◆123代 大正天皇(明宮嘉仁親王)122代明治天皇の子
1879-1926 47歳没
■妻 貞明皇后 九条節子 九条道孝公爵の娘
1884-1951 66歳没
*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。
*三男高松宮より10歳年下の四男が生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。
●迪宮裕仁親王 昭和天皇 久邇宮良子女王と結婚
●淳宮雍仁親王 秩父宮 会津藩主松平容保の孫/外務官僚松平恒雄の娘松平勢津子と結婚
●光宮宣仁親王 高松宮 将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵の娘徳川喜久子と結婚
●澄宮崇仁親王 三笠宮 高木正得子爵の娘高木百合子と結婚
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王と房子内親王の御養育係
1899年9月8日
※中山慶子の発言〔明治天皇の生母〕
九条家も範子さん〔貞明皇后の姉〕が未嫁の時はいろいろと運動し、嘉仁皇太子の御息所との望みありたる模様なれども、節子さんにてはとても叶わざるとて格別運動もせざると察せられ候。
望外の感ありしならん。
この度の義はすべて御表にての取り計いと存じられ候。
ただ丈夫と申すのみにても御繁生と申すことも受け合いはできず。
嘉仁皇太子にもまだお祝いを申し上げないように言われている。
しかし嘉仁皇太子が私に「橋本綱常から何か聞いていないか」としきりにお尋ねになるので困っている。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『原敬日記』総理大臣
1920年8月10日
下田歌子来訪。
「大正天皇の妃御選択の際 伊藤博文公爵の内命を受け御教育せし諸令姫中、第一に皇族方よりと詮議せられたるも、伏見宮禎子女王は適当と言う者ありたるも侍医橋本綱常御診察の結果御健康不適当となり、やむを得ず旧御摂家の中よりと詮議せられたるにより、自分は九条家は孝明皇后〔英照皇太后〕の御実家でもあり、その姫すなわち節子皇后は御幼少より御教育致せしに、別段優れたる御長所なきもまたなんらの御欠点もなきにつき然るべきかと伊藤公爵に内話し、橋本綱常御診察致し健康申し分なしということにて当時の皇太子妃に御定理ありたる次第なれば、その後今日に至るまで畏れ多きことながら極めて御信用ありなにくれと言上しおり。
しかして皇太子妃より皇后となられたる当時は如何にも御心労の御様子にて、皇后となられてお喜びかと思えばさにあらず、美子皇后〔昭憲皇太后〕賢明の御声聞高きにいかにしてその跡を継ぐべきやと御憂い御深かりし御様子なりしが、その御性格一変とも申し上ぐべく今日は立派なる国母とならせられ、また最近は大正天皇の御病気にていかにも御心痛あり、不幸にして御下問等に対すべき有力なる老女官もなきにつき、ついに自分を御召にあいなる次第なり。
迷信と申すことは如何なる方にも免がれざることにて、ひとたび迷信に入らるればこれを去ること難しきものなれば、むしろ過なきを期するには飯野吉三郎のごとき諸事楽観にてしかも敬神の念厚き者は間違いなかるべしと考え、その直感したる神意と申すべきものを言上しおれり。
また節子皇后常に仰せには、『世上のこと当局者より聞けば別段のことなきようなれども、いろいろ他の者より言上することあり。その真相を判断するに苦しむ』との御仰せあり」とて、例の大隈重信系や官僚系が政界もしくは政府のことにつき云々することを暗示せり。
「かくのごとき次第なれば、不肖ながら国家のためと思いいろいろ言上しおる」と言い、今日は初対面なるが時々必要の場合には来訪を約し去れり。
下田はとかく評のある婦人なれども、教育も十分ある人なれば、その言うところは誠実にしてもっともの次第なり。
いずれにしても宮中に賢明なる老女官にてもあらば、一層国家のためなるべしと思わざるを得ず。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『原田熊雄日誌』西園寺公望の秘書
元老西園寺公望は「節子皇太后を非常に偉い方のように思ってあんまり信じすぎて、というか賢い方と思いい過ぎておるというか、賢い方だろうがとにかくやはり婦人のことであるから、その点はよほど考えて接しないと、昭和天皇との間で憂慮するようなことが起りはせんか。自分は心配しておる」と言った。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1923年2月7日
夜、有栖川宮董子妃御危篤の電報ありたり。
ことによっては帰らねばならぬかもしれぬ。
困ったことなり。
1923年2月8日
晩、牧野伸顕宮内大臣より喪主仰せつけらるること、帰京の日は後報という電報が来る。
やれやれ。
たぶん紀元節後ならん。
1923年2月9日
夜電報にて「帰京を要すれば18日の前」ということを報ず。
これによれば帰らずに済むかもしれないが、それでは変だ。
高松宮という称号は有栖川宮家の祭祀を継ぐためだ。
喪主という勅許を願っておきながら、ここにしまいまでいては変すぎる。
1923年2月10日
私としては喪主になった以上、帰京するを至当と思う旨、山内伝育官より官長に尋ねしむ。
夜、皇后宮属淡近澄、節子皇后の御親書もて来島。
帰京するようにとの仰せと思いのほか、意外のことにも帰らないようにと言うことで、非常にヒステリックになって書いておありになるので、私にはよく事が了解できなかったが、困ったことになった。
宮内大臣は帰るようにとの意見なるも、節子皇后はことごとく反対なさるらし。
官長も困りおるならん。
1923年2月12日
今朝大臣より有栖川宮の御辞退を理由として帰京せぬよう伝い来る。
義理の立たないことになって心苦しい。
1923年3月1日
官長から東京での様子を聞く。
宮内大臣は強く帰京を言い張り、御内儀ではどうしてもお許しなきこと想像の如く。
節子皇后が非常にヒステリックにおなりになっていたことも予想通りだった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1929年3月30日
北白川宮へ。
良子皇后御参内になるから、節子皇太后との間が上出来のようにするなどお話して。
1929年10月26日
大宮御所より三里塚の薯などいただく。
石川別当がその御様子を申し上げぬから、御催促だろうと心配す。
あまりに節子皇太后にビクビクしすぎる。
1929年12月9日
侍従長鈴木貫太郎来談。
大宮御所と宮城との折り合い、融和に努めるべきむね話す。
かかることは侍従長のなすべきことならざるがごときも、今としては侍従長の仕事拡大せる以上、また侍従長として努めざるべからざることなりとは難しきことなり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1937年8月15日
節子皇太后より派兵将士に氷砂糖を賜る由。
良子皇后より負傷病兵に包帯等を賜る恒例に対し、氷砂糖はもっと広範囲になり釣り合い上いかがなものか。
いただく方では良子皇后と節子皇太后と区別はないわけであるが、内輪で見るとちょっとどうかなり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1941年8月6日
節子皇太后防空の御避難所はじめ日光の予定なりしところ、節子皇太后お気にいらず先日御参内の時に昭和天皇と御話あり。
寒いのはイヤという思召もあり、例の調子にて節子皇太后おひねくれからか昭和天皇もお困りにて、防衛司令部の考えにては日光第一なるも、宮ノ下でもよく沼津でもまずよろしとのことにて、その後沼津ならよろしとのことになる。
何かあると語気の具合で変になり、昭和天皇また余計に御心配になる。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
1879-1926 47歳没
■妻 貞明皇后 九条節子 九条道孝公爵の娘
1884-1951 66歳没
*貞明皇后は自分と同じ誕生日の二男秩父宮を溺愛した。
*三男高松宮より10歳年下の四男が生まれてからは末っ子三笠宮を溺愛した。
●迪宮裕仁親王 昭和天皇 久邇宮良子女王と結婚
●淳宮雍仁親王 秩父宮 会津藩主松平容保の孫/外務官僚松平恒雄の娘松平勢津子と結婚
●光宮宣仁親王 高松宮 将軍徳川慶喜の孫/徳川慶久公爵の娘徳川喜久子と結婚
●澄宮崇仁親王 三笠宮 高木正得子爵の娘高木百合子と結婚
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
佐々木高行『かざしの桜』明治天皇の娘昌子内親王と房子内親王の御養育係
1899年9月8日
※中山慶子の発言〔明治天皇の生母〕
九条家も範子さん〔貞明皇后の姉〕が未嫁の時はいろいろと運動し、嘉仁皇太子の御息所との望みありたる模様なれども、節子さんにてはとても叶わざるとて格別運動もせざると察せられ候。
望外の感ありしならん。
この度の義はすべて御表にての取り計いと存じられ候。
ただ丈夫と申すのみにても御繁生と申すことも受け合いはできず。
嘉仁皇太子にもまだお祝いを申し上げないように言われている。
しかし嘉仁皇太子が私に「橋本綱常から何か聞いていないか」としきりにお尋ねになるので困っている。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『原敬日記』総理大臣
1920年8月10日
下田歌子来訪。
「大正天皇の妃御選択の際 伊藤博文公爵の内命を受け御教育せし諸令姫中、第一に皇族方よりと詮議せられたるも、伏見宮禎子女王は適当と言う者ありたるも侍医橋本綱常御診察の結果御健康不適当となり、やむを得ず旧御摂家の中よりと詮議せられたるにより、自分は九条家は孝明皇后〔英照皇太后〕の御実家でもあり、その姫すなわち節子皇后は御幼少より御教育致せしに、別段優れたる御長所なきもまたなんらの御欠点もなきにつき然るべきかと伊藤公爵に内話し、橋本綱常御診察致し健康申し分なしということにて当時の皇太子妃に御定理ありたる次第なれば、その後今日に至るまで畏れ多きことながら極めて御信用ありなにくれと言上しおり。
しかして皇太子妃より皇后となられたる当時は如何にも御心労の御様子にて、皇后となられてお喜びかと思えばさにあらず、美子皇后〔昭憲皇太后〕賢明の御声聞高きにいかにしてその跡を継ぐべきやと御憂い御深かりし御様子なりしが、その御性格一変とも申し上ぐべく今日は立派なる国母とならせられ、また最近は大正天皇の御病気にていかにも御心痛あり、不幸にして御下問等に対すべき有力なる老女官もなきにつき、ついに自分を御召にあいなる次第なり。
迷信と申すことは如何なる方にも免がれざることにて、ひとたび迷信に入らるればこれを去ること難しきものなれば、むしろ過なきを期するには飯野吉三郎のごとき諸事楽観にてしかも敬神の念厚き者は間違いなかるべしと考え、その直感したる神意と申すべきものを言上しおれり。
また節子皇后常に仰せには、『世上のこと当局者より聞けば別段のことなきようなれども、いろいろ他の者より言上することあり。その真相を判断するに苦しむ』との御仰せあり」とて、例の大隈重信系や官僚系が政界もしくは政府のことにつき云々することを暗示せり。
「かくのごとき次第なれば、不肖ながら国家のためと思いいろいろ言上しおる」と言い、今日は初対面なるが時々必要の場合には来訪を約し去れり。
下田はとかく評のある婦人なれども、教育も十分ある人なれば、その言うところは誠実にしてもっともの次第なり。
いずれにしても宮中に賢明なる老女官にてもあらば、一層国家のためなるべしと思わざるを得ず。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『原田熊雄日誌』西園寺公望の秘書
元老西園寺公望は「節子皇太后を非常に偉い方のように思ってあんまり信じすぎて、というか賢い方と思いい過ぎておるというか、賢い方だろうがとにかくやはり婦人のことであるから、その点はよほど考えて接しないと、昭和天皇との間で憂慮するようなことが起りはせんか。自分は心配しておる」と言った。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1923年2月7日
夜、有栖川宮董子妃御危篤の電報ありたり。
ことによっては帰らねばならぬかもしれぬ。
困ったことなり。
1923年2月8日
晩、牧野伸顕宮内大臣より喪主仰せつけらるること、帰京の日は後報という電報が来る。
やれやれ。
たぶん紀元節後ならん。
1923年2月9日
夜電報にて「帰京を要すれば18日の前」ということを報ず。
これによれば帰らずに済むかもしれないが、それでは変だ。
高松宮という称号は有栖川宮家の祭祀を継ぐためだ。
喪主という勅許を願っておきながら、ここにしまいまでいては変すぎる。
1923年2月10日
私としては喪主になった以上、帰京するを至当と思う旨、山内伝育官より官長に尋ねしむ。
夜、皇后宮属淡近澄、節子皇后の御親書もて来島。
帰京するようにとの仰せと思いのほか、意外のことにも帰らないようにと言うことで、非常にヒステリックになって書いておありになるので、私にはよく事が了解できなかったが、困ったことになった。
宮内大臣は帰るようにとの意見なるも、節子皇后はことごとく反対なさるらし。
官長も困りおるならん。
1923年2月12日
今朝大臣より有栖川宮の御辞退を理由として帰京せぬよう伝い来る。
義理の立たないことになって心苦しい。
1923年3月1日
官長から東京での様子を聞く。
宮内大臣は強く帰京を言い張り、御内儀ではどうしてもお許しなきこと想像の如く。
節子皇后が非常にヒステリックにおなりになっていたことも予想通りだった。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1929年3月30日
北白川宮へ。
良子皇后御参内になるから、節子皇太后との間が上出来のようにするなどお話して。
1929年10月26日
大宮御所より三里塚の薯などいただく。
石川別当がその御様子を申し上げぬから、御催促だろうと心配す。
あまりに節子皇太后にビクビクしすぎる。
1929年12月9日
侍従長鈴木貫太郎来談。
大宮御所と宮城との折り合い、融和に努めるべきむね話す。
かかることは侍従長のなすべきことならざるがごときも、今としては侍従長の仕事拡大せる以上、また侍従長として努めざるべからざることなりとは難しきことなり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1937年8月15日
節子皇太后より派兵将士に氷砂糖を賜る由。
良子皇后より負傷病兵に包帯等を賜る恒例に対し、氷砂糖はもっと広範囲になり釣り合い上いかがなものか。
いただく方では良子皇后と節子皇太后と区別はないわけであるが、内輪で見るとちょっとどうかなり。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
『高松宮日記』
1941年8月6日
節子皇太后防空の御避難所はじめ日光の予定なりしところ、節子皇太后お気にいらず先日御参内の時に昭和天皇と御話あり。
寒いのはイヤという思召もあり、例の調子にて節子皇太后おひねくれからか昭和天皇もお困りにて、防衛司令部の考えにては日光第一なるも、宮ノ下でもよく沼津でもまずよろしとのことにて、その後沼津ならよろしとのことになる。
何かあると語気の具合で変になり、昭和天皇また余計に御心配になる。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
