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2025年

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<やめるにやめられぬ宮中服>

宮中服/宮廷服とは、1944年9月30日の皇室令「宮中における女子の通常服に関する件」で制定された皇室の婦人服。


<主要人物>

■皇太后 節子皇太后(貞明皇后)1951年5月17日死去

■長男  昭和天皇
■皇后  良子皇后(香淳皇后)

■二男  秩父宮雍仁親王
■妃   秩父宮勢津子妃  

■三男  高松宮宣仁親王
■妃   高松宮喜久子妃

■四男  三笠宮崇仁親王
■妃   三笠宮百合子妃


宮中服は女性皇族・女官など宮中側の女性に対する服装問題であったが、この前哨戦として招待されて宮中に参内する一般女性側の服装問題があった。

明治以降皇室は急速に西洋化を取り入れ、洋装が基準となった。
ゆえに招待客も男性はフォーマルな洋装・女性はフォーマルな洋装か袿袴と定められた。
しかし洋装も袿袴も高価だったため、無理な一般人は辞退するしかなかった。

宮内省の改革派は男性招待客の紋付羽織袴・女性招待客の白衿紋付も許可しようと試みるが、守旧派の反発が強くなかなか実現できなかった。
昭和天皇は関東大震災とそれによる不況から、招待客に和服を許す考えを示す。


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『岡部長景日記』文部大臣※当時は内大臣秘書官長

1930年4月2日
女子の白衿紋付の問題を協議し、結局男子にフロックコートを許さるる場合には女子にも白衿紋付を許さるることとして差し支えなかるべしということに決した。
「男子にはフロックコートのみを許されるに、女子には袿袴・洋装等を許され、その上日本服まで許さるることになるには、男子にも紋付を許されては如何との議論も出づべし」との説も出たが、
「男子のフロックコートはさほど用意困難にもあらず。社会にても男子のフロックコート・モーニングコート・燕尾服に女子の白衿紋付はなんら不釣合のことなく一般の風をなしおり」
また「英照皇太后は『日本の礼装は袴なるべからず。しかるに洋装は偶然これに合致するゆえ、日本にて礼装とするに適当なりとのお考えありたる旨』記録に存すれども、当時のローブモンタントは裾も長く広くして如何にも礼装然たれども、今日はフランス人といえどもローブモンタントとは如何なる服や知らぬぐらいにして、現に儀式課に問い合せありたることも珍しからず。今日のヴィジティングドレスは裾も端から膝を現して、宮中の礼装としてはあまり体裁の良きものにあらず。日本人の醜き脚を現すにおいては、いっそう不体裁にて外人の軽侮を招くべし」と陳弁した。
なお「賢所参拝の際も日本服にても如何にや」とのことは除外することとなった。

1930年4月10日
宗秩寮総裁仙石政敬が女子の白衿紋付問題につき異見あるとのことゆえ、ローブモンタントの図を持って懇々説明したるところ、仙石総裁も「絶対反対にはなく、ただ裾が開くようでは不体裁につき、袴の如き物を考案しては如何かとも考えらるるが、とにかく御思召に出でたることならば賛成すべし」として捺印された。

1930年4月11日
入江皇太后宮大夫を訪問し女子の白衿紋付問題を説明したが、入江皇太后宮大夫はやはり袴のことを考えおられしが、「御思召に出でたるは有り難きことなれども、臣下としては一も二もなく従うよりは、まずこれを実施しることとして従来より敬意を減ずることなかるべきやを篤と考慮したし。かつ日本髪ことに島田などにて参内することは甚だ好ましからざるにつき、髪はなるべく束髪に統一しては如何にや」等の意見を述べられ、結局「式部にて十分注意を加えられたし」との条件にて印を捺された。
長居は無用とただちに役所に戻った。

夕方入江皇太后宮大夫は手紙を寄こされ、「先刻の話の時に婦人の紋付の地色のことを申し忘れたが、日本の習慣上黒字に模様を染めたる物に限らるる方しかるべし」との御意見であった。
これは当初より考慮した問題であるが、晩餐会等のとき美しくするためには色物もよかろうというので黒に限定しなかったのである。

1930年5月21日
宮内次官関屋貞三郎が、「宮中に日本服を認むる件につき節子皇太后に伺ったところ、よほど進ませられぬ御気色であったが、しいて御反対されるというでもなく、『袴のようなものがあれば良いが』とのお仰せもあった。結局試みとしては和服を認めても良かるべしというぐらいの暗黙の御意ありたる由なれば、宮内大臣一木喜徳郎は『決定すべし』との意見であったが、如何なものか」と躊躇しておられる様子。

1930年5月25日
白衿紋付着用の件、いよいよ本日をもって御裁可があった。
宮殿に日本服を認めらるるは、明治以降これをもって嚆矢とす。
まことに有り難き思召である。

1930年6月19日
宮中にて婦人の日本服認められ、本日初めて実施された。
新任イタリア大使に御陪食仰せつけられ、当日はかねて問題となっていた日本服白衿紋付着用を初めて許されたので、侍従長鈴木貫太郎夫人・関屋次官夫人・叔母上〔幣原喜重郎夫人雅子〕・妻〔岡部長景夫人悦子〕はみなこれを着用して参内した。
変な形の洋服姿と異なり落ち着いて威儀も整うたように感じ、係員らの評判も非常に良い。
地色については、関屋次官夫人は色物説を主張されたようであったが他の3名はいずれも黒地で、やはり我々の目に慣れているせいか、黒地の方が適当のようである。
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女性招待客側の服装でこれだけもめてきたのであるから、皇族女性側の服装となるとさらにもめる。


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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

1950年6月22日
昭和天皇◆田島は知らぬから宮中服のできた沿革を話しておこう。
それは第一に高松宮妃の主唱でできたので、秩父宮妃などと研究の結果できた。
私はむしろ反対だったが、結局出た。
理由は洋服は英米的だというのである。
同盟の独伊も洋服だからと反駁したが、軍人などは何か国粋的なものという声を上げてた。
これに妃殿下方がまず乗ぜられた。
第二に繊維不足という時勢の声に対し、一反の反物ででき、上衣は丸帯でできるということであって、まあ結局承知したが、後でわかったことには、上衣は丸帯ではできず新調ということになり、東久邇の叔母さん〔東久邇宮聡子妃〕など「洋服以上に面倒だ」と私にこぼされるようになり、宮内大臣松平恒雄に上衣をやめることをいくら話してもなかなかやらず、通牒でやっと出したが、「戦時中」とあったゆえ、これを「当分」と変えようとしたが、松平は遂にやらず宮内大臣が石渡荘太郎になってこれが実現した。
上衣のヤメやら何やらで節子皇太后は結局今までお着にならず、お作りにならない。
なお高松宮妃の御自分的な理由は、今までの洋服裁縫師がいなくなったことであるが、これは私的な理由で私はどうも賛成できなかった。
その高松宮妃が戦後批評が出るとすぐ洋服を自由になさるのはどうかと思う。
秩父宮妃の、相当の研究の結果ゆえ不評でも何とか改良してという立場の方が理解できる。
フランス大使か誰かが三笠宮妃に「この服はなってない。パリでお作りなさい」と言ったこともあると聞いている。
私は宮中服には本来賛成してない。
和服が良いと思うが、節子皇太后が不様という訳で不賛成で宮中服となり、しかも節子皇太后は宮中服は召さぬ訳だ。
田島長官◆和服について併用の意味で節子皇太后のお許しを得て、和服の方向に行き得るかよく研究いたします。
昭和天皇◆節子皇太后のモンペも戦争の防空から来てて、戦時色はある。
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『高松宮日記』

※当時の総理大臣の年給は9,600円

1943年11月2日
秩父宮妃より新服装〔宮中服〕につき御説明申し上ぐ。
喜久子、着て御覧に入れる。
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『高松宮日記』

※当時の総理大臣の年給は9,600円

1944年8月11日
喜久子、良子皇后に例の新しき服装の件〔宮中服〕申し上ぐ。
昭和天皇は宮内大臣に新服には反対だと御興奮なりしも、松平宮相これは思召とも伺えず、主旨に御賛成とのことで進めておった云々と申し上げ好転せしめた由。
昭和天皇の御興奮も困ったものなり。
困ったぐらいでこの重大時局をどうしたらよいか、ほとほと安き時もなき思いなり。
どうしたらよいのだろう。

1944年8月21日
喜久子と大宮御所へ。
できたての唐衣〔宮中服の一種〕御覧に入る。

1944年10月6日
宮中婦人新装〔宮中服〕発表まで進んだので、秩父宮妃と喜久子とで宮内大臣・宮内次官・式部次長武井守成・式部課長坊城俊良・皇太后宮御用掛山中サダを呼んで慰労会食。
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『高松宮日記』

※当時の総理大臣の年給は9,600円

1946年1月19日
各妃殿下集まって、服装問題等御相談。
昨年制定の宮中服にみなさま文句多く、もともと国際式典等で日本婦人が洋服で出ることが、宝石で競争すれば負け、容姿でも負け、ファッションでも負けで、支那やタイやみなそれぞれの国の服装で出て来るのに対しても負けとなり話にならぬから、日本の服装をという考えに発端するのだが、みなさまは戦時中の洋服縫製難やモンペに対する洋服、それも宮中的なけばけばしさは着られぬと言ったことからのみ考えるので熱意も出てこぬ。
良子皇后に至ってはまったくただ洋服の情勢で考えていらっしゃる。
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元国際文化振興会理事長・加納久朗子爵から宮内庁長官田島道治への手紙

※当時の総理大臣の年給は30万円

1948年8月30日
国家の重大期に際し重大なる御任務に御就任以来、お骨折りのほど感謝に堪えませぬ。
甚だ畏れ多いことではありますが、皇室は内には国民の模範であり、外には国民の代表であられますので、御服装のことは特に御注意を願いたいのです。
ことに大礼服がなくなり軍服がなくなり勲章とか儀仗兵というものもなくなりましたので、皇室の方々の御服装のプレーンなものになりましただけそれだけスタイルに御注意が入用になりました。
つまり金モールや勲章でごまかしが効かなくなりました。
洋服というものは西洋人には立派に着られるが東洋人にはちゃんと着られぬかと言うに然らず、きちんと立派な服装をしていると世界人は尊敬します。
でありますから、日本人は西洋人以上に洋服について注意して着なくてはいけませぬ。
注意さえすればかえって西洋人に尊敬されます。

昭和天皇の御洋服を二回じかに拝し、御写真も度々拝しますが、御肩のパディングが足りませぬ。
また御袖のつけ方が悪く、御袖が短すぎます。
それゆえ御肩が落ちて貧弱に見えます。
おズボンが細くかつ短すぎます。
プレスが足りませぬ。
御外套は特に御肩のパディングを多くせぬと貧弱に見えます。

良子皇后の宮中服なるものはまったく不調和なものでおやめを願いたい。
御洋服を拝するに、ファンデーションをなすコルセットまたはガードルがお合いにならないのではないかと存じます。
ある御写真にはスカートから御下着が出ているものがあります。
御帽子には特に御注意願い、御顔にマッチした皇后型の基準を考え、それを流行に応じて少しずつモディファイする必要があります。
イギリスのメアリー皇太后や現クイーン常に決まった御顔に合った標準型を決めておられるから、常に上品でディグニファイしておられるのです。
この点、御苦心を願います。

節子皇太后のおズボンと旧式のハイヒールの御靴は御改正を願います。
節子皇太后らしい立派な上品な御洋服を、我々は拝したい。
要は国民が仰ぎ見て、御真似したいような御洋服を願いたいのです。
御経費は金モールや勲章や剣に比して安い物です。
この手紙を良子皇后・節子皇太后の侍従の方々にもお見せくださって、忠誠なる一国民である私の願いを諾いていただけば幸甚です。

1948年9月20日
先日高松宮妃より、高松宮妃と秩父宮妃とが御苦心のすえ宮中服なるものができたが、いまだに不満足なるゆえなんとかいたしたし、秩父宮夫妻がイギリス戴冠式に御列席の際、日本だけが Nation Costume がなかったことが動機となったという御話あり。
至極ごもっともなり。
田島長官の御意見の通り Stately にはできるだけ立派でありたしと言う点からすれば、将来の公式拝謁の際のごときはうんと立派な西陣織ブロケードか何かで派手に見えるように御工夫大切なるべく、打掛式のものがよいかと思う。
ただし小生の意見は公式・私式を問わず、昭和両陛下・節子皇太后のスタイルが悪いという点にあり。
十分テーラーの御選択を願いたい。
日本一の立派なスタイルに願いたいと言うにあり。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は48万円

1949年3月10日
田島長官◆大礼服にはモーニング、モーニングにはモーニング、すなわちモーニングのところは一段下がって背広でよしではないと思う。
ただし黒または紺の背広でちょっと略式は如何かとも思う。
昭和天皇◆高松宮妃婦人宮中服に熱心なる賛成、昭和天皇はあまり賛成でなかりしこと、上衣のありしこと、節子皇太后の御意見ありしこと、洋服が良いが手袋等如何と思うこと、自分の一案はモーニングに白衿紋付、徳川以来の一応完成風俗ゆえ良し、背広には洋服、大礼服には袿袴ということなるが、節子皇太后反対の様なり。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は72万円

1950年6月21日
田島長官◆法務院総裁殖田俊吉は宮中服や三笠宮の国民服をおやめいただきたいと申しておりましたが、殖田総裁は戦時と結びつけているようですが、あれは必ずしも戦争では。
昭和天皇◆いや、あれはやはり戦争を契機としてできたものであるから、戦争後今日やめたいというのは一理ある。
西洋人は悪いとは言わぬ。
マッカーサー夫人もいいと言う。
田島長官◆ヴァイニング夫人も悪いとは申しませぬ。
昭和天皇◆しかし私は和洋二本立てを考えてる。
将来大礼服でもできれば、その時は袿袴、モーニングには白衿紋付の和服、背広に対しては洋服という風に思ってるが、和服については節子皇太后が御反対ゆえ、なんとも言い出しかねる。
田島長官◆別に宮中服をやめとせずに、ある機会に和服をお召しになりましては如何でございましょうか。
昭和天皇◆それはよいだろう。
和服は新調を要するが、式服は一つでは困るが三つもあればよい。
それだけの予算は要るよ。
節子皇太后のモンペもやめていただきたい。
大宮御所の女官たちも御命令ゆえ困ってるとのことだ。

1950年7月30日
田島長官◆節子皇太后に「昭和天皇の御服装はずいぶん庶民的な背広がなんら疑問なくありますに対し、御婦人の宮中服は終始批評されおり、近来は不評が多く、苦慮し、いろいろ考えました。現在の御服装はそのままとして和服もお用いになりましたら如何と思いつきました次第で、一部には職業婦人の職業服との説もございまするが、現在一般階級の礼服となっておりますゆえ、色合・模様で上品にもできることゆえ、一度お用いになるは如何でございましょうか」と申し上げましたが、
和服については「帯というものがどうも」との仰せがありました。
「宮中服については、私がはじめ考えたのは今のと違い、良子皇后のでも制式が違っている」との御話で、
「正式のものは高松宮妃のところに写真がある」
「上衣のことでございますか」
「それ以外に縫製等が違う。また支那式のものもあった」
和服に必ずしも御賛成とも存じませぬでしたが、一応それで退下しました。

1950年7月31日
昭和天皇◆節子皇太后が宮中服を戦時服に関係ないということはどうも違う。
あれはどこまでも戦時中のもので、私はむしろ「戦争中は洋服で通し、戦後に考えたら」と言ったのだが、どうしても洋服は英米的だとてかれこれ言う考えが起ってあれができたが、ドイツもイタリアも洋服でおかしな話だが、皇室令で決めれば沙汰やみかと思って宮内大臣が松平恒雄の時に言ったが、それもついに皇室令で決まった訳だ。
これはどう言っても戦時的だ。
今これを廃止する声の起こるは当然。
正式の宮中服と違うという節子皇太后の御話は、袴の方のひだが少し多いこと、肩が少し洋服式なのを日本式としたこと、衿が少し違うこと、帯をやめたことの四つのようだが、これは良子が太って身体の都合上こうしたのだ。

1950年8月10日
田島長官◆節子皇太后が秩父宮妃に「下々のこと取り入れるに反対、下 上に倣う」との仰せありました由。
こえは上の御方が仰せになることではないと存じますが、田島の和服案に御賛成でないのと存じます。
昭和天皇◆明仁皇太子〔平成天皇〕・常陸宮・内親王みな良子の宮中服に反対で、良子は実に困ってる。
一般からも宮中服は評判が悪いしするから、これは至急なんとかしてくれぬか。

1950年8月15日
昭和天皇◆節子皇太后の「下が上に倣う」との仰せに矛盾の節子皇太后御行動がある。
例えば端午の行事・正月の御流れ・初荷のごとき2~3の事例に見ても、下のなすことをお取り入れのように思う。
御自分のモンペの御弁護のための御話ならずや。

1950年9月30日
田島長官◆事務主管の後はやはり入江相政がよろしいように存じます。
昭和天皇◆良子も是非いかぬと言ったものでもなしそれでもいいが、しかし入江は服装のことはどうも少し変であって、孝宮和子内親王の結婚とき振袖のことについて、女官名取と組んでどうも腑に落ちぬことがあり、宮中服についてもちょっと変な考えを持っているようだから、事務主管になってもよいが、服装の考えは修正してもらわんと困る。
入江は服装の問題、主として宮中服に関し、ヴァイニング夫人は賛成と言いながら内地ではそう広く言わず、マッカーサー夫人に聞いたところ、「外へは言わぬが賛成」とのことで、実際評判の左右にはならぬにもかかわらず、孝宮和子内親王が宮中服反対のことなどわかりそうなものを、漫然「ヴァイニング夫人などもよろしいと申しますから」とて宮中服をいいと言うのはどうもおかしい。
田島長官◆入江は国文の研究者でもあり女子服装のことが分らぬ訳はなく、今後は式部官長も侍従長も参画し、女官長もまた場合によりては田島も参加するようにして、御不満のないように致します。

1950年10月9日
昭和天皇◆和服のことだがねー。
節子皇太后御機嫌のおよろしい時にいま一度伺ったらどうだろう。
田島長官◆御機嫌のおよろしい時に今一度申し上げますることは結構でございまするが、必ず御賛意を承ることができるかどうかは疑問のように存じます。
むしろ実行遊ばす旨の念のためのお知らせということかと存じますから、それは適当の時に田島が伺いまして申し上げましょう。
だいたい良子皇后が和服を召しますのは、ただ今は来年正月をお考えでございましょうか。
昭和天皇◆外人謁見の時と思ってる。
正月は洋服なり宮中服なりにしたらと思ってる。
田島長官◆節子皇太后は「正式宮中服にしてみたところで、国民世論というのも少しおかしいが、一般の宮中服に対する不満が変わるわけではなし」との仰せゆえ、節子皇太后の正式と仰せにお変えになっても、宮中服は宮中服で評判に変りはありません。
(節子皇太后のお許し、せめて御黙認でもない限り御注文も遊ばさぬらしき御様子に拝せしゆえ)
田島長官◆染に時間もかかりますから御注文だけは遊ばしては如何。
(なお昭和天皇が正月にはお用い無き理由は)
昭和天皇◆正月は黒でやや地味にせねばならぬが、外人謁見のような時は色物でやや派手でもよいから。

田島より女官長と話し合いのお許しを得、二回話し合いの結果、私ども一同連絡不十分のことをお詫び致し、今後は十分注意しますゆえ、女官名取ハナ・侍従入江相政もすべて水にお流し願うことに話し合いましたところ、土曜日女官長来邸、良子皇后の水に流していただける旨を拝しました。
改めて連絡の不十分をお詫び申し上ぐ。

侍従次長鈴木一が退官に際し、「昭和天皇の服装問題にかれこれ仰せになることを御諌言的に申し上げしこと、高松宮らをよく御抱擁願いたしとの申し出のこと、ゴルフの問題のこと、順宮厚子内親王は浅野長愛へ御降嫁よろしかるべし」とのこと申し上げし由承る。
昭和天皇◆鈴木は辞めてよかった。
田島長官◆線が太いので場所によっては大いに使えると思いますが、侍従次長のような気を配る点は不適。

1950年12月18日
田島長官◆東久邇宮稔彦王もいろいろなことで宮内省のやり方を怨みひがんでいらしたらしいのが、昨夜はそんな御様子はありませんでした。
昭和天皇◆それは東久邇宮ばかりではない。
皇族さんは多少みなそうだ。
その一つの原因は節子皇太后の御厚遇が少し過ぎるからだと思う。
節子皇太后は少し程度の過ぎた場合には御同意もできぬし、また理に合わぬことを仰せの時には議論もせねばならぬ。

昭和天皇◆良子の和服の問題だがねー、呉服費も取ってくれたが、良子は節子皇太后のハッキリした御同意がないと恐ろしくて作れないらしい。
このことでは何でもなくても、他のことで復讐されるというような気持ちで心配して躊躇してる。
田島長官◆田島が何かの形でもっと明示的な御同意をいただけば結構ということでございますか。
昭和天皇◆そうだ。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は96万円

1951年2月5日
昭和天皇◆節子皇太后が前の式部長官武井守成のことをお褒めになるのはどういう理由からから私は知らぬが、宮中服を作る時に骨折ったことなどをお考えかもしれないが、宮中服は戦時型であり、また宮廷以外に用いられないことが民主的でないとの批評を買っていると思うのだが、節子皇太后はずいぶん宮中服のことを遊ばしたが、裳衣がダメだからという理由でなく、その前から一度もお召しにならないのでよくわからないのだ。
田島長官◆御服装の問題は難しゅうございますから、格別現状を変えず時には和服もお召しになり、
自然落ち着くところに落ち着きますことと存じますが、良子皇后が和服をお用いになりますことを田島より明らかに節子皇太后に申し上げまするのは好機でなければならぬと存じます。

★節子皇太后(貞明皇后)1951年5月17日死去

1951年5月29日
昭和天皇◆昨日の三笠宮の話は服装のことであって、宮中服のことなど一般的な私の考え方を話し、また照宮成子内親王の今度の宮中服のことはむしろ良子に聞くことで、何だか物の軽重がおかしい。
良子より女官長に言ってもいいような問題だ。
すぐ良子に聞いたら照宮成子内親王も宮中服に決まった。

1951年6月5日
昭和天皇◆昨日突然秩父宮妃と高松宮妃が来られて、高松宮妃は宮中服は失敗だったとの観念があるらしく、はっきりあれは間違いだったとの話はないが、秩父宮妃は別の態度で何か一新軌軸を出そうとしたもので、一朝一夕に廃すべきでなく、また戦時に関連したものでもないとのお考えが強く、とても強固だ。
それほど時局に影響ないならば、その時にも私は言ったのだが「戦争済んでから日本古来の伝統も考えてゆっくり新しいものを創造していいではないか」
それをあの際やったのは、何と言っても戦時色あるを免れぬと思う。
三笠宮なども「洋服は米英式だ」と言ってたような時代で、
私は「ドイツ式でないのか」と言ったことがある。
だからこの際 私の天皇服のように一時 人の目の見える所のみとして、世の批評を聞き、再検討・再出発すればよいので、そのつなぎに和服をやってみれば、またそれの批評も出よう。
秩父宮妃が宮中服成立の経緯につき、相当主張あることを物語りしゆえ、話が出るかもしれぬから参考に話す。
田島長官◆田島は節子皇太后に良子皇后和服の明瞭な同意を得るつもりでありましたのが御崩御ですが、昭和天皇の御趣意にも合しまするゆえ、和服をお始め願えばよいと存じます。
昭和天皇◆秩父宮妃が宮中服に執着強く、改良してモノにしたい意思が強いが、何か古い伝統のあるものは廃するに忍びぬことがある。
田島長官◆それはそうでありますが、宮中服はそういうものではありませぬ。
昭和天皇◆そうだよ。

1951年7月13日
昭和天皇◆菊栄親睦会で朝香宮鳩彦王と東久邇宮稔彦王がしきりに私にゴルフをやれとの御話。
「私は採集などをやってこれも運動ですから、まあやりません」と言った。
どうも今ゴルフというのは一部の人には何か贅沢のような感じを与えてよくないと思う。
稔彦王に那須御用邸のリンクのことを聞かれたから、「草ぼうぼう」だと言ったら、
「みなの行くリンクの方に出かけたら」という話であった。
葉山であまり人目に立つというに、そんな御話だった。
だいたい皇族さんの発言はあまり考えないことが少なくない。
宮中服でも熱心にやり出して、不評の時は自分らはさっそくやめて、矢面に当るのは我々だ。
こんな馬鹿らしいことはない。
ゴルフが第二の宮中服みたようになるのは私は御免だ。

1951年10月4日
田島長官◆吉田首相、宮中服はあまり好かぬらしく。
昭和天皇◆あれは誰も好かぬ。
秩父宮妃ぐらいだろう。

1951年11月1日
田島長官◆御用掛高木多都雄〔女性〕から「京都の大宮御所を東京へ移転できぬものか」との話がありましたが、「それは不可能かつ宮殿として理想的なものでもなく問題にならぬ」むね申しておきましたが、今度はまた「表から良子皇后の御洋服を御注文になるのだが品目を書いてくれとのことでしたが」との話でありましたゆえ、「むしろ昭和天皇の御思召で和服の問題があり、お金の準備も済んだ」と申しましたところ、和服はあまり賛成でなくむしろ宮中服がいいような口ぶりでありましたから、「なんと言っても宮中服は戦時服で、男の国民服が無くなった今日おかしい。和服もお用いになり、時には宮中服、時には御洋服という方向へ進みつつある」むねを話しておきました。
高木はなかなか意見を申し上げる人でありますようであります。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1952年1月25日
昭和天皇◆良子の服装の問題話したのだが、宮中服は一般的に評判は悪し、なんといっても戦時色ないとは言えぬゆえこの機会にやめるからそのつもりで。

1952年3月26日
田島長官◆御用掛高木多都雄〔女性〕が訪ねて参りまして良子皇后の御服装の話がありましたゆえ、従来昭和天皇の和服の御話・宮中服の御話などもしておきました。
高木は宮中服はあまり悪くない意見らしくございますが、従来の経緯を詳細話しておきました。
すなわち現状では宮中服を規則の上でおやめとも申さず、和服も洋服も御自由という事を申しておきました。
和服は100万円を御用意いたしましたが、洋服は一つ80万円もかかるというようなことで、これは御新調の用意はございませぬ。

1952年4月21日
田島道治◆東京新聞に宮内庁の官吏の頭が固く最近まで宮中服をお願いしてたが、最近洋服や和服とかになり結構だという記事がありましたが。
昭和天皇◆そうか。
服は悪いとは書いてないか。

1952年6月21日
田島長官◆イギリスの日本協会に昭和両陛下の写真を賜りたいというような意向が式部官長松平康昌までもたらされたようでありますが、良子皇后の御服装の問題がありますので、宮中服のはいかがと存じます。
昭和天皇◆私は新しく写真を撮るように言ってある。
私もモーニングより背広の方がいいと言ってある。
田島長官◆こういう所へ賜りますのはイギリス国王などは大礼服の方が多いそうでございますが、良子皇后は御和服でございますか御洋服でございますか。
昭和天皇◆宮中服はいかんので、和服でも洋服でもいい。
田島長官◆こういう場合お裾が長く引いたというような物がおよろしいのではないかと考えます。

1952年9月19日
田島長官◆服装がいろいろあって、秩父宮妃や高松宮妃などまた宮中服のようなものでも言い出されはせぬかというような気がして、私は秩父宮はお招きせん方がいいと決めた後であったので。

1952年10月24日
田島長官◆良子皇后の御和服に関し、宮中服についてあった批難のようなものは少しも聞きません。
またデザイナー田中千代の御洋服もわかりませぬながらをよろしいのではないかと思います。
一般にもよろしいとの評でございます。
着付けでもなんでも、人柄良ければやはり専門が結構と存じます。

1952年11月12日
田島長官◆昭和天皇が仰せになりまして以来時が経ちますが、良子皇后の御和服の問題も結局時が解決いたしますので、大変評判がよろしいようでございます。
昭和天皇◆『週刊朝日』に林なんとかいう作家〔平林たい子〕が、少しわけのわからぬ矛盾したような事を言ってる。
あれの議論だと宮中服の方がいいというようなことにもなる。
田島長官◆あれはちょっと変わった女でアカががっておりましょう。
それ以外の人はだいたいよろしい意見で、デザイナー田中千代の話も少し過ぎた点はありますが、だいたいよろしいようでございます。
また御洋服も結構とのことであります。
宝石類になりましてはとうてい及びませんが、御和服でありますれば予算の点などは少しぐらい超過いたしましてもどうかなると存じます。
田島拝命の時マイナスになっておりました固有資産の方も増加いたしておりますゆえ、あまり予算に御束縛なく、どうしても必要な時は。
昭和天皇◆あの週刊のいい意味のオシャレか。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1953年1月14日
田島長官◆逆コース的な批判も考える必要ありまするのと経費の問題もありますので、モーニングに代る黒背広というようなことも考える必要あるかと存じますが。
昭和天皇◆大礼服となっても今の天皇服を少し工夫すればと思うが。
田島長官◆昭和天皇御一人ならば何でもありませぬが、宮内官がこれに準ずるとなりました場合に自費では不可能で、備品となりますると予算の点がいかがかと存じます。
燕尾服でも同様でありますが。
昭和天皇◆経費の点、宮内官の分も考えねばならぬ。
田島長官◆今日の東京新聞に宮中服の問題がちょっと出ておりましたが、良子皇后がお正月和服でおいでになり今後あらゆる式に和服と考え込んでいた人が、洋服の喪服の知識なしに申しておるのでありますが、これもは自分の知識なき独善論であります。

1952年1月24日
田島長官◆良子皇后の御服装でございますが、時には和服なり時には洋服なりとなりまするかと存じますが、一部にはまだ宮中服の論も残っておりまするが、良子皇后とお話し合い願いたく存じます。

1952年3月25日
昭和天皇◆松平信子だがねー、信子は良い点もたくさんあるがいかぬ点もあるので、それは誰か若い人でその欠点を補う人を付けたらいいのではないかと思う。
信子をどうかと思った一例は、節子皇太后に宮中服のことをよく伝達してくれなかったことだ。
これは松平恒雄〔元宮内大臣〕と信子〔恒雄の妻〕の連絡が悪かったためかもしれん。
また信子が私の気持がわかってても、節子皇太后への申し上げようがいけなかったのかどちらか知らぬが。
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田島道治『拝謁記』宮内庁長官

※当時の総理大臣の年給は132万円

1953年6月22日
昭和天皇◆高松宮妃もヴァイニング夫人の時に良子に先んじて英語を習い、またじきに辞めてしまうとか、秩父宮が私にゴルフを勧め、それではとやりだすと御自分は飽きてやめておしまいになる。
秩父宮妃も高松宮妃と一緒に宮中服をお作りになるに熱心でいて、評判が悪くなると一緒になって悪口を言い、そして御自分は和服を着るというように、飽きやすくて人より先じたがったりなさるから、どうもそういう点が…。
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1945年 三笠宮夫妻 宮中服の百合子妃
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宮中服 左から 三笠宮百合子妃・高松宮喜久子妃・香淳皇后
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倉富日記 大正13年10月03日

入江貫一
仙石政敬の依頼により大木遠吉が武井守正に仙石に面会する紹介を為し、武井は「仙石は如何なる資格にて面会を求るや」を問い、「仙石は久邇宮家の親族の総代の資格なり」と言い、武井も面会する事は承知しおる趣なり。

松平慶民
仙石政敬の依頼にて大木遠吉が酒井家にて、酒井家相談人武井守正・三上参次・古市公威に面会し、
大木は「此節の事は久邇宮家が重々悪し。しかしなにぶん皇室にも関係する事なるゆえ穏便に済む様尽力しくれよ。またこの事につき仙石が諸君に面会したしと言いおるにつき、面会しくれよ」と言い、大木は酒井家の方より辞退しくれよと言う様なる事は一言も言わずして去りたる由。その後酒井家の相談人は「仙石が久邇宮家の名代として来るならば談を進めるべきも、一個の仙石として来るならば談を拒絶すべし」という事に決し、
三上は「京都に旅行する事となりおれり。自分はたとえ久邇宮家の方より解約を申し込まれても約束を遂行すべしとの意見にて今日もこれを変ぜず。しかし自分の不在中決したる事には苦情を言わず。むしろ自分は旅行する方好都合ならん」と言いおりたる由なり。その次第は武井守成よりこれを話し、自分より関屋に告げたり。
関屋ももはや徳川の手にて効を奏ぜざる事は見極めおる模様なり。関屋は「これまでは幾分にても徳川を助くるつもりにて大木らにも話たれども、この上はもはや何事も手を出さず徳川が諦むるを待つ方がよろしからん」と言いおりたり。
牧野や徳川が久邇宮家の面目を損せざる様にと思い、強いて酒井家の方より解約せしめんとするも、もはや内情は一般に知りおるにつき、酒井家より辞退せしむれば、皇族の権力をもって酒井家を圧迫したりと思うだけにて、少しも久邇宮家の面目を保つことを得ざるのみならず、かえって罪を重ねるだけの事なり。
牧野が始めより自らその局に当り、酒井家に対して事情を打ち明け諒解を求め、菊子病気等の事由にて辞退しくれよと言いたらば、あるいは出来たる事ならんと思う。しかるに牧野は表面は婚約遂行の意見を述べ、裏面には徳川を使い、酒井家の方のみに責任を負わしめんとしたるはあまりに勝手なり。

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倉富日記 大正13年10月06日

関屋貞三郎
朝融王問題は徳川の力にては少しも発展せず。先日大木遠吉より「何事に関わらず援助すべし」と言うにつき、徳川に大木の事を話したれども、徳川は「水野に依頼しおるゆえこの上大木を加うるは面白からず」と言えり。
しかるに仙石は久邇宮家の親族なる故をもって大木に依頼し、大木は酒井家の相談人に面会し、大木の意見を述べたるに、相談人は「誰の依頼にて来りたるや」を問い、大木は仙石の依頼なる旨を答えたるところ、相談人らは「しからば直接仙石に面談すべし」と言う。
武井守成より酒井家にて相談会を開き酒井家の方より婚約を辞退する事はせざる旨の決議を為したる旨を聞き、その旨を徳川に告げたるも、徳川は「酒井家にて相談会を開くはずなし」と言い張りたり。先夜は徳川の家職より「いよいよ解決する事と為りたるゆえ安心しくれよ」との電話まで掛けたり。徳川は何によりて解決を信じおるや分からざる。

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倉富日記 大正13年10月07日

西園寺八郎
父西園寺公望は朝融王問題につき非常に強硬なる意見を有し、久邇宮にワガママを言わしむべからずと言いおる

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倉富日記 大正13年10月10日

新聞に『朝融王の婚約問題は、水野・徳川・酒井・仙石が某所に会合し円満に解決したるならんと思う』旨を記載しおれり。

入江貫一
今日の新聞に朝融王の婚約問題解決したるべき旨を掲載しおるとの事なるも、
武井守成の談にては解決しそうには思われず。
今朝宮内大臣が西園寺公望に面会せられたるゆえ、いよいよ宮内大臣が決心する時期となりたる事とならん。

松平慶民
新聞に仙石も会見したる様に書きおれども、仙石は手を引きたるはずにつき、これは事実にあらざるならん。
関屋に徳川より何か報知ありたるやを問いたるに、何も報知なしと言いおりたり。

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倉富日記 大正13年10月13日

松平◆昨日徳川が酒井を訪いたる時、酒井守正が行きたるところ、酒井は『宗秩寮総裁たる徳川より久邇宮の事情を聞き、菊子の婚約を辞退する』旨を書したる書面を出し、これを承認しくれよとの事なりしが、
武井は熟慮すべき旨を告げて帰宅し、今朝守成を酒井家に遣し、「意見を聞くとの事ならば言うべき事あるも、主人が既に決意してこれを承認せよとの事なれば、今さら何も言うべき所なき」旨を告げしめ、すぐに葉山に行きたる趣なり。相談人の内にては星野錫のみが徳川と同時に酒井の家に行きたりとの事なるが、星野は如何なる態度を取りたるやは分からず。酒井は風評の如く菊子と私たる事は絶対に無きも、ずいぶん遊びたる事はあるにつき、徳川は何か酒井の弱点を押えてこれを承諾せしめたる様の事なるべき旨守成は話おりたり。これにて段落は着く様なるも、徳川も牧野もすましておりてよろしきものなるべきや。
倉富◆宮内大臣は表面婚約遂行を主張しおるに、宗秩寮総裁が反対の事を周旋したるは不都合の様松平◆先日拝謁したる時、この事に関する御話ありたるにつき、大略申し上げたるところ、「嫌になりたるものを強いて遂行せしむるは無理なり。もし宮内大臣が側室を置く事を承認するならば婚約を遂行する方がよろしなるも、事実は大臣が依頼しおる事につきそれにてよろしからん。しかるにこの事を貞明皇后に言上したる時、皇后陛下より万一事情を御尋ねありたらば困る事はなかるべきや。
きも、さもなくして遂行するは無理なる事なり」との御話あり。これは案外に考えたる事なり。左の如き御話ありたるにつき、格別面倒なる事の御伺はなからんと思う。

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倉富日記 大正13年10月15日

倉富◆朝融王の事は酒井家より辞退する事になる様に聞きおりたるが、その通りなりたるべきや。
入江◆いまだ運ばざるべし。宮内大臣は「確定はせざれども、大概まとまるならん」と言いおれり。
徳川より両三日待ちくれよと言いたりとの事なり。
倉富◆宮内大臣は酒井より辞退する趣意を書きたる書面に宗秩寮総裁の名義を出す事は困ると言いたる事を聞きおるが、総裁の名義を用いざる事としてはこの話は進まざる事とならん。
入江◆しかり。

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倉富日記 大正13年10月18日

松平◆朝融王問題はその後少しも話を聞かず。徳川の方は今日となりてはもはや久邇宮家または宮内大臣に対する義理というより、自己の面目上何としても目的を達せざればならぬという様の考えにて、言わば徳川家の存亡問題とでも思いおるならん。

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倉富日記 大正13年10月24日

伊東巳代治
朝融王の事件は如何なる事なりや。
倉富◆朝融王が嫌になられたる様なり。
伊東◆しからば酒井家の方に弱点ある訳にはあらざるや。
倉富◆その風評は無きにあらざるも、確かなる事にあらず。久邇宮家にてもその事は言われざる様なり。
伊東◆それならば酒井家の方は気の毒の訳にあらずや。
倉富◆その通りなり。酒井家の方より辞退せしむる事はよほど無理なる事と思う。
伊東◆正式に勅許ありおる事にはあらざるならん。
倉富◆正式の勅許は経ておらず。内伺だけなる趣なり。
伊東◆内伺は済みおるや。いずれにしても物議を醸す事ならん。
良子女王の問題にては邦彦王もよほど苦心せられたるにつき、充分の同情あるべきはずにあらずや。
倉富◆そのはずなるも、しからざる様なり。
伊東◆朝融王は如何なる方なりや。
倉富◆下情には通じおらるる様なり。初めは評判よろしき方なりしが、その後は必ずしもしからざる様なり。
伊東◆しかるか。

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倉富日記 大正13年10月30日

宮内官僚山田益彦
徳川の談にては、酒井は牧野が久邇宮家に伺候して伺いたる近状『朝融王が菊子を嫌いおらるるも久邇宮家の方よりこれを断るる訳にもいかず、さりとて婚約を遂行して結果が悪しく、久邇宮家としてはその処置に困りおらるる事情』を徳川より聞き恐懼に堪えず。
辞退したる旨の書面を久邇宮家に出し、久邇宮家よりもこれに対する書面を出され、その上にて邦彦王より酒井を召され懇篤なる御言葉ある事となりおり、昨日午前中には酒井家の相談人も承諾する順序となりおるにつき、その事がまとまれば徳川は午後より宮内省に出勤する予定なり。

松平
昨日の徳川の談は酒井より本日の相談会にて全会一致にて辞退の事を可決したる旨を明日自分に通知するにつき、明日午後宮内省に出勤し宮内大臣の指揮を受くる事とすべしと言えり。しかるに本日正午を過ぎても音沙汰なきにつき徳川へ電話にて問いたるところ、今日は都合により出勤せざる旨を通知し来れり。
左の次第につき武井守成へ電話をかけ「酒井家の相談会ありたりや」と言いたるところ、「何事もなし」と言い、「相談会を開く通知もなし」と言いたり。
今朝来新聞記者が数人写真機を携帯して来りおり、徳川の出勤を待ちおれり。

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倉富日記 大正13年11月04日

国分三亥
朝融王問題いまだ解決せず、困る
倉富◆実に分からず。もはや疾く解決するはずなるにあらずや。先日徳川は予の宅にも来り、いよいよ解決する旨を告げて去りたり。
国分◆本月01日徳川より自分を召い「酒井家の相談人武井が反対意見を為しおりたるも、これもいよいよ同意したるにつき、この上は形式的な相談会を開き、その上にて酒井より辞退の旨を申し出て、自分より邦彦王にこれを言上する事となる順序なり」と言いたり。
倉富◆武井が承諾したりと言うはなお行き違いある様なること、この事については久邇宮家にて幾分の責任を取らるる方かえって物議を少なくするにはあらざるやと思うこと。
国分◆今後新聞にて菊子の節操問題を書く様の事ありはせざるかと心配しおる。

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倉富日記 大正13年11月08日

倉富&関屋&徳川&酒巻&松平&山田

徳川頼倫の家に行く。徳川より朝融王婚約解除の事につき、これまで徳川が周旋したる概略を説く。
婚約は酒井家より辞退する事と為りおるが、辞退の理由として、酒井は宗秩寮総裁徳川頼倫より久邇宮の近状を聞き、この結婚の将来を慮り、辞退する旨を新聞に公表することを望み、宮内大臣は「酒井家より久邇宮家に提出する覚書にはその旨を記載しても妨なけれども、新聞に公表する事は承知し難し」と言えり。
よって宮内大臣が帰京する前、如何なる形式にて発表するか、その文案を作り置きたしとの事にて、
酒巻、その主意にて酒井家より発表する物・久邇宮家より発表する物・宮内省より発表する物3通を作りこれを修正して成案と為したり。
関屋は宮内省より発表する文案には今少し事実を詳記する方よろしくはなきやと言う。
予、宮内大臣が宗秩寮総裁の周旋を認むるならばもちろんこれを詳記する必要あり。しかれども酒井家は久邇宮家の近状を聞きて婚約を辞退し、久邇宮家はその辞退を承諾して宮内大臣に内伺取消方申し出られたる形式となる以上は、宮内省はこれに関する事実を云々すべき理由なし。故に宮内省はその手続きを了したる旨を発表すればそれにて充分なりと言い、決定せり。

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倉富日記 大正13年12月04日

国分三亥
倉富◆皇太子御使として侍従長入江為守が久邇宮家に行きたる事につき、邦彦王より何か御話はなきや。
国分◆野村礼譲が「入江が来邸したるが」と申し上げたるところ、邦彦王はよほど不機嫌なりしとの事なり。

入江が御使として邦彦王に口上覚書を交わしたる趣意は『せっかく御内意まで伺いて取り結びたる婚約を解くに至りたるは遺憾の事なり。今後は万事一層慎重にする事を望む』とのことなりし由。

国分◆朝融王は皇太子に「牧野は菊子が結婚する前には自分も結婚すべからざる様の事を言いおりて困る」との事を言われ、皇太子は「牧野は何か面倒なる事を言いおりたるも感服できず。牧野の言う様なる訳にはいかず」とのことを御話ありたる趣にて、朝融王は非常に有力なる味方を得たりとの話を野村に話され、
野村より酒巻・松平らに話し、松平より関屋に告げ、関屋が牧野に告げたる趣にて、今日頃牧野が野村に面会する事になりおるはずなり。

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倉富日記 大正13年12月16日

国分三亥
菊子が前田利為侯爵に嫁する事となりたるは好都合なり。

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倉富日記 大正13年08月17日

国分三亥
朝融王の婚約解除は徳川頼倫が引き受けおるも少しも運ばず。
邦彦王は非常に急ぎおられ困りおれり。
徳川は水野某に依頼し、水野が周旋しおるが、その手段は菊子の嫁する先を定め、その上にて酒井家より辞退する事と為すつもりの由なるが、これまで堀田正恒伯爵が地震にて妻を喪い子が4人あり。その後妻として菊子を談し込みたる人ありたる趣にて、渡辺暢が来りて事情を問い渡辺は既に朝融王との関係は絶えおる事に思いおりたる様子につき、自分より「その関係はいまだ絶えおらず。解除せらるる都合にはなりおれり」と言いたるに、渡辺は「この縁談は極秘密に為しありたるも、華族会館にても紅葉館あたりにても堀田がたいそう若き後妻をもらうとの談あり。堀田には4人も子があるに若き初縁の人が後妻に来るは、何か欠点あるにあらずやとの懸念もあるが、その辺は如何」と言うにつき、自分は結局「朝融王が嫌になりたりと言わるるにつき、これを解除せんとしたしと言うだけなり」と言い置きたるが、結局堀田の方より断りたる由なり。
また山階宮家に持ち込みたる人あるも、これは一言の下に拒絶せられたる趣なり。左の如き次第にて、婚約が成立したる後にあらざれば進行せざる事にてはいつまでかかるか分からず困りおる。
倉富◆酒井家の方より辞退する様になれば久邇宮家として好都合なるに相違なけれども、それは非常に無理なる事なり。予は久邇宮家より都合により婚約を解きたき旨を申し込まれ、その申し込みに対し異議なく承諾する事と為れば、双方とも格別の不面目なくして済む事と思う。
国分◆自分らもそれが相当の順序と思いおる。

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倉富日記 大正13年09月05日

徳川◆朝融王婚約解除問題も急に運ばずして困る。しかしやや端緒につきたる模様なり。
倉富◆菊子の嫁入先を内定したる後に解約する事に取り計うつもりの様に聞きたるが、果たしてしかるや。
徳川◆しからず。左の如き意見も無きにあらざりしも、自分は初めより絶対に反対しおり。
倉富◆しかるか。しからば嫁入先2ヶ所に交渉したる様に聞きおりたるが、それは何人の為したる事なるべきや。
徳川◆1ヶ所は実に驚きたり。あまり事情に疎き事なり。
倉富◆1ヶ所は予も実に驚きたり。堀田家の方にては種々詮索して見合わす事と為したる様に聞きおれり。
徳川◆山階宮家の事なり。
倉富◆その方はまったく驚きたり。
徳川◆一方が解決しても、第二段に至り新聞などにては必ずやまかしく言うならん。
倉富◆一方が解決したらば当分は第二の方に着手せず、世人が忘れたる頃に着手せらるる方がよろしけれども、左様なる訳にもいかざるべし。
徳川◆その方がよろしけれども、なかなか左様なる訳にはいかざるべし。

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倉富日記 大正13年09月06日

松平慶民が予と談しおる時、酒巻芳男が新聞切抜を持ち来り、徳川頼倫もまた来り。
予切抜き身たるに『かねて久邇宮朝融王と酒井忠正伯爵の妻の妹菊子と婚約ありたるが、この度突然宮家より婚約解除の事を酒井家に申し込まれ、これまで類例も無き事にて宮内省にては、宮内大臣・宮内次官・宗秩寮ら大狼狽を為しおる』旨を記しおれり。
徳川◆朝融王の事が新聞に出る事はかねて懸念しおりたり。婚約がいよいよ解除せらるれば必ず新聞に書くに相違なからんと思いおりたるも、解決前に新聞に出たる事は甚だ困る。この記事を取り消す事は出来ざるか、この後に掲載せざる様手回しするか否か問題なり。
倉富◆新聞に出たる事はいずれにしても解決を困難ならしむべし。予は君は菊子の嫁入先を予定する事を解約の条件とする意見なる様に思いおり、君が反対なる事は昨日初めて知りたり。
君が初めよりその意見ならば、なぜ今日まで解決できざりしや。あまり遅くなりおるにあらずや。
そのためついに新聞に出つる様の事になりたりと思う。
徳川◆酒井忠正が酒井家の相談人の意見をまとむる為に隙取りおるとの事なり。
倉富◆この問題は事実が久邇宮家の方より解約を望まるるにつき、久邇宮家の方より解約を申し込まれ、酒井の方にては異議なくこれを承諾することにて内議を為すが相当にあらざるや。しかるに久邇宮家よりは何とも言われず、酒井家の方より辞退せしむる様の交渉になりおる様に聞きおるが、それは余程無理なる事にはあらざるや。元来久邇宮家の方より婚約を望まれ、酒井家はこれに応じたるものなり。しかして今更これを辞退するには何か理由がなかるべからざるが、その理由はある訳なし。ゆえに久邇宮家の方より都合により婚約を解きたき旨を申し込み、酒井家にては異議なくこれを承諾する事とならば、双方とも格別体面を損せずして済むにはあらずや。酒井家の相談人が折り合わずとの話あるが、相談人は一通り人に対して説明する事のできる筋を立て置かざれば、旧藩士より相談人が詰責せらるる事ある為ならん。
徳川◆久邇宮家の方より表立って解約を申し込まるる事も出来がたし。しかし事実は久邇宮家の方より申し込まるるに相違なきにつき、その事は内緒に充分酒井可の方に通知しおくつもりにて、その事は自分が中に入る事を頼みたる水野より酒井の方に通しくれおる事と信じおりたるに、これまでに至りその趣意が酒井家の方に通じおらざることを聞き、甚だ遺憾に思いおれり。

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倉富日記 大正13年09月08日

倉富◆徳川は今日は出勤せざるや。
酒巻◆朝融王の問題につき奔走しおるならん。
倉富◆徳川が反対したるに関わらず、山階侯爵・堀田伯爵らに話を持ち込みたるは酒井家の方より為したる事なるべきや。
酒巻◆徳川より依頼しおる仲人水野の取り計いならんと思わる。
倉富◆解約前に左の如き事を為すはあまりに非常識なる事なり。堀田家などにては菊子は初婚にて年も若き者が子供まである堀田と結婚する事を望むは必ず何か弱点あるならんとの疑を起し、種々詮議したる趣にて、これはもっともの事なりと思う。予はこの事はまず久邇宮家より解約の希望を酒井家に申し込み、酒井家にてこれを承諾する事が順序なりと思う。しかるに反対に酒井家の方より辞退せしめんとするはあまりに無理なることなり。
酒巻◆その通りなり。

松平◆朝融王の問題解決したらば、朝融王に対し謹慎を命ぜらるる様の事は出来ざるべきや。
倉富◆事実は充分謹慎せられ、当分結婚などせられざる様にする必要あり。しかしこれは命令的にあらず自発的になされるべきものと思う。双方合意にて婚約を解きたる事となれば、表面はさほど重大なる問題と為すにも及ばざるべく、これに対し制裁を加えらるる事となれば、その程度も難しき事ならん。しかし実際にとうてい自発的に謹慎せらるる様の事は望み難きにつき、宮内大臣がこれを強制しても自発的の様にして謹慎せしむる事を要すべし。

徳川◆朝融王の婚約解除問題は、昨日仲人より酒井忠正に申し込み「久邇宮家にて菊子に充分の厚意を有せらるる事、婚約解除後も酒井家との交際を継続せらるべき」旨を告げたるところ、酒井忠正は大いに感激し「それほどの厚意あるならば当方より辞退する考えなり。できるならば明日には徳川まで事態の旨を申し出ずる事とすべし」との事なりし趣なり。
倉富◆しからばやはり酒井家より辞退する事なりや。
徳川◆しかり。
倉富◆予は碌を容れるべき事にあらざれども、予はやはり久邇宮家より解約を申し出し、酒井はこれに応ずるにあらざれば、事実に相違するのみならず、今日においても都合悪しからんと思う。
例えばこの件については既に御内意も伺い済みの事につき、貞明皇后より「なぜに婚約を解除するや」との御問ありたりとするに、宮内大臣はただ酒井の都合と言うのみにては奉答する事を得ざるべし。
徳川◆久邇宮家よりの申込とすれば菊子は嫌われたる事となり面目に関する恐れあり。
倉富◆それは表面酒井家よりの辞退としても、事実は公知の事なり。少しも菊子の面目を保つ利益なし。
のみならずある部分にては朝融王は不良少年とまでの評判あるぐらいにつき、その人より嫌われたりとて不面目となる訳もなからん。
徳川◆朝融王の謹慎を必要とする事は誰も同様に考うるが、如何なる方法を取りたらばよろしかるべきや。
倉富◆その方法も問題なるが、先刻の談に久邇宮家より菊子に充分の厚意を有せらるるとの事なるが、
単に厚意と言うのみにては何の効もなし。その厚意を表現する方法は如何なる事なりや。
徳川◆その方法は別に考えなし。

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倉富日記 大正13年09月09日

宮内次官関屋貞三郎の官舎に行き、朝融王婚約解除の事を議す。
予・関屋貞三郎・入江貫一・西園寺八郎・酒巻芳男・杉琢磨・松平慶民なり。
今後宮内大臣が事に当り、久邇宮家より解約を申し込まれ、
酒井家はこれを承諾する様の方針と為して進行する事と協議し家に帰る。

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倉富日記 大正13年09月10日

松平◆関屋貞三郎より宮内大臣の意見を問いたるところ、牧野は「徳川よりの報告あるまでは自ら手を下さず」との事なり。よりて関屋は今日徳川を訪い手を引かしむるつもりとの事なるが、関屋が負けてくるやも計られず。牧野は自ら事に当ることとなりても、まず久邇宮家に婚約を遂行する事を説き、それが行われざる時に至り久邇宮家より解約の申込を為す手段を取る事の考えなる趣なり。
倉富◆杉浦重剛は生前朝融王の婚約解除に賛成しおりたる様に聞きおる。
松平◆それは驚きたり。

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倉富日記 大正13年09月12日

松平◆弟徳川義親侯爵が先頃軽井沢にて水野・近衛文麿に会いたる時、水野が朝融王の婚約解除の周旋を徳川より依頼を受け、今年春以来08月まではそのまま手を着けず経過したる趣なる事を聞きたり。酒井家にては面目さえ立てば婚約を解くこととなりてもよろしと言い、その面目とは皇族か皇族より臣籍に降下したる人に嫁する事なる由。近衛なども淡白に「皇族に嫁せしむる途はなきや」と言いおりたり。
徳川の使いが関屋の家に来り「婚約解除の事は充分見込あるにつき、今しばらく待ちくれよ」と言い、関屋は種々これを詰問したる趣なり。
牧野はどこまでも婚約遂行説に傾き、一個の朝融王と言う如き問題にあらずと言いおりたり。
倉富◆今日に至り婚約を遂行する事は結局酒井家の方が勝ちたる様の事となるにつき、邦彦王は所詮承諾せられざるべし。牧野は先年の良子女王の関係あるにつき、此節に限り解除する事は矛盾のきらいあり。
それゆえ婚約遂行を主張し、裏面においては徳川の周旋にて解約でき、しかも酒井家の方より解約を申し出ずれば好都合と思いおりたるならん。しかし真実遂行を正当と思うならば、今日までなおざりに付き置きたるは解し難し。
松平◆今日にては遂行しても皇室には傷がつきたり。むしろ解約して朝融王は情願により臣籍に降下せらるるが一番良き解決方なり。

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倉富日記 大正13年09月13日

関屋◆昨日、一昨日徳川を訪い「朝融王婚約解除の事につき徳川の手にて運ばざるならば、その旨を申し出ずる様にせよ。早く解決する必要あり」と言いたるも、徳川は「婚約解除はきっと出来る見込あり。一週間などとは言わず両三日待ちくれよ」と言うにつき、「如何なる手段を講ずるや」と言いたるも、「その手段は言い難し」と言えり。貴官より徳川に談し手を引かしむる様の工夫はなかるべきや。
倉富◆予が談しても効能なかるべき。

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倉富日記 大正13年09月16日

東久邇宮聡子妃
邦彦王の妃は初めは細川侯爵家より行かるるはずになりおりたるところ、久邇宮家より故障を言われ遂に解約となり、その婦人悦子は一条実輝の妻となれり。その後良子女王の問題あり。また此節朝融王の問題あり。今まで3度の紛紜あり。世人が久邇宮家を相手にせざる様になるべし。

松平◆弟徳川義親侯爵が近衛文麿より聞きたる話には水野が徳川を訪い「水野の手にては酒井家の方より解約を申し込ましむる事は出来ざるにつき断る」旨を申し込みたるも、徳川が承知せず。水野は更に往訪してこれを説きようやく徳川も承知し、「しからば今しばらく時日があれば解約も出来るべきも、急なる事にては出来がたしとの条件を付けて宮内大臣に断る」事となりたりと言いたるゆえ、その旨を関屋貞三郎に告げ、関屋は「それは良き事を聞きたり。徳川より宮内大臣に会見の申込あり。辞表でも持ち来るならんと心配しおる所なるゆえ、その事を告げ置くべし」と言いたり。しかるに徳川が宮内大臣を訪いたる上の談は全く異なりたる事にて、解約の見込立ちたる旨を告げたりとの事にて、自分はまったく虚言を言いたる形となれり。

酒巻◆松平の談を聞きたりや。
倉富◆聞きたり。まったく分からず。
酒巻◆まったく分からず。


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倉富日記 大正13年09月25日

松平◆酒井家相談人武井守成の談によれば、父武井守正が酒井忠正に相談会を請求し、昨日相談会を開きたるが、酒井より「婚約解除の事は酒井家より申し出し難き旨を徳川へ明答したる」旨を報告し、久邇宮家または宮内省より公然解約の申込あればこれに応ずる事は一同異存なき事となりたる趣なり。

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倉富日記 大正13年09月27日

入江貫一
牧野は内大臣平田東助にも「この問題は酒井家の方より解約を申し出ざれば絶対に久邇宮家の方より解約する事は為すべきものにあらざる」旨を説き、西園寺公望にも同様の趣旨を説きおるとこことなり。
先日西園寺に会いたる時自分より「酒井家より解約を申し出ず久邇宮家に牧野より婚約遂行を進言しても久邇宮家はとうてい承知せられざるべく、久邇宮家より解約を申し込まるるかまたは宮内省にて解約の取り計いを為さば酒井家の方は承知すべきも、牧野自身はその取り計いを為す訳にはいかず。また久邇宮家より解約の申込を為さしむる様の事を為しては、宮内大臣の職責を違うべくいずれにしても牧野の進退問題となる懸念ある」旨を談したるところ、西園寺は「仕方がなきにあらずや」と言いおりたり。

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倉富日記 大正13年09月30日

酒巻◆入江貫一の談に、久邇宮家より金を出せば久邇宮家のための働くと言いおる者ある趣につき、
野村礼に「充分注意して、左様の者を関係せしめざる様に」談し置けり。
倉富◆またまた壮士を伴い酒井家を脅迫する様の事ありては大変なり。

入江◆久邇宮家より金を出せば云々の事は、前警視総監赤池濃の話に「久邇宮家に壮士が出入りしおり、その壮士は久邇宮家の為に親切を尽くすにあらず金を得る事が目的にて、金を得れば何事も為すべき人物なり」との話を聞き、これを関屋貞三郎に告げ、松平慶民が久邇宮付事務官に問いたるところ、「今日までは何事もなし」と言いたる趣なり。ぜんたい久邇宮家の事は困りたるもおなり。西園寺公望も非常にこれを心配しおりたり。
倉富◆久邇宮家の財政はよほど不足するならん。

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倉富日記 大正13年02月15日

松平慶民
昨日宮内大臣久邇宮家に行き、邦彦王に謁し、朝融王婚約解除の不可なる事を説きたるに、
邦彦王はこれに対し種々弁明せられたるが、しどろもどろにて少しも筋の立ちたる事は無かりし由。
邦彦王より「かの如き疑いある婦人を嫡男の妃と為しては先祖に対しても済まず」と言われ、
宮内大臣は「不理なる事を為されては皇室に累を及ぼす事にて、皇室と一個の宮とは比較にならぬ事なり」とまで申し上げたりとの事なり。
邦彦王より「何とか解除のできる様に取り計いくれよ」と宮内大臣に依頼せられたるも、宮内大臣はこれを引き受けざりし趣なり。
倉富◆宮内大臣が左の如く切り出したる以上はこれを貫徹する覚悟なかるべからず。
邦彦王がどこまでも承知せられざる時は実に困りたる事になるべし。しかしここに至りたる上は、宮内大臣より婚約解除の工夫につき相談する時は格別、それまでは宗秩寮にても手を出さざる方よろしからん。
松平◆宮内大臣は前田清子夫人が低層問題を金子に話したるよりこの面倒を起したる事につき、
清子夫人をして速やかにその言を取り消さしむる必要ありと言いおれども、清子夫人は「伝聞したるゆえ伝聞したりと言いたるまでにて、別に自己の意見を加えたるにあらず。これを取り消すべき理由なし」と言うならんと思わる。

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倉富日記 大正13年02月19日

小原駩吉
仙石政敬より「閑院宮載仁親王が婚約解除に反対せらるるは三条家の関係もあり当然なり」と言えり。
よりて三条家の関係を問いたるに、三条家より酒井家に嫁しおると言えり。
倉富◆しからば菊子の母夏子は三条家より嫁したる者ならん。
小原◆しからん。宮内大臣はその関係を知らずして載仁親王に申し上げたるものならん。
倉富◆徳川は宮内大臣より厳しく邦彦王に申し上げたる様に言いおる趣なるも、当てにならず。
徳川が欺かれおる事なるべく、予はこの事の結局はやはり婚約解除の事となるべし。
小原◆必ず解除の事となるべし。

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倉富日記 大正13年02月22日

小原◆野村礼譲の談によれば「何となく菊子を嫌という気が起り、その後解約の口実を求むるため種々の事を探し出したるものにて、節操云々の風評あるため菊子を嫌う様になりたるものにあらず」との事なり。

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倉富日記 大正13年03月06日

酒巻◆宮内大臣はこの問題の紛糾を為したる原因は菊子に節操の疑ありという風説なり。
この風説さえ消滅すれば問題は消滅する訳につき、その取り調べを為す必要ありとて、その風説の出所は前田清子夫人が金子に告げ、金子より分部に告げたるものとのことにつき、まず清子夫人に左の如き事を言いたる事ありやを確かめたるところ、清子婦人は「決して左の如き事を言いたる事なし」と言い、さらに金子に確かめたるところ、金子は「清子夫人が言いたる事なしと言うならば、自分の聞き間違いならん」と言いたる趣なり。只今はこれだけの事になりおれり。邦彦王は「事実の有無に関わらず、その疑いだけでこれを遂行する事を好まず」と言いおられ、既に邦彦王より婚約解除の事を依頼する事につき宮内大臣に書状を送られたりとの事なり。しかれば宮内大臣の考えの如く、清子夫人が言わずと言いたりとて婚約の遂行できるものにあらず。
倉富◆実は結婚を嫌うという事が先に起り、その口実として節操云々の話が生じたる様なり。
さすれば到底これを遂行する事は無益ならん。
松平◆しかるに酒井家の方にては、「この婚約はこちらより求めたるものにあらず。宮の方から求めたるものにつき、こちらより辞するべきものにあらず」と言いおるとの事なり。
しかし宮の方より解約を申し込まるれば、酒井にてはこれに応ぜざる様の事はなからん。
しかれども、皇族として故なく婚約を破る如きワガママを為さしむべきものにあらず。
遂行が出来ずとすれば朝融王は臣籍に降下するより他に方法なし。

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倉富日記 大正13年03月10日

徳川◆先日宮内大臣の代理として久邇宮家に行きたり。
邦彦王に謁する前国分三亥に会いたるところ、国分より「婚約解除については菊子の節操問題は一切これを止め、その疑いありと言われたる事も取り消し、この事は一切話に上らざりし事となす方よろしかるべき旨邦彦王に申し上げおきたり」との話を為せり。
その後邦彦王に謁したるところ、王殿下より「節操云々の事は一切水に流し、これまで話なき事に為しくれよ。しかして朝融王と菊子との結婚は到底円満の結果を得がたかるべしと思う。この如き事になりたるは遺憾なれども、今日にては自分には好工夫なし。宮内大臣・宮内次官・宗秩寮総裁に依頼するにつき、取り計いを頼む」と言われたる。

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倉富日記 大正13年03月13日

国分三亥
先年良子女王の御婚約の事につき云々ありたる時より久邇宮家に出入しおる牧野某は此節も度々来りて謀議に参しおるにつき、自分より「故杉浦重剛は良子女王問題のとき信義論を唱えたりとの事なるが、朝融王の婚約問題を聞きたらば如何言うべきや」と言いたるに、牧野某は「杉浦は疾くこの問題は承知しおり、解約に賛成しおれり。問題が先年の分とは異なりおれり」と言いおりたり。

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倉富日記 大正13年03月25日

国分三亥
宮内大臣は断然宮内省としては婚約解除につき御助力する事は出来ざる旨を答えたるをもって、
その旨を告げたるところ邦彦王は非常に憤慨し「とうてい婚約を遂行する事は出来ず。宮内省が助力せざるならば、直接に処置すべし」と言わるるにつき、宮内大臣にその旨を談したるところ、大臣は「如何なる手段を取るや」と言うにつき、自分より「どこまでも酒井家に謝し、酒井家より手を引く事を求め、それが成就すればこの上もなし。もしこれを諾せざるならば宮より婚約を解きたき旨を申し入れ、酒井家にてこれを諾すれば合意にて解約したる旨の届け出を為し、これをもって終局と為すべし。まさか酒井家にてもその事も諾せざる事はなからんと思う」旨を述べたるところ、宮内大臣は「もしその手段を取るにしても手続が肝要なり。少しく猶予すべし」と言われたり。
倉富◆人民の儀表たるべき皇族が故なく婚約を破るは許すべからずとの論あるをもって困る。
国分◆仮に自分らの事としても解約を希望す。
倉富◆何故なりや。
国分◆節操の風説ある故なり。
倉富◆それは無理なり。こちらを満足するため先方を殺す訳なり。事実確かならずしてこれを理由とする事は
無理なり。
国分◆しかし誰しも結婚は欲せざるならん。

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倉富日記 大正13年03月27日

徳川◆自分は「宮内大臣は既に久邇宮家に対し強硬の態度を取られおるにつき、この上なお一層強硬の態度を取り、臣籍降下のことまで考えしむるくらいになされたし」旨を宮内大臣に説きたるところ、宮内大臣も同意にて「とにかく少し久邇宮を反省せしむる必要あり」と言い、今日国分に対し大臣より「この問題については宮家においても今しばらく手を着けざる様に申し聞けられたる所なり。

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倉富日記 大正13年06月09日

小原駩吉
一つ困りおる事あり。極めて秘密なる事なるが、賀陽宮家の侍女数人ある内一人に対し朝融王が戯れたる事あり。その時その侍女は手をもって朝融王の頬を打ちたる由なり。しかるに他の一人に対して接吻せられたるところ、その方は拒ます、その後賀陽宮好子妃より問われたるところその侍女は「嬉しかりし」と答えたりとの事なり。間もなくその侍女が暇を乞うて帰りたるゆえひとまず安心せり。

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倉富日記 大正13年07月15日

宮内官僚白根松介
朝融王の事は如何なりたるべきや。
倉富◆詳細は知らざるも徳川が引き受け、自分では正面に立たず懇意なる某華族が交渉し、酒井家の方より辞退せしむる事になりおるとの事なり。談は順調に進むとの事なりしが、順調に進むならばもはや今頃は結了しおるはずなるもいまだ結了に至らず。邦彦王はしきりに解決を望みおらるる様に国分より聞きおれり。
白根◆それはよほど無理なる様なり。
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枢密院議長 倉富勇三郎男爵の日記 大正11年08月03日

松平慶民
松平◆久邇宮朝融王と酒井忠正伯爵の妻の妹菊子との関係は聞きおるならん。
倉富◆聞きたる事なし。
松平◆朝融王は菊子を娶らるる事に内定しおるところ近頃に至り菊子の容色好まずとてこれを嫌いおらるるとの話あり。朝融王が遠洋航海にてフランスに行かれたる時、パリにて故井上勝子爵の子井上勝純子爵が朝融王に会い結婚内定の祝詞を述べたるところ、朝融王より「実は婚約の婦人は気に入らず。これを止むる工夫はなかるべきやと思いおる所なり」との話をなされたる趣あり。また分部資吉が壬生基義の家に到り、「朝融王の婚約ある婦人はその姉の夫即ち忠正と私したる如き風評あり」との談を為したるにつき、壬生は厳しく分部を戒めおきたりとの事なり。思うに分部は朝融王が菊子を好まざる事を知りその歓心を得る為に左の如き事を言いたるものにて、実際左の如き事はなかるべく、少しにても左の如き事あればその噂は必ず漏れるべき筋あれど、すこしもその噂は無し。
倉富◆分部は性質よろしからず。目的の為には如何様なる手段にても取る者なるゆえ、左の如き事を言いたるものならん。分部を罷むる事は極めて必要なれども、邦彦王の承諾を得る事難しかるべし。
松平◆先に罷免されたる武田もなお絶えず出入しおると言うにあらずや。
倉富◆その通りなる趣なり。只今の事は困りたる談なれども、他の事と違い強いて遂行してもその結果よろしからず。さりとて婚約を解けば酒井の方には非常なる打撃なり。
松平◆自分も無理に遂行する事は出来ざるべしと思う。

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倉富日記 大正11年08月10日

松平◆分部は大いに怒り壬生の所に至り「自分は秘密談として君に話したるものなり。一切の始末を明かしたる上にてこれを表面に持ち出すつもりの所すぐに松平などに談したるは不都合なり」とて壬生を詰責し、壬生もちょっと困りたるも「理由なく秘密を漏らしたにあらず。皇族に関係ある松平に話し、松平より宮内大臣牧野に話したるまでの事なり」と言いたり。自分より分部に「婚約問題は既に大奥への内伺も済おる事にて、久邇宮家限りにて処置せらるべき事にあらず。いわんや君らが自己の考えにてこの事につきかれこれするは大いなる誤りなり」との旨を申し聞け、分部も結局「自分が悪かりし」と言いたり。
倉富◆邦久王は近く臣籍に降下せらるるゆえ正式に成年式を行われざる事なるが、邦彦王は邦久王の最終の名誉のため正式に成年式を行いたいとの御希望なるやに言いおる人あり。
また邦久王はこの暑中に東北各県に旅行せらるるはずにて、これも皇族としての最終の旅行なるゆえ邦彦王は万事皇族として旅行せらるる事を望みおられたる所、両三日前の官報にて東北各県に旅行せらるる様を記載しありたる様なり。いよいよ殿下として仰山なる旅行をなさるべきや。

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倉富日記 大正11年09月04日

宮内官僚徳川頼倫
国分三亥の談によれば、朝融王は断然内約の婦人を好まざる旨を明言せられおる趣にて、これは困難なる事なりと言う。
倉富◆予が聞きたる所にては、朝融王の真意はいまだ明らかならず。ともかく結婚は非常に急ぎおらるるとの事なりしが、いよいよ破約を望まるるならが他の事と違いこれを止むるよりほか致し方なかるべし。
しかしこれを止むるには出来るだけ穏当なる手段を取る必要あり。分部の如き事を言い触らすは言語道断なり。
徳川◆御内約問題のとき邦彦王より貞明皇后に書面を呈せられたりと言うにあらずや。
倉富◆予もその事は伝聞しおれり。
徳川◆その書面は皇后宮大夫より邦彦王に返したるやに聞きおれり。

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倉富日記 大正11年09月06日

国分三亥
朝融王は酒井家の娘は柔順ならずと言いて嫌いおらる。その上にも品行もあり、困りたる事なり。
倉富◆朝融王は結婚を急ぎおらるるとの話を聞きおりたるが、当分待つ事は異議なき様の話にあらずや。
酒井の方に肺患の懸念ありや。
国分◆本人にはその懸念なし。親酒井忠興が肺患なりしとの事なり。酒井の方を止むるため3,4年も延ばす事は朝融王は不同意の様なるも、破約して新に見出す為の延引はもちろん承知なるべし。

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倉富日記 大正12年08月26日

有馬頼寧
朝融王の事は如何なりたるや。
倉富◆かの問題は実に困難なる事なり。確約前ならばよろしきも、既に成約となりおり、これを解くには相当の理由なかるべからず。その理由を言う事は一層問題なり。到底まとまらざる物ならば、酒井家より辞退する他に致し方なからん。

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倉富日記 大正13年02月03日

国分三亥

朝融王の婚約問題がいよいよ宮内省に持ち出さるるを得ざる事となれり。
朝融王の意向が酒井家の方に聞こえ、この問題についてはまず第一に朝融王の意を確かむる必要ありと思い、その意思を確かめたるところ「この事は疾く決心し如何なる事あるも結婚する意なし。ただし皇太子の御婚儀の済むまで問題を起こす事を見合わせおりたるなり」
自分より「只今は嫌にても夫婦となれば良くなるものなるゆえ、思い返されては如何」と言いたるも「絶対に承知せず」とのことなるゆえ、この上は父邦彦王の意を伺うよりほか致し方なしと思い、邦彦王に謁し「昨日朝融王の御考えを承りたるに朝融王は絶対に結婚する意なしとの御答えなし。殿下の御考えは如何」と言いたるところ、邦彦王は「この事については疾く考えおりたる事あり。しかし皇太子の御婚儀済むまではそのままに為し置く考えなりしが、もはや御婚儀も済みたるゆえその事も処置すべき時なり。自分は是非取りやめたき考えなり。その訳は婚約の娘には節操に関する疑あり。この疑ある以上は如何なる事ありてもこれを嫡男の妃と成す事を得ず。もっとも節操の事は的確なる事実は知り難きも、疑いだけでも承知し難し。これを妃と成す事は先祖に対しても済まざる事と思う。婚約を取り消すについては先年の良子女王の関係もあり、種々の非難あるべきも、如何なる非難あるも是非ともこれを解約せんと思う。朝融王が婚約遂行を望む様の事あれば非常に困る訳なりしも、朝融王が解約を好むは非常に好都合なり」と言われ、その決心なかなか固く、到底意思を変ぜらるべき模様なし。
自分より「この事は既に御内伺も済おる訳にて、酒井家にても容易に解約を承知すべしとも思われず。解決に至るまでには相当時日も要すべくその間は当方にても婚約を結ばるる訳にはいかず、すいぶん困る事ならんと思う」旨を述べたるも、邦彦王は「如何なる事ありても遂行する訳にいかず」と主張せらるるゆえ、もはや宮内省の詮議を待つより他に致し方ならからんと思い、宗秩寮に話したるところ宗秩寮総裁徳川頼倫は「単に結婚する事を欲せずとか節操の疑いありと言うのみにては不十分なり」とて不満足の議論ありたるも、このうえ誰が何と言うても婚約遂行を諾せらるべき見込なきゆえ何とも致し方なしと思う。
倉富◆とにかく困りたる問題なり。そこまでになりたる以上は宮内大臣が何とか処分するよりほか致し方なからん。
国分◆分部が自己の考えにて前田利定家に出入りの某に婚約解除の希望ある旨を話し、某より利定の妻清子〔酒井忠興の姉〕に話し、その結果酒井家の聞く所となりたるにつき、分部を詰りたるところ、分部は「この婚約を結びたるは当時の宮務監督山田春三にて、その下の手伝いを為したるは自分なり。今日はその事に関係したる者は自分のみなり。よりて解約を周旋するは自分の責任なるやの感ありて某に話したり」と言いたる。

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倉富日記 大正13年02月07日

宗秩寮にて、朝融王婚約破棄問題につき、徳川頼倫・ 松平慶民・入江貫一と協議す。
徳川より問題の経過を報告す。
予「報告の如き事ならばとうてい婚約遂行の望みはなかるべきも、問題の性質として宮内大臣は是非とも一応は邦彦王・朝融王に対し婚約破棄の理由なき事を説かざるべからず。善後手段を講ずる事は第二の事なり。この問題は久邇宮家のみの事にあらず。皇室にも影響すべきことなり」

善後処分については徳川は「中間者を介せず直接に酒井忠興に交渉する方可ならん」と言い、予「忠興は養子にて婚約の婦人は伯爵夫人の妹に当るとなれば、忠興は自己の娘の事を決する様の訳にはいかざるべく、はやり酒井家に信用名望ある人を介する方よろしからん」と思う旨を述ぶ。

結局国分三亥が邦彦王に対し何らの自己の意見を述べずしてすぐに宮内省の処置を求めたるは不十分なり。徳川より宮内大臣に意見を述べ、宮内大臣が邦彦王に意見を述ぶる事を肯んぜざる時は宮内次官をしてこれを述べしむべしという説と、徳川自らこれを述ぶべしとの説あり。
松平は「婚約の通り結婚せしめたらば案外調和すべきにつき、その事にするがよろしからんと思う」と言えり。

婚約に至るまでの手続は、良子女王と酒井伯爵夫人は女子学習院の同期生にて、朝融王より菊子にまず書状を送られ、その取次は良子女王がなされたる趣なり。節操云々の事は金子有道男爵が、秋子夫人の伯母の嫁しおる前田利定の夫人よりこれを聞き、そのことを久邇宮家の分部に談し、分部より邦彦王に告げたるものなる由。国分三亥と久邇宮付事務官野村礼譲の二人より金子男爵に対し、金子が節操云々の事を言い触られたるものなるゆえ、その事実の有無を誠意をもって調査すべき旨を談したる由にて、金子は仙石政敬に対し「最初前田清子夫人より出でたる事にて、元来が婦人の話なり。只今に至り自分に責任を負わせ誠意をもって調査せよと言わるるは迷惑なり」と不平を述べたる趣なり。分部が金子に酒井家より婚姻を辞退する様に話し、その事が酒井家に伝わりたる訳にて、分部は酒井伯爵に対し何事か話す目的にて面会を申し込み、先日会見したるが、その時は分部は会見の目的を変し、自分が軽率に金子に話したるは不都合なりとて、ただ酒井伯爵に謝罪したりと言うことなり。

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倉富日記 大正13年02月08日

小原駩吉の台詞

この問題は伺済になりおる事につき、婚約を破棄するには貞明皇后に言上せざるべからず。
その時皇后は必ず婚約を遂行すべからざる事由を御下問ある事あらん。
この場合宮内大臣は如何なる御答を申し上ぐるべきや。朝融王が結婚を欲せられざる以上は穏に酒井家に談して婚約を破棄するよりほか手段なきが、その事はそれにて済みても、宮内大臣はそれで済ます訳にはいかず。いずれとなりてもこの問題は宮内大臣の進退を決せざるべからざるものなり。

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倉富日記 大正13年02月09日

倉富◆徳川頼倫より聞きたる所にては、宮内大臣より朝融王婚約破棄の事を閑院宮載仁親王に言上したるところ「その話は聞きおるが、もちろん破棄する様の事あるべしとは考えおらず」との御答ありたる由。
載仁親王が婚約破棄に反対ならば、宮内大臣はいっそう困難ならん。
小原◆宮内大臣は味方を得る為に言上したる事なるべきも、それが反対にてはいよいよ困難なり。
田中義一らは必ず故山縣有朋の為に復讐する様の考えにて攻撃するならん。

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倉富日記 大正13年02月13日

小原◆自分は宮内官僚武井守成に対し「この事は酒井家においてもおとなしく承諾し、事を荒立てざるが双方の利益なる」旨話し置きたるも、武井の談にたは「酒井家の相談人らの意見はなかなか強く、先方の処置が穏当なればおとなしく引き下がるも、婦人一人を殺す様の風説を立てこれを解除せんとするは不都合なるゆえ、どこまでも引き下がらざる方針となりたり」と言いおれり。
倉富◆閑院宮載仁親王が「解約の如き事あるべしとは考えおらず」と宮内大臣に御話ありたるも、先年の良子女王の事に牽連いたしおるにはあらざるや。
小原◆もちろんしかるべし。
倉富◆酒井家にては怒るは無理もなき事なり。先年の問題の時は、石原健三らは解約の時の準備の山階宮武彦王と佐紀子女王との婚約を確定せしめず、良子女王を武彦王に配せんとの考えをもって山階宮家宮務監督市来政方に談したる事などもありたり。
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