◆秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)123代大正天皇の二男
1902-1953 50歳没


■妻 松平勢津子 外務官僚松平恒雄の娘/会津藩主松平容保の孫
1909-1995 85歳没

*米フレンドスクール卒業


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秩父宮雍仁親王

僕は侍女に対しても時々ひどく暴れたらしい。
特に6歳の時は手に負えなかったとみえる。
記録を読んでいたら、次のようなことを約束させられている。
①食物以外のものを口に入れないこと。
②物を投げないこと。
③欄干に登らないこと。
④侍女に噛みつくことをやめること。

連日の夜昼、気を休める時もない看護は並大抵のものではない。
夜中 眠りから覚めるとあたりはしんと静まって、隣の室で寝ている勢津子の寝息も聞こえないし、廊下を隔てた看護婦の方も音もない。
突然痰がひっかかったのか、咳が出だした。
気がつけば飛んでくると思うと、布団を頭からすっぽりかぶって、できるだけ音の漏れないように咳をする。

1944年5月17日、いつもと変わりなく午前6時に目が覚めた。
そのとき右を下にして寝ていたので、仰向けになろうと寝返ったところ、左鎖骨の少し下で胸骨付近から肩甲骨にかけて神経痛的な痛みを意識した。
今までもこのような痛みは時々感じたことがあるので、あまり気にもとめなかった。
熱は36度2分、脈は80で平常と変りはない。
含嗽・洗面などを済ませ、約一時間の後 正常のように朝食をとったが、身体が異常に冷たく感じ、ことに脚が甚だしい。
別に悪寒はないのだが、布団を上の方に引っぱって体全体を暖めようとしたが、いっこうに効果がない。
食後さらに布団を一枚かけてしばらくしたらようやく身体が暖まってきて、それとともに熱が出て来た。
午前9時の体温は38度に昇り、脈は110以上を数えた。
この日はちょうど寺尾殿治博士の定期診察日に当っていたので、午前中まもなく東京から来訪した寺尾博士に診察してもらう。
熱は高いが、気分はそんなに悪くない。
午後2時頃から例のごとく午睡をしようとしたところ、呼吸が少しずつ苦しくなってきた。
こんな経験は初めてだ。
眠ったら良くなるだろうと眠ろうとするが、いっこうに眠れない。
20分・30分と経つにしたがって、楽になるどころか段々と苦しさが増してくる。
しかし耐えられないほどのものではない。
再び寺尾博士の診察を受けて、胸部の痛むところに塗薬してもらった。
この呼吸の苦しさは、2~3時間後にはだいぶ楽になった。
この日の体温は39度近くまで上がり、脈は130、また呼吸は息苦しかった時が40ぐらいであった。
この夜は大変だるくて、安眠ができなかった。

翌日5月18日は呼吸が苦しくなることはなかったが、吐き気があって食欲はほとんどなく、ブドウ糖の注射などしてもらう。
体温は前日より高く、午前中39度5分近く、午後は38度5分から9分の間であり、脈拍は終日130前後であった。
呼吸は割に多く30前後で、最高は40近い。
この日は遠藤清繁博士も来診。

5月19日午前中は、おおむね前日と同様の病状であった。
12時半ころ看護婦が心臓部を冷やす氷嚢の氷の入れ替えに数間行ったと思うころ、突如として強度の悪寒に襲われた。
看護婦はすぐ氷を入れて帰って来たが、僕の顔色のあまりの変化に驚いてしまって、その時ちょうど昼食のために別室へ行っていた勢津子に知らせに行き、勢津子はすぐに飛んできた。
あるだけの布団をかけてもらい、いくつかの湯たんぽを身の回りに入れてもらったが、震えは止まらない。
どうにもならないから身体を海老のように曲げていたが、なかば夢中であった。
いわゆる悪寒戦慄で、初めての体験だ。
この騒ぎの中 看護婦が休憩していた遠藤博士・寺尾博士が来て、カンフル注射を2本打った。
2本であったことは確かにわかっていたが、そのとき「痛い」と言ったことはまったく覚えがない。
悪寒戦慄がどのぐらい続いたかは覚えがない。
かなり長い時間のように思ったが、約30分だったと記録されている。
このあいだ勢津子と看護婦とでかわるがわる僕を呼んだそうだが、僕はぜんぜんこれを記憶していない。
身体が暖かくなってくるにしたがい震えは下火になって楽になったが、これと同時にまた呼吸が苦しくなりだした。
2日前の時はしばらくして収まったが、この日はだんだん苦しさが激しくなるばかりだ。
いよいよ本格的自然気胸が起こったのだ。
肺が破れ空気が胸腔に充満しだしたのだ。
寺尾博士は人工気胸の大家、さっそく空気を抜く準備にかかった。
脈拍は悪寒が起こって以来140以上を数えていた。
発熱と胸苦しさでなかば朦朧としてしまう。
「いま空気を取りますから、すぐお楽になります」とまでは寺尾博士の言うことがおぼろげながらわかったが、その後 気胸針を刺されたことなどは覚えがなく、空気が抜かれるにしたがって楽になり、意識は再びはっきりしてきた。
このとき取った空気は800ccであった。
140以上もの脈が長く続けば心臓も弱り、どんなことになったかもしれなかった。
死線を越えたというのは大袈裟な表現であるかもしれないが、それに近い体験であったことは確かだ。
左の肺はかなり前から空洞ができ、症状も悪い方へと進んでいたので、いつかは自然気胸が起こるかもしれないとは医者には想像されていたようだ。
いつかとはわからないにしても、5月17日に発熱し肺炎らしくもあり自然気胸の徴候もあったので、寺尾博士は5月17日以来、また遠藤博士は5月18日から泊まってくれていた。
そして人工気胸の道具も前日に届いたようなわけで、このように準備万端のできた時に起ったことは非常な幸運だったと言うほかはない。
この日の夕方には体温は36度を割り脈も90くらいとなったが、もちろんこれは一時的現象であった。

5月20日以上は、病状としてはまず落ち着き、熱は毎日36度から38度の間を上下し、脈は100前後であったが、数日後から気胸を起した方の胸に水がたまりだし、5月25日以降随時穿刺を行い、水を取りその後へ空気を入れて、この好機を利用して人工気胸を始めた。
これまでも気胸を試みてはとの意見もあったらしいが、レントゲンによると左肺は胸膜が肥厚して肺の細部が写らない有り様なので、おそらく癒着して気胸はできないだろうとの判断で試みなかった。
ところがこの空洞の破れとともに肺が具合よく圧縮されることとなった。

その頃の自覚症状としては、夜熟睡できないこと、頭がぼんやりしたこと、食欲のないことが特筆すべきものであった。
熱と体力の消耗とで昼夜ぶっ通しに眠りそうなものだが、夜は「眠られぬ夜」であり、昼は「醒めきらぬ昼」であった、昼夜を通しての半睡半醒、一日が長くて長くて持て余す日々であった。
新聞雑誌など読む気にもなれないし、読んでもらおうとも思わなかった。
そして夜になればただただ夜明けが待ち遠しい。
夜中になんべん時間を聞き、また自分で時間を見たかわからない。
そしてその度に針は一時間くらいしか動いていない。
そのうちにクロツグミなど小鳥がやっと鳴き出す。
普段ならもう少し静かにしていてくれればと思うこともしばしばあったが、今はこの小鳥の交響曲でまったく救われた気がする。
やがて欄間から明るさが入って来ると、待ちかねて雨戸を開けてもらい、朝の清い空気を胸いっぱいに呼吸する。
蘇生の思いとはこうんなことかとさえ思われた。
そうするとまたとろとろと一眠りできる。
こんな日が何日も何日も続いた。
頭はよほどどうかしていた。
今から考えるとあまりに馬鹿らしくて自分でも疑いたくなるが、食事をしていると時々これは自分のために口を動かしているのか、人のために食事をしているのかと、常識では説明不可能な迷いに囚われる。
こんな時はきっと瞬間的に眠って夢でも見ているのだろう。
また食べ物が食堂を下って行くとき、右の方へ行けばそれは自分の胃で、左の方へ行けば他人の胃だというようなことを真面目に考えた。
このような状態もしばらく続いた。

自然気胸の起こったことは、結果から見て天祐だったと言えるのではないかと思う。
1940年夏の発病以来一歩一歩悪くなっていたのだが、これを転機として一歩一歩良い方に向かい出したのだから。
しかし良くなりつつあるといえ安心の域に達したのは、数カ月ないし半年以上も後のことだったろう。
心配された膿胸にもならず、1943年の夏以来寝たきりだったのが、1944年の暮にはとにもかくにも床の上に起坐して食事ができるまでになったのだから、僕としてはこんな喜びはなかったわけだ。
喀痰の性質も次第に良くなりつつあったということは、病巣が治癒しつつあることを示した。
あの大戦の最中このような回復を遂げることのできたのも、両博士の万全の処置を第一に、勢津子をはじめ身近で看護に当ってくれた人々、離れていても絶えず心にかけて機会あるごとにいろいろ慰めてくださった肉親の方々、さらにはそれぞれの立場から直接間接に誠意を尽くされた人々のお陰と言うほかはない。
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秩父宮勢津子妃

侍女たちの手でマント・ド・クールから振袖に着替えさせられました。
そのおり足袋のこはぜを自分ではめようとしましたら、慌てて止められ「侍女がいたします」
老女からきっぱり言われ、ただもうビックリ。
お人形のように何もかも任せるということには朝から何回かの着替えでわかっておりましたが、足袋のこはぜまでとは。
そういうことまでできないのかと、とても悲しく暗澹たる思いがいたしました。

足袋のこはぜで承知しているはずですのに青山東御所へ初めて和服で庭つたいに伺いました夜、ついうっかりして自分の履物の向きを変えようとしましたら、「あ、およしあそばして」
手を払いのけんばかりの勢いで止められる始末。
自分でやれば履きやすいように置けるのにと思いました。
上半身のことと下半身のことではお役が違う、つまり担当する侍女が違うこともしって驚いたことでした。
お庭を散歩していて鳥の置物の向きを変えようとしましたら、「君様、私がいたします」と押しとどめられたぐらいです。

節子皇太后〔貞明皇后〕にもお喜びいただき、なるべくたびたび来るようにとの御言葉。
それも和服を着てくるようにとの仰せでした。
節子皇太后はお子様が親王様方ばかりでいらっしゃったため、私の和服や持ち物の色彩や立ち居がお心にもお目にも優しく楽しくお感じになりますようで、それは秩父宮様も同じでいらしたかもしれません。

節子皇太后はフランスのファッションにもお詳しくて、私などよそ行きのものは全部生地もデザインもお見立てで宮内省を通じてお届けいただきました。
お子様が親王様ばかりなので、お楽しみでもあったのかもしれません。

節子皇太后がお楽しそうだったといえば、私が上がった翌年の春から私の雛飾りをご覧になりたいとの仰せで、毎年行啓になりました。
飾った雛檀をとてもお喜びになりましたのも、親王様ばかりのお子様方にはなかった愛らしい行事としてお楽しかったのでございましょう。

当時秩父宮様は青山にあった陸軍大学までお付武官と毎日歩いてお通いになっておりました。
ご帰邸後は晩餐会とか宮中での行事がおありにならない限り、まずおやつにアンパンを召し上がるのでした。
甘い物は何でもお好きでしたが特にアンパンがお好きで、それも一個以上も召し上がりましたので、当然夕食に響いてまいります。
それをお分かりになっていらして召し上がる。それほどお好きだったのです。
私は娘時代からあまり甘い物を好みませんし、一度も手をつけませんでした。
今から思えばたまにはおつきあいすればよろしいのに、ぼんやりで気が回らなかったのです。

先日旧職員が参りましての昔語りのあれこれの中で大笑いいたしましたのは、秩父宮様と私の真夜中のローラースケートのことです。
「お寝み前のひとときよくローラースケートをあそばしました。お寝みになっておいでかと思う時間にお二方であそばす。私ども一階におりますと雷が鳴っているようで、初めは何ごとかと思いました」

私が上がりましてから陸大の夏休み中にハイキングに連れて行っていただきました。
秩父宮様としてはお好きな山の気分を私にも味あわせてやりたいお気持ちからで、それはよくわかっておりながらも私にとっては大変なハイキングでした。
日光からスタートして金精峠を越えて伊香保に一泊。
それから榛名山に登り途中自動車で軽井沢にでましたが、翌日は上林から発哺まで歩き、翌日は岩菅山に登るというまさに強行軍でございました。
妃殿下というものはこんなに歩かなければならないものかと本気で思ったりしたものです。
秩父宮様は女のご姉妹がおありになりませんので、手加減がおわかりにならなかったのです。

秩父宮様も高松宮様も大正天皇が皇太子殿下でいらした時にお生まれあそばしたので、明治天皇のお孫様ということで「皇孫殿下」と呼ばれておいでになっていたのに対して、三笠宮様は天皇様のお子様である「皇子様」としてお生まれになったわけです。
それで兄宮方はよく冗談で「こちらは生まれが違うから」とおからかいになったとか。

残された私がまず第一にしなければならないことは、ご遺言を実行することでした。
お手帳のご遺言は次の通りです。

『僕は50年の生涯をかえりみて、ただ感謝あるのみ。
特殊な地位に生まれたといふだけで限りない恵まれた一生を終えたいふ以外はない、平々凡々たる一人の人間だが。
ことに最後の10年はわが民族として国家として歴史上未曾有の難局と困苦の間にあったが、この間を静かに静養の生活を送れたことは、幾多の同病の人が筆舌に尽くし得ない欠乏の中にこの世を去って行ったのに比し、あまりにも恵まれすぎてゐたといふ外ない。
なにもわが民族のためになることもせず、ひいては世界人類のために役に立たなかったこの体の最後を少しでも意義あらしめるために、勢津子さえ反対ーーあえて我慢ができるならばと言ひたいところだがーーしないならば、解剖に附してもらいたい』

そのあと解剖の部位や立ち合いの先生方のお名前を挙げ、「結核の専門の人に限りたい」との但し書きもしてございました。
解剖について「勢津子さえ反対しないならば」とあるのを拝見した時は、泣くことを自分に許すまいと決心していた私も、そのお言葉に込められた秩父宮様のお気持ちに涙があふれるばかりでございました。
ご遺言には「火葬にすること」をお命じになっており、ご葬儀についても「墓地もないことだし、勢津子と二人だけのことだから、できるだけ簡素にすべてをしたい」とのお考えのもとに「もし許されるならば、いかなる宗教の形式にもならないものとしたい」とご希望が述べられておりました。
秩父宮様のお心をわが心とする私に反対などあるべきはずはございません。
ともに行こうと仰せられているならば、お供させていただきたいと思っておりました。
ご遺言にもとづいて昭和天皇のご同意を得ました上、ご遺体の解剖が行われました。

イギリスからはチャールズ皇太子ご夫妻が来日されたのですが、儀式の前日のご多忙の中をさっそくお二人で私をお訪ね下さったのです。
チャールズ皇太子はいきなり私に抱きつくようにしてキスをあそばし、「どうして儀式にご参列なさならいのですか。私がどんなにしてもお助けしますから、お出になられてはいかがですか」との愛情のこもった力強いお言葉に、激励と申しますか教えられたと言いますか、息子に叱られた母親の気持ちというのはこうもあろうかと思いました。
チャールズ皇太子は以前から私のことを「日本のお祖母様」とおっしゃられるのです。
チャールズ皇太子ご夫妻は4日間のご滞在中3度もお会いすることができて、最後にもう一度ご説教をいただきました。
「秩父宮妃はクイーンマザーのようにもっとワガママになさらなければいけません。御遠慮やお気づかいをやめて、ご自分の思うとおりになされば健康になられます」
日本ではできない、というより私にはできないと申しましたら、
「できないと言わずにやればいいんです」と日本のお祖母様は叱られながら、
心の中で「ありがとう、チャールズ」と申し上げたことでした。
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