◆高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)123代大正天皇の三男
1905-1987 82歳没
■学習院幼稚園で選ばれた御学友 4名
火曜日・土曜日に出仕して日曜日は待機
黒田治雄
五島盛輝
相良頼知
吉川重武
■学習院初等科で選ばれた御学友 14名
月・水・金の午後に出仕
池田政鈞
岩倉具実
大浦兼次
岡部長建
黒田治雄
五島盛輝
五辻隆仲
西郷従純→古河従純
杉重夫
仙石久武
野村親共
水野忠泰
宮原旭
吉川重武
■学習院中等科1年生で選ばれた御学友 8名
岩倉具実
西郷従純→古河従純
仙石久武
戸田氏重
成瀬現 →弘世現
野村巍
水谷八郎
宮原旭
■学習院中等科2年生で選ばれた御学友 6名
岩倉具実
西郷従純→古河従純
仙石久武
成瀬現 →弘世現
野村巍
水谷八郎
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
黒田治雄 学習院幼稚園の御学友・黒田善治男爵の子
初めて御殿に連れられていった時のことは今でも覚えている。
男の人はみんな黒い服(フロックコート)を着ており、女の人は私の知らない言葉を使っている。
普通なら母親が出て来て「よく来ましたね」とか言われて部屋に上るのだが、それらしい御人の姿も見えない。
大変な所へ来たものだと怯えを感じたものだ。
でも侍女の方たちが親切で、とまどいながらもすぐになじめる方々であった。
私たちは侍女の方たちを先生とお呼びした。
力士の大相撲が行われ、御両親〔大正天皇夫妻〕もおなりになった。
そして柳原二位局がお雛様のような御髪・御召物で御供なさってこられたのにはビックリした。
しかし何よりも私が大変なショックを受けたのは、宮様方が御両親と一緒にお暮ししていないということだった。
なぜかと母に何回も問いただしたことをハッキリ覚えている。
思い出しても、高松宮が先頭に立って私どもが追いつけないような活動をなさったという記憶はない。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
三笠宮崇仁親王
実は秩父宮は海軍志望だった。
そして高松宮は陸軍を志望していたんです。
ところがそのころは陸軍の方が力関係が強かったせいもあって、最初の皇族は陸軍に次の皇族は海軍へということになったんです。
高松宮は実は船に弱かったんですよ。
おそらく海上勤務ではずいぶん苦労したと思います。
私の番になるとどっちでもいいと。
私はそのころ乗馬に熱中してましたので陸軍を選んだわけです。
ただ問題は幼年学校から入るか士官学校から入るかということでした。幼年学校から入る人は中学1年か2年を終わって入る。
士官学校へ入る人は中学の4年か5年を終わって受ける。
秩父宮は幼年学校から入ったわけですが、貞明皇后はどうも秩父宮が幼年学校から入ったために一般的な常識とか教養を身につける時間が少なかったと思われたようです。
ですから私は学習院中等科4年を修了してから士官学校の予科に入りました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
吉野捷三 海軍中佐
高松宮は酒・煙草は嗜まれず、甘味が大好物。
夜食の汁粉とおはぎには目がなく、お代わりの健啖家ぶり。
昼食後の休憩時間は、いつも士官室のソファで将棋に熱中されていた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
細谷宏 海軍少佐
士官室での休憩時には毎回のように高松宮の将棋の御相手を仰せつけられた。
私は「王より飛車を大事がる」程度の素人将棋であり、高松宮の将棋の御力も五分五分の程度でした。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
野村実 海軍大尉
1944年マリアナ沖海戦の決戦は6月19日となったが、〈大鳳〉〈翔鶴〉が沈み、航空攻撃が期待した
戦果を挙げていないことが判明した当日夜、作戦室で戦況を見られていた高松宮が鋭い声で、「嶋田総長は来ないね」と言われたのが印象に残っている。
そのころ高松宮と軍令部総長嶋田繫太郎の関係が険悪であることは、誰の目にも明らかであった。
戦況説明の会合の時 二人の視線が合ったはずなのに、お互いに挨拶もないように思えることが多かった。
嶋田総長は翌6月20日午後になって作戦室にやってきた。
午前中は戦況を上奏するためではなかったかと思う。
嶋田総長の失望の色は覆うべくもなかった。
作戦室のソファに腰を落し、身動き一つしない。
誰もが無言の作戦室のソファで、嶋田総長は立ち上がる気力も失ったようにいつまでもいつまでも座り続けていた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
侍従 岡部長章 回想記
私の受けた印象では、昭和天皇の悩みの種は主として陸軍だったようです。
侍従武官長の宇佐美中将が御前に出ている時に、昭和天皇がちょっと激しい調子で御話になるのを耳にしてしまったことがありました。
二二六事件の時の武官長は本庄繁大将で私が3月20日に侍従になって三日間ほどで退官、宇佐美中将が新たに就任したのです。
宇佐美さんが拝謁している時に、「壬申の乱のようなことになる」という意味の事を大声で申されたのが聞こえました。
秩父宮を担ごうとする陸軍の運動があったと仄聞していたので、それに関連することだなと思いました。
秩父宮が多少激しい御性質の方だということは私も心得ていました。
それをまた陸軍の青年将校が担ごうとするのです。
おそらく宇佐美武官長は昭和天皇に対して、秩父宮の意見もいろいろ聞いてほしいと言ったのではないでしょうか。
それで昭和天皇が壬申の乱というような例を持ち出されたのだと思います。
ところが宇佐美武官長は「はあ」とか言って、壬申の乱が何なのかわからない様子でした。
秩父宮のようなお直宮が昭和天皇に会われるのは奥の方になります。
当時秩父宮は陸軍の佐官でしたから、御兄弟として来られるだけで軍事上の奏上はできません。
陸軍では皇族を金枝玉葉の御身分などと言いますが、それも昭和天皇にとってはプライベートな関係だけになります。
朝香宮が陸軍内のことに触れ、叱られて退出されたこともあります。
階級は大将でも軍事参事官で、上奏する立場ではなかったのです。
昭和天皇はそうした公私の別を固くお守りになりました。
陸軍の過激な将校は、この点の認識が足りません。
勝手に思い入れをしていたのです。
高松宮に対しても細川護貞君が懸命にネジを巻いたようですが、高松宮はそれを受け入れず、秩父宮・高松宮とも、この点ははっきりと身を処せられました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮宣仁親王』高松宮宣仁親王伝記刊行委員会
高松宮妃が高松宮が亡くなられた一年後に発刊された写真集を携えて寒中御機嫌伺に御参内、昭和天皇に差し上げた時、ページをめくられていた昭和天皇は熊のぬいぐるみの写真に目をとめられ、
「そう言えば高松宮は子供のころ熊が好きでね」と笑われた。
学習院初等科に御入学になった高松宮は、地理・歴史・算術がお好きなようだった。
図画・手工は幼稚園時代からあまりお好きでなく、唱歌はもっとも苦手であった。
いつもニコニコと顔色をお変えにならない三笠宮に比べて、高松宮はどちらかと言えばワガママ。
おイヤな時はすぐ御気持が御顔に現れる。
高松宮は大変率直な言動をなさった。
高松宮は昭和天皇と同様、お酒はお飲みになれなかった。
ただ宴席でにぎやかに過ごされることはお好きだったようである。
煙草は昔、いたずら程度に軽く煙を出された。
趣味としてはスキー・ゴルフは別として、収集癖がおありだった。
切手・コイン・マッチのレッテルなどをお集めになっておられた。
封筒から切手をはがす作業も職員にはお手伝いさせなかった。
書斎で御一人、洗面器に水を入れて御自分ではがされた。
その御姿を拝見した職員は、高松宮の孤独をしみじみと感ずるのであった。
高松宮は御旅行先でよく御風呂にお入りになった。
野天風呂があれば、野天風呂の方をお使いになった。
また高松宮は麻雀がお好きだった。
御旅行先では午前2時、午前3時までどてら姿で興じられた。
しかしどんなに遅くなっても、翌朝は早くお目覚めになる。
麻雀を御一緒した関係者たちは、仲居さんから「高松宮様はもう起きておられますよ」と起こされるのが常だった。
「あの早起きにはまいった」と言う関係者もいる。
高松宮は神々や祖先をお祀りするのに大変御熱心であった。
もともと高松宮家は有栖川宮家の祭祀を継承されている。
有栖川宮幟仁親王が初代総裁となられた皇典講究所は国学院大学の母体である。
第二次世界大戦の敗戦と共に日本人の国家観・価値観は根底から崩れ、国家としての秩序も人間としての道徳も姿を変えた。
高松宮は国民精神の頽廃を憂慮され、日本の伝統的精神の護持・国体の護持に深い祈りを捧げられた。
明治神宮の戦災復興に非常に御尽力、また靖国神社をはじめ全国の神社の式年祭・例大祭には進んで参列された。
靖国神社の春秋の例大祭には高松宮妃とお揃いで参拝されるのが常であった。
敗戦後高松宮は心学に興味をお持ちになり、昭和20年代から石門心学の石川謙にたびたびお会いになっている。
高松宮は天理教の中山正善管長ともお付き合いされ、天理教についての知識を得られた。
1949年4月19日、奈良県天理市で開催された天理教全国体育大会にも御出席になった。
そのあと中山管長と一緒に奈良・京都をお回りになっている。
翌年も天理教全国体育大会に御出席になっているし、その後も中山管長との御親交は続いた。
中山管長宅にもよく泊まられている。
教義についてもいろいろと御理解されたことであろう。
高松宮は戦前の海軍時代に肺結核を患われたことがある。
戦後は1963年湿性肋膜炎に罹られたが、それ以外はこれといった御病気はなさっていない。
しろい御飯がお好きで、昔は柔らかすぎるとか固すぎるとかよく言われた。
秩父宮が小魚の骨や頭を召上らなかったのに、高松宮は頭から召し上がった。
果物は梨がお好きで、洋菓子より和菓子がお好き。
80歳を過ぎてもスキーをなさるほど御元気で、御健康状態は至極およろしいようにお見受けした。
湿性肋膜炎が治癒された1964年以降、レントゲン写真も撮っていらっしゃらなかった。
1986年青葉の頃から高松宮は御身体の不調を訴えられ始めた。
7月には5キロも体重が落ち、吐き気を催されるようになった。
不安をお感じになった高松宮妃が専門医による精密検査をお勧めになり、7月12日高松宮は国立がんセンターで検査を受けられた。
検査の結果、右肺上部に5センチ四方の陰影が発見された。
また胸部縦隔のリンパ節への転移とみられる個所も見つかり、肺ガンがかなり進んだ段階にあるのではないかといの診断がなされた。
7月14日国立がんセンターは高松宮に老人性結核であると申し上げた。
高松宮妃にはその直後極秘にお会いし、診断通りの事実を申し上げている。
昭和天皇には高松宮妃が御自身で正確に事実関係を申し上げ、御了承をいただいた。
7月21日高松宮は改めて日本赤十字社医療センターに検査入院された。
精密検査から右肺上葉の扁平上皮ガンと診断され、すでに手遅れの状態であった。
医師団は憂慮すべき深刻な事態に直面した。
高松宮はまもなく82歳になられる。
御入院による積極的な強い治療はなるべく避けて、高松宮邸での御静養を中心に無理のない対症療法で極力御寿命を延ばしていただこうという方針が立てられたのである。
7月・8月は比較的御元気でいらっしゃったが、9月になると肺ガン特有の症状である血痰があらわれた。
9月いっぱいは御自分の運転でおでましになっていたが、10月に入るとそれも御無理となった。
御咳は喀血を伴い、頻繁となった。
高松宮が薨去される前年の1986年秋、松山市で全国傷痍軍人大会が開催された。
高松宮の御病状はすでに悪化、衰弱しておられた。
日本傷痍軍人会は笹川良一が会長をしている。
高松宮は「義理があるからな」と一言、空路松山へ向かわれた。
機中、高松宮は苦しそうにじっと我慢しておられた。
お好きなカメラを取り出すことさえできなかった。
宿舎にお着きになったが、そそまま部屋へはお進みになれないほどのひどいお疲れであった。
高松宮は玄関脇で崩れるように休息を取られた。
その夜は喀血がひどく、高松宮妃が背中をおさすりしたが、咳き込みは止まらず幾度となく喀血された。
10月22日から28日まで、日本赤十字社医療センターに再入院をされ輸血を続けられた。
その後はまた高松宮邸で療養された。
医師団は看護婦をおつけするようにと申し上げたが、高松宮は御承知ならさず最後まで高松宮妃を頼りにされた。
11月に入ると血痰の量や回数が増え、貧血の症状が見られるようになった。
11月12日昭和天皇は高松宮邸においでになり、高松宮を見舞われた。
異例のことである。
10月に高松宮が再入院されると、昭和天皇は以前から予定されていた東京ディズニーランドへのお出ましを中止され、高松宮邸への御訪問となったのである。
12月に入ると高松宮の体力はさらに減退された。
高松宮邸での御療養と併行して、週一回日本赤十字社医療センターに通院された。
治療は栄養補給のための点滴・輸血が中心であった。
年末年始は小康状態で、御見舞客にもお会いになった。
ガンの増大により右肺の機能がかなり低下したため酸素不足となられ、1987年1月14日から小型酸素ボンベを使い酸素吸入を始められた。
血痰の量が増え排出が難しく、また輸血によっても貧血への対応がしにくくなってきた。
夜中に呼吸困難の発作が多くなり、全身衰弱の様相が強まった。
1月23日昭和天皇が再び御見舞においでになった。
昭和天皇と高松宮が会話を交わされたのはこれが最後であった。
1月27日また日本赤十字社医療センターに入院された。
御入院後も37~38度の熱が下がらず、激しく咳き込まれた。
2月1日多少御気分がよろしかったのか、高松宮は看護婦に「写真を撮ってあげよう」と声をおかけになり、カメラを向けられた。
しかし夜になるとついに肺炎を併発されて、御容体は危険な状態に陥った。
2月3日昭和天皇の御見舞が急に決定した。
病室に入られた昭和天皇はかがみ込むようにして御顔をお近づけになられたが、高松宮は昭和天皇の目を見つめておられた。
しかし意識がおありになったかどうかはわからなかった。
院長が「ただいま御臨終でございます」と高松宮妃にお伝えした。
高松宮妃は高松宮の胸に顔を伏せられてお泣きになった。
このあと高松宮妃は医師団・看護婦たちに「いろいろ御世話になりました」と頭を下げられた。
御見舞から皇居へお戻りになった昭和天皇は、午後2時高松宮薨去の報告をお受けになった。
昭和天皇は「あれから早かったね」と一言おっしゃった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
■妻 徳川喜久子 将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵&有栖川宮実枝子女王の娘
1911-2004 92歳没
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃の親友 岩崎藤子 伊集院彦吉男爵の娘・磐城セメント岩崎清七の子岩崎道之輔の妻
高松宮妃◆藤子さんとはお父様からのお繋がりなのよ。藤子さんのお父様が伊集院彦吉とおっしゃってね。ちょうど私の父が第一次世界大戦の時に赤十字から派遣されて世界を回ったの。その時にイタリア大使でいらしてお世話になったの。
それでお友だちの中で一番仲がいいの。
岩崎◆私の母は大久保から来ているもので。
高松宮妃◆大久保利通のお孫さんなんですよ。
岩崎◆だから徳川幕府と明治維新で仲がよくないの。
高松宮妃◆そうなのよ。あんまり仲よくないのよ(笑)
御婚礼の数日後いまの迎賓館当時の赤坂離宮で御披露がございまして、同級生は全員お茶に呼ばれましたが、私は早めに迎賓館に来るようにとのお召しでしたので駆けつけますと、
高松宮妃が「今日は大変よ。一日に二度も髪を結い直さなければならないし、忙しくて仕方ないわ」などと照れ隠しにさも面倒らしくおっしゃっているところに、
高松宮がお出ましになりまして「喜久子は今日はマネキンだよ」と御冗談をおっしゃいまして、愉快そうにお笑いあそばしました。
ご新婚のために建築に取りかかりました新御殿がご成婚に間に合わず、やむを得ず魚籃坂のあたりに急ごしらえの借り御殿ができまして、そこに徳川家からお持ちになりましたお雛様をお飾りあそばしまして、宮家で初めてのお節句をするから私にも来るようにと高松宮妃からお召しがございましたので、仰せのごとくに上がらせていただきましたら、なんと両殿下がお手をつないで奥から出ていらしたのにはもうビックリしまして、あら、まあって申し上げたことを思い出しますが、本当にお幸せそのもののようにお見受け申しました。
バッキンガム宮殿からの高松宮妃のお手紙に
『お手紙たしかにありがとう。藤子さんのお手紙を見ようと思ったら、高松宮が見せろとおっしゃったから、私は逃げ回ってベッドの周りで追いかけられて抱きしめられて取られちゃったのよ』って書いてあったの。
1年2カ月にわたる長い御洋行からお帰りになりました時、私たちは完成したばかりの新御殿でお出迎えしましたが、高松宮妃は大変におきれいで、お帽子などもパリでお誂えになって本当に素敵でしたが、
私にだけはこっそり「ねえ、やっぱり痩せちゃったのよ」とおっしゃいまして、
「胴まわりなんてこんなに細くなっちゃって、帰ってきたらタンスにしまってある洋服なんてみんなブカブカなのよ」と苦笑いをなさいました。
私が片づきました岩崎の父清七は福沢諭吉翁の紹介でイエール大学などに留学して実学を学び、帰国後は磐城セメント・日清紡績・日本製粉・東京ガスなどの創業に関わりました。
私が嫁に参りました時にはガスの冷蔵庫がございまして、こんなものが世の中にあるのかと思いました。
藤岡の田舎を高松宮妃がお気に召しまして、「これから行くわよ」とおっしゃいますので、
「東京から遠いし、田舎でございますから」と申しましても、
「平気よ」とご自分でお運転遊ばして、故障があった時の用心に必ず日産の課長さんが助手席に同乗していました。
それまでは正直申しまして義父が持っておりました醤油会社など意識もしておりませんでしたが、これが物のない非常時には助かりました。
醤油の原料は大豆でございますから、お豆腐屋さんに大豆油とメリケン粉を渡しますと、バーターでがんもどきをこしらえてくれました。
これを高松宮妃に申し上げましたら、
「この非常時に珍しいし節子皇太后にお目にかけたいから、少し持ってきて」とおっしゃいますから、すぐに誂えて御殿へ上がりまして、
「こんな粗末な物を節子正皇太后に献上しましても大丈夫でございますか?」と申しますと、
「あなたのように地方に疎開している人はわからないだろうけど、東京に住んでいると食べ物には苦労するのよ」との仰せでした。
醤油なども高松宮妃はお喜びで、東京からお友達を3人くらいお車にお乗せになってよくおでましになり、
「醤油のおかげさまね」などとおっしゃいましたことを覚えております。
それからお沢庵、しかも高松宮妃は古漬がお好きですで、田舎にはいくらでもございますが、それも節子皇太后にお目にかけたいから持ってきてという御催促で、当時は宮家でもそんなご事情でございました。
高松宮妃は貞明皇后に本当にお尽くしでございました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮宣仁親王から姑徳川実枝子への手紙
1930年年6月22日
その後益々御元気の御様子で結構に存じます。
こちらもみな丈夫すぎるぐらい。
この模様なら1年無事に帰れそうですが、先のことはどうもわかりかねます。
それはさておき、さすが御育ての効ありて、インド洋上『日本女性のために万丈の気をはきて』〔当時の新聞報道〕寝つきは悪うございますが、朝はほっておけばいつまでも【たり】。
それで自動車に乗れば、景色も凸凹道もありません。
もっともスイスもフランスも道路はよろしすぎて、あまりドスンバタンとしません。
パリはやはりお買い物の都らしく、それが唯一のお楽しみのようですが、できれば日曜がたびたびあるとよいと考えます。
どの店も日曜日は閉まってしまいますから。
目下はロンドンから新しいおべべができてくるのをお待ちかねで、スイスの景色などちっとも目に止まらなかったのではないかと思います。
英語もフランス語もさらには進歩しないようですけれど、御用掛の部屋に電話をかけるのは流暢なもので。
ボアの森でお馬に乗りたいらしいのですが、とても実現には至りますまい。
なにしろ御安心くださいませ。
御機嫌よろしゅう。
パリにて 宣仁
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃から母徳川実枝子への手紙
ドーバーより
はるかに御機嫌をお伺い申し上げます。
こちらにては高松宮も何の御障りもなく、御供の者一同も丈夫に過ごしておりますからなにとぞ御安心あそばしていただきます。
夜は王宮の大晩餐会に国王に手を引かれて出席。
華やかな全て見たことのないにぎやかさのうちに、楽隊の奏でる音楽を聴きつつ、左にいらしゃる国王、右にいらっしゃるコンノート殿下とお話いたしました。
御食事がデザートになりましたとき国王の日英親善の御挨拶があり、高松宮の御答礼がございました。
終始一貫その御態度が御立派であらせられましたのは、私どもの最もうれしかったことでございます。
食事中に一羽の鳩が高い天井の鴨居をあっちこっちへ飛んでおりました。
おめでたい印とか申しますね。
それからスコットランドの王様に献ずる笛の楽隊の音楽を聴きました。
やまかしいものでございますが面白うございます。
王様はかなり御丈夫で、お死にかけになったとは見えません。
王妃もいろいろ世話を焼いて下さいました。
宮殿はそれはそれは静かで良い場所でございますが、何となくキュークツでございます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃から松平信子への手紙
1930年12月23日
<フィレンツェより洋装の相談>
だいたいこのぐらいでどうかと思いますが、もっとも最小限度が常に目標でごさいますから、そのおつもりで。
もし何かこうしたらとおっしゃって下さいますようなことがございましたら、また便利な物とか何かお気づきでございましたら、それを教えていただきとうございます。
もっともアメリカでは去年の残りを入れることにしておりますが、アメリカのことはそなた様の方がよくご存知でいらっしゃいますからお任せしたいと存じますから、どうぞよろしいように、わたしに似合いますように、使ってもおかしくないように作っていただきとう存じます。
だいたい4月から5月いっぱい6月にかけてまで必要と存じます。
あまり新しい物よりも少し落ち着いたさっぱりした物がよくはないかというのが私の意見でございます。
毛皮は流行もございましょうから、これは日本へ持って帰るためにお安くなっていたら買ったらどうかという他のご意見に従いまして記しておきました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃
慶喜公のお母様がやはり有栖川宮織仁親王のお姫様です。イトヘンのお子さん。
5代目職仁親王・6代目織仁親王・8代目幟仁親王・9代目熾仁親王、似たような字でややこしくて難しいから、私たち代々のご先祖様をハバヘンだのミミヘンだのと言ってたの(笑)
私の母はハバヘンの次男、10代目威仁親王の娘です。
高松宮との結婚は、私が二つの時から決まっていたらしいんです。
でも私が知ったのは10歳ぐらいになってから。
母と一緒に初めて御殿へ伺って高松宮をお見上げしたのは昭和2年の春、私が16歳、高松宮が海軍中尉の時でした。
大事なご対面だったのでしょうが、顔も上げられないほど恥ずかしくて、覚えているのは高松宮のスリッパが歩くたびにキュッキュッと鳴る、その音がおかしかったことだけですね。
私たちの結婚は貞明皇后がお決めになったような気がする。
秩父宮妃も会津の松平家からいらっしゃった方ですし、三笠宮妃の御実家の高木正得子爵は幕臣でしょう。
こっちは徳川慶喜の孫。
だから嫁が三人寄るとなんだかみんな賊軍の娘ばかり揃ってる形じゃない(笑)
母が有栖川宮家の出ですからいくらかはわかっているつもりでした。
でも上がりましたら、ぜーんぶ違いましたね。
パリで高松宮が可愛い刺繡をした四角い前掛けを2枚買って下さった。
私がよく食べこぼして胸の辺りを汚すのを気になさったのである。
私は首の後ろのところで紐を結んで前掛けをたらいして、毎朝その格好で朝食をとった。
今思えば何とも滑稽な光景だったろう。
ヨーロッパ旅行を思い返してみると、少し長いドライブをするたび私は実によく眠ったものである。
自動車が走っている間じゅう、私は寝ていた。
お眠りにならないのは高松宮だけで、町なかの人のたくさんいる所にでると、高松宮がつついて起こして下さる。
寝ぼけまなこでニコニコ笑顔を振りまいて町を通り抜けたらまた眠りに落ちる。
スピード違反で白バイに捕まった時も、宮内庁からお小言をいただきました。
オッチョコチョイだからでしょう。
ゴルフ場へ一人で車を運転して出かけたんです。
まだ高速道路がない頃で、清瀬のあたりをいい気持ちで80キロぐらい出して飛ばしていたら、白バイがサイレンを鳴らして追いかけてきたの。
仕方なく止まって免許証を出しましたら、お巡りさん名前を見て驚いたらしく、敬礼して免許書返してくれたんです。
やれやれと思ってゴルフ場へ行ってゴルフしていい気分になって帰ってきたら、宮内庁から電話があって「警視庁より連絡がありましたが、スピードにはお気をつけ下さい」って(笑)
お忍びで方々へ行っても「みんなが御辞儀するから困ってしまう」と言ったら、
高松宮は「異様な言葉と異様な格好をしているからだよ」ってよくからかわれました(笑)
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃
『高松宮様御臨終の記』
私は昭和天皇の御意見を伺いたくて、一度皇居へ上がった。
高松宮がガンでいりゃっしゃることは御存命中一切公表しないことに医師団とも申し合わせができていたが、お亡くなりになったら国民に真実を告げて御遺体は日本の医学の進歩のために解剖に附していただきたいというのがかねてからの私の希望であった。
これはしかし親王の御身体にメスを入れることなので、御兄弟方がうんとおっしゃって下さらないと私の一存では運びにくい。
それで皇居に上がって自分の考えを申し述べたのだが、黙って聞いていらした昭和天皇は力強い御声で「良かろう」と一言だけおっしゃった。
弟宮の御病気が肺ガンであることはすでにご承知であった。
秩父宮妃と三笠宮には、赤十字病院へお見舞いにいらして下さった時に同じことを申し上げた。
お二方とも御賛成で、三笠宮は「当然でしょう。そのことで高松宮妃が考えの古い一部の者から悪く言われるようなことがあってはお気の毒だから、我々みんながそうしたいと思っているんだと言ったっていい」とお励まし下さり、ようやく私の心もしっかり定まった。
日赤病院へ入院したり退院したりが二度繰り返されて、10月には輸血も行われるようになった。
家へ帰ってご療養中は看護婦を一人つけたいのだが、これも申し出ると「イヤだ」とご機嫌が悪く、結局私一人が常におそばにいてご介護申し上げるよりは道がなかった。
夜半介護疲れでうつらうつらし始めると、高松宮はすぐにお気づきになって、
「そんな格好でいると風邪を引くよ」「もう寝なさい」と優しく御声をかけて下さる。
「手をつないで寝ようよ」と私の手をお求めになり、高松宮と二人お手々つないで休んだこともたびたびあった。
暗いのがおイヤでフロアスタンドをつけたままお休みになるのだが、その際私がまぶしくないようにとの御配慮から、必ずスタンドに布をおかけになった。
「早く朝が来ないかなぁ」とおむずかりになったり、
「こんなに至れり尽くせりにしてもらってても治るのかな」と心細い言葉をおもらしになる晩もあった。
昭和天皇は都合3度、高松宮の御見舞にお成りあそばしている。
2月3日、昭和天皇が「容態が思わしくないなら意識のあるうちに見舞いたい」と仰せ出された由で、突然ことが決まり赤十字病院へ急なお成りとなった。
昭和天皇が病室へお入りになってかがみ込むように御顔を高松宮の御顔にお近づけになった時には、もはや意識がおありにならなかった。
昭和天皇もそれ以上どう遊ばしてよいかおわかりにならぬ御様子だし、私は困り果てて、
「お手でも取って差し上げていただけましたら」とお願い申し上げた。
昭和天皇が高松宮のお手をお取りになった。これが御兄弟最後のお別れになってしまった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃の妹 徳川久美子→松平久美子→井出久美子 徳川慶久公爵の娘
昭和天皇にも幾度かお目にかかる機会がありました。
高松宮が御病気になられ、御見舞にいらっしゃった時でした。
義兄高松宮邸の玄関は段差があるため心配になり、私が思わず昭和天皇の手をお取りしようとしたら、昭和天皇が私の手をサッと振り払われたのです。
高松宮は酸素ボンベの管をつけたまま大いに笑われて、
「振り払われてるよ」とおっしゃりながら大変愉快そうに喜ばれておられました。
恐れ多くも昭和天皇の手を取ろうなんて誰も考えないことですからね。
普通のご兄弟のように、和やかにお話を交わされていたお姿が思い出されます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃
高松宮妃◆高松宮が兵学校を御卒業になって有栖川宮の御殿にお移りになった。
その御殿にお見合いかなんかに私を連れて行ったわ。
私は顔もあげられないのよね。
私忘れないのですけどね、高松宮のスリッパがキュッキュッ、キュッキュッ鳴って。
それだけが私おかしくてね。
もうそれこそ箸が転がってもおかしい年頃でしょ。
私おかしくてしようがないし、笑うわけにはいかないし。
━━御話あそばしたの?
高松宮妃◆そんなのできるもんですか。母がみんなおしゃべりしたわよ。
お嫁に来たのが2月8日。
それで(世界一周のために)横浜を出たのが4月21日
その間に京都で御披露があるやら桃山御陵と橿原神宮とかね、泉山御陵と言ったかしら、みなそれに二度行ったのよ。
そして赤坂離宮で御披露があったの。
まるで朝昼晩ぶっ通しみたいな。
もうくたびれたわ。
それで2ヶ月後に外国ですものね。
そのために洋服の仮縫いがこれまた大変なの。
くたびれて三度卒倒したわよ。
でもとにかくなんとかなって。
だって船に乗っても毎晩イブニングでしょ、大変ですよ。
━━でも船に乗ったらホッとされたでしょう?
高松宮妃◆いいえ、しませんよ。だって知らないんですもの、旦那様という方を(笑)
だって今みたいに毎日毎日お会いしたなんていうのは本当に考えられないようなことよ、アハハハ。
私バッキンガムパレスで一貫目減ってしまったの。
高松宮はね、イブニングを着ると手が細くてみっともないって。
「もっと食え、もっと食え」とおっしゃるの。
食べても太れなかった。
今は食べなくても太るのよ。
「手術はできないか?照射はできないか?何かできないか?」と矢継ぎ早にお尋ねしたら、すべてダメだと。
先生から「対症療法で行きましょう」と言われまして。
私は頭をガーンとやられた思いでした。
まさかそこまでとは思わなかった。
もっと早く診ておもらいになればよかったのにね。
いつも私がレントゲンを撮りに行く時に「ご一緒に行きましょう」って申し上げてたのよ。
でも頑として「いやだ」とおっしゃるから、仕様がないじゃない。
まあ、戦争でお亡くなりになったと思えば仕方ないけどね。
戦後にあれだけのことをおやりになって、亡くなった人たちのことやら遺族のことやらね。
考えてみると償いというのかしら、自分はいつ死んでもよいというお気持ちがおありになったと思う。
御兄弟がうんとおっしゃらなければ、私だけが一人で解剖に賛成したっていうのでは申し訳ないから。
それで昭和天皇のところへ伺って、
「日本の医学のために解剖をさせていただきたいと思いますが、私が一人でそういうことをいたしますのはどうかと思いますので、いかがでございましょう」って伺ったの。
そしたら、「よかろう」とおっしゃった。
ひと言ですよ。
秩父宮妃と三笠宮が御見舞にいらしたので、このことを申し上げたら、
三笠宮が「それは当然でしょう。高松宮妃が悪く言われるようだったらお気の毒だから、我々がそういう風なことを言っていると言ってもいい」とおっしゃってくださった。
結局御三方ともイエス。
昭和天皇は御見舞に二度お出ましいただいたの。
高松宮が「近所にどこかおいしい御菓子はないか?」とおっしゃったの。
それで考えて松島屋のお団子にしたの。
昭和天皇はおいしそうに召し上がって、お帰りになった。
三度目は赤十字病院にお見舞いにいらしてくださった。
高松宮は大変お苦しみだったのですが、そのうちにおわかりにならなくなってしまったの。
そのおわかりにならない所に昭和天皇がいらしちゃった。
私本当に困ってしまって。
昭和天皇もどう遊ばしてよろしいかおわかりにならないでしょう。
とっさに「せめてお手でも取って差し上げていただけましたら」とお願い申し上げたの。
それで昭和天皇が高松宮の手をお取りになってくださって、それが御兄弟の最期のお別れになってしまって本当に残念なことでした。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃×秩父宮勢津子妃
高松宮妃◆2月に結婚したばかり。
出発までが大変だったの。
桃山御陵だとかお伊勢様だとか。
秩父宮妃◆あの時はお上がりになって早々だから。
折々、いちいち必ずお参りいたします。
高松宮妃◆そして14カ月でしょ。
今と違ってすべてお船。
のびてしまいますよね。
高松宮妃◆あの空襲は忘れられません。
うちは焼けなかったんだけど、御所だの大宮御所だの秩父宮邸だの、みんな焼けました。
お使いが自転車で来たのです。
私はびっくりして別当を連れてすぐ自転車で駆けつけたの。
そしたら六本木辺りの電線が垂れ下がって危なくてしょうがない。
でもそこを通って行ったら御所で。
御守衛の兵隊さんがただボーッと立っているの。
ザーッと向こうの木だけ見えて、御所はみんな灰になってしまっていた。
すぐ貞明皇后の御座所の防空壕に伺って。
高松宮妃◆昭和天皇がいらっしゃれない所をところみんな回ろうという御気持があったのだと思うの。
秩父宮妃◆戦後の日本は戦前と違って県においでになっても、県でアレンジして固いところを御見学、県が選んだ所のみになりがち。
高松宮はそうじゃなくて、日本の立ち直りのために一生懸命やって見かけはまだ整わない企業などをかなり御視察になった。
高松宮妃◆若い時に高松宮から伺ったことは、皇族というのは結局昭和天皇をお助けするという意味で、筬のように動かなきゃいけないとおっしゃった。
筬というのは機を織る時に行ったり来たりするでしょ。
糸があって、こっち行ってあっち行って筬のごとくということですよ。
年に一回昭和天皇とお二人でお話になる機会があったの。
高松宮の御誕生日のお祝いのおいただきもののお礼にいらっしゃるわけ。
その時にいろんなことをおっしゃってるみたい。
秩父宮妃◆いつも御一方で。
高松宮妃◆御単身。
その時は誰もいないわけだから、いろいろお話をなさったらしい。
三笠宮妃◆高松宮御還暦後でしたが、それまで歯医者に行ったことないっておっしゃるの。
いいお歯で。
高松宮妃◆それで二人でおどかしてね(笑)
三笠宮妃◆「これから歯医者に行くんだけど、歯医者って痛いかね?」ってお聞きになるから。
「とっても痛い」って言って御顔色をうかがったの。
高松宮妃◆二人でギャーギャーおどかした。
面白かったわね(笑)
三笠宮妃◆「ガリガリやられます」とかね。
そうすると本気になられて「そうか」と顔色が変わられた。
秩父宮妃◆でも結局はおいで遊ばしたの?
高円宮妃◆そう。
「あんなこと言われたけど痛くない」とブツブツ言ってらした(笑)
ちゃんと一本作っておもらいになったんですよ。
ところがお作りになったのはいいんですが、取ったりはめたりできるような御歯なのね。
一度はずしたらどうやって入れるのかおわかりにならない。
それで私がいちいちお教えするわけ。
そしたら「こうか、こうか」って、とうとう御自分で図をお書きになってね。
なんでもそういう御調子なんです。
きちんきちんと細かくていらっしゃるんだから。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
三笠宮寛仁親王 1977年
高松宮はお酒をお飲みにならない。
僕が原稿に、ウイスキーの中じゃシーバス・リーガルが好きだって書いたわけ。
そしたら次に高松宮邸にうかがったら、もうシーバス・リーガルがどーんと置いてある。
高松宮御夫妻はタバコをお喫いにならないのに、セブンスターとハイライトが置いてあるの。
僕と高円宮がセブンスターで、桂宮がハイライト喫うんだよ。
そういうのが実にさりげなく置いてある。
お子さんがいらっしゃらないのにね。
ウチなんか息子たちがこれだけ酒飲んでタバコ喫うのに、両親とも気がつきませんからね。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
三笠宮寬仁親王 1999年
ガンという病気だけは、隠したところでいいことは一つもありません。
しかし残念ながら高松宮の場合、高松伯母様の御意見は私と違いました。
高松伯母様は私に肺の大きなレントゲン写真を見せてくださって、「もうダメなの」と。
「私は絶対に言わないからね。一の子分のあなたが口を閉ざしてくれれば周りには漏れないから頼みに来たの」と仰るわけです。
私は「伯母様の仰せのままに致します」と申し上げました。
高松伯父様のところに見舞いに行くわけですが、その度に嘘をつくことになるわけです。
ただ高松伯父様の年代の方々は「ガン=死」という意識が強いのだと思います。
したがって、高松伯母様の決断も致し方なしと自分に言い聞かせるしかありませんでした。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
三笠宮寛仁親王 2008年
秩父伯父様がいらっしゃらなくなってから、必然的に高松伯父様の後ばかりくっつくようになったのです。
私の父は学者で、研究室に閉じこもってました。
教育もシツケも全部母任せで、困った母が「高松宮様のところに行ってらっしゃい」と言って、よく我々兄弟を行かせた。
高松伯父様はお子様がいらっしゃらないのに、本当に我々を可愛がってくださった。
お金持ちの宮様だから、我が家と違ってごはんもおいしいし。
お呼ばれしたり行ってこいと言われると、喜び勇んで出かけていきました。
中学生からは高松伯父様がスキーや山へ行かれる時にお供するようになりました。
高校生からは高松伯父様の御殿にはお酒がふんだんにありましたから、生意気にも一人飲みながら「皇族とはどうあるべきか」という御相談をよくしていましたね。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
1905-1987 82歳没
■学習院幼稚園で選ばれた御学友 4名
火曜日・土曜日に出仕して日曜日は待機
黒田治雄
五島盛輝
相良頼知
吉川重武
■学習院初等科で選ばれた御学友 14名
月・水・金の午後に出仕
池田政鈞
岩倉具実
大浦兼次
岡部長建
黒田治雄
五島盛輝
五辻隆仲
西郷従純→古河従純
杉重夫
仙石久武
野村親共
水野忠泰
宮原旭
吉川重武
■学習院中等科1年生で選ばれた御学友 8名
岩倉具実
西郷従純→古河従純
仙石久武
戸田氏重
成瀬現 →弘世現
野村巍
水谷八郎
宮原旭
■学習院中等科2年生で選ばれた御学友 6名
岩倉具実
西郷従純→古河従純
仙石久武
成瀬現 →弘世現
野村巍
水谷八郎
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
黒田治雄 学習院幼稚園の御学友・黒田善治男爵の子
初めて御殿に連れられていった時のことは今でも覚えている。
男の人はみんな黒い服(フロックコート)を着ており、女の人は私の知らない言葉を使っている。
普通なら母親が出て来て「よく来ましたね」とか言われて部屋に上るのだが、それらしい御人の姿も見えない。
大変な所へ来たものだと怯えを感じたものだ。
でも侍女の方たちが親切で、とまどいながらもすぐになじめる方々であった。
私たちは侍女の方たちを先生とお呼びした。
力士の大相撲が行われ、御両親〔大正天皇夫妻〕もおなりになった。
そして柳原二位局がお雛様のような御髪・御召物で御供なさってこられたのにはビックリした。
しかし何よりも私が大変なショックを受けたのは、宮様方が御両親と一緒にお暮ししていないということだった。
なぜかと母に何回も問いただしたことをハッキリ覚えている。
思い出しても、高松宮が先頭に立って私どもが追いつけないような活動をなさったという記憶はない。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
三笠宮崇仁親王
実は秩父宮は海軍志望だった。
そして高松宮は陸軍を志望していたんです。
ところがそのころは陸軍の方が力関係が強かったせいもあって、最初の皇族は陸軍に次の皇族は海軍へということになったんです。
高松宮は実は船に弱かったんですよ。
おそらく海上勤務ではずいぶん苦労したと思います。
私の番になるとどっちでもいいと。
私はそのころ乗馬に熱中してましたので陸軍を選んだわけです。
ただ問題は幼年学校から入るか士官学校から入るかということでした。幼年学校から入る人は中学1年か2年を終わって入る。
士官学校へ入る人は中学の4年か5年を終わって受ける。
秩父宮は幼年学校から入ったわけですが、貞明皇后はどうも秩父宮が幼年学校から入ったために一般的な常識とか教養を身につける時間が少なかったと思われたようです。
ですから私は学習院中等科4年を修了してから士官学校の予科に入りました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
吉野捷三 海軍中佐
高松宮は酒・煙草は嗜まれず、甘味が大好物。
夜食の汁粉とおはぎには目がなく、お代わりの健啖家ぶり。
昼食後の休憩時間は、いつも士官室のソファで将棋に熱中されていた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
細谷宏 海軍少佐
士官室での休憩時には毎回のように高松宮の将棋の御相手を仰せつけられた。
私は「王より飛車を大事がる」程度の素人将棋であり、高松宮の将棋の御力も五分五分の程度でした。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
野村実 海軍大尉
1944年マリアナ沖海戦の決戦は6月19日となったが、〈大鳳〉〈翔鶴〉が沈み、航空攻撃が期待した
戦果を挙げていないことが判明した当日夜、作戦室で戦況を見られていた高松宮が鋭い声で、「嶋田総長は来ないね」と言われたのが印象に残っている。
そのころ高松宮と軍令部総長嶋田繫太郎の関係が険悪であることは、誰の目にも明らかであった。
戦況説明の会合の時 二人の視線が合ったはずなのに、お互いに挨拶もないように思えることが多かった。
嶋田総長は翌6月20日午後になって作戦室にやってきた。
午前中は戦況を上奏するためではなかったかと思う。
嶋田総長の失望の色は覆うべくもなかった。
作戦室のソファに腰を落し、身動き一つしない。
誰もが無言の作戦室のソファで、嶋田総長は立ち上がる気力も失ったようにいつまでもいつまでも座り続けていた。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
侍従 岡部長章 回想記
私の受けた印象では、昭和天皇の悩みの種は主として陸軍だったようです。
侍従武官長の宇佐美中将が御前に出ている時に、昭和天皇がちょっと激しい調子で御話になるのを耳にしてしまったことがありました。
二二六事件の時の武官長は本庄繁大将で私が3月20日に侍従になって三日間ほどで退官、宇佐美中将が新たに就任したのです。
宇佐美さんが拝謁している時に、「壬申の乱のようなことになる」という意味の事を大声で申されたのが聞こえました。
秩父宮を担ごうとする陸軍の運動があったと仄聞していたので、それに関連することだなと思いました。
秩父宮が多少激しい御性質の方だということは私も心得ていました。
それをまた陸軍の青年将校が担ごうとするのです。
おそらく宇佐美武官長は昭和天皇に対して、秩父宮の意見もいろいろ聞いてほしいと言ったのではないでしょうか。
それで昭和天皇が壬申の乱というような例を持ち出されたのだと思います。
ところが宇佐美武官長は「はあ」とか言って、壬申の乱が何なのかわからない様子でした。
秩父宮のようなお直宮が昭和天皇に会われるのは奥の方になります。
当時秩父宮は陸軍の佐官でしたから、御兄弟として来られるだけで軍事上の奏上はできません。
陸軍では皇族を金枝玉葉の御身分などと言いますが、それも昭和天皇にとってはプライベートな関係だけになります。
朝香宮が陸軍内のことに触れ、叱られて退出されたこともあります。
階級は大将でも軍事参事官で、上奏する立場ではなかったのです。
昭和天皇はそうした公私の別を固くお守りになりました。
陸軍の過激な将校は、この点の認識が足りません。
勝手に思い入れをしていたのです。
高松宮に対しても細川護貞君が懸命にネジを巻いたようですが、高松宮はそれを受け入れず、秩父宮・高松宮とも、この点ははっきりと身を処せられました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮宣仁親王』高松宮宣仁親王伝記刊行委員会
高松宮妃が高松宮が亡くなられた一年後に発刊された写真集を携えて寒中御機嫌伺に御参内、昭和天皇に差し上げた時、ページをめくられていた昭和天皇は熊のぬいぐるみの写真に目をとめられ、
「そう言えば高松宮は子供のころ熊が好きでね」と笑われた。
学習院初等科に御入学になった高松宮は、地理・歴史・算術がお好きなようだった。
図画・手工は幼稚園時代からあまりお好きでなく、唱歌はもっとも苦手であった。
いつもニコニコと顔色をお変えにならない三笠宮に比べて、高松宮はどちらかと言えばワガママ。
おイヤな時はすぐ御気持が御顔に現れる。
高松宮は大変率直な言動をなさった。
高松宮は昭和天皇と同様、お酒はお飲みになれなかった。
ただ宴席でにぎやかに過ごされることはお好きだったようである。
煙草は昔、いたずら程度に軽く煙を出された。
趣味としてはスキー・ゴルフは別として、収集癖がおありだった。
切手・コイン・マッチのレッテルなどをお集めになっておられた。
封筒から切手をはがす作業も職員にはお手伝いさせなかった。
書斎で御一人、洗面器に水を入れて御自分ではがされた。
その御姿を拝見した職員は、高松宮の孤独をしみじみと感ずるのであった。
高松宮は御旅行先でよく御風呂にお入りになった。
野天風呂があれば、野天風呂の方をお使いになった。
また高松宮は麻雀がお好きだった。
御旅行先では午前2時、午前3時までどてら姿で興じられた。
しかしどんなに遅くなっても、翌朝は早くお目覚めになる。
麻雀を御一緒した関係者たちは、仲居さんから「高松宮様はもう起きておられますよ」と起こされるのが常だった。
「あの早起きにはまいった」と言う関係者もいる。
高松宮は神々や祖先をお祀りするのに大変御熱心であった。
もともと高松宮家は有栖川宮家の祭祀を継承されている。
有栖川宮幟仁親王が初代総裁となられた皇典講究所は国学院大学の母体である。
第二次世界大戦の敗戦と共に日本人の国家観・価値観は根底から崩れ、国家としての秩序も人間としての道徳も姿を変えた。
高松宮は国民精神の頽廃を憂慮され、日本の伝統的精神の護持・国体の護持に深い祈りを捧げられた。
明治神宮の戦災復興に非常に御尽力、また靖国神社をはじめ全国の神社の式年祭・例大祭には進んで参列された。
靖国神社の春秋の例大祭には高松宮妃とお揃いで参拝されるのが常であった。
敗戦後高松宮は心学に興味をお持ちになり、昭和20年代から石門心学の石川謙にたびたびお会いになっている。
高松宮は天理教の中山正善管長ともお付き合いされ、天理教についての知識を得られた。
1949年4月19日、奈良県天理市で開催された天理教全国体育大会にも御出席になった。
そのあと中山管長と一緒に奈良・京都をお回りになっている。
翌年も天理教全国体育大会に御出席になっているし、その後も中山管長との御親交は続いた。
中山管長宅にもよく泊まられている。
教義についてもいろいろと御理解されたことであろう。
高松宮は戦前の海軍時代に肺結核を患われたことがある。
戦後は1963年湿性肋膜炎に罹られたが、それ以外はこれといった御病気はなさっていない。
しろい御飯がお好きで、昔は柔らかすぎるとか固すぎるとかよく言われた。
秩父宮が小魚の骨や頭を召上らなかったのに、高松宮は頭から召し上がった。
果物は梨がお好きで、洋菓子より和菓子がお好き。
80歳を過ぎてもスキーをなさるほど御元気で、御健康状態は至極およろしいようにお見受けした。
湿性肋膜炎が治癒された1964年以降、レントゲン写真も撮っていらっしゃらなかった。
1986年青葉の頃から高松宮は御身体の不調を訴えられ始めた。
7月には5キロも体重が落ち、吐き気を催されるようになった。
不安をお感じになった高松宮妃が専門医による精密検査をお勧めになり、7月12日高松宮は国立がんセンターで検査を受けられた。
検査の結果、右肺上部に5センチ四方の陰影が発見された。
また胸部縦隔のリンパ節への転移とみられる個所も見つかり、肺ガンがかなり進んだ段階にあるのではないかといの診断がなされた。
7月14日国立がんセンターは高松宮に老人性結核であると申し上げた。
高松宮妃にはその直後極秘にお会いし、診断通りの事実を申し上げている。
昭和天皇には高松宮妃が御自身で正確に事実関係を申し上げ、御了承をいただいた。
7月21日高松宮は改めて日本赤十字社医療センターに検査入院された。
精密検査から右肺上葉の扁平上皮ガンと診断され、すでに手遅れの状態であった。
医師団は憂慮すべき深刻な事態に直面した。
高松宮はまもなく82歳になられる。
御入院による積極的な強い治療はなるべく避けて、高松宮邸での御静養を中心に無理のない対症療法で極力御寿命を延ばしていただこうという方針が立てられたのである。
7月・8月は比較的御元気でいらっしゃったが、9月になると肺ガン特有の症状である血痰があらわれた。
9月いっぱいは御自分の運転でおでましになっていたが、10月に入るとそれも御無理となった。
御咳は喀血を伴い、頻繁となった。
高松宮が薨去される前年の1986年秋、松山市で全国傷痍軍人大会が開催された。
高松宮の御病状はすでに悪化、衰弱しておられた。
日本傷痍軍人会は笹川良一が会長をしている。
高松宮は「義理があるからな」と一言、空路松山へ向かわれた。
機中、高松宮は苦しそうにじっと我慢しておられた。
お好きなカメラを取り出すことさえできなかった。
宿舎にお着きになったが、そそまま部屋へはお進みになれないほどのひどいお疲れであった。
高松宮は玄関脇で崩れるように休息を取られた。
その夜は喀血がひどく、高松宮妃が背中をおさすりしたが、咳き込みは止まらず幾度となく喀血された。
10月22日から28日まで、日本赤十字社医療センターに再入院をされ輸血を続けられた。
その後はまた高松宮邸で療養された。
医師団は看護婦をおつけするようにと申し上げたが、高松宮は御承知ならさず最後まで高松宮妃を頼りにされた。
11月に入ると血痰の量や回数が増え、貧血の症状が見られるようになった。
11月12日昭和天皇は高松宮邸においでになり、高松宮を見舞われた。
異例のことである。
10月に高松宮が再入院されると、昭和天皇は以前から予定されていた東京ディズニーランドへのお出ましを中止され、高松宮邸への御訪問となったのである。
12月に入ると高松宮の体力はさらに減退された。
高松宮邸での御療養と併行して、週一回日本赤十字社医療センターに通院された。
治療は栄養補給のための点滴・輸血が中心であった。
年末年始は小康状態で、御見舞客にもお会いになった。
ガンの増大により右肺の機能がかなり低下したため酸素不足となられ、1987年1月14日から小型酸素ボンベを使い酸素吸入を始められた。
血痰の量が増え排出が難しく、また輸血によっても貧血への対応がしにくくなってきた。
夜中に呼吸困難の発作が多くなり、全身衰弱の様相が強まった。
1月23日昭和天皇が再び御見舞においでになった。
昭和天皇と高松宮が会話を交わされたのはこれが最後であった。
1月27日また日本赤十字社医療センターに入院された。
御入院後も37~38度の熱が下がらず、激しく咳き込まれた。
2月1日多少御気分がよろしかったのか、高松宮は看護婦に「写真を撮ってあげよう」と声をおかけになり、カメラを向けられた。
しかし夜になるとついに肺炎を併発されて、御容体は危険な状態に陥った。
2月3日昭和天皇の御見舞が急に決定した。
病室に入られた昭和天皇はかがみ込むようにして御顔をお近づけになられたが、高松宮は昭和天皇の目を見つめておられた。
しかし意識がおありになったかどうかはわからなかった。
院長が「ただいま御臨終でございます」と高松宮妃にお伝えした。
高松宮妃は高松宮の胸に顔を伏せられてお泣きになった。
このあと高松宮妃は医師団・看護婦たちに「いろいろ御世話になりました」と頭を下げられた。
御見舞から皇居へお戻りになった昭和天皇は、午後2時高松宮薨去の報告をお受けになった。
昭和天皇は「あれから早かったね」と一言おっしゃった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
■妻 徳川喜久子 将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵&有栖川宮実枝子女王の娘
1911-2004 92歳没
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃の親友 岩崎藤子 伊集院彦吉男爵の娘・磐城セメント岩崎清七の子岩崎道之輔の妻
高松宮妃◆藤子さんとはお父様からのお繋がりなのよ。藤子さんのお父様が伊集院彦吉とおっしゃってね。ちょうど私の父が第一次世界大戦の時に赤十字から派遣されて世界を回ったの。その時にイタリア大使でいらしてお世話になったの。
それでお友だちの中で一番仲がいいの。
岩崎◆私の母は大久保から来ているもので。
高松宮妃◆大久保利通のお孫さんなんですよ。
岩崎◆だから徳川幕府と明治維新で仲がよくないの。
高松宮妃◆そうなのよ。あんまり仲よくないのよ(笑)
御婚礼の数日後いまの迎賓館当時の赤坂離宮で御披露がございまして、同級生は全員お茶に呼ばれましたが、私は早めに迎賓館に来るようにとのお召しでしたので駆けつけますと、
高松宮妃が「今日は大変よ。一日に二度も髪を結い直さなければならないし、忙しくて仕方ないわ」などと照れ隠しにさも面倒らしくおっしゃっているところに、
高松宮がお出ましになりまして「喜久子は今日はマネキンだよ」と御冗談をおっしゃいまして、愉快そうにお笑いあそばしました。
ご新婚のために建築に取りかかりました新御殿がご成婚に間に合わず、やむを得ず魚籃坂のあたりに急ごしらえの借り御殿ができまして、そこに徳川家からお持ちになりましたお雛様をお飾りあそばしまして、宮家で初めてのお節句をするから私にも来るようにと高松宮妃からお召しがございましたので、仰せのごとくに上がらせていただきましたら、なんと両殿下がお手をつないで奥から出ていらしたのにはもうビックリしまして、あら、まあって申し上げたことを思い出しますが、本当にお幸せそのもののようにお見受け申しました。
バッキンガム宮殿からの高松宮妃のお手紙に
『お手紙たしかにありがとう。藤子さんのお手紙を見ようと思ったら、高松宮が見せろとおっしゃったから、私は逃げ回ってベッドの周りで追いかけられて抱きしめられて取られちゃったのよ』って書いてあったの。
1年2カ月にわたる長い御洋行からお帰りになりました時、私たちは完成したばかりの新御殿でお出迎えしましたが、高松宮妃は大変におきれいで、お帽子などもパリでお誂えになって本当に素敵でしたが、
私にだけはこっそり「ねえ、やっぱり痩せちゃったのよ」とおっしゃいまして、
「胴まわりなんてこんなに細くなっちゃって、帰ってきたらタンスにしまってある洋服なんてみんなブカブカなのよ」と苦笑いをなさいました。
私が片づきました岩崎の父清七は福沢諭吉翁の紹介でイエール大学などに留学して実学を学び、帰国後は磐城セメント・日清紡績・日本製粉・東京ガスなどの創業に関わりました。
私が嫁に参りました時にはガスの冷蔵庫がございまして、こんなものが世の中にあるのかと思いました。
藤岡の田舎を高松宮妃がお気に召しまして、「これから行くわよ」とおっしゃいますので、
「東京から遠いし、田舎でございますから」と申しましても、
「平気よ」とご自分でお運転遊ばして、故障があった時の用心に必ず日産の課長さんが助手席に同乗していました。
それまでは正直申しまして義父が持っておりました醤油会社など意識もしておりませんでしたが、これが物のない非常時には助かりました。
醤油の原料は大豆でございますから、お豆腐屋さんに大豆油とメリケン粉を渡しますと、バーターでがんもどきをこしらえてくれました。
これを高松宮妃に申し上げましたら、
「この非常時に珍しいし節子皇太后にお目にかけたいから、少し持ってきて」とおっしゃいますから、すぐに誂えて御殿へ上がりまして、
「こんな粗末な物を節子正皇太后に献上しましても大丈夫でございますか?」と申しますと、
「あなたのように地方に疎開している人はわからないだろうけど、東京に住んでいると食べ物には苦労するのよ」との仰せでした。
醤油なども高松宮妃はお喜びで、東京からお友達を3人くらいお車にお乗せになってよくおでましになり、
「醤油のおかげさまね」などとおっしゃいましたことを覚えております。
それからお沢庵、しかも高松宮妃は古漬がお好きですで、田舎にはいくらでもございますが、それも節子皇太后にお目にかけたいから持ってきてという御催促で、当時は宮家でもそんなご事情でございました。
高松宮妃は貞明皇后に本当にお尽くしでございました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮宣仁親王から姑徳川実枝子への手紙
1930年年6月22日
その後益々御元気の御様子で結構に存じます。
こちらもみな丈夫すぎるぐらい。
この模様なら1年無事に帰れそうですが、先のことはどうもわかりかねます。
それはさておき、さすが御育ての効ありて、インド洋上『日本女性のために万丈の気をはきて』〔当時の新聞報道〕寝つきは悪うございますが、朝はほっておけばいつまでも【たり】。
それで自動車に乗れば、景色も凸凹道もありません。
もっともスイスもフランスも道路はよろしすぎて、あまりドスンバタンとしません。
パリはやはりお買い物の都らしく、それが唯一のお楽しみのようですが、できれば日曜がたびたびあるとよいと考えます。
どの店も日曜日は閉まってしまいますから。
目下はロンドンから新しいおべべができてくるのをお待ちかねで、スイスの景色などちっとも目に止まらなかったのではないかと思います。
英語もフランス語もさらには進歩しないようですけれど、御用掛の部屋に電話をかけるのは流暢なもので。
ボアの森でお馬に乗りたいらしいのですが、とても実現には至りますまい。
なにしろ御安心くださいませ。
御機嫌よろしゅう。
パリにて 宣仁
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃から母徳川実枝子への手紙
ドーバーより
はるかに御機嫌をお伺い申し上げます。
こちらにては高松宮も何の御障りもなく、御供の者一同も丈夫に過ごしておりますからなにとぞ御安心あそばしていただきます。
夜は王宮の大晩餐会に国王に手を引かれて出席。
華やかな全て見たことのないにぎやかさのうちに、楽隊の奏でる音楽を聴きつつ、左にいらしゃる国王、右にいらっしゃるコンノート殿下とお話いたしました。
御食事がデザートになりましたとき国王の日英親善の御挨拶があり、高松宮の御答礼がございました。
終始一貫その御態度が御立派であらせられましたのは、私どもの最もうれしかったことでございます。
食事中に一羽の鳩が高い天井の鴨居をあっちこっちへ飛んでおりました。
おめでたい印とか申しますね。
それからスコットランドの王様に献ずる笛の楽隊の音楽を聴きました。
やまかしいものでございますが面白うございます。
王様はかなり御丈夫で、お死にかけになったとは見えません。
王妃もいろいろ世話を焼いて下さいました。
宮殿はそれはそれは静かで良い場所でございますが、何となくキュークツでございます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃から松平信子への手紙
1930年12月23日
<フィレンツェより洋装の相談>
だいたいこのぐらいでどうかと思いますが、もっとも最小限度が常に目標でごさいますから、そのおつもりで。
もし何かこうしたらとおっしゃって下さいますようなことがございましたら、また便利な物とか何かお気づきでございましたら、それを教えていただきとうございます。
もっともアメリカでは去年の残りを入れることにしておりますが、アメリカのことはそなた様の方がよくご存知でいらっしゃいますからお任せしたいと存じますから、どうぞよろしいように、わたしに似合いますように、使ってもおかしくないように作っていただきとう存じます。
だいたい4月から5月いっぱい6月にかけてまで必要と存じます。
あまり新しい物よりも少し落ち着いたさっぱりした物がよくはないかというのが私の意見でございます。
毛皮は流行もございましょうから、これは日本へ持って帰るためにお安くなっていたら買ったらどうかという他のご意見に従いまして記しておきました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃
慶喜公のお母様がやはり有栖川宮織仁親王のお姫様です。イトヘンのお子さん。
5代目職仁親王・6代目織仁親王・8代目幟仁親王・9代目熾仁親王、似たような字でややこしくて難しいから、私たち代々のご先祖様をハバヘンだのミミヘンだのと言ってたの(笑)
私の母はハバヘンの次男、10代目威仁親王の娘です。
高松宮との結婚は、私が二つの時から決まっていたらしいんです。
でも私が知ったのは10歳ぐらいになってから。
母と一緒に初めて御殿へ伺って高松宮をお見上げしたのは昭和2年の春、私が16歳、高松宮が海軍中尉の時でした。
大事なご対面だったのでしょうが、顔も上げられないほど恥ずかしくて、覚えているのは高松宮のスリッパが歩くたびにキュッキュッと鳴る、その音がおかしかったことだけですね。
私たちの結婚は貞明皇后がお決めになったような気がする。
秩父宮妃も会津の松平家からいらっしゃった方ですし、三笠宮妃の御実家の高木正得子爵は幕臣でしょう。
こっちは徳川慶喜の孫。
だから嫁が三人寄るとなんだかみんな賊軍の娘ばかり揃ってる形じゃない(笑)
母が有栖川宮家の出ですからいくらかはわかっているつもりでした。
でも上がりましたら、ぜーんぶ違いましたね。
パリで高松宮が可愛い刺繡をした四角い前掛けを2枚買って下さった。
私がよく食べこぼして胸の辺りを汚すのを気になさったのである。
私は首の後ろのところで紐を結んで前掛けをたらいして、毎朝その格好で朝食をとった。
今思えば何とも滑稽な光景だったろう。
ヨーロッパ旅行を思い返してみると、少し長いドライブをするたび私は実によく眠ったものである。
自動車が走っている間じゅう、私は寝ていた。
お眠りにならないのは高松宮だけで、町なかの人のたくさんいる所にでると、高松宮がつついて起こして下さる。
寝ぼけまなこでニコニコ笑顔を振りまいて町を通り抜けたらまた眠りに落ちる。
スピード違反で白バイに捕まった時も、宮内庁からお小言をいただきました。
オッチョコチョイだからでしょう。
ゴルフ場へ一人で車を運転して出かけたんです。
まだ高速道路がない頃で、清瀬のあたりをいい気持ちで80キロぐらい出して飛ばしていたら、白バイがサイレンを鳴らして追いかけてきたの。
仕方なく止まって免許証を出しましたら、お巡りさん名前を見て驚いたらしく、敬礼して免許書返してくれたんです。
やれやれと思ってゴルフ場へ行ってゴルフしていい気分になって帰ってきたら、宮内庁から電話があって「警視庁より連絡がありましたが、スピードにはお気をつけ下さい」って(笑)
お忍びで方々へ行っても「みんなが御辞儀するから困ってしまう」と言ったら、
高松宮は「異様な言葉と異様な格好をしているからだよ」ってよくからかわれました(笑)
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃
『高松宮様御臨終の記』
私は昭和天皇の御意見を伺いたくて、一度皇居へ上がった。
高松宮がガンでいりゃっしゃることは御存命中一切公表しないことに医師団とも申し合わせができていたが、お亡くなりになったら国民に真実を告げて御遺体は日本の医学の進歩のために解剖に附していただきたいというのがかねてからの私の希望であった。
これはしかし親王の御身体にメスを入れることなので、御兄弟方がうんとおっしゃって下さらないと私の一存では運びにくい。
それで皇居に上がって自分の考えを申し述べたのだが、黙って聞いていらした昭和天皇は力強い御声で「良かろう」と一言だけおっしゃった。
弟宮の御病気が肺ガンであることはすでにご承知であった。
秩父宮妃と三笠宮には、赤十字病院へお見舞いにいらして下さった時に同じことを申し上げた。
お二方とも御賛成で、三笠宮は「当然でしょう。そのことで高松宮妃が考えの古い一部の者から悪く言われるようなことがあってはお気の毒だから、我々みんながそうしたいと思っているんだと言ったっていい」とお励まし下さり、ようやく私の心もしっかり定まった。
日赤病院へ入院したり退院したりが二度繰り返されて、10月には輸血も行われるようになった。
家へ帰ってご療養中は看護婦を一人つけたいのだが、これも申し出ると「イヤだ」とご機嫌が悪く、結局私一人が常におそばにいてご介護申し上げるよりは道がなかった。
夜半介護疲れでうつらうつらし始めると、高松宮はすぐにお気づきになって、
「そんな格好でいると風邪を引くよ」「もう寝なさい」と優しく御声をかけて下さる。
「手をつないで寝ようよ」と私の手をお求めになり、高松宮と二人お手々つないで休んだこともたびたびあった。
暗いのがおイヤでフロアスタンドをつけたままお休みになるのだが、その際私がまぶしくないようにとの御配慮から、必ずスタンドに布をおかけになった。
「早く朝が来ないかなぁ」とおむずかりになったり、
「こんなに至れり尽くせりにしてもらってても治るのかな」と心細い言葉をおもらしになる晩もあった。
昭和天皇は都合3度、高松宮の御見舞にお成りあそばしている。
2月3日、昭和天皇が「容態が思わしくないなら意識のあるうちに見舞いたい」と仰せ出された由で、突然ことが決まり赤十字病院へ急なお成りとなった。
昭和天皇が病室へお入りになってかがみ込むように御顔を高松宮の御顔にお近づけになった時には、もはや意識がおありにならなかった。
昭和天皇もそれ以上どう遊ばしてよいかおわかりにならぬ御様子だし、私は困り果てて、
「お手でも取って差し上げていただけましたら」とお願い申し上げた。
昭和天皇が高松宮のお手をお取りになった。これが御兄弟最後のお別れになってしまった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃の妹 徳川久美子→松平久美子→井出久美子 徳川慶久公爵の娘
昭和天皇にも幾度かお目にかかる機会がありました。
高松宮が御病気になられ、御見舞にいらっしゃった時でした。
義兄高松宮邸の玄関は段差があるため心配になり、私が思わず昭和天皇の手をお取りしようとしたら、昭和天皇が私の手をサッと振り払われたのです。
高松宮は酸素ボンベの管をつけたまま大いに笑われて、
「振り払われてるよ」とおっしゃりながら大変愉快そうに喜ばれておられました。
恐れ多くも昭和天皇の手を取ろうなんて誰も考えないことですからね。
普通のご兄弟のように、和やかにお話を交わされていたお姿が思い出されます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃
高松宮妃◆高松宮が兵学校を御卒業になって有栖川宮の御殿にお移りになった。
その御殿にお見合いかなんかに私を連れて行ったわ。
私は顔もあげられないのよね。
私忘れないのですけどね、高松宮のスリッパがキュッキュッ、キュッキュッ鳴って。
それだけが私おかしくてね。
もうそれこそ箸が転がってもおかしい年頃でしょ。
私おかしくてしようがないし、笑うわけにはいかないし。
━━御話あそばしたの?
高松宮妃◆そんなのできるもんですか。母がみんなおしゃべりしたわよ。
お嫁に来たのが2月8日。
それで(世界一周のために)横浜を出たのが4月21日
その間に京都で御披露があるやら桃山御陵と橿原神宮とかね、泉山御陵と言ったかしら、みなそれに二度行ったのよ。
そして赤坂離宮で御披露があったの。
まるで朝昼晩ぶっ通しみたいな。
もうくたびれたわ。
それで2ヶ月後に外国ですものね。
そのために洋服の仮縫いがこれまた大変なの。
くたびれて三度卒倒したわよ。
でもとにかくなんとかなって。
だって船に乗っても毎晩イブニングでしょ、大変ですよ。
━━でも船に乗ったらホッとされたでしょう?
高松宮妃◆いいえ、しませんよ。だって知らないんですもの、旦那様という方を(笑)
だって今みたいに毎日毎日お会いしたなんていうのは本当に考えられないようなことよ、アハハハ。
私バッキンガムパレスで一貫目減ってしまったの。
高松宮はね、イブニングを着ると手が細くてみっともないって。
「もっと食え、もっと食え」とおっしゃるの。
食べても太れなかった。
今は食べなくても太るのよ。
「手術はできないか?照射はできないか?何かできないか?」と矢継ぎ早にお尋ねしたら、すべてダメだと。
先生から「対症療法で行きましょう」と言われまして。
私は頭をガーンとやられた思いでした。
まさかそこまでとは思わなかった。
もっと早く診ておもらいになればよかったのにね。
いつも私がレントゲンを撮りに行く時に「ご一緒に行きましょう」って申し上げてたのよ。
でも頑として「いやだ」とおっしゃるから、仕様がないじゃない。
まあ、戦争でお亡くなりになったと思えば仕方ないけどね。
戦後にあれだけのことをおやりになって、亡くなった人たちのことやら遺族のことやらね。
考えてみると償いというのかしら、自分はいつ死んでもよいというお気持ちがおありになったと思う。
御兄弟がうんとおっしゃらなければ、私だけが一人で解剖に賛成したっていうのでは申し訳ないから。
それで昭和天皇のところへ伺って、
「日本の医学のために解剖をさせていただきたいと思いますが、私が一人でそういうことをいたしますのはどうかと思いますので、いかがでございましょう」って伺ったの。
そしたら、「よかろう」とおっしゃった。
ひと言ですよ。
秩父宮妃と三笠宮が御見舞にいらしたので、このことを申し上げたら、
三笠宮が「それは当然でしょう。高松宮妃が悪く言われるようだったらお気の毒だから、我々がそういう風なことを言っていると言ってもいい」とおっしゃってくださった。
結局御三方ともイエス。
昭和天皇は御見舞に二度お出ましいただいたの。
高松宮が「近所にどこかおいしい御菓子はないか?」とおっしゃったの。
それで考えて松島屋のお団子にしたの。
昭和天皇はおいしそうに召し上がって、お帰りになった。
三度目は赤十字病院にお見舞いにいらしてくださった。
高松宮は大変お苦しみだったのですが、そのうちにおわかりにならなくなってしまったの。
そのおわかりにならない所に昭和天皇がいらしちゃった。
私本当に困ってしまって。
昭和天皇もどう遊ばしてよろしいかおわかりにならないでしょう。
とっさに「せめてお手でも取って差し上げていただけましたら」とお願い申し上げたの。
それで昭和天皇が高松宮の手をお取りになってくださって、それが御兄弟の最期のお別れになってしまって本当に残念なことでした。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
高松宮喜久子妃×秩父宮勢津子妃
高松宮妃◆2月に結婚したばかり。
出発までが大変だったの。
桃山御陵だとかお伊勢様だとか。
秩父宮妃◆あの時はお上がりになって早々だから。
折々、いちいち必ずお参りいたします。
高松宮妃◆そして14カ月でしょ。
今と違ってすべてお船。
のびてしまいますよね。
高松宮妃◆あの空襲は忘れられません。
うちは焼けなかったんだけど、御所だの大宮御所だの秩父宮邸だの、みんな焼けました。
お使いが自転車で来たのです。
私はびっくりして別当を連れてすぐ自転車で駆けつけたの。
そしたら六本木辺りの電線が垂れ下がって危なくてしょうがない。
でもそこを通って行ったら御所で。
御守衛の兵隊さんがただボーッと立っているの。
ザーッと向こうの木だけ見えて、御所はみんな灰になってしまっていた。
すぐ貞明皇后の御座所の防空壕に伺って。
高松宮妃◆昭和天皇がいらっしゃれない所をところみんな回ろうという御気持があったのだと思うの。
秩父宮妃◆戦後の日本は戦前と違って県においでになっても、県でアレンジして固いところを御見学、県が選んだ所のみになりがち。
高松宮はそうじゃなくて、日本の立ち直りのために一生懸命やって見かけはまだ整わない企業などをかなり御視察になった。
高松宮妃◆若い時に高松宮から伺ったことは、皇族というのは結局昭和天皇をお助けするという意味で、筬のように動かなきゃいけないとおっしゃった。
筬というのは機を織る時に行ったり来たりするでしょ。
糸があって、こっち行ってあっち行って筬のごとくということですよ。
年に一回昭和天皇とお二人でお話になる機会があったの。
高松宮の御誕生日のお祝いのおいただきもののお礼にいらっしゃるわけ。
その時にいろんなことをおっしゃってるみたい。
秩父宮妃◆いつも御一方で。
高松宮妃◆御単身。
その時は誰もいないわけだから、いろいろお話をなさったらしい。
三笠宮妃◆高松宮御還暦後でしたが、それまで歯医者に行ったことないっておっしゃるの。
いいお歯で。
高松宮妃◆それで二人でおどかしてね(笑)
三笠宮妃◆「これから歯医者に行くんだけど、歯医者って痛いかね?」ってお聞きになるから。
「とっても痛い」って言って御顔色をうかがったの。
高松宮妃◆二人でギャーギャーおどかした。
面白かったわね(笑)
三笠宮妃◆「ガリガリやられます」とかね。
そうすると本気になられて「そうか」と顔色が変わられた。
秩父宮妃◆でも結局はおいで遊ばしたの?
高円宮妃◆そう。
「あんなこと言われたけど痛くない」とブツブツ言ってらした(笑)
ちゃんと一本作っておもらいになったんですよ。
ところがお作りになったのはいいんですが、取ったりはめたりできるような御歯なのね。
一度はずしたらどうやって入れるのかおわかりにならない。
それで私がいちいちお教えするわけ。
そしたら「こうか、こうか」って、とうとう御自分で図をお書きになってね。
なんでもそういう御調子なんです。
きちんきちんと細かくていらっしゃるんだから。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
三笠宮寛仁親王 1977年
高松宮はお酒をお飲みにならない。
僕が原稿に、ウイスキーの中じゃシーバス・リーガルが好きだって書いたわけ。
そしたら次に高松宮邸にうかがったら、もうシーバス・リーガルがどーんと置いてある。
高松宮御夫妻はタバコをお喫いにならないのに、セブンスターとハイライトが置いてあるの。
僕と高円宮がセブンスターで、桂宮がハイライト喫うんだよ。
そういうのが実にさりげなく置いてある。
お子さんがいらっしゃらないのにね。
ウチなんか息子たちがこれだけ酒飲んでタバコ喫うのに、両親とも気がつきませんからね。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
三笠宮寬仁親王 1999年
ガンという病気だけは、隠したところでいいことは一つもありません。
しかし残念ながら高松宮の場合、高松伯母様の御意見は私と違いました。
高松伯母様は私に肺の大きなレントゲン写真を見せてくださって、「もうダメなの」と。
「私は絶対に言わないからね。一の子分のあなたが口を閉ざしてくれれば周りには漏れないから頼みに来たの」と仰るわけです。
私は「伯母様の仰せのままに致します」と申し上げました。
高松伯父様のところに見舞いに行くわけですが、その度に嘘をつくことになるわけです。
ただ高松伯父様の年代の方々は「ガン=死」という意識が強いのだと思います。
したがって、高松伯母様の決断も致し方なしと自分に言い聞かせるしかありませんでした。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
三笠宮寛仁親王 2008年
秩父伯父様がいらっしゃらなくなってから、必然的に高松伯父様の後ばかりくっつくようになったのです。
私の父は学者で、研究室に閉じこもってました。
教育もシツケも全部母任せで、困った母が「高松宮様のところに行ってらっしゃい」と言って、よく我々兄弟を行かせた。
高松伯父様はお子様がいらっしゃらないのに、本当に我々を可愛がってくださった。
お金持ちの宮様だから、我が家と違ってごはんもおいしいし。
お呼ばれしたり行ってこいと言われると、喜び勇んで出かけていきました。
中学生からは高松伯父様がスキーや山へ行かれる時にお供するようになりました。
高校生からは高松伯父様の御殿にはお酒がふんだんにありましたから、生意気にも一人飲みながら「皇族とはどうあるべきか」という御相談をよくしていましたね。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
