◆1920年春
陸軍軍医草間要が学習院生徒の身体検査で久邇宮兄朝融王と邦英王の色盲を発見、さらに母方の叔父島津忠重にも色盲があることがわかり、生母である側室山崎寿満子が色盲保因者であるとわかる。
草間は軍医学校長に相談し、陸軍から宮内省にも伝えられた。
◆1920年05月
山縣有朋の主治医である予備役軍医総監平井政遒の耳に入り、平井が山縣へ報告する。
◆1920年06月20日
宮内大臣波多野敬直が辞任、中村雄次郎が就任
◆1920年10月11日
池辺棟三郎侍医頭・宮内庁御用掛保利真直・三浦謹之助が色覚異常遺伝の調査を命じられ意見書を提出する。
◆1920年11月12日
伏見宮貞愛親王が久邇宮家事務官木村英俊に意見書を提示する。
西園寺公望が久邇宮邦彦王に婚約の辞退を勧告する。
◆1920年11月18日
杉浦重剛が後閑菊野から色盲問題を知り、意見書を見る。
一方久邇宮家側は眼科医藤田秀太郎に依頼して意見書を作らせる。
「色覚異常は半数の男子にしか遺伝せず、色覚異常の遺伝子を持たない者と結婚し三代経てば色覚異常の遺伝は無くなる。島津忠義の側室寿満子の父が色覚異常であるとしてもその三代目にあたる良子女王は色覚異常の遺伝子を持たない」とする非科学的なものであった。
◆1920年11月28日
久邇宮邦彦王が貞明皇后に拝謁し書面で婚約遂行を直訴する。
貞明皇后は激怒して不遜であるとして書面を返却する。
◆1920年12月01日
杉浦は一瀬勇三郎・平石氏人・畑勇吉・島弘尾・川地三郎らと話し合い婚約遂行運動を開始する。
◆1920年12月03日
杉浦は東宮大夫浜尾新に婚約遂行を訴えるが断られる
◆1920年12月04日
杉浦が皇太子御学問所御用掛の辞表を提出。
◆1920年12月07日
総理大臣原敬が初めて色盲問題を知る。
◆1920年12月08日
久邇宮邦彦王が山県と松方正義に、皇后に提出した親書の写しと藤田秀太郎の意見書を送る。
◆1920年12月20日
宮内大臣中村雄次郎が文部省を通じて東大医学部長佐藤三吉・東大医学部教授河本重次郎・東大医学部教授三浦謹之助・東大医学部教授永井潜・東大理学部教授藤井健次郎の5博士に色覚異常遺伝に関する調査を依頼する。
◆1920年12月21日
5博士が報告書を提出、3博士の意見書と同じ内容だった。
◆1920年12月30日
杉浦は山縣の政敵である大隈重信相談、大隈は天皇皇后に働きかけると返事するが実際は何もしなかった。
◆1920年12月24日
大物右翼頭山満が杉浦から色盲問題を知る。
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『原敬日記』総理大臣
1920年6月15日
陸軍大臣田中義一来訪。
山県有朋より伝言なりとて「宮内大臣波多野敬直辞職し中村雄次郎を後任となすことにつき顛末を詳報するはずなり」と言う。
また「中村の宮内大臣に挙げられたるは彼にとりて突然のことにて一時驚きたり。中村に持ち行く前に皇后宮大夫大森鍾一に内談せしも辞退せり」とのことなり。
予はこれに対し「なんら異議なし。ただし中村は軍人ならざりしならばさらに妙なりし」と言い置けり。
波多野に対し山県の内々攻撃は久しきことにて、ことに皇族会議の際 不行届きのこともありたれども、要するに平田東助を宮中に入れたる時よりすでに企画せしことにて、ひっきょう宮中を全部山県系となすの考えに出たること言うまでもなきことなり。
1920年6月18日
山県有朋来訪。
「波多野なにぶんにも事務運ばず、また過日皇族会議におけるがごとき失態もたびたびありたるにより、松方正義・西園寺公望にも協議し賛同を得て、自分より辞職を勧告し更迭に決せり」とてその事情を内話す。
波多野を去りて中村に代えたる如くは、松方に代えるに平田東助をもってするの伏線にあらざるか。
世間にはその噂あり。
1920年6月19日
波多野、予の推察通り山県よりの勧告によりて辞表を差し出したるものなり。
山県上京し、自ら西園寺・松方を往訪相談し、それより波多野を呼び寄せ、辞職すべき旨を勧告せしものの由にて、波多野は老齢にもありとてすぐに同意して辞表を出したるなり。
枢密顧問官に任ずべき旨山県より同時に内談ありたる由にて、
「しかしこの任命は自分はお断りするつもりなり」と言えり。
予は「就任してもよろしきにあらずや」と言いたるに、波多野は山県の処置に不平ありしようにて、
「いまさら枢密院に入るも妙ならず」とて辞退せり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長
1920年6月20日〔波多野、宮内大臣辞職〕
※波多野敬直の発言
皇后陛下は涙を流して「辞職せざるを得ざりしや」と言われたり。
後には「汝の性質としてはやむを得ざりしならん」と言われたり。
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『原敬日記』総理大臣
1920年8月23日
山県伊三郎氏来訪。
「過日老父〔山県有朋〕に面会せしに、『脅迫状を送りたる者あり。自分に関することは意とするに足らざれども、文中聖上に関することあり。実に油断ならぬにつき原首相に告げよ』との伝言なりし」旨を言うにつき、
(その実これを警視庁に送りて取り調べさせるのみならず、新聞紙にも登載せられてかえって世間の好奇心を促進せり)
予は「すでに警視庁において捜査に着手中なり。いかにも憂慮すべきことなり」と返答したり。
1920年9月22日
西園寺公望訪問。
原◆下田歌子のにはいろいろの世評あるも聞くべきこと多かりし。突如として御信用の役人更迭するは上の御思召にも妙ならざることなどは至極もっとものことと聞き取りたり。
ここよりすれば宮内大臣波多野敬直のごとき山県有朋の思慮足らざるように思う。
西園寺◆同感なり。
大森鍾一が皇后宮大夫となりし時にも面倒起こりたることあり。
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杉浦重剛『申酉回瀾録』
1920年10月13日
杉浦先生辞し去らんとするに臨み、一言良子女王陛下のことに及びたるに、山県有朋公爵曰く「色盲のことがあるので困っている」と。
山県の話があまりに唐突なので、その意を解することができずに帰り来れり。
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杉浦重剛『致誠日誌』
1920年10月21日
久邇宮邸に参邸。
後閑菊野氏と談ずるところあり。
1920年10月22日
東宮侍従長入江為守を訪う。
種々談ずるところあり。
1920年10月24日
東宮大夫浜尾新を訪う。
大いに談ずるところあり。
1920年10月25日
小笠原長正氏と談ず。
頭山満氏を訪う。
談ずるところあり。
1920年10月26日
浜尾氏より電話あり。
東郷平八郎氏を訪う。
談ずるところあり。
小笠原氏と電話す。
浜尾氏に電話す。
1920年11月18日
久邇宮職員分部資吉と後閑氏と大いに談ずるところあり。
1920年11月20日
秘密書類を手写す。
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杉浦重剛『申酉回瀾録』
かかる意見書なにかあるべき。
取るに足らぬことなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長
1920年11月24日
※倉富&東久邇宮付事務官金井四郎の会話
金井◆良子女王の事につき難しき問題起りおるにあらずや。
倉富◆予、聞かず。
金井◆只今の問題は初めより分かりおる事にて今更云々すべき事にあらざるべし。
倉富◆かの問題は今更変更する事を得るものにあらずと思う。
ただし問題の出所が根強き模様なるゆえ困るべし。
金井◆陸軍部内にはよほど議論ある模様なり。
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杉浦重剛『致誠日誌』
1920年11月30日
杉山茂丸来訪。
外交上の問題に関し大いに自説を述べらる。
参考とすべし。
1920年12月3日
浜尾氏を訪う。
大いに談ずるところあり。
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『原敬日記』総理大臣
1920年12月7日
西園寺公望を訪問。
「困ったことには皇太子殿下の皇妃と内定ありし久邇宮良子女王は色盲の御欠点ありということにて、かくのごとき御病疾あるを皇紀となすことは不可能につき、御変更あいならざるを得ざることとなり、このことについてもいろいろ相談中なり」との物語りあり。
陸軍大臣田中義一の内話に、「山県に会見せしに、皇太子殿下御洋行のこと、久邇宮良子女王色盲病にあらせらるることなどを物語りたる」由なるも、西園寺に聞くところに同じ。
1920年12月8日
山県有朋を訪問。
久邇宮良子女王色盲云々に関しては西園寺に内聞せし通り、
「学理上争うべからざることにつき、京都にて西園寺より久邇宮邦彦王に御辞退ありて然るべしと御忠告をなしたるも、邦彦王にはお聞き入れなかりし由にて、先だって皇后陛下に拝謁ありし後、邦彦王が『後にて御内覧願う』と言って差し置かれたる書面は御内定通り御決行を願わるるものなりし趣なるが、このあいだ久邇宮別当栗田直八郎中将という者来訪、このことにつき『綸言汗の如し』とて御内定通り決行を望む談話につき、
自分は『不忠の臣たるは避けたしと今日まで心がけ来れり。天皇陛下は御承知なくて御内定ありしも、今日明瞭となりたる以上はこのまま御決行あいなるべき筋合いにあらざるべし』と拒絶したり」と言えり。
山県「とにかく近来なにもかも皇后陛下に申し上ぐるようになり、かくては将来意外の弊を生ぜずとも限らず、甚だ憂慮しおれり」と。
1920年12月11日
山県有朋を訪問。
「久邇宮良子女王色盲につき御内定の皇太子妃たること、久邇宮家より御辞退ありて然るべき旨当局より内申せしに、久邇宮邦彦王は御不同意にて自分に書面を送られ、『医師の言うところにては色盲にあらず色弱ということなれば差し支えなし。自分より御辞退は不可能なり。かつ〈綸言汗の如く〉国民は変更のことを聞けば如何なる感を起さんも知れずと』申し越されたるにより、昨日親しく参上、その不可を陳述せり。国民この病気あることを知らば邦彦王の御考えとは正反対に、このまま御遂行の方がかえって異論あらん」と言うにつき、
予は「その通りなり。これが知れたる以上にはこのまま御遂行不可能なることもちろんなり」
山県は「なにぶん万世一系の御血統にかくのごときことありては、我々はいかにしても賛成できぬことなり」と繰り返したり。
1920年12月14日
松方正義を訪問。
皇太子妃に内定しあり久邇宮良子女王色盲の御病気ありて先頃より問題となりおる件については、
松方は御取消の他なきことを断言したり。
予は「御病症ありとせば御取消は無論のことなり」と言い置けり。
1920年12月17日
文部大臣中橋徳五郎の内話に「中村宮相より久邇宮良子女王色盲云々につき診断の内交渉あり。さっそく佐藤医科大学長に内談し、5名の専門博士をして診断せしむることに取り計いたり」と言えり。
陸軍大臣田中義一の内話に「久邇宮俔子妃は島津公爵家より入られたる関係より、松方の意見も少々鈍りたる事情あり。また薩長軋轢の結果なりと言う者あるにつき、診断を待つこととなれる由なりと言えり。
1920年12月18日
男爵松岡均平急用ありとて、新橋より横浜まで同車。
久邇宮邦彦王とはドイツ留学中極めてお親しきこととて、「この度召されて例の色盲云々につき邦彦王より御内話につき、松岡の進言にて宮内省にとくと診断を望む旨取り計らわれたるに、いよいよ医師の診断ということになり、原首相より指令せらるると聞き山県の意を迎えるような者指名ありては困るとの御趣意につき、至急原首相と内談しくれよとお頼みあり、如何」というにつき、
それは間違いなりとて、予は中村宮相および中橋文相の内話の次第を告げたり。
なお邦彦王には非常の誤解ありて、さきごろ皇室令改正の際 邦彦王の御異論につき山県はこれを含み邦彦王に不利を計る者なりとの誤解ある由。
松岡の内話にて知れたるにより、予は「それは非常の誤解なり。余実際を知れるにつき、これを説示し、なお邦彦王の御挙動は穏当ならず、皇后陛下に意見書を出され、山県に書面を出され、御付武官栗田が山県に行き綸言汗のごとしとの論鋒にて論弁したるごときなおさら面白からず、予の考えによればいやしくも御病症の欠点ありとせば万世一系の皇統の上において絶対にこれを取消さざるを得ず。皇族としては一家の私事と混同せられこのことに思い至らずして何やら運動らしきことをなさるるは元老等不快をも醸し、また皇室の御為も考えられざるようにあいなることにつき、国民これを聞きても非難するならん。ゆえに宮中の御調査に一任せられて沈黙せらるること穏当と思う。ことにすでに医師の診断となりたる上は、その決定にお任せあること然るべし」と注意せしに、
松岡も同感にて「それがもっとも適当につき、その趣旨は申し上げ置きたり」と言えり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長
1920年12月23日〔倉富が宮内省宗秩寮総裁代理となった初日〕
※倉富&宮内官僚石原健三の会話
石原◆種々の難事あり。
宮内大臣中村雄次郎より「久邇宮の宮務監督に栗田直八郎を採用する事は宗秩寮の反対ある」旨を言上したところ、
「宗秩寮の意見と言うも総裁は引き籠り中にて宗秩寮の意見はなきはずなり」と言われたり。
良子女王の事も栗田より「果たして真の原因あらばやむを得ざる事なるも、単に医師の見込みというだけには不十分なる」旨の意見書を出しおれり。
倉富◆良子女王につき何か話ある事は聞きおれども、その詳細を聞かず。
不妊症とでもいうことなるや。
石原◆しからず。色盲の懸念なり。
倉富◆その事ならば医師の診断にてすぐに分かるべき事にはあらずや。
石原◆本人に色盲ありというにあらず。色盲の系統にてその子孫に遺伝する懸念ありということにて、通説には遺伝すること確実なり。
1920年12月24日
※宮内官僚石原健三の発言
色盲問題は医者より平井政遒〔陸軍軍医〕に告げ、平井より山県有朋に告げたる。
山県より伏見宮に告げ、伏見宮より久邇宮に告げ、久邇宮は九州行前書面に書したる。
1920年12月25日
宮内官僚石原健三、医案・久邇宮の内奏書・元老に送りたる書を示す。
予これを持ち帰りこれを閲す。
1920年12月27日
※倉富&宮内官僚石原健三の会話
石原◆松岡均平がドイツ留学中の懇意なるべし。
非常に親密なる趣にて、大臣より松岡をして久邇宮に説かしめ、最終の医案を示したる結果、ついに断念せられ自らこれを辞する事となりたる模様なり。
しかるに久邇宮より元来双方の合意なるにつき一方よりこれを解くは不合理なるべしとの話あり。
大臣は合意には相違なきも媒酌によりて決しおるゆえこれを解くにも媒酌によるが当然なるべく、媒酌は即ち大臣なるゆえ大臣が申込みあるが相当なるべしとの答えをなしたる趣にて、この事も了解を得たる模様なり。
よりて只今は先方の申し込みを待つ順序となりおる所なり。
倉富◆それは好都合なり。
それになりても善後は困難なるべきも、その困難は大体ほどの困難にあらず。
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『原敬日記』総理大臣
1920年12月28日
陸軍大臣田中義一の内話に「久邇宮良子女王色盲につき皇太子妃御内定変更あるべき件に関し、皇太子付の杉浦重剛その御変更に反対し、山県が他に考えあってこの議をなす者なりとして攻撃をなし、これを頭山満らに漏らし、頭山がその親近者に流布したる結果、彼ら一派山県攻撃を企つる由。杉山茂丸 山県に内話したるにより、そのことを予に内話し置けよと伝言なり」と言う。
予これに対し「さっそく警察側には注意をすべし。しかしすでに医科大学責任者の答申もあって診断明瞭したりという以上には、宮内省よりこれを杉浦らに内示するを可とす。まさか杉浦らもこれを知らばそれにても差し支えなしとの立論もできざるべし」と注意したり。
この問題についていろいろ誤解もある様子なり。
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陸軍軍医草間要が学習院生徒の身体検査で久邇宮兄朝融王と邦英王の色盲を発見、さらに母方の叔父島津忠重にも色盲があることがわかり、生母である側室山崎寿満子が色盲保因者であるとわかる。
草間は軍医学校長に相談し、陸軍から宮内省にも伝えられた。
◆1920年05月
山縣有朋の主治医である予備役軍医総監平井政遒の耳に入り、平井が山縣へ報告する。
◆1920年06月20日
宮内大臣波多野敬直が辞任、中村雄次郎が就任
◆1920年10月11日
池辺棟三郎侍医頭・宮内庁御用掛保利真直・三浦謹之助が色覚異常遺伝の調査を命じられ意見書を提出する。
◆1920年11月12日
伏見宮貞愛親王が久邇宮家事務官木村英俊に意見書を提示する。
西園寺公望が久邇宮邦彦王に婚約の辞退を勧告する。
◆1920年11月18日
杉浦重剛が後閑菊野から色盲問題を知り、意見書を見る。
一方久邇宮家側は眼科医藤田秀太郎に依頼して意見書を作らせる。
「色覚異常は半数の男子にしか遺伝せず、色覚異常の遺伝子を持たない者と結婚し三代経てば色覚異常の遺伝は無くなる。島津忠義の側室寿満子の父が色覚異常であるとしてもその三代目にあたる良子女王は色覚異常の遺伝子を持たない」とする非科学的なものであった。
◆1920年11月28日
久邇宮邦彦王が貞明皇后に拝謁し書面で婚約遂行を直訴する。
貞明皇后は激怒して不遜であるとして書面を返却する。
◆1920年12月01日
杉浦は一瀬勇三郎・平石氏人・畑勇吉・島弘尾・川地三郎らと話し合い婚約遂行運動を開始する。
◆1920年12月03日
杉浦は東宮大夫浜尾新に婚約遂行を訴えるが断られる
◆1920年12月04日
杉浦が皇太子御学問所御用掛の辞表を提出。
◆1920年12月07日
総理大臣原敬が初めて色盲問題を知る。
◆1920年12月08日
久邇宮邦彦王が山県と松方正義に、皇后に提出した親書の写しと藤田秀太郎の意見書を送る。
◆1920年12月20日
宮内大臣中村雄次郎が文部省を通じて東大医学部長佐藤三吉・東大医学部教授河本重次郎・東大医学部教授三浦謹之助・東大医学部教授永井潜・東大理学部教授藤井健次郎の5博士に色覚異常遺伝に関する調査を依頼する。
◆1920年12月21日
5博士が報告書を提出、3博士の意見書と同じ内容だった。
◆1920年12月30日
杉浦は山縣の政敵である大隈重信相談、大隈は天皇皇后に働きかけると返事するが実際は何もしなかった。
◆1920年12月24日
大物右翼頭山満が杉浦から色盲問題を知る。
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『原敬日記』総理大臣
1920年6月15日
陸軍大臣田中義一来訪。
山県有朋より伝言なりとて「宮内大臣波多野敬直辞職し中村雄次郎を後任となすことにつき顛末を詳報するはずなり」と言う。
また「中村の宮内大臣に挙げられたるは彼にとりて突然のことにて一時驚きたり。中村に持ち行く前に皇后宮大夫大森鍾一に内談せしも辞退せり」とのことなり。
予はこれに対し「なんら異議なし。ただし中村は軍人ならざりしならばさらに妙なりし」と言い置けり。
波多野に対し山県の内々攻撃は久しきことにて、ことに皇族会議の際 不行届きのこともありたれども、要するに平田東助を宮中に入れたる時よりすでに企画せしことにて、ひっきょう宮中を全部山県系となすの考えに出たること言うまでもなきことなり。
1920年6月18日
山県有朋来訪。
「波多野なにぶんにも事務運ばず、また過日皇族会議におけるがごとき失態もたびたびありたるにより、松方正義・西園寺公望にも協議し賛同を得て、自分より辞職を勧告し更迭に決せり」とてその事情を内話す。
波多野を去りて中村に代えたる如くは、松方に代えるに平田東助をもってするの伏線にあらざるか。
世間にはその噂あり。
1920年6月19日
波多野、予の推察通り山県よりの勧告によりて辞表を差し出したるものなり。
山県上京し、自ら西園寺・松方を往訪相談し、それより波多野を呼び寄せ、辞職すべき旨を勧告せしものの由にて、波多野は老齢にもありとてすぐに同意して辞表を出したるなり。
枢密顧問官に任ずべき旨山県より同時に内談ありたる由にて、
「しかしこの任命は自分はお断りするつもりなり」と言えり。
予は「就任してもよろしきにあらずや」と言いたるに、波多野は山県の処置に不平ありしようにて、
「いまさら枢密院に入るも妙ならず」とて辞退せり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長
1920年6月20日〔波多野、宮内大臣辞職〕
※波多野敬直の発言
皇后陛下は涙を流して「辞職せざるを得ざりしや」と言われたり。
後には「汝の性質としてはやむを得ざりしならん」と言われたり。
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『原敬日記』総理大臣
1920年8月23日
山県伊三郎氏来訪。
「過日老父〔山県有朋〕に面会せしに、『脅迫状を送りたる者あり。自分に関することは意とするに足らざれども、文中聖上に関することあり。実に油断ならぬにつき原首相に告げよ』との伝言なりし」旨を言うにつき、
(その実これを警視庁に送りて取り調べさせるのみならず、新聞紙にも登載せられてかえって世間の好奇心を促進せり)
予は「すでに警視庁において捜査に着手中なり。いかにも憂慮すべきことなり」と返答したり。
1920年9月22日
西園寺公望訪問。
原◆下田歌子のにはいろいろの世評あるも聞くべきこと多かりし。突如として御信用の役人更迭するは上の御思召にも妙ならざることなどは至極もっとものことと聞き取りたり。
ここよりすれば宮内大臣波多野敬直のごとき山県有朋の思慮足らざるように思う。
西園寺◆同感なり。
大森鍾一が皇后宮大夫となりし時にも面倒起こりたることあり。
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杉浦重剛『申酉回瀾録』
1920年10月13日
杉浦先生辞し去らんとするに臨み、一言良子女王陛下のことに及びたるに、山県有朋公爵曰く「色盲のことがあるので困っている」と。
山県の話があまりに唐突なので、その意を解することができずに帰り来れり。
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杉浦重剛『致誠日誌』
1920年10月21日
久邇宮邸に参邸。
後閑菊野氏と談ずるところあり。
1920年10月22日
東宮侍従長入江為守を訪う。
種々談ずるところあり。
1920年10月24日
東宮大夫浜尾新を訪う。
大いに談ずるところあり。
1920年10月25日
小笠原長正氏と談ず。
頭山満氏を訪う。
談ずるところあり。
1920年10月26日
浜尾氏より電話あり。
東郷平八郎氏を訪う。
談ずるところあり。
小笠原氏と電話す。
浜尾氏に電話す。
1920年11月18日
久邇宮職員分部資吉と後閑氏と大いに談ずるところあり。
1920年11月20日
秘密書類を手写す。
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杉浦重剛『申酉回瀾録』
かかる意見書なにかあるべき。
取るに足らぬことなり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長
1920年11月24日
※倉富&東久邇宮付事務官金井四郎の会話
金井◆良子女王の事につき難しき問題起りおるにあらずや。
倉富◆予、聞かず。
金井◆只今の問題は初めより分かりおる事にて今更云々すべき事にあらざるべし。
倉富◆かの問題は今更変更する事を得るものにあらずと思う。
ただし問題の出所が根強き模様なるゆえ困るべし。
金井◆陸軍部内にはよほど議論ある模様なり。
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杉浦重剛『致誠日誌』
1920年11月30日
杉山茂丸来訪。
外交上の問題に関し大いに自説を述べらる。
参考とすべし。
1920年12月3日
浜尾氏を訪う。
大いに談ずるところあり。
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『原敬日記』総理大臣
1920年12月7日
西園寺公望を訪問。
「困ったことには皇太子殿下の皇妃と内定ありし久邇宮良子女王は色盲の御欠点ありということにて、かくのごとき御病疾あるを皇紀となすことは不可能につき、御変更あいならざるを得ざることとなり、このことについてもいろいろ相談中なり」との物語りあり。
陸軍大臣田中義一の内話に、「山県に会見せしに、皇太子殿下御洋行のこと、久邇宮良子女王色盲病にあらせらるることなどを物語りたる」由なるも、西園寺に聞くところに同じ。
1920年12月8日
山県有朋を訪問。
久邇宮良子女王色盲云々に関しては西園寺に内聞せし通り、
「学理上争うべからざることにつき、京都にて西園寺より久邇宮邦彦王に御辞退ありて然るべしと御忠告をなしたるも、邦彦王にはお聞き入れなかりし由にて、先だって皇后陛下に拝謁ありし後、邦彦王が『後にて御内覧願う』と言って差し置かれたる書面は御内定通り御決行を願わるるものなりし趣なるが、このあいだ久邇宮別当栗田直八郎中将という者来訪、このことにつき『綸言汗の如し』とて御内定通り決行を望む談話につき、
自分は『不忠の臣たるは避けたしと今日まで心がけ来れり。天皇陛下は御承知なくて御内定ありしも、今日明瞭となりたる以上はこのまま御決行あいなるべき筋合いにあらざるべし』と拒絶したり」と言えり。
山県「とにかく近来なにもかも皇后陛下に申し上ぐるようになり、かくては将来意外の弊を生ぜずとも限らず、甚だ憂慮しおれり」と。
1920年12月11日
山県有朋を訪問。
「久邇宮良子女王色盲につき御内定の皇太子妃たること、久邇宮家より御辞退ありて然るべき旨当局より内申せしに、久邇宮邦彦王は御不同意にて自分に書面を送られ、『医師の言うところにては色盲にあらず色弱ということなれば差し支えなし。自分より御辞退は不可能なり。かつ〈綸言汗の如く〉国民は変更のことを聞けば如何なる感を起さんも知れずと』申し越されたるにより、昨日親しく参上、その不可を陳述せり。国民この病気あることを知らば邦彦王の御考えとは正反対に、このまま御遂行の方がかえって異論あらん」と言うにつき、
予は「その通りなり。これが知れたる以上にはこのまま御遂行不可能なることもちろんなり」
山県は「なにぶん万世一系の御血統にかくのごときことありては、我々はいかにしても賛成できぬことなり」と繰り返したり。
1920年12月14日
松方正義を訪問。
皇太子妃に内定しあり久邇宮良子女王色盲の御病気ありて先頃より問題となりおる件については、
松方は御取消の他なきことを断言したり。
予は「御病症ありとせば御取消は無論のことなり」と言い置けり。
1920年12月17日
文部大臣中橋徳五郎の内話に「中村宮相より久邇宮良子女王色盲云々につき診断の内交渉あり。さっそく佐藤医科大学長に内談し、5名の専門博士をして診断せしむることに取り計いたり」と言えり。
陸軍大臣田中義一の内話に「久邇宮俔子妃は島津公爵家より入られたる関係より、松方の意見も少々鈍りたる事情あり。また薩長軋轢の結果なりと言う者あるにつき、診断を待つこととなれる由なりと言えり。
1920年12月18日
男爵松岡均平急用ありとて、新橋より横浜まで同車。
久邇宮邦彦王とはドイツ留学中極めてお親しきこととて、「この度召されて例の色盲云々につき邦彦王より御内話につき、松岡の進言にて宮内省にとくと診断を望む旨取り計らわれたるに、いよいよ医師の診断ということになり、原首相より指令せらるると聞き山県の意を迎えるような者指名ありては困るとの御趣意につき、至急原首相と内談しくれよとお頼みあり、如何」というにつき、
それは間違いなりとて、予は中村宮相および中橋文相の内話の次第を告げたり。
なお邦彦王には非常の誤解ありて、さきごろ皇室令改正の際 邦彦王の御異論につき山県はこれを含み邦彦王に不利を計る者なりとの誤解ある由。
松岡の内話にて知れたるにより、予は「それは非常の誤解なり。余実際を知れるにつき、これを説示し、なお邦彦王の御挙動は穏当ならず、皇后陛下に意見書を出され、山県に書面を出され、御付武官栗田が山県に行き綸言汗のごとしとの論鋒にて論弁したるごときなおさら面白からず、予の考えによればいやしくも御病症の欠点ありとせば万世一系の皇統の上において絶対にこれを取消さざるを得ず。皇族としては一家の私事と混同せられこのことに思い至らずして何やら運動らしきことをなさるるは元老等不快をも醸し、また皇室の御為も考えられざるようにあいなることにつき、国民これを聞きても非難するならん。ゆえに宮中の御調査に一任せられて沈黙せらるること穏当と思う。ことにすでに医師の診断となりたる上は、その決定にお任せあること然るべし」と注意せしに、
松岡も同感にて「それがもっとも適当につき、その趣旨は申し上げ置きたり」と言えり。
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『倉富勇三郎日記』枢密院議長
1920年12月23日〔倉富が宮内省宗秩寮総裁代理となった初日〕
※倉富&宮内官僚石原健三の会話
石原◆種々の難事あり。
宮内大臣中村雄次郎より「久邇宮の宮務監督に栗田直八郎を採用する事は宗秩寮の反対ある」旨を言上したところ、
「宗秩寮の意見と言うも総裁は引き籠り中にて宗秩寮の意見はなきはずなり」と言われたり。
良子女王の事も栗田より「果たして真の原因あらばやむを得ざる事なるも、単に医師の見込みというだけには不十分なる」旨の意見書を出しおれり。
倉富◆良子女王につき何か話ある事は聞きおれども、その詳細を聞かず。
不妊症とでもいうことなるや。
石原◆しからず。色盲の懸念なり。
倉富◆その事ならば医師の診断にてすぐに分かるべき事にはあらずや。
石原◆本人に色盲ありというにあらず。色盲の系統にてその子孫に遺伝する懸念ありということにて、通説には遺伝すること確実なり。
1920年12月24日
※宮内官僚石原健三の発言
色盲問題は医者より平井政遒〔陸軍軍医〕に告げ、平井より山県有朋に告げたる。
山県より伏見宮に告げ、伏見宮より久邇宮に告げ、久邇宮は九州行前書面に書したる。
1920年12月25日
宮内官僚石原健三、医案・久邇宮の内奏書・元老に送りたる書を示す。
予これを持ち帰りこれを閲す。
1920年12月27日
※倉富&宮内官僚石原健三の会話
石原◆松岡均平がドイツ留学中の懇意なるべし。
非常に親密なる趣にて、大臣より松岡をして久邇宮に説かしめ、最終の医案を示したる結果、ついに断念せられ自らこれを辞する事となりたる模様なり。
しかるに久邇宮より元来双方の合意なるにつき一方よりこれを解くは不合理なるべしとの話あり。
大臣は合意には相違なきも媒酌によりて決しおるゆえこれを解くにも媒酌によるが当然なるべく、媒酌は即ち大臣なるゆえ大臣が申込みあるが相当なるべしとの答えをなしたる趣にて、この事も了解を得たる模様なり。
よりて只今は先方の申し込みを待つ順序となりおる所なり。
倉富◆それは好都合なり。
それになりても善後は困難なるべきも、その困難は大体ほどの困難にあらず。
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『原敬日記』総理大臣
1920年12月28日
陸軍大臣田中義一の内話に「久邇宮良子女王色盲につき皇太子妃御内定変更あるべき件に関し、皇太子付の杉浦重剛その御変更に反対し、山県が他に考えあってこの議をなす者なりとして攻撃をなし、これを頭山満らに漏らし、頭山がその親近者に流布したる結果、彼ら一派山県攻撃を企つる由。杉山茂丸 山県に内話したるにより、そのことを予に内話し置けよと伝言なり」と言う。
予これに対し「さっそく警察側には注意をすべし。しかしすでに医科大学責任者の答申もあって診断明瞭したりという以上には、宮内省よりこれを杉浦らに内示するを可とす。まさか杉浦らもこれを知らばそれにても差し支えなしとの立論もできざるべし」と注意したり。
この問題についていろいろ誤解もある様子なり。
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