◆124代 昭和天皇(迪宮裕仁親王)123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没


■妻  香淳皇后  久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没


※香淳皇后は子供たちを自分の兄妹の子供たちと結婚させたがったが、昭和天皇は遺伝学的見地からイトコとは結婚させなかった。

*香淳皇后の兄久邇宮朝融王は、子の久邇邦昭の妻として順宮厚子内親王・清宮貴子内親王に2回縁談を申し込む

*香淳皇后の妹大谷智子は、子の大谷光紹の妻として孝宮和子内親王・清宮貴子内親王に2回縁談を申し込む


●継宮 明仁親王  125代平成天皇
●義宮 正仁親王  常陸宮

●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚


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田島道治 日記 宮内庁長官

1953年11月13日
池田のキリン舎出荷見舞状。
「動物園産業的ならず、猛獣でなかりしは小難、御一考」かと申し送る。

1953年12月17日
日銀副総裁に会う。
東久邇宮盛厚王は日銀より他へ紹介できず。
日銀はいつまでも給与すとのこと。
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『入江相政日記』侍従長

1953年1月5日
三谷侍従長から、田島長官の意見として、お舟入りには行幸行啓を願わない方針で、その代り稲田侍従次長をお使いにお出しになったらということを聞く。
稲田侍従次長の部屋で、侍従小畑忠もいる所で、そういう時のお使いは意味をなさないということから始まって、根本的になぜお舟入りに行幸になってはいけないのかということを言う。
三谷侍従長が昭和天皇の思召を伺ったら「ぜひ行きたい」と仰せになって、行幸になることになる。
あきれたものである。
帰宅して家族で花合わせ。

1953年1月6日
今日の御服装、モーニングか御背広かでもめた由。
これも田島長官のためにお舟入りが昨日遅くまで決まらなかったためである。
実際、イヤになってしまう。

1953年1月9日
式部の案によれば、昭和両陛下・明仁皇太子その他が御一緒におなりになるのが困るとのこと。
また常陸宮・清宮貴子内親王がごゆっくりおいでになるというようなことはスペースもなし具合が悪いとのことである。
そこで結局原案通りでお許しを得る。
その時にも「どうしてそんなに場所が無いのか。今度のことは田島などの形式にとらわれた考えのために事が窮屈になる。椅子はどんなのでもいい。無ければ立っていてもいい」と仰せられた。
式場から還御になったら、「話がまるで違う。場所はいくらでもある。三谷にも言っておいたが、官房の方に強く厳しく言っておくよう」という仰せだった。
三谷侍従長と稲田侍従次長にこの御沙汰を伝え、「今日の行幸は御通夜でないから10分でよいとか、御永訣に鵠沼に行幸になる必要は無いとか、そういう思召に沿わず人情にもとるような決定を軽々にしないよう田島長官に伝えてくれ」と話す。

1953年1月10日
今朝田島長官が昨日のことでお詫びに出たら、昭和天皇がまたいろいろ仰せられ、さらに小畑侍従に追加して御注意の御沙汰もあった由。
今度は相当効いたろうとのこと。

1953年1月13日
妻子から「なぜ昭和天皇が御葬儀にお出になるようにしない。宮内庁の馬鹿にはあきれる」とさんざんやられる。
これが国民の本当の声であろう。

1953年3月30日〔明仁皇太子外遊へ出発〕
昭和両陛下は横浜御出航の御様子をテレビで御覧になった由。

1953年6月14日
三笠宮妃から電話で「明日戴冠式のニュース映画を御覧ならば、秩父宮妃も御陪覧になりたい」
とのこと。
那須の保科女官長に電話で伺ってもらうように頼む。
那須からの電話で、「それはあまり勝手というもので、いつもお誘いするニュース映画には来ずに、こういう時だけ来るのはいかん」とおっしゃり、
あとからまた「呼んでもいいが、秩父宮家には3時、三笠宮家には4時に知らせろ」とおっしゃった由。
どういうものか困ったことである。

1953年6月22日
昭和天皇は田島長官を御召で、2時間以上も続く。
これは19日に田島長官が「お子様だけでなく、御兄弟や叔母様方ともっとお親しく遊ばしては」と申し上げたことについていろいろ仰せがあり、それを田島長官が熟慮の結果また申し上げたものである。
まだ全面的に釈然と遊ばしたわけではないらしいが、それでも申し上げたことは大変良かったと思う。

1953年6月23日
田島長官に呼ばれて、昨日までの顛末を逐一聞かしてもらう。
なかなかよく申し上げてくれた。
「あなたには前々からのいろいろないきさつもあるからお知らせしておく」とのことだった。

1953年10月27日〔四国巡幸〕
岡山の池田邸〔順宮厚子内親王の嫁ぎ先〕
大変な人出。
動物園のあたりを御供して歩きながら、田島長官から昨夜の谷口氏・伊原木氏との会談の結果を聞く。
池田宣政氏〔順宮厚子内親王の舅〕には弱っているらしいし、動物園をやめさせるということもなかなかできないらしい。
いずれも困ったことである。

1953年11月7日
御文庫御食堂の天井壁の落下を聞く。
驚いたことに7割の面積が落下。
惨憺たる状態。
調査の結果、ホールと化粧間を除きすべて危険ということがわかる。
結局来週より内廷庁舎にお移り願うよりほかなくなる。
実に困ったことである。

1953年11月13日
田島長官から「池田動物園のキリン小屋のボヤの御見舞の機会に、本来の姿に返れという忠告のような手紙を出そうと思うがどう思うか」ということで手紙を見せられる。
大賛成を表する。
三谷侍従長はこれを見て賛否を明らかにしなかった由。
驚いたことだ。
いったい何を考えているのであろう。

1953年11月24日
稲田侍従次長に呼ばれて、鷹司さん〔孝宮和子内親王の夫〕のこと・池田さん〔順宮厚子内親王の夫〕のことについて相談を受ける。
いずれも大したことではないが、困ったことばかりである。

1953年12月12日〔葉山御用邸〕
田島長官参邸、30分拝謁。
御機嫌が悪かったとのこと。
何を申し上げたものか。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1953年1月8日
田島長官◆秩父宮薨去のため多少遅れて参りましたが、明仁皇太子御洋行の予算の点は1億1千万円を今年度予備費で認めてくれ、秩父宮御葬儀に関する700万円も今年度予備金で出すとのことであります。
御文庫の営繕2,500万円も昭和27年度予備費にしてくれとの話でありましたが、これはやめまして昭和28年度予備金にして欲しいとのことでありまして、植物の御移植等には帰ってよろしいかと存じ同意いたしました。
昭和天皇◆それは遅い方が良いが、どうして政府は堂々と予算に組まぬのだろう。
いつも予備費支出をするが。
田島長官◆ごもっともでありまして、大蔵省の意思がどういう点かわかりませぬが、正式予算で議論されますれば衆議院には社会党左派もおりまするし、参議院には共産党員もおりまするゆえ、皇室のために議論されるのを取らぬと考えておるのではないかと想像しておりまする。

1953年1月10日
田島長官◆昨日宮内庁分室〔秩父宮の葬儀〕へ行幸啓になりましたにつき、何か御不満な点がありましたむね伝聞いたしましたが。
昭和天皇◆三番町の式〔秩父宮の葬儀〕の場が狭い狭いと言ってたが、あれなら十分広いので私は驚いたのだよ。
田島長官◆狭いと申し上げましたのは、便殿を御しつらえするだけの余地のない意味で申し上げたと存じます。
昭和天皇◆それは儀式の時の話で、大宮御所でも御命日に参拝の場合は良子は廊下で待ってたこともある。
形式的でなくていい場合は今でもあるから、節子皇太后の時にも隔殿が狭くて御霊前にいたことはあるよ。
田島長官◆それは田島の心得が足りませなんだので、お詫びいたします。
側近の者に粗忽があった訳ではありませぬゆえ、お叱りなきようお願いいたします。

あれだけのスペースがあれば、常陸宮ら御一緒に御通夜的に遊ばしたかりし御希望に反せしため御話ありしか。

1953年1月14日
昭和天皇「服装の問題だがねー。どうもモーニングを着ることが多すぎるように思う。いろいろな場合を全てモーニングに決めてるように思う。ある場合はいいとかまたは背広とか、なんとか考える必要がある。一面フランスなど行われている昼間でも燕尾服を使うということも、信任状捧呈式の時など勲章は佩びる方がいいので、そういう時は燕尾服がいいかと思うし、進んで大礼服というようなものも考えられる」
田島長官「昭和天皇の御思召はモーニングを最上のものとしてモーニング着用を今より少なく遊ばす御趣意でありますか?それともモーニング以上のものを作ってモーニング着用を少なく遊ばす意味でありますか?」と伺いしも、確然と御方向をお決めになっておられる様子なし。

田島長官◆逆コース的な批判も考える必要ありまするのと経費の問題もありますので、モーニングに代る黒背広というようなことも考える必要あるかと存じますが。
昭和天皇◆大礼服となっても今の天皇服を少し工夫すればと思うが。
田島長官◆昭和天皇御一人ならば何でもありませぬが、宮内官がこれに準ずるとなりました場合に自費では不可能で、備品となりますると予算の点がいかがかと存じます。
燕尾服でも同様でありますが。
昭和天皇◆経費の点、宮内官の分も考えねばならぬ。
田島長官◆今日の東京新聞に宮中服の問題がちょっと出ておりましたが、良子皇后がお正月和装でおいでになり今後あらゆる式に和装と考え込んでいた人が、洋装の喪服の知識なしに申しておるのでありますが、これもは自分の知識なき独善論であります。

1953年2月17日
昭和天皇◆宮内庁員を公務員から外すということは良いと思うが、私がいかに政治から離れても、離れた範囲で関連があり、公務員でなくなったために政府がそういうことは一切連絡せぬようになっても困るから、閣僚の一人が連絡するとか連絡の委員会を作るとか連絡局を作るとかいうことは考えねばいかぬ。
田島長官◆公務員から外しても予算も一本の独立ということは、行政整理等のために終始波を受けぬ点はありまするが、公務員である政府の連絡員が実権を取りすぎるということも考えられ、なかなか一利一害でございます。
昨日も半蔵門を一度入りますと御文庫まで何の支えもありませぬ実状でありましたゆえ、南側に垣を作りまして、北側は忍び返しをつけまして、西側はお堀もあるまするゆえ茨線で一応完成しましたのを昨日見分いたしました節、庭園の係斉藤春彦に聞きましても園丁を45人くらい増員してほしいようなことを申しておりましたような次第で、政府の行政整理の度に連座しますのは真に困ることでございます。

1953年2月23日
田島長官◆先日昭和天皇からモーニングの範囲が広すぎる御話がありましたが、今回の明仁皇太子御出発は御旅装ゆえ背広と存じますが、お見送りの服装はどうかという問題であります。
吉田首相は昭和天皇の那須へ行幸の時すらモーニングでありますゆえ。
昭和天皇◆それは背広と決めて、首相がそれ以上のものを着て来ても黙認するさ。
去年の国体にどこかの市長が燕尾服を着てたようなものだ。

1953年2月24日
田島長官◆孝宮和子内親王の御会計状態でありますが、ただいま9,676万円という風に御財産が非常にお増えになっておりまして、1億に近いかと存じます。
赤字もありませぬ。大変結構であります。
昭和天皇◆それはいいねー。

1953年3月10日
田島長官◆この4月靖国神社の大祭でありますが、御親拝等に関する御思召はいかがでございましょう。
昭和天皇◆靖国神社は官幣社であり明治神宮は官幣大社である。
そのうえ祭神から言っても、私としては明治神宮を先にし、これと同等というよりはちょっと低いぐらいにしたい気がする。
田島長官◆今後明治神宮ならびに靖国神社は毎年起きまするゆえ、考え方を統一して御親拝または勅使等のことを戦前とはまた別の角度で再検討いたしたく、よく考えます。
明仁皇太子ハワイお着きになりますれば無名戦士のお墓へは必ずお参りと存じます。

1953年3月12日
田島長官◆内廷会計の昭和27年度補正予算と昭和28年度予算を昨日委員会にかけまして、満場一致で決定いたしました。
明仁皇太子の1千万円と御供に賜ります140万円の他 秩父宮への80万円でありますが、昨年の株の利益の税金170万円もありまして、それだけ補正をいたしまして内廷基金会計より繰入となりました。
今回の明仁皇太子のための1千万円の株処分の利益金に対しましては、税法改正のため税金はございませぬそうであります。
昭和28年度は伊勢御遷宮に要する臨時支出100万円もありまするのと、従来御積立いたしました良子皇后の御和装の特別会計を一般支出にいたしました等で、給与の引き上げもありまして150万円しか予備金を置くことができなくなりました。
良子皇后の毛皮の外套の御要求に対しまして金額を減じて50万円と計上いたしましたが、一国の良子皇后の御召物は場合によりますれば国威に感関しまする場合もありますので、予算の制限下で我慢して安い物を我慢していただきますことはよろしくないと存じますゆえ、そういう特殊の御事情の時は直接田島に仰せありまして、恥ずかしからぬ物をお調え願いたいと存じております。

1953年3月19日
田島長官◆「大谷智子御裏方〔良子皇后の妹〕の御訪問がありましたが、この秋にでも京都行啓あれば東本願寺へ願えるだろうかとのお尋ねゆえ、東といえば西また続いて佛光寺の関係もあり、良子皇后の御親類と申せばお西は節子皇太后の御親類、佛光寺も昭和天皇の叔母ということゆえ、やはり難しくなりましょうと申し上げておきました。

1953年3月26日
昭和天皇「北白川の叔母さん〔北白川宮房子妃〕の娘〔徳川多恵子〕が肺炎の方がどうも悪いらしいとのことを聞いたが、私は心配しているのは北白川の叔母さんは西式健康法か知らんが類似のことがお好きで、正当の医者にかかってるかどうかと思うことだ。竹田の叔母さん〔竹田宮昌子妃〕も全く西式健康法信奉者で、いよいよいけなくおなりになってから医者が拝診してももう手遅れであったことは確かだ」

田島長官◆やっと宮廷の御殿の総合的計画の案なるものができました。
昭和天皇から東宮御所はあまり皇居に遠からぬようにとのことを承りおりましたので、賀陽宮邸・大臣官邸・侍従長官邸の焼け跡はどうかと存じましたがあまり評判良くありませんので、結局大宮御所の焼け跡または現在の所が最適ではなかろうかとの結論であります。
昭和天皇◆それはよかろう。
田島長官◆木造はどうかと存じまするゆえやはり鉄筋コンクリートとなりました場合には、100年後のことも考えますれば結局大宮御所と東宮御所と交代になるかと存じます。
国民の再建の声もありまして、奥御殿跡に洋風の快適な奥御殿、これも100年の後にはお子様と御一緒に御住居願う場合の増築予定まで考えて立案し、パレスは焼けました御殿は日本風で良かったとのことでありますゆえ、構造とか換気とかは西洋構造をとるとしましても、造作はやはり日本風の千草の間の天井式のものと致さねばと存じます。

昭和天皇「皇室は分割とかいう議論もあったが、そういう議論は駄目になったのか!」と非常に御満足な語気て繰り返し仰せあり。

田島長官◆都会の中央には緑樹帯と申しますか、建物なき場所がありますことは必要という立派な議論も立ちまするかと存じますゆえ、皇居はだいたいこのままかと存じます。
昭和天皇◆三笠宮はパレスと住居は別の所にして通勤ということをしきりに言っておられたが、みなのようにどこにも散歩できぬ私には、吹上のような所を一つおいてくれれば実にいいのだ
田島長官◆ただいまの東宮仮御所は坪数は相当ありますけれども、故東伏見周子妃お一人のための御邸でちょっと不用の所もあり、東宮御所としては将来いかがかと存じまするが、続いて常陸宮の一家御創立の際の御殿は国により費用をもらいたいと存じ、皇族には公邸という制度に進みたいと存じまするが、これも青山御所の昭憲皇太后の大宮御所とか皇太子の御殿跡とか以外にはないのでありますが、一部は陸大跡の隣にアパートが建ちまして従来より悪くなりました点もありますが、まず差し当たっては東宮御所御造営後は常磐松に常陸宮においで願うことかと存じます。
常陸宮に皇族公邸の観念を国に認めてもらえば、秩父宮にも公邸・三笠宮にも公邸ということになります。
現に秩父宮妃が東京御住居となりますれば、元秩父宮邸焼け跡に御住居という問題も起きましょうと存じますすし、幸いに旧三笠宮邸跡も残っておりまして結局三笠宮邸も公邸を持つこととなります。
昭和天皇◆沼津御用邸は西邸だけ残してあとはどうかしたらどうだ。
田島長官◆実は葉山の付属邸なども問題と考えておりますし、沼津は全部おやめ願いましてどこかへ。
昭和天皇◆温かい温泉のある所と代えるといいよ
田島長官◆熱海のような繁華に過ぎますより僻遠でもかまいませぬので
昭和天皇◆伊豆白浜辺りがいいよ。那須は夏の温泉・海岸は葉山・そして冬は白浜辺り。
沼津の代りは暖かい土地で温泉のあることが条件で、海岸に近く採取できる所はなおいい。
田島長官◆また宮内庁病院・侍医の一元論の説、宿直医の大家にすぎること、宮内庁病院は宮内庁に特殊の立場さえ持てば一般病院としてよいこと。

田島長官◆天長節について思し召しを伺いたいと存じます。
昭和天皇◆モーニングを夜の会に着るということはいかん。
田島長官◆モーニングと申せばおかしいようございますが、通常服と申しますればフロックコートまたはモーニングでありますゆえ、通常服でよろしいと申せばよろしいかとも存じますが。
昭和天皇◆モーニングは洋服だろう。
そうすれば西洋のやり方とはあまり違う方はどうかねー。
田島長官◆日本の習慣として男子はモーニング・婦人は紋付和装が一般との仰せもありました意味で、一般には夜の結婚宴でもモーニングで行われておりまするが。
昭和天皇◆それは私服ならまた別だ。
田島長官◆それらは結局天長節が24時間の1日に限られまするために起こることでありますゆえ、別に天長節祝日ができますれば別でありまするが、さりとていただいま大礼の饗宴第一日というような式もできませぬゆえ無理を生じます。

1953年3月31日
田島長官◆昨日明仁皇太子御機嫌良く御出発遊ばされましておめでとう存じます。
昭和天皇◆テレビで見た。
とても明瞭で私はあれほどまでに進歩しているとは思っていなかった。
しかし東宮ちゃんばかりでなく、大使連中や吉田の顔なども見えてる方がもっと興味があるのだが。

昭和天皇◆葉山と沼津をやめて東宮ちゃんも希望してるから軽井沢とどこか南伊豆の温泉と採集のできる所と言ったが、軽井沢はやめて葉山の本邸は残し、沼津の代わりに南伊豆の温泉のある所と代える案がいい。

田島長官「案と言うよりも構想と申すべきもので、数年または十数年を要するものもあると存じます」と申し上しところ、
すぐにも御用邸の改善ができるとの御予想でありしか案外の御心持ちらしく、
昭和天皇「十数年もかかることなら飛行機で行くということも考えねばならぬ」

田島長官◆那須のごときも近所の共産党が何か言ってるという事でありますが。
昭和天皇◆どういう事を言うのか。広すぎると言うのか。
田島長官◆どういう事を主張しているか判然といたしませぬが、広すぎるという事かも知れませぬ。

昭和天皇◆田島は東宮御所を子供さんと一緒と言っておったが、果たしてその同居説は行われるか。
東宮ちゃんの時 西園寺公望なども強硬に言ってああなったことで、ヴァイニング夫人から聞かれた時には家が狭いからと言ったほどで、私の本心はもちろん同居を希望するのだが、元侍従次長鈴木一でも元侍従次長木下道雄でも元帝室林野局長官岡本愛祐でも強い西園寺主義の信奉者で、ヴァイニング夫人の時でも今更従来の主義を変更遊ばしては困りますと言うのだから、容易にできるとは思えない。
三笠宮のお子さんが果たしてどういう風におなりかは、注目すべきことだと思う。
私たちのように別居で養育教育されたものに比して、旧皇族では御同居でお育てになった方々の方に問題が多いということも考えてみなければならぬ。
これはやはりお甘やかしになるためではないかと思う。

1953年4月2日
田島長官◆昭和天皇の生物学御研究所は月・木・土でございますか。
昭和天皇◆木・土で月は都合の悪い時の補欠みたようなものだ。
そんなことないが、昔はこれをずいぶん攻撃したものだ。
攻撃する者があるないに関わらず、公のことを第一にする考えであるから、あまりこれにかかわらぬように。

田島長官◆天長節のことでありまするが、昭和天皇が夜の会にモーニングはおかしいと仰せになりましたが、式部官長松平康昌も同じ趣意を強く主張いたしまして、宮廷は燕尾服でなければおかしいと思うとのことで、モーニングなら日本の羽織袴の方がいいと申すほどでありました。

1953年4月10日
昭和天皇◆同居問題だがねー。
あれはみな一致して反対で、侍従長鈴木貫太郎も元侍従次長広幡忠隆も女官がいるからダメだと言うので。
田島長官◆西園寺公望も反対と承りましたが、直接昭和天皇に申し上げましたでしょうか。
昭和天皇◆いや、宮内大臣湯浅倉や広幡を経ての話で間接だ。
間接だが西園寺もその説で決まった。
女官はそんなことはない、御同居で結構だという考えのようだった。
私はむろん賛成で、成年に達するくらいまでは同居で教育する、結婚すればもちろん別居するという考えであったが、みな反対でそうなった。
日本では奉仕の観念とか教育の関連とがどうしても矛盾する面があるためダメということだった。

これは初めて伺う言葉だが、心中簡明で要を得た反対論の真髄と思った。
どうも昭和天皇は同居希望は仰せになりつつも、一面別居の方教育上よろしくにあらずやとの強い疑問を心中に潜在的に御抱持になるものか、この際表れ来るものかと拝察せらる。

昭和天皇◆もし手元で教育ということになると、学校へ対しての父兄は皇太子妃または皇太子が直接学校に当るのか。
将来は天皇・皇后が当たるのか。
田島長官◆それは同居別居とは関係ありませぬので、関係の者が学校へ出ますれば結構と存じます。
昭和天皇◆直接手元で養育すれば父母として子供のことを最もよく知ってるゆえ、学校に対して行くというこが起きてくるのではないか。
田島長官◆そういうことはないと存じますが。
昭和天皇◆家庭教師は置くのだろうなー。
三笠宮がいいモデルだ。
御自分の御意見でああやって教育をしておられるが、三笠宮妃の健康が悪い。
あれは皇族の立場としての仕事の他に、普通の家の母としての仕事を多くやりすぎられるためではないかしら。
三笠宮は私達より長くを節子皇太后のそばにおられたゆえ、高松宮なんかよりワガママなところがあるように思う。
私は節子皇太后とは時々意見が違い、親孝行せぬというようはことにもあるかと思うが、同居が長ければもっと意見が一致するのかもしれぬが、時代の空気にもよるし、内閣官房長官緒方竹虎のような人でも天皇に父母ナシ的な考えといつか聞いていたようなわけで、元来私も希望したことゆえ、子供も同居すれば増築可能という建築方針はいいと思うが、物には一利一害でこの問題も難しい。

1953年4月17日
昭和天皇◆皇族の親族が公の席へ出ることだがねー。
憲法のアメリカ案には一代華族というものがあったのを吉田内閣の時に取ってしまったんだ。
吉田は子というものに愛情がないのかね。
栄典法の時にも国民感情が許せばというようなことを言ってたから、憲法を削った時のいきさつからかもしれない。
大勲位というようなものを認めれば、公の場合も解決するのではないかと思う。
田島長官◆東久邇宮盛厚王は勲一等で大勲位でないということもありましたし、内親王方はいいといたしましても、その夫に当る人まで勲章という訳には参りますまいと思います。
昭和天皇◆いや、それは資格者の夫とすればよい、資格者の夫人の反対の場合ということ。

いろいろ繰り返し御話ありしも、要は元皇族全部ではなく、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王・良子皇后の御近親ということに重点あるらしく、
昭和天皇「一親等だけに限るか」
田島長官「一親等なれば久邇宮朝融王は外れて久邇宮俔子妃のみとなります。叔母様となりすれば北白川宮房子妃等と増えますし、東久邇宮聡子妃となれば東久邇宮稔彦王ともなりまするし、なかなか難しき」旨を申し上ぐ。

田島長官◆御文庫の改造の間 葉山および那須にお出ましを願うということも少し長きに過ぎまするので、盛夏の頃は那須、その前は葉山、中間に御在京の時も相当ありますれば。
昭和天皇◆いや、私は盛夏の頃よりも6月の上旬に那須へ行きたいのだ。
いつも6月10日過ぎに行くが、藤の花もある、つつじも下の方で咲く頃一度行きたいのだ。
いつも八幡の方しか花がない。
もっとも共産党のこととかいうのもあるし。
田島長官◆共産党の問題は御用邸を焼き討ちするというような部分もありましたが。
昭和天皇◆焼き打ちはかなわんねー。
良子は葉山はとても暑いと言うので、良子の健康の問題は考えれば、盛夏の候はやはり那須がいい。
田島長官◆盛夏か6月上旬日かとなりました場合には?
昭和天皇◆それなら6月は来年にしてもいいから盛夏にしてくれ。
桜もひと月遅れだから5月ゆえ一度見たいと思う。
昭和天皇◆今年は5月はダメでございます。

1953年4月20日
昭和天皇◆天皇の親族の問題は保守的な内閣の時に話すがいいか社会党的な方がいいかということだが、吉田は昨年立太子の礼の時はっきり公式に元皇族を打ち切ると言ったし、緒方も節子皇太后の喪儀の時に私が葬列に加わることに不賛成だったので、天皇に父母なしという風に考えるかもしれぬが、社会党の和田博雄〔元農林大臣〕など元侍従次長鈴木一と意見反対で、子供は手元で育てた方がいいという意見だったから、天皇といえども肉親の情は一般人と同じ気持ちの意見かと思われるゆえ、社会党の方が話がわかるのではないか。
田島長官◆人情論のわかりますことはどちらも変わりありませんが、社会党の立場としては皇室または皇室関係のことに特権または優遇のことは致し得ぬと存じまする。
昭和天皇◆皇族は今皇族としての特権は十分ある上に、昔と違って庶民と同じような生活をもなし得るという両方の得な立場にあるということが、元は同じ皇族であった元皇族から見れば、いかにも両方とも持って得をしているという風にに考え、羨ましく思うという心理があるのではあるまいか。
田島長官◆確かにさようなことはあり得ると存じます。
皇族としてのいろいろな特権は元皇族と大きな違いであります上に、平民的な御行動の御自由も十分お持ちであります。
高松宮など地方へお出ましの時は固い御歓迎の席のみでなく日本流宴会などもお好みとの評判もありまするゆえ、そういうお感じはごもっともとも感じられます。
昭和天皇◆一代華族は別として、栄転の一部として公爵・侯爵というものをやるということは考えられぬか。
田島長官◆華族制度の復興とかいうことになりまして、なかなか難しいことではないかと存じますが、勲章はやはり功労ということになり、そこで位階でありますが、これは田島も従来の位階を残すは反対であり、栄典制度審議会の人も全部反対でありましたそうですが、吉田首相一人位階を主張いたしましたそうですが、位階を勲労に関係なく身分上の栄誉として昔の一品とか二品とかいう意味に考えられぬかとも思いますが。華族も大大名のためには旧藩士の子弟でも封建的に一生懸命主家のことを考えてくれる人もありますが、皇族は明治以降では事務官が付せられましても単に役人であり主従関係がなく、この点は大名より悪いのであります。
昔も宮家に仕えた者があったと思いまするが大名ほどの力なく、封建的に宮様のためというものの旧藩主のごときはないかと存じまするが、皇室でもこの点はやや同じで、一般国民が象徴として仰ぐという点は全く別のもので、一般の尊敬は他に例なきことでありますが、これは漠然たる感情だけのもので、具体的に皇室の御為に尽くしたいという制度になりますると宮家とは違わぬことではないかと存じまする。
憲法改正前は皇室のために国家同様の忠誠心を持ったと存じますが、新憲法の世の中となりましては、国家と皇室とは同一の人が重んずるという立場ではなくなり、宮内庁の役人は国の役人となり、吉田首相は人事は昭和天皇の御思召を伺ってやるという内規的なことを申し上げてはありますが法律ではありませんので、首相があえて独断で任命をして昭和天皇の御思召に従わぬ場合がありましても違法とは申されませぬ。
それゆえ田島は制度の上から申せば本当に皇室のためにはかって忠実に致すという人はどうして得られまするかわかりませぬと気づきます次第で、宮内庁に長年勤務して皇室のために尽すを天職とする人が特にあるとも思えませぬ。
多年勤務の人は下級の人にはかなり多くありますが、幹部の人はみな他の役所より転じました者で、皇室の百年にわたる大本とか人事の重要なるものとかを皇室の本位に真剣に考える人の制度というものはない仕組みで、将来のため心配な心持ちがいたします。
昭和天皇◆元外務大臣佐藤尚武などは?
田島長官◆これも参議院議長で政治に関係ありまするし、皇室とは御縁故もあり真に皇室のことを思ってくれてる人で相談相手になる資格もある人と存じまするが、また役所から取りたいと存じましてもなかなか良い人も来てくれませぬ現状でありまして、また来ぬには来ぬ原因もありまする。
昭和天皇◆内大臣と言ってはおかしいが、宮内庁長官の他に政治との連絡として閣僚の一人がなって、国でも皇室の大事には与るということは私はいいと思うのだがねー。
内閣で宮内庁のことを反映させる連絡する閣僚が一人あるのがいいと思うが。
宮内庁にいい人が来ないと言うが、昔の御料局のような大きな収入は望まぬが、収入のある財産と国庫からの予算とを受けて、定員の俸給も自由な別個なものとなればよほどいいかと思う。
公務員でなくしてしまってやっていけば、独立しても余裕も多少あるようになれば非常に良いと思う。

1953年4月22日
昭和天皇「来年の天長節のことだけれども、元は内廷皇族、照宮成子内親王なんかも未成年でも出たが、側近・侍従・侍医・侍従武官・次長までと一緒に食事をしたから、菊栄親睦会をどの範囲にするかしらんが、親族をこういう風にして晩食に呼べばいいではないか」
親族の範囲を元皇族の範囲より近い方々に限りたき御意思のごとく拝せられしゆえ、
田島長官「この方法でありますれば、菊栄親睦会として御召になりまする範囲の方は減らしてはどうかと存じます。例えば賀陽宮恒憲王は御親類関係は比較的お薄いとは申せ、別扱いはいかがかと存じます。昔は側近という観念は侍従職関係に限られましたが、今日では宮内庁の役人は全部側近のつもりで勤務いたしております考え方に変化しつつありますゆえ、この度には側近は不必要で、いつもの菊栄親睦会の通りでよろしいかと存じます。昭和天皇が夜のモーニングはと仰せもあり」と申し上しところ、
「私がモーニングは晩餐におかしいと言ったのは、外部の首相や何かを呼ぶ時のことを言ったので、内輪の内宴的にはモーニングでもいいと思う。高松宮なんか、昔のやり方は内廷皇族や側近のために御不平を言われた」

1953年4月30日
昭和天皇「来年までには栄典法ができるだろうか。栄典法では勲一等というものが出てくるが、これをどうするか考えぬといかんと思う」
田島長官「今回は大勲位とか勲一等とかいうことは廃します」
昭和天皇「それでは一本か」
田島長官「いえ、イギリスなどでナイトとかコマンダーとかいう勲章の名称の変化で等級はありますが、等級を言わず勲章の名前で旭日大綬章とか中綬章とか申すので、その佩用者ということになると存じます」
昭和天皇「結局勲一等に当るものができるわけであり、古い勲章を認めるとすれば、現在の勲一等の内にはあまりそれに値せぬ者もいるけれども、制度として栄典を決めた以上 宮廷でも待遇せねばならぬと思うが」
元皇族の失地回復のごとき観念にて天長節お招きその他をお考えになり、その根底には久邇宮朝融王が良子皇后に不平を仰せになり、また照宮成子内親王も何か仰せにて、なんとか逆コースのことはせねばならぬような御思想傾向にて御話が出ると拝す。
昭和天皇「栄典で勲章が回復して勲一等は何とかなるとすると、公侯爵はどうするか。ずいぶん寂しがってるらしいが、拝謁とかなんとか考えねばならんねー」
田島長官「毎度申し上げますように、少なき御近親の皇族の他はすべて平民ということは無理で、若干の貴族はなければ変とは思いまするが、新憲法とともに貴族が無くなりまりました以上、旧皇族とか旧華族とかを表向きに認めることは無理ではないかと思いますから、逆コース等の世上の論もありまするし、ちょっとすぐどうと言うということはできぬのかと存じます。菊花章が認められ旧大勲位も同等となりますれば、元皇族が公式に国事にもおいでになりうることになりますが、問題の解決にはなりませぬ。盛厚王は桐花章でありますし、鷹司・池田両氏は勲はありませんから、御親族問題の解決は十分考慮する必要があります」

1953年5月11日
昭和天皇◆小泉との話に明仁皇太子妃候補の歳のことも言ってたが、「これは結婚の時期にもよる」ということを言っておいた。
それから「宮内庁長官も婚約御結婚までの間は短いがいいと言っていて、私も短いが良いと思う」と言っておいたが、同時に矛盾であるが皇太子妃となってから皇太子妃のことを修行すればいいという理屈かもしれぬが、それはちょっといかぬゆえ、その準備のためには少し期間が必要だ。
それから婚約中交際するか否かの問題だが、「私の時代はなかった」と言った。
しかしこれはあった方が良いと思う。
田島長官◆それは無論のことでありまして、内親王方でも明治時代と違い、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王は御交際になりました。
昭和天皇◆いや、照宮成子内親王の時と順宮厚子内親王の時と違うのだもの。

1953年5月12日
昭和天皇◆ニューカッスルの問題はなきも、朝鮮人が危ないというので上陸に困ったこともある。期間は6ヶ月でだいたい同じだが、船も軍艦で往復の期間の方が滞在期間より長いので、今度のように往復期間が短縮されれば、同じ期間でも東宮ちゃんはずいぶんいろいろのところへ行ける」

昭和天皇◆東宮ちゃんの結婚話だがねー、婚約と結婚と期間が離れるのはいかんと思うが、同時に皇太子妃となり将来の皇后となればそのための用意というものはどうしても特別にしなければならないが、これも試験勉強みたようなものだが必要だ。
その他にやはり普通の家庭の妻のようなことも必要だから、その点なかなか難しい。
田島長官◆平民の我々でもちょっとした結婚ならば調度品の調整等に半年かそこらはかかりまするゆえ、皇太子妃ということになればそういう物的準備が6ヶ月以内というようなことは考えられませぬ。
1年くらいはかかるかと存じまする。
そのうえ範囲は場合により従来のような皇族とか公卿・大大名の公爵・侯爵とかいう者に限りませねば、新たに皇太子妃に上るということになりますれば、余計特別の御教育が要りまするし、なかなか皇太子妃候補の問題は容易ではありませぬ。
それよりも私どもで候補者数名または十数名を選定いたしまするのが大変でございまして、門地・人物その他の要件がいろいろありまして、どうか良い方をと念じておりまする。
ご結婚は内廷のことかもしれませぬが、皇太子の御身分上内廷だけとも申されませぬかもしれませぬゆえ、賢所大前の儀とは参りませぬが、それらの点も研究せねばなりませぬゆえ、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の御結婚も大切ではありますが、皇室に血統の入りますることゆえ一層重要でありますので大変のことと存じております。
また御母にならせられまする良子皇后の思召はいかがかと存じ、女官長保科武子を経て伺いましたが、特別の御話はなく「優しい人がいい」というような御話がありましたが、昭和天皇の思召はいかがでございましょうか。
昭和天皇◆皇后となる資格を備えなければならず、外国との交際もあり東宮ちゃんは外国語ができるから外国語もできなければいけないし、また普通の家庭の妻としても要素がいるからなかなか難しい。
あまりおとなしくても困る。
物も言わぬような人は気持ちがわからぬし。

1953年5月18日
田島長官◆吉田の逆コースと言われますのは、昨日なども交通規制に違反で平気で飛ばしまするし、つまらぬことには気を用いませぬから。
昭和天皇◆だからワンマンだと言われるのだよ。
田島長官◆ワンマンも結構ですが、つまらぬことでワンマンはつまらぬと思います。
宮内庁の責任者としましては、内廷費および皇族費の増額の問題・三笠宮の御洋行の問題・常陸宮御成年の問題等、政府と篤と協議すべき問題を持っておりますので、皇族費の問題は現に秩父宮妃で迫られておりまするし、三笠宮はどうもいろいろな面から考えましてできるだけ早く御洋行を願った方がよろしいと存じます。
御兄弟中お一人だけ御洋行のないこと、今回は明仁皇太子がお出かけになりましたことなどで、御心持ちの上からもおよろしくない点がありましょうし、また思想その他御行動の上にも多少改めていただきたいためにも、この際どうしても御洋行が一番よろしいとの結論は動きませんので、昨年メーデーの容疑者の貰い下げを遊ばすなどは御軽挙と存じまするし、今年のメーデーに秘書高尾良一がちょっと伺いましても、「外出はするが行き先は言えぬ」とのことであったとかで。
昭和天皇◆三笠宮は万一の時には皇位継承の権件がある方だという御自覚が足らんと思う。洋行は良いと思う。
田島長官◆ただそれにはお付きの人が良い人が見出されねば案が良くても実行できませんので、明仁皇太子の随員首席も苦労いたしましたが、三笠宮の随員も非常に人選が難しいと存じます。
昭和天皇◆東宮ちゃんの場合は何も輔導は要らんが、三笠宮の場合はそうでないから人選は難しい。

少し明仁皇太子偏愛と言うか公平なる御意見とは拝承せざるも要点は三笠宮につき、

田島長官◆明仁皇太子は御教導するだけでありますが、三笠宮には御言動についてお止めしたりお諫めしたりする必要がありますので非常に難しいと存じて、今申した人と今一人従僕でもありませんがそういう風の人と二人は入用かと存じます。
侍従長と式部官長とに相談致しまして、両者のとの意見まず一致したのは元上海総領事日高信六郎でございます。
田島は一度も会ったことのない人でわかりませんでしたので、先日小泉の送別会の節一所に食事をいたしましたが誠によろしい人のように存じました。
昭和天皇も御通訳もいたしましたことゆえ御承知かと存じますがいかがでございましょうか。
昭和天皇◆いい人だよ。
通訳もしたが、大使の時に私もよく話を聞いたが、いいと思う。
田島長官◆小泉参与もいい人だと思うとの話でありましたが、果たして三笠宮に強く御意見を申し上げるというような強さがありまするか如何と存じております。
昭和天皇◆いや、それは南支の大使をしてて、あの軍の力の強いところであれだけやってたから相当やれると思う。
あるいは東宮大夫に適任かもしれぬね。
田島長官◆常陸宮の御成年も2年半の後で一家御創立の問題もありまするが、高松宮・三笠宮とも御直宮は軍人としてお立ちになる制度下で今のようにおなりになりましたのですが、常陸宮の場合は果たしてどういう御職務をなさいますかも問題であり、大学御進級の科もお決め願いませんければならず、ほぼこの方がよろしいかと一応結論を得て、学校での教育責任者であります学習院院長安倍能成の意見を聞く必要もありますので、それらを総合いたしまして昭和天皇のお許しを得たいと存じておりまするわけではありますが、この問題とても政府の了承に関係を持ちませんするし、いずれに致しましても安定政権が望ましく、目下新聞は孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の御結婚をスクープできなかったので残念がり、皇太子妃は何とかしてスクープすると申しておりますそうでありますが、これは内親王方と違い皇室会議の議を経なければなりませず、どうしても政局の判定は望ましいのであります。

1953年5月20日
昭和天皇◆明仁皇太子妃候補の問題が『婦人クラブ』という雑誌に写真入りで出てるよ。
田島長官◆何人ぐらい出ておりますか。
昭和天皇◆さー、はっきりは知らんが10人ぐらいは出てる。
久邇宮〔久邇宮通子女王と久邇宮英子女王姉妹〕なんかも出てるが、あれは大谷のこの前の関係〔良子皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王・順宮厚子内親王を子大谷光紹の妻に望んだが皇室側から断った〕もあり到底ダメな話だ。
こちらの調査の参考になるぐらいではあるが、ああいうものは困る。
田島長官◆各新聞スクープに大熱心で困りますが、さりとてどうすることもできませぬ。
むしろ今度他の婦人雑誌も出ましてかえって興味が薄くなりますかもしれませぬが、宮内庁次長の話では新聞の連中は大変な意気込みとのことであります。

1953年5月25日
昭和天皇◆東京新聞だったかに御文庫の増築という記事が出てたが、修善程度のものだ。
民意もあって政府もよろしいと言ったのだが、ああいう記事が出る。
田島長官◆あれは昭和天皇に累は少しも及んでおりませぬ。
宮内庁が悪く言われているだけのことで、宮内官は悪く言われるのが商売みたようなもので、新聞のああいう一面に偏した事実を十分研究しないで決めてしまって利口ぶった口の利き方をする放言的な評論はいちいち相手になれませぬので、放置し無視するより他ありませぬ。

1953年6月7日
「東宮御教育掛小泉信三〔皇太子外遊随員〕が着英後の手紙が着きまして、一部読ませていただきます」とて大部分読み上ぐ。
あまり御興味深く御聴取のように拝せざりしも、後刻良子皇后の御思召にて女官長より大要聞きたしとのことで、ついに書面を御手元に差し出せしところを見れば、多少御興味ありしか。

「内廷関係の不動産・御府等のことも総ざらえする必要があり、動産・御物・昭和天皇の御私有品も目録と実物とその所在等総ざらえの必要がありますので、実は真っ赤な贋物の狩野派の屏風一双・無落款のもの一双等は処分したいとの申し出でありますが、これは方法を注意すべきで、偽物となっておってもパッと処分すれば宮廷もタケノコ生活かというような無用の誤解なきよう、また偽物はでも御物には違いないのでこれを悪用する恐れなきよう、この2点を注意してご処分のむね申してました」
「よろしい」
「不動産としますれば吹上の覆馬場のごときもただいま使用はなく、修繕を要する点はありますが」
「私としてはあれはむしろ取り払ってもらいたい。植物の場所がそれだけ増えるから。あれは大正天皇のためで今は使わぬし、東宮ちゃんは主馬寮の方の覆馬場があるからあれは要らぬ」

1953年6月17日
田島長官◆暫時二期庁舎に御住居を願いますので、お風呂も少し遠くございますがご不便は?
昭和天皇◆風呂はあまり入らぬからどうでもいいが、贅沢を言えばあろうが、差し当たり別に。

田島長官「戴冠式の天然色の活動写真はいかがでございましたか」と申し上しところ、さほどの御感興でもなき御様子。
田島長官「明瞭でございましたか」
昭和天皇「明瞭は明瞭だが、果たしてあの色が実物通りかどうかは、実物を見ぬから分からぬ」
田島長官「秩父宮妃はテレビを3回もご覧になりましたそうで、儀式的な一部の他は全部見えて1時間40分とかかかりますと承りましたが」
昭和天皇「それはテレビと言っても写したのだから結局映画だろう」
さほど御覧になりたき御様子にも拝せず。
田島長官「明仁皇太子のイギリスの御行事が無事お済みになりまして誠に100点と存じまする。オックスフォードの風邪も戴冠式の前にお軽く済みましたうえ御警戒のお役に立ち、また御歓迎ばかりでなくニューカッスルのような程度のものもありましたことは、〔地元イギリス人捕虜団体の抗議により皇太子のニューカッスル訪問が中止になる〕かえっておよろしかったと存じております」
昭和天皇「よかった。しかし読売か何かに書いてあったが、皇太子は順番が下で秩父宮の時は一番だったということを単に言っているが、皇太子でも秩父宮でも個人としてでなく国の反映であるのだから、日本の国力がそれだけ下がったということに感慨無量でなければならぬのに、読売はそこへ来ていないがどういうものか」

1953年6月18日
心中直系皇族だけ重んぜられることはどうかとの念あるゆえ、
田島長官「今夜東久邇宮聡子妃お上りでありますが、最近御病気を遊ばしましたことゆえ、何かお見舞い遊ばすならば結構と存じます」
昭和天皇「時期が大切」

1953年6月19日
昭和天皇◆叔母様方〔北白川宮房子妃と東久邇宮聡子妃〕に何かあげたらということは良子とも相談したが、それがはあげたほうがよかろうとのことだから、盆に照宮成子内親王・孝宮和子内親王・順宮厚子内親王と久邇俔子妃〔良子皇后の母〕に差し上げるように1万円だか言ってるが、あれより多いのはどうかと思う。
二親等だからね。
田島長官◆昨日申し上げましたのはそういう定期的なことでなく、御病気でおありになりましたことからの考えでございますが。
昭和天皇◆それは貴重な薬を差し上げたから、それだけお金が要らなかったわけだから、御病気のために費用といえばダブる。
田島長官◆田島はお薬を差し上げられましたことを一向に存じませず申し上げましたが、そういうことでございますれば、この際をおやめで結構と存じます。
田島は平素考えておりますることは、皇室では我々平民とは違って叔父叔母とか御兄弟とかは比較的お遠いようでありますが、平民社会のように、直系皇族のみでなく傍系にも親しく遊ばしていただく方がよろしいのではないかと思っております。
臣籍降下の14皇族の多くは親等から申せば非常に遠く、昭和天皇の御兄弟はお二人だけ〔高松宮と三笠宮〕叔母様もお二人だけという今日ゆえ、もっと親しく願ってよろしいのではないかと存じております。
昨晩のように東久邇宮聡子妃は内親王の姑さんという御関係で、鷹司〔孝宮和子内親王の嫁ぎ先〕・池田〔順宮厚子内親王の嫁ぎ先〕と御一緒に召されますが、北白川宮房子妃はそういう御関係でないのでそういう機会がありませんでしたのを、先だって何かの御関係で御陪食になり、非常にありがたく御思召でおいでと承りました。
さようなわけで田島は、直系のみでなく数少ない傍系の方も機会あればなるべくお親しく願う方よろしいのではないかとの考えから昨日申し上げました。

1953年6月20日
「昨日田島の言ったことだがねー。私には田島の言ったことは、私が子供の方に重きを置いて高松宮などのことを次にするというような意味に感じを受けて実は驚いたのだがねー。田島ががそんな感じを持ってるかと思って。私はむろん皇族さん方を重んじて子供の方のことはもちろんその次に考えているので、主義としては私は田島の述べたのと同じことを考えているのだが、こと重大だと思ったから良子にも話して今日話すわけだが、ニュース映画〔視聴会〕のことは元皇后宮大夫広幡忠隆の頃に平素はお目にかかることもしずらいから、なるべく御話する機会のあるようにとの高松宮の方の希望で、それではニュースにおいでなさいということになって始まったもので、先方の希望を入れて始めたことなのに、近頃は少しもおいでではない。それから宮さん方はご機嫌伺いなどということはちっともないけれども、内親王の方はご機嫌伺いというので向こうからやって来る。それゆえ食事を出すことがあるというに過ぎない。こちらから食事に呼んだことはない。それから叔母様方は去年の立太子礼の時にも菊栄会親睦会に呼べたけれども、鷹司・池田はどこにも入らなかったから(これは明らかに昭和天皇の御記憶違い)今度呼んだだけのことだ。今言った通りで昨日田島の言った通り、私は子供より皇族さんを重んじてやっているのを、田島がああいうことを言って驚いた」とのお繰り返しゆえ、これは昭和天皇の御意思に反しても変な理論を仰せになっておいでのことを御諫言申さねば昭和天皇の変な御理屈を是認することになるが、笑っておいでではあるが拝命以来の御語勢ゆえ、
「さようでございましたか。田島が昨日申し上げましたことで昭和天皇を驚かせましたことは、誠に恐れ入りましたことと存じます。この事柄で田島が何か申し上げまするには、覚悟を新たにいたしまする必要もありまするゆえ、今日は退かせていただきまして、覚悟のできました上で改めたただいまの仰せに対し申し上げることにお許しを得たいと存じます」と申し上ぐ。
「うん、そう。私はちゃんと田島の考え方と同じであるゆえ、今日ニュース等のやり方をその考えでやってるが、実際のやり方がどうもというので再検討するという意味なら、それは分かるので話は別だ」との仰せ。

1953年6月22日
「田島が宮内庁長官を拝命いたしましたのは芦田内閣からでありましたが、突然の話で驚き断りましたが、『5月3日の憲法記念日までに決まらねば、GHQの方から先方へ猟官運動をしている者を押しつけてくるかもしれぬ』と芦田が申しましたのが気になりまして、GHQに猟官するような奴よりは田島の方がまだマシだと存じ、ついに拝命するに至りました次第で、芦田に侍従長は田島の推選する者に同意してほしいという条件を出しました。侍従長三谷隆信はおとなしい人で誰にでも評判はよろしいが、何一つしないので学習院ではやや持て余しておりましたが、人物は誠実で頭が良くて大人しくて、侍従長はむしろ消極的な方がよろしいぐらいで、かつて御通訳をいたしたこともありますので三谷に承諾してもらいましたが、侍従長としては誠に適当と存じます。申さば田島は追放の多い最中に代用食のようなことで拝命いたしました次第で、その時分はまだ東京裁判以前でありまして、今日とはずいぶん違っておりまして、昭和天皇御退位の問題もやかましく、昭和天皇から『元内大臣牧野伸顕にはよく打ち明けて大切なことは相談する方がよろしい』との御示しもありましたので、大事と思いますることは考え抜きました結果を牧野のところへ参り相談いたしました。爾来表の方のいろいろな問題にも当たりましたが、この問題は昨年5月3日の昭和天皇の御言葉によりまして終止符を打ちました。奥のことも5年間いろいろな人からいろいろなことを耳にいたしましたし、表のことに関する奥のこともありますので、自然奥のことにも頭を使うは当然でありました。例えば三笠宮の思想・行動の上にどうかと思われる節があり、三笠宮にも少し御態度を変えていただきたいなどということを申して参りましたけれども、一面田島は宮内庁のことに全責任ある身として考えてみますれば、三笠宮がどうしてそういう風におなりになるのか、おなりになるには宮内庁長官として職務の不十分なところがないのかと反省してみますると、やはりないとは申されませぬ。しばしば御洋行の御希望を承りました時、『在外邦人の金などではダメでございます。お兄様はみなさま御洋行ゆえ、堂々皇族としておいでになれますような機会を考えます』と申して参っておりましたところ、今回のイギリス女王戴冠式には明仁皇太子がおいでになりますことになり、三笠宮としては御不満にお思いにもなりませんが、自分はいつ行けるかとお思いになりますことは当然であり、また昭和天皇は終戦と同時にひどくお変りになりましたが、宮家の変化に比べますれば日常の御生活ことに経済の面では格段お違いにならぬとも申されまするに反し、特に三笠宮はお子様も大勢さんおありで、今後いかになり行くかと先をお考えになれば、進歩的な思想についてのお考えになりますのも多少は理由のあることと反省して考える必要があり、さすれば宮内庁長官として三笠宮の思想・行動をただ困るというだけでなく、その原因になることに対策を立てぬが職責上悪いということになりまするので、具体案としてとにかく一度御洋行願うことがよろしい、またできる限り経済上お楽になりますよう取り計らいますことが必要と存じまして、昨年来政府側に対しても予算等を頼んでおります次第であります。田島は一長官でありまするが、昭和天皇と遊ばされましては、皇族の一員である三笠宮に対して望ましいかぬ思想・行動おありの時には、それはどういうわけか、どうしてかとお考え頂き、単に困るというだけではなく、なんとかお考えいただくことが必要ではないかと存じまする。高松宮にしてもいろいろのことがあり、最近霜害が最もひどかった川越地方へ視察においでの節、宿屋以外の料理屋にお泊まりになるというので地方新聞にちょっと出まして、埼玉県知事が心配して宮内庁次長のところまで参りましたようなことがあります。軍人でおいでの方が毎日お勤めになる軍職がなくなり、ありがたかっておいでを願うとなれば、時間がおありゆえお出かけになります。いくら共産党の世の中になりましても、皇位継承権をお持ちの三笠宮が如何とも遊ばされることはできぬは明白で、皇室の首長たる昭和天皇に大きな御立場から大らかになっていただくことが必要かと存じます」
「その点は分かったが、高松宮妃もヴァイニング夫人の時に良子に先んじて英語を習い、またじきに辞めてしまうとか、秩父宮が私にゴルフを勧め、それではとやりだすと御自分は飽きてやめておしまいになる。秩父宮妃も高松宮妃と一緒に宮中服をお作りになるに熱心でいて、評判が悪くなると一緒になって悪口を言い、そしてご自分は和服を着るというように、飽きやすくて人より先じたがったりなさるから、どうもそういう点が…」
「田島の立場としては申し上げるのもつらいことでありまするが、そういうことはすべて宮様の方がお悪いとは存じます。宮様方の方がお悪いと断言せざるを得ぬとしましても、昭和天皇が宮様方と同列に立って、向こう様がこうだからこうだと仰せになりますことは、昭和天皇のお立場としてはいかがかと存じます。田島は仏教の家ですが、キリスト教の方では羊飼いは普通についてくる羊の群れよりも迷える羊の方を余計に心配するということであります。この羊飼いのようなお気持ちで、弟様方をも親心で子のように思いになればと存ずるのでございます」と申し上しところ、
「うんうん」と強く御応えになり、
「この間 田島が叔母様にお見舞いを差し上げたらと言った時に、田島に言うのもどうかと思ってちょっとごまかしたのだが、実は私はご病気の時にお見舞いのお金をあげるのはイヤなのだ。北白川の叔母さん〔北白川宮房子妃〕は西式健康法の信者で、徳川の多恵子〔房子妃の娘北白川宮多恵子女王・徳川圀禎に嫁ぐが34歳で病死〕のことでちょっと言ったが、まだひどいのは竹田の叔母さん〔竹田宮昌子妃〕は肺炎であったのを西式一方で、西洋流の医者が拝診した時はもうダメだった。ラジオで御容態を言った時も西式のことは言わずうまくいったが、実はそうなんだ。それだから北白川さんの叔母さんのご病気にお見舞いのお金を出せば、私はそういう非科学的なことを奨励した結果になる。少し言い過ぎだが、殺人幇助罪ということにもなる」との御話。
少し理屈が偏して何ともお返事できず。
「叔母様の問題はただいま御病気というわけでもございませんので、また適当に考えをいたしまするとしまして、どうか昭和天皇は首長として大らかに多少の間違いも包容して羊飼いのような気持ちで願いたいと存ずるのであります」と申し上ぐ。
「具体的にどういう方法にしたらばよいか」との仰せあり、
「毎週のニュースはおやめになり、月2回ぐらい御懇談の御食事でも共にせらましたらばと存じますが、よく侍従次長と練りまして申し上げます」とて退下す。

1953年7月1日
田島長官◆皇室経済法および同施行法改正法律案が両院を通過いたしまして、今日官報号外で公布されました。
昭和天皇◆昨日署名したよ。
田島長官◆昭和天皇も内廷費を3,800万円に増加する時 せんでもよろしいとの仰せで、右の次第で今後はちょっと増額は差し控える方が賢明ではないかと考えております。
したがって三笠宮の御洋行も内閣では昭和29年度の費用に計上しますことは結構と申しましても、考える必要があるのではないかと思っております。
政府は明仁皇太子の御洋行1億1千万円も秩父宮御喪儀費もみな予備費支出でありましたが、予算に入るとなれば議会で議論の対象となりますゆえ、よほど慎重に致さねばと存じております。
昭和天皇◆私は三笠宮はイギリスよりアメリカの方がいいと思う。
イギリスはああいう空気もあるし。
田島長官◆アトリー前首相の方でも保健大臣ベヴァンのような左がかりの人もおりますゆえ、イギリスでない方がよろしいかもしれませぬ。
昭和天皇◆三笠宮は東宮ちゃんと違い、洋行に大きな意味はないから。
田島長官◆それはやはり見聞を広められ、また国外から日本ご覧になるということはございましょうが。

1953年7月10日
田島長官◆内廷の基本金1,500万円は幸いに株式となっておりました分が騰貴いたしましたため、明仁皇太子に1千万円をお持ち願いましても1,500万円以上はありまする勘定で結構な結果ではありますが、株式への投資は慎重に致しませねばこれと反対の場合も生じ得まする理屈でありますゆえ、先日昭和天皇に内廷費の増額のことを申し上げました節、それは要らぬとの仰せで、皇族費は確かに赤字が出ますゆえ、増額案を出します際同時に内廷費も増しませねば、てにをはが合いませぬと申し上げました通りゆえ、ミンクの外套の問題も良子皇后の御料として恥かしからぬ物でなければ、安くてもかえって無駄に帰しまするゆえ、今日国産の最上30何万円とかでお決めになりました由。
若干基金勘定に繰り入れたいと存じておりますので、この運用には適当な顧問が要ると申し上げました通りでありまして、宮内庁長官限りで委託しまする資格程度のものがよろしゅうございましょうか。
それとも昔の牧野伸顕・一木喜徳郎というような皇室経済顧問というような今少し大げさなものがよろしゅうございましょうか。
昭和天皇◆それはねー、西園寺公望や牧野伸顕などは名前だけで、こういう社会に信用ある人が顧問をしているということを示すためで、実際には役に立たぬのだが、この際の必要は経済事情に詳な人の方が私はいいと思う。
田島長官◆実は田島が考慮いたしております者は、吉田内閣経済最高顧問加藤武男と申します元三菱の元締めをいたしておりました者でございます。
経済上の知識経験は十分の他 人柄が誠によろしく、三菱でも業務上のことはもちろんその他に家族上のことも一切やっておりました者で、吉田首相も加藤の人物を重んじておりますと存じます。
昭和天皇◆そうねー、田島も長官を辞めるかもしれぬ。
私は田島が長くやってくれることを望むが、そういう時に宮内庁長官限りの委託では一緒に辞めるということになるのもどうかと思う。
田島長官◆田島もいつ辞めさせていただくことになりますかもわかりませぬのでございますからついでに申し上げたいと存じますが、宮内大臣の当時は前歴の者全部の同意で後任を定めたとのことを承りおりまするが、田島拝命の時の牧野伸顕・松平恒雄・石渡荘太郎・松平慶民、四人とも相次いで没しまして、旧慣によりますすれば田島退任の場合の後任については田島一人意見を申し上げることになりまするし、新憲法は時の首相より昭和天皇に内奏いたしまして昭和天皇の思召を伺うことになっておりまする以上、人事は長官として考えを申し上げることになっておりますが、一人ではいかがかと存じまするし、現任長官を更迭させる要がある場合に現任長官にははかることのできぬ場合も考えられまするゆえ、これは真に昭和天皇の顧問として長官以外の人が顧問としてあることが必要かと存じます。
具体的にただいま田島は東宮参与小泉信三を考えております。
安倍能成〔東宮参与・学習院長〕は実にいい人間でありますが、いずれから見ても欠点の少ない人でなければならず、また公平でなければなりませんので、小泉がよろしいかと存じております。
昭和天皇◆安倍はちょっと理想に走るからねー。

1953年8月10日
昭和天皇◆今朝良子のところへ久邇宮朝融王が来て、清宮貴子内親王を久邇邦昭さん〔久邇宮朝融王の子〕のところへもらいたいという話があったということだ。
私は結論から言えば断って良いと思うのだが、その断りの理由を何とするか。
大谷の場合との関係もあるから、どう言って断ったものかねー。
田島長官◆お答えは良子皇后と御兄妹の御関係でなるべく角立ちませぬ申し条の方がよろしいと存じまするゆえ、申し上げ方につきては少し考えさせていただきたいと存じます。
明日にでも申し上げたいと存じます。
しかし清宮貴子内親王でございましたらばまだ先のことでございますが、お待ちになりますのでございましょうか。
昭和天皇◆それは待つとのお話だ。
田島長官◆朝融王はあまりお子様のことをお考えになったことはありませぬ。
御自分のことのみお考えでありまして、今回の御話も邦明さんのおためとのお考えではありましょうが、どうも清宮貴子内親王と御結婚になれば、将来皇室との密接な関係で全て御便利というお考えからではないかと邪推いたされまする。
朝融王がかつてお子様方の御話の出ました時に、秩父宮・高松宮に後継者がないから養子という制度が皇族は駄目ならば事実上の養子にしてもらうと良いと仰せになりましたことなどを合わせ考えてみますれば、どうもまた皇室と御縁ができればいろいろ御便利があるとの考えから出たのではないかと邪推いたされます。
久邇家相談役山梨勝之進〔元学習院長・海軍大将〕は宮家からお頼みになり、経済的な面は〔元日本興行銀行総裁〕河上弘一・〔大協石油社長〕高橋真男でありまするが、邦明さんの御就職・御結婚についてはずいぶん奔走いたしておりましたが、今回のことはそういうところへは御相談はないことかと思われまするが。
〔賀陽宮邦寿王と孝宮和子内親王との縁談破談〕
田島拝命前に賀陽宮邦寿王と孝宮和子内親の時には宗秩寮総裁松平康昌が出まして、先方様はお急ぎであり孝宮和子内親はお急ぎでないという風な申し方を致したと伺いますが。
昭和天皇◆今度は先方は急がぬと言うのだから、その理由は駄目だ。

1953年8月11日
田島長官◆昨日お話は侍従次長稲田周一ともよく相談いたしましたが、やはり御イトコさんのような近親の方はなるべく避ける方針ゆえ、この話は見合せのことというように、後に残りませぬ言い方が一番よろしいと存じまする。
こういうことはいい場合は別でありますが、お断りの場合は早いお返事の方がよろしいと存じますゆえ、明後日那須へお出かけ前すなわち明日中にお返事あるほうがよろしいと存じます。
稲田に御使を仰せつけられるのがよろしいかと存じます。
稲田ならば意味ははっきりと、そして柔らかに申すことと存じます。
昭和天皇◆そうか。
それは早い方が良いが、朝融王はなんだか宮内官を忌避しておられるようだし、だから昨日も直接良子の所へ言ってこられたのだが、良子が明日にでも呼んで良子から話したらどうか。
田島長官◆良子皇后の御兄弟の場合、はっきり仰せになりましても、それでも再考というようなことになり、良子皇后が「ええ」とでも仰せになりますれば後に残るように存じまするし、久邇宮の方で忌避なさいましても、侍従次長が御使に出ますは当然でありまして、田島は稲田をお通しいただいて御返事の方がおよろしきと存じます。
昭和天皇◆久邇宮への御返事は、法律では許してあるが、優生学上および医学上からはイトコの結婚は避けた方がいいということゆえ、これは見合せしてもらいたい旨で言え。
ことに邦昭さんは御長子であるから良い後継者を一層必要であるからということを言え。
先方がそれでも何か言ったら、大谷も同様の理由でやめたのだと言え。
ただしこれはなるべく言わんで済めばその方良し。
稲田個人の用件のごとくして電話で今日都合を聞け。
先方へ行ったら昭和両陛下の御使として上のごとく言え。

昭和天皇◆ニクソン副大統領の来ることは宮内省としてもよく考えておいてくれ。この前バークレー副大統領も来たが。
田島長官◆あの時は平和克復以前でありましたので君主国の皇太子同様の扱いということで、御陪食もあり二重橋から入れましたが、今回は平和後でありますゆえ、前例もよく調べまして。
昭和天皇◆皇太子とすれば東宮ちゃんが答礼に行くということも考えられる。
(またしても明仁皇太子を完成とお考えの前提で、御帰朝後国事に引っ張り出しになりたき御様子見ゆ。
これは今後の明仁皇太子根本方針に関するゆえ、仰せに異論あるも小出しに反対申し上げず、小泉とも相談・方針確立の上はっきり申し上ぐる心組にて、「まだ時間もありまするゆえ」と申し上ぐ)

1953年8月27日
田島長官◆11月5日予定の園遊会の服装の問題ですが、宮内庁内にもモーニング説と背広説と二派ありますが、本則としてはモーニングで違式でも看過するということでいかがかと考えておりますが。
昭和天皇◆私はモーニングがどうも広すぎると思う。
あれ以上の服装を作るか、モーニングが最高の服かで違ってくると思う。
田島長官◆プロトコルのやかましいローマ法王庁は黒チョッキの燕尾服らしゅうございますが。
昭和天皇◆日本の宮内省の燕尾服のチョッキも黒だよ。
私が西洋に行った時に白チョッキを見てきて、それから白にしたのだ。
しかし園遊会などは広い範囲の人だから、服装のために来れぬというようなことは困る。
田島の考えをより一歩進めて、モーニングまたは上等の背広ということにしてはどうか。

1953年10月7日
田島長官◆明仁皇太子羽田までお迎えのことに関しまして私どもの申し上げ方が不備でございましたために、昭和天皇に御心配をおかけ申し上げました結果となり誠に恐れ入りますが、全員おいで願うことは都合が悪いので御希望の方々を少数と存じておりましたのでございますが。
昭和天皇◆私は皇族代表は常陸宮だと聞いていたので、高松宮妃などが行くということを聞いて驚いたのだよ。
田島から常陸宮が代表と聞いていたから。
田島長官◆田島も手続がございまするのでそれも調べましたが、飛行機が遅れた場合にどうするかとの御下問に対して菊会親睦会をお延し願う他ないと申し上げましたのみで。
昭和天皇◆田島から聞いた。
常陸宮とは言わなかったかしらぬが、常陸宮になるだろうと言った。
(記録を見た上でのことなれど、田島から聞いたと強く仰せゆえ)
田島長官◆それでは田島の思い違いでございましたかもしれませぬ。そのために御心を煩わしまして申し訳ございませんでした。
昭和天皇◆私は自分で行きたいのだがいろいろの都合で行けぬのだが、一親等が行かず二親等が行くなどということはおかしい。皇族代表が常陸宮だからそうかと思ってたのに、高松宮妃や秩父宮妃が行くと聞いて驚いたのだよ。
(羽田までお出かけがさほど重大な親等問題ではなしと思うも)
田島長官◆それでは昭和天皇の御思召を伺いまして考えたいと存じまするが。
昭和天皇◆常陸宮は行く。それから照宮成子内親王なんか六人は菊栄親睦会の枠外でみな行く。それから皇族さんも行かれるということだ。
田島長官◆それでは清宮貴子内親王は学校の御都合でなくてもこれはよろしゅうございますか。
昭和天皇◆それは都合で行けぬのだからよろしい。
田島長官◆大勢さんですと明仁皇太子の御行列前に皇居へ御出発願う手順がうまくいくかどうかを心配することから起っておりますが、照宮成子内親王ら御六人おいでならば菊栄親睦会の御方でありまするから他にはなくともよろしゅうございますか。
昭和天皇◆いや、竹田宮恒徳王は最近西洋で東宮ちゃんと会っているのだから、私は竹田宮夫婦が行かれるがいいと思う。六人は菊栄親睦会の枠の外だ。
田島長官◆竹田宮も御希望がないとのことでありますが、昭和天皇は御六人の他に誰方があったほうがよろしいとの御思召でございましょうか。
昭和天皇◆私は竹田宮がいいと思うが、あるいは長老で賀陽宮恒憲王ということかもしれぬ。どちらにしても誰かが行かれた方がいいと思う。
田島長官◆それではこれは昭和天皇の御思召と先方様へ申し上げましてもよろしゅうございますか。
昭和天皇◆よろしい。

1953年10月15日
田島長官◆今回岡山へお立ち寄りにつきまして是非ともお願い致したいと存じますることは、例の池田隆政氏〔順宮厚子内親王の夫〕の動物園のことでございます。
田島は迂闊にもそういうもののできましたことは一向存じませず、それが地方の問題となりましたことを聞きまして、そんなものができたかと承知しましたような次第でありますが、これはいろいろ絡んで他の複雑な関係もあるようでありますが、常識上池田氏の仕事としては牛羊の牧畜は望ましい仕事の部分と存ぜられまするし、たとえ小鳥でも商品として扱われることは、鶏の卵を扱い雛を扱われると同じで結構でありまするが、カバとか虎とかいうものを動物園として経営されることはいかがかと存じられまするので、侍従職の者は全員、侍従次長も徳川義寛侍従も入江相政侍従も、また表の方の総務課長でも一致した意見でありまするゆえ、今回岡山で池田家を御訪問になりますれば同一構内で御覧になりませぬわけには参りませぬが、これをお褒めにならぬよう、少なくも御奨励になったという感じのありませぬように願いたいと存じます。
昭和天皇◆それは良子ともよく話してだが、やめてしまえというような意味を言うことも。
田島長官◆良子皇后には侍従次長・女官長が申し上げることになっておりまして、昭和天皇からやめよと仰せいただきますこおとは強すぎますが、少なくも御奨励ではないということだけは是非お願いいたしたいと存じます。
昭和天皇◆あまり進まぬようにすればいいのか」
田島長官◆池田氏の方から昭和天皇にあの事業についてご意見を伺われるような場合には、好ましくないむね仰せいただきたく存じます。
昭和天皇◆まあ、そういうつもりでいよう。

昭和天皇「チャーチルが三国外相会議はできぬと承知して主張しているようだが、アトリーもそれを承知で賛成しているようだ。イギリスはああいう風に方向のいいことは実際の結果が具現せんでもいいことはいいと言うようだが、日本では何か現実に具現したものがないとすぐ空であったということに不満を持つ傾向がある。例えば外務大臣岡崎勝男にしろ今直ちに東南アジアとの関係が具体的に実を結ばねば非難されることとなる。それが10年先か5年先のために捨石になるというようなことは【考えないがち】だ。皇太子の外遊は非常に好評だが、皇太子の外遊の結果というようなものは10年、20年の後に出るものであるにもかかわらず、世間は早速に何か具体的な事実の動きがないと承知せぬ国民性ゆえ、その善悪は別として宮内庁としても皇太子の好評なことに相応して何らかの施策を考えぬでもいいのか」
田島長官「明仁皇太子の今回の御外遊は第一は御名代としての御使命でありますが、自然の結果として外交上に役に立ったということよりはなんとなしに国際間の親善の結果が生まれたということでありまして、日本も敗戦後の国の地位が低下し、大使などもその国の政府・王室との接近など明仁皇太子御外遊を機として行われましたというような関係は自然な結果としてあり、大公使館はありがたく思っているかと存じます。明仁皇太子の御好評が宮内庁として何か手を打たなければ不評に変するというようなことはちょっと考えられまぬが」
これは明仁皇太子御好評につれ皇室を重からしめたいとの、失地回復的お考えへのビトレーかと拝察、危険に存ず。

1953年11月4日
田島長官◆明仁皇太子の御外遊の費用はまだ未済でありますが、概算1/3は余りましたと存じます。
内廷費で1千万円をお持ち願いましたのは万一国費で不足の場合を考えましたが、その方は4千万円近く余りましたゆえその必要なく、国費で支弁されぬ性質の明仁皇太子のお買物およびお土産品等は500万円でありますから、内廷費も500万円は返るわけでございます。
国費の4千万円は余りとして大蔵省にきれいに返すつもりであります。
昭和天皇◆余りはきれいさっぱり返すがよろしい。
そうしておけば常陸宮の洋行の時にもまたいいわねー。

田島長官◆東久邇宮稔彦王は御全快はないことでありますが、前回の盲腸などの時の経費とか今回の順天堂病院とか医者の礼とか調べましても聞く人によって違いまして、元宮家の会計などちょっとわかりかねます。
昭和天皇◆盛厚王自身から聞いたが、稔彦王の分は盛厚王が管理してると言っておいでだった。
田島長官◆いえ、市兵衛町の地面〔稔彦王所有の土地〕が売れました際に盛厚王がその代金を管理されたということは伺いましたが、万事盛厚王が会計御管理とは存じられませぬ。
昭和天皇◆私は盛厚王自身から聞いたのだが
田島長官◆承りますれば稔彦王と東久邇宮聡子妃も別の会計と伺いまするし、その辺なかなか難しいようで。
昭和天皇◆照宮成子内親王の話では稔彦王と聡子妃とは一つ所に寝もなさらず、その点聡子妃の方もどうかと思うが、先の女は切れたのにまた最近新たに女ができたと照宮成子内親王は言ってた。
照宮成子内親王は私は聡子妃に申し上げるが、盛厚王はできんなどと言ってた。
どうもお二人の間もなかなか難しいようだ。

1953年11月6日
田島長官◆御宸襟をお悩まして申し訳ございませんが、今日は田島進退のことにつきましてお願いを申し上げたいと存じまする。
吉田首相と打ち合せ手順が違いまして、正式に吉田首相から田島の進退内奏ありませぬ内に申し上げるようなことになりまして誠に恐れ入ります。
いつか一度申し上げましたとも存じまするが、芦田内閣となりまして芦田から田島へ宮内庁長官の話がありましたが、宮中のことなど皆目存じませんので拝辞いたしましたが、5月3日の憲法1年の日までにできなければ進駐軍の側から指名してくると聞きまして、進駐軍を頼って猟官みたようなことをする人間は断じてロクな者ではないので、そんな者が出るならば田島の方がマシだからついにお受けすることになりました次第でございます。
極東裁判前で昭和天皇の証人問題等も多少あります時代で、退位問題などもまだまだいろいろ論ぜられており、いろいろの人の骨折でことなく済み、一段落の時 吉田首相に辞任を申し出ましたが相手にされませんでした。
支那では七十致仕という言葉がございます。
田島は明年七十歳でございまして、記憶力の減退ははなはだしく、御前で人名等思い出せず誠に失礼のこともありますのでございますが、判断力につきましても自信がなくなりまして、やはり七十致仕と申すことには実際上経験からの格言かとも存じます。
元々鈍い人間が判断力さえ失っては到底この重責にいることはできぬと決意をいたしました。
吉田首相は田島の申し出を了承してくれまして、明仁皇太子御帰朝後取り運ぶということにまで運びましたのでございます。
御退位の問題も昨年5月3日の御言葉で段落がつきまして、昨秋は立太子の礼・今年明仁皇太子が御外遊からお帰りになりますれば、御暇を願うと決めておりましたのでございます。
田島は昭和天皇に嘘は申し上げられませんので、ありのままに申し上げますが、明仁皇太子御帰朝後は田島の身体上の調子は良くなりましたのでございます。
明仁皇太子のご旅行中のこと、飛行機のご旅行離発着時に故障の多いとのことで、羽田にお着きになりましても陸地にお下りになりますまでは心配でございましたが、御帰朝後身体の具合がつとに良くなりましたことを考えますれば、どうもこのことが気がかりであったせいかと存じまする。
精神的にも肉体的にも衰弱いたしまして重き責任を担うことができぬと存ずる次第でございまする。

一言も仰せなく、なんだか申し訳なくちょっと悪いことでもしているような後ろめたき気持ちす。

田島長官◆宮内府が宮内庁になりまする時 吉田が上奏しました文章の中に「宮内府職員の人事につきましては、昭和天皇の思召および宮内府長官の意見に基づきこれを決定することが適当でありまして、運用上十分その実を上げることができると存じております」とありまして、昭和天皇の思召に基づき長官を通じてということになっておりまするが、これは反面法規上では思召にかかわらずすることができるということにもなるのでありますゆえ、政府側で長官を辞めさせましょうとか、あるいは宮内庁とか昭和天皇の思召とかで長官を更迭いたします要のありまする時にご相談相手になります者が必要かと存じます。
侍従長は本来側近奉仕でありましてかかることには不適でありまして、昔の内大臣のような者で政治に関係なきような者があることが望ましいと存じます。
このことはかつて加藤武夫を内廷財本の参与にお願い致しました節ただいまのような構想を申し上げ、それには東宮参与小泉信三〔皇太子外遊の随員〕が唯一の適格者であること、安部能成〔東宮職参与・学習院院長〕もよろしいがちょっと容易に平和などを申し常識上困る点のあることなどを申し上げましたが、その意味で小泉はたくさんが認めている人格でありまして、小泉につきましては吉田首相は絶対賛成でありまして、受けてくれれば結構だが受けますかということでありました。
帰朝後数回小泉と話し合いまして、ようやく思召があれば畏れ多いがお受けするという返事を聞きましてございますゆえ、この点は何卒お許しを得たいと存じます。
昭和天皇◆小泉はよろしい。
田島長官◆5年有余側近に奉仕いたしまして何事も申し上げつけてまいりましたゆえに、この際 後任のことをもに付け加えさせていただきまするが、政府側に政府で考えつきそうな人で適任らしく見えて到底ダメな人を注意的に申しました。
名前を挙げまして恐れ入りますが、高橋誠一郎これは学者でもありますし文部大臣の経験もありますし、何でも受ける人でありますが、こんなつまらぬ人間はありませぬゆえ、こんな人は考えぬよう申し入れました。
次に渋沢敬三でありますが、民俗学とか魚の種類とか学殖も趣味も広く、日銀総裁・大蔵大臣の経験もあり渋沢栄一の孫でもあり、ちょっと批難のないようでありますが、大勢に押される性質でありまして、固き所信を死守するという点がありません。
元大蔵大臣池田成彬氏も彼に嘱目しましてああいう地位へ推輓もいたしましたが、池田氏も晩年実績を見まして「どうも見当ちがったか」と申しておりました。
現に吉田から元日銀総裁新木栄吉の前にアメリカ大使として勧誘されたこともありまするが、大事な時に毅然とできぬ人は宮内庁長官としては困ると存じます。
昭和天皇◆いろいろ学問的なこともあっていい人だがねー、そういう風では困る。
田島長官◆適当な人として考えますれば、ずっと前には副首相緒方竹虎その後には元農商大臣に狙いをつけたこともありましたが、二人とも申し分ないと思いますが政治に入ってしまいました。
政治に関係ある者は絶対に避くべきだと存じます。
また例え吉田首相のごとき人が政治に関係なく勤王で皇室中心であり臣茂などと申しましても、ああいう大人物一方では宮内庁長官は務まりませぬ。
経世済民の志はなければダメでありますが、ご家庭の仕事がありまして小人物的な要素が必要でありまする。
外部から考えますれば、新木栄吉は信頼するに足ると存じまして緒方に話しました。
アメリカ大使の重職にありまするから難しいかとも考えましたが、グルー元大使夫人があまりよく言わぬとか白洲次郎が悪口を言っているとか言うので政府としても転職口があればよろしいのではないかと存じ、人物は手固く操守が堅く常識があり信頼に足ると存じましたが、これは吉田首相は不賛成と申してまいりました。
理由はわかりませんが。
昭和天皇◆あれは脳溢血だからダメだ。
田島長官◆日高信六郎は田島は個人的によく存じませぬが、三笠宮御洋行の際の御供として適任者はないかと申しました節、侍従長と式部長官と符節を合するごとく日高を推しました。
その後いろいろな方面に聞きました節にいずれも信頼すべき報告に接しましたゆえ申し入れましたが、吉田首相からの返事に「宮内庁長官はいかん。東宮大夫ならば良い」というようなことでありました。
宮内庁内の候補者と申しますれば三谷隆信と松平康昌と宇佐美毅の三人でございますが、宇佐美が一番よろしいとの結論でございます。
同僚に批評がましいこと申し上げまするはいかがと存じまするが、公器のためには私は許されませんぬので申し上げますが、三谷隆信は侍従長としては類のないほど適任でございまするが、宮内庁内長官としてはしくじるのではないかと存じます。
文官試験は一番の秀才であり人物も温厚で頭も良くそれらの点は申し分ありませんが、三谷が明仁皇太子の首席随員となります時も田島はいろいろ苦心いたしました。
野村吉三郎海軍大将が外務大臣をしてた時に条約局長でもあったらしいのですが、次官になる人ではないというようなことを申しました。
田島は三谷の兄三谷隆正とは親しい友達で三谷も古くより承知しておりまするが、三谷は学習院女子部となり先生の間には至極好評でありましたそうですが、いかにも積極性がないとのことでありまして、学習院次長不破武夫の死後次長になりましてからは、人物のいいだけでは次長の役目は不十分で、安部能成〔東宮職参与・学習院院長〕も少し困っていたのではないかと存じます。
松平康昌は内大臣秘書官長にしましても式部官長にしましても、組閣の時に走り回るとか平素情報を集めるとか式を行うとか西洋人との交際とかこの方面では誠に忠実でありますが、決まりきって毎日起る役所事務のさばきということはいかがかと思います。
華族出身として異数の人と思いますが華族さんには違いありませんので、毎日の地味な事務を処理しさばくことはいかがかと思われますし、現職は適任と存じます。
結局宇佐美毅が一番適任と存じまするのは、前宮内次官林敬三が政府に懇望されて警察予備隊へ参ります時に後任の推薦を依頼しました時、極力宇佐美を推しまして、なんだかボヤボヤしているようであるがいつの間にか仕事がきれいにちゃんとでき上がっているとの評でありましたが、田島が3年有余一緒に仕事しましてもその評の通りだと存じました。
田島は宇佐美の同年輩の者がみな知事ぐらいにはなっているのになっておらぬはどうしてかと調べましたところ、その頃の内務大臣〔複数で特定不可〕の気に入らなかったためと聞きまして、あの内務大臣の気に入らぬのならかえって良い人物の証拠だと思いました。
田島はその内務大臣を承知いたしておりますが、つまらぬ人と存じます。
万事一緒に仕事をいたしました上で信頼できる仕事ぶりでありまして、年の若い点が多少ご懸念かと存じますが、人物としては申し分なく常識も操守も信頼できることと存じます。
外国人との交際が不得手かと存じまするが、大学は一度英文学を志したほどで慣れればできると存じます。
それに一木喜徳郎とか湯浅倉平とか内務省出身の宮内大臣はあまりその方のことは致さず、式部官長に頼んであったとか聞きますゆえこの点も多く心配はないと存じます。
田島が今日申し上げまするは如何かと存じまするが、吉田は手続を打ち合せましても今回のようなことになりまするので、一部は遅れ一部は先走ったことになりましたが、お許しを得たいと存じます。
昭和天皇◆皇太子の結婚のこともあり、私は宮内庁長官が辞めることは不本意である。
しかしいま聞いた事情を聞けばやむをえぬことと思う。
田島長官◆田島は今回お暇をいただきましたら、外部からできるだけの御奉公は致したいと思っております。
昭和天皇の仰せもありましたが、元宮内次官関屋貞三郎のように宮内庁を利用しすぎるようなことは絶対にいたしませんし、表立った時の他は参上もいたしませんが。
昭和天皇◆関屋はねー。

1953年11月25日
田島長官◆東久邇宮盛厚王にお会いいたしましたらば、稔彦王の御退院のことを承りました。
入院費は病院へ1800〔単位不明〕その他の費用も要りますゆえ、なかなかかかりますると存じまする。
金額の点は今少し相談の上申し上げまするが、これは稔彦王へお直きにお上げ願いましたならばと存じております。
秩父宮の手術料の時のように、御手許上げといたしまして賜りましたらばよろしいかと存じます。盛厚王のお話の節「責任が自分の方へ全部かかってくる」というお話がありましたゆえ、照宮成子内親王もおいででありましたが、「それは結構ではありませんか、親孝行ができまして結構と存じます、たくさん御孝行願います」と申し上げました。
またああいうお育ちでは「日本銀行5年の生活であるが、この上してても」というようなお話で、もう少し大所高所よりというような意味で外務省云々とのお話がありましたが、それは「やはり外務省の事務ならば同じでありますゆえ、世界の大勢にお通じの意味ならば、あそこで出します宣伝用の印刷物がありますから、あれをおもらいになれば」と申し上げまして、それは「そうして欲しい」とのことでありました。
また「日本銀行もそういうお考えならばサラリーマンはお辞めになりまして、一流会社は無理でありますが基礎のある二流ぐらいの会社の重役になられて、一週に一度とか一カ月に一度とか勤務される所へ出られたらばとも思います」と申し上げ、「照宮成子内親王ともよろしく御相談の上」と申し上げておきました。
その結果のお話があればどこかへ頼もうかと存じております。
昭和天皇◆こちらからそうそう生活のことに出すということはできぬから、サラリーマンを辞めて月給が無くなっては困る。
田島長官◆毎日お勤めになりませぬでも、重役として同じぐらいの収入はある所へと存じております。
昭和天皇◆あ、そうか。
田島長官◆東久邇家相談役新木栄吉〔元日銀総裁〕が不賛成で田島も同意見でありますビニールの何とかいうお仕事は、当時新木らの心配も杞憂でどうにかうまくいっているらしいお話でありました。
ただ田島の所の敷居が高くてちょっと行きかねているのは、他のある仕事に去年投資なすったのがすっかりダメになったとのお話でありまいした。
どれぐらいの程度のことか分かりませんが、御失敗のようでありました。

1953年11月30日
昭和天皇◆東久邇宮盛厚王が損をしたという話はどれぐらいか。
経済上に響くようでは困るだろうが。
田島長官◆日本銀行のサラリーマンを辞めて同額くらいとれる重役におなりになるご希望かどうか、照宮成子内親王とよくご相談のうえ御腹が決まりましたら田島のところへおいでくださいまし、どこかへお話しいたしてみましょうと申し上げてありますから、おいでになりました節に金額を伺ってみようと存じております。
昭和天皇◆重役ということになれば、洋行くらいはできるようになるか。
田島長官◆それは難しいと存じます。
長年ご貯蓄になりましてもちょっと難しいかと存じます。
しかし会社によっては業務上お出かけできるような所があるかもしれません。
昭和天皇◆もしその去年の損というのが大きかったら何とかしてやらなければ。
田島長官◆田島はそういうことはいけませんと存じます。
人の尻拭いということを申しますが、何か下手なことをなさって昭和両陛下の方でお尻拭いをしていただけるとなりましては、盛厚王のおためにになりません。
どうしても愈窮された場合は別でありますが、ああいう若い方が依頼心をお持ちになるようなことはいけませんと存じます。

1953年12月3日
田島長官◆東久邇宮盛厚王の先だっての額は意外に大きゅうございました。
人造石油事業に500万円を投ぜられ、インチキでありまして150万円は回収されたそうですが、あとの350万円は焦げつきのようであります。
先だってのお話に敷居が高くて田島の所へ行きにくいとのことで、まあ100万円くらいかと思っていましたが500万円で驚きました。
日銀のサラリーマンを辞めて他の会社の重役ということも右から左というわけにはまいりませんので、日銀では3万円もらっておいででうち1万円は特別なものでありますが、3万円の月給を5分利で換算しますれば720万円の財産を持っていることでありますことも申し上げました。
例の内職の方は案外よろしく、2~3人の人を使って夏分は6万円・冬分は1万円とかの収入で、これは成績よろしいのでありますが、今までは税金に一切出してないので不安があるのみならず、1~2年後まで果たしてこの通りかは危ぶんでおられる口ぶりでありました。
東久邇家相談役新木栄吉〔元日銀総裁〕が反対しましたのは内親王たりし方の御内々の仕事として似つかわしくないことでありますが、入るを計って出ずるを制するという御精神がないから起きますことで、出るだけのものはやむを得ないとして、その額だけの収入を図りたいお気持ちがありますゆえ、今回のような間違いが起きるのであります。
「新木をお出しになりますから」〔経済顧問新木を解任したこと〕と申しましたところ、
「先方が出た」とのお話で、
「結局新木が出るような盛厚王の行動があったためだ」と申しましたところ、
「新木は固すぎて話しにくい」というようなお話。
少し話しにくいような人の意見を聞かれることが必要で、ちょいちょいご機嫌伺いに出るような人で心安くお感じになるような人は相談相手にはならぬ人が多く、そういう人でしっかりした人はあるかもしれませんが無理でございます。
大名の家にはまだまだいい人があります。
昭和天皇◆そうだ。
従来事務官として宮家についた者は属官上がりのような大した人でないのがついてたしするから、いい人は従来の関係ではないだろう。
入るを計って出るを制するという根本のお考えがないからいけないのだ。
田島長官◆盛厚王は他に犬に共同で50万円ばかり投資のことも聞きましたが。
昭和天皇◆御経済の方は御困りになるのではないだろうか
田島長官◆これは盛厚王のお考えのおよろしくないために起きましたことで、昭和天皇が照宮成子内親王らの御話で御慈愛の御手をおのべになりますことは、かえって盛厚王のおためになりませぬゆえ、この度の御失敗は御自分である程度までお受けにならなければダメだと存じます。

1953年12月7日
昭和天皇◆盛厚王のことは?
田島長官◆重役の口とてそうそうすぐとも参りませぬが、日銀では考えてくれてると存じます。
重役も結構でありますが、日銀でないとかえってまた悪い結果がないとも申されませんし、毎日のお仕事があった方が良いとも存じます。
何にせよ適当なご相談相手のありますことが望ましいのでございますが。
昭和天皇◆御信任になる適当の人があるといいねー。
皇太子の進学のことなんかどうなる?
田島長官◆先日小泉・東宮大夫・宮内庁次長・侍従長とも相談いたしまして、いずれも大体の方向は一致いたしておりますが、今年いっぱいには何とかせねばならぬと申しておりましたような次第で、今年いっぱいにお決めを願うことになりますと存じます。

田島との最後の話だからと仰せもあり、
昭和天皇「今後憲法改正の重要問題につきまして昭和天皇の思召を伺いますることもありましょうがと存じますが、再軍備の九条以外、天皇の行わせられます国事その他いろいろなあの憲法の行き過ぎ是正のような場合にはよほど御慎重なことが必要かと存じます。吉田流に勇敢に運びますることは全て皇室のおためよかれかしとの至情より出ますことに相違ありませんが、それが過ぎますれば振り子の原則であおりを食いまして結局困る結果になりますゆえ、従来といえども吉田が皇室のためを思ってくれることをもあるいは反対して参りましたこともあり、意見の必ず一致せぬこともありました。宮中は政府と連絡を取らねばなりませぬが、政府より独立した超然たる存在でなければならぬと存じますので、例えば吉田は明仁皇太子の御小遣いまでも国費で支弁すればよいとの意見でありますが、内廷基金勘定の株式を売却して1千万円作りましたことなどには反対意見のようでありますと聞きますが、内廷費・宮廷費の区別を終始扱っております身としては当然すぎるぐらいで、吉田一人何も知らずに忠義的に考えましても、かえって皇室に累が及ばんとも限りませんのであります。それでございますから憲法改正などにつきましては、やはり党派を超越した一貫した立場でないと、長い目で見て皇室のためによろしくないかと田島は存じております」
昭和天皇「政府とは連絡は緊密なこと必要であるが、政府とか政党とりとかよりは独立したものたることは必要だ。経費の点なども無駄遣いをする意味ではないから、昔のように自由にできる皇室費で一本だといいと思う。いまさら林野を返してもらってその収入などということは考えられぬが」

1953年12月15日
昭和天皇◆盛厚王のことはどうか?
田島長官◆先日も日銀のサラリーマン生活をお辞めになり、どこかの重役のを形になることを申し上げましたが、時間の間隙ができることは間違いの元となりますゆえこれもいかがかと存じますが、とにかく日銀へはこの希望を申し入れまして、できれば重役になられる会社の社長が盛厚王に同情を持ち、会社の社長と重役という関係以上に社長が盛厚王の御輔導顧問になるというような人柄の所はないものかと思ったのでありまするので、このことも合せて日銀には申し入れまして、相当の礼を払われないでいいような顧問はダメでありますが、同時に信頼される人でなければやはり実は上がりませぬから、こういうようなちょうどいい会社社長を見つけることはなかなか至難で急には参りませんが、そういう所が見つかりますまでは日銀の方の関係を断つことは絶対にありませぬゆえ、とにかく3万円程度の収入は日銀に確保されておるようなものでありますが、先だっての人造石油の投資失敗の500万円は全財産と申してもよろしく、それの後始末は一応〔西武鉄道〕堤康次郎の紹介で弁護士でやっておいでとのことで、ただいま宮内庁で何か進んで手を打たなければ大変になるということはありません。
しかしこの500万円の焦げつきは大影響がありまして、日銀の収入以外は例のビニールの内職でありまするが、これもいつまで続くかわからずと盛厚王自身も言っておられ、また続けば税務関係の心配もありますので、この際この500万円に懲りられて今後十分お慎みになるよう申し上げました通り、今回は2度目で十分お困りになってご自分の失敗の結果で詰まられてしまうまでは皇室では何も遊ばすべきでなく、どうにもなりませぬ事態が起きました時に何とか手を考える他なく、500万円の焦げつきの後始末がどうなるのかを静観する他ほかないと存じます。
新長官にはこの事情は詳細話してありまするし、宇佐美は何事もよくできまするが財界関係のことだけは田島の方が馴染みが多いかと存じますので、近日田島が宇佐美を日銀当局に紹介しまして田島同様に連絡の取れるようにいたしたいと存じております。

昭和天皇◆岡山の池田の問題だがねー。
田島道治◆先日キリン小屋火事の時 火事見舞いのお手紙を出しまして、「もしこれが猛獣小屋の火事で順宮厚子内親王ら池田家の人はもちろん近所の人でも被害があれば容易ならぬことになります。産業動物園と伺っておりましたが、拝見しましたらば産業らしいところは少なく浅草の興行物のような感じで、これは御一考を要します」と申しましたところ、返事はキリン小屋で小火事だ心配ないというだけで、将来御一考えに対しては一行半句も書いてありませんでした。
順宮厚子内親王のお里として宮内庁の役人がかれこれ申さば内政干渉だなどと言われますゆえこれ以上は何も申されませぬが、あの動物園に ついて批難せぬ者は絶無と申してもよろしく、先日山陽新聞社社長谷口久吉に聞きましても非常に批難をいたしております。
岡山市長横山昊太も旧池田藩士で岡田在住のしっかりした人が一人欲しいとしきりに申しておりました。
岡山県知事三木行治は動物園攻撃には弁護に立つようなこともしてくれますが、本心はやはり池田家があれをされることには反対らしく、まあ一番同情ある反対で一番公平な立場を取っているのではないかと存じられ、知事らはあの有様では経済上の実体 誰が金を出しているのか、日々の観覧者で現金が入りますが、果たしてどういう計算かわかりませんので、使用人には給料の支払遅延があるとも申します。
いずれにしましてもはっきりさせるために株式会社にして、隆政氏をその社長にして、その月給の形でただいまの個人経営の利益のある所を得られるようにでも仕組むのではないかと思っております。
あるいは市営に移りますかでありますが、とにかく天子様の婿殿が遊ばす品位のある仕事でありませんことは確信をいたします。
牛・羊・鶏等本当の牧畜業でお損をなすっても恥ずかしいことではなく、こんな興行物のようなことで儲かりましてもあまりいい話ではありませんぬ。
先日北海道の土地のことをご進講申し上げました町村敬貴なども動物園のようなことをなさるなら羊や牛や鶏のことなら拝見して何か御来庁になることを申し上げてもと思ったがやめたと申しておりましたような次第で、動物園については誰一人賛成するものはないようでございます。
隆政さんは活動的で少し焦りすぎる点はありますが、まあ若いからと致しまして、宣政氏〔隆政の父池田宣政〕は実につまらぬ人間のようで、当時式部官長松平康昌や侍従入江相政などの話に聞きました以上につまらぬ人間で、これは構うことは要りませんが、これが隆政さんの方の邪魔にならぬようせねばならぬと思います。
池田家の顧問でありました陸軍大将宇垣一成も宣政氏の態度に憤って辞めましたらしく、元内閣秘書官長杉田大三郎は池田家の学資で修学した人でありますが、これも今は池田家の相談人を辞しておりますような訳で、東京と岡山とではいかんともしがたく、ただ警戒しつつ静観するより他はないと存じます。

昭和天皇◆孝宮の方は?
田島長官◆鷹司平通さん〔孝宮和子内親王の夫〕はサラリーマンで別に事業を成すでなく、元専売公社総裁入間野武雄がついておりますが、経費の点は相当収支が合わぬためか『二十の扉』〔テレビのクイズ番組〕などに少し出すぎるようでありますが、これらは支出を償う収入を図るためかと思いますが、ただ消費経済面のことゆえ問題は小さく、先日良子皇后から女官長を経て孝宮和子内親王のハンドバッグ等があまり同じ品でお金はどうにかならぬかとのお話がありまして、盆暮2万5千円の賜りを10万円に御増額になればと申し上げ、そういうことにお決めになりましたと存じます。
もっとも孝宮和子内親王だけということはよろしくありませんので、三内親王みな一様に10万円に願い、御保管は女官長の手許としてご必要のお品ご入用の時のお金といたしますればということになっておりますゆえ、鷹司の所は一番平穏無事かと存じます。
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『入江相政日記』侍従長

1954年1月12日
女官名取ハナから電話で孝宮和子内親王&鷹司平通夫妻のアメリカ行を心配しているとのこと。

1954年1月13日
三谷侍従長の所へ行き、鷹司夫妻のアメリカ行を止めることについて報告する。

1954年12月24日
昭和両陛下に御歌はもう少しお練り願いたきことを申し上げる。
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『入江相政日記』侍従長

1955年9月13日
東本願寺の大谷智子さんが大谷光紹に清宮貴子内親王をいただきたいと申し出た由。
もちろんお断りであるが、この前の縁談〔大谷光紹&孝宮和子内親王〕からこういうことは出てこないはずだということになり、稲田侍従次長が元侍従次長鈴木一さんの所へ聞きに行くことになる。
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『入江相政日記』侍従長

1957年5月29日
NHKへ行き美容体操の竹腰さんに会って、良子皇后の御指導に来てくれと頼む。

1957年6月4日
良子皇后は竹腰さんの美容体操。
大変御身体が柔らかくお若いと言って驚いて喜んでいる。
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『入江相政日記』侍従長

1958年3月4日
良子皇后この4~5日、なんだか御機嫌が悪い。
何が原因かわからないが困ったことである。

1958年4月2日
稲田侍従次長の所で、皇太子妃の問題、清宮貴子内親王の御縁談のことなどゆっくり語り合う。

1958年6月14日
「衛生女嬬という制度を辞めよう」というような仰せでビックリする。

1958年6月19日
夕方保科女官長来られ、良子皇后のこと長くいろいろ話し合う。
いずれもみな困ったことばかりである。

1958年6月30日
稲田侍従次長から良子皇后への御答のことで相談があり大変いいと思ったが、その結果を聞くと意外に根強いので一同驚く。
稲田侍従次長・保科女官長・侍従小畑忠と相談したが、どんなにしても体裁を取り繕うことはできない。
困ったことである。

1958年7月31日
侍従永積寅彦がが宇佐美長官に、
「昭和天皇にあまり細かいことを申し上げるな。これは前宮内庁長官田島道治以来の弊風である」とたしなめた由。
愉快なことだった。

1958年8月1日〔那須御用邸〕
侍従山田康彦と明仁皇太子の御縁談の推移について話す。

1958年10月1日
稲田侍従次長・保科女官長・小畑侍従と衛生女嬬制度廃止について協議する。

1958年10月3日
稲田侍従次長が昭和天皇に申し上げたらえらく反対遊ばした由。
そのことをまた良子皇后に申し上げるように勧めた。

1958年10月8日
侍医西野重孝さんの所へ行き、稲田侍従次長から言い渡される前によく言っておいた方がよくはないかというようなことについて話し合う。
その後、もう言い渡したとのこと。
大したことなく終わったが、やはり事の真相は蔽うべくもないようである。

1958年10月11日
良子皇后が秩父宮妃と高松宮妃を呼んで、明仁皇太子の御縁談について「平民からとはけしからん」というようなことをお訴えになった由。
この夏 御殿場でも秩父宮妃・高松宮妃・松平信子夫人という顔ぶれで前宮内庁長官田島道治さんに同じ趣旨のことを言われた由。
しかしそれにしてもそんなことをただじっと見つめているだけとは、情けない知恵のない話である。

1958年10月16日
新聞記者桐山君来訪。
皇太子妃のことについていろいろ話がある。

1958年11月14日
会議。
と言っても、稲田侍従次長より皇太子妃についての報告。

1958年11月15日
昨日宇佐美長官が昭和両陛下に申し上げたら、良子皇后が非常に御機嫌が悪かったという。

1958年11月20日
東宮侍従黒木従達から電話。
正田富美子夫人が服装のことにつき心配しているとのこと。
保科女官長から電話なさるように整えて出勤。

1958年11月24日
高松宮妃の所へ行く。
いろいろのことを聞かされる。
帰って良子皇后にいろいろ申し上げようというのだが、〈おぐしすまし〉(洗髪)とかで申し上げられない。
後でホールで申し上げる。
よくお聞き下さる。

1958年11月25日
稲田侍従次長に昨日のこと報告する。
黒木東宮侍従と宮内職員田端恒信と五反田の正田家へ行く。
質素な家だし、みんな立派な良い方である。
美智子さん綺麗で、そして立派である。
帰りに東宮職へ行き、鈴木東宮大夫・黒木東宮侍従と打ち合せ。

1958年11月26日
明日の御言葉ぶりについて申し上げる。
それで通ったから、明日は良子皇后も一応やってくださることは間違いない。

1958年11月27日〔皇太子(平成天皇)&正田美智子の婚約発表〕
テレビカーが4台、自動車は無数、空にはヘリコプター。
10時からの皇室会議は全員一致可決。
そのことを宇佐美長官から昭和天皇に奏上。
良子皇后には申し上げないと言うので、驚いて稲田侍従次長に御文庫へ行ってもらう。
1時20分正田さんの三人来。
明仁皇太子・昭和両陛下に御辞儀の後、正田さんの三人参進、御礼のあと椅子。
茶菓御話、そのあと明仁皇太子と御茶、記者会見。
この時の美智子さんの立派さは忘れられない。
送り出してから、予の記者会見。
6時に帰宅。
テレビで何度となくその模様を観る。

1958年11月29日
週刊朝日の原稿を書き出す。
良子皇后に美智子さんの御印象を何と書いたらよいか伺う。
まとまった仰せもないので、昭和天皇が宇佐美長官に仰せになったのと同じでよろしいか伺い、お許しを得る。

1958年12月8日
御婚儀の委員になる。
東宮参与小泉信三さんの招宴。
小泉夫妻・正田富美子夫人・保科女官長・女官河合ヤヨイ・女性御用掛高木多都雄・戸田東宮侍従長・黒木東宮侍従・松平信子夫人。
酒をおいしく飲み、御馳走もたくさん食べる。
保科女官長と同車して帰って来て、まもなく寝る。

1958年12月9日
美智子さんの教育に呉竹寮を使うことを、昨日昭和天皇はいいとおっしゃったのに、良子皇后はいけないとおっしゃった由。
まだモヤモヤがあるらしい。

1958年12月11日
人権擁護の関係、12月16日に美智子さんも交えて御文庫でお催しになったらと保科女官長を通じて申し出たが、「早すぎる」とのことで駄目。
何が早すぎるのか全然わからない。
無意味な不愉快な底流を感じる。

1958年12月22日
三浦義一氏〔室町将軍〕に会う。
今度の御婚儀反対を叫び、柳原白蓮・松平信子夫人が中心となって愛国団体を動かしたりした由。
しかしだいたい取り静めたとのこと。
美智子さんが来られ、旧奉仕者に引き合わせる役を予が務める。

1958年12月25日
読売新聞記者小野昇君、正田富美子夫人の手記をもらって諒解を求めに宇佐美長官の所へ行ってさんざん怒られたと言って、憂さ晴らしにウチへ来る。
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『入江相政日記』侍従長

1959年1月14日〔納采の儀〕
11時に正田さんの三人。
昭和両陛下に三人が拝賀の後、良子皇后御一方の所へ美智子さん一人出て御伝来の指輪をいただかれる。
結構なことだった。

1959年1月19日
会議、東宮職の人員のことについてやる。
宇佐美長官が「女官と女嬬と一人ずつはこちらのを」と言うのを、「断然不可、新規のを」と言う。
「近衛さんはいかん」などと言うのを、大いに「いい」と言ってやる。
みんな予の説に賛同の者が多くて愉快だった。

1959年3月6日〔良子皇后誕生日〕
2時前正田さんの三人参内、御世話する。

1959年3月7日
今朝もまた妻が、正田さんが威張っているということから、予が正田さんを贔屓にしすぎると言って怒り出す。
つまらないことである。

1959年3月11日
週刊朝日に執筆するについて、昭和天皇に今度の御縁談をどうお考えになるかを伺う。
いろいろ聞かせていただく。
そのまま書けないようなこともあるので、これから整えなければならない。

1959年3月12日
良子皇后が今度の御慶事の馬車六頭、御大礼の時の御自身のも四頭だった、憤慨だとかおっしゃったとのこと。
何事だと言って憤慨する。
稲田侍従次長は大騒ぎしている。

侍従山田康彦と二人で御文庫へ行き相撲中継を楽しむ。
相撲が済んでから、美智子さんのことについて非常に御期待になっていることをいろいろ仰せになる。

1959年3月14日
御婚儀の時の馬の数は六頭でいいと仰せになった由。
よかった。

1959年3月19日〔清宮貴子内親王の婚約内定〕
朝早くNHK記者大岡護一君に起こされる。
清宮貴子内親王のことである。
朝日記者伊藤牧夫君からも電話がかかる。
新聞記者や何かに囲まれて島津さんの奥さんの参内が非常に遅れる。
11時前にやっと見えて発表も済む。

1959年4月8日
東宮職から「4月27日に明仁皇太子夫妻が正田家へいらっしゃることについて良子皇后にお許しを得てくれ」とのこと。
良子皇后に申し上げてみたら全然お聞きになっていないらしい。
しかし昭和両陛下とも御機嫌は悪くなく、当然のことだと言ってらっしゃった。
後で東宮侍従黒木従達が「御機嫌は悪くなかったか」と何べんも聞くところによると、宇佐美長官が非常にそのようなことを言ったらしい。
これから先これでは困ると言っていた。

1959年4月10日〔結婚の儀〕
美智子さんが正田邸をお出になる頃からずっとテレビを観る。
午前8時に出勤。
結婚の儀は次長室のテレビで観る。
なかなか御立派である。
美智子さんも御長袴、御無事で結構だった。

1959年4月13日
稲田侍従次長の所で岡山のことをいろいろ話す。
池田さんの方〔順宮厚子内親王の夫池田隆政〕の問題だということになる。
侍従徳川義寛に話すと、必ずしもそうでもないらしい。

1959年4月26日
御散策。
観瀑亭のあたりから元覆馬場のあたりまで、良子皇后と美智子妃が御手をお繋ぎになっていらっしゃるのを見上げた。

1959年6月18日
昨日稲田侍従次長が衛生女嬬の代りに病院の看護婦ということを申し上げたら、良子皇后えらく御機嫌が悪かったとのこと。
くだらないことだ。
電話で侍医村山浩一と侍医西野重孝に「既定方針を変えないように」と言ったら、
「もとよりそのつもりだ」とのこと。
一方女官河合ヤヨイはまったく衰えて、もう駄目だから下がると言っていた由。
その方はまったく良かった。

1959年7月8日
美智子妃のことにつきいろいろ論議する。
一日も早く産科医小林隆を御召になることが先決と主張する。
〔令和の天皇を妊娠〕

1959年9月10日
東宮職から電話で「宇佐美長官が明日拝謁する時、美智子妃の今後の御行動につき、リクリエーションのためのお出ましはなるべく遊ばすようにおっしゃっていただきたい」との鈴木東宮大夫の要請により、御文庫で良子皇后に拝謁申し上げる。
たぶんそうやって下さると思う。

1959年12月8日
東宮職から頼まれた明仁皇太子や美智子妃の御行動と正田さんについてのこと、いろいろ整える。

1959年12月17日
美智子妃御参内のことにつき良子皇后に申し上げる。
どういうわけか御機嫌が悪い。
意味はよくわかってるが。

1959年12月31日
明仁皇太子の御結婚はすべて素晴らしかった。
一つのブームになったと言っていい。
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『入江相政』侍従長

1960年3月10日
今日は清宮貴子内親王の御結婚だが、予は別に何の関係もない。

1960年9月7日
清宮貴子内親王の「ある日幸せに」というのが元になって、美智子妃と不和であるというような記事がUPにでたことについて相談する。

1960年12月15日
照宮成子内親王、今日手術。
やっぱりあんまりいいものではなかった由。
困ったことである。
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『入江相政日記』侍従長

1961年1月8日
今場所から昭和天皇も〔相撲の〕トトカルチョにお入りになる。

1961年2月28日〔トトカルチョの会〕
昭和両陛下、表拝謁の間へお出まし。
侍従・女官・侍医の全員。
予の開会の辞、侍従重田保夫の規則の説明、侍従松平潔の成績発表。
順に読み上げ、あと重い御茶。
大変お喜びいただいたのでうれしかった。

1961年5月10日
高松宮妃から、照宮成子内親王に電気をおかけするということ〔ガンの電気治療〕につき電話。

1961年5月11日
電気のことで大変ゴタゴタしているらしく、秩父宮妃・高松宮妃がずっと来ていらっしゃるらしい。

1961年5月14日
病院に御見舞。
そのとき電気の掛川という人の無茶苦茶ぶりを聞く。

1961年5月17日
秩父宮妃・高松宮妃おいでになり、いろいろおっしゃる。
しかし電気のために御熱が9度1分もお出になったことでもあるし、非常に控えめにはおなりになった。

1961年5月19日
昨日 侍医長村山浩一・侍医杉村昌雄が「電気治療おやめ願いたし」と申し上げたら、良子皇后激怒なさったとのこと。
また始まるらしい。
やり方が稚拙を極めたと思う。

1961年7月11日
昨日照宮成子内親王は非常にお悪かった由。
一時は緊張したが、今朝は小康を得ていらっしゃるとのこと。

1961年7月22日
重田侍従の電話で起こされる。
照宮成子内親王の御容態がおかしいとのこと。
すぐ出勤、昭和両陛下で病院へのお出ましに御供する。
昨夜10時から出血がお止まりにならず、ぶっ続けの輸血。
しかしあらゆる所から出血し始めたので、ただ輸血をしてそれを押し流しているようなことになっているとのこと。
夕方にはお難しいというようなことだったが、よくお保ちになる。
宇佐美長官・東宮職の人たちその他すべて集まり、御親族の御看護もお手厚いことである。

1961年7月23日
夕方から御脈はほとんど聞こえなくなったが、とうとうお亡くなりになってしまった。
病院の全員が御柩をお持ちしたのは感激的だった。

1961年8月11日
宇佐美長官に呼ばれる。
最近の奥のおかしな空気、明仁皇太子と美智子妃に対すること、秩父宮妃・高松宮妃のこと、常陸宮のこと、まったく弱ることばかり。
くだらなさに腹が立つが、そんなことを話し合う。

1961年8月16日
稲田侍従次長と話す。
那須で美智子妃が昭和両陛下にこの間からのことをいろいろ率直にお申し上げになったとのこと。
昭和天皇は「よくわかった」と仰せになったが、良子皇后は終始一言もお発しにならなかったとのこと。
帰りに理髪。

1961年10月4日
高松宮妃から電話。
美智子妃のことなどあらゆること、いつもの通り。
「このままでは皇室は亡びるだけだ」と言ってあげる。
夜、高松宮から電話。
「今朝は長時間失礼した」と。

1961年10月16日
御前で打ち合せ。
いろいろな問題がいっぺんに決まってしまう。
あんなお喜びの昭和天皇を見上げたことがないほどである。
みんなもそう言っている。

1961年10月21日
宇佐美長官に呼ばれる。
昨日秩父宮妃から、予が高松宮妃にやったことについて御話があったということで、その時の事情を話しておく。
喜んでもらう。
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侍医 杉村昌雄

※照宮成子内親王は大腸狭窄で開腹手術をうけたが、絶望的な病状だった。
そこに皇族推薦の電気施療師が登場する。

良子皇后は「あの病気、もう絶対治らんと言ったではないか。ところがあの施療師は少しは治ると言う。溺れる者は藁をもつかむと言うが、それがわからないのか」と言われた。
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『入江相政日記』侍従長

1962年2月17日
〔『那須の植物』への昭和天皇自身の序文〕
差し上げた校正のことで十なんべんの御召。
聞きしに勝るものである。
御前から帰ってきてまだ椅子に着かないうちに御召。
さらに言えば部屋に入る前からベルが聞こえていることもあった。

1962年4月15日
良子皇后から御召で拝謁。
昨日大谷智子さん〔良子皇后の妹〕が来られたので巻き返しかと思っていたが、果たしてそうだった。
やはり駄目と申し上げる。
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『入江相政日記』侍従長

1963年3月22日
稲田侍従次長から、宇佐美長官が美智子妃が予の書くものについて恨んでいらっしゃるから、当分内廷のことについては書かない方が無難と言った由。
あきれたことである。
美智子妃は宮内庁病院に入院、すぐ手術とのこと。
〔流産〕

1963年3月23日
美智子妃が言われたことを繰り返し考えるが、真に不愉快である。
仮にそう言われたとしても、そのことが当の本人の耳に届くというようなことは昔の側近にはあり得ないことである。

1963年3月24日
明け方から雨の音。
また美智子妃のことが不愉快に思い出される。
ゆうべも侍従徳川義寛が東宮職のガタガタぶりについて大いに語っていたとのこと。

1963年3月28日
山田東宮侍従長が来ていろいろ話してくれる。
この間からの話がだいぶ違ったのは情勢が違ったのか。

1963年3月29日
宇佐美次長と鈴木東宮大夫といろいろ聞くとこの間からのともまた違い、
「昭和両陛下には入江さんのような人があるからいい。昭和天皇も『それは入江に書かせればよい』とおっしゃったとのこと。皇室がこんなに冷たいものとは思わなかった」とのこと。
鈴木東宮大夫と一緒に東宮御所へ行き、明仁皇太子夫妻の御前に出る。
よく御話くださる。
御気持もよくわかった。
少しの錯乱もなく驚くばかりだが、その緻密なところが禍をなしていると思われる。

1963年10月27日
風呂から出たところで、次長からテレビのニュースを見てくれとのこと。
清宮貴子内親王の誘拐未遂事件、身代金5千万円とか。
しかしなにごともなくてよかった。
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『入江相政日記』侍従長

1964年4月8日
〔照宮成子内親王と死別した東久邇盛厚が再婚を考える〕
東久邇盛厚さんから、なんとか良子皇后に東久邇文子〔東久邇盛厚の娘〕の気持ちが和らぐようにおっしゃっていただけまいかとのこと。
なかなか難しい所以を説いて帰って来る。
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『入江相政日記』

1965年4月21日
明仁皇太子夫妻御参内。
美智子妃よりお直に御懐妊〔秋篠宮〕のことをお申し入れ。

1965年4月23日〔園遊会〕
昨夜美智子妃御出血。
昭和天皇は「各皇族にはありのままを申し入れるように」と仰せになった由。

1965年5月1日
池田隆政さん〔順宮厚子内親王の夫〕の会社が具合が悪く、5月いっぱいは保つだろうが8千万円の赤字はなんともならないとのこと。

1965年5月28日
宇佐美長官と岡山の池田隆政さんの経営潰滅のこと。

1965年8月14日
孝宮和子内親王夫妻、帰朝。

1965年10月11日
美智子妃、本日御着帯につき御参内。

1965年11月27日
昨日昭和天皇から宇佐美長官に美智子妃の御退院の頃のことについてすべてお許しがあったということだったが、話がうますぎると思ったが、やはり昭和天皇は永積侍従次長から良子皇后に申し上げるようにと仰せられた由。

1965年12月2日
〔秋篠宮誕生〕
病院に御見舞においでになったらどうかということでいろいろやる。
結局昭和天皇はおいでにならないことになり、良子皇后御一方ということになる。
でも良子皇后だけでもおいでになることになって良かった。
良子皇后が御見舞になった時、美智子妃が起きてお迎えになったということにつき、無理してやしないかというのでお怒りの由。

1965年12月11日
美智子妃御退院をめぐって、東宮侍従重田保夫さんがカチンとやられた由。
こっちにも同じようなことがあったと言うし、ますます困ったことである。
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『入江相政日記』侍従長

1966年1月3日
昨日一昨日と魔女〔女官今城誼子〕から電話。
「大晦日に誰が剣璽の間に入った、なぜ無断で入った」とえらい剣幕でやられたということだった。
一戦を交えるつもりのところ、何の音沙汰もないのはどうしたものか。

1966年1月10日
永積侍従次長が魔女のこと申し上げた。
そしたら魔女が侍従田中直に怒ってきた。
良子皇后がおっしゃったためだろう。
剣璽のことも申し上げられた由。

1966年1月28日
稲田侍従長から電話で鷹司平通さん〔孝宮和子内親王の夫〕が千駄ケ谷の奥村マンションで前田美智子というバーのマダムと死んでいたという報。
すぐ千駄ケ谷へ駆けつけ、新聞の人と多少話したりする。
突然のことで何とも言えない。

1966年2月2日
妻に鷹司平通さんの週刊誌のことなどを読んで聞かせているうちに寝てしまう。

1966年2月4日
保科女官長から聞かされたところによると、魔女が行くのは〈真の道〉という宗教団体の由。

1966年3月16日
鷹司平通さんの四十九日につき鷹司家へ行き、鷹司綏子夫人〔孝宮和子内親王の姑〕と玄関で話しただけで帰ってくる。
それでもいくらか参考になった。

1966年3月24日
千駄ケ谷の鷹司家へ行く。
孝宮和子内親王御一方でお片づけものをしていらっしゃった。
「お片づけも結構だけれど、時には吹上にも御参内になるように」とお勧めしてくる。

1966年3月29日
鷹司家へ行く。
孝宮和子内親王、何も御話にならない。
鷹司綏子夫人も一緒。

1966年4月5日
昭和天皇に孝宮和子内親王のこといろいろ申し上げる。

1966年4月21日
良子皇后、御熱7度8分。
御歯が元らしいが、魔女の一言で侍医にお見せにならない由。

1966年6月1日
三笠宮家に行き、三笠宮妃に紀元節問題で御協力をお願いする。
話題は魔女のことにも及び、遅くなってしまう。

1966年6月7日
稲田侍従長・永積侍従次長と鷹司綏子夫人からいろいろお困りのことを聞く。

1966年6月14日
宇佐美長官に鷹司家のことを報告する。

1966年6月17日
女官名取ハナとことんまで話す。
熱心に聞いてくださる。

1966年7月20日
鷹司綏子夫人に電話、相続税のことで話す。

1966年7月22日
千駄ケ谷の孝宮和子内親王。
大変御機嫌もよく、相続税のこともよくわかってくださった。

1966年8月16日〔那須御用邸〕
中塚女嬬が「東久邇家のお子さんの洗濯が大変だから雑仕を一人増員してくれ」と言う。
「そんなに困るなら、雇い上げた洗濯婆さんにやらせろ」と言う。
そしたら今度は理由不明のもとに、「今日中に雑仕一人呼んでくれ」などと言い出したが、断る。
〔照宮成子内親王の死後、その5人の子供たちは御用邸などによく招かれた〕

1966年9月26日
昭和天皇が御熱がおありとのこと。
侍医冨家崇雄に聞く。
先年の那須の時のアレらしいとのこと。

1966年9月27日
〔マルコス大統領来日〕
昭和天皇は明日羽田に行くとおっしゃっておききにならない由。
結局おいでということになる。

1966年10月16日
常陸宮夫妻と御散策。
このあいだ明治会の時に皆様おすすめでお集めのお金どう遊ばすかにつき、昨日永積侍従次長からいろいろ申し上げたるところ、良子皇后はお取り上げにならず、それを打ち切って今日常陸宮に御相談とのこと。

1966年11月15日
長官・侍従長・侍従次長らと会議。
後任の女官長のこと、魔女の件。

1966年11月21日
永積侍従次長から聞くと、女官長を免ずるという書付に桃苑の御印を捺してくださった由。
今日はちょうど魔女が休みで、魔女とは関係ないということを示そうとなさったかということ。

1966年12月16日
鷹司綏子夫人と面談。
その後の孝宮和子内親王のことなど。
やはり伺ってみるといろいろ新しいこともある。
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田島道治 日記 元宮内庁長官

1966年1月29日
朝刊ビックリ。
鷹司平通事故死。

1966年2月10日
昭和天皇に孝宮和子内親王御降嫁決定当時の責任者として恐懼のむね言上す。
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『入江相政日記』侍従長

1967年1月30日
宇佐美長官の話によると、高松宮妃が良子皇后に「後任の女官長は松平信子が最適なこと、魔女の神がかりは有名で英文の投書も来ていること、高松宮もそんなのは女官長には不適と仰せになった」ということを申し上げになった由。
矢はいよいよ弦を離れた。

1967年2月14日
稲田侍従長の部屋で宇佐美長官から高松宮妃が魔女をお招びになった時のことについて聞かされる。
要するに、なんのかんのとみんな良子皇后の御沙汰ということにして言い逃れしただけのこと。

1967年2月23日
東久邇盛厚さんに会う。
文子さんの御縁談。

1967年2月24日
良子皇后に拝謁。
東久邇盛厚さんのことについて御報告し、機会があれば御対面願いたいと申し上げる。
あまりおすすみでもなかったが、とにかく承知してくださる。

宇佐美長官・稲田侍従長・永積侍従次長と魔女のことについて会議。
高松宮妃の御報告にもとづくもの。
イヤなことばかりでみな憂鬱である。

1967年3月20日
鷹司綏子夫人〔孝宮和子内親王の姑〕
その後の孝宮和子内親王の御様子について細々と話される。

1967年6月13日
東久邇盛厚さん〔後妻との間に〕二番目のお子さんがお生まれの由。
これで計七人、なかなか大変なことである。

1967年9月28日
小山直彦さんに電話で東久邇盛厚さんのことを頼んだが、どうもやはり具合よくは行かないらいしい。
宇佐美長官も来て、また東久邇盛厚さんのことなどいろいろ話し合う。

1967年10月2日
宇佐美長官・稲田侍従長・永積侍従次長と、鷹司家のこと東久邇家のこといずれ相談しようということになる。

1967年10月11日
宇佐美長官・稲田侍従長・永積次長と孝宮和子内親王のこと、東久邇家のお孫さん方の学校のことなど会議。

1967年10月16日
良子皇后に、孝宮和子内親王のこと、東久邇家のことなど申し上げる。

1967年10月18日
小川君から東久邇家優子ちゃんの成績について聞く。
稲田侍従長・永積侍従次長に東久邇優子ちゃんのこと報告。

1967年11月6日
四条隆貞君、東久邇文子さんの御縁談、大村和敏君〔四条隆貞の親類〕は如何と言う。

1967年11月11日
柿の木坂の東久邇家へ行く。
東久邇夫妻に会う。
真彦さん・優子さんの成績のこと、文子さんの御縁談のことなど。

1967年11月13日
東宮御所。
美智子妃に拝謁、二時間以上。
「良子皇后はいったいどうお考えか。平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるか」などお尋ね。
それぞれお答えして辞去。

1967年11月14日
宇佐美長官と稲田侍従長と永積侍従次長に昨日のことを報告する。

1967年11月17日
良子皇后に拝謁。
東久邇文子さんの御縁談につき申し上げる。

1967年11月27日
昭和両陛下から昨日の東久邇文子さんの御様子を伺う。

1967年12月7日
東久邇盛厚さんから御電話で、文子さんの御縁談正式にお決まりになったとのこと。
まあこれでよかった。
昭和両陛下に文子さんのこと申し上げる。
大変なお喜びだった。
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『入江相政日記』侍従長

1968年1月5日
東久邇盛厚さんはやはり肺ガンの由。
それもだいぶ進んだとのこと。
やはり駄目だった。

1968年1月8日
進講のとき一時間ほどでお手洗いにおいでになりたくおなりの由なので、コーヒーはおやめに願い別に御薬を上げるということになる。

1968年1月27日
冲中重雄博士が昭和天皇の御健康全般について申し上げる前に、予から良子皇后に申し上げてくれとのこと。
永積侍従次長が来て「迷信はいけないということを申し上げよう」と言っておられたが、なんとかそれをとめてくれとのこと。

1968年1月29日
良子皇后に拝謁。
昭和天皇のお疲れの御様子を一時間ほど申し上げる。
肝心の所には触れられないが、第一回としてはまあまあだろう。

1968年1月31日
午後二時から三時、進講。
今日は御薬を上げたのだが、途中ちょっとお眠りになる。
お起こししたらその後はずっとよろしかったが効かなかったのだろうか。

1968年2月12日〔葉山御用邸〕
2月25日の映画には浩宮御一方とのこと。
どうして美智子妃がおいでにならないかよくわからない。
東宮侍従浜尾実さんに聞いてみてもわからない。
昭和天皇も御不審だった。

1968年3月19日
永積侍従次長から葉山の魔女〔女官今城誼子〕のことを聞く。

1968年3月27日
西野侍医長・侍従徳川義寛君来て、魔女のこといろいろ語り合う。
永積侍従次長は今日も魔女を呼びつけて「塩谷信男〔宗教団体〈真の道〉幹部〕とはどういう関係か」を問い質した由。
なかなか尻尾をつかませない。
「後はよろしく」と指し切り将棋を任されても困ると言って笑う。
〔侍従次長、永積寅彦から入江に交替のため〕

1968年5月24日
良子皇后、清宮貴子内親王のことを御心配いろいろお尋ね。

1968年6月25日
孝宮和子内親王・鷹司綏子夫人〔孝宮和子内親王の姑〕と懇談する。
吹上に行き、孝宮和子内親王・清宮貴子内親王のこと申し上げる。

1968年6月26日
秩父宮妃と二時間ほど御話。
女官長後任のこと、孝宮和子内親王のことなど。

1968年7月1日
昭和両陛下に孝宮和子内親王のこと、東久邇家のこと申し上げる。

1968年7月17日
小川別当から東久邇盛厚さんが今朝宮内庁病院へ入りたいと言われた由。

1968年7月18日
小川別当からまだ病室のことで不満がおありのことなど聞かされる。

1968年8月22日〔那須御用邸〕
〔鷹司家に強盗が入り孝宮和子内親王がケガをする〕
孝宮和子内親王のこと申し上げる。
御風呂場で御入浴中を良子皇后御陪席のもとでの拝謁。

1968年9月13日
東久邇優子さんが浅草の友だちの家に寄寓しておられるとのこと。
今日東久邇久子さんが昭和両陛下にお申し上げになったとのこと。
これは大変なことである。

1968年9月16日
昭和天皇が東久邇優子さんのことで宇佐美長官にいろいろ仰せになった由。
この間から度々のことなのだが、ひどくやられ、もう辞めるとか、佐藤首相に言ってとかいうことになったらしい。

1968年9月26日
良子皇后「東宮女官長後任に松村淑子の件、考えたがどうも都合が悪いと思う」との仰せ。
やはりキリスト教だからだろう。

1968年9月27日
宇佐美長官・稲田侍従長に松村淑子は駄目ということを伝える。
東久邇家を常盤松の官舎に引き取ることについて打ち合せ。

1968年10月3日
東久邇家は常盤松の官舎にすっかり落ち着き、東久邇信彦さんもお泊りになり、今後ここに泊まってもいいかとおっしゃった由。

1968年10月9日
孝宮和子内親王の所へ行く。
ニコニコしていらっしゃり御機嫌である。

1968年10月16日
良子皇后に拝謁、東宮女官長松村淑子につきお許しを得る。
また揺り返しがあるかもしれないけれど、一応これで済んだ。
宇佐美長官も稲田侍従長も喜んでくれた。

1968年11月13日
明日の新宮殿落成式に魔女が御供ということだが、式部官長原田健からの電話で「女官長代理をお連れ願いたい」と申し入れてもらう。

1968年11月15日
四条隆貞君〔東久邇文子の夫大村和敏の親類〕から東久邇文子さん夫妻不和のことを聞く。

1968年11月18日
大村さん夫妻〔両親〕と和敏さん〔息子〕とがみえる。
文子さんの話いろいろ聞く。
大村さんのこと良子皇后に申し上げておく。

1968年11月19日
沢辺君来訪。
孝宮和子内親王の御近況について聞く。

1968年11月20日
東久邇久子さんは高松宮夫妻に言われて、離婚は思いとどまられたとのこと。
東久邇優子さんが今度のお手伝いの人をいじめる由。
困ったことである。
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