<開申事件>


浄土真宗大谷派は、東本願寺を本山とする末寺1万・門徒数1千万を擁する日本最大級の宗教教団である。
全国に別院が54ありそのほとんどは光暢法主が住職を兼ねていたが、
東京別院は長男光紹、
滋賀県の長浜別院は二男暢順、
富山県の井波別院は四男暢道がそれぞれ住職を務めていた。
しかし、30年に渡るお東騒動により4派に分裂するに至った。

東本願寺・大谷家は戦前までは伯爵家であった。
皇族・華族との結婚を繰り返すことによって、一種の天皇家を作り上げていた。
教団の天皇家にあたるのが『大谷家』宮内庁にあたるのが『内事局』内閣にあたるのが『内局』総理大臣にあたるのが『宗務総長』閣僚にあたるのが『参務』衆議院にあたるのが全国の僧侶から選ばれる『宗議会』参議院にあたるのが全国の門徒から選ばれる『門徒評議会』憲法にあたる『宗憲』もあり、裁判所にあたる『審問院』もある。

東本願寺のトップは3つの権力を持つ。
一つ目は親鸞の血を引く生き仏としての『法主』
二つ目は本山である東本願寺で宗教活動を行う『住職』
三つ目は宗教法人の代表としての『管長』
これらは三位一体のものとして一人が担うのが原則であった。

ところが1969年4月24日、光暢法主が突然「管長職だけを長男光紹に譲る」と開申し、独断で記者会見も開いた。
開申とは法主が宗門に重要なことを知らせる通達の意味である。
三位一体で切り離せない『管長』の地位のみを長男に譲るというこの開申は、長い伝統と習慣を破る前代未聞の事件だった。
宗務総長にも宗議会議長にも事前にまったく知らされないまま突然発表されたのである。
三位一体の原則を崩すうえ、宗憲に定められた正式の手続きも経ていない。
内局は猛然と反対した。結局この開申事件はすったもんだした挙句、3年後の1972年2月に光暢法主が開申を取り下げるという形で落ち着いた。

しかしこの事件をきっかけに保守派と改革派の対立が激化し、30年にも渡ってお東騒動が続くことになる。


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当時の内示部長(侍従長にあたる) 佐々木全応

その日は午前中に当門〔光暢法主〕と会ったが、何の変化も感じられなかった。
ところが新聞記者がやってきて「午後の記者会見って何ですか?」と聞く。
記者会見なんて聞いてなかったから、その足で当門に聞きに行ったんです。
「大したことじゃないんだ」と言われる。
具体的にわからないまま引き返してきたんです。

2時過ぎに当門に呼ばれて「記者を呼んでほしい」と言うんです。
ところが会見の内容がなかなか手元にこない。
法主の会見の際には担当の総務部長にまず写しを出し、
それを見て法務部長が会見の手順を考えるわけです。
だから「写しは?」と聞いたが、「いや、いいんだ」と言われる。
会見の発表文は巻紙になってましてね、封されていた。
このまま会見というわけにはいかないので、参務(閣僚)を集めて封を開けてみたんです。
そしたら、「管長を新門(長男光紹)に譲る」という開申でしょう、びっくりしましたよ。
三位一体を崩すものだというわけでね。
しかしあと数分で会見が始まるという時でどうしようもなく、
そのまま発表ということになってしまった。
当門と新門が出てこられて、開申の内容といい、発表の方法といい、異例ずくめだった。
やはり、こじれ始めたのはあの時からという感じがしますね。
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