◆122代 明治天皇(祐宮睦仁親王)121代孝明天皇の子
1852-1912 59歳没

*身長167センチ

*西洋医学嫌いで、東洋医学の治療しか受けなかった。

*持病の糖尿病から尿毒症を発症し、心不全で死亡。


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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

明治天皇のおひる〔お目覚め〕は午前8時でございました。
侍医頭と当番侍医の拝診が終ると、隣室に宿直した権典侍と権掌侍の手によって、朝の御洗顔のお湯などが御格子の間に運ばれ、御洗顔の後 熱いしぼりタオルで上半身をお拭きになります。
白羽二重の御寝巻着に白縮緬の帯のまま御食堂へ。
御朝食が始まると一の膳・二の膳と前日御覧に入れた通りの品々も並べられますが、いつもパンと牛乳入のコーヒーで軽い御食事をお取りになります。
その後しばらく御座所で、お好きな刀剣類などを眺めておくつろぎになります。
また時計をことのほか愛でておいでになりましたので、置時計・柱時計・懐中時計など形や音が様々な物を集めて、お楽しそうに御覧になってもおりました。
10時半には軍服をお召しになって出御、御学問所で政務を御覧遊ばし、12時半に入御、フロックコートにお召し替えになって美子皇后と御一緒の御部屋で御食事を遊ばしました。
御食事が終れば午後2時、御座所で上奏物を御覧になったり、御歌などをお詠みになります。
毎週木曜日には夕方まで勲章に添えて賜る勲記に御直筆の御署名をお書きになっておりました。
私たちは「木曜のおテーブル」と呼んでいましたが、明治天皇が御署名遊ばすのはこのテーブルの前にお立ちになったままでした。
お墨は古梅園特性の金色の紅花墨で、そろそろとすりますので一時間ぐらいかかりました。
御夕食は午後7時からで、だいぶ品数も多く、いつも20種類以上のように思いました。
明治天皇はどちらかと言えば濃厚な方をお好みになりましたので、同じ魚を差し上げるにしても、つけ焼とか煮つけで、美子皇后は塩焼きやお刺身、またはからすみといった物がお好きでございました。
御夕食後は蝋管の蓄音機で『北白川宮台湾入』とか『大塔の宮』などという琵琶歌をよくお聞きになって、時には御自分で口ずさんでおいでになることもございました。
お慰みと言ってもレコードで琵琶歌をお聴きになるくらいのもので、今のようにラジオやテレビなどができていたらならば、どんなに御満足であったかと残念に思います。
御湯殿・御厠は明治天皇のは御所に、美子皇后のは御休所にございました。
御湯は別の場所でほどよく沸かしたものを八瀬童子が御手桶で運びまして、たくさん重ねて積んでございます。
「お湯を」と仰せ出られますと、それを浴槽に入れるだけは命婦がやります。
燭を持って先に立つのは年配の掌侍で、明治天皇の御湯の御世話は権典侍が、美子皇后は掌侍二人と命婦が御世話申し上げ、御厠の時にも二人ずつおつき申し上げます。
ちょっと書き添えますと、明治両陛下とも御厠がお済みになりますと、仕人が新しい箱を持って来てお取替え致します。
引出になっていてシッカリと蓋ができ、下行道と呼ばれるところを通って行きますので誰の目にも触れません。
御健康のバロメーターなのですから、そのたびごとに侍医寮に差し出します。
明治天皇は毎日午後11時半に御格子〔御就寝〕になります。
日露戦争までは午後10時半でございましたそうですが、戦争中は夜中にもたびたび上奏がございましたので、遅くなるのが御習慣になったとか承りました。

明治天皇は一言にして言えば、沈着・豪胆とでも申し上げるのでございましょうか、滅多なことにはお驚きにならない。
しかしまた一面細心で、どうしてそこまで御存知なのかと思うほど、よくお気のつくこともございました。

明治天皇は御幼少時分はずいぶん御苦労を遊ばされ、また一位の局〔生母中山慶子〕も実に厳しいおしつけを申し上げましたそうです。
御成婚後美子皇后にお子様がおできにならないので権典侍をお召しになることになった時も、
「天皇様だと言って御時分の御勝手ばかり遊ばしてはいけません。こういうことは本人も得心の上、これとお定めになった人以外を召されることは断じてございませんように」とくれぐれも御忠告申し上げたと承りました。

御政務上となるとなかなかおやかましくまた誠に強情で、お気に入らぬことはあくまでもお許しがなく、御得心の行くまで御下問になるので、幾度か上奏しても御裁可がなくて困ったこともあると耳にしました。
しかし一度こうとお決めになったら最後、未練がましいことなど絶対に御口に遊ばさしません。

この明治天皇をお驚かせた事件は、伊藤博文公爵がハルビン駅頭で撃たれたとの突然の上奏でございました。
さすがの明治天皇も「ううん、伊藤が殺されたか」と、ただ一言深いため息をおつきになりました。
そして数日後「日本に連れて来られてから、ただ一人『爺や、爺や』と伊藤ばかりを頼りにしていた朝鮮の坊ちゃん〔李垠王〕はさぞ心細いだろう。かわいそうにね。いわば人質だから、このあいだ東宮さん〔大正天皇〕が来た時『これから仲良く可愛がってあげなさい』と言っておいたけれど」と、おいたわりの御言葉をお漏らしになりました。

明治天皇は御体格も立派であったし、落ち着きはらって堂々とした御態度は、外国使節などからも尊敬されておいでになりました。
けれど外人との御交際はあまりお好みにはならないようで、
「秋の観菊会は、大演習の留守中に皇后さんだけで済ましてもらうよ」などと仰せになっておりました。
1911年の秋は福岡県下で大演習が行われましたが、そこからお帰りになったある日の御食事中、
「わしは京都で生まれたからあの静かさが好きだ。死んでからも京都に行くことに決めたよ。今日侍従長徳大寺実則を呼んでその話を始めたら、
『そんな話はまあまあ』などとなかなか聞かなかったけれど、
『人間どうせ誰でも一度は死ぬものだ。あの皇太子〔大正天皇〕では危ないから、何もかもわしが定めておくのだ』と無理矢理聞かせたが、大演習の帰りに汽車の窓から眺めたら御陵にちょうどいい場所が京都にあって、少し離れて小さめの山と二つ並んでいる。小さい方は皇后さんが入るのだよ」と御話になっているのを御配膳しながら承りました。
それが桃山両御陵でございます。
「今は何でも外国使節が出て来るが、東京の式だけは仕方がないとしても、それが済んだら後は日本人ばかり、ことにわしのことをよく考えてくれた人を主として京都で昔風の葬儀をするのだ。もし外人が送ると言っても、名古屋から帰ってもらうんだよ」などと細々の物語を遊ばしました。

6月には例年〈お梅ほり〉というものが行われました。
赤坂離宮や霞が関離宮などの梅林から梅の実が集められて参ります。
どれぐらいあったものか、相当たくさんのものでございました。
御庭にはもう判任女官が集まってお待ちしております。
これを〈御隙見〉といって、障子屏風の切った所から明治両陛下が御覧になるのです。
命婦たちが御庭に向かって梅をみな勢いよく投げます。
それを判任女官が我先にと争って拾うのですが、拾った人は隠し芸の踊りや手品をやって御覧に入れます。
民謡などを上手に歌う人もあり、詩吟・剣舞などなどなかなか立派にやりますので、私たち一同はやんやと拍手を致します。
明治両陛下も面白そうにお笑いになったりして、これもまたお慰みの一つでございましょう。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

明治天皇は表御座所に狆を一匹飼っておいでになったが、その狆があたり構わず糞をするので、明治天皇の御機嫌奉伺に来た人たちがうっかり踏みつけるので困ったということを聞いた。

大正になってから、私は何かの用で主馬寮に行った。
そのとき普通の鞍よりもやや小さい鞍が目にとまった。
古参の仕人が、「明治天皇は非常にお酒がお好きだった。女官もお酒の御相手をした。明治天皇は酔った女官を馬に乗せて引き回してお楽しみになったんだ。あの鞍は女官たちが乗った鞍なんだよ」

1912年7月19日の夜のことであった。
いつもは灯りを消して静寂に溶け合っている宮内省官房の中が、その夜に限って明るく電灯が輝き、騒がしく人々が動き回っている様子であった。
しかし私たちは何があったのだろうと思っただけで、そのまま詰所に帰って寝室で寝てしまった。
翌朝、意外にも明治天皇が御大患であるという。
昨夜宮内省から松方侯爵に通知があって、直ちに自動車で宮内省にゆかれたということを聞いた。
松方正義侯爵の運転手の男から、
その時「国家の重大事だからたとえ人を轢き殺してもかまわない。全速力で宮城へ行ってくれ!」と言ったので、とにかくめくら滅法スピードを出して走り、三田の松方邸からわずか数分で宮内省に着いたと聞いた。

その日から重臣や高官たちがそれぞれ憂いを顔にたたえて続々参内してきたが、確かその日に明治天皇の御不例が号外で発表になったと記憶している。
参内して来た高官たちの接待は私たち仕人の役目であるが、この時の忙しさは目の回るほどであった。
もちろん非番の時でも休むことはできず、一日中立ったままで寝ることもできなかった。
ちょうど真夏の暑い頃なので、大膳職が用意した氷やらサイダーやら麦茶やらを私たちが注いで回ったのである。
明治天皇が崩御になり、御大葬が行われ、すべてが終わった夜、私たちは初めて寝ることができたが、仕人たちのうちで翌日起きることができた者はわずか三人きりだった。
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■妻  昭憲皇太后 一条忠香公爵の娘一条美子
1849-1914 64歳没

*お妃候補時代、明治天皇は昭憲皇太后を将棋に誘う。
その勝負ぶりに感銘したことが、皇后と決める決め手の一つとなった。

*明治天皇は昭憲皇太后を「天狗さん」と呼んでいた。

*昭憲皇太后はヘビースモーカーで、常にキセルを手放さずに喫っていた。


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昭憲皇太后は贅沢なものではなくありふれた銀のキセルを使っていたが、味が変わるのを嫌い常に2本のキセルに刻み煙草を詰めて交互に喫っていた。

明治天皇は宮中で使用の煙草を一日3~4本喫っていた。
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坊城俊良 大正天皇・昭和天皇に仕えた侍従 

昭憲皇太后はいかなる場合にもお取り乱しなどなく、冷静・聡明・国体の本義・天皇の御位置の大切な事理を明白にあそばされた。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

御歌所の寄人が大正天皇の御歌に朱筆で添削して御覧に入れたということを指して、
昭憲皇太后は「たいへんな世の中になったものだ」とおっしゃった。
以前は天皇の御歌を寄人がお直しすることはなかったのだそうである。
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梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子 明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉

明治天皇は美子皇后のことを「天狗さん」と仰せになった。
呼ぶ時、「天狗さん」とお呼び遊ばす。
御鼻がお高くあらしゃったからです。

大正天皇は昭憲皇太后のことを御大事に遊ばして、御自分さんのおみ足がお悪いのに、御自分さん後ろ向きに御階段の御下にお下がり遊ばして、御手々をお持ち遊ばして、
「お危のうございますよ、お危のうございますよ」と仰せになって、お労り遊ばすんですよ。
昭憲皇太后は御涙をためて「恐れ入ります」と言わしゃって、ほんとにお美しいですね。

昭憲皇太后がおかくれ遊ばすまでの期間は、そんなにお長くないですよ。
一年も御畳〔床につく〕にならしゃいましたかね。
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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

夜 明治天皇が御格子を仰せ出されると、「ごきげんよう」と御挨拶遊ばした美子皇后は掌侍二人を従えて御休所へお引き上げになって、すっかり御化粧も落し、おぐしをとかし〈おとき下げ〉に遊ばし、白羽二重の御寝巻着に緋縮緬の細い御帯で、白羽二重の御夜具の揃った寝台の上で御格子になります。
御寝台には明治両陛下とも、冬は牡丹の地紋白緞子の御緞張を、夏は〈絹もじ〉の御蚊帳をかけました。
御蚊帳の〈しず〉は、明治天皇は白・美子皇后は緋縮緬でした。
掌侍も同じ着物に白羽二重の掻取を着たまま、やはり同じ白い布団で、一人は御寝台のすぐ下へ、一人は命婦と共に次の御部屋で休みます。
朝は午前7時半に御側の掌侍が「ごきげんよう」と御挨拶申し上げると、おひる〔お目覚め〕になるのです。
宿直した方の掌侍が次の御部屋の御掃除を済まし、御化粧道具を揃えておきます。
美子皇后は御化粧着の御掻取を召して、その前にお座りになり、命婦の運んだ御湯で御洗顔、と言っても大きなタライでほとんど上半身お洗いになります。
御化粧の御手伝はその朝出勤した掌侍が、おぐしを上げたり御寝具を干したりは宿直の二人が御世話申し上げます。
御化粧がお済みになると、その場で朝の御食事を遊ばします。
やはり明治天皇と同様に一の膳・二の膳が上るのですが、召し上るのはパンと牛乳入のコーヒーだけ。
御食後には御腰湯を遊ばして、御洋服にお召し替えの後、御所においでになるのです。
御褥〔座布団〕もお用いになりますが、御所の方では明治天皇だけしか御褥をお使いになりません。

美子皇后は御身体は小作りで誠に御華奢でございましたが、これという御病気も遊ばさず、面長の白い御顔に張りのいい御目、きりっと締まった御口元、御鼻は少し高すぎますが、何の非の打ち所もない御綺麗な方でございました。
もうお年を召されていましたが、お化粧がお済みになった時などは「まあ、なんとお美しい」と見とれたものでございます。
御靴下を召されるとき御側にいる掌侍の肩にちょっと御手をおかけになるのですが、私の肩におかけになって、
「三千子は細くて折れそう」とお笑いになるので、
「美子皇后の御力などでは絶対に折れません」と申し上げると、
「これでも?」と御力を入れてお押さえになったりして、時には御冗談も遊ばしました。

和歌の御上手なことは誰も知る通りで、一日に幾首となくお詠みになります。
御記憶のいいことも驚くばかりで、滅多においでにならない書庫の御本でも、幾段目の右から何番目にあるから持って来てほしいなどとおっしゃるし、日本歴史などもほとんど暗記しておいでになったようです。
お琴の名手でもあられましたが、御自分だけのお遊びは一切お避けになりましたので伺うことができませんでした。

私の出た時分はもう美子皇后も御歳を召しておりましたので御乗馬は遊ばしませんでしたが、元はずいぶん御稽古遊ばしたそうで、女官もほとんど皆が馬に乗れました。
御内庭にも御馬見所という御茶屋があって、御昼食を召されることもありました。
今ならばテント張りに椅子というところでしょうが、組み立てればできるようになっている合印が付いているというは言うものの、御覧になっているところで建てるのですから、全部女官がやるのでございます。
洋装と言っても今とは違って裾は長うございますし、それを紐ではしょって、どんどんと働く姿は知らぬ人からはとても想像もつかない珍妙なものでございましたでしょう。
それが一時間とは経たぬ間に出来上がって、20~30種の御料理まで全部運び終わってしまいます。
こんな時でもなければ美子皇后はめったに御庭にさえお出にならない窮屈な御生活でございましたので、御食事後は明治天皇が美子皇后に「花でも摘んでおいでなさい」と仰せられるので、小さい籠を下げて美子皇后の御供をしてタンポポ・スミレなどを探し回りました。

沼津御用邸で美子皇后は男女がふざけながら波打ち際を歩いているのを御目にとめられ、
「あれはどういう人だろう?」との御言葉に、
「わかりませんが、女は芸者だろうと存じます」と申し上げますと、
「芸者とは何をする人?」と仰せられるので、
「酒宴の席などでいろいろと世話をする女でございます」
「歩くとチラチラ赤い物が見えるけれど、やはり着物の裏が赤いの?」
「あれは長襦袢と申しまして、着物の下に着ております。ペチコートのようなものでございます」
美子皇后は普通一般の人の着る日本服は一度もお召しになったことがないので、下々の着物のことは少しも御存知ございませんでした。
その時分 拝謁に出るほどの高官夫人は和服なら袿袴・洋服なら中礼服と決まっておりましたので、あの女の姿は大変珍しいものと御覧になったらしゅうございます。

美子皇后は御幼少の頃からの御内定で特別の御教育をお受けになり、御歳も若くて始めから皇后におなりになりましたので、御責任も重くすべて控えめがちの御性質も手伝って、何事も御言葉としてでるまではずいぶんよくお考えになる御様子でございました。
大勢いる女官たちにも少しの分け隔てもなく、いつも微笑んでおいでになって御言葉は少なく、こちらから伺わなければあれこれとあまり御指図遊ばしませんが、女官たちの気質もみなよく御存知のようでございました。
美子皇后は女官を名指しで召す場合には、「新樹」とか「早蕨」とか仰せられましたが、誰でもよい時には「どなたか」と大変御丁寧なので、その訳を伺いましたら、
「今は皇后となり女官となったけれど、元を言えば同じ公卿の娘だから」と仰せられました。

私が出仕した時は大変手不足の時でございましたので、先輩たちからゆっくり指導を受ける暇もなく、まごまごしておりました。
すると誰もいない時に、
「わからぬことがあったら、他に人のいない時なら何でも教えてあげるよ」とお優しい御言葉をいただきました。
「●●からはこう教わり、■■からはこう習いましたが」と伺うと、
「人によって少しやり方が違うけれど、私に対して悪いようにと思う人はいない。皆これが良いと思いながらしているのですから黙っています。しかし都合を聞いてくれるのなら、こちらの方が私は好きなのだ」とおっしゃり、ちっとも無駄口は仰せられません。
どちらかといえば冷静で、学者肌のようにお見受け申しました。
あの御聡明な美子皇后に御世嗣の皇子がお生まれにならなかったことはかえすがえすも残念なことで、もし皇太子でもおよろこびになっていたら、あるいはそのために日本の歴史の一部に変更がなどと、儚い夢もふと浮かんでまいります。
昔は男系ということのみに囚われて、腹は借り物などと母性をあまりにも軽く見ていたのではないでしょうか。

美子皇后にお子様がおできにならなかったので権典侍はいましたが、美子皇后に対しての御愛情は深く、何かとお心遣いを遊ばされ、ちょっと御風邪気味で美子皇后が御所においでにならないと、すぐ御見舞の御使が来るという有り様でした。
美子皇后は一度肺炎を遊ばされましたので、侍医が御心配申し上げて冬になると御避寒を願うので、暖かい海岸においでになりました。
やはりなんとなくお寂しいのか、この御留守中はとかく明治天皇の御機嫌が良くないので、側近者はみな困りました。
「皇后さんは弱いからわしより早く死なれては大変だ。一日でもよいから後に残ってもらわなければね。先に死なれては皆がわしを一人にしておいてはくれまいし、今時気に入るような女はないよ」と仰せになっていました。

元来 権典侍は蔭の人なのでお遊びの時以外には美子皇后の行啓の御供はできないことになっておりましたのを、日清戦争の時は大本営が広島に移されて長い長い御滞在なので、美子皇后が特別のお計いで権典侍に御供するように仰せられたのだそうです。

毎年冬だけは侍医の勧めで海岸においでになりましたが、御転地先からは御使をもっていろいろその土地の珍しい御菓子とか産物を明治天皇に御献上になります。
明治天皇の方からも終始御使が出ました。
御転地中も一週間に一度は必ず御両方から御使が出るので、どちら様でもそのお便りをお待ちかねのようでございました。
ある時などは御自分でお見立ての御人形を御使として名前までおつけになり、御手箱の内には帛紗半衿などの小物・小裂などをお入れになって、美子皇后のお慰めにとお贈りになりました。
後にこの御人形のうちの「鶴子さん」というのを美子皇后からいただいて、可愛がっていたことがございます。

明治両陛下ともずいぶん汗をお召しになるようでしたが、夏は特にお嫌いではないらしく、どちらにもおいでになりません。
〔避暑はしない〕
ただ美子皇后は雷が大変お嫌いでございましたので、すこしでも鳴り出すと御座文庫の上にじっとおうつむきになって、風炉先屏風を囲って小さくなっておいでになります。
すると明治天皇がお隣りからお覗きになって、
「ああ天狗さん、小さく片づいているな」などと御冗談をおっしゃいますが、
「誰か御側に来ておあげ」との御沙汰で掌侍が伺っておりました。

明治天皇の御側にはいつも御愛犬〈六号〉雄と〈花号〉雌のうち一つが交代で来ておりました。
六ちゃんは小さな狆で、朝お目覚めの時から出御までと午後7時頃から御格子までお膝元におりました。
これは毛のフサフサとしたおもちゃのようで、可愛いというだけの犬でした。
花ちゃんの方はなかなかの利口者で、意思表示をはっきりやるのでこの方が御秘蔵のようにお見受け致しました。
花ちゃんはどんなに好きな食い物を目の前に置かれても人が与えないうちは決して口をつけなかったのは、やはり躾というものでしょうか。
三時になると美子皇后からおやつの御菓子をいただく習慣だったのですが、御歌などお考えになって忘れてお出でになると、御側につききりでおねだりしておりました。

明治天皇がどこへお出でになった時お出迎えの用意をするのですが、二重橋におかかりになるころ儀仗兵の吹く「君が代」のラッパがかすかに御内儀までも聞こえてまいります。
すると御愛犬〈花〉がこれを素早く出御道まで駆け出し、一番にお迎え申し上げます。
明治天皇がお渡しになった御手袋を口にしてちぎれるばかりに尾を振りながら、いそいそとして美子皇后にお渡し申し上げるのが例でございました。
明治天皇御崩御後は美子皇太后のお膝元で御寵愛を受けることになって、その可愛い仕草はただ一つの美子皇太后のお笑いの種でもあり、お慰めになっておりました。

1912年の夏、その時まで日頃と何のお変りもないように御機嫌良く御夕食を済ませられ、まだ食卓からお離れにならないうち急に何かお苦しそうな御様子を遊ばしましたので、皆々驚き慌てながらすぐお隣の常の御座所に大騒ぎでお横たえ申しましたが、その時はもう何もかもしかとはお分かりにならない御様子でございました。
侍医の拝診によれば、尿毒症で御脳もおかされておいでになるとのことです。

その混乱の最中に、時の宮内大臣渡辺千秋が美子皇后へ拝謁を願い出ました。
進み出た渡辺宮相は「今日は重大な御相談に上りましたので、お人払いを願います」と言上しました。
これを聞いた女官長高倉寿子は「御女性のことでございますから、御一方様には致しかねます。女官長の私が承って悪いような御話なら、美子皇后にも申し上げてはなりません。誰が何と言っても私は御同席申し上げます」と言い切りました。
そして「他の皆様は一時御遠慮申し上げて下さい」と言われたので、私たちは別室に下がっておりました。
青山胤通と三浦勤之助の両博士が即時御用掛を拝命いたし、さっそく拝診に出る運びとなりました。
しかしあの烈しい御気性の明治天皇のことでございますから、お許しを受けずに両博士が拝診してもし万一お気づきになってはと、恐ろしくて宮内大臣せすら踏み切れなかったのを、
「私が全部責任を持つから、早く申し上げるように」と美子皇后の御決断でそのことが決まりましたとか。

この年の暑さはまた大変なもので、御病室に幾つとなく並べた大きな花氷もどんどん溶けてしまいまます。
1~2時間で新しく替えなければなりません。
しかし一人ではできませんので、誰彼の別なく相棒を見つけて頼みました。
あるとき侍従清水谷実英と一緒に運びましたが、ずいぶんよく太った方なので重い物など運ぶのは不得手らしく、私が先に行けば後ろに引かれ、私が後に行けば押しても押しても歩いてくださらないので、
「氷のことでございますから、もう少しサッサと歩いて下さい。どんどん溶けてしまいますから」と、つい大声を出しました。
詰所にいたある侍従武官が「親父のような人を叱りつけて怖い女官さんだ」と評判したとやら、後から聞かされて苦笑したものでございます。

御発病以来しかとはお気がつかれないでこんこんとお眠りの方が多いようでございましたが、時には御目をお開けになって御側の美子皇后に、「なぜ、そうわしの顔ばかり心配そうに見ている」などと仰せられたり、「あの青竹の杖をついて草履をはいて、13日には行こうね」との御声を伺って、言いようのないやるせない気持ちになるばかりでございました。
今こんなことにおなりになるなら、あんなに御希望だった京都への行幸をなぜ一年早くお進めできなかったのでございましょうか。

元来明治天皇は写真嫌いでおいでになったので、本当の御写真というのはごくお若い御成婚時の時のものぐらいで、めったにお写しになりませんでした。
1911年秋の陸軍大演習御統監のとき供奉していた主馬頭藤波言忠子爵の勧めで、地図を御覧の明治天皇を横からお写し申したのが御近影でございました。
「もうし万一お気づきになってお叱りを受ければ、私が切腹して見せる」とまで藤波子爵が言ったので、ようやくお写ししたのだそうでございます。
藤波子爵は崩御後の御顔もぜひ写したいと美子皇后に熱心にお願い申し上げました。
「あの立派な明治天皇の御顔を永久に拝見できなくなるのは誠に残念でございますから。曲げてお許しを」
「藤波の気持ちは十分わかっておりますが、あんなにお嫌いであった写真をたとえ崩御になったとはいえ、思召に添わぬことをするのは私として不本意だから」とお許しにならないので、
さすがの藤波子爵も諦めましたが、「惜しいな、惜しいな」と繰り返しておりました。

主馬頭藤波言忠子爵は小さい時から明治天皇の御相手として始終御側にお付き申し上げていたので、後日までも男子禁制の御内儀にさえ自由に出入りを許されていまして、あまりお気に入らぬようなことでも遠慮なく申し上げたり、物語に聞く大久保彦左衛門のような存在でございました。
明治天皇が少し御風邪気味のある日、つかつかと御前に出た藤波子爵が、
「御上だって生きている人間ですぜ。御病気の時には医者の言うことをお聞きにならなきゃ駄目です。なあ、御上。なあ、御上」と御返事のあるまで繰り返しているので、さすがの明治天皇も「うん」と仰せになりましたが、藤波子爵が退出してから、
「あれはうるさい親父だが、わしは子供の時いたずらしてよく御蔵に入れられたのだ。その時さすがの一位〔明治天皇の生母中山慶子〈一位の局〉〕もわし一人を入れて置くわけにもいかず、いつもあれが御供で一緒に入れられたのだからね」と御述懐になったこともございます。
「習字が嫌いで仕方ないのだけど、『これだけ遊ばさないうちは御食事は差し上げません』と一位がそばで見張っているので、食事は早く欲しいし書くのはイヤなので、一位がちょっと向こうを向いた隙に大急ぎで墨を塗ってどんどんまくってしまった。あの時分は真っ黒な草紙だったのでかえって都合が良かったよ」などと大声でお笑いになりました。

明治天皇の崩御の時、女官全部が一人一人美子皇后に御挨拶申し上げました時は、
「本当に恐れ入った御事で」とはっきりお答えになって涙さえ見せになりませんでしたが、数時間後御召替のために御休所へ御供いたしました時、
「私の悲しいのが誰よりも一番でしょう。しかし私が泣き崩れていては、後のことがどうなると思いますか」と仰せになって、ハンカチーフを御顔にお当てになりました。
常日頃から御言葉の少ない美子皇后が、ひとしお無口におなりになったようにお見受け申し上げました。

大正天皇は議会に行幸の時、御手元にあった勅語の紙をくるくる巻いて会場をお眺めになったとやらは有名な話になってしまいましたが、姑〔元女官山川操〕と共に叔父山川健次郎男爵の宅に参りました節にも、実際に拝見した健次郎が姑と話し合っているのを聞きました。
しかもこんなことまで美子皇太后の御耳に入っておりましたのですから、明治天皇崩御後はなかなか御心配が絶えませんでしたろうと存じます。

1913年8月31日は諒闇が明けてからの初の天長節でございます。
しかし8月はあまりにも暑い最中なので二カ月遅れた10月31日が天長節祝日と定められ、花電車も青山御所前を通るという話。
美子皇太后にも日の暮れぐれにでも御車寄までおひろい願って、美しく灯の入った花電車を御覧に入れようということになりました。
美子皇太后はこんなに近くで電車を御覧になるのは初めてのことで、ちょっと御興味もあるらしく拝しました。
御門の向こう側の道路にも多勢集まってきて、十重二十重に人垣を作って見物しております。
そのうち見物していた誰が「わあ、来た、来た」と大声を出しましたので見てみますと、高砂の尉と姥や松竹梅の幕に覆われました鶴亀などおめでたい人形や作り物を乗せた電車が色さまざまな電燈に輝いて華やかな美しさ。
美子皇太后も大変御満足で、「本当にきれいだった」と繰り返し繰り返し仰せになっておりました。

1913年11月、美子皇太后は、また沼津御用邸にお出でになりました。
地方への供奉は服装などあまり派手にならぬようにとの注意は受けておりましたが、前年中は明治天皇の諒闇中のこととてみな喪服姿の真っ黒でございましたから、今年こそはと晴ればれした気持ちで、薄紫色のワンピースに白薔薇を飾った大きなボンネット、胸には真珠入りクローバーのブローチ、ハイヒール姿も颯爽と、いささか得意顔で白い手袋の内には新調したダイヤの指輪も光っております。

1914年3月26日〔沼津御用邸〕
美子皇太后は東京より御訪問の東伏見宮夫妻と御対面、御機嫌良くいろいろと御物語りなど遊ばし、東伏見宮夫妻御退出後お楽しそうに御昼食におつきになりました。
いつもよりゆるゆると御食事をお済しになり、突然お苦しそうな表情を遊ばしました。
「いかが遊ばされましたか」と伺っても、御言葉はございません。
急を知った女官一同が駆けつけて侍医を呼び出すと同時に御床の上にお横には致しましたものの、今の洋装とは違って御首の回りから御手の先までしっかり肌についた御洋服で、しかもコルセットなども鯨の骨をたくさん入れた強いもので、すこしの隙もありません。
どうにかして早く楽な御姿勢にと心は焦りますが、しかたなく多勢かかって布地を少しずつ持ち上げながらハサミを差し込み御洋服を小さく切り取って、ようやく御胸の辺りをゆるくして差し上げました。
拝診の結果は狭心症でいらせられました。

わりあい御安静で激しい発作もお起こしにならず、うつらうつらとお休みになったり、時には「だるい、だるい」と仰せられるので御体を撫でて差し上げると、またスヤスヤと御格子になります。
侍医たちから御脳の方はいくぶんお弱くおなりになることもあり得るという説も出ましたので、私たちの内でも「御命さえ取りとめることができれば」と言う人と、「今までの御聡明さが失われてしまうのではかえってお気の毒さまで、拝見しているのもつらい」と言う人などさまざまで、いずれにしても大変な御病気だとみな憂鬱な顔を見合わせておりました。
ある日ふとお眠りからお覚めになりますと、
「私が急いで桃山の明治天皇の御側に行こうとするのに、皆がまだ成らせられてはいけませんと止めるので仕方なく引き返したが、30年後の日本の姿は見たくないものを、早い方がいいね」と仰せられました。

4月8日、「今日は気分があまり良くない」と仰せられるので、
「拝診を申しつけましょうか」と申し上げると、
「なに、大したことではないし、皆もやすんでいるでしょうから、朝になってからでよい」との御言葉に、
「さようでございますか」と申しながら、そっと御体を撫でておりましたが、一時間ばかりすぎますと、
「もう何時?夜が明けるといつも気分が良くなるように思うのだけれど」と。
「御心持を安らかによく御格子になりますと、もうすぐ明けます」などとお答えしておりましたが、おさすりしている手にビクビクと夢中でお動きになるのが伝わっておいおい激しくなります。
お次ぎの部屋に詰めている人たちに合図をしますと、控えていた侍医や女官たちもそっと集まって参りましたが、もうしかと御目には映らない御様子でございます。
だんだんと御顔色も変り、二回目の発作をお起こしになりました。
御病室は暁の空気が冷えびえと冷たいのですが、人工呼吸をあげている侍医たちの額からは玉の汗が流れております。
だが御呼吸は次第しだいに衰えて如何ともせんすべなく、再びお戻しすることはできませんでした。
「長い長い病気で人から飽きられるのはイヤだから、死ぬ時は急病で」とたびたび御話そばしたのですから、さぞかし御満足のことでございましょう。
それがせめてもの慰めでもあり、諦めでもございました。

ある日 美子皇后が「三時知恩院門跡久世成章〔久世具子〕という人があった。あれは三千子の叔母で昔 若菜と一緒に御目見得に出た人でしょう」と仰せられました。
「はい、さようでございます」
「いつまでも若くてきれいね。だけどずいぶん小さい。あの人は歌も上手だし字も立派だったが、いかにも体が小さいので御縁がなかったのね」
「何の芸もない私と違ってたいていのことは致しました。琴も師の〈らく〉が褒めてくれましたとか」
「まあ、あの〈らく〉に習っていたの。〈らく〉も長生きしましたね」
「では、一条様のお姫様に御稽古申し上げたと承りましたのは、美子皇后の御事で」
「ええ、そう。それで叔母はあれからすぐに尼に?」
「いいえ、さる大名の二男に嫁ぎまして子供も二人おりましたが、なんとも堪え切れぬ事情がございまして一人で帰って参り、それから尼になりました」
「まあ、気の毒な。久世は代々 書の家だからか、おじい〔祖父〕は大変立派な字を書く人だったが、このあいだ見たらおでい〔父〕はあまり上手でないようね」
いろいろと心安く御話いただきました。
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★女官長 典侍 高倉寿子〈新樹の局〉
1840-1930 90歳没

*昭憲皇太后の家庭教師で、輿入れの際に一条家からともについてきた女官。
本人は「お清の典侍」(天皇のお手がつかない女官)として、毎夜の明治天皇の夜伽の相手は高倉が決めていた。
明治天皇が身分の低い女官に手をつけて皇子を作らせないための措置であった。


★副女官長 お清の権典侍 姉小路良子〈藤袴の局〉
1857-1926


★側室 権典侍 柳原愛子〈早蕨の局〉公家柳原愛光の娘・大正天皇の生母・明治天皇がつけたあだ名は「ちゃぼ」
1859-1943 84歳没

*男子を産んだことで権典侍から典侍に出世〈二位の局〉となる


★側室 権典侍 園祥子〈小菊の局〉公家園基祥の娘・4人の内親王の生母
1867-1947 79歳没


★側室 権典侍 葉室光子〈梅の局〉公家葉室長順の娘
1853-1873

*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡


★側室 権典侍 千種任子〈花松の局〉公家千種有任の娘
1855-1944

*明治天皇の子を2人産むが、2人とも早逝


★側室 権典侍 橋本夏子〈小桜の局〉女官橋本麗子&公家東坊城夏長の娘 
1856-1873 17歳没

*明治天皇の子を1人産むが、母子ともに死亡


★側室 権典侍 小倉文子〈緋桜の局〉
1861-1929


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久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 明治天皇の女官〈桜木の局〉

権典侍は俗な言葉で言えばお妾さんです。
明治天皇のお身の回りの御世話がその仕事。
お遊びの時はともかくとして、権典侍は公の場所には一切出られないことになっておりました。
明治天皇が御内儀においでになる時は交代で一人は終始御側に詰めています。
宿直も交代で、その当時御寝台のそばで休むのは小倉文子・園祥子の二人きりでした。

そこへ行くと柳原愛子はちょっと中途半端な存在でした。
両典侍と言って高倉寿子とと共に第一位に名を連ねてなかなかの勢力家ではありましたが、若い時は権典侍でしたし、13歳のとき英照皇太后の女官として上がられたのですから、御所内で育ったような人で世間のことは何もわかりませんから、すべては老女〈ふき〉が一任されておりましたようです。
〈ふき〉は若い時から長年勤めておりましたので、東宮様〔大正天皇〕御誕生の時の有り様などよく聞かせてくれました。
「御産所においでになってからもひどいヒステリーで手のつけようがなく、侍女たちはもとより看護婦さえみなお暇を取りましたので、私一人で寝る間もなく御世話申し上げました。御誕生も大変重く、東宮様は仮死状態でお生まれ遊ばしましたが、よくまあ御二方とも只今のように御元気におなり遊ばして」と涙ながらに述懐しておりましたものです。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人

権典侍園祥子は〈小菊の局〉という源氏名をいただいていたが、私が知った頃には顔にホクロの多いお婆さんであった。
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●明宮  嘉仁親王  123代大正天皇

●常宮  昌子内親王 竹田宮恒久王妃
●周宮  房子内親王 北白川宮成久王妃
●富美宮 允子内親王 朝香宮鳩彦王妃
●泰宮  聡子内親王 東久邇宮稔彦王妃


当時4人の内親王と年齢が釣り合う皇族男子は年齢順に、
竹田宮恒久王・北白川宮成久王・有栖川宮栽仁王・朝香宮鳩彦王・東久邇宮稔彦王の5人であったが、有栖川宮栽仁王が早逝したので残りの四人と結婚となった。


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明治天皇の女官〈桜木の局〉久世通章子爵の娘久世三千子→山川黙の妻山川三千子 

当時の皇室は御一家と言っても皆様何もかも別々で、御一緒にお集りになるのは公式の時以外はほとんどなく、嘉仁皇太子〔大正天皇〕さえ毎週土曜日に御一人で御機嫌伺いのため御参内になるくらいのものでした。
明治天皇には表御座所で、美子皇后には御内儀御座所で御対面になって、茶菓だけの御接待をお受けになってすぐ御退出になるというった形式的なものでございました。
昭和天皇もまだ皇孫殿下と申し上げた頃に時々御参内になりましたが、やはり儀礼的な御機嫌伺を遊ばす程度で、あまりお親しさというものはないように感じられました。
ただ美子皇后が沼津などに御転地中は、附属邸においでになっていた皇孫様方がお遊びにおいでになることがございました。
この時ばかりは本当にお親しそうに御話を遊ばしたり、おもちゃなどをお上げになると、皇孫様方がいろいろと工夫してお遊びになるので、美子皇后はその御姿をほほえましく御覧になっておりました。
ある日 皇孫様方で相撲をお取りになっていた時、どうしたはずみか高松宮の御腕が抜けました。
お驚きになった美子皇后はそれ以来、「御相撲だけはイヤでございますよ」と仰せられてお笑いになったおりました。

毎年陸軍の秋季大演習が行われますので、明治天皇はその地方へ行幸になりますから、一週間ほど御留守になります。
この御留守に美子皇后の思召しで、内親王様や皇孫様方を御承知遊ばし、御食事中もいろいろな御物語りに楽しくお過ごしになった日もございました。
ある日 昭憲皇太后のお心遣いで特別にお許しをお受けになった内親王方が御四方おそろいで御参内になりましたが、竹田宮恒久王と北白川宮成久王はお子様をお連れになりました。
竹田宮恒徳王は大変おとなしいい方だったのでなにか物おじしたように静かにかしこまっておいでになったのですが、四歳ぐらいだった北白川宮永久王は「おじじ様」とおっしゃると同時にいきなり明治天皇の御膝に腰をおかけになって、白くフサフサとした長い御髭を引っぱったりしてふざけておいでになりました。
明治天皇もさもお可愛いといった面持ちで、「おかしな子だね」とおつむ〔頭〕を撫でておいでになりました。
「おじじ様、おもちゃありがとう」
「ははは、おもちゃの催促か。何か持ってきてやりなさい」とすこぶる上々の御機嫌でございました。
おそばで昭憲皇太后も、さも御満足そうに微笑んでおいでになりました。
これでこそ本当にお孫様らしいと、なみいる一同も誠にうれしく拝見したものでございます。
あの時分永久王はまだ御幼少でございましたが、御自分も深く印象に残っておいでになったのだろうと存じます。
それは明治天皇崩御後 御真影に御拝においでになった時、
「おじじ様、私を偉い者にしてちょうだい」などとおっしゃって、お慕いになっている御様子を度々拝見しましたが、あの永久王はも太平洋戦争中に御戦死遊ばされて、もはやこの世にはおいでになりません。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1951年5月7日
昭和天皇◆明治天皇御伝記のことだが、明治天皇の時 日清・日露で領土が増えたゆえ何だか侵略的な方のような誤解が世の中にあるゆえ、事実日清戦争決定の時賢所への御奉告を肯んじにならなかったという事実を公表してくれと言ったことがある。
奉告せぬという事柄は明治天皇のなされんとしたことでも私は賛成いたしかねて反対だが、その手段は別として日清戦争の廟議が決まってもそれを奉告すら御躊躇になる平和的な御心持は尊いので、明治天皇の侵略的な誤解を解くにいいことだと思って大臣に言ったが、やはり軍人の勢力を恐れてかそれを書かなかった。
田島長官◆皇居内の山里でよく御馬にお乗りになったようでございます。
昭和天皇◆お若い時はよくお乗りになったようだが、お太りになった。
私の侍医もして明治天皇の侍医もしてた高田寿が、
「お太りになって御脈がよく伺えなかった」と言ってた。
ずいぶんお酒をお飲みになった。
日清戦争奉告を最初おしぶりになった話の公表が先年できなかったのは残念。

1951年5月16日
田島長官◆秩父宮は明治天皇はただお怖い方とお書きになり、節子皇后〔貞明皇后〕も、
「御機嫌伺に出てもウンとか仰せになるきりで、御宴会か何かの時どうかすると御声を伺ったくらいのものだ」との御話でございました。
昭和天皇◆私も明治天皇は何の印象も受けておらぬ。
拝謁に出ても待たされたなどして何の印象もない。
明治天皇のことは成人後に御裏とかいろいろの人の話とかを聞いて御人格を存じ上げたので、直接のことは何もない。
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