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2025年

カテゴリ: 選抜

<骨肉の争いは続く>


◆1981年
6月11日 東本願寺で宗憲改正が可決され、新宗憲が発布された。
法主・東本願寺住職・管長の3つすべてを廃止、法主は門首と改め象徴門首制となった。
(東本願寺は門首、西本願寺は門主)
06月15日 東京都庁が東京別院/長男光紹の宗派離脱申請を認証 
同日    東本願寺が長男光紹を除籍
06月26日 東本願寺が光見(長男光紹の長男)を新門に決定


◆1984年
03月 東本願寺の国宝『教行信証』が無くなっていることが発覚、秘かに大谷家が私蔵していたことがわかった。
国宝が流出しかねない事態を重く見た文化庁が預かることとなり、東京国立博物館に保管された。


◆1985年
10月 光暢法主&智子裏方&四男暢道が記者会見を開き和解破棄を宣言


◆1988年
02月 長男光紹/東京本願寺が「浄土真宗東本願寺派を結成し、第25世法主に就任する」と宣言
これを受けて本山の後継者となっていた光見(長男光紹の長男)も「本山の新門と東京本願寺の新門を兼ねる」と宣言


◆1989年
02月 東本願寺は二派の新門を兼任しようとした光見(長男光紹の長男)を新門から解任・除籍
03月 東本願寺は業成(二男暢順の長男)を新門に決定
11月 智子裏方83歳没、東本願寺と大谷家とで別々に葬儀が行われる


◆1992年
04月 二男暢順が自らの本願寺維持財団が所有する土地を売却


◆1993年
04月 光暢法主90歳没、東本願寺と長男光紹と四男暢道とで別々に葬儀が行われる
6人の兄妹のうち5人が負債や訴訟を恐れて相続放棄、四男暢道だけが自らを第25代法主と宣言して相続手続を取ったため訴訟も引き継いだ。


◆1995年
11月 二男暢順が東本願寺に対して1億円の助成金返還を求める訴えを起こす


◆1996年
01月 二男暢順&業成(二男暢順の長男)&実成(二男暢順の二男)が宗派離脱を宣言、二男暢順は第25代法主を名乗る
02月 東本願寺は二男暢順&業成&実成を除籍、業成を新門から解任
07月 東本願寺は騒動に関わりのなかった三男暢顕を後継者に決定
同月 三男暢顕が第25代門主に就任、71年ぶりの継承式が行われた。


四男暢道側近の僧侶武内克麿は大谷家を離れた後、先物取引で多額の借金を作り失踪、交通事故で死亡した。

<事件につぐ事件>


◆1970年
前年の『開申事件』を受けて、改革派以外にも法主批判の声が広がる。
これに対して光暢法主は、内局が提出した改革案の承認を拒否したり、改革派僧侶16人の僧籍を剥奪しようとした。

12月『六条山墓地造成事件』
光暢法主が20億円をかけて六条山にある東本願寺所有の土地に、墓地を造成して売り出す計画を京都市に申請した。
これは光暢法主&智子裏方&長男光紹に取り入っていた吹原弘宣が、東本願寺の財産を使って事業を興そうとしたものであった。
吹原弘宣は1965年三菱銀行・大和銀行から総額486億8千万円を騙し取った戦後最大の詐欺事件『吹原産業事件』の首謀者である。
六条山は伏見宮邦家親王の娘嘉枝宮和子女王が21代大谷光勝に嫁いできた時の「持参物」であった。


◆1971年
発覚した時にはすでに造成が始まっていた『六条山墓地造成事件』は今さら白紙にできず、内局は経営を東本願寺ではなく本願寺維持財団にこの墓地の経営を任せて工事を続行することに決定した。
二男暢順が本願寺維持財団の理事長になる。


◆1972年
02月 光暢法主が開申を撤回する。


◆1973年
01月『名号ネクタイ事件』(発覚は翌年) 
大谷家が法主直筆の南無阿弥陀仏をデザインしたネクタイを販売しようとする。

09月『難波別院事件』(発覚は翌年) 
大谷家が大阪にある難波別院の400坪の土地に貸ビルを建てようする。

10月『宇治土地事件』(発覚は翌年)
大谷家が京都宇治にある本願寺維持財団の1,100坪の土地を売却しようとする。


◆1974年
02月 改革派の嶺藤亮が宗務総長(総理大臣にあたる)に選出されたが、光暢法主は任命を拒否、嶺藤総長は2ヶ月間新内閣を組織することができず、宗議会が光暢法主に任命の要望書を提出したり、職員組合が任命を求めてストをしたり、混乱が続いた。


◆1975年
08月「ドル箱」でもある本願寺維持財団の理事長を務める二男暢順に対して、四男暢道が理事長のポストを自分に譲るよう迫るが拒否される。
09月 今度は光暢法主が二男暢順に対して、理事長のポストを四男暢道に譲るよう内容証明を送るが拒否される。


◆1976年
01月 東本願寺が光暢法主に対して管長職退位を勧告

02月『大谷の里事件』
光暢法主が滋賀県の2万坪の土地に老人・障害者・青少年のための福祉センター『大谷の里』を造ろうとする。
理事長は四男暢道の予定であった。
総工費は40億円、門徒から寄付で100億円を集め、土地は篤信家が寄付してくれるのだという不思議な計画だった。
光暢法主&智子裏方&四男暢道が連名で7枚計5億円の手形を乱発。

04月 光暢法主が宗務総長嶺藤亮を解任して曽我敏を任命、前代未聞の二人総長体制となってしまう。

06月『聖護院別邸事件』
福田アツシ〔外字〕(元総理大臣福田赳夫の甥)が四男暢道に融資した1億5千万円が返済されなかったため、
聖護院別邸を差し押さえる。
同月
幡新守也(グアム島残留日本兵横井庄一の妻の兄)が四男暢道に融資した3千万円が返済されなかったため、聖護院別邸・大谷専修学院の学生寮『修練舎』・宗務総長役宅の3点を差し押さえる。
聖護院別邸は二重に差し押さえられたことになる。
聖護院別邸は智子裏方が嫁いできた時の「持参物」であり、四男暢道の住まいであった。
また、当時宗務総長役宅には嶺藤総長が住んでいた。


◆1977年
『大谷の里』に関して乱発した手形のうち2枚計1億円分が不渡りとなったため、東本願寺の重要文化財18点が差し押さえられる。


◆1978年
01月 嶺藤総長が再選されるが、
03月 光暢法主が嶺藤総長を破門する。
嶺藤総長は宗議会と門徒評議会を招集して光暢法主から管長職を剥奪し、竹内良恵を管長に任命、二人総長に次いで二人管長という事態が発生する。

07月 京都府警が『大谷の里』に関連する手形乱発事件について、光暢法主と四男暢道の2人を背任容疑・横領容疑で書類送検した。

同月 光暢法主&四男暢道&債権者2人の4人が記者会見。
「10月15日までに債権者2人に対して額面1億円の7割、7千万円を支払うことで和解が成立した。
支払いが履行された段階で、債権者2人は訴えを取り下げる」と発表。
これを受けて末寺・門徒で結成した『東本願寺を守る会』が7千万円を工面して法主に渡したが、2人の債権者には支払われず、どこかに消えた。

10月『枳殻邸事件』
光暢法主が『枳殻邸』を松本裕夫(京都のビル会社社長)に30億円で売却。
『枳殻邸』は正式名称『渉成園』三代将軍徳川家光が東本願寺に寄進した一万坪の土地に池泉回遊式庭園を造ったもので、国の名勝にも指定されている。

11月 光暢法主が宗派から離脱独立すると爆弾宣言。
一万の末寺は法主派につくか否かの選択を迫られる。


◆1979年
01月 京都府警は『枳殻邸事件』に関連して、光暢法主・四男暢道・四男暢道側近の不動産業者三池新二・そして松本裕夫の4人を背任容疑で書類送検した。

02月 光暢法主が前年の宣言通り、京都府に宗派離脱申請書を提出する。

父親に足並みを揃えて、
04月 長男光紹の東京別院が宗派離脱を宣言
06月 四男暢道の井波別院が宗派離脱を宣言
07月 二男暢順の長浜別院が宗派離脱を宣言


◆1980年
08月 京都地検が横領容疑で四男暢道の側近僧侶武内克麿・克麿の弟孝麿・金融ブローカー岩井忠彦を逮捕する。

11月 大谷家の借金の肩代わりと告訴取り下げを条件に大谷家と東本願寺との即決和解が成立、東本願寺は光暢法主と四男暢道への告訴を取り下げる。


◆1981年
04月 光暢法主・智子裏方・四男暢道が債務一覧表を提出、借金の総額は7億2358万円と判明。
借金の肩代わりをすることになった東本願寺と債権者らとの交渉には13年かかり、完済は1994年総額は8億1675万624円にのぼった。

<開申事件>


浄土真宗大谷派は、東本願寺を本山とする末寺1万・門徒数1千万を擁する日本最大級の宗教教団である。
全国に別院が54ありそのほとんどは光暢法主が住職を兼ねていたが、
東京別院は長男光紹、
滋賀県の長浜別院は二男暢順、
富山県の井波別院は四男暢道がそれぞれ住職を務めていた。
しかし、30年に渡るお東騒動により4派に分裂するに至った。

東本願寺・大谷家は戦前までは伯爵家であった。
皇族・華族との結婚を繰り返すことによって、一種の天皇家を作り上げていた。
教団の天皇家にあたるのが『大谷家』宮内庁にあたるのが『内事局』内閣にあたるのが『内局』総理大臣にあたるのが『宗務総長』閣僚にあたるのが『参務』衆議院にあたるのが全国の僧侶から選ばれる『宗議会』参議院にあたるのが全国の門徒から選ばれる『門徒評議会』憲法にあたる『宗憲』もあり、裁判所にあたる『審問院』もある。

東本願寺のトップは3つの権力を持つ。
一つ目は親鸞の血を引く生き仏としての『法主』
二つ目は本山である東本願寺で宗教活動を行う『住職』
三つ目は宗教法人の代表としての『管長』
これらは三位一体のものとして一人が担うのが原則であった。

ところが1969年4月24日、光暢法主が突然「管長職だけを長男光紹に譲る」と開申し、独断で記者会見も開いた。
開申とは法主が宗門に重要なことを知らせる通達の意味である。
三位一体で切り離せない『管長』の地位のみを長男に譲るというこの開申は、長い伝統と習慣を破る前代未聞の事件だった。
宗務総長にも宗議会議長にも事前にまったく知らされないまま突然発表されたのである。
三位一体の原則を崩すうえ、宗憲に定められた正式の手続きも経ていない。
内局は猛然と反対した。結局この開申事件はすったもんだした挙句、3年後の1972年2月に光暢法主が開申を取り下げるという形で落ち着いた。

しかしこの事件をきっかけに保守派と改革派の対立が激化し、30年にも渡ってお東騒動が続くことになる。


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当時の内示部長(侍従長にあたる) 佐々木全応

その日は午前中に当門〔光暢法主〕と会ったが、何の変化も感じられなかった。
ところが新聞記者がやってきて「午後の記者会見って何ですか?」と聞く。
記者会見なんて聞いてなかったから、その足で当門に聞きに行ったんです。
「大したことじゃないんだ」と言われる。
具体的にわからないまま引き返してきたんです。

2時過ぎに当門に呼ばれて「記者を呼んでほしい」と言うんです。
ところが会見の内容がなかなか手元にこない。
法主の会見の際には担当の総務部長にまず写しを出し、
それを見て法務部長が会見の手順を考えるわけです。
だから「写しは?」と聞いたが、「いや、いいんだ」と言われる。
会見の発表文は巻紙になってましてね、封されていた。
このまま会見というわけにはいかないので、参務(閣僚)を集めて封を開けてみたんです。
そしたら、「管長を新門(長男光紹)に譲る」という開申でしょう、びっくりしましたよ。
三位一体を崩すものだというわけでね。
しかしあと数分で会見が始まるという時でどうしようもなく、
そのまま発表ということになってしまった。
当門と新門が出てこられて、開申の内容といい、発表の方法といい、異例ずくめだった。
やはり、こじれ始めたのはあの時からという感じがしますね。
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<主要人物>


■夫 大谷光暢 東本願寺24代法主
1903-1993 90歳没


■妻 久邇宮智子女王 久邇宮邦彦王の娘・姉は香淳皇后
1906-1989 83歳没


●長男 大谷光紹    離脱して浄土真宗東本願寺派/東京本願寺
●二男 大谷暢順    離脱して浄土真宗大谷本願寺派/東山浄苑
●三男 大谷暢顕    東本願寺25代門首 最終的に後継者に選ばれる
●四男 大谷暢道/光道 離脱して嵯峨本願寺

●長女 大谷美都子   音大教授大賀寛と結婚
●二女 大谷須美子   オーミケンシ副社長夏川浩と結婚

※30年に渡るお東騒動により4派に分裂、4人の息子はそれぞれ自らを25代と名乗っている


もともと東本願寺大谷家は、明治時代に伯爵を与えられた祖父/22代大谷光瑩、そして父/23代大谷光演と放蕩が続き、これに反発して改革派が生まれた経緯がある。
23代大谷光演が破産宣告した際には、条件として大谷家の財産がほとんどが東本願寺の所有になった。

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『明教雑誌』明治時代

何をか大谷派本願寺の腐敗という。
一派門徒勿論しかりと、まず法主しかり、執事しかり。
妻妾常に左右にはべり、一夜の豪遊に幾百の黄金を消散し、あるいは須磨の別邸に管弦声裡治野の酔夢を貪る者は、これそれ現代の大谷光瑩法主にあらずや。
無謀の口実に信徒の膏血を絞り、法主を優化して内示を紊乱し、一宗を挙げて咄々たる日本仏教界の大怪事を演出せしむる。
大谷光瑩法主、渥美契縁執事と言えば、日本仏教界不道徳を意味する代名詞たるものにあらざるなきか。
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『牧野伸顕日記』内大臣※当時は宮内大臣

1925年2月5日
京都府知事池田宏来訪。
東本願寺大谷光演洋行、容易ならざる纏綿せる内情の陳述なり。
要するに岡本米蔵なる者の魂胆に基因せる企図なり。
文部大臣岡田良平よほど決心、実現阻止に努むる覚悟の趣。

1925年3月30日
上京を促したるにつき、東本願寺の大谷光演を訪問。
宗門の本山として華族以上の関係なること、皇族方御心配のこと、累を皇室に及ぼすこと、交友のよろしからざることを指摘して戒告したるに、やや響きはありたるごとく感じたるも真意はわからず、さりながら近づける人については注意すべし、洋行のことは安定するまで見合すべし、営業事業も中止すべしとの意味は陳述あり。
大谷氏は談示終わるを待ち、早々辞去したり。
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東本願寺の除籍の公告 1959年

※大谷瑩俊は21代大谷光勝の孫

『大谷瑩俊準連枝の処置について』
本人については従来とかくの風評があり、しばしば注意を喚起したるにもかかわらず、準連枝たるの地位を悪用して建築業者等と結んで数次にわたる詐欺を行い、御裏方の印鑑まで偽造行使するなど僧分としてあるまじき行為が重なり、被害者から告発を受けるに至った。
宗門の体面を汚し、大谷一門の名誉を損なうこと甚だしいものがあるので、処分に付したものである。
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しかし大谷家側はその後も財産は自分たちの物であるという意識を持ったままだった。
大谷家による財産の処分を今後は未然に防ぎたい改革派は、いずれは大谷家から管長職を切り離そうと考えていたため、取り上げられるぐらいならと大谷家側が先手を打って管長職を子に譲ろうとしたと考えられる。

長年大谷家べったりだった内局も年々改革色を強めてゆき、ついに1961年改革派の訓覇信雄が宗務総長に選出される。
訓覇内局は組織の抜本的な改革を行い、13部からなる部門制に改めた。
これに伴い大谷家に近い儀式関係の式務局と大谷家の宮内庁にあたる内事局が部に格下げされた。

末寺から本山には様々な願い事が上がってくる。
願い事を叶える度に、末寺から本山に上がる金の1割が内事局に入ることになっていた。
また末寺住職に率いられて上山する門徒は、法主との面会『お会い』のために内事を訪れる時に相当の礼金を包むことになっていた。
それが絶たれてゆくことに不満と苛立ちを募らせたのは長男光紹であった。

長男光紹は二回の婚約解消を経験している。

一度目は昭和天皇の娘・孝宮和子内親王。
1949年に婚約が各紙で報じられたが、遺伝学的見地からイトコ結婚を避けたい皇室側が断った。
1950年和子内親王は元公爵家鷹司平通と結婚する。
長男光紹は1950年アメリカに留学し、4年後の1954年に帰国する。


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読売新聞 1949年11月23日

『孝宮様の御内約順調に進む 選ばれた東本願寺の大谷光紹氏』
「孝宮和子内親王の御配偶については鈴木侍従次長を中心に選考が進められていたが、東本願寺法主大谷光暢氏の長男大谷光紹氏との間に御内約が順調に進んでいる旨、光暢氏により初めて明らかにされた」
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1949年11月30日
昭和天皇◆新聞を見て驚いて、そんなに進んだのかと思った。
田島長官◆他の新聞は書きませず、読売新聞記者が大きく扱ったと存じますが、新聞ほど進んだ訳ではありません。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従

1949年11月29日
田島長官・林次長・三谷侍従長・鈴木侍従次長・名取女官・予で、東本願寺問題〔孝宮和子内親王&大谷光紹の縁談〕を論議する。

1949年12月5日
田島長官・林宮次長・三谷侍従長・八田・塚原・名取女官・予で、孝宮和子内親王御結婚問題を論議する。
要するに血族結婚は不可ということになり、さらにその他の点から言っても不可ということになる。
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『田島道治 拝謁記』宮内庁長官

1953年5月20日
昭和天皇◆皇太子妃の問題が『婦人クラブ』という雑誌に写真入りで出てるよ。
田島長官◆何人ぐらい出ておりますか。
昭和天皇◆さー、はっきりは知らんが10人ぐらいは出てる。
久邇さん〔久邇宮通子女王と久邇宮英子女王姉妹・皇太子(平成天皇)のイトコ〕なんかも出てるが、あれは大谷のこの前の関係もあり到底ダメな話だ。
〔大谷光紹&孝宮和子内親王のイトコ同士〕
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大谷家はあきらめず続けて、昭和天皇の娘・順宮厚子内親王、昭和天皇の娘・清宮貴子内親王を望む。
皇室側はどちらも和子内親王と同じ理由で断り、表面化しなかった。


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『田島道治 拝謁記』宮内庁長官

1950年10月10日
昭和天皇◆順ちゃん〔順宮厚子内親王〕の意思は今結婚にないが、大谷光紹への口実が留学三年ということゆえ、帰朝前に結婚する方が賢明だ。

1950年11月7日
田島長官◆順宮厚子内親王の御縁談、新陣容で間違いなく慎重に見てやってまいりますつもりでおります。
昭和天皇◆大谷光紹への口上から、大谷の帰国せぬ内というのは頬かぶりではあるが。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長※当時は侍従

1955年9月13日
東本願寺の大谷智子さん〔香淳皇后の妹〕が大谷光紹に清宮貴子内親王をいただきたいと申し出た由。
もちろんお断りであるが、この前の縁談〔大谷光紹&孝宮和子内親王〕からこういうことは出てこないはずだということになり、稲田侍従次長が元侍従次長鈴木一さんの所へ聞きに行くことになる。
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二度目は智子裏方の実家久邇宮家から持ち込まれた縁談で、田安徳川達成伯爵の娘徳川文子。
1955年に帝国ホテルで見合いののち婚約、大学2年生だった令嬢の卒業を待って結婚式が行われる予定であった。
1957年には長男光紹みずから設計した新居が1,500万円で建てられた。
しかし長男光紹が秘かに婚約を破棄していたことが発覚、自分の側近を相手の家に遣わして白紙を伝えており、内局はもちろん両親も知らなかった。
大谷家は慌てて取りなしたが、相手の家族は激怒、復縁は不可能であった。


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毎日新聞 1955年12月11日
「東本願寺 光紹師の新裏方 徳川文子さんに決まる」
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一度目の婚約は皇室側から断ったが、二度目の婚約ははっきりと長男光紹が破棄している。
智子裏方は両親に相談もなしに非常識な破談を行った長男光紹に対して、強いわだかまりを抱くようになった。

お東騒動が10年・20年と続く過程で、保守派・改革派ともに光暢法主に引退していただき、長男光紹を新しい法主にしてまとめようという案は何度も出たが、積極的案というより消去法的案でしかなかった。
四男暢道に側近の僧侶武内克麿や側近の不動産業者三池新二が付いていたように、長男光紹にも大物右翼や宗教家たちがバックに付いていたからである。





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『入江相政日記』侍従長

1971年1月5日
皇后様から新嘗祭の簡素化はいかんとまた来た。
小一時間かけてまた申し上げる。
東本願寺と吹原産業のことも申し上げる
〔香淳皇后の妹大谷智子の「お東騒動」の一つ〕
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『入江相政日記』侍従長

1972年3月13日
東本願寺二男大谷暢順氏来訪。
例の吹原の件〔お東騒動の一部〕

1972年6月20日
東本願寺大谷夫妻〔妻大谷智子は香淳皇后の妹〕両殿下に御対面につき、北白川女官長から吹原の件〔お東騒動の一部〕 念のため申し上げてもらう。

1972年10月2日
宇佐美宮内庁長官から東本願寺大谷智子裏方のこと、まったくイヤな話である。
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『入江相政日記』侍従長

1976年3月11日
宇佐美宮内庁長官と東本願寺〔香淳皇后の妹大谷智子の嫁ぎ先〕の内紛〔お東騒動〕のこと。
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『入江相政日記』侍従長

1977年6月7日
御上から、東本願寺のこと〔お東騒動〕邦昭もいないし〔久邇家当主久邇邦昭は海外赴任中〕こちらのことをよく承知している者として弘世現〔久邇邦昭の舅〕には頼めまいかとのこと。
弘世も困りましょうし、やはり良い弁護士を探すことが先決なれど、いずれ宇佐美宮内庁長官と相談して申し上げるとお答えする。

1977年6月28日
侍従次長徳川義寛が東伏見邦英さん〔久邇宮邦英王・東本願寺大谷智子の弟〕に会うことを申し上げたところ、
御上は「宇佐美長官が弘世に言ったが、邦英さんにただ会うだけでは駄目で、宇佐美長官はどうもそこが甘い」との仰せ。
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『入江相政日記』侍従長

1978年1月12日
東本願寺のこと〔お東騒動〕昨日弘世現氏〔久邇家当主久邇邦昭の舅〕から聞いた通りのことを御上に申し上げる。

1978年6月19日
東本願寺二男大谷暢順氏来訪。
「父によく言うと『わかった』と言ってくれるが、そこへ母と四男大谷暢道が来るとすっかり元に戻る」とのこと。

1978年7月26日
侍従次長徳川義寛が弘世氏に会った由。
宗門の大事、本来文部省のことながらそれではとても駄目につき、やはり政界の要人がその地位を離れて事に当ってもらった方がいいとのこと。

1978年8月10日
富田宮内庁長官に那須御用邸から言ってきた大谷智子裏方〔香淳皇后の妹〕の電話の件報告。
北白川女官長にも話しておいたこと、電話の録音でもされれば目も当てられないということ話す。
同感。
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『入江相政日記』侍従長

1979年1月12日
富田宮内庁長官から、東本願寺のこと〔お東騒動〕で元宮内次官白根松介が田中角栄の所へ行ったとか。
驚くべきこと。

1979年1月15日
政治家江崎真澄が富田宮内庁長官に「東本願寺のことで白根松介が田中角栄に頼み込んだ」と言ってきた件で、白根さんを訪問。
いろいろ例を挙げて話したら、「よくわかった。さっそく中山理■に言う」とのこと。
相変わらず軽率なことである。
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『入江相政日記』侍従長

1980年7月31日
弁護士内藤頼博来訪。〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕
東本願寺の件〔お東騒動〕法主と四男大谷暢道を起訴することになるかもしれないとのこと。
法主の象徴化を言っておく。

1980年8月15日
内藤君の東本願寺の件、御上も大変お喜びだった。
内藤に、御上もその通りでいいと思召すということを言ってくれてもいいとの仰せ。

1980年9月17日
内藤君。
四男大谷暢道いよいよ起訴らしい。
その機会に法主夫妻に説くとのこと。
大賛成。

1980年9月22日
内藤君。
四男大谷暢道の逮捕状、続いて起訴の見込みのこと。
内藤君が大谷智子裏方〔香淳皇后の妹〕に会えるよう徳川侍従次長から電話することになる。

1980年9月25日
内藤君。
東本願寺の件、四男大谷暢道・大谷智子裏方に反省なし。
なんとかして宗門と同じ土俵に乗せたいと言う。

1980年9月29日
内藤君。
四男大谷暢道の起訴の他なしとのこと。
「起訴有罪として法主夫妻を守った方がよし」と言っておく。

1980年11月5日
内藤君。
東本願寺問題、いよいよ解決の見通しがついてきたとのこと。

1980年12月20日
内藤君。
東本願寺は片づいた由。
戦後処理はなかなか大変だがとのこと。
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『入江相政日記』侍従長

1981年1月26日
御上から「東本願寺のこと〔お東騒動〕やはり弁護士内藤頼博〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕にやってもらい、土俵ができてから親族が出た方がよかろう」との仰せ。

1981年2月20日
富田宮内庁長官に、内藤君から聞いた東本願寺のこと、宗門と法主、法主と新門、新門と宗門、そのすべてがいけないことを話す。
御上にも東本願寺のこと申し上げる。
「壬申の乱のようだ」との仰せ。

1981年4月23日
弁護士内藤頼博来訪。〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕
東本願寺の憲法改正について、法主夫妻は四男大谷暢道次第で反対。
利害をいくら説いても聞かぬ由。
長男大谷光紹はまた別の人に担がれているとか。
困った連中である。

1981年10月15日〔滋賀京都巡幸〕
京都に入ってから鴨川を渡り旧久邇邸を御覧に入れたが、肝心の皇后様大した御感興なし。
でもこれで御上のお望みは通った。
東本願寺の夫妻〔香淳皇后の妹夫妻〕返事もせず来もせずひどいもの。

1981年12月22日
御上に、内藤君からの四男大谷暢道を宗門の裁判にかけるという電話の件について申し上げる。
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『入江相政日記』昭和天皇の侍従長

1982年3月3日
富田宮内庁長官と、御上から東本願寺のこと〔お東騒動〕御心配になっていることを弁護士内藤頼博〔旧信州高遠藩主内藤子爵家15代当主・元高等裁判所長官〕に言ってもいいとの仰せについて、大谷智子裏方〔香淳皇后の妹〕から四男大谷暢道・武内克麿〔四男暢道側近の僧侶〕と漏れる恐れあり、御上が泥沼にお入りの恐れありと思う件。
富田宮内庁長官も同感、内藤君も同感。

1982年3月10日
御上より、元宮内庁長官田島道治が久邇宮朝融王・徳川喜好・松平直鎮の神がかりをとめてくれたときのいきさつは、東本願寺問題の参考になりはしないかとの仰せ。

1982年3月12日
久邇宮朝融王の神がかりを田島元宮内庁長官が取りしずめたのを参考にして東本願寺が何とかなるまいかとの御上の仰せにつき侍従次長徳川義寛と相談。
今度のとはまったく性質が違うし、内藤君が一生懸命やっているから、もうしばらく様子を御覧になっていただきたいと申し上げる。

1982年3月16日
御上が、久邇宮朝融王を新興宗教から話したのは大協石油社長高橋真男が一緒に食事をしたりして懇談したから、東本願寺にも内藤の他にそのような人を見つけなければならないとおっしゃる。
「そんな人みつかりません」と申し上げたら、
「なんとしても見つけなければ」とおっしゃる。
「東伏見邦英さん〔香淳皇后の弟〕さえお近づきになれないのだから」と申し上げたら、おわかりになった。

1982年5月29日
内藤君。
東本願寺大谷智子裏方が内藤君をとやかく言っておられる。
皇族ならびにその出身の方々の共通のところ。
困ったものである。
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<主要人物>


■夫 大谷光暢 東本願寺24代法主
1903-1993 90歳没


■妻 久邇宮智子女王 久邇宮邦彦王の娘・姉は香淳皇后
1906-1989 83歳没


●長男 大谷光紹    離脱して浄土真宗東本願寺派/東京本願寺
●二男 大谷暢順    離脱して浄土真宗大谷本願寺派/東山浄苑
●三男 大谷暢顕    東本願寺25代門首 最終的に後継者に選ばれる
●四男 大谷暢道/光道 離脱して嵯峨本願寺

●長女 大谷美都子   音大教授大賀寛と結婚
●二女 大谷須美子   オーミケンシ副社長夏川浩と結婚

※30年に渡るお東騒動により4派に分裂、4人の息子はそれぞれ自らを25代と名乗っている


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◆長男 大谷光紹 離脱して浄土真宗東本願寺派/東京本願寺
1925-1999 74歳没

*長男であったため新門(後継者)として育てられる

*京都大学文学部史学科卒業

1949年 昭和天皇の娘 孝宮和子内親王(イトコ)と婚約発表・天皇家側から解消
1950年 アメリカに留学
1954年 帰国
1955年 田安徳川達成伯爵の娘徳川文子と婚約発表・大谷家側から解消
1964年 結婚


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■妻 二条貴代子 真宗誠照寺二条秀淳の娘 
1940-2012 72歳没


●長男 大谷光見 長男家の後継者
●二男
●長女
●二女


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◆二男 大谷暢順 離脱して浄土真宗大谷本願寺派/東山浄苑
1929年生

*東京大学印度哲学梵文学科卒業

*演劇に興味があり、脚本家を志して文学座に席を置いたこともある


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■前妻 藤原綾乃 藤原信一の娘 熟年離婚
1947年生

●業成/光輪 二男家の後継者
●他不明


■後妻 暢順の随筆に「末の娘が生まれたとき私は80歳を過ぎていました」との記述あり

●女子
●他不明


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◆三男 暢顕 東本願寺25代門首(法主の名称は門首に変更された)
1930年生

*幼少時のハシカが原因で聾唖となる

*京都大学農学部に学ぶ

*東京に出て精密機械会社の設計技師となっていたが、お東騒動に関わっていなかったため最終的に後継者に選ばれる


■前妻 30代で結婚、1年で離婚


■後妻 奥村妙子 奥村政一の娘
1950年生


●子供ナシ・後継はイトコ大谷暢裕


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◆四男 暢道/光道 離脱して嵯峨本願寺
1945年生

*大阪大学基礎工学部制御工学科卒業

*伊藤忠に入社するも一年で退職
以降、両親の秘書的存在となる

*智子裏方は四男暢道を溺愛した。長男光紹と四男暢道は20歳離れている。
周囲は溺愛というより偏愛と見ており、このことがお東騒動の大きな原因となる。

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■妻  礼子 高校時代の同級生・京都の画材商の娘
1948年生


●三女 純子 四男家の後継者
●他不明


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浄土真宗大谷派は、東本願寺を本山とする末寺1万・門徒数1千万を擁する日本最大級の宗教教団である。
しかし、30年に渡るお東騒動により4派に分裂するに至った。
東本願寺では法主は「御上」とも呼ばれ、妻は「裏方」と呼ばれる。
また跡継ぎの長男は「新門」と呼ばれ、特別の扱いを受ける。

1969年光暢法主が「管長職を長男光紹に譲る」と独断で宣言、お東騒動の火ぶたが切られた。
反対する改革派に対して、光暢法主&智子裏方夫妻を中心に長男光紹・二男暢順・四男暢道が団結し保守派として対抗した。
長男光紹は過労で倒れて東京の病院に入院したのをきっかけに、住まいを京都→東京→鎌倉と移し東京本願寺に専念するようになり光暢法主&智子裏方と疎遠になってゆく。
二男暢順は本願寺維持財団の理事長に就任したのをきっかけに、東山浄苑に専念するようになり光暢法主&智子裏方と疎遠になってゆく。
残った四男暢道は光暢法主&智子裏方の秘書的存在として権力を持つようになり、側近の僧侶武内克麿・不動産業者三池新二と共に次々と財産処分や手形乱発で問題を起こし、騒動はエスカレートする。

16億円の財産を有する「ドル箱」東山浄苑を狙った四男暢道は、二男暢順に本願寺維持財団理事長の座を自分に譲れと迫る。
二男暢順がこれを拒否すると、今度は光暢法主から命令させる。
二男暢順がこれも拒否したため、光暢法主&智子裏方と二男暢順の関係は悪化する。
長男光紹もこのやり方に苦言を呈したため、光暢法主&智子裏方の不興を買ってしまう。
「東本願寺、骨肉の争い」と報道されるに至り、長男光紹と二男暢順は騒動から手を引いて静観するようになる。

やがて保守派と改革派の対立から、保守派にも見限られた法主派とその他派の対立に変わり、光暢法主&智子裏方と四男暢道は泥沼にはまり込んで行く。


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1978年
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1980年
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