<主要人物>
■夫 大谷光暢 東本願寺24代法主
1903-1993 90歳没
■妻 久邇宮智子女王 久邇宮邦彦王の娘・姉は香淳皇后
1906-1989 83歳没
●長男 大谷光紹 離脱して浄土真宗東本願寺派/東京本願寺
●二男 大谷暢順 離脱して浄土真宗大谷本願寺派/東山浄苑
●三男 大谷暢顕 東本願寺25代門首 最終的に後継者に選ばれる
●四男 大谷暢道/光道 離脱して嵯峨本願寺
●長女 大谷美都子 音大教授大賀寛と結婚
●二女 大谷須美子 オーミケンシ副社長夏川浩と結婚
※30年に渡るお東騒動により4派に分裂、4人の息子はそれぞれ自らを25代と名乗っている
もともと東本願寺大谷家は、明治時代に伯爵を与えられた祖父/22代大谷光瑩、そして父/23代大谷光演と放蕩が続き、これに反発して改革派が生まれた経緯がある。
23代大谷光演が破産宣告した際には、条件として大谷家の財産がほとんどが東本願寺の所有になった。
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『明教雑誌』明治時代
何をか大谷派本願寺の腐敗という。
一派門徒勿論しかりと、まず法主しかり、執事しかり。
妻妾常に左右にはべり、一夜の豪遊に幾百の黄金を消散し、あるいは須磨の別邸に管弦声裡治野の酔夢を貪る者は、これそれ現代の大谷光瑩法主にあらずや。
無謀の口実に信徒の膏血を絞り、法主を優化して内示を紊乱し、一宗を挙げて咄々たる日本仏教界の大怪事を演出せしむる。
大谷光瑩法主、渥美契縁執事と言えば、日本仏教界不道徳を意味する代名詞たるものにあらざるなきか。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣
1925年2月5日
京都府知事池田宏来訪。
東本願寺大谷光演洋行、容易ならざる纏綿せる内情の陳述なり。
要するに岡本米蔵なる者の魂胆に基因せる企図なり。
文部大臣岡田良平よほど決心、実現阻止に努むる覚悟の趣。
1925年3月30日
上京を促したるにつき、東本願寺の大谷光演を訪問。
宗門の本山として華族以上の関係なること、皇族方御心配のこと、累を皇室に及ぼすこと、交友のよろしからざることを指摘して戒告したるに、やや響きはありたるごとく感じたるも真意はわからず、さりながら近づける人については注意すべし、洋行のことは安定するまで見合すべし、営業事業も中止すべしとの意味は陳述あり。
大谷氏は談示終わるを待ち、早々辞去したり。
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東本願寺の除籍の公告 1959年
※大谷瑩俊は21代大谷光勝の孫
『大谷瑩俊準連枝の処置について』
本人については従来とかくの風評があり、しばしば注意を喚起したるにもかかわらず、準連枝たるの地位を悪用して建築業者等と結んで数次にわたる詐欺を行い、御裏方の印鑑まで偽造行使するなど僧分としてあるまじき行為が重なり、被害者から告発を受けるに至った。
宗門の体面を汚し、大谷一門の名誉を損なうこと甚だしいものがあるので、処分に付したものである。
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しかし大谷家側はその後も財産は自分たちの物であるという意識を持ったままだった。
大谷家による財産の処分を今後は未然に防ぎたい改革派は、いずれは大谷家から管長職を切り離そうと考えていたため、取り上げられるぐらいならと大谷家側が先手を打って管長職を子に譲ろうとしたと考えられる。
長年大谷家べったりだった内局も年々改革色を強めてゆき、ついに1961年改革派の訓覇信雄が宗務総長に選出される。
訓覇内局は組織の抜本的な改革を行い、13部からなる部門制に改めた。
これに伴い大谷家に近い儀式関係の式務局と大谷家の宮内庁にあたる内事局が部に格下げされた。
末寺から本山には様々な願い事が上がってくる。
願い事を叶える度に、末寺から本山に上がる金の1割が内事局に入ることになっていた。
また末寺住職に率いられて上山する門徒は、法主との面会『お会い』のために内事を訪れる時に相当の礼金を包むことになっていた。
それが絶たれてゆくことに不満と苛立ちを募らせたのは長男光紹であった。
長男光紹は二回の婚約解消を経験している。
一度目は昭和天皇の娘・孝宮和子内親王。
1949年に婚約が各紙で報じられたが、遺伝学的見地からイトコ結婚を避けたい皇室側が断った。
1950年和子内親王は元公爵家鷹司平通と結婚する。
長男光紹は1950年アメリカに留学し、4年後の1954年に帰国する。
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読売新聞 1949年11月23日
『孝宮様の御内約順調に進む 選ばれた東本願寺の大谷光紹氏』
「孝宮和子内親王の御配偶については鈴木侍従次長を中心に選考が進められていたが、東本願寺法主大谷光暢氏の長男大谷光紹氏との間に御内約が順調に進んでいる旨、光暢氏により初めて明らかにされた」
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1949年11月30日
昭和天皇◆新聞を見て驚いて、そんなに進んだのかと思った。
田島長官◆他の新聞は書きませず、読売新聞記者が大きく扱ったと存じますが、新聞ほど進んだ訳ではありません。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1949年11月29日
田島長官・林次長・三谷侍従長・鈴木侍従次長・名取女官・予で、東本願寺問題〔孝宮和子内親王&大谷光紹の縁談〕を論議する。
1949年12月5日
田島長官・林宮次長・三谷侍従長・八田・塚原・名取女官・予で、孝宮和子内親王御結婚問題を論議する。
要するに血族結婚は不可ということになり、さらにその他の点から言っても不可ということになる。
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『田島道治 拝謁記』宮内庁長官
1953年5月20日
昭和天皇◆皇太子妃の問題が『婦人クラブ』という雑誌に写真入りで出てるよ。
田島長官◆何人ぐらい出ておりますか。
昭和天皇◆さー、はっきりは知らんが10人ぐらいは出てる。
久邇さん〔久邇宮通子女王と久邇宮英子女王姉妹・皇太子(平成天皇)のイトコ〕なんかも出てるが、あれは大谷のこの前の関係もあり到底ダメな話だ。
〔大谷光紹&孝宮和子内親王のイトコ同士〕
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大谷家はあきらめず続けて、昭和天皇の娘・順宮厚子内親王、昭和天皇の娘・清宮貴子内親王を望む。
皇室側はどちらも和子内親王と同じ理由で断り、表面化しなかった。
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『田島道治 拝謁記』宮内庁長官
1950年10月10日
昭和天皇◆順ちゃん〔順宮厚子内親王〕の意思は今結婚にないが、大谷光紹への口実が留学三年ということゆえ、帰朝前に結婚する方が賢明だ。
1950年11月7日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談、新陣容で間違いなく慎重に見てやってまいりますつもりでおります。
昭和天皇◆大谷光紹への口上から、大谷の帰国せぬ内というのは頬かぶりではあるが。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1955年9月13日
東本願寺の大谷智子さん〔香淳皇后の妹〕が大谷光紹に清宮貴子内親王をいただきたいと申し出た由。
もちろんお断りであるが、この前の縁談〔大谷光紹&孝宮和子内親王〕からこういうことは出てこないはずだということになり、稲田侍従次長が元侍従次長鈴木一さんの所へ聞きに行くことになる。
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二度目は智子裏方の実家久邇宮家から持ち込まれた縁談で、田安徳川達成伯爵の娘徳川文子。
1955年に帝国ホテルで見合いののち婚約、大学2年生だった令嬢の卒業を待って結婚式が行われる予定であった。
1957年には長男光紹みずから設計した新居が1,500万円で建てられた。
しかし長男光紹が秘かに婚約を破棄していたことが発覚、自分の側近を相手の家に遣わして白紙を伝えており、内局はもちろん両親も知らなかった。
大谷家は慌てて取りなしたが、相手の家族は激怒、復縁は不可能であった。
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毎日新聞 1955年12月11日
「東本願寺 光紹師の新裏方 徳川文子さんに決まる」
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一度目の婚約は皇室側から断ったが、二度目の婚約ははっきりと長男光紹が破棄している。
智子裏方は両親に相談もなしに非常識な破談を行った長男光紹に対して、強いわだかまりを抱くようになった。
お東騒動が10年・20年と続く過程で、保守派・改革派ともに光暢法主に引退していただき、長男光紹を新しい法主にしてまとめようという案は何度も出たが、積極的案というより消去法的案でしかなかった。
四男暢道に側近の僧侶武内克麿や側近の不動産業者三池新二が付いていたように、長男光紹にも大物右翼や宗教家たちがバックに付いていたからである。
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『入江相政日記』侍従長
1971年1月5日
皇后様から新嘗祭の簡素化はいかんとまた来た。
小一時間かけてまた申し上げる。
東本願寺と吹原産業のことも申し上げる
〔香淳皇后の妹大谷智子の「お東騒動」の一つ〕
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『入江相政日記』侍従長
1972年3月13日
東本願寺二男大谷暢順氏来訪。
例の吹原の件〔お東騒動の一部〕
1972年6月20日
東本願寺大谷夫妻〔妻大谷智子は香淳皇后の妹〕両殿下に御対面につき、北白川女官長から吹原の件〔お東騒動の一部〕 念のため申し上げてもらう。
1972年10月2日
宇佐美宮内庁長官から東本願寺大谷智子裏方のこと、まったくイヤな話である。
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『入江相政日記』侍従長
1976年3月11日
宇佐美宮内庁長官と東本願寺〔香淳皇后の妹大谷智子の嫁ぎ先〕の内紛〔お東騒動〕のこと。
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『入江相政日記』侍従長
1977年6月7日
御上から、東本願寺のこと〔お東騒動〕邦昭もいないし〔久邇家当主久邇邦昭は海外赴任中〕こちらのことをよく承知している者として弘世現〔久邇邦昭の舅〕には頼めまいかとのこと。
弘世も困りましょうし、やはり良い弁護士を探すことが先決なれど、いずれ宇佐美宮内庁長官と相談して申し上げるとお答えする。
1977年6月28日
侍従次長徳川義寛が東伏見邦英さん〔久邇宮邦英王・東本願寺大谷智子の弟〕に会うことを申し上げたところ、
御上は「宇佐美長官が弘世に言ったが、邦英さんにただ会うだけでは駄目で、宇佐美長官はどうもそこが甘い」との仰せ。
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『入江相政日記』侍従長
1978年1月12日
東本願寺のこと〔お東騒動〕昨日弘世現氏〔久邇家当主久邇邦昭の舅〕から聞いた通りのことを御上に申し上げる。
1978年6月19日
東本願寺二男大谷暢順氏来訪。
「父によく言うと『わかった』と言ってくれるが、そこへ母と四男大谷暢道が来るとすっかり元に戻る」とのこと。
1978年7月26日
侍従次長徳川義寛が弘世氏に会った由。
宗門の大事、本来文部省のことながらそれではとても駄目につき、やはり政界の要人がその地位を離れて事に当ってもらった方がいいとのこと。
1978年8月10日
富田宮内庁長官に那須御用邸から言ってきた大谷智子裏方〔香淳皇后の妹〕の電話の件報告。
北白川女官長にも話しておいたこと、電話の録音でもされれば目も当てられないということ話す。
同感。
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『入江相政日記』侍従長
1979年1月12日
富田宮内庁長官から、東本願寺のこと〔お東騒動〕で元宮内次官白根松介が田中角栄の所へ行ったとか。
驚くべきこと。
1979年1月15日
政治家江崎真澄が富田宮内庁長官に「東本願寺のことで白根松介が田中角栄に頼み込んだ」と言ってきた件で、白根さんを訪問。
いろいろ例を挙げて話したら、「よくわかった。さっそく中山理■に言う」とのこと。
相変わらず軽率なことである。
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『入江相政日記』侍従長
1980年7月31日
弁護士内藤頼博来訪。〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕
東本願寺の件〔お東騒動〕法主と四男大谷暢道を起訴することになるかもしれないとのこと。
法主の象徴化を言っておく。
1980年8月15日
内藤君の東本願寺の件、御上も大変お喜びだった。
内藤に、御上もその通りでいいと思召すということを言ってくれてもいいとの仰せ。
1980年9月17日
内藤君。
四男大谷暢道いよいよ起訴らしい。
その機会に法主夫妻に説くとのこと。
大賛成。
1980年9月22日
内藤君。
四男大谷暢道の逮捕状、続いて起訴の見込みのこと。
内藤君が大谷智子裏方〔香淳皇后の妹〕に会えるよう徳川侍従次長から電話することになる。
1980年9月25日
内藤君。
東本願寺の件、四男大谷暢道・大谷智子裏方に反省なし。
なんとかして宗門と同じ土俵に乗せたいと言う。
1980年9月29日
内藤君。
四男大谷暢道の起訴の他なしとのこと。
「起訴有罪として法主夫妻を守った方がよし」と言っておく。
1980年11月5日
内藤君。
東本願寺問題、いよいよ解決の見通しがついてきたとのこと。
1980年12月20日
内藤君。
東本願寺は片づいた由。
戦後処理はなかなか大変だがとのこと。
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『入江相政日記』侍従長
1981年1月26日
御上から「東本願寺のこと〔お東騒動〕やはり弁護士内藤頼博〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕にやってもらい、土俵ができてから親族が出た方がよかろう」との仰せ。
1981年2月20日
富田宮内庁長官に、内藤君から聞いた東本願寺のこと、宗門と法主、法主と新門、新門と宗門、そのすべてがいけないことを話す。
御上にも東本願寺のこと申し上げる。
「壬申の乱のようだ」との仰せ。
1981年4月23日
弁護士内藤頼博来訪。〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕
東本願寺の憲法改正について、法主夫妻は四男大谷暢道次第で反対。
利害をいくら説いても聞かぬ由。
長男大谷光紹はまた別の人に担がれているとか。
困った連中である。
1981年10月15日〔滋賀京都巡幸〕
京都に入ってから鴨川を渡り旧久邇邸を御覧に入れたが、肝心の皇后様大した御感興なし。
でもこれで御上のお望みは通った。
東本願寺の夫妻〔香淳皇后の妹夫妻〕返事もせず来もせずひどいもの。
1981年12月22日
御上に、内藤君からの四男大谷暢道を宗門の裁判にかけるという電話の件について申し上げる。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長
1982年3月3日
富田宮内庁長官と、御上から東本願寺のこと〔お東騒動〕御心配になっていることを弁護士内藤頼博〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕に言ってもいいとの仰せについて、大谷智子裏方〔香淳皇后の妹〕から四男大谷暢道・武内克麿〔四男暢道側近の僧侶〕と漏れる恐れあり、御上が泥沼にお入りの恐れありと思う件。
富田宮内庁長官も同感、内藤君も同感。
1982年3月10日
御上より、元宮内庁長官田島道治が久邇宮朝融王・徳川喜好・松平直鎮の神がかりをとめてくれたときのいきさつは、東本願寺問題の参考になりはしないかとの仰せ。
1982年3月12日
久邇宮朝融王の神がかりを田島元宮内庁長官が取りしずめたのを参考にして東本願寺が何とかなるまいかとの御上の仰せにつき侍従次長徳川義寛と相談。
今度のとはまったく性質が違うし、内藤君が一生懸命やっているから、もうしばらく様子を御覧になっていただきたいと申し上げる。
1982年3月16日
御上が、久邇宮朝融王を新興宗教から話したのは大協石油社長高橋真男が一緒に食事をしたりして懇談したから、東本願寺にも内藤の他にそのような人を見つけなければならないとおっしゃる。
「そんな人みつかりません」と申し上げたら、
「なんとしても見つけなければ」とおっしゃる。
「東伏見邦英さん〔香淳皇后の弟〕さえお近づきになれないのだから」と申し上げたら、おわかりになった。
1982年5月29日
内藤君。
東本願寺大谷智子裏方が内藤君をとやかく言っておられる。
皇族ならびにその出身の方々の共通のところ。
困ったものである。
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■夫 大谷光暢 東本願寺24代法主
1903-1993 90歳没
■妻 久邇宮智子女王 久邇宮邦彦王の娘・姉は香淳皇后
1906-1989 83歳没
●長男 大谷光紹 離脱して浄土真宗東本願寺派/東京本願寺
●二男 大谷暢順 離脱して浄土真宗大谷本願寺派/東山浄苑
●三男 大谷暢顕 東本願寺25代門首 最終的に後継者に選ばれる
●四男 大谷暢道/光道 離脱して嵯峨本願寺
●長女 大谷美都子 音大教授大賀寛と結婚
●二女 大谷須美子 オーミケンシ副社長夏川浩と結婚
※30年に渡るお東騒動により4派に分裂、4人の息子はそれぞれ自らを25代と名乗っている
もともと東本願寺大谷家は、明治時代に伯爵を与えられた祖父/22代大谷光瑩、そして父/23代大谷光演と放蕩が続き、これに反発して改革派が生まれた経緯がある。
23代大谷光演が破産宣告した際には、条件として大谷家の財産がほとんどが東本願寺の所有になった。
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『明教雑誌』明治時代
何をか大谷派本願寺の腐敗という。
一派門徒勿論しかりと、まず法主しかり、執事しかり。
妻妾常に左右にはべり、一夜の豪遊に幾百の黄金を消散し、あるいは須磨の別邸に管弦声裡治野の酔夢を貪る者は、これそれ現代の大谷光瑩法主にあらずや。
無謀の口実に信徒の膏血を絞り、法主を優化して内示を紊乱し、一宗を挙げて咄々たる日本仏教界の大怪事を演出せしむる。
大谷光瑩法主、渥美契縁執事と言えば、日本仏教界不道徳を意味する代名詞たるものにあらざるなきか。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣
1925年2月5日
京都府知事池田宏来訪。
東本願寺大谷光演洋行、容易ならざる纏綿せる内情の陳述なり。
要するに岡本米蔵なる者の魂胆に基因せる企図なり。
文部大臣岡田良平よほど決心、実現阻止に努むる覚悟の趣。
1925年3月30日
上京を促したるにつき、東本願寺の大谷光演を訪問。
宗門の本山として華族以上の関係なること、皇族方御心配のこと、累を皇室に及ぼすこと、交友のよろしからざることを指摘して戒告したるに、やや響きはありたるごとく感じたるも真意はわからず、さりながら近づける人については注意すべし、洋行のことは安定するまで見合すべし、営業事業も中止すべしとの意味は陳述あり。
大谷氏は談示終わるを待ち、早々辞去したり。
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東本願寺の除籍の公告 1959年
※大谷瑩俊は21代大谷光勝の孫
『大谷瑩俊準連枝の処置について』
本人については従来とかくの風評があり、しばしば注意を喚起したるにもかかわらず、準連枝たるの地位を悪用して建築業者等と結んで数次にわたる詐欺を行い、御裏方の印鑑まで偽造行使するなど僧分としてあるまじき行為が重なり、被害者から告発を受けるに至った。
宗門の体面を汚し、大谷一門の名誉を損なうこと甚だしいものがあるので、処分に付したものである。
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しかし大谷家側はその後も財産は自分たちの物であるという意識を持ったままだった。
大谷家による財産の処分を今後は未然に防ぎたい改革派は、いずれは大谷家から管長職を切り離そうと考えていたため、取り上げられるぐらいならと大谷家側が先手を打って管長職を子に譲ろうとしたと考えられる。
長年大谷家べったりだった内局も年々改革色を強めてゆき、ついに1961年改革派の訓覇信雄が宗務総長に選出される。
訓覇内局は組織の抜本的な改革を行い、13部からなる部門制に改めた。
これに伴い大谷家に近い儀式関係の式務局と大谷家の宮内庁にあたる内事局が部に格下げされた。
末寺から本山には様々な願い事が上がってくる。
願い事を叶える度に、末寺から本山に上がる金の1割が内事局に入ることになっていた。
また末寺住職に率いられて上山する門徒は、法主との面会『お会い』のために内事を訪れる時に相当の礼金を包むことになっていた。
それが絶たれてゆくことに不満と苛立ちを募らせたのは長男光紹であった。
長男光紹は二回の婚約解消を経験している。
一度目は昭和天皇の娘・孝宮和子内親王。
1949年に婚約が各紙で報じられたが、遺伝学的見地からイトコ結婚を避けたい皇室側が断った。
1950年和子内親王は元公爵家鷹司平通と結婚する。
長男光紹は1950年アメリカに留学し、4年後の1954年に帰国する。
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読売新聞 1949年11月23日
『孝宮様の御内約順調に進む 選ばれた東本願寺の大谷光紹氏』
「孝宮和子内親王の御配偶については鈴木侍従次長を中心に選考が進められていたが、東本願寺法主大谷光暢氏の長男大谷光紹氏との間に御内約が順調に進んでいる旨、光暢氏により初めて明らかにされた」
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官
1949年11月30日
昭和天皇◆新聞を見て驚いて、そんなに進んだのかと思った。
田島長官◆他の新聞は書きませず、読売新聞記者が大きく扱ったと存じますが、新聞ほど進んだ訳ではありません。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1949年11月29日
田島長官・林次長・三谷侍従長・鈴木侍従次長・名取女官・予で、東本願寺問題〔孝宮和子内親王&大谷光紹の縁談〕を論議する。
1949年12月5日
田島長官・林宮次長・三谷侍従長・八田・塚原・名取女官・予で、孝宮和子内親王御結婚問題を論議する。
要するに血族結婚は不可ということになり、さらにその他の点から言っても不可ということになる。
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『田島道治 拝謁記』宮内庁長官
1953年5月20日
昭和天皇◆皇太子妃の問題が『婦人クラブ』という雑誌に写真入りで出てるよ。
田島長官◆何人ぐらい出ておりますか。
昭和天皇◆さー、はっきりは知らんが10人ぐらいは出てる。
久邇さん〔久邇宮通子女王と久邇宮英子女王姉妹・皇太子(平成天皇)のイトコ〕なんかも出てるが、あれは大谷のこの前の関係もあり到底ダメな話だ。
〔大谷光紹&孝宮和子内親王のイトコ同士〕
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大谷家はあきらめず続けて、昭和天皇の娘・順宮厚子内親王、昭和天皇の娘・清宮貴子内親王を望む。
皇室側はどちらも和子内親王と同じ理由で断り、表面化しなかった。
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『田島道治 拝謁記』宮内庁長官
1950年10月10日
昭和天皇◆順ちゃん〔順宮厚子内親王〕の意思は今結婚にないが、大谷光紹への口実が留学三年ということゆえ、帰朝前に結婚する方が賢明だ。
1950年11月7日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談、新陣容で間違いなく慎重に見てやってまいりますつもりでおります。
昭和天皇◆大谷光紹への口上から、大谷の帰国せぬ内というのは頬かぶりではあるが。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従
1955年9月13日
東本願寺の大谷智子さん〔香淳皇后の妹〕が大谷光紹に清宮貴子内親王をいただきたいと申し出た由。
もちろんお断りであるが、この前の縁談〔大谷光紹&孝宮和子内親王〕からこういうことは出てこないはずだということになり、稲田侍従次長が元侍従次長鈴木一さんの所へ聞きに行くことになる。
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二度目は智子裏方の実家久邇宮家から持ち込まれた縁談で、田安徳川達成伯爵の娘徳川文子。
1955年に帝国ホテルで見合いののち婚約、大学2年生だった令嬢の卒業を待って結婚式が行われる予定であった。
1957年には長男光紹みずから設計した新居が1,500万円で建てられた。
しかし長男光紹が秘かに婚約を破棄していたことが発覚、自分の側近を相手の家に遣わして白紙を伝えており、内局はもちろん両親も知らなかった。
大谷家は慌てて取りなしたが、相手の家族は激怒、復縁は不可能であった。
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毎日新聞 1955年12月11日
「東本願寺 光紹師の新裏方 徳川文子さんに決まる」
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一度目の婚約は皇室側から断ったが、二度目の婚約ははっきりと長男光紹が破棄している。
智子裏方は両親に相談もなしに非常識な破談を行った長男光紹に対して、強いわだかまりを抱くようになった。
お東騒動が10年・20年と続く過程で、保守派・改革派ともに光暢法主に引退していただき、長男光紹を新しい法主にしてまとめようという案は何度も出たが、積極的案というより消去法的案でしかなかった。
四男暢道に側近の僧侶武内克麿や側近の不動産業者三池新二が付いていたように、長男光紹にも大物右翼や宗教家たちがバックに付いていたからである。
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『入江相政日記』侍従長
1971年1月5日
皇后様から新嘗祭の簡素化はいかんとまた来た。
小一時間かけてまた申し上げる。
東本願寺と吹原産業のことも申し上げる
〔香淳皇后の妹大谷智子の「お東騒動」の一つ〕
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『入江相政日記』侍従長
1972年3月13日
東本願寺二男大谷暢順氏来訪。
例の吹原の件〔お東騒動の一部〕
1972年6月20日
東本願寺大谷夫妻〔妻大谷智子は香淳皇后の妹〕両殿下に御対面につき、北白川女官長から吹原の件〔お東騒動の一部〕 念のため申し上げてもらう。
1972年10月2日
宇佐美宮内庁長官から東本願寺大谷智子裏方のこと、まったくイヤな話である。
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『入江相政日記』侍従長
1976年3月11日
宇佐美宮内庁長官と東本願寺〔香淳皇后の妹大谷智子の嫁ぎ先〕の内紛〔お東騒動〕のこと。
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『入江相政日記』侍従長
1977年6月7日
御上から、東本願寺のこと〔お東騒動〕邦昭もいないし〔久邇家当主久邇邦昭は海外赴任中〕こちらのことをよく承知している者として弘世現〔久邇邦昭の舅〕には頼めまいかとのこと。
弘世も困りましょうし、やはり良い弁護士を探すことが先決なれど、いずれ宇佐美宮内庁長官と相談して申し上げるとお答えする。
1977年6月28日
侍従次長徳川義寛が東伏見邦英さん〔久邇宮邦英王・東本願寺大谷智子の弟〕に会うことを申し上げたところ、
御上は「宇佐美長官が弘世に言ったが、邦英さんにただ会うだけでは駄目で、宇佐美長官はどうもそこが甘い」との仰せ。
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『入江相政日記』侍従長
1978年1月12日
東本願寺のこと〔お東騒動〕昨日弘世現氏〔久邇家当主久邇邦昭の舅〕から聞いた通りのことを御上に申し上げる。
1978年6月19日
東本願寺二男大谷暢順氏来訪。
「父によく言うと『わかった』と言ってくれるが、そこへ母と四男大谷暢道が来るとすっかり元に戻る」とのこと。
1978年7月26日
侍従次長徳川義寛が弘世氏に会った由。
宗門の大事、本来文部省のことながらそれではとても駄目につき、やはり政界の要人がその地位を離れて事に当ってもらった方がいいとのこと。
1978年8月10日
富田宮内庁長官に那須御用邸から言ってきた大谷智子裏方〔香淳皇后の妹〕の電話の件報告。
北白川女官長にも話しておいたこと、電話の録音でもされれば目も当てられないということ話す。
同感。
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『入江相政日記』侍従長
1979年1月12日
富田宮内庁長官から、東本願寺のこと〔お東騒動〕で元宮内次官白根松介が田中角栄の所へ行ったとか。
驚くべきこと。
1979年1月15日
政治家江崎真澄が富田宮内庁長官に「東本願寺のことで白根松介が田中角栄に頼み込んだ」と言ってきた件で、白根さんを訪問。
いろいろ例を挙げて話したら、「よくわかった。さっそく中山理■に言う」とのこと。
相変わらず軽率なことである。
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『入江相政日記』侍従長
1980年7月31日
弁護士内藤頼博来訪。〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕
東本願寺の件〔お東騒動〕法主と四男大谷暢道を起訴することになるかもしれないとのこと。
法主の象徴化を言っておく。
1980年8月15日
内藤君の東本願寺の件、御上も大変お喜びだった。
内藤に、御上もその通りでいいと思召すということを言ってくれてもいいとの仰せ。
1980年9月17日
内藤君。
四男大谷暢道いよいよ起訴らしい。
その機会に法主夫妻に説くとのこと。
大賛成。
1980年9月22日
内藤君。
四男大谷暢道の逮捕状、続いて起訴の見込みのこと。
内藤君が大谷智子裏方〔香淳皇后の妹〕に会えるよう徳川侍従次長から電話することになる。
1980年9月25日
内藤君。
東本願寺の件、四男大谷暢道・大谷智子裏方に反省なし。
なんとかして宗門と同じ土俵に乗せたいと言う。
1980年9月29日
内藤君。
四男大谷暢道の起訴の他なしとのこと。
「起訴有罪として法主夫妻を守った方がよし」と言っておく。
1980年11月5日
内藤君。
東本願寺問題、いよいよ解決の見通しがついてきたとのこと。
1980年12月20日
内藤君。
東本願寺は片づいた由。
戦後処理はなかなか大変だがとのこと。
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『入江相政日記』侍従長
1981年1月26日
御上から「東本願寺のこと〔お東騒動〕やはり弁護士内藤頼博〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕にやってもらい、土俵ができてから親族が出た方がよかろう」との仰せ。
1981年2月20日
富田宮内庁長官に、内藤君から聞いた東本願寺のこと、宗門と法主、法主と新門、新門と宗門、そのすべてがいけないことを話す。
御上にも東本願寺のこと申し上げる。
「壬申の乱のようだ」との仰せ。
1981年4月23日
弁護士内藤頼博来訪。〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕
東本願寺の憲法改正について、法主夫妻は四男大谷暢道次第で反対。
利害をいくら説いても聞かぬ由。
長男大谷光紹はまた別の人に担がれているとか。
困った連中である。
1981年10月15日〔滋賀京都巡幸〕
京都に入ってから鴨川を渡り旧久邇邸を御覧に入れたが、肝心の皇后様大した御感興なし。
でもこれで御上のお望みは通った。
東本願寺の夫妻〔香淳皇后の妹夫妻〕返事もせず来もせずひどいもの。
1981年12月22日
御上に、内藤君からの四男大谷暢道を宗門の裁判にかけるという電話の件について申し上げる。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長
1982年3月3日
富田宮内庁長官と、御上から東本願寺のこと〔お東騒動〕御心配になっていることを弁護士内藤頼博〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕に言ってもいいとの仰せについて、大谷智子裏方〔香淳皇后の妹〕から四男大谷暢道・武内克麿〔四男暢道側近の僧侶〕と漏れる恐れあり、御上が泥沼にお入りの恐れありと思う件。
富田宮内庁長官も同感、内藤君も同感。
1982年3月10日
御上より、元宮内庁長官田島道治が久邇宮朝融王・徳川喜好・松平直鎮の神がかりをとめてくれたときのいきさつは、東本願寺問題の参考になりはしないかとの仰せ。
1982年3月12日
久邇宮朝融王の神がかりを田島元宮内庁長官が取りしずめたのを参考にして東本願寺が何とかなるまいかとの御上の仰せにつき侍従次長徳川義寛と相談。
今度のとはまったく性質が違うし、内藤君が一生懸命やっているから、もうしばらく様子を御覧になっていただきたいと申し上げる。
1982年3月16日
御上が、久邇宮朝融王を新興宗教から話したのは大協石油社長高橋真男が一緒に食事をしたりして懇談したから、東本願寺にも内藤の他にそのような人を見つけなければならないとおっしゃる。
「そんな人みつかりません」と申し上げたら、
「なんとしても見つけなければ」とおっしゃる。
「東伏見邦英さん〔香淳皇后の弟〕さえお近づきになれないのだから」と申し上げたら、おわかりになった。
1982年5月29日
内藤君。
東本願寺大谷智子裏方が内藤君をとやかく言っておられる。
皇族ならびにその出身の方々の共通のところ。
困ったものである。
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