中服は戦時型であり、また宮廷以外に用いられないことが民主的でないとの批評を買っていると思うのだが、節子皇太后〔貞明皇后〕はずいぶん宮中服のことを遊ばしたが、裳衣がダメだからという理由でなく、その前から一度もお召しにならないのでよくわからないのだ。
田島長官◆御服装の問題は難しゅうございますから、格別現状を変えず時には和服もお召しになり、
自然落ち着くところに落ち着きますことと存じますが、良子皇后が和服をお用いになりますことを田島より明らかに節子皇太后〔貞明皇后〕に申し上げまするのは好機でなければならぬと存じます。

1951年3月2日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談は公爵・侯爵から順次ずいぶん繰りましたが、ちょうどおよろしいというは少なく、御年齢等のことを加味して約10人ほどに縮め、久松伯爵の子〔久松定成〕とか徳川達孝の孫とか徳川宗家とか鍋島一家とかずいぶん調べましたが、結果として岡山の池田隆政が一番よろしいかと存じましたが、これとて難点はありまする他、鍋島も一人ありまするが、中間御報告的にだいたいのことを申し上げ、御指図によりよろしい者を本格的に調べるということに進むのがよろしいかと存じます。
昭和天皇◆よろしい。

1951年3月9日
順宮厚子内親王の御縁談は結局三名になりたりとて、池田隆政のことを式部官長松平康昌の関係より調べ得たることより申し上ぐ。
鍋島・徳川は三人の内の一人なりしというだけにて、興信所調書には触れず。

昭和天皇◆順宮厚子内親王が下情に通ぜぬため、東京を離れて何か事が起きた場合に、遠隔ゆえ事前に防ぐことができず、手遅れになるようなことはないかしら。
それらの点をプラスマイナスして利害はいずれか。
侍従次長稲田周一◆旧藩主で昔の関係地で生産に従事するということは大変よろしいと存じます。
マイナスの御心配の点よりプラスが大きいと思います。

浅野問題〔浅野長愛との縁談〕には御気持はとにかく、事務的には終止符を打ちたりと思うに、とにかく良子皇后御気持の情報を待つこととす。

1951年4月18日
昭和天皇◆順宮厚子内親王は照宮成子内親王と同じ方で、孝宮和子内親王とは違う。
田島長官◆池田の方はただ今のところ何の障害も起らず一応無難であります。
名門であり、御仕事も実業で。
昭和天皇◆その実業も土地についたいい意味の実業だし。
田島長官◆職業軍人なき今日、将来常陸宮の御仕事としても結構かと内々考えておりまするような
ことでございます。
昭和天皇◆地方というのがちょっと欠点だが。
田島長官◆御上京できぬということもございませんし。
昭和天皇◆まあ、今までのところは非常に良いから、これが円滑に進むといいがなー。

1951年4月21日
昭和天皇◆照宮成子内親王の所へ松本というのが出入りしている。
ラスプーチンのような穏田行者〔飯野吉三郎〕のような、科学的に言えば動物電気のよく出る人で、予言をしたり共産党の情報を持ち、共産党嫌いで皇室崇拝の人がいるそうだが、悪い人でもないが穏田的な奴ゆえ照宮成子内親王などの所へも来るようだ。
田島長官◆類似のことが久邇宮朝融王の場合にもあり。
坊さんか尼さんかの信者に三谷侍従長の妻の兄長尾新輔とか伽藍とかいうのがいると聞きましたが、宮様方がこういう人たちに騙されるのは一番困ります。

1951年6月21日
田島長官◆節子皇太后〔貞明皇后〕お好きのリンカーン一台を、内張りまで節子皇太后〔貞明皇后〕にお見立てを願いましてお買い願いましたものが、崩御後に着荷いたしました。
これを皇太子様用とし、皇太子様用を内親王様用と致します。
内親王様方も今のパッカードはあまりお好きでなき様であります。

1951年7月3日
田島長官◆順宮厚子内親王の池田は最初式部官長松平康昌へ申したることに端を発して進行しましたため、先方は田島にも侍従次長稲田周一にも何か一枚隔てた感じが常々ありますから、話し合いにも松平にすべてかかってくるようでありますから、今回は松平に媒人仰せつけられまするよう。
昭和天皇◆私もよく人物を知っているし、申し分ないことだ。
田島長官◆五摂家の鷹司平通〔孝宮和子内親王の夫〕に二条弼基〔媒人〕大大名の池田に松平、門地の点もちょうどよろしゅうございます。

1951年7月12日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談ほどなんの障害も起らなかったのは珍しく、池田の親類の細川護立侯爵など何か説が出そうかと存じておりましたが、別に何もなきのみか昨日珍しく挨拶を述べ、喜んだ様子に見受けられました。

1951年8月22日
田島長官◆順宮厚子内親王、先日の三人参内の時など大変結構のように存じますが。
昭和天皇◆「やあ、順ちゃんは素敵だ」などと言うて我々の時代とは時代が違う。
一つにはパンより飯という順宮厚子内親王の嗜好に、隆政も同じというのでとても喜んでる。
とにかく違うが、大変いいようだ。

1951年9月10日
東久邇宮盛厚王の自動車事故のだいたいを申し上げる。

1951年10月5日
田島長官◆東久邇宮盛厚王の交通事故は至極円満に片づきましたとのことでありました。
警察の好意と存じております。

1951年12月31日
田島長官◆宮内庁の3階を改造しまする経費7千万円はだいたい認めましたが、大蔵大臣池田勇人の特命らしくあります。
主務者の方で他を若干切りすぎた点もありますが、それを必要なものは復活要求を致しまして、不可欠のものはだいぶ良くなりました。
内廷費は節子皇太后〔貞明皇后〕崩御にかかわらず3千万円、皇族費は親王73万円をベースアップで一挙140万円とすることも通りました。
皇室経済会議の様子などの反映もあると存じます。
先日の自動車の過失のことは、子供がうつむき加減で出てきまして先方過失でありまするが、坂道でありまするため速度の制限があり、その点多少過失視せられるかと存じますが、被害者も別に難しい事を申さず6万円の慰労金で片付きましてございます。
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田島道治 日記 宮内庁長官

1952年1月18日
照宮成子内親王自動車事故のこと。

1952年3月12日
侍従入江相政に東久邇盛厚王および照宮成子内親王のこと話す。

1952年3月22日
久邇宮朝融王・東久邇盛厚王行状のこと、陛下御心配のこと。

1952年7月20日
緒方竹虎に東久邇宮盛厚王のこと話す。
当分握りつぶしてくれとのこと。

1952年10月12日
秩父宮「大勲位論、東久邇宮盛厚王に勲一等等云々の論は不愉快」との仰せ。
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『入江相政日記』侍従長

1952年5月1日
呉竹寮に行き、女官名取ハナと鷹司平通さんの自動車購入問題につき協議。

1952年7月10日
鷹司平通さんに会って聞いたら、はやり自動車を買ったとのこと。

1952年8月23日
呉竹寮に寄る、飯村三雄君と雑談。
飯島君の考えでは、順宮厚子内親王の御様子はやはりどこかに故障がおありになるのではないかということ。
長年御側で見上げている人の意見ゆえ、重んずべきもののように思われる。

1952年9月16日
田島長官の独断でエリザベス女王のカナダ訪問の16ミリトーキーのお催しに、秩父宮夫妻お参りのようにお勧めしたことからいろいろ紛糾して夕方までかかる。
全然御都合も伺わずにそんなことを申し上げるのはどうも困ったことである。

1952年9月17日
田島長官の所へ行き、例のカナダニュース映画問題について打ち合せをする。
このまま秩父宮に御対面になっては具合が悪いと思い、彼岸花のことを話題にして御気分を直す。
秩父宮夫妻に御対面。
昼過ぎに御文庫へお帰りの時にはすっかり御気分もおよろしそうだった由。

1952年9月19日
今度の問題につき田島長官と懇談。
こちらからは今後も一生懸命やるけれども、それにはやはり長官・侍従長等から納諫ということについてよく申し上げてもらい、それによってオーソライズされる必要があるということを説く。
田島長官は退位問題に関する経緯など詳しく話される。
非常に参考になる。

1952年10月7日
順宮厚子内親王、三殿御拝。
袿袴がよくお似合いになり御立派である。

1952年10月8日
昭和陛下御熱がお出になり、西野侍医の話のよるとパラチフスとか赤痢とかいう類のものだと思うとのこと。
この細菌がどこから入ったかということが問題だとのこと。
紅茶のコップに一杯酒をいただいていい気持ちで帰る。

1952年10月9日
正午の御熱は5度9分。
しかるに田島長官は明日〔順宮厚子内親王の結婚式〕おやめ願い、後の重要なことにお備え願おうという考えの由。
そして三谷侍従長などもいつものようにこれに雷同しているというので、その不可なる所以を三谷侍従長・稲田侍従次長に説いたがどうしても聞かない。
侍従たちはみな残念がった。

1952年10月10日〔順宮厚子内親王の結婚式〕
良子皇后の御供をして式場に行く。
昭和陛下は今日は大変およろしいのに、田島長官と三谷侍従長、もっとも三谷侍従長はまったく自分の意思のない人で、こんなことだから日本もすっかり軍部に押しまくられたわけだが、つまり田島長官のスターリンのごとき強引さで行幸をおやめになってしまった訳だ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1952年1月3日
田島長官◆御成年になられました明仁皇太子へ菊栄親睦会に御出席のお誘いがありましたそうですが、あまり結構な会合でもないようでございます。
賀陽宮邦寿王・久邇宮邦昭が相当酒を飲まれたとの噂、式部官長松平康昌も『我々の会の方ではない事がある』との話で、お酒を召し上がる元妃殿下もあり、鷹司平通〔孝宮和子内親王の夫〕あたりも感心せぬ光景もありますとか、順宮厚子内親王もお酌をなすったとか、戦後急に自由奔放におなりかと存じます。
昭和天皇◆いや、臣籍降下の前からで、秩父宮・東久邇宮稔彦王・朝香宮鳩彦王など、必ずしも若い人たちばかりではないよ。

1952年1月11日
田島長官◆宮殿再建問題は肝心の御住居になりまする方の御意思と別個に計画設計いたしますることは無意味でありますので、陛下の御思召を拝しますること必要でありまする。
昭和天皇◆①宮殿は首都の中央やはり現在の所が良いのではないか。
②御警衛の問題が簡単になるなれば、住居は郊外に離れた方が良い。
③御警衛が難しければ、やはり吹上が良い
④外賓接待等外部との接触場所と住居は近くても構わぬが、截然区別はしてほしい。
⑤東宮御所は青山御所内が良いかもしれん。
⑥宮殿は西洋風よりも、焼けた宮殿のように日本的な物の方が良い」
田島長官◆赤坂離宮を外賓の旅館に。
昭和天皇◆手入れをしなければダメだ。
手入れをすればそれはできる。
田島長官◆宮殿は赤坂離宮のようなバッキンガムやベルサイユの真似をしても本物にはかないませんから。
昭和天皇◆バッキンガムは金の食器等には驚いたが、家そのものは驚かない。
ベルサイユも古い。

1952年2月5日
田島長官◆緒方竹虎が忙しくなり〔元日本専売公社総裁〕入間野武雄を東久邇家に頼むことになりその顔合わせを致しましたが、その席で緒方が「東久邇家経済顧問新木栄吉〔元日本銀行総裁〕と東久邇宮盛厚王とのことを東久邇宮稔彦王に申し上げよ」と申しましたゆえ、盛厚王について忌憚なきことを申し上げましたところ、稔彦王が「私が何か言おうか」とのことでありましたが、今日はそれには及びませぬむね申し上げました。
稔彦王は訴訟をなさったりなすったので宮内庁内にもあまり同情者なく、高輪邸の縁故払下には不同意のような人もありますが、高輪の換地として病院の適地とか常陸宮御殿の候補地とか良き交換となりますことにしても差し支えないので、それから先は大蔵省との話し合いの問題で宮内庁直接に無関係かと存じます。
元皇族中お家の無い方は御一方だけゆえ御安定の方が願わしいと存じております。

1952年2月20日
昭和天皇◆東久邇宮盛厚王がミシンで何か作ると50~60万円も儲かるというのでやっておいでだが、うまく行くといいが。
田島長官◆盛厚王は久邇宮朝融王と違って積極的で自信がありすぎて困ります。
日銀へ入ってすぐ経済問題を論じて日銀で問題になったり、ヌートリアを飼ってみたり、どうも慎重が。
昭和天皇◆あれが陸軍の教育だよ。
勝つか負けるかで独断専行、直ちに処置とか臨機の行動とか言うので、これは陸軍のやり方だよ。

1952年2月26日
田島長官◆勲章につきましては御成年式前に明仁皇太子が大勲位におなりになりますが、まだ問題でありますが。
昭和天皇◆先だって吉田は位階と勲章は研究中だと言ってた。
明仁皇太子が大勲位となると、内親王の宝冠章も問題になる。
田島長官◆さようなりますと、順宮厚子内親王はおもらいになり、孝宮和子内親王は既に御降嫁でナシでは困ります。


田島長官◆陛下の所得税の申告と同時に富裕税もありまして、内廷基金の収入200万円に対し両税で100万円取られますが、新画などは御由緒品とも申せず御私有物件で富裕物の対象となりまするが、これは何とかならぬかとも考えますが、天皇が私人としては国民と同一立場ということを破るのは策を得たものではありませぬために致し方ありませんが。
昭和天皇◆イギリスは?
田島長官◆イギリスはややこしいようでありますが、税金のかかるものは確かにあります。
皇室経済法改正案は両院とも通過済で今年度は3千万円の内廷日となりますが、これは臨時の動きには増額を依頼せぬ建前でありますから、600~700万は予備積立の方針で参る他ありませんが、順宮厚子内親王の御婚儀の費用は用意できております。
臣籍降下の御金は今回の法律改正で700万円まで国庫に請求し得るのでありますが、一昨年の孝宮和子内親王は485万円でありましたけれども、この2年間に田島などの月給も2度上がっておりますることゆえよろしいかと存じますが。
昭和天皇◆よかろう。
岡山に行くゆえ、何かと孝宮とは違う点もあるし、通貨価格の変化に伴うことなれば実質は変わらぬゆえ。
田島長官◆今回ビュイックを2台常陸宮・内親王方に買うことにいたしましたが、将来は御料車等はイギリスのロールスロイスかダイムラーで揃えたいと存じております。
ベンツは装甲車でありますがまだまだ使えますゆえ、漸次年度を追って完成したいつもり。

1952年3月5日
田島長官◆吉田首相に吉田に日本の勲章は如何になるかと聞きましたところ、「独立回復とともに昔のままの勲章を復活する。ただし憲法制定も平和条約締結も一切論功の対象としない。その後の事でする」と申しておりました。
したがって明仁皇太子の大勲位の問題は解決かと存じます。
御成年式の時までには叙勲になりますのではないかと存じます。
内親王宝冠章のことを申し「孝宮和子内親王は既に御降嫁済ゆえちょっと困る」むね申しましたところ、吉田は御降嫁後も内親王の御身位あるのが本当とか申しておりました。
「イギリス流であって日本の皇室典範違反だ」と申しておきました。

1952年3月12日
田島長官「〔元日本銀行総裁〕新木栄吉が参りまして、『東久邇家経済顧問のお役はとうてい務まらぬゆえ御免被りたい』とのことで事情を聞きましたがもっともであり、田島としてもこれ以上引き止められませぬゆえとて、新木の反対を押し切り御議論の上お用いなく、島田とかからミシンをば10万円お買いになり内職をおやりになるということで、陛下のいつかお話のありました問題でございます。
宮様内親王様としてはこの種の仕事をなさらぬの方が良いと存じますが、そのうえ御利益にならぬ懸念があります。
この仕事は特に良くないと存じます。
御成功を祈りますが、この御仕事で御成功になりましてもあまり褒めた事とは存じません。
田島としては顧問推薦せしも結局ダメとなりました以上、式部官長松平康昌に御相談になりましたこともありますので、今回も必ず松平へおいでかとお察しいたします」
照宮成子内親王も盛厚王同様のお考えのこと、日銀でも盛厚王の評判あまりよろしくなきことも申し上ぐ。

1952年3月14日
田島長官◆東久邇宮盛厚王に上りまして、新木の辞職やむを得ぬこと・田島は荒木と同説のこと、入るを斗って出るを制すること・臣籍降下金の国民の血税たる意味のことなどを申し上げ、比較的素直にお聞きになりましたが、洋服新調費などどうしても儲けたいこと・犬を飼って失敗したこと〔犬への投資〕・東久邇宮母堂の眷顧の人の奉仕あり損なきこと・3人お雇いのことなどお話あり、3人も雇えば税金も出ることなど申し上げました。
昭和天皇◆儲けたい儲けたいという考えがどうかと思う。
照宮成子内親王も田島の話を聞いてたか。
田島長官◆照宮成子内親王はおいでになりませんでした。
昭和天皇◆照宮成子内親王もいれば良かった。
とにかく営業みたようになるは悪い。
田島長官◆皇族方は社会と没交渉ゆえ、一知半解の御利口で日銀のことなどいろいろ批評されても、ご身分に敬意を表して相槌を打つのを賛同感心とお取りになれば、よほど馬鹿ということになる。
どうも盛厚王は御利口のおつもりでございますが。

1952年3月19日
田島長官「盛厚王が照宮成子内親王御同道で新木をお訪ね下さいまして、新木が改めて繰り返して申しましたところ、とても静かにお聞きになってお帰りになりましたとのことでありました」
昭和天皇「趣味ですることなれば実は儲けることでもいいという立場で、趣味でなく儲けたいというような事はどうも」と、従来照宮成子内親王をお利口とのみ御言いになっていた陛下としては、多少御観察をお変えになり御懸念の御様子に拝す。

1952年3月26日
田島長官◆御用掛高木多都雄〔女性〕が訪ねて参りまして良子皇后の御服装の話がありましたゆえ、従来陛下の和装の御話・宮中服の御話などもしておきました。
高木は宮中服はあまり悪くない意見らしくございますが、従来の経緯を詳細話しておきました。
すなわち現状では宮中服を規則の上でお止めとも申さず、和装も洋装もご自由という事を申しておきました。
和装は100万円を御用意いたしましたが、洋装は一つ80万円もかかるというようなことで、これは御新調の用意はございませぬ。
高木はなかなか意見がありまして、京都御所を宮殿再建に移築するとかいうようなことを申しましたような次第でいろいろ申しておりましたが、海軍大将山本英輔の喜寿に際してという本に、山本が戦時中 高木によって良子皇后に申し上げそして陛下にと考えたことが書いてありましたゆえ、今は陛下も政治に御関係なき世で、ああいうことはないようにと高木に申しておきました。
昭和天皇◆山本はとてもダメで、自分が首相になろうというので話にならない。
田島長官◆ああいう神がかりのおかしな人ですが、大将になるまではあんなではありませんでしたでございましょうか。
昭和天皇◆大将になるぐらいの人ではあったらしいが、それもかろうじて大将という程度の者であったようだ。

1952年3月27日
昭和天皇◆田島は御用掛高木多都雄は考えが足らんというように言ってたが、実は良子は高木と女官長保科武子は信用してる。
それから若いけれども女官道木菊重もいいようだが、女官雪井良子と女官小倉満子はどうもいかんと言う。
私は小倉はさほどには思わぬが、雪井はおしゃべりでどうかと思うが。
いかんと言って辞めた場合に世間に出ていろんなことをおしゃべりするという事も困るから、出すとは言わんが。
田島長官◆高木のことでございますが、考えが足らぬというのではなく、高木は女官ではなく御通訳と御召物の御用掛で、仕事の系統上の責任はなく批評家のような立場で物を言い、若い時から相当進歩した考えの人らしく、そのうえ三井という金持ちの娘〔財閥三井高景の娘〕でありまするゆえ、大宮御所を東京宮殿に移築の意見などもしますような勇敢な所があると存じまするだけで、それならばこそ山本大将の取次などの点はちょっと釘を刺しましたが、そういう点以外は意見もあり見識もありむしろ結構と存じております。
他の女官のことは就任4年近くなりますので耳に入ることなどを総合しまして、雪井はどうも面白くないと存じます。
また小倉もやはり甘く、あまり良くないかと存じますが、陛下から拝命直後以来松平定信は大奥に手をつけて失敗したという仰せを伺っておりますので、容易には手は下しませぬつもりでございます。
将来の女官は相当学識あり、できれば語学もできるというような、ただし宮廷の空気に合うような人が望ましいので、更迭も機運の回った時を待たねばならぬと存じております。

1952年5月4日
田島長官◆例の不心得者の事件は親の身元も確かで勤務ぶりもよろしく、無口でありましたそうですが誰もそんな事とは気づきませなんだそうですが、昨日煙突に登りましたことは共産党と連絡ある者といたしますれば真に変なことかと存じます。
水や卵を持って上がりました他に、風呂敷包みにラジオを持参しましたりしたいろいろな記録を持っておりました様子でありますが、共産党のためにそういうことを続けて宮中のことを探りまする方が普通と考えられまするのに、煙突へ登りますれば捕まえられることは必定であり、捕まえられました時に持ち物を警察に取られてしまいますることはどういうつもりなのかわかりません。
ただ今のところこの者一人かあるいは共犯の者がおりまするかが重要事で、専らその点を調べております。

田島長官◆〔煙突事件の責任を取って辞めねばならぬ場合〕
宮内庁長官後任の件、元東宮大夫穂積重遠が外形的適格の条件を具備しておりますが、肝心の所がダメなのと同様、親類関係でありますが元大蔵大臣渋沢敬三など常識あり視野も広く適格者と見られますが、穂積同様宮内庁長官として的確のように見えて不適格と思うむね吉田首相に申して参りました。
池田成彬も渋沢を相当人物と思い国のために広い所へ出し人物に仕立てようと、第一銀行から日本銀行へと世話したと存じますが、日本銀行総裁の末頃にはやはり少しメガネと違うと申しておりましたようでございます。
目先も早く2~3歩先を見るような利口ではありますが、正しいことをしっかり意思強くという点はいかがかと存じます。
むしろ現在よりちょっと先を見て機会をつかむ人のようで、新官僚と組んで致しました跡を顧みましても、信を措く人柄とはちょっと思えません。
昭和天皇◆陸軍大臣の阿部信行がそうだ。
陸軍には稀な常識円満な人だが、意思が弱い。
田島長官◆海軍大臣の米内光政は実に立派な人でしたが、消極的で弱いという点も少しはあったように思われます。
昭和天皇◆米内は結論を口少なにちょっと言うだけで、それも理論を言わずに結論だけ言うから、ちょっとみなにわからぬという節があった。
田島長官◆実は吉田首相が「アメリカ大使に渋沢がよいではないかという話もあるのですが、いけませんかなー」と申しましたゆえそのことを申しましたところ、
「実は私も幣原内閣の同僚で少し知ってますが、あまり好きではない。外務省の予算を削減するというので大いに争い少し高飛車に出たところ、すぐ全額外務省の通りにしたことがある」との話をしました。
主張すべき事ならどこまでも主張するという所がないように思いまする。
吉田首相は渋沢栄一の孫ということでアメリカにおいては信用になるという点も考慮しているようでありました。
いずれにしましてもアメリカ大使の定まらぬことは不手際であり、吉田首相も「いい人はないかしら」と聞きますゆえ、
「第一条件は」と聞きましたらば、
経済上の問題が多いようでその道の人で本省の訓令を仰がず処理できる人というようなことを申しておりましたが、外国勤務は交際費等が要りますので尻込みする人があると聞きましたので、
「それは首相の機密費の内からでも賄うことにして」と申しましたら、
「それはしますが、なかなか」というような話で、
「元貿易庁長官向井忠晴などよろしいではないか」と申しましたところ、
「人はよく知ってていいに違いないが、健康が許さん」と申しておりました。
元外務大臣有田八郎などはよろしいと存じますが、吉田首相は「三国同盟の人だから」と申しておりましたが、防共協定の責任者で今日防共ということは悪いことでないと存じますが。
昭和天皇◆有田は立派の人で意思も強い人だが、理屈だおれするという点で内大臣木戸幸一とはどうも良くなかった。
木戸は外務大臣重光葵とはいいので、重光を通じて有田と連絡していたようだった。
田島長官◆木戸と申しますれば、今日初めて家族以外の者との面会が許されまして、数日前第1回に式部官長松平康昌が木戸夫人と共に面接いたしましたそうでございますが、刑務所の次長室とかで面会しました由。

1952年8月27日
昭和天皇◆吉田が私の住居を昭和28年度に計上したいと言ってたから、終戦後衣食住いずれも不足したところ食から衣とだんだん安定してきたが住はまだ安定しない。
それなのに私の住居を作るということはどうかと思うし、これは田島によく考えてもらいたい。
田島長官◆既に申し上げました通り、御文庫の湿気の問題で東宮侍医佐藤久の弟 建築衛生学者佐藤鑑が専門の調査が近く終わりまする由で、その結果不衛生ということになりますれば何とかお願いをしなければならぬと思っておりまするが、吉田首相がそういうことを申し上げまするのは〔元議員〕松本学などの宮殿再建論者と政治的に何か必要があるのかもしれません。
昭和天皇◆私もそういう何か政治上吉田が言い出したのと思うが、私には何とも言わなかったゆえよく考えてくれ。
松本らは満足するかもしれぬが、戦争犠牲者恩給問題とか巣鴨戦犯問題とかもあって、それを聞いて不満を感じる人もそれ以上かと思う。

1952年9月8日
田島長官◆御住居の問題でありますが、建築衛生学博士佐藤鑑調査の結果は、温度は比較的一定でよろしいようでございますが、湿度が相当高いためによろしくないそうで、やはり田島といたしましては御健康上の理由でなんらかの改造または増築等を考えさせていただかねばなりませぬと存じます。
昭和天皇◆政府には衛生の見地からと申したところで、世間一般にには天皇の住居が増築改築されるということゆえ、人は経過などわからず外見の事柄から批評するものゆえ、よほど注意を要する。
戦後7年で復興なったと考える人があると共に、自分の境遇が必ずしも順調でない人は不平不満を持つは人情であり、具体的に案を聞かねば何とも言えぬが、吹上で平面的に拡張されることは困る。

植物移植のためと拝察するも、非常に強硬な御意見なり。
田島長官「第一は地下の設備をすること、第二は屋上木造増築、第三は元奥御殿跡に横に平面的にということになります」
昭和天皇「第四に元奥御殿跡に新築ということも考えられる」
吹上に建築が増えることは非常におイヤの御様子に拝す。

1952年9月13日
田島長官◆皇室経済会議は全員出席で、順宮厚子内親王の一時金700万円は満場一致で決定いたしました。
また1,500万円の基本財産の額は終戦直後の勘定と計算でありまして、今日としてはインフレの結果75,000円の戦前の値しかなく、それも7方分であることの不合理も申しておきました。
大蔵大臣池田勇人もメキシコの大統領邸の立派なことを申し、宮殿建築のことを申しておりました。
宮内庁の仕事はいずれからも必ず批難されますが、昨年の節子皇太后〔貞明皇后〕御大喪につきましても、御粗末という説と御贅沢という説とありましたが、中間適当のことゆえ両方の批難もさほど強烈でありませんでした。

1952年9月15日
昭和天皇「東宮ちゃんが旧法によって大勲位をもらうならば、順宮厚子内親王も宝冠章をもらうといいと思う。しかしそうなれば孝宮和子内親王もなければ困る。照宮成子内親王ももらってるのだから」
田島長官「そのことは一度吉田首相とも話し合ったことがありまするが、孝宮和子内親王は遡ってということになりましていかがかと存じまする。また清宮貴子内親王の時は新栄典法によりまして宝冠章はなくなりなするが」
それはその時とのような御旨に拝す。

昭和天皇◆御文庫は建坪は相当広いのだが部屋が少なくていかぬため自然建て増しとなるが、上へ建て増す案がいけなければ、平面的に建て増しとなると、地面をあまり取らぬために二階建てとしたらばどうか。
それでも具合悪しければ、常陸宮御殿の前の所へ作ってはどうか。
私はむしろこれが良いかと思う。
田島長官◆奥御殿跡に新築となりますれば将来の宮殿計画との関連を一串して考えまする必要もありまするし、那須の御用邸程度の物を調度まで入れて坪いくらかざっと調べてもらいましたが、33万5千円と申しておりました。
これは木造でも鉄筋でもあまり差はないとのことでございました。

1952年9月16日
昭和天皇「御文庫改造をやめて旧奥御殿跡に建てた場合、御文庫を研究所にするとか言ってたが、標本など湿気が多かったらダメだ」
拝察するに吹上の地面の狭くなるのを大いに忌まれるあまり、従来の経緯に構わず心中旧奥御殿跡を御希望になっておられるらしく、その結果仮想的にちょっと触れた御研究所の移転をかく重く仰せになる。
そもそも先憂後楽の御素志を形の上で判断せられること困ると仰せの陛下とすれば、少しく一貫せざるやに拝せらる。
吹上園内に平面的拡張をイヤがられる結果、ちょっと行き過ぎてかく御発言かと思う。

1952年9月22日
田島長官◆国体へおいでの時 できれば宮城・山形へもおいでになりたいむね拝承いたしておりましたが、例年と違いまして順宮厚子内親王御慶事・明仁皇太子の成年式・立太子礼など特別の行事がありまして、侍従職の負担が重くなりまするので福島のみとしてお許しを得ましたが、高松宮から「家来の都合で天皇のおいでを左右するのはおかしい」との仰せで。
昭和天皇◆良子など松島を知らないのだよ。
私は行ったが、外国人と話をする時には松島を知らぬではおかしい。

1952年9月23日
昭和天皇「侍従連直の話を良子とも話したのだが、良子は『連直は女官が始終やってる。男でそんなことできないことはない』と言ってた」
田島長官「宮内庁はよその役所と違い、役所と御家庭の両面ありますので難しいのであります。連宿の場合、侍従にしても女官にしても食事の問題など気の毒だと存じます。戦前は給食であったやに聞きまするが、ただいまは自弁でありまして困るようであります。侍従長とも相談し何とか改良いたしたいと存じますが、一般職員の方では組合のようなものもあり、不公平という声も起りましょうし、なかなか難しゅうございます」
昭和天皇「それは政府や人事院がもっと宮内庁の実際を知ってくれればいいのだよ。侍従だって多いと言うが実際見れば多くはない。今度のような時は困ってしまう。女官でも連直は考えものということも、大宮御所〔貞明皇后の宮邸〕のように住み込むような組織は井の中の蛙大海を知らずという言葉通りになる弊害があるし、住み込む制度でなければまた連直等の問題が起きるし、一利一害難しいものだ」
全体として良子皇后の女官に対する平素の御気持と同じような空気の御話にて、御徳とは感ぜず時を見て申し上げる要ありと思う。

1952年09月30日
昭和天皇「皇室会議は元のような純粋な親族会議にするといいと思うがねー。皇族の数も少なくなったし、選挙というもおかしいし、ことに良子などみな子供で同じことだし。昔は私が議長で皇族は全部、それに枢密院議長と大審院長が入るので、あの方が良かったよ。良子の言うことももっともだ」
良子皇后の御意見の内容はわからぬも、良子皇后としては御子様は選挙できず、三殿下〔秩父宮・高松宮・三笠宮〕を入れる他ないというような意味に拝す。
田島長官「ただいまとしては皇太子妃の決定が大問題でありまするが」
昭和天皇「皇室令の制定だねー。それに臣籍降下」
田島長官「順宮厚子内親王の場合臣籍降下は当然でありまして、ただお金の問題だけ経済会議にかかります」
昭和天皇「昔は皇族全部。もっとも女はいなかったが、今は女も入れねばならぬが入れても少ない。枢密院議長はなくなったから衆参両院議長も入れなければならぬかもしれぬが、親族会議のようにしたい」

1952年10月16日
昭和天皇◆順宮厚子内親王の結婚式に比べると、今度の皇太子の式典〔立太子の礼〕の方はなんだか温かみがないようだねー。
田島長官◆国事となりますると御血縁の方も御出席願えぬというような点多少変でありまするが、国事という建て前は取った方がよろしいと存じましてそうなりました以上、今日の場合やむを得ませぬと存じます。

1952年11月4日
田島長官◆立太子の礼もだんだん近づきまして、鷹司信輔夫妻〔孝宮和子内親王の舅姑〕・池田宣政夫妻〔順宮厚子内親王の舅姑〕のことを承りましたが、これは御召になりますのか、あるいは何か賜物でよろしいのでございましょうか。
昭和天皇◆私は東宮ちゃんの兄弟みな揃うという日に、その二夫婦も入れたらいいではないかと思ってる。
田島長官◆今の御話でありますと、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の夫の両親は揃ってるのに、照宮成子内親王東久邇成子の東久邇宮稔彦王&東久邇宮聡子妃はなぜお招きないかということになりはいたしますまいか。
昭和天皇◆それは菊栄親睦会に招いてあるからと言えば、照宮成子内親王はわかると思う。

昭和天皇◆皇室会議の選挙の問題だがねー。
あれは私は選挙による皇族をやめるより、もっと皇族はその会議には一人も出ず、宮内庁長官が説明役として一人で出る。
その他に民間にあるような親類会議というものを作って、それには親類に当たれば臣下も入れる。
その議をもって長官が説明役ながら会議へ出るというのはどうか。
ふたたてにして。

1952年11月5日
昭和天皇◆私は牡蠣が好きで、常陸宮も好きで、先年二人は大いに食べて〔食中毒〕やったことがあるが、そのとき牡蠣を食べなかった良子も少しやられた。
牡蠣に付着しがちなものは他にも付着しがちゆえ。

1952年11月27日
昭和天皇◆昨夜常陸宮から聞いたのだが、友達連中と話し合ってるとアイゼンハワー大統領を恨んでる声があるとのことだ。
ちょうどあの年頃の人が朝鮮へ駆り出されて血を流さなければならぬというわけで恨んでるという話を聞いて、そんなことあるものかと言ってはおいたが、大統領李承晩の挑日的傾向や北朝鮮が万が一にでも統一でもあるということがあれば、日本の国防というものを本当に考えてどういうことが起きぬとも限らぬ。
若い者に本当に祖国防衛というような気持ちが全然なく、ただぼんやり戦争に行くようになることを何でも嫌というようなことはどういうものかと思う。
西洋にはキリスト教的な思想というものがあって、神のために正義のためにというような社会上の目安があるが、今日の日本は国民に共同の信念というものがない。
忠君愛国というものを利用して行き過ぎをやったのが日本の過去の失敗だが、忠君愛国そのものの適当の範囲ならばそれは悪いことではない。
行き過ぎが悪いのだ。
平和とか民主とか自由とかいう美名で祖国の防衛も忘れ、放縦を自由と思い民主主義と言って得手勝手を言う今日の有様は、私は実にどうかと思う。
美名に隠れて本質がなく、弊害が名前のみの実なき行き過ぎと言うか何と言うか、真に心配に堪えぬ。
田島長官◆行き過ぎにならぬ程度に教育勅語のようなものがある方がよろしいとのことで、元文部大臣天野貞祐なども考えました次第ですが、上からの天降りはいかんと言うので攻撃されてやめましたが。
昭和天皇◆私は弊害ない程度で教育勅語のようなものはあったほうがいいと思う。

1952年12月8日
田島長官◆内廷費の御倹約の問題も時勢の変化につれましてさほど心配な見通しはなくなりましたので、必要な物のためには適当に御支出結構と存じ、良子皇后の御和装のための費用に関連して、もし女官連も備品として必要な程度は整える覚悟で侍従職と話しております。
一時の共産党の勢いではどういう予算になるかとも思いましたが、衆議院では共産党員ゼロとなり、立太子礼に不参の参議院共産党議員が記念の御盃は頂戴したいと申し出ておりますし、雅楽に岩間正男ら参議院共産党議員二人来まして、皇室でなくてはこういう文化を保存されないと申しました由。
世の中一般の情勢が終戦直後とは漸次変化して参っております。
昭和天皇◆その共産党の態度は果たして真実であろうか。
何かためにするところあってそんな風に出てるのではないか。
田島長官◆それは共産党はなかなか周到でありますからなんらかためにするところあるかもしれませぬが、素直に取ってよろしいかとも存じております。
少なくも共産党がこんな態度なれば他の政党等が騒ぐようなことには確かに影響がよろしいので、傾向としてはやはりいいと申していいかと存じます。

田島長官◆1,500万円の内廷固定資産もインフレ前の通貨で計算しましたものゆえ、今日では非常に実質的少額となり、これを大切に保持するという考え方は議会および世論の空気の変化上つまらぬことでありまして、むしろ適当に独立後の象徴として必要な物に消費しまして、どうしても足らねば要求する方が良いかと考えるに至りました。
昭和天皇◆それもそうだが一方には戦災者が社会的にうまくいっていないし、犠牲者の困窮あることも念頭を去ってはいかぬ。
田島長官◆新聞記者と年末の会合をいたしましたが、連中の空気もだいぶ違っておりまして、実に終戦後とは隔世の感と申しておりました。
テレビなども日本に600台もあるとのことでありますゆえ、皇室に1台あっても少しも贅沢ではないくらいに考えております。

1952年12月18日
田島長官◆明仁皇太子御誕辰拝賀のことでありますが、新嘗祭の時明仁皇太子が殿上で御拝になります時、宮様〔高松宮か三笠宮〕から「前例はあるのか」との御尋ねがありまして、「あります」と申し上げましたが、その御質問の裏には宮様方はモーニングで拝礼かと思っておいでであったかと想像されますから、「本来は宮様方も御装束をおつけ願うのであります」と申し上げましたが、「それは嫌だ」との仰せもありました。
それから御神楽の時明仁皇太子御拝の時に臣下は起立いたしますが、もちろん宮様方はおかけのままであります。
これは親王として御同等とのお考えもあるかと存じまするゆえ、御誕辰拝賀となりますると宮様方の御誕辰にも明仁皇太子が賀にお出かけになるべきかという問題もあり、真に難しくデリケートでありますため、御思召を拝したいと存じまして。
昭和天皇◆それはなかなかデリケートだが、皇太子の身位は未来の天皇で、私には叔父甥でも公には一段高いのだから行かぬでもよいと思う。

田島長官◆明仁皇太子御渡欧の予算を政府に提出しまするのは会計の規定がなかなか難しく、昔と違って内廷もお貧乏でございまして1,500万円の基礎勘定も2内親王様の持分はお分けになり、節子皇太后〔貞明皇后〕の分は税金の残りは癩病へ御寄付になり減少いたしましたが、幸い投資の株の値上がりのために株の一部を売りますれば1千万円ぐらいできて、残りは最初の基金以上あるかと存じますゆえ、内廷基金から1千万円の御支出をお許し願いたいと存じます。
明仁皇太子のお土産だけでも1万ドルぐらいは御入用かと存じますがこれで360万円、あと670万円は旅費の不足額補充の覚悟がいるかと存じます。
昭和天皇◆株を売るのを何を売るか知らぬが、その売られた株の会社が迷惑することはないか。
田島長官◆その点は絶対にございませぬ。
内廷会計というような名前を出しての所有の形式ではありませぬので、株式投資の金銭信託の形で信託会社が株式を持っておりますゆえ、その点の御心配は絶対にありませぬ。

田島長官◆御住居改造のことでございますが、昭和28年度予算に付け替えてもらいますためには27日が査定とか申しておりまして急ぎますので、方針だけお決めを願いたいと存じます。
御文庫の改造案は4案ありまして、A案は御文庫屋上に御座所など両陛下の御住居を造る案でありますが、立案当時970万円でありましたが今は3,200万円となっております。
みなと相談の結果あまり賛成者がありません。
次にB案C案は陛下があまりお好みになりませぬと存じますが、御座所のお隣の物置の所から。
昭和天皇◆いや、あれは物置ではないよ。
呉竹寮からいざと言ってきた時、また常陸宮御殿のことも考えてそのための部屋であったが、今は物置になったのだ。
田島長官◆その辺の所から廊下で出まして御座所・御寝室等160坪を建てる案でありまして、B案は鉄筋で5,800万円、C案は木造防火建築で1,000万円安く4,800万円の予算であります。
我々としても一番よろしいと感じましたのはD案で、湿度温度の欠点除去の地下の機械的設備をいたしますることと、ここに侍従候所その正反対のところに女官候所を作りまして、ただいまの侍従候所女官候所は物置としてホールを少しきれいに致しますればよろしいのではないかと存じます。
女嬬らは昔はお近くにはいなかったとも存じますので、ただいまの洗濯所の方と御文庫との中間は植物等もあまりありませぬ所ゆえ、あそこへそういう平屋建てを増築いたしまして、御文庫内に余裕をつくりたいと存じます。
当直の侍従女官の寝室も別になっておりませぬ実状ゆえ、この寝室を作りまして候所を少しきれいにして、葉山や那須のように陛下もおいでになり得ると存じます。
陛下からお話がありました常陸宮御殿の前に新規に考えてみる案も作成いたしましたが、あの土地へ新規に作ります以上3億円4億円となりまして、将来表宮殿のできました時にも一応これでよろしいという奥宮殿となりますゆえ、これはただいま時期でないようにも存じ上げます。
昭和天皇◆戦争犠牲者のこともありまだまだ困った人の多い世の中にそんなものを作っては皇室に対する国民の感じというものが非常に悪くなる。
D案でよろしい、D案が一番よろしい。

1952年12月19日
昭和天皇◆今度増築する場所は植物の方にはあまり関係ない所に相違ないが、工事をするために吹上の地面を使用するに違いない。
それはなるべく少なく使用するように考えてもらいたい。
若干はどうしても入用で、そのため植物の移植ということになると思う。
それは時期もあり移植の場所の関係もあるから、事前に私に知らせて欲しい。

1952年12月24日
田島長官◆昭和26年度内廷会計検査の結果を申し上げます。
昭和26年度は節子皇太后〔貞明皇后〕の崩御という思わざることがありまして、必要なものが生じましたり不要なものが出ましたり、結局国庫よりの2,900万円の内廷費の他30万円の利子収入を予算しておりましたが、これが10万円多くなりまして、歳入2,940万円に対し歳出は2,580万円で済みましたゆえ360万円の超過となりましたが、性質上次年度へ繰越または次年度歳入繰入のもの・順宮厚子内親王の御婚儀関係費・明仁皇太子の立太子の礼の費用等170万円ありまするため、純粋の余りは190万円でありましてこれは内廷基金へ繰り入ることになりました。
次に内廷基金でありますが、終戦後御8方分として1,500万円の基金でありましたが、本年3月31日現在時価と致しますれば株券で1,085万円・社債1,500万円・他に現金200万円で2,700万円となっております。
この内には常陸宮御一家創立のための積立等も入っておりますが、ただいまは株価の騰貴がありますので1千万円明仁皇太子御洋行のため支出いたしましても1,500万円には関係ございませんので、この前申し上げましたように売却により1千万円得たいと存じております。

田島長官◆御文庫改造の2,500万円の経費を昭和28年度予算として計上してもらうよう大蔵省と話し合い中でありますが、政府のどういう都合か存じませんが、大蔵省事務当局としてはむしろ昭和27年度予備費でやってくれとの話でありまするが。
昭和天皇◆植物の移植はその頃の方がいいものもあるから、6月頃起工する方が良いとも必ずしも言えぬが、芽を出してない植物等やはりこの期間は難しい。
3月には良子の誕辰その他で在京の要があり、東宮ちゃんの壮行会とかそんなものもあり出発だから、ちょっと難しい。
女嬬の部屋を建てる所は植物はまずないが、今度工事をする仕事場はどれぐらいの坪数が要るか。
その範囲はなるべく小さくして欲しいし、植物の点は早く準備が要る。
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