<大正時代の女官>
※大正天皇の死去により節子皇后の女官は節子皇太后の女官となったが、構成・定員に変更はなかった。
典侍 2名
権典侍 9名
掌侍 2名
権掌侍 10名
命婦 2名
権命婦 10名
女嬬 16名
権女嬬 18名
典侍 万里小路幸子 浜荻の局 英照皇太后・昭憲皇太后・貞明皇后に仕える
権典侍 清水谷英子 紅梅の局・皇太后宮女官長
権典侍 万里小路袖子 政治家猪野毛利栄と結婚
権典侍 正親町鍾子 松風の局
権典侍 千草梁子 海棠の局
権典侍 竹屋津根子 山桃の局
権掌侍 東坊城敏子 白百合の局
権典侍 大原慶子
権典侍 山口正子 藤袴の局 西五辻正子・山口豊男子爵と結婚死別
権典侍 穂穙英子 呉竹の局
権典侍 高松千歳子 撫子の局
掌侍 吉見光子 桂の局
命婦 富田算子 桜の局
命婦 梨木止女子 椿の局・実業家坂東と結婚
命婦 三善千代子 蕗の局・御祐筆・貞明皇后の学習院同級生・フランス語も堪能
命婦 堀川武子 菊の局
命婦 藤島愛子
権命婦 吉田愛子 薫の局
御用掛 山中貞子 通訳
万里小路良枝
北村ソデ
生源寺正子
坂野ススコ
加賀美繁子 内親王御用掛
野村親子 内親王御用掛
小川直子 内親王御用掛
赤松コマコ 内親王御用掛
杉浦チカコ 内親王御用掛
迎照子 内親王御用掛
桑山菊子 内親王御用掛
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『徳富蘆花日記』
1917年12月29日〔大正天皇の女官烏丸花子退職〕
烏丸花子〈初花の局〉が宮中を出たと新聞にある。
お妾の一人なんめり。
お節さん〔節子皇后/貞明皇后〕のイビリ出しだ。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人
大正に入ってから女官に任官した三人の娘は、いずれ劣らぬ美しい娘であった。
三人の娘は権典侍清水谷英子・権典侍大原慶子・権典侍東坊城敏子であった。
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『高松宮日記』
1927年10月6日
敏子〔東条坊敏子〕が女官を辞めたと新聞に出ている。
とうとう快癒に手間取るというのかしら。
気の毒と言うより私が悲しい気がする。
運命は彼女を幸福づけなかった。
彼女の身辺にも恵まなかった。
二人の妹は如何に。
弟は如何に。
女官の中で私が好きだった敏子。
先には土御門〔土御門賀寿子〕が辞めた。
これは元気が良すぎたのだが、こうして私が好きだった人は一般的ではない。
それはそうだろう。
目のよるところへ玉だもの。
健全ならざる私には健全なる人が近づけられるはずがない。
今残っている慶子〔大原慶子〕果たして健全なるや。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人
※土御門賀寿子は学習院を卒業後女官となり、〈八重菊の局〉という名前で宮中に仕えた。
30歳の時に25歳の大膳部の料理人木村英吉と恋愛関係となった。
職場恋愛が許される場所ではなかったので、二人は宮中を辞職して結婚した。
大正になってからのことであるが、ある日 私は権典侍千草梁子〈海棠の局〉の御供をして沼津の御別邸に出張を命ぜられたことがあった。
そのとき御別邸にいた権掌侍土御門賀寿子〈八重菊の局〉も一緒に東京へ帰ることがわかった。
三人は汽車に乗って座席に座ることになったが、普段なら女官は向かい合って腰かけていろいろ話し合いながら東京に着くということになるのだが、その時には八重菊の局は海棠の局と離れるようにして座って、黙り込んで陰鬱そうにうつむいていた。
それから私も初めて自分が沼津に出張を命ぜられた理由を知ったのであった。
つまり海棠の局は八重菊の局を東京に連れて帰るために出張したのであり、私はその御供を命ぜられたのであった。
八重菊の局はその美しい源氏名に反して、女官としてはまれにみる不器量な女であった。
自然誰も八重の局を問題にする者はなかった。
だからその女が沼津御別邸で大膳食の膳手と、しかも宮内省で美男の中の美男と言われていた青年と関係があろうなぞとは全く思いもよらないことであった。
このことは当時の新聞の三面記事をにぎわしたもので、記憶の良い人なら今でも覚えているに違いない。
八重菊の局は局部屋を下がったが、二人は強い愛情で結ばれていたとみえて、その後まもなく結婚し、やがて二人の子供が産まれた。
恐らく今でもどこかに幸福に暮らしているに違いない。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人
大正の中頃には三善千代子〈蕗の局〉が御祐筆を務めていた。
この人は節子皇后〔貞明皇后〕と学習院時代に同級で、フランス語なども達者で、そのため特に宮中に召されたのだと聞いた。
書の非常に上手であった正親町鍾子の源氏名は〈松風の局〉
千草梁子〈海棠の局〉は1929年頃退官して、実業家と結婚した。
竹屋津根子〈山桃の局〉は老年のため辞めたが、その妹は現在良子皇后〔香淳皇后〕の女官長である。
山口正子は西五辻子爵の娘で明治時代は権掌侍であったが、家の事情から山口子爵と結婚して二児をあげ、大正時代に未亡人となってから再び女官となり、その時は権典侍になった。
ところが帝大の学生になっていた子息がアカの関係から警察に検挙されるという事件が持ち上がったので、辞表を出して自邸に下がった。
その時には新聞に出るということがわかっていたので、その新聞が出る前に辞めなければならぬということから、わずか30分ほどの時間で荷物をまとめて慌てて下っていった。
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明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉 梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子
三善千代子〈蕗の局〉は節子皇后の御学友ということでお上がりになった方で、字をきれいに書く人でした。
千種任子〈花松の局〉の姪御さんの千草梁子〈海棠の局〉は手荒くってね。
そそっかしくて、時計ばっかり壊してござる。
お金持ちに片づかれましたけどね。
穂穙英子〈呉竹の局〉は私と二つ違いで、小さい時は遊びに行ったり、向こうさんから見えたりしました。
あそこは山本子爵の分家ですもんね。
明治天皇の崩御ちょっと前にお出になって、御用あまりなさらんうちに崩御になったもんで、長いこと一人でおいでになった。
それで節子皇后の方にお人さんが欲しいゆうて召されたんですけど、御病気があるために御側の御用ができないで陰の御用ばかりしてござった。
昔は独身でなくちゃ女官にはなれなかった。
だから山口正子〈藤袴の局〉は明治天皇の時 一度お下がりになって、
節子皇后が「かわいそうだから呼んでやれ」っておっしゃいまして、途中からまた召し出されたんです。
特別です。
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※大正天皇の死去により節子皇后の女官は節子皇太后の女官となったが、構成・定員に変更はなかった。
典侍 2名
権典侍 9名
掌侍 2名
権掌侍 10名
命婦 2名
権命婦 10名
女嬬 16名
権女嬬 18名
典侍 万里小路幸子 浜荻の局 英照皇太后・昭憲皇太后・貞明皇后に仕える
権典侍 清水谷英子 紅梅の局・皇太后宮女官長
権典侍 万里小路袖子 政治家猪野毛利栄と結婚
権典侍 正親町鍾子 松風の局
権典侍 千草梁子 海棠の局
権典侍 竹屋津根子 山桃の局
権掌侍 東坊城敏子 白百合の局
権典侍 大原慶子
権典侍 山口正子 藤袴の局 西五辻正子・山口豊男子爵と結婚死別
権典侍 穂穙英子 呉竹の局
権典侍 高松千歳子 撫子の局
掌侍 吉見光子 桂の局
命婦 富田算子 桜の局
命婦 梨木止女子 椿の局・実業家坂東と結婚
命婦 三善千代子 蕗の局・御祐筆・貞明皇后の学習院同級生・フランス語も堪能
命婦 堀川武子 菊の局
命婦 藤島愛子
権命婦 吉田愛子 薫の局
御用掛 山中貞子 通訳
万里小路良枝
北村ソデ
生源寺正子
坂野ススコ
加賀美繁子 内親王御用掛
野村親子 内親王御用掛
小川直子 内親王御用掛
赤松コマコ 内親王御用掛
杉浦チカコ 内親王御用掛
迎照子 内親王御用掛
桑山菊子 内親王御用掛
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『徳富蘆花日記』
1917年12月29日〔大正天皇の女官烏丸花子退職〕
烏丸花子〈初花の局〉が宮中を出たと新聞にある。
お妾の一人なんめり。
お節さん〔節子皇后/貞明皇后〕のイビリ出しだ。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人
大正に入ってから女官に任官した三人の娘は、いずれ劣らぬ美しい娘であった。
三人の娘は権典侍清水谷英子・権典侍大原慶子・権典侍東坊城敏子であった。
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『高松宮日記』
1927年10月6日
敏子〔東条坊敏子〕が女官を辞めたと新聞に出ている。
とうとう快癒に手間取るというのかしら。
気の毒と言うより私が悲しい気がする。
運命は彼女を幸福づけなかった。
彼女の身辺にも恵まなかった。
二人の妹は如何に。
弟は如何に。
女官の中で私が好きだった敏子。
先には土御門〔土御門賀寿子〕が辞めた。
これは元気が良すぎたのだが、こうして私が好きだった人は一般的ではない。
それはそうだろう。
目のよるところへ玉だもの。
健全ならざる私には健全なる人が近づけられるはずがない。
今残っている慶子〔大原慶子〕果たして健全なるや。
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小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人
※土御門賀寿子は学習院を卒業後女官となり、〈八重菊の局〉という名前で宮中に仕えた。
30歳の時に25歳の大膳部の料理人木村英吉と恋愛関係となった。
職場恋愛が許される場所ではなかったので、二人は宮中を辞職して結婚した。
大正になってからのことであるが、ある日 私は権典侍千草梁子〈海棠の局〉の御供をして沼津の御別邸に出張を命ぜられたことがあった。
そのとき御別邸にいた権掌侍土御門賀寿子〈八重菊の局〉も一緒に東京へ帰ることがわかった。
三人は汽車に乗って座席に座ることになったが、普段なら女官は向かい合って腰かけていろいろ話し合いながら東京に着くということになるのだが、その時には八重菊の局は海棠の局と離れるようにして座って、黙り込んで陰鬱そうにうつむいていた。
それから私も初めて自分が沼津に出張を命ぜられた理由を知ったのであった。
つまり海棠の局は八重菊の局を東京に連れて帰るために出張したのであり、私はその御供を命ぜられたのであった。
八重菊の局はその美しい源氏名に反して、女官としてはまれにみる不器量な女であった。
自然誰も八重の局を問題にする者はなかった。
だからその女が沼津御別邸で大膳食の膳手と、しかも宮内省で美男の中の美男と言われていた青年と関係があろうなぞとは全く思いもよらないことであった。
このことは当時の新聞の三面記事をにぎわしたもので、記憶の良い人なら今でも覚えているに違いない。
八重菊の局は局部屋を下がったが、二人は強い愛情で結ばれていたとみえて、その後まもなく結婚し、やがて二人の子供が産まれた。
恐らく今でもどこかに幸福に暮らしているに違いない。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
小川金男 明治・大正・昭和の天皇に仕えた仕人
大正の中頃には三善千代子〈蕗の局〉が御祐筆を務めていた。
この人は節子皇后〔貞明皇后〕と学習院時代に同級で、フランス語なども達者で、そのため特に宮中に召されたのだと聞いた。
書の非常に上手であった正親町鍾子の源氏名は〈松風の局〉
千草梁子〈海棠の局〉は1929年頃退官して、実業家と結婚した。
竹屋津根子〈山桃の局〉は老年のため辞めたが、その妹は現在良子皇后〔香淳皇后〕の女官長である。
山口正子は西五辻子爵の娘で明治時代は権掌侍であったが、家の事情から山口子爵と結婚して二児をあげ、大正時代に未亡人となってから再び女官となり、その時は権典侍になった。
ところが帝大の学生になっていた子息がアカの関係から警察に検挙されるという事件が持ち上がったので、辞表を出して自邸に下がった。
その時には新聞に出るということがわかっていたので、その新聞が出る前に辞めなければならぬということから、わずか30分ほどの時間で荷物をまとめて慌てて下っていった。
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明治天皇・大正天皇に仕えた女官〈椿の局〉 梨木止女子→坂東長康の妻坂東登女子
三善千代子〈蕗の局〉は節子皇后の御学友ということでお上がりになった方で、字をきれいに書く人でした。
千種任子〈花松の局〉の姪御さんの千草梁子〈海棠の局〉は手荒くってね。
そそっかしくて、時計ばっかり壊してござる。
お金持ちに片づかれましたけどね。
穂穙英子〈呉竹の局〉は私と二つ違いで、小さい時は遊びに行ったり、向こうさんから見えたりしました。
あそこは山本子爵の分家ですもんね。
明治天皇の崩御ちょっと前にお出になって、御用あまりなさらんうちに崩御になったもんで、長いこと一人でおいでになった。
それで節子皇后の方にお人さんが欲しいゆうて召されたんですけど、御病気があるために御側の御用ができないで陰の御用ばかりしてござった。
昔は独身でなくちゃ女官にはなれなかった。
だから山口正子〈藤袴の局〉は明治天皇の時 一度お下がりになって、
節子皇后が「かわいそうだから呼んでやれ」っておっしゃいまして、途中からまた召し出されたんです。
特別です。
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