直球和館

2025年

カテゴリ: 公家華族

◆渋谷教応 仏光寺 鷹司政通の子
1844-1866


■妻 松平光子/辰子 明石藩主松平斉韶の娘
1850年生





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◆渋谷家教 伏見宮邦家親王の子・後に還俗して清棲家教伯爵となる
1862-1923 61歳没


■妻 倉橋満子 倉橋泰顕子爵の娘
1861-1917 56歳没


●庶子 渋谷隆教


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◆渋谷隆教
1885-1962




■妻 九条篷子 九条道孝公爵の娘
1891年生




●男子 渋谷有教 次代当主

●女子 渋谷方子 松平親信子爵の子松平精と結婚
●女子 渋谷公子 小出英忠子爵と結婚


●渋谷方子 松平親信子爵の子松平精と結婚
4502



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◆渋谷有教 先代隆教の子 
1917年生


■妻  泉雄笑子 本照寺泉雄尊正の娘
1925年生


●長男
●二男
●三男
●長女

◆21代 大谷光勝/厳如 20代大谷光朗/達如の子
1817-1894 77歳没


■妻  伏見宮和子女王 伏見宮邦家親王の娘 
1830-1884 54歳没


●四男 大谷光瑩 1852年生 22代当主
●男子 大谷勝縁 1856年生 井伊直安子爵の妹井伊僖子と結婚
●男子 大谷勝尊 1858年生 
中院通富伯爵の娘中院旭子と結婚・勝山藩主三浦義次の娘三浦参子と再婚
●男子 大谷勝遊 1875年生
●男子 大谷勝信 1878年生 中御門経隆男爵の娘中御門瓏子と結婚→子瑩俊は詐欺で逮捕

●女子 大谷厳子 1851年生 久我通久侯爵の1/3番目の妻
●二女 大谷堯子 1853年生 水谷川忠起男爵と結婚
●女子 大谷住子 1855年生 久我通久侯爵の2/3番目の妻
●六女 大谷梭子 1861年生 岩倉具経男爵と結婚


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東本願寺の除籍の公告 1959年

『大谷瑩俊準連枝の処置について』
本人については従来とかくの風評があり、しばしば注意を喚起したるにもかかわらず、準連枝たるの地位を悪用して建築業者等と結んで数次にわたる詐欺を行い、御裏方の印鑑まで偽造行使するなど僧分としてあるまじき行為が重なり、被害者から告発を受けるに至った。
宗門の体面を汚し、大谷一門の名誉を損なうこと甚だしいものがあるので、処分に付したものである。
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◆22代 大谷光瑩/現如 21代大谷光勝の子
1852-1923 71歳没

*放蕩で評判を落とした


■妻  木下恒子 日出藩主木下俊愿の娘
1854-1928 


●実子 大谷光演 1875年生 23代当主
●実子 大谷瑩誠 1878年生 広幡忠朝侯爵の娘広幡朝子と結婚
●実子 大谷瑩亮 1880年生 池田頼清の妹池田訴子と結婚
●実子 大谷瑩潤 1890年生 小笠原寿長子爵の娘小笠原喬子と結婚

●庶子 大谷瑩温 1881年生
●庶子 大谷韶相 1884年生
●庶子 大谷瑩韶 1886年生 島津雄五郎男爵の娘島津文子と結婚
●庶子 大谷瑩琇 1887年生
●庶子 大谷瑩嶐 1893年生
●庶子 大谷瑩住 1902年生

●実娘 大谷恵子 1876年生 九条道実公爵と結婚
●実娘 大谷綾子 1887年生 正親町公和伯爵と結婚

●庶女 大谷悟子 1880年生 吉藤勝遵と結婚
●庶女 大谷嶺子 1884年生 梅上尊融と結婚
●庶女 大谷芳子 1891年生 飯貝瑩辰と結婚
●庶女 大谷久子 1900年生 鴻池信託重役和田久左衛門と結婚


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『明教雑誌』明治時代

何をか大谷派本願寺の腐敗という。
一派門徒勿論しかりと、まず法主しかり、執事しかり。
妻妾常に左右にはべり、一夜の豪遊に幾百の黄金を消散し、あるいは須磨の別邸に管弦声裡治野の酔夢を貪る者は、これそれ現代の大谷光瑩法主にあらずや。
無謀の口実に信徒の膏血を絞り、法主を優化して内示を紊乱し、一宗を挙げて咄々たる日本仏教界の大怪事を演出せしむる。
大谷光瑩法主、渥美契縁執事と言えば、日本仏教界不道徳を意味する代名詞たるものにあらざるなきか。
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◆23代 大谷光演/彰如 22代大谷光瑩の子
1875-1943 68歳没

*満州・朝鮮・北海道などの鉱山に次々と手を出してすべて失敗、さらに祇園で豪遊するなどの浪費を重ね、東本願寺幹部から隠居させられた。


■妻  三条章子 三条実美公爵の娘
1876-1972


●長男 大谷光暢 1903年生 24代当主
●男子 大谷暢慶
 
●女子 大谷政子 1898年生 早逝
●女子 大谷素子 1900年生 森重雄と結婚
●女子 大谷忠子 1905年生 小田隆二と結婚


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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣

1925年2月5日
京都府知事池田宏来訪。
東本願寺大谷光演洋行、容易ならざる纏綿せる内情の陳述なり。
要するに岡本米蔵なる者の魂胆に基因せる企図なり。
文部大臣岡田良平よほど決心、実現阻止に努むる覚悟の趣。

1925年3月30日
上京を促したるにつき、東本願寺の大谷光演を訪問。
宗門の本山として華族以上の関係なること、皇族方御心配のこと、累を皇室に及ぼすこと、交友のよろしからざることを指摘して戒告したるに、やや響きはありたるごとく感じたるも真意はわからず、さりながら近づける人については注意すべし、洋行のことは安定するまで見合すべし、営業事業も中止すべしとの意味は陳述あり。
大谷氏は談示終わるを待ち、早々辞去したり。
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◆24代 大谷光暢/闡如 23代大谷光演の子
1903-1993 90歳没

*お東騒動を起こす


■妻  久邇宮智子女王 久邇宮邦彦王の娘・姉は香淳皇后
1906-1989 83歳没


※30年に渡るお東騒動により4派に分かれ、4人の息子はそれぞれ自らを25代と名乗っている。


●長男 大谷光紹    1925年生 離脱して浄土真宗東本願寺派/東京本願寺
●二男 大谷暢順    1929年生 離脱して浄土真宗大谷本願寺派/東山浄苑
●三男 大谷暢顕    1930年生 25代当主
お東騒動に関わっていなかったため最終的に後継者に選ばれる
●四男 大谷暢道/光道 1945年生 離脱して嵯峨本願寺

●長女 大谷美都子   1928年生 音大教授大賀寛と結婚
●二女 大谷須美子   1936年生 オーミケンシ社長夏川浩と結婚


※大谷家は昭和天皇の娘との縁談を求めて、長男大谷光紹の結婚相手に次々と孝宮和子内親王・順宮厚子内親王・清宮貴子内親王を望むが、いずれも遺伝学的見地からイトコ結婚を避けたい皇室側が断った。
しかし良子皇后はこの縁談を歓迎していたため、昭和天皇との間にわだかまりが残る。


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『侍従次長 河井弥八日記』参議院議長※当時は侍従次長&皇后宮大夫

1929年2月12日
東本願寺事務局長の来訪を求め、良子皇后より大谷智子への賜金を交付し、その趣旨を説明す。
①御姉妹の関係をもって特に智子夫人に内賜ありしこと
②ゆえに東本願寺に賜しにあらず
③智子夫人が別院建築費に差し出さるるも、良子皇后より建築費として賜りしにはあらざること
などなり。

1931年6月10日
宮内次官関屋貞三郎より、西本願寺大谷尊由から「東本願寺別院建築につき良子皇后より御下賜金ありし由につき、西本願寺別院建築につき同様に御下賜金ありたし」との申し出ありし由なり。
右は一昨年2月14日大谷智子に下賜ありしにて、東本願寺に下されしにあらず。
智子夫人が寺院建築のため使用することは妨げざるも、恩賜の由を発表すべからずと告げ千円を下されし事実を指すものなり。
よりてその次第を関屋次官に報告す。
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読売新聞 1949年11月23日

『孝宮様の御内約順調に進む 選ばれた東本願寺の大谷光紹氏』
孝宮和子内親王の御配偶については鈴木侍従次長を中心に選考が進められていたが、東本願寺法主大谷光暢氏の長男大谷光紹氏との間に御内約が順調に進んでいる旨、光暢氏により初めて明らかにされた」
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従

1949年11月29日
田島長官・林次長・三谷侍従長・鈴木侍従次長・名取女官と東本願寺問題〔孝宮和子内親王&大谷光紹の縁談〕を論議する。

1949年12月5日
田島長官・林宮次長・三谷侍従長・八田・塚原・名取女官と孝宮和子内親王御結婚問題を論議する。
要するに血族結婚は不可ということになり、さらにその他の点から言っても不可ということになる。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年11月30日
昭和天皇◆新聞を見て驚いて、そんなに進んだのかと思った。
田島長官◆他の新聞は書きませず、読売新聞記者が大きく扱ったと存じますが、新聞ほど進んだ訳ではありません。
昭和天皇◆私の義叔母らが西本願寺や仏光寺に行ってるが、信徒に対する関係上なかなか話す機会も多いらしいが。
(経済的な点はよろしいが、御不安むしろ御心配の御様子に拝す)

1949年12月8日
田島長官◆孝宮和子内親王御縁談につき、大谷光紹氏の人柄学業家柄御続合など至極良縁と存じ今日まで内話を続け来りましたところ、名取女官などより孝宮和子内親王側のことをよくよく聞けば、孝宮和子内親王の御性格上御負担重く、この際この話はこのままのことにお決め願いたく。
昭和天皇◆今後はより慎重にしてほしい。
田島長官◆今後は孝宮和子内親王本位にての方針。
ただ今 残れる鷹司平通・浅野長愛をよく研究の上。
昭和天皇◆慎重とは矛盾するが順宮厚子内親王のこともあるゆえ急いで。

1949年12月9日
田島長官◆孝宮和子内親王ことは従来名取女官らより承り、昭和天皇からも感情的との御話を承知いたしましたゆえ、大谷家のような所の方適当と存じましたところ、いよいよとなり孝宮和子内親王の本当の側近側より孝宮和子内親王の御性質・御不十分の点など程度の差あり、かしずかれる御身分はよいと思いしところ、かえってそれが御性質が目立ち御負担重り、地位が地位だけに到底難しきことと存じました次第でございます。
したがって今後の候補者については、先方は孝宮和子内親王のことを理解し承知の上で孝宮和子内親王の御幸福のためにかばうという人柄人格の誠実の人なれば働き・頭脳の点は構わぬことといたしまするが、ただ今のところ、昭和天皇は鷹司平通・浅野長愛いずれ御希望か。
昭和天皇◆その点が完全なれば鷹司の方がよいと思う。
田島長官◆浅野はとにかく理学士でありまするが、鷹司の方は大阪理工科大学出身でありまするが、好んであんな学校へは入りませぬゆえ、東大または京大へ入学不能であったかと考えますが。
昭和天皇◆大学を出てもいいと言えぬ人物もあるし、大学を出ぬもいい人物もある。
要は学校ではない。
(田島の申し上げんとせし点は、大阪理工科大学等に入る程度にては人物も如何との懸念の点なるも、この際は申し上げず)
昭和天皇◆節子皇太后〔貞明皇后〕は二候補者を申し上げし後、私たちにはしきりに浅野がよいと仰せになる。
お続きがあるからかもしれぬが、しかし良子は弟君の東伏見邦英が浅野のことをひどく言われたのを聞いているので、女のこととて感情上浅野のことには気が進まぬかもしれぬ。
もちろん東伏見さんは文学者で変な所もあり、先方は理学士であり相互に了解し得ぬような点もあろうから、東伏見の評の当否は分らぬが、当否は置いて良子としてはちょっと考えるのではないかと思う。

1949年12月12日
昭和天皇◆戯談に私は良子に孝宮和子内親王を修道院へと言ったところ、良子は反対で神宮祭主なら賛成だと言った。
東久邇宮盛厚王は照宮成子内親王と同意、「大谷の話こそ良し、御進行希望」との話あり。
田島長官◆それらの点は現に研究済のことゆえ、先日申し上げたる通りに願いたき旨。
昭和天皇◆名取女官の話にては、誰か付けるとの話なるが、皇室が里方の場合に嫁入先に干渉するとの批評は受けぬか心配。
ことに宮様方から批評出るように思う。
東京でなければこの批判から免れるゆえ、大谷がいい御趣旨。
順宮厚子内親王は怜悧にて照宮成子内親王と同じゆえ上下に挟まれるが、順宮厚子内親王の配偶者との関係の考慮も必要。
良子は失望した。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年1月7日
昭和天皇◆昨日節子皇太后〔貞明皇后〕にお目にかかったら、鷹司のことをさんざんに言われた。
「あんな力のない人」というような意味でひどく仰せになり、浅野の方がよいとの思召からではないかと思われるが、「田島らいろいろ考えてやってるようだからよろしいが」と仰せになった。
田島長官◆浅野さんのことも考えましたが、孝宮和子内親王の場合にはいろいろ考慮の上鷹司が第一と考えましたので、順宮厚子内親王も御年頃ゆえ、浅野を考えてもと思っております。
昭和天皇◆浅野の兄の方は東伏見がひどく批評して、大谷家に娘をやることを反対したということを聞いておるゆえ、そういう場合にはその点によく注意して。

1950年6月17日
昭和天皇より「大谷は良子の妹だから」とて、あの時の御不満あるらしく承る。

1950年9月26日
昭和天皇◆良子としては姉妹関係もあろうが東本願寺をいいと思い、名取女官がクリスチャンゆえ事を構えて東本願寺の話を壊したのではないかとの疑いを持ち、その点は鈴木侍従次長でなく名取に対して大いに憤慨の様子なるも、辞めさせても後がなきため辞めることはないが、どうも良子は不満のようで感情的な所がなかなか抜けない。
したがって入江侍従も同類と思ってるようだ。
(いつもと違い良子皇后の御感想をお述べゆえ、非常に御声を低くして御話になる)
田島長官◆良子皇后に誤解があれば解きたいと存じます。
女官長との話し合いも致しましょう。

1950年10月10日
昭和天皇◆順宮厚子内親王の意思は今結婚にないが、大谷光紹への口実が留学三年ということゆえ、帰朝前に結婚する方が賢明だ。
〔大谷光紹&順宮厚子内親王〕

1950年11月7日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談、新陣容で間違いなく慎重に見てやってまいりますつもりでおります。
昭和天皇◆大谷光紹への口上から、大谷の帰国せぬ内というのは頬かぶりではあるが。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1953年3月19日
田島長官◆大谷裏方〔大谷智子〕の御訪問がありましたが、この秋にでも京都行啓あれば東本願寺へ願えるだろうかとのお尋ねゆえ、東といえば西また続いて佛光寺の関係もあり、良子皇后の御親類と申せばお西は節子皇太后〔貞明皇后〕の御親類、佛光寺も昭和天皇の叔母ということゆえ、やはり難しくなりましょうと申し上げておきました。

1953年5月20日
昭和天皇◆明仁皇太子妃の問題が『婦人クラブ』という雑誌に写真入りで出てるよ。
田島長官◆何人ぐらい出ておりますか。
昭和天皇◆さー、はっきりは知らんが10人ぐらいは出てる。
久邇宮〔久邇宮通子女王と久邇宮英子女王姉妹・平成天皇のイトコ〕なんかも出てるが、あれは大谷のこの前の関係もあり到底ダメな話だ。
〔大谷光紹&孝宮和子内親王はイトコ同士〕
こちらの調査の参考になるぐらいではあるが、ああいうものは困る。

1953年8月10日
昭和天皇◆今朝良子のところへ久邇宮朝融王が来て、清宮貴子内親王を久邇邦明〔朝融王の子〕のところへもらいたいという話があったということだ。
私は結論から言えば断って良いと思うのだが、その断りの理由を何とするか。
大谷の場合との関係もあるから、どう言って断ったものかねー。
〔良子皇后の妹東本願寺大谷智子が孝宮和子内親王を子大谷光紹の妻に望んだがイトコという遺伝学的見地から皇室側から断った〕
田島長官◆お答えは良子皇后と御兄妹の御関係でなるべく角立ちませぬ申し条の方がよろしいと存じまするゆえ、申し上げ方につきては少し考えさせていただきたいと存じます。
しかし清宮でございましたらばまだ先のことでございますが、お待ちになりますのでございましょうか。
昭和天皇◆それは待つとの御話だ。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従

1955年9月13日
東本願寺の大谷智子さんが大谷光紹に清宮貴子内親王をいただきたいと申し出た由。
もちろんお断りであるが、この前の縁談〔大谷光紹&孝宮和子内親王のイトコ同士〕からこういうことは出てこないはずだということになり、稲田侍従次長が元侍従次長鈴木一さんの所へ聞きに行くことになる。
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長男光紹は1950年アメリカに留学し、4年後の1954年に帰国する。
智子裏方の実家久邇宮家から長男光紹に縁談が持ち込まれる。
田安徳川達成伯爵の娘徳川文子と1955年に帝国ホテルで見合いののち婚約、大学2年生だった令嬢の卒業を待って結婚式が行われる予定であった。
1957年には長男光紹みずから設計した新居が1,500万円で建てられた。
しかし長男光紹が秘かに婚約を破棄していたことが発覚、自分の側近を相手の家に遣わして白紙を伝えており、東本願寺はもちろん両親も知らなかった。
大谷家は慌てて取りなしたが、相手の家族は激怒、復縁は不可能であった。
智子裏方は両親に相談もなしに非常識な破談を行った長男光紹に対して、強いわだかまりを抱くようになった。


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毎日新聞 1955年12月11日
「東本願寺 光紹師の新裏方 徳川文子さんに決まる」
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もともと東本願寺大谷家は、明治時代に伯爵を与えられた祖父/22代大谷光瑩、そして父/23代大谷光演と放蕩が続き、これに反発して改革派が生まれた経緯がある。
23代大谷光演が破産宣告した際には、条件として大谷家の財産がほとんどが東本願寺の所有になった。

しかし大谷家側はその後も財産は自分たちの物であるという意識を持ったままだった。
大谷家による財産の処分を今後は未然に防ぎたい改革派は、いずれは大谷家から管長職を切り離そうと考えていたため、取り上げられるぐらいならと大谷家側が先手を打って管長職を子に譲ろうとしたと考えられる。

長年大谷家べったりだった内局も年々改革色を強めてゆき、ついに1961年改革派の訓覇信雄が宗務総長に選出される。
訓覇内局は組織の抜本的な改革を行い、13部からなる部門制に改めた。
これに伴い大谷家に近い儀式関係の式務局と大谷家の宮内庁にあたる内事局が部に格下げされた。

末寺から本山には様々な願い事が上がってくる。
願い事を叶える度に、末寺から本山に上がる金の1割が内事局に入ることになっていた。
また末寺住職に率いられて上山する門徒は、法主との面会『お会い』のために内事を訪れる時に相当の礼金を包むことになっていた。
それが絶たれてゆくことに大谷家は不満と苛立ちを募らせてゆく。


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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1971年1月5日
良子皇后に東本願寺と吹原産業〔「お東騒動」の一つ〕のことを申し上げる
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1972年3月13日
大谷暢順氏来訪。
例の吹原の件〔お東騒動の一部〕

1972年6月20日
大谷夫妻両殿下に御対面につき、北白川女官長から吹原の件〔お東騒動の一部〕 念のため申し上げてもらう。

1972年10月2日
宇佐美長官から大谷智子さんのこと、まったくイヤな話である。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1976年3月11日
宇佐美長官と東本願寺〔良子皇后の妹大谷智子の嫁ぎ先〕の内紛〔お東騒動〕のこと。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1977年6月7日
昭和天皇から、東本願寺のこと〔お東騒動〕邦昭もいないし〔久邇家当主久邇邦昭は海外赴任中〕こちらのことをよく承知している者として弘世現〔久邇邦昭の舅〕には頼めまいかとのこと。
弘世も困りましょうし、やはり良い弁護士を探すことが先決なれど、いずれ宇佐美長官と相談して申し上げるとお答えする。

1977年6月28日
徳川侍従次長が東伏見邦英さん〔久邇宮邦英王・東本願寺大谷智子の弟〕に会うことを申し上げたところ、
昭和天皇は「宇佐美長官が弘世に言ったが、邦英さんにただ会うだけでは駄目で、宇佐美長官はどうもそこが甘い」との仰せ。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1978年1月12日
東本願寺のこと〔お東騒動〕昨日弘世現氏〔久邇家当主久邇邦昭の舅〕から聞いた通りのことを昭和天皇に申し上げる。

1978年6月19日
東本願寺二男大谷暢順氏来訪。
「父によく言うと『わかった』と言ってくれるが、そこへ母と暢道が来るとすっかり元に戻る」とのこと。

1978年7月26日
侍従次長徳川義寛が弘世氏に会った由。
宗門の大事、本来文部省のことながらそれではとても駄目につき、やはり政界の要人がその地位を離れて事に当ってもらった方がいいとのこと。

1978年8月10日
富田長官に那須御用邸から言ってきた大谷智子裏方〔良子皇后の妹〕の電話の件報告。
北白川女官長にも話しておいたこと、電話の録音でもされれば目も当てられないということ話す。
同感。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1979年1月12日
富田長官から、東本願寺のこと〔お東騒動〕で元宮内次官白根松介が田中角栄の所へ行ったとか。
驚くべきこと。

1979年1月15日
政治家江崎真澄が富田長官に「東本願寺のことで白根松介が田中角栄に頼み込んだ」と言ってきた件で、白根さんを訪問。
いろいろ例を挙げて話したら、「よくわかった。さっそく中山理■に言う」とのこと。
相変わらず軽率なことである。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1980年7月31日
弁護士内藤頼博〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕来訪。
東本願寺の件〔お東騒動〕法主と四男大谷暢道を起訴することになるかもしれないとのこと。
法主の象徴化を言っておく。

1980年8月15日
内藤君の東本願寺の件、昭和天皇も大変お喜びだった。
内藤に、昭和天皇もその通りでいいと思召すということを言ってくれてもいいとの仰せ。

1980年9月17日
内藤君。
四男大谷暢道いよいよ起訴らしい。
その機会に法主夫妻に説くとのこと。
大賛成。

1980年9月22日
内藤君。
四男大谷暢道の逮捕状、続いて起訴の見込みのこと。
内藤君が大谷智子裏方〔良子皇后の妹〕に会えるよう徳川侍従次長から電話することになる。

1980年9月25日
内藤君。
東本願寺の件、四男大谷暢道・大谷智子裏方に反省なし。
なんとかして宗門と同じ土俵に乗せたいと言う。

1980年9月29日
内藤君。
四男大谷暢道の起訴の他なしとのこと。
「起訴有罪として法主夫妻を守った方がよし」と言っておく。

1980年11月5日
内藤君。
東本願寺問題、いよいよ解決の見通しがついてきたとのこと。

1980年12月20日
内藤君。
東本願寺は片づいた由。
戦後処理はなかなか大変だがとのこと。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1981年1月26日
昭和天皇から、「東本願寺のこと〔お東騒動〕やはり弁護士内藤頼博〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕にやってもらい、土俵ができてから親族が出た方がよかろう」との仰せ。

1981年2月20日
富田長官に、内藤君から聞いた東本願寺のこと、宗門と法主、法主と新門、新門と宗門、そのすべてがいけないことを話す。
昭和天皇にも東本願寺のこと申し上げる。
「壬申の乱のようだ」との仰せ。

1981年4月23日
内藤君。
東本願寺の憲法改正について、法主夫妻は四男大谷暢道次第で反対。
利害をいくら説いても聞かぬ由。
長男大谷光紹はまた別の人に担がれているとか。
困った連中である。

1981年10月15日〔滋賀京都巡幸〕
京都に入ってから鴨川を渡り旧久邇邸を御覧に入れたが、肝心の良子皇后大した御感興なし。
でもこれで昭和天皇のお望みは通った。
東本願寺の夫妻〔良子皇后の妹夫妻〕返事もせず来もせずひどいもの。

1981年12月22日
昭和天皇に、内藤君からの四男大谷暢道を宗門の裁判にかけるという電話の件について申し上げる。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1982年3月3日
富田宮内庁長官と、昭和天皇から東本願寺のこと〔お東騒動〕御心配になっていることを弁護士内藤頼博〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕に言ってもいいとの仰せについて、大谷智子裏方〔良子皇后の妹〕から四男大谷暢道・武内克麿〔四男暢道側近の僧侶〕と漏れる恐れあり、昭和天皇が泥沼にお入りの恐れありと思う件。
富田宮内庁長官も同感、内藤君も同感。

1982年3月10日
昭和天皇より、元宮内庁長官田島道治が久邇宮朝融王・徳川喜好・松平直鎮の神がかりをとめてくれたときのいきさつは、東本願寺問題の参考になりはしないかとの仰せ。

1982年3月12日
久邇宮朝融王の神がかりを田島元長官が取りしずめたのを参考にして東本願寺が何とかなるまいかとの昭和天皇の仰せにつき徳川侍従次長と相談。
今度のとはまったく性質が違うし、内藤君が一生懸命やっているから、もうしばらく様子を御覧になっていただきたいと申し上げる。

1982年3月16日
昭和天皇が、久邇宮朝融王を新興宗教から離したのは大協石油社長高橋真男が一緒に食事をしたりして懇談したから、東本願寺にも内藤の他にそのような人を見つけなければならないとおっしゃる。
「そんな人みつかりません」と申し上げたら、
「なんとしても見つけなければ」とおっしゃる。
「東伏見邦英さん〔良子皇后の弟〕さえお近づきになれないのだから」と申し上げたら、おわかりになった。

1982年5月29日
内藤君。
東本願寺大谷智子裏方が内藤君をとやかく言っておられる。
皇族ならびにその出身の方々の共通のところ。
困ったものである。
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◆21代 大谷光勝/厳如 20代大谷光朗/達如の子
1817-1894 77歳没


■妻  伏見宮和子女王 伏見宮邦家親王の娘 
1830-1884 54歳没


●四男 大谷光瑩 1852年生 22代当主
●男子 大谷勝縁 1856年生 井伊直安子爵の妹井伊僖子と結婚
●男子 大谷勝尊 1858年生 
中院通富伯爵の娘中院旭子と結婚・勝山藩主三浦義次の娘三浦参子と再婚
●男子 大谷勝遊 1875年生
●男子 大谷勝信 1878年生 中御門経隆男爵の娘中御門瓏子と結婚→子瑩俊は詐欺で逮捕

●女子 大谷厳子 1851年生 久我通久侯爵の1/3番目の妻
●二女 大谷堯子 1853年生 水谷川忠起男爵と結婚
●女子 大谷住子 1855年生 久我通久侯爵の2/3番目の妻
●六女 大谷梭子 1861年生 岩倉具経男爵と結婚


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◆22代 大谷光瑩/現如 21代大谷光勝の子
1852-1923 71歳没

*放蕩で評判を落とした




■妻  木下恒子 日出藩主木下俊愿の娘
1854-1928 




●実子 大谷光演 1875年生 23代当主
●実子 大谷瑩誠 1878年生 広幡忠朝侯爵の娘広幡朝子と結婚
●実子 大谷瑩亮 1880年生 池田頼清の妹池田訴子と結婚
●実子 大谷瑩潤 1890年生 小笠原寿長子爵の娘小笠原喬子と結婚

●庶子 大谷瑩温 1881年生
●庶子 大谷韶相 1884年生
●庶子 大谷瑩韶 1886年生 島津雄五郎男爵の娘島津文子と結婚
●庶子 大谷瑩琇 1887年生
●庶子 大谷瑩嶐 1893年生
●庶子 大谷瑩住 1902年生

●実娘 大谷恵子 1876年生 九条道実公爵と結婚
●実娘 大谷綾子 1887年生 正親町公和伯爵と結婚

●庶女 大谷悟子 1880年生 吉藤勝遵と結婚
●庶女 大谷嶺子 1884年生 梅上尊融と結婚
●庶女 大谷芳子 1891年生 飯貝瑩辰と結婚
●庶女 大谷久子 1900年生 鴻池信託重役和田久左衛門と結婚


●大谷恵子 九条道実公爵と結婚



●大谷綾子 正親町公和伯爵と結婚
1051(2)



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◆23代 大谷光演/彰如 22代大谷光瑩の子
1875-1943 68歳没

*満州・朝鮮・北海道などの鉱山に次々と手を出してすべて失敗、さらに祇園で豪遊するなどの浪費を重ね、東本願寺幹部から隠居させられた。






■妻  三条章子 三条実美公爵の娘
1876-1972






●長男 大谷光暢 1903年生 24代当主
●男子 大谷暢慶
 
●女子 大谷政子 1898年生 早逝
●女子 大谷素子 1900年生 森重雄と結婚
●女子 大谷忠子 1905年生 小田隆二と結婚


左:大谷忠子 右:大谷素子
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左から 光演・章子夫人・光暢・智子夫人・忠子
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●大谷政子 早逝



●大谷素子 森重雄と結婚





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◆24代 大谷光暢/闡如 23代大谷光演の子
1903-1993 90歳没

*お東騒動を起こす


■妻  久邇宮智子女王 久邇宮邦彦王の娘・姉は香淳皇后
1906-1989 83歳没


左から 忠子・光暢・多嘉王・久邇宮邦彦王・久邇宮俔子妃・良子女王・信子女王・智子女王
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※30年に渡るお東騒動により4派に分かれ、4人の息子はそれぞれ自らを25代と名乗っている。


●長男 大谷光紹    1925年生 離脱して浄土真宗東本願寺派/東京本願寺
●二男 大谷暢順    1929年生 離脱して浄土真宗大谷本願寺派/東山浄苑
●三男 大谷暢顕    1930年生 25代当主
お東騒動に関わっていなかったため最終的に後継者に選ばれる
●四男 大谷暢道/光道 1945年生 離脱して嵯峨本願寺

●長女 大谷美都子   1928年生 音大教授大賀寛と結婚
●二女 大谷須美子   1936年生 オーミケンシ社長夏川浩と結婚


●大谷光紹
1000



●大谷美都子 音大教授大賀寛と結婚
1002

◆19代 常磐井円祥 公家鷹司輔平の子 浄土真宗専修寺
1788-1837

1879年 69歳
0069



■妻  藤堂彩子  津藩主藤堂高嶷の娘
1792-1854 


●男子 常磐井円禧 20代当主


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◆20代 常磐井円禧 19代円祥の子
1816-1861


■妻  鷹司介子  公家鷹司政通の娘
1811-1844 


●女子 常磐井敬子 婿養子を迎え21代当主とする


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◆21代 常磐井堯熙 公家近衛忠熙の子近衛徳彰・婿養子になる
1844-1919

1879年 37歳
0037



■妻  常磐井敬子 20代常磐井円禧の娘
1849-1905 


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◆22代 常磐井堯猷 公家近衛忠房の子近衛鶴松・養子になる
1873-1952


■1番目の妻 大谷文子 西本願寺大谷光尊伯爵の娘
1877-1912


■2番目の妻 藤堂鋀子 藤堂高潔伯爵の娘・常磐井堯猷男爵と離婚・牧野忠篤子爵と再婚
1882-1963


■3番目の妻 久世貞子 久世広業子爵の娘・桜井義功子爵と結婚・常磐井堯猷男爵と再婚
1885-1933


★妾  金丸マキ


●二男 常磐井隆麿 23代常磐井堯祺となる
●長女 常磐井教子 沢宣一男爵と結婚

●庶子 常磐井猷麿 24代常磐井鸞猷となる
●庶女 常磐井礼子
●庶女 常磐井祗子


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◆23代 常磐井堯祺 22代堯猷の子
1905-1992


■妻  新井政恵  新井誠一郎の娘
1907-1961


■後妻 中林イトコ 中林利一の娘
1927年生


●男子 常磐井理  古久根勤の娘古久根ノリコと結婚
●男子 常磐井隆

●女子 常磐井泰子 豊田親示と結婚
●女子 常磐井倫子 村上雅紀と結婚


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◆24代 常磐井鸞猷 23代堯祺の弟/22代堯猷の子
1932年生


■妻  長谷川和子 長谷川豊の娘
1931年生


●男子 常磐井慈裕 25代当主
●女子 常磐井遵子


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◆25代 常磐井慈裕 24代鸞猷の子 
1959年生


■妻  藤田マヤ  仏教学者藤田宏達の娘

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