◆124代 昭和天皇(迪宮裕仁親王)123代大正天皇の長男
1901-1989 87歳没
■妻 香淳皇后 久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没
●継宮 明仁親王 125代平成天皇
●義宮 正仁親王 常陸宮
●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1987年3月30日
昭和天皇の御高齢化に伴う御公務見直し案について審議。
これから細部を個々に詰めていく要あり。
これから始まるという感じ。
1987年4月6日
御公務見直し案について、昭和天皇より御反論もあるらしい。
1987年4月7日
昭和天皇が「長生きするとロクなことはない」とお漏らしになった由。
侍従小林忍がとりなしたと。
1987年4月8日
式部副長山本学・式部官本多大介からタイ皇太子の来日に関し晩餐を願いたいと。
式部官長安倍勲から徳川侍従長に了解を得ている旨。
昭和天皇の御健康について誰が責任を持つというのか。
極めて不快感にて退庁帰宅。
1987年4月9日
徳川侍従長よりタイ皇太子晩餐について了承していない旨 確認を取り、式部副長中島宝城にその旨を伝える。
1987年4月15日
昭和天皇より「常陸宮が東京倶楽部を継承したら、紫煙に囲まれて肺ガンにならないか」との御心配。
1987年4月17日
東宮五殿下、御参内。
浩宮は御土産のブータンの民族衣装にて御参内。
1987年4月21日〔宮内記者との懇談会〕
浩宮の御相手について、昭和天皇は「血の濃くない方が望ましい」とお答えになる。
1987年4月29日〔天皇誕生日〕
宴会の儀の際、御気分が悪くなられ吐瀉された。
隣席の美智子妃・常陸宮妃の御介添で御退出になり、侍医伊東貞三の拝診をお受けになったが、特に問題となるデータもなし。
「吐いたら気分はさっぱりした」と仰せになり、浮揚御所にお帰りになった。
夜の御祝御膳もお取りやめになった。
1987年5月6日
昭和天皇より「良子皇后の御動作が軽くなったと思う、そうなればおつむのことを言わないと辻褄が合わないことはないか」と。
1987年6月22日〔須崎御用邸〕
大島行幸決定。
ヘリもOK。
スーパーピューマ〈はと〉にお乗り込み。
予備機〈ひばり〉に続いて離陸。
大島上空から火口を御覧、大島空港に着陸。
〔昭和天皇がヘリコプターに乗ったのはこれが初〕
1987年7月10日
昭和天皇、宮内庁病院で恒例の検診。
胸部レントゲン・CTスキャン。
1987年7月15日
那須御用邸行幸啓。
原宿での御降車でお座り込みになり手間取った由。
〔車で原宿駅に到着した良子皇后が「イヤ」と言って降車を拒んだため、隣席の昭和天皇が降車できなかった〕
1987年7月19日
御内庭からお帰りの際、御車寄のあたりにて急にお倒れかかりになり、侍従らお支えしてお運びする。
侍医拝診の結果、血圧・脈拍正常なり。
心電図異常なし。
1987年7月31日〔那須御用邸〕
胸のむかつきと嘔吐あり。
1987年8月2日〔那須御用邸〕
御気分すぐれず、お吐きになる。
1987年8月3日
嘔吐たびたびのことゆえ原因が憂慮される。
1987年8月23日〔那須御用邸〕
昼食後お吐きになる。
御昼寝後も再び嘔吐。
侍医伊東貞三によると胃幽門部の狭窄の疑いあり、胃カメラが必要とのこと。
1987年8月25日
良子皇后の皇室会議皇族議員互選の不在投票手続き。
1987年8月29日〔那須御用邸〕
夜、またお吐きになる。
1987年9月3日〔那須御用邸〕
膨満感あり、湿布と浣腸の御手当。
1987年9月4日〔那須御用邸〕
御不調、浣腸。
1987年9月5日〔那須御用邸〕
お腹張り、浣腸にてガス抜き処置。
1987年9月8日〔那須御用邸〕
昭和天皇、また胸のつかえ。
フウフウとお苦しそう。
御夕食もほとんど上がらず、ソーダ水をお飲みいただく。
1987年9月13日
宮内庁病院へ。
レントゲンの後、吹上御所にお帰り御床。
御昼食は召上らず点滴。
夜は流動食。
1987年9月14日
侍従長室にて高木侍医長・西野元侍医長から説明を受ける。
手術に踏み切る線。
ついに来るべきものが来たということたが、暗雲がたれこめ鬱々として楽しまず。
今後の諸問題のことが頭をよぎる。
1987年9月16日
御入院の段取り、今後の行事の取り扱いなどにつき協議。
1987年9月17日
取材の動き目立ち、報道対策について協議。
御病状の説明資料まとめる。
1987年9月18日
徳川侍従長・高木侍医長拝謁、御手術につき御了承を得る。
1987年9月19日
朝日のスクープのこと、予想通りで驚かず。
〔『天皇陛下、腸の御病気 手術の可能性』〕
各社より確認の取材殺到するも、否定も肯定もせず。
1987年9月22日〔手術〕
徳川侍従長と宮内庁病院へ。
昭和天皇、小林侍従・大橋侍医と共に宮内庁病院にお着き。
徳川侍従長とお迎え、御病室に。
ストレッチャーにて手術室にお入り。
御病室にお戻り。
覚醒良好。
意識もハッキリ応答あり、「相撲のテレビを観てよいか」との仰せありとか。
三笠宮、皇族代表としてお見舞に。
1987年9月23日〔宮内庁病院〕
良子皇后の絵を御病室に飾る。
1987年9月24日〔宮内庁病院〕
入院が長引くことで、侍従の中から当直制見直しの声。
こんな際でも楽をしたいのかと言いたい。
1987年9月25日〔宮内庁病院〕
毎日新聞にまた暴露記事。
〔『天皇陛下、今夏二回倒れられる 東京での早期検査見送り』〕
勝手にせよという心境。
1987年9月26日〔宮内庁病院〕
初めて白湯40ccを差し上げる。
1987年9月29日〔宮内庁病院〕
歩行練習開始。
1987年10月1日〔宮内庁病院〕
二カ所抜糸。
1987年10月2日〔宮内庁病院〕
レントゲン異常なく、合併症の所見なし。
1987年10月5日〔宮内庁病院〕
昭和天皇に、浩宮御代行のこと申し上げる。
〔明仁皇太子夫妻が訪米中だったため、浩宮が代行〕
1987年10月7日
御退院。
車椅子にて吹上御所へ。
階段ホールにて良子皇后お出迎え、お手をお握り。
エレベーターにて二階静養室ベッドへ、常陸宮夫妻御対面。
1987年10月9日
徳川侍従長より、昭和天皇が御居間にて良子皇后とババロアを召上りながらお話し、お手々をつないでエレベーターへという話題あり。
孝宮和子内親王・順宮厚子内親王・清宮貴子内親王御対面。
1987年10月13日
輸血200cc、始まる。
読売に輸血の記事。
〔『天皇陛下、貧血で輸血へ 今日にも700~800cc』〕
輸血記事対策について協議。
1987年10月19日
ヘモグロビン10.8に回復するも、なお二回輸血を継続。
1987年10月21日
輸血200cc、時間をかけて行う。
1987年10月23日
徳川侍従長から東宮様へ、沖縄での御言葉伝達。
〔皇太子が沖縄訪問の際、天皇の言葉を代読する予定になっていた〕
1987年10月24日
東宮様、沖縄着の報。
御言葉は出さないことになる。
東宮様にお任せになったことゆえ、コメントはお控えということか。
1987年10月27日
秩父宮妃・高松宮妃・三笠宮妃、御参内。
1987年11月4日
徳川侍従長から昭和天皇に、孝宮和子内親王の手術の結果につき言上。
〔孝宮和子内親王は乳ガンで手術を受ける。表向きの発表は乳腺疾患〕
1987年11月5日
45日ぶりに宮殿出御。
1987年11月16日
昭和天皇、ヘモグロビン1/10に落ちるも直ちに輸血の要はないとのこと。
1987年11月18日
新年用御写真の撮影の件 記事回避の申し入れをしたところ、日経にすでに出てるとのこと。
〔『天皇御一家 新年写真、11月22日に撮影』〕
すごく腹が立ち、退庁帰宅。
報道担当を返上しようかと考える。
フテ寝。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1987年1月31日
陛下の御容態。
当直の樋口英昭侍従から電話あり、
「今朝から昭和天皇が御気分悪くめまい吐き気を御訴え。お熱はないが血圧が高い」と。
1987年2月2日
今回のこと(天皇陛下の体調不良)なぜ起こったか不明だが、高松宮のこと(高松宮の体調不良)を御心痛のためと考えるしかないという意見が多い。
今回限りで終われば心配ないが、繰り返すようだと警戒を要すると。
1987年3月3日
良子皇后御写真。
お誕生日にあたっていつも発表される良子皇后御写真が、今年は高松宮の御薨去のこともあり撮影の機会もなく記者会に出せないので、ここ数日総務課を中心にゴタゴタが続いていた。
文書でその理由の開陳を求められ、その返事が出された。
高松宮のこともあり、御心身の御負担を考慮して御写真をいただけなかったからという趣旨。
しかしこれでは来年も同じような問題が起きるは必至。
必死もっと良子皇后の人権・プライバシー擁護の趣旨を明確に出しておいた方が、今後の紛糾の根源を断つことになろう。
1987年4月6日
土曜日の御研究を午前中だけにすることについて御意見あり。
「午前中は1時間ぐらいしか時間がないので、研究する暇が少なくなってしまうので、午後を切ることは賛成しかねる。もっとも職員の勤務の事を考えるならば仕方がないが」とのことであった。
1987年4月7日
御行事軽減について御意見。
「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことを見たり聞いたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸に遭い、戦争責任のことを言われる」など。
「戦争責任はごく一部の者が言うだけで、国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展を見れば、もう過去の歴史の一コマにすぎない。お気になさることはない。個人的にはいろいろお辛いこともおありでしょうが、国のため国民のために御立場上今の状態を少しでも長くお続けいただきたい」むね申し上げた。
1987年4月29日
今年の一般参賀は3回お出ましに減り、良子皇后はそのうち2回だけお出ましになる。
昭和天皇に御言葉をお願いした時と、お下がりを願った時と、なかなかそれをなさらず。
午後からの宴会で御言葉・乾杯など終わった後、御席で御食事をお戻しになったので、美智子妃・常陸宮妃が両脇をおかかえになり、お歩きで退場。
朝から胃のつかえがあった御様子。
1987年7月19日
昭和天皇御異状。
御車寄前植込横においでの時、急にお立ち上り、不審に思っていると、フラフラなさり始めたので、高木顕侍従長と田中直侍従が左右からお支えしたところ、その場にお崩れになった。
御車寄からエレベーターを使って御寝室にお運びした。
エレベーター内でお気がつき、「少し胸が苦しい」むねおっしゃった。
診断の結果、血圧・脈拍など異常は認められず。
約1時間後に心電図をお取りしたが、格別の異常はないとのこと。
御異状の原因に思い当るふしはなく、お疲れが多少あったものの、今までなら考えられないこと。
要するに脳貧血だったということであるが、その原因は結局よくわからないということで、お歳からお疲れやすく、お疲れになるとこういう現象が起きるのではないかということらしい。
1987年8月2日
昭和天皇御容態。
胸がむかつくような御気分になり、侍医が出たがはっきりせず、御夕食は軽く召し上がった。
一気にお吐きになり、そのため胃の御気分スッキリ。
テレビなど御覧になって、いつものように御格子(就寝)
31日夜10時頃にもむかつきをお訴えになったが、その時は腸が張っていたので温泉で温め治ったという。
それと今日と一連のものかどうかはっきりわからないという。
いずれにしてもこのところ昼間の眠気がひどいらしい。
先月19日のお倒れ以来どうもすっきりしない。
1987年8月24日
陛下の御容態。
昨日御昼寝直後ぐらいに少量、午後3時過ぎに大量にお戻しになったが、その後はサッパリなさったという。
前回8月2日の時と同様という。
原因は精神的・肉体的なストレスではないかと。
機能が衰えていることは言うまでもないが、ストレスにより胃液が急に大量に出てくると、腸の方に下がって行かなくなり、上に出てくるという。
1987年8月29日
午後8時からいつものようにテレビをご覧になったが、午後9時過ぎから吐き気お催しになった。
なかなかお出にならず、ようやく10時半頃お戻しになった。
その後は御気分も良くおなりになった御様子で、お眠りになったという。
1987年9月3日
昨日も夜中にお吐きになったという。
間隔がいよいよ詰まってきた感じ。
1987年9月13日
宮内庁病院工事を急ぎ中止して、宮内庁病院に御着。
昭和天皇はパジャマにガウン・スリッパ。
1987年9月19日
「天皇陛下、腸の御病気」今日の朝日の朝刊一面トップ記事。
他の新聞は報道せず。
昨夕の大相撲をお取り止めの発表をチャンスと今朝の行動となったもの。
昨夕発表の際 来週のことも一度にすればよいと侍従職では主張していたが、富田宮内庁長官などが首相などへの根回しが間に合わぬとか言って2段階の発表となったため、朝日に抜かれてしまった。
朝日の記事により各社一斉に動き出し、夕刊には各紙詳しく掲載された。
どうしてこんな細部までと驚かれる医学的所見まで記されている。
1987年9月21日
宮内庁発表。
8月下旬から時々お腹が張るなどの御異状。
御用邸から御帰京後 所用の検査の結果、腸の一部に通りの悪い箇所があり、できるだけ早くその通りを良くするため手術の必要ありと結論。
明日22日宮内庁病院に御入院手術の予定。
概略以上のような発表、報道されている実情上から見て、なんとも間が抜けている。
1987年9月22日
後入院・手術。
御病室で執刀医の東京大学付属病院長森岡恭彦と麻酔担当の沼田克雄教授の拝謁がある。
医師の消毒など時間がかかり、11時3分御病室を出て寝台車で手術室にお入り。
手術は午後2時37分終了との連絡あり。
手術前に報道されていた手術の時間は1時間半くらいとのことだったので、なかなか終わらない手術に記者は侍従職に10人ぐらいたむろしてイラ立っていた。
小生が1時半近く当直があけて帰ってきたところ、たちまちまだ終わりませんかと聞かれたが、こちらの方が聞きたいと言ってやった。
病院の侍従候所は御病室の棟とは別棟なので動きは全くわからない。
1987年9月29日
膵臓組織病理検査結果発表。
記者会見で侍医長から説明。
ガン組織認められず、「慢性膵炎」の病名。
1987年10月7日
御退院。
御病状はこれからも慎重な観察が必要。
吹上では職の看護婦6人と女官だけで当り、病院の看護婦の応援はないことになった。
1987年11月23日
新嘗祭。
昭和天皇は御欠席。
昭和29年に御風邪のためおいでにならなかった時以来のことという。
昭和天皇がお出にならないのに新嘗祭を催すことの意味はあるのか。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1988年1月29日
生物学御研究所の研究員が続けて病気になったことから、昭和天皇より「自然科学者の方が文科系より短命なのか。あるいは生物学研究所の態勢に問題があるのか」とのお尋ね。
1988年2月9日
昭和天皇より突然「摂政にした方が良いのでは」との仰せ。
1988年2月10日
昭和天皇より、やはり摂政問題の繰り返し。
「このようにダラダラした生活では」と。
「現在は冬ごもり。春来りなば どの程度おやりいただくか目下検討中につき、もう少しお待ちを」と。
1988年2月12日
侍医伊東貞三より、潜血反応ありとのこと。
1988年2月26日
須崎御用邸御滞在中のマスコミ対策を練る。
1988年3月16日
侍医大橋敏之より、孝宮和子内親王の再手術・御病状について聞く。
〔乳ガンが腸に転移〕
1988年4月13日
徳川侍従長退任により両陛下に拝謁。
「終戦の時と地方行幸の際、身命を賭して」との御言葉。
1988年4月21日
昭和天皇、徳川元侍従長の思い出をお話のとき涙ぐまれる御様子。
1988年4月28日
昭和天皇より、靖国神社の戦犯合祀への批判、国土庁長官奥野誠亮の中国に対する奥野発言への批判。
1988年5月11日
正田家に不幸があった場合の対応策について協議。
山本侍従長と正田家の問題など話し合い。
1988年5月13日
昭和天皇、御採寸。
終った頃から大あくびで、椅子をお勧めしたら崩れるように倒れかかり。
高木侍医長駆けつけ隣のベッドにお移しして拝診、失禁あり。
1988年5月14日
小林侍従から電話。
昭和天皇の御様子、今朝もよく召し上がった由。
御散歩もとの知らせに安堵する。
1988年5月19日
園遊会につき御説明。
「時間が短い」と御不満。
1988年5月20日
昭和天皇に6月以降の御用邸につき申し上げる。
「あまり増えないね」と御不満。
1988年5月23日
「予定表が二重に見える」との仰せ。
1988年5月30日
拝診の結果、左右眼球の調整力低下が原因。
プリズム入りの眼鏡発注。
1988年5月26日
毎日に載った重光葵日記のこと、御日誌にて事実確認。
〔『天皇陛下、駐屯軍撤退は不可 重光元外相日記に記述』〕
1988年5月28日
11時過ぎ電話で正田富美子夫人の死去の報入る。
1988年5月29日
昭和天皇に正田富美子夫人の死去について申し上げ、東宮様の方に見舞をするように仰せ。
「親類だから」と思ったより反応大。
1988年6月13日
高木侍医長より昭和天皇の検査結果を聞く。
血液検査・心電図・レントゲンは異常なし。
CT所見は膵頭部の腫張が多少大きくなった模様。
1988年6月16日
藤森新長官初の拝謁。
昭和天皇は「なかなかいい人だ」との御印象。
1988年6月28日
昭和天皇から「那須は今年はやめるのか」との仰せ。
「今週中に検討します」とお答え。
1988年6月30日
御体重48.9キロと2.5キロ減はショック。
1988年7月8日
「藤森長官は植物に関心がある。宮内大臣にもこういう人はいなかった」との仰せ。
1988年7月31日
御体重47.3キロ、1.3キロ減。
1988年8月13日
須崎御用邸よりヘリにて吹上御所へ。
1988年8月18日
ヘリにて須崎御用邸に還幸。
1988年9月12日
9月10日あたりから黄疸症状出ると。
山本侍従長と相談し、予定は変更せず行けるところまで行くことに。
沖縄御訪問は遠ざかる。
1988年9月18日
大相撲お出ましはお取りやめ。
発表文について協議。
先行きを考え、胆道系炎症の線を打ち出すことに。
意思統一をはかるため、侍従次長・侍従・侍医全員に発表文を連絡する。
1988年9月19日
21時50分ころ大量吐血、緊急輸血。
1988年9月20日
午前0時ころから、自宅に各社からの電話続々。
おかしいと思い高木侍医長に電話、吐血と聞く。
至急支度してタクシーで乾門へ、各社のフラッシュ浴びる。
NHKはずっとこのニュース。
午前2時過ぎから明仁皇太子夫妻御見舞。
朝からは秩父宮・高松宮・三笠宮・常陸宮夫妻・孝宮和子内親王・順宮厚子内親王夫妻・清宮貴子内親王夫妻・浩宮・紀宮清子内親王あいつぎ御見舞。
1988年9月21日
ゴミの廃棄方法につき協議。
昭和天皇は植物のお尋ねの催促、驚くべき御意欲。
1988年9月23日
昼前に若干の下血。
輸血400cc。
侍医会議。
出血対応を主とし、黄疸等を従とする治療方針継続。
1988年9月24日
昭和天皇、お話方はハッキリ、少しも変らない。
御顔色もそう黄色くない。
朝日のガン記事に抗議。
〔天皇の病気が膵臓ガンであり、現在の高熱はガン性腹膜炎の疑いと報じられた〕
1988年9月25日
大相撲御覧の御希望。
御容体ニュースが懸念されるも、その間はスイッチOFFという条件でご覧いただく。
終了の際「全勝だね」とポツリ。
1988年9月26日
山本侍従長はじめ全員集まり、崩御後当面する問題について説明し、心づもりをしてもらう。
1988年9月28日
高木侍医長に大正天皇崩御時の記録を見せ、御遺骸の御手当・御容体の発表など研究してもらう。
1988年9月29日
今日から白血球除去血液の輸血始める。
昭和天皇より名月のお尋ねあり。
9月25日だったとお答えすると、「今年は早かったんだね」と。
1988年9月30日
北白川女官長と御口湿しの綿棒・御湯殿の儀などにつき打ち合せ。
1988年10月1日
午後3時過ぎ400ccの大量下血で血圧100を割り、緊急輸血でひと騒ぎ。
輸血800ccに。
イギリスから一時帰国の秋篠宮が直行。
1988年10月6日
田中侍従にヒオウギアヤメの資料を読むように御指示あり。
〔ヒオウギアヤメは秋篠宮紀子妃のお印〕
1988年10月11日
ヘモグロビン5.6、高木侍医長の表情暗い。
1988年10月14日
侍医内田俊也から話を聞く。
「輸血量をもう少し増やさないと貧血状態の改善は期待できない」と。
1988年10月16日
お髭とお髪のお手入れを奉仕。
御様子はお変りない。
1988年10月18日
夜半かなりの下血があった由。
御寝室にうかがった御様子ではさほどお変りない。
常陸宮妃がお吹き込みになった童話をお聴きになる。
1988年10月20日
ヘモグロビン4.7とついに5を割り込み深刻な事態。
1988年10月21日
高円宮から京都国体閉会式の復命に参内したき旨、前例なきこととお断りするも感情害され、電話で文句言われる。
高円宮は山本侍従長にも電話で当たる。
輸血中発疹出て150ccで中止。
1988年10月22日
ヘモグロビン7.9と上昇。
常陸宮妃お吹き込みのイタリア昔話『疥癬にかかったバラリッキ』20分お聴き。
1988年10月23日〔十三夜〕
ベランダに十三夜のお供え。
鏡に月影を映し御覧いただく。
〔ベッドに横たわる天皇に卜部侍従が手鏡で月を見せた〕
1988年10月25日
午後3時過ぎ、吐血下血相当量あり。
血圧86まで落ち、緊急輸血600cc。
1988年10月26日
ヘモグロビンは8.3でそれほど低下せず。
カナダの大使館のカエデ、「来年は見られる」との御発言、心強し。
1988年10月27日
台車の模型を使って柩の運行練習。
1988年10月30日
かなりの下血。
血圧なかなか上昇せず、表から中間発表の要請あり。
1988年11月3日
常陸宮夫妻お見舞。
侍医加藤健三によると、「どうにかならないか、助けて」の頻発でお気の毒の由。
点滴の針も難しくなる。
1988年11月6日
侍医加藤健三から緊急連絡で全員二階へ。
苦しそうな御声で切ない。
血圧ダウン、数えられぬと。
1988年11月7日
イギリスから一時帰国の秋篠宮お見舞。
1988年11月8日
清宮貴子内親王より強硬申し入れありたる由。
1988年11月9日
東久邇文子さんから御面会の催促あるも、お断り。
1988年11月11日
半蔵門にて昨日から身分証提示請求あり。
理由を問う、上からの命とのみ。
1988年11月12日
東久邇家のお見舞につき東宮様から安楽侍従次長の御口添ありたる由。
一応明日5人一緒ということで伝える。
1988年11月15日
昨夜小林侍従御召で出たが、結局意味不明に終わった由。
多少意識の混濁が見られるか。
1988年11月16日
「イヤだよう」との愁訴の声聞こえる。
1988年11月29日
侍医内田俊也の話によると、血中アンモニアを減少させる薬剤使用の結果、今朝は反応がかなりはっきりしてこられた由。
とにかく摂政の話を消すためにも、意識混濁の表現は禁句なり。
1988年12月5日
午前7時前に小林侍従から電話、御様子が良くないと。
すぐ支度して御所へ。
御寝室を覗くと、酸素マスクを鼻に当てて懸命治療中。
1988年12月6日
ポケベル実験、OK。
1988年12月9日
公的行為の委任の基本となる御意思の確認のため、定例的なものについては包括承認をいただくことに。
御言葉についてもその要ありと認む。
1988年12月10日
夜半また相当量の出血あり、輸血600ccとのこと。
出血の間隔が狭まった感じで、侍医団に憂色漂う。
1988年12月11日
御寝室にて御様子を拝見。
ネフローゼ・両手のお動き〔羽ばたき振戦〕あり。
御顔色もやや黒ずむ。
御鼻には吸引用管。
1988年12月15日
御寝室にて御様子を拝見。
マスクをどけようと手で払うように。
1988年12月16日
新年祝賀の御言葉については国事行為で割り切り、代行御自身の御言葉とする侍従職の方針を伝える。
御寝室にて御様子を拝見。
やはり酸素マスクはお嫌い。
1988年12月17日
常陸宮夫妻お見舞。
常陸宮が「おもうさま」と呼びかけると、わずかに目をお開きか。
1988年12月26日
御寝室にて御様子を拝見。
御口の中で舌が動く傾向が見られる。
1988年12月29日
モーニングで歳末御祝詞。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1988年1月8日
講書始の儀。
明治2年に始められた儀で、天皇陛下御欠席なまま行われたのは初めてである。
本来天皇陛下へ進講するものであるから天皇陛下御欠席なら中止すべきものであろうが、新年の国民的な文化行事となっているからという変な理屈で開催に決まった。
儀の趣旨がゆがめられたというか、趣旨が変わったと言うべきか。
テレビで見ていると、天皇陛下の御席として机だけがポツンと置かれているのも奇妙に見える。
むしろ無い方がよいように感じられると田中直侍従が言っていた。
同感である。
1988年3月24日
香川県植樹祭、県側と打ち合せ。
昭和天皇の御臨席はないことがわかっているのに、県側にあたかも可能性があるがごとく思わせ、その線で全ての調査資料を用意されているのははなはだ遺憾なこと。
二重の負担を負わせることはない。
調査終了後20日ぐらいで公式に発表する段取りになっているのだから、調査の前に行幸の可否は今日にでも否と伝えてやるべきではないか。
4月になれば宮殿での御公務が少し増えるので、ますます可能性高いことを県側に思わせてしまう。
そのあげく否というのではあまりに気の毒。
今の段階で否と伝えないわけがわからない。
報道にはオフレコで伝えておいてもよいのではないか。
1988年5月13日
昭和天皇の御容態。
御洋服の御採寸が30分近くかかったためか終わった時 貧血状態におなりで、1時間ぐらいお休みの後御料車で吹上にお帰り。
昼食抜きで水分補給のため点滴。
すっかりお元気にお戻りでテレビで相撲御覧。
御夕食もお進みになり、8時からまた上奏書類御署名。
お元気。
1988年6月14日
昭和天皇の検査結果、今日記者発表あり。
格別の異常はなかったが体力の衰えは否定できない。
体重も減り続けている、足取りも弱まっていると。
1988年8月5日
那須に詰めている報道陣にたまには御姿を撮らせるとも必要というので、お出まし。
1988年9月11日
黄疸。
大橋敏之侍医の話によれば、管が圧迫されて通りが悪くなっているので、胆汁が体内に出てしまうためと。
1988年9月20日
御容態急変。
19日の夜10時頃吐血され、日赤に輸血を要請。
侍医長・内田俊也侍医・侍従長・侍従次長・女官長それに宮内庁長官・宮内庁次長など11時過ぎから20日午前2時頃にかけて吹上に集って宮内庁緊張。
吐血について侍医団は全く予想していなかったようで、その箇所・原因などまだ十分分析されていない様子である。
1988年10月30日
昨夜から今朝にかけてこれまでに例を見ない多量の下血があり、1,400ccの緊急輸血。
下血を「多量」と発表したのは今回が初めて。
1988年11月7日
秋篠宮、御帰国。
イギリス御就学中の秋篠宮は、昭和天皇の御容態が良くないというので、今夕日本に御到着になるという。
深夜0時半頃記者会見というのだから恐れ入る。
間に合わなくてもかまわないと思うのだが。
1988年11月14日
御容態、案外持ちこたえて新嘗祭までは大丈夫という予想も出ている。
御召。
言語不明瞭というより言葉になっていないので、侍医2人・看護婦3人と何をおっしゃっているのか聞き耳を立てたが全くわからない。
「明日また」と伺っても、それは御承知にならない。
今知りたいということらしい。
お疲れになるばかりというので、侍医が点滴に安定剤を入れ、お眠りになるようにした。
1988年12月1日
摂政問題。
現状のように傾眠状態が続き意識が明確でなくなってくると、一時的でも意思表示ができればよいが、さもないと国事行為の代行では済まなくなってくるおそれが出てくる。
常時意識がはっきりしない状態であるとなると代行制度はなじまず、摂政を立てざるをえなくなるのではないか。
幹部の間でも論議されている。
1988年12月18日
看護の刺激に対し「いやよ」とおっしゃったという。
本当かどうか。
1988年12月20日
昨日は〈おじゃじゃ〉(尿)ということもおっしゃったと。
「痛い」とか「イヤ」とかも。
侍医も驚いていると言うが、一時的なものかどうか。
1988年12月31日
9月の御発病以来、侍従長と侍従次長は日曜祭日もなく毎日吹上に勤務を続けている。
御容態の安定している時ぐらいどちらか交代で休めばよいと思うのだが、明仁皇太子夫妻が毎日吹上にお見舞においでのこともあるのか休まれない。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1989年1月5日
血圧低下し、輸血すでに600ccを越えるも上昇見られず。
また右腕に壊死が見られる。
高木侍医長は御状態はさらに一段と進んだとの見解。
来週がヤマか。
1989年1月7日
午前5時少し前、侍従井原好英から急変・瞳孔が開いたと。
すぐ起きて支度して出かける。
6時33分崩御訣別。
お口しめし奉仕、次にハサミとヒゲソリにて御整髪奉仕。
侍医・看護婦により御手当。
お召し物奉仕。
タンカにて御尊骸を御寝室から御居間にお移しする。
あまりに重いのに驚く。
1989年1月8日
清宮貴子内親王から開いているお口のこと。
侍医・内舎人らと秘かに実施、糸巻と冠緒にて一応成功。
1989年1月9日
御棺の中が冷え過ぎで、外側に汗をかく。
御内槽の本蓋を接着剤により閉じる。
御内槽をひと回り大きい御棺におおさめする。
次いで銅板の蓋をハンダづけ。
ドライアイスの除去を忘れたため中の空気が膨張し、みるみるうちに御棺の蓋が持ち上がり、やむを得ず銅板に孔をあけて空気を抜く処置を行った。
1989年1月14日
山本侍従長が昭和天皇の側近奉仕の立場に徹し、喪儀関係については新帝の供奉はしないとの方針を示し波紋を呼ぶ。
1989年2月13日
副葬品の箱届く。
檜製で二層。
蓋が反り閉まらぬ。
1989年2月22日
副葬品の箱の蓋できあがり。
まだ少し反っている。
蓋をしてみる。
2ミリくらいの隙間。
また反ることもあるのでビスで止めることに。
1989年2月23日
蓋がまた反り、ネジ穴を増やす。
1989年3月15日
済生会病院の孝宮和子内親王の様子について伺う。
夏までは無理か。
水がたまった由。
1989年3月20日
権殿での皇族礼拝位置につき、三笠宮から物言いつく。
中島式部副長・前田掌典次長と協議の上、外陣前に修正する。
1989年5月26日
孝宮和子内親王逝去の報入る。
重田侍従次長より照宮成子内親王の時の例を聞いてくる。
御日誌で調べてファックスする。
1989年7月13日
『昭和天皇実録』作成協力要請あり。
14~15年かかると。
1989年8月28日
管理部長から秋篠宮の〔結婚後の〕御新居に関し、赤坂御用地内の故孝宮和子内親王邸のことを聞いてくる。
1989年9月26日
秋篠宮御結婚来年6月末、新居は旧孝宮和子内親王邸と発表する由。
1989年9月28日
星川手記が話題に。
〔前侍医長星川光正が宮内庁病院での昭和天皇の手術室に入るのを拒否された件を手記で発表〕
1989年10月6日
星川手記を読む。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1898年1月1日
夜半相当量の下血があり、400ccの輸血を行った。
9時前にはさらに輸血が行われたいた。
血圧は少しずつ上昇しているとか。
しかし回復は遅くなっている。
1月6日
このところ輸血の効果がなかなか出にくくなっている。
すべての機能が衰えてきているためという。
尿もほとんど出ない状態が続き、いよいよ今度こそはという時期に来ている。
1月7日
崩御、午前6時33分。
朝5時過ぎ当直の井原侍従から電話、御容態悪化したので待機していてほしいと。
さらに6時頃電話で来るようにと。
すぐ御寝室に、お別れの拝礼。
すでに侍医・看護婦の手で御身体の清拭など行われ、終わるところだった。
まもなくお召物をお着せすることが始まり、卜部侍従と小生が主となって、サルマタ・袖なり肌着・小袖・襪・帯をお着せする。
肌着は右手は袖を通したが左手は腕関節がすでに硬くなって曲がらないので、袖に通すことができず肌着の中に包んで前部ボタンをかけた。
小袖の袖も同様にせざるをえず、左手は袖を通さず袂は御体にかけたような具合になった。
小袖をくぐらせる時は御腰を持ち上げたり横にしたり、なかなか重い。
まだ温かみが残っていた。
拝決。
新両陛下がまず御遺体に拝決、あと順次皇族方が、終わりに側近が拝決して終わる。
剣璽赤坂へ。
承継の儀のあと剣璽は両陛下と吹上に戻り、剣璽の間に。
1月8日
御舟入。
ドライアイスなど侍医が入れる。
1月19日
いよいよ御霊柩が宮殿をお発ちになる。
1月23日
殯宮一般拝礼は昨日一日だけで16万3,400名の人が来たという。
好天で割合暖かかったせいもあるが、それにしても昭和天皇に対する国民の敬愛・哀惜の情の深いのを感ずる。
1月25日
葬儀殿の儀などの葱華輦の習礼ある。
こんなものかと分かったがあまり役に立たず。
所要時間を計り、担ぐ皇宮警察の警察官の習礼が主だった。
1月26日
御料用として購入したが候所で使っている寒暖温度計が無いので聞いたところ、内舎人が御料用だからと言って無断で引き上げた。
電話に出た内舎人にきつく注意した。
現に使っているのに何事か。
もっと常識を働かせて仕事をしてほしい。
それでよくこれまで御用が務まったものだとまで言って、これからもそのような心掛けでやってほしいと。
1989年2月23日
殯宮伺候。
夜の伺候者が集まらないので、駆り出しているらしい。
1989年2月24日
大喪の儀。
早朝から雨。
新宿御苑では風も強くなり、幌舎内も大変寒い。
轜車発引の儀。
卜部侍従はお守の御剣、中村侍従は御挿鞋、田中侍従は霊柩の左側に従い、小林侍従と井原侍従は御紼を引く。
葬場殿の儀。
交通規制のため車道までの奉送の市民でいっぱい。
昭和天皇側近の車列の位置・乗割は理解に苦しむ。
大いに不満
この車列の変則的な位置は陵所の儀が始める徒歩列の出発に影響した。
こんなことになったのは、そもそも側近奉仕者の扱いが真面目に考えられなかったためではないか。
外部から目立つ徒歩列の形さえ整えればよく、車列は誰がどこに乗っていてもかまわない。
轜車と両陛下の車さえ良位置にあればよいと考えたからではないか。
侍従次長がもっと全体に配慮して意見を言うべきではなかったか。
事務主管は赤坂との折衝などもあり、多忙すぎて手が回らないのだから。
風と雨が強く、洋傘をさす。
シルクハット・手袋が邪魔になる。
宮内庁が用意してくれたモーニング用外套が大いに役立つ。
大喪の儀。
この間に一般参加者の便所に行く。
ここは暖かい。
幌舎の席は我々の辺りまで床暖房してあるとのことだが全然効かず、前方からの風が冷たい。
使い捨てカイロを足首・腰・背中に各2個ずつ、それに半長靴の防寒靴を履いたので、背中までは暖かいが首から上が寒い。
マフラーをすべきであった。
席にひざ掛け毛布があり、下部はそれほど寒くない。
霊柩を轜車に移す。
そのとき側近奉仕者もそこに行くことになってが、行っても見ているだけなので、皇族休所の一隅に設けられた供奉員昼食所に行き、北白川女官長や久保女官などとサンドウィッチと紅茶を食べる。
轜車に乗る中村侍従も少し離れた所で同様。
他の側近は知らない。
予定では陵所の車が高速道路に入ったら昼食を取ることになっていた。
陵所の儀。
クレーン者を使って霊柩を静かに納め、御挿鞋を霊柩足側にお置きする。
御剣を納めた上、クレーンで御影石の蓋をする。
さらに鉄筋入りのコンクリートを打つ。
大林組。
それが終わればお砂かけが行われた。
1989年3月6日
良子皇太后〔香淳皇后〕御誕生日。
新聞は良子皇太后の御近況について当たり障りのないことを載せている。
しかし老人特有の病気の状況について、少しは伝えておいた方がよくはないか。
週刊誌ではすでにかなり露骨に書かれているのだから、まったく発表がないのも妙に白々しい。
1989年4月19日
良子皇太后は陽気が良くなったので2~3日前から御庭を御散策、久しぶりのこと。
今日は中村参事が休暇でいないので、たまたま吹上に整理のために行った小生が代わりに良子皇太后の御手を引いて御供。
ほとんどお立ち止りにならずにお歩き。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1990年11月8日
寺崎手記のこと話題になり、
〔当時の通訳寺崎英成が遺した『独白録』が発表される〕
昭和24年の御日誌をめくると頻繁に拝謁の記録あり。
いずれ『拝聴録』の方も問題となろう。
1990年12月18日
昭和21年の御日誌を取り寄せ、寺崎御用掛ら五者拝聴の記録を調べる。
〔当時の御用掛寺崎英成・宮内大臣松平慶民・宗秩寮総裁松平康昌・侍従次長木下道雄・内記部長稲田周一の五名〕
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1990年5月25日
良子皇太后御散策の御供。
仕人が車椅子を押し、20分くらいの間であった。
車椅子の御散策に御供したのは今回初めてのこと。
良子皇太后何も御話にならなかった。
1990年8月21日
元侍従長徳川義寛、侍従室に来られてしばらくお話。
靖国神社への首相参拝で毎年問題となる戦犯合祀で、東条英機などが取り上げられるが、最も問題となるのはむしろ松岡洋右・広田弘毅の文官が入っていることであり、特に松岡は日米開戦の張本人とも言うべきもので、日米交渉の最中ルーズベルト大統領の出した条件に陸軍も海軍も賛成したのに、松岡が自分が交渉に当たらなかった故をもって反対したために交渉がまとまらなかったという。
松岡は日独伊三国同盟をまとめて帰国の途中、ソ連に寄り日ソ不可侵条約を結んで、そのためドイツをひどく怒らせたとか、とにかく異常の人だった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1991年9月24日
昭和22年の『御日誌』より御用掛寺崎英成の拝謁頻度をあたる。
まさに三日にあけずという感じ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1993年9月10日
北白川皇太后宮女官長より、昭和天皇の大正末期の日記が出てきたから見て欲しいと。
保存すべきか否か。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1994年2月1日
良子皇太后万一の場合、あまり作為は加えず早めに斂棺を行う方が可と。
貞明皇后は御遺体に腐敗防止剤注入。
1994年2月7日
北白川皇太后宮女官長より、昭和天皇の大正時代の御日記預かる。
原本は処分の方向。
1994年12月13日
元侍従長徳川義寛に昭和天皇の大正13年の御日記について意見を伺う。
女官に対する御批判が強すぎるので、少し和らげるようにとのこと。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1994年12月31日
良子皇太后は今すぐどうということはない御様子。
いつまで御用掛を続けられるのか、小生の健康もそれほどの不安はない状態が続いている。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1996年5月9日
良子皇太后御写真、報道機関に発表。
先月お撮りした室内と御庭での御写真を発表した。
これまで行啓時のカーテン越しのものなど良いものがなかったので、この際広く国民に真の姿を見てもらった方がよいとの考えでなされた。
痛々しい御姿だから賛成しない考えもあったらしいが、あえて決断された。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
2000年1月19日
大正13年・14年の記録を見る。
照宮成子内親王〔第一子〕御懐妊のスクープも朝日、まだ発表の段階ではないと対応を練るところまでそっくり。
2000年2月29日
侍医団から延命治療にからみ相談あり。
苦痛を和らげると言う意味でチューブ等により呼吸サポートが限界で、手術を伴う栄養補給については反対というか、ここまで来ては天寿を全うされるのが基本であろう。
2000年3月12日
良子皇太后侍医会議において、原則として気道切開や胃瘻などの手術は行わず、酸素吸入など苦痛を除くための対症療法で対処するという結論とのこと。
2000年6月15日
良子皇太后、昨夜から呼吸不全の御症状とのこと。
2000年6月16日
午前8時過ぎ、危篤の記者発表。
お部屋にどなたもおいでにならない時に、側近一同御病床に伺う。
酸素吸入で呼吸も大きく、お腹も大きくふくらむ。
しかし呼吸は同じリズムで変化なし。
午後4時46分崩御。
2000年6月17日
拝訣の儀。
2000年6月18日
御舟入の儀。
2000年6月19日
斂棺の儀。
2000年6月22日
三笠宮信子妃から「目がくぼんでいる。大丈夫ですか」と。
2000年6月23日
鎌倉長官より良子皇太后の祭官長の使命を受け、大役に力不足ながら努力しますと。
〔祭官長は18人の祭官を束ねて儀式をつかさどる〕
2000年6月24日
北白川皇太后女官長に例の昭和天皇の大正時代の御日記を、お忘れ物として副葬品にお入れいただくようお預けする。
2000年6月27日
昨日に続き講習会。
衣冠束着用、浅沓を履いて歩行練習。
米山祭官貧血症状で倒れ、前途多難を思わせる。
2000年6月28日
習礼は外陣に入る時に冠が御簾にぶつかったのが失敗、後はまあまあ。
2000年6月29日
大祭。
2000年7月5日
二十日祭。
2000年7月10日
追号奉告の儀。
2000年7月15日
三十日祭。
2000年7月19日
小幡祭官副長から電話で「8月以降の予定をいただいたが、山陵のこともありとても続かない。夫人も通院中でその世話もあるし、今月いっぱいで辞めさせてほしい」とのこと。
不安はあったが、こんなに早く起こるとは。
2000年7月21日
元掌典次長前田利信に電話して、祭官副長就任方懇請し快諾される。
苅田式部官長の了解も得る。
これにて一件落着。
2000年7月22日
北白川皇太后宮女官長より、昭和天皇の大正時代の御日記、確かに副葬品に入れたと。
2000年7月24日
霊代奉安の儀。
2000年7月25日
四十日祭。
陵所の儀。
2000年7月26日
山陵の儀。
2000年8月4日
五十日祭。
2000年9月23日
百日祭。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
2001年7月31日
朝日の記者来訪、昭和天皇が靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯。
直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず。
1975年11月21日が最後、このとき戦没者墓苑にも行幸啓あり。
2001年8月15日
靖国合祀以来昭和天皇参拝取り止めの記事。
合祀を受け入れた松平永芳は大馬鹿。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
1901-1989 87歳没
■妻 香淳皇后 久邇宮良子女王 久邇宮邦彦王の娘
1903-2000 97歳没
●継宮 明仁親王 125代平成天皇
●義宮 正仁親王 常陸宮
●照宮 成子内親王 東久邇盛厚王と結婚
●久宮 祐子内親王 早逝
●孝宮 和子内親王 鷹司平通と結婚
●順宮 厚子内親王 池田隆政と結婚
●清宮 貴子内親王 島津久永と結婚
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1987年3月30日
昭和天皇の御高齢化に伴う御公務見直し案について審議。
これから細部を個々に詰めていく要あり。
これから始まるという感じ。
1987年4月6日
御公務見直し案について、昭和天皇より御反論もあるらしい。
1987年4月7日
昭和天皇が「長生きするとロクなことはない」とお漏らしになった由。
侍従小林忍がとりなしたと。
1987年4月8日
式部副長山本学・式部官本多大介からタイ皇太子の来日に関し晩餐を願いたいと。
式部官長安倍勲から徳川侍従長に了解を得ている旨。
昭和天皇の御健康について誰が責任を持つというのか。
極めて不快感にて退庁帰宅。
1987年4月9日
徳川侍従長よりタイ皇太子晩餐について了承していない旨 確認を取り、式部副長中島宝城にその旨を伝える。
1987年4月15日
昭和天皇より「常陸宮が東京倶楽部を継承したら、紫煙に囲まれて肺ガンにならないか」との御心配。
1987年4月17日
東宮五殿下、御参内。
浩宮は御土産のブータンの民族衣装にて御参内。
1987年4月21日〔宮内記者との懇談会〕
浩宮の御相手について、昭和天皇は「血の濃くない方が望ましい」とお答えになる。
1987年4月29日〔天皇誕生日〕
宴会の儀の際、御気分が悪くなられ吐瀉された。
隣席の美智子妃・常陸宮妃の御介添で御退出になり、侍医伊東貞三の拝診をお受けになったが、特に問題となるデータもなし。
「吐いたら気分はさっぱりした」と仰せになり、浮揚御所にお帰りになった。
夜の御祝御膳もお取りやめになった。
1987年5月6日
昭和天皇より「良子皇后の御動作が軽くなったと思う、そうなればおつむのことを言わないと辻褄が合わないことはないか」と。
1987年6月22日〔須崎御用邸〕
大島行幸決定。
ヘリもOK。
スーパーピューマ〈はと〉にお乗り込み。
予備機〈ひばり〉に続いて離陸。
大島上空から火口を御覧、大島空港に着陸。
〔昭和天皇がヘリコプターに乗ったのはこれが初〕
1987年7月10日
昭和天皇、宮内庁病院で恒例の検診。
胸部レントゲン・CTスキャン。
1987年7月15日
那須御用邸行幸啓。
原宿での御降車でお座り込みになり手間取った由。
〔車で原宿駅に到着した良子皇后が「イヤ」と言って降車を拒んだため、隣席の昭和天皇が降車できなかった〕
1987年7月19日
御内庭からお帰りの際、御車寄のあたりにて急にお倒れかかりになり、侍従らお支えしてお運びする。
侍医拝診の結果、血圧・脈拍正常なり。
心電図異常なし。
1987年7月31日〔那須御用邸〕
胸のむかつきと嘔吐あり。
1987年8月2日〔那須御用邸〕
御気分すぐれず、お吐きになる。
1987年8月3日
嘔吐たびたびのことゆえ原因が憂慮される。
1987年8月23日〔那須御用邸〕
昼食後お吐きになる。
御昼寝後も再び嘔吐。
侍医伊東貞三によると胃幽門部の狭窄の疑いあり、胃カメラが必要とのこと。
1987年8月25日
良子皇后の皇室会議皇族議員互選の不在投票手続き。
1987年8月29日〔那須御用邸〕
夜、またお吐きになる。
1987年9月3日〔那須御用邸〕
膨満感あり、湿布と浣腸の御手当。
1987年9月4日〔那須御用邸〕
御不調、浣腸。
1987年9月5日〔那須御用邸〕
お腹張り、浣腸にてガス抜き処置。
1987年9月8日〔那須御用邸〕
昭和天皇、また胸のつかえ。
フウフウとお苦しそう。
御夕食もほとんど上がらず、ソーダ水をお飲みいただく。
1987年9月13日
宮内庁病院へ。
レントゲンの後、吹上御所にお帰り御床。
御昼食は召上らず点滴。
夜は流動食。
1987年9月14日
侍従長室にて高木侍医長・西野元侍医長から説明を受ける。
手術に踏み切る線。
ついに来るべきものが来たということたが、暗雲がたれこめ鬱々として楽しまず。
今後の諸問題のことが頭をよぎる。
1987年9月16日
御入院の段取り、今後の行事の取り扱いなどにつき協議。
1987年9月17日
取材の動き目立ち、報道対策について協議。
御病状の説明資料まとめる。
1987年9月18日
徳川侍従長・高木侍医長拝謁、御手術につき御了承を得る。
1987年9月19日
朝日のスクープのこと、予想通りで驚かず。
〔『天皇陛下、腸の御病気 手術の可能性』〕
各社より確認の取材殺到するも、否定も肯定もせず。
1987年9月22日〔手術〕
徳川侍従長と宮内庁病院へ。
昭和天皇、小林侍従・大橋侍医と共に宮内庁病院にお着き。
徳川侍従長とお迎え、御病室に。
ストレッチャーにて手術室にお入り。
御病室にお戻り。
覚醒良好。
意識もハッキリ応答あり、「相撲のテレビを観てよいか」との仰せありとか。
三笠宮、皇族代表としてお見舞に。
1987年9月23日〔宮内庁病院〕
良子皇后の絵を御病室に飾る。
1987年9月24日〔宮内庁病院〕
入院が長引くことで、侍従の中から当直制見直しの声。
こんな際でも楽をしたいのかと言いたい。
1987年9月25日〔宮内庁病院〕
毎日新聞にまた暴露記事。
〔『天皇陛下、今夏二回倒れられる 東京での早期検査見送り』〕
勝手にせよという心境。
1987年9月26日〔宮内庁病院〕
初めて白湯40ccを差し上げる。
1987年9月29日〔宮内庁病院〕
歩行練習開始。
1987年10月1日〔宮内庁病院〕
二カ所抜糸。
1987年10月2日〔宮内庁病院〕
レントゲン異常なく、合併症の所見なし。
1987年10月5日〔宮内庁病院〕
昭和天皇に、浩宮御代行のこと申し上げる。
〔明仁皇太子夫妻が訪米中だったため、浩宮が代行〕
1987年10月7日
御退院。
車椅子にて吹上御所へ。
階段ホールにて良子皇后お出迎え、お手をお握り。
エレベーターにて二階静養室ベッドへ、常陸宮夫妻御対面。
1987年10月9日
徳川侍従長より、昭和天皇が御居間にて良子皇后とババロアを召上りながらお話し、お手々をつないでエレベーターへという話題あり。
孝宮和子内親王・順宮厚子内親王・清宮貴子内親王御対面。
1987年10月13日
輸血200cc、始まる。
読売に輸血の記事。
〔『天皇陛下、貧血で輸血へ 今日にも700~800cc』〕
輸血記事対策について協議。
1987年10月19日
ヘモグロビン10.8に回復するも、なお二回輸血を継続。
1987年10月21日
輸血200cc、時間をかけて行う。
1987年10月23日
徳川侍従長から東宮様へ、沖縄での御言葉伝達。
〔皇太子が沖縄訪問の際、天皇の言葉を代読する予定になっていた〕
1987年10月24日
東宮様、沖縄着の報。
御言葉は出さないことになる。
東宮様にお任せになったことゆえ、コメントはお控えということか。
1987年10月27日
秩父宮妃・高松宮妃・三笠宮妃、御参内。
1987年11月4日
徳川侍従長から昭和天皇に、孝宮和子内親王の手術の結果につき言上。
〔孝宮和子内親王は乳ガンで手術を受ける。表向きの発表は乳腺疾患〕
1987年11月5日
45日ぶりに宮殿出御。
1987年11月16日
昭和天皇、ヘモグロビン1/10に落ちるも直ちに輸血の要はないとのこと。
1987年11月18日
新年用御写真の撮影の件 記事回避の申し入れをしたところ、日経にすでに出てるとのこと。
〔『天皇御一家 新年写真、11月22日に撮影』〕
すごく腹が立ち、退庁帰宅。
報道担当を返上しようかと考える。
フテ寝。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1987年1月31日
陛下の御容態。
当直の樋口英昭侍従から電話あり、
「今朝から昭和天皇が御気分悪くめまい吐き気を御訴え。お熱はないが血圧が高い」と。
1987年2月2日
今回のこと(天皇陛下の体調不良)なぜ起こったか不明だが、高松宮のこと(高松宮の体調不良)を御心痛のためと考えるしかないという意見が多い。
今回限りで終われば心配ないが、繰り返すようだと警戒を要すると。
1987年3月3日
良子皇后御写真。
お誕生日にあたっていつも発表される良子皇后御写真が、今年は高松宮の御薨去のこともあり撮影の機会もなく記者会に出せないので、ここ数日総務課を中心にゴタゴタが続いていた。
文書でその理由の開陳を求められ、その返事が出された。
高松宮のこともあり、御心身の御負担を考慮して御写真をいただけなかったからという趣旨。
しかしこれでは来年も同じような問題が起きるは必至。
必死もっと良子皇后の人権・プライバシー擁護の趣旨を明確に出しておいた方が、今後の紛糾の根源を断つことになろう。
1987年4月6日
土曜日の御研究を午前中だけにすることについて御意見あり。
「午前中は1時間ぐらいしか時間がないので、研究する暇が少なくなってしまうので、午後を切ることは賛成しかねる。もっとも職員の勤務の事を考えるならば仕方がないが」とのことであった。
1987年4月7日
御行事軽減について御意見。
「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことを見たり聞いたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸に遭い、戦争責任のことを言われる」など。
「戦争責任はごく一部の者が言うだけで、国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展を見れば、もう過去の歴史の一コマにすぎない。お気になさることはない。個人的にはいろいろお辛いこともおありでしょうが、国のため国民のために御立場上今の状態を少しでも長くお続けいただきたい」むね申し上げた。
1987年4月29日
今年の一般参賀は3回お出ましに減り、良子皇后はそのうち2回だけお出ましになる。
昭和天皇に御言葉をお願いした時と、お下がりを願った時と、なかなかそれをなさらず。
午後からの宴会で御言葉・乾杯など終わった後、御席で御食事をお戻しになったので、美智子妃・常陸宮妃が両脇をおかかえになり、お歩きで退場。
朝から胃のつかえがあった御様子。
1987年7月19日
昭和天皇御異状。
御車寄前植込横においでの時、急にお立ち上り、不審に思っていると、フラフラなさり始めたので、高木顕侍従長と田中直侍従が左右からお支えしたところ、その場にお崩れになった。
御車寄からエレベーターを使って御寝室にお運びした。
エレベーター内でお気がつき、「少し胸が苦しい」むねおっしゃった。
診断の結果、血圧・脈拍など異常は認められず。
約1時間後に心電図をお取りしたが、格別の異常はないとのこと。
御異状の原因に思い当るふしはなく、お疲れが多少あったものの、今までなら考えられないこと。
要するに脳貧血だったということであるが、その原因は結局よくわからないということで、お歳からお疲れやすく、お疲れになるとこういう現象が起きるのではないかということらしい。
1987年8月2日
昭和天皇御容態。
胸がむかつくような御気分になり、侍医が出たがはっきりせず、御夕食は軽く召し上がった。
一気にお吐きになり、そのため胃の御気分スッキリ。
テレビなど御覧になって、いつものように御格子(就寝)
31日夜10時頃にもむかつきをお訴えになったが、その時は腸が張っていたので温泉で温め治ったという。
それと今日と一連のものかどうかはっきりわからないという。
いずれにしてもこのところ昼間の眠気がひどいらしい。
先月19日のお倒れ以来どうもすっきりしない。
1987年8月24日
陛下の御容態。
昨日御昼寝直後ぐらいに少量、午後3時過ぎに大量にお戻しになったが、その後はサッパリなさったという。
前回8月2日の時と同様という。
原因は精神的・肉体的なストレスではないかと。
機能が衰えていることは言うまでもないが、ストレスにより胃液が急に大量に出てくると、腸の方に下がって行かなくなり、上に出てくるという。
1987年8月29日
午後8時からいつものようにテレビをご覧になったが、午後9時過ぎから吐き気お催しになった。
なかなかお出にならず、ようやく10時半頃お戻しになった。
その後は御気分も良くおなりになった御様子で、お眠りになったという。
1987年9月3日
昨日も夜中にお吐きになったという。
間隔がいよいよ詰まってきた感じ。
1987年9月13日
宮内庁病院工事を急ぎ中止して、宮内庁病院に御着。
昭和天皇はパジャマにガウン・スリッパ。
1987年9月19日
「天皇陛下、腸の御病気」今日の朝日の朝刊一面トップ記事。
他の新聞は報道せず。
昨夕の大相撲をお取り止めの発表をチャンスと今朝の行動となったもの。
昨夕発表の際 来週のことも一度にすればよいと侍従職では主張していたが、富田宮内庁長官などが首相などへの根回しが間に合わぬとか言って2段階の発表となったため、朝日に抜かれてしまった。
朝日の記事により各社一斉に動き出し、夕刊には各紙詳しく掲載された。
どうしてこんな細部までと驚かれる医学的所見まで記されている。
1987年9月21日
宮内庁発表。
8月下旬から時々お腹が張るなどの御異状。
御用邸から御帰京後 所用の検査の結果、腸の一部に通りの悪い箇所があり、できるだけ早くその通りを良くするため手術の必要ありと結論。
明日22日宮内庁病院に御入院手術の予定。
概略以上のような発表、報道されている実情上から見て、なんとも間が抜けている。
1987年9月22日
後入院・手術。
御病室で執刀医の東京大学付属病院長森岡恭彦と麻酔担当の沼田克雄教授の拝謁がある。
医師の消毒など時間がかかり、11時3分御病室を出て寝台車で手術室にお入り。
手術は午後2時37分終了との連絡あり。
手術前に報道されていた手術の時間は1時間半くらいとのことだったので、なかなか終わらない手術に記者は侍従職に10人ぐらいたむろしてイラ立っていた。
小生が1時半近く当直があけて帰ってきたところ、たちまちまだ終わりませんかと聞かれたが、こちらの方が聞きたいと言ってやった。
病院の侍従候所は御病室の棟とは別棟なので動きは全くわからない。
1987年9月29日
膵臓組織病理検査結果発表。
記者会見で侍医長から説明。
ガン組織認められず、「慢性膵炎」の病名。
1987年10月7日
御退院。
御病状はこれからも慎重な観察が必要。
吹上では職の看護婦6人と女官だけで当り、病院の看護婦の応援はないことになった。
1987年11月23日
新嘗祭。
昭和天皇は御欠席。
昭和29年に御風邪のためおいでにならなかった時以来のことという。
昭和天皇がお出にならないのに新嘗祭を催すことの意味はあるのか。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1988年1月29日
生物学御研究所の研究員が続けて病気になったことから、昭和天皇より「自然科学者の方が文科系より短命なのか。あるいは生物学研究所の態勢に問題があるのか」とのお尋ね。
1988年2月9日
昭和天皇より突然「摂政にした方が良いのでは」との仰せ。
1988年2月10日
昭和天皇より、やはり摂政問題の繰り返し。
「このようにダラダラした生活では」と。
「現在は冬ごもり。春来りなば どの程度おやりいただくか目下検討中につき、もう少しお待ちを」と。
1988年2月12日
侍医伊東貞三より、潜血反応ありとのこと。
1988年2月26日
須崎御用邸御滞在中のマスコミ対策を練る。
1988年3月16日
侍医大橋敏之より、孝宮和子内親王の再手術・御病状について聞く。
〔乳ガンが腸に転移〕
1988年4月13日
徳川侍従長退任により両陛下に拝謁。
「終戦の時と地方行幸の際、身命を賭して」との御言葉。
1988年4月21日
昭和天皇、徳川元侍従長の思い出をお話のとき涙ぐまれる御様子。
1988年4月28日
昭和天皇より、靖国神社の戦犯合祀への批判、国土庁長官奥野誠亮の中国に対する奥野発言への批判。
1988年5月11日
正田家に不幸があった場合の対応策について協議。
山本侍従長と正田家の問題など話し合い。
1988年5月13日
昭和天皇、御採寸。
終った頃から大あくびで、椅子をお勧めしたら崩れるように倒れかかり。
高木侍医長駆けつけ隣のベッドにお移しして拝診、失禁あり。
1988年5月14日
小林侍従から電話。
昭和天皇の御様子、今朝もよく召し上がった由。
御散歩もとの知らせに安堵する。
1988年5月19日
園遊会につき御説明。
「時間が短い」と御不満。
1988年5月20日
昭和天皇に6月以降の御用邸につき申し上げる。
「あまり増えないね」と御不満。
1988年5月23日
「予定表が二重に見える」との仰せ。
1988年5月30日
拝診の結果、左右眼球の調整力低下が原因。
プリズム入りの眼鏡発注。
1988年5月26日
毎日に載った重光葵日記のこと、御日誌にて事実確認。
〔『天皇陛下、駐屯軍撤退は不可 重光元外相日記に記述』〕
1988年5月28日
11時過ぎ電話で正田富美子夫人の死去の報入る。
1988年5月29日
昭和天皇に正田富美子夫人の死去について申し上げ、東宮様の方に見舞をするように仰せ。
「親類だから」と思ったより反応大。
1988年6月13日
高木侍医長より昭和天皇の検査結果を聞く。
血液検査・心電図・レントゲンは異常なし。
CT所見は膵頭部の腫張が多少大きくなった模様。
1988年6月16日
藤森新長官初の拝謁。
昭和天皇は「なかなかいい人だ」との御印象。
1988年6月28日
昭和天皇から「那須は今年はやめるのか」との仰せ。
「今週中に検討します」とお答え。
1988年6月30日
御体重48.9キロと2.5キロ減はショック。
1988年7月8日
「藤森長官は植物に関心がある。宮内大臣にもこういう人はいなかった」との仰せ。
1988年7月31日
御体重47.3キロ、1.3キロ減。
1988年8月13日
須崎御用邸よりヘリにて吹上御所へ。
1988年8月18日
ヘリにて須崎御用邸に還幸。
1988年9月12日
9月10日あたりから黄疸症状出ると。
山本侍従長と相談し、予定は変更せず行けるところまで行くことに。
沖縄御訪問は遠ざかる。
1988年9月18日
大相撲お出ましはお取りやめ。
発表文について協議。
先行きを考え、胆道系炎症の線を打ち出すことに。
意思統一をはかるため、侍従次長・侍従・侍医全員に発表文を連絡する。
1988年9月19日
21時50分ころ大量吐血、緊急輸血。
1988年9月20日
午前0時ころから、自宅に各社からの電話続々。
おかしいと思い高木侍医長に電話、吐血と聞く。
至急支度してタクシーで乾門へ、各社のフラッシュ浴びる。
NHKはずっとこのニュース。
午前2時過ぎから明仁皇太子夫妻御見舞。
朝からは秩父宮・高松宮・三笠宮・常陸宮夫妻・孝宮和子内親王・順宮厚子内親王夫妻・清宮貴子内親王夫妻・浩宮・紀宮清子内親王あいつぎ御見舞。
1988年9月21日
ゴミの廃棄方法につき協議。
昭和天皇は植物のお尋ねの催促、驚くべき御意欲。
1988年9月23日
昼前に若干の下血。
輸血400cc。
侍医会議。
出血対応を主とし、黄疸等を従とする治療方針継続。
1988年9月24日
昭和天皇、お話方はハッキリ、少しも変らない。
御顔色もそう黄色くない。
朝日のガン記事に抗議。
〔天皇の病気が膵臓ガンであり、現在の高熱はガン性腹膜炎の疑いと報じられた〕
1988年9月25日
大相撲御覧の御希望。
御容体ニュースが懸念されるも、その間はスイッチOFFという条件でご覧いただく。
終了の際「全勝だね」とポツリ。
1988年9月26日
山本侍従長はじめ全員集まり、崩御後当面する問題について説明し、心づもりをしてもらう。
1988年9月28日
高木侍医長に大正天皇崩御時の記録を見せ、御遺骸の御手当・御容体の発表など研究してもらう。
1988年9月29日
今日から白血球除去血液の輸血始める。
昭和天皇より名月のお尋ねあり。
9月25日だったとお答えすると、「今年は早かったんだね」と。
1988年9月30日
北白川女官長と御口湿しの綿棒・御湯殿の儀などにつき打ち合せ。
1988年10月1日
午後3時過ぎ400ccの大量下血で血圧100を割り、緊急輸血でひと騒ぎ。
輸血800ccに。
イギリスから一時帰国の秋篠宮が直行。
1988年10月6日
田中侍従にヒオウギアヤメの資料を読むように御指示あり。
〔ヒオウギアヤメは秋篠宮紀子妃のお印〕
1988年10月11日
ヘモグロビン5.6、高木侍医長の表情暗い。
1988年10月14日
侍医内田俊也から話を聞く。
「輸血量をもう少し増やさないと貧血状態の改善は期待できない」と。
1988年10月16日
お髭とお髪のお手入れを奉仕。
御様子はお変りない。
1988年10月18日
夜半かなりの下血があった由。
御寝室にうかがった御様子ではさほどお変りない。
常陸宮妃がお吹き込みになった童話をお聴きになる。
1988年10月20日
ヘモグロビン4.7とついに5を割り込み深刻な事態。
1988年10月21日
高円宮から京都国体閉会式の復命に参内したき旨、前例なきこととお断りするも感情害され、電話で文句言われる。
高円宮は山本侍従長にも電話で当たる。
輸血中発疹出て150ccで中止。
1988年10月22日
ヘモグロビン7.9と上昇。
常陸宮妃お吹き込みのイタリア昔話『疥癬にかかったバラリッキ』20分お聴き。
1988年10月23日〔十三夜〕
ベランダに十三夜のお供え。
鏡に月影を映し御覧いただく。
〔ベッドに横たわる天皇に卜部侍従が手鏡で月を見せた〕
1988年10月25日
午後3時過ぎ、吐血下血相当量あり。
血圧86まで落ち、緊急輸血600cc。
1988年10月26日
ヘモグロビンは8.3でそれほど低下せず。
カナダの大使館のカエデ、「来年は見られる」との御発言、心強し。
1988年10月27日
台車の模型を使って柩の運行練習。
1988年10月30日
かなりの下血。
血圧なかなか上昇せず、表から中間発表の要請あり。
1988年11月3日
常陸宮夫妻お見舞。
侍医加藤健三によると、「どうにかならないか、助けて」の頻発でお気の毒の由。
点滴の針も難しくなる。
1988年11月6日
侍医加藤健三から緊急連絡で全員二階へ。
苦しそうな御声で切ない。
血圧ダウン、数えられぬと。
1988年11月7日
イギリスから一時帰国の秋篠宮お見舞。
1988年11月8日
清宮貴子内親王より強硬申し入れありたる由。
1988年11月9日
東久邇文子さんから御面会の催促あるも、お断り。
1988年11月11日
半蔵門にて昨日から身分証提示請求あり。
理由を問う、上からの命とのみ。
1988年11月12日
東久邇家のお見舞につき東宮様から安楽侍従次長の御口添ありたる由。
一応明日5人一緒ということで伝える。
1988年11月15日
昨夜小林侍従御召で出たが、結局意味不明に終わった由。
多少意識の混濁が見られるか。
1988年11月16日
「イヤだよう」との愁訴の声聞こえる。
1988年11月29日
侍医内田俊也の話によると、血中アンモニアを減少させる薬剤使用の結果、今朝は反応がかなりはっきりしてこられた由。
とにかく摂政の話を消すためにも、意識混濁の表現は禁句なり。
1988年12月5日
午前7時前に小林侍従から電話、御様子が良くないと。
すぐ支度して御所へ。
御寝室を覗くと、酸素マスクを鼻に当てて懸命治療中。
1988年12月6日
ポケベル実験、OK。
1988年12月9日
公的行為の委任の基本となる御意思の確認のため、定例的なものについては包括承認をいただくことに。
御言葉についてもその要ありと認む。
1988年12月10日
夜半また相当量の出血あり、輸血600ccとのこと。
出血の間隔が狭まった感じで、侍医団に憂色漂う。
1988年12月11日
御寝室にて御様子を拝見。
ネフローゼ・両手のお動き〔羽ばたき振戦〕あり。
御顔色もやや黒ずむ。
御鼻には吸引用管。
1988年12月15日
御寝室にて御様子を拝見。
マスクをどけようと手で払うように。
1988年12月16日
新年祝賀の御言葉については国事行為で割り切り、代行御自身の御言葉とする侍従職の方針を伝える。
御寝室にて御様子を拝見。
やはり酸素マスクはお嫌い。
1988年12月17日
常陸宮夫妻お見舞。
常陸宮が「おもうさま」と呼びかけると、わずかに目をお開きか。
1988年12月26日
御寝室にて御様子を拝見。
御口の中で舌が動く傾向が見られる。
1988年12月29日
モーニングで歳末御祝詞。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1988年1月8日
講書始の儀。
明治2年に始められた儀で、天皇陛下御欠席なまま行われたのは初めてである。
本来天皇陛下へ進講するものであるから天皇陛下御欠席なら中止すべきものであろうが、新年の国民的な文化行事となっているからという変な理屈で開催に決まった。
儀の趣旨がゆがめられたというか、趣旨が変わったと言うべきか。
テレビで見ていると、天皇陛下の御席として机だけがポツンと置かれているのも奇妙に見える。
むしろ無い方がよいように感じられると田中直侍従が言っていた。
同感である。
1988年3月24日
香川県植樹祭、県側と打ち合せ。
昭和天皇の御臨席はないことがわかっているのに、県側にあたかも可能性があるがごとく思わせ、その線で全ての調査資料を用意されているのははなはだ遺憾なこと。
二重の負担を負わせることはない。
調査終了後20日ぐらいで公式に発表する段取りになっているのだから、調査の前に行幸の可否は今日にでも否と伝えてやるべきではないか。
4月になれば宮殿での御公務が少し増えるので、ますます可能性高いことを県側に思わせてしまう。
そのあげく否というのではあまりに気の毒。
今の段階で否と伝えないわけがわからない。
報道にはオフレコで伝えておいてもよいのではないか。
1988年5月13日
昭和天皇の御容態。
御洋服の御採寸が30分近くかかったためか終わった時 貧血状態におなりで、1時間ぐらいお休みの後御料車で吹上にお帰り。
昼食抜きで水分補給のため点滴。
すっかりお元気にお戻りでテレビで相撲御覧。
御夕食もお進みになり、8時からまた上奏書類御署名。
お元気。
1988年6月14日
昭和天皇の検査結果、今日記者発表あり。
格別の異常はなかったが体力の衰えは否定できない。
体重も減り続けている、足取りも弱まっていると。
1988年8月5日
那須に詰めている報道陣にたまには御姿を撮らせるとも必要というので、お出まし。
1988年9月11日
黄疸。
大橋敏之侍医の話によれば、管が圧迫されて通りが悪くなっているので、胆汁が体内に出てしまうためと。
1988年9月20日
御容態急変。
19日の夜10時頃吐血され、日赤に輸血を要請。
侍医長・内田俊也侍医・侍従長・侍従次長・女官長それに宮内庁長官・宮内庁次長など11時過ぎから20日午前2時頃にかけて吹上に集って宮内庁緊張。
吐血について侍医団は全く予想していなかったようで、その箇所・原因などまだ十分分析されていない様子である。
1988年10月30日
昨夜から今朝にかけてこれまでに例を見ない多量の下血があり、1,400ccの緊急輸血。
下血を「多量」と発表したのは今回が初めて。
1988年11月7日
秋篠宮、御帰国。
イギリス御就学中の秋篠宮は、昭和天皇の御容態が良くないというので、今夕日本に御到着になるという。
深夜0時半頃記者会見というのだから恐れ入る。
間に合わなくてもかまわないと思うのだが。
1988年11月14日
御容態、案外持ちこたえて新嘗祭までは大丈夫という予想も出ている。
御召。
言語不明瞭というより言葉になっていないので、侍医2人・看護婦3人と何をおっしゃっているのか聞き耳を立てたが全くわからない。
「明日また」と伺っても、それは御承知にならない。
今知りたいということらしい。
お疲れになるばかりというので、侍医が点滴に安定剤を入れ、お眠りになるようにした。
1988年12月1日
摂政問題。
現状のように傾眠状態が続き意識が明確でなくなってくると、一時的でも意思表示ができればよいが、さもないと国事行為の代行では済まなくなってくるおそれが出てくる。
常時意識がはっきりしない状態であるとなると代行制度はなじまず、摂政を立てざるをえなくなるのではないか。
幹部の間でも論議されている。
1988年12月18日
看護の刺激に対し「いやよ」とおっしゃったという。
本当かどうか。
1988年12月20日
昨日は〈おじゃじゃ〉(尿)ということもおっしゃったと。
「痛い」とか「イヤ」とかも。
侍医も驚いていると言うが、一時的なものかどうか。
1988年12月31日
9月の御発病以来、侍従長と侍従次長は日曜祭日もなく毎日吹上に勤務を続けている。
御容態の安定している時ぐらいどちらか交代で休めばよいと思うのだが、明仁皇太子夫妻が毎日吹上にお見舞においでのこともあるのか休まれない。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1989年1月5日
血圧低下し、輸血すでに600ccを越えるも上昇見られず。
また右腕に壊死が見られる。
高木侍医長は御状態はさらに一段と進んだとの見解。
来週がヤマか。
1989年1月7日
午前5時少し前、侍従井原好英から急変・瞳孔が開いたと。
すぐ起きて支度して出かける。
6時33分崩御訣別。
お口しめし奉仕、次にハサミとヒゲソリにて御整髪奉仕。
侍医・看護婦により御手当。
お召し物奉仕。
タンカにて御尊骸を御寝室から御居間にお移しする。
あまりに重いのに驚く。
1989年1月8日
清宮貴子内親王から開いているお口のこと。
侍医・内舎人らと秘かに実施、糸巻と冠緒にて一応成功。
1989年1月9日
御棺の中が冷え過ぎで、外側に汗をかく。
御内槽の本蓋を接着剤により閉じる。
御内槽をひと回り大きい御棺におおさめする。
次いで銅板の蓋をハンダづけ。
ドライアイスの除去を忘れたため中の空気が膨張し、みるみるうちに御棺の蓋が持ち上がり、やむを得ず銅板に孔をあけて空気を抜く処置を行った。
1989年1月14日
山本侍従長が昭和天皇の側近奉仕の立場に徹し、喪儀関係については新帝の供奉はしないとの方針を示し波紋を呼ぶ。
1989年2月13日
副葬品の箱届く。
檜製で二層。
蓋が反り閉まらぬ。
1989年2月22日
副葬品の箱の蓋できあがり。
まだ少し反っている。
蓋をしてみる。
2ミリくらいの隙間。
また反ることもあるのでビスで止めることに。
1989年2月23日
蓋がまた反り、ネジ穴を増やす。
1989年3月15日
済生会病院の孝宮和子内親王の様子について伺う。
夏までは無理か。
水がたまった由。
1989年3月20日
権殿での皇族礼拝位置につき、三笠宮から物言いつく。
中島式部副長・前田掌典次長と協議の上、外陣前に修正する。
1989年5月26日
孝宮和子内親王逝去の報入る。
重田侍従次長より照宮成子内親王の時の例を聞いてくる。
御日誌で調べてファックスする。
1989年7月13日
『昭和天皇実録』作成協力要請あり。
14~15年かかると。
1989年8月28日
管理部長から秋篠宮の〔結婚後の〕御新居に関し、赤坂御用地内の故孝宮和子内親王邸のことを聞いてくる。
1989年9月26日
秋篠宮御結婚来年6月末、新居は旧孝宮和子内親王邸と発表する由。
1989年9月28日
星川手記が話題に。
〔前侍医長星川光正が宮内庁病院での昭和天皇の手術室に入るのを拒否された件を手記で発表〕
1989年10月6日
星川手記を読む。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1898年1月1日
夜半相当量の下血があり、400ccの輸血を行った。
9時前にはさらに輸血が行われたいた。
血圧は少しずつ上昇しているとか。
しかし回復は遅くなっている。
1月6日
このところ輸血の効果がなかなか出にくくなっている。
すべての機能が衰えてきているためという。
尿もほとんど出ない状態が続き、いよいよ今度こそはという時期に来ている。
1月7日
崩御、午前6時33分。
朝5時過ぎ当直の井原侍従から電話、御容態悪化したので待機していてほしいと。
さらに6時頃電話で来るようにと。
すぐ御寝室に、お別れの拝礼。
すでに侍医・看護婦の手で御身体の清拭など行われ、終わるところだった。
まもなくお召物をお着せすることが始まり、卜部侍従と小生が主となって、サルマタ・袖なり肌着・小袖・襪・帯をお着せする。
肌着は右手は袖を通したが左手は腕関節がすでに硬くなって曲がらないので、袖に通すことができず肌着の中に包んで前部ボタンをかけた。
小袖の袖も同様にせざるをえず、左手は袖を通さず袂は御体にかけたような具合になった。
小袖をくぐらせる時は御腰を持ち上げたり横にしたり、なかなか重い。
まだ温かみが残っていた。
拝決。
新両陛下がまず御遺体に拝決、あと順次皇族方が、終わりに側近が拝決して終わる。
剣璽赤坂へ。
承継の儀のあと剣璽は両陛下と吹上に戻り、剣璽の間に。
1月8日
御舟入。
ドライアイスなど侍医が入れる。
1月19日
いよいよ御霊柩が宮殿をお発ちになる。
1月23日
殯宮一般拝礼は昨日一日だけで16万3,400名の人が来たという。
好天で割合暖かかったせいもあるが、それにしても昭和天皇に対する国民の敬愛・哀惜の情の深いのを感ずる。
1月25日
葬儀殿の儀などの葱華輦の習礼ある。
こんなものかと分かったがあまり役に立たず。
所要時間を計り、担ぐ皇宮警察の警察官の習礼が主だった。
1月26日
御料用として購入したが候所で使っている寒暖温度計が無いので聞いたところ、内舎人が御料用だからと言って無断で引き上げた。
電話に出た内舎人にきつく注意した。
現に使っているのに何事か。
もっと常識を働かせて仕事をしてほしい。
それでよくこれまで御用が務まったものだとまで言って、これからもそのような心掛けでやってほしいと。
1989年2月23日
殯宮伺候。
夜の伺候者が集まらないので、駆り出しているらしい。
1989年2月24日
大喪の儀。
早朝から雨。
新宿御苑では風も強くなり、幌舎内も大変寒い。
轜車発引の儀。
卜部侍従はお守の御剣、中村侍従は御挿鞋、田中侍従は霊柩の左側に従い、小林侍従と井原侍従は御紼を引く。
葬場殿の儀。
交通規制のため車道までの奉送の市民でいっぱい。
昭和天皇側近の車列の位置・乗割は理解に苦しむ。
大いに不満
この車列の変則的な位置は陵所の儀が始める徒歩列の出発に影響した。
こんなことになったのは、そもそも側近奉仕者の扱いが真面目に考えられなかったためではないか。
外部から目立つ徒歩列の形さえ整えればよく、車列は誰がどこに乗っていてもかまわない。
轜車と両陛下の車さえ良位置にあればよいと考えたからではないか。
侍従次長がもっと全体に配慮して意見を言うべきではなかったか。
事務主管は赤坂との折衝などもあり、多忙すぎて手が回らないのだから。
風と雨が強く、洋傘をさす。
シルクハット・手袋が邪魔になる。
宮内庁が用意してくれたモーニング用外套が大いに役立つ。
大喪の儀。
この間に一般参加者の便所に行く。
ここは暖かい。
幌舎の席は我々の辺りまで床暖房してあるとのことだが全然効かず、前方からの風が冷たい。
使い捨てカイロを足首・腰・背中に各2個ずつ、それに半長靴の防寒靴を履いたので、背中までは暖かいが首から上が寒い。
マフラーをすべきであった。
席にひざ掛け毛布があり、下部はそれほど寒くない。
霊柩を轜車に移す。
そのとき側近奉仕者もそこに行くことになってが、行っても見ているだけなので、皇族休所の一隅に設けられた供奉員昼食所に行き、北白川女官長や久保女官などとサンドウィッチと紅茶を食べる。
轜車に乗る中村侍従も少し離れた所で同様。
他の側近は知らない。
予定では陵所の車が高速道路に入ったら昼食を取ることになっていた。
陵所の儀。
クレーン者を使って霊柩を静かに納め、御挿鞋を霊柩足側にお置きする。
御剣を納めた上、クレーンで御影石の蓋をする。
さらに鉄筋入りのコンクリートを打つ。
大林組。
それが終わればお砂かけが行われた。
1989年3月6日
良子皇太后〔香淳皇后〕御誕生日。
新聞は良子皇太后の御近況について当たり障りのないことを載せている。
しかし老人特有の病気の状況について、少しは伝えておいた方がよくはないか。
週刊誌ではすでにかなり露骨に書かれているのだから、まったく発表がないのも妙に白々しい。
1989年4月19日
良子皇太后は陽気が良くなったので2~3日前から御庭を御散策、久しぶりのこと。
今日は中村参事が休暇でいないので、たまたま吹上に整理のために行った小生が代わりに良子皇太后の御手を引いて御供。
ほとんどお立ち止りにならずにお歩き。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1990年11月8日
寺崎手記のこと話題になり、
〔当時の通訳寺崎英成が遺した『独白録』が発表される〕
昭和24年の御日誌をめくると頻繁に拝謁の記録あり。
いずれ『拝聴録』の方も問題となろう。
1990年12月18日
昭和21年の御日誌を取り寄せ、寺崎御用掛ら五者拝聴の記録を調べる。
〔当時の御用掛寺崎英成・宮内大臣松平慶民・宗秩寮総裁松平康昌・侍従次長木下道雄・内記部長稲田周一の五名〕
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1990年5月25日
良子皇太后御散策の御供。
仕人が車椅子を押し、20分くらいの間であった。
車椅子の御散策に御供したのは今回初めてのこと。
良子皇太后何も御話にならなかった。
1990年8月21日
元侍従長徳川義寛、侍従室に来られてしばらくお話。
靖国神社への首相参拝で毎年問題となる戦犯合祀で、東条英機などが取り上げられるが、最も問題となるのはむしろ松岡洋右・広田弘毅の文官が入っていることであり、特に松岡は日米開戦の張本人とも言うべきもので、日米交渉の最中ルーズベルト大統領の出した条件に陸軍も海軍も賛成したのに、松岡が自分が交渉に当たらなかった故をもって反対したために交渉がまとまらなかったという。
松岡は日独伊三国同盟をまとめて帰国の途中、ソ連に寄り日ソ不可侵条約を結んで、そのためドイツをひどく怒らせたとか、とにかく異常の人だった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1991年9月24日
昭和22年の『御日誌』より御用掛寺崎英成の拝謁頻度をあたる。
まさに三日にあけずという感じ。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1993年9月10日
北白川皇太后宮女官長より、昭和天皇の大正末期の日記が出てきたから見て欲しいと。
保存すべきか否か。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
1994年2月1日
良子皇太后万一の場合、あまり作為は加えず早めに斂棺を行う方が可と。
貞明皇后は御遺体に腐敗防止剤注入。
1994年2月7日
北白川皇太后宮女官長より、昭和天皇の大正時代の御日記預かる。
原本は処分の方向。
1994年12月13日
元侍従長徳川義寛に昭和天皇の大正13年の御日記について意見を伺う。
女官に対する御批判が強すぎるので、少し和らげるようにとのこと。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1994年12月31日
良子皇太后は今すぐどうということはない御様子。
いつまで御用掛を続けられるのか、小生の健康もそれほどの不安はない状態が続いている。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『小林忍日記』昭和天皇の侍従
1996年5月9日
良子皇太后御写真、報道機関に発表。
先月お撮りした室内と御庭での御写真を発表した。
これまで行啓時のカーテン越しのものなど良いものがなかったので、この際広く国民に真の姿を見てもらった方がよいとの考えでなされた。
痛々しい御姿だから賛成しない考えもあったらしいが、あえて決断された。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
2000年1月19日
大正13年・14年の記録を見る。
照宮成子内親王〔第一子〕御懐妊のスクープも朝日、まだ発表の段階ではないと対応を練るところまでそっくり。
2000年2月29日
侍医団から延命治療にからみ相談あり。
苦痛を和らげると言う意味でチューブ等により呼吸サポートが限界で、手術を伴う栄養補給については反対というか、ここまで来ては天寿を全うされるのが基本であろう。
2000年3月12日
良子皇太后侍医会議において、原則として気道切開や胃瘻などの手術は行わず、酸素吸入など苦痛を除くための対症療法で対処するという結論とのこと。
2000年6月15日
良子皇太后、昨夜から呼吸不全の御症状とのこと。
2000年6月16日
午前8時過ぎ、危篤の記者発表。
お部屋にどなたもおいでにならない時に、側近一同御病床に伺う。
酸素吸入で呼吸も大きく、お腹も大きくふくらむ。
しかし呼吸は同じリズムで変化なし。
午後4時46分崩御。
2000年6月17日
拝訣の儀。
2000年6月18日
御舟入の儀。
2000年6月19日
斂棺の儀。
2000年6月22日
三笠宮信子妃から「目がくぼんでいる。大丈夫ですか」と。
2000年6月23日
鎌倉長官より良子皇太后の祭官長の使命を受け、大役に力不足ながら努力しますと。
〔祭官長は18人の祭官を束ねて儀式をつかさどる〕
2000年6月24日
北白川皇太后女官長に例の昭和天皇の大正時代の御日記を、お忘れ物として副葬品にお入れいただくようお預けする。
2000年6月27日
昨日に続き講習会。
衣冠束着用、浅沓を履いて歩行練習。
米山祭官貧血症状で倒れ、前途多難を思わせる。
2000年6月28日
習礼は外陣に入る時に冠が御簾にぶつかったのが失敗、後はまあまあ。
2000年6月29日
大祭。
2000年7月5日
二十日祭。
2000年7月10日
追号奉告の儀。
2000年7月15日
三十日祭。
2000年7月19日
小幡祭官副長から電話で「8月以降の予定をいただいたが、山陵のこともありとても続かない。夫人も通院中でその世話もあるし、今月いっぱいで辞めさせてほしい」とのこと。
不安はあったが、こんなに早く起こるとは。
2000年7月21日
元掌典次長前田利信に電話して、祭官副長就任方懇請し快諾される。
苅田式部官長の了解も得る。
これにて一件落着。
2000年7月22日
北白川皇太后宮女官長より、昭和天皇の大正時代の御日記、確かに副葬品に入れたと。
2000年7月24日
霊代奉安の儀。
2000年7月25日
四十日祭。
陵所の儀。
2000年7月26日
山陵の儀。
2000年8月4日
五十日祭。
2000年9月23日
百日祭。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
卜部亮吾『侍従日記』昭和天皇の侍従
2001年7月31日
朝日の記者来訪、昭和天皇が靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯。
直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず。
1975年11月21日が最後、このとき戦没者墓苑にも行幸啓あり。
2001年8月15日
靖国合祀以来昭和天皇参拝取り止めの記事。
合祀を受け入れた松平永芳は大馬鹿。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
